――ルイズの姉カトレアには、幼い頃から不思議な『声』が聞こえる。 彼女がその<力>に目覚めたのは、両親から杖をもらい、初めて魔法を使った時だった。ごくごく簡単なコモン・マジックである<光源>を成功させたとき、母がこう言ったのを、カトレアは今でもよく覚えている。「初めてなのに、きちんとやれましたね。ですが、これが始まりです。これからも、しっかりと勉強を続けて、立派なメイジになるのですよ。わかりましたか」 彼女の母であるカリーヌ夫人が、実際に口に出したのはこの言葉だけであった。しかし……カトレアには、もうひとつ、やわらかな声が聞こえていたのである。『こんな簡単にやれてしまうだなんて、本当に素晴らしいこと! 今日は、初めての魔法成功の記念に、この子が好きなものをたくさん用意して、家族みんなでお祝いしましょう』 カトレアは、目を見開いた。ちょっと怖くて苦手だった母が、こんなに優しい声で、そんなことを言ってくれるだなんて! 幼いながらも、それが本当に嬉しかったカトレアは、素直に礼の言葉を口にした。「母さま! ありがとう。カトレアは、これからもがんばりますわ」 だが、これを聞いたカリーヌ夫人は、カトレアが自分の教えに対して礼を言っているのだと思った。なんてけなげな子だろうと、彼女は思わず娘を抱き締め、頬ずりをした。「ええ、ええ。わたくしといっしょに、頑張りましょうね」『わたくしの娘! かわいいカトレア。あなたたち娘は、母の宝物です』「はい、母さま。カトレアに、いっぱいおしえてください」 ――だが、それからしばらくして。突如カトレアの身を悲劇が襲った。 それは、原因不明の病に罹ってしまったことだ。魔法を使うと、激しく咳き込む。特に強い呪文を唱えたときに、症状が現れやすい。 最初のうちは、少し身体が弱いくらいだ。そう考えられていた。しかし、そのうち魔法を使わなくても体調不良を訴え始めたカトレアは、どんどん弱ってゆき――ついには、一日のうちのほとんどを、ベッドの上で過ごさざるを得なくなった。 そして、何人もの水メイジが、彼女を診に屋敷へと訪れた。「すぐに良くなりますからね、カトレアお嬢さま」 それが彼らの決まり文句。だが、カトレアは彼らの『本音』を『聞いて』いた。『いったいなんなんだ、この症状は!? 病巣がどこにあるのかすらわからないとは……。だが、どうにかして原因を見つけ出さねばクビだ』 もしかすると、わたしは……死ぬまでこのお城――ラ・ヴァリエール公爵領から、外の世界へ出ることができないのではないだろうか。普通のひとと同じように、ただ生きていくことすら叶わないのかもしれない。カトレアは、それを思うたびに酷く心が乱れた。 そんな己の心情を表へ出したように、寒々とした真冬のある日。ベッドの中で、今まさに絶望の淵へと飲み込まれそうになっていたカトレアは、唐突に……庭に面した窓の外で、ふたつの『声』が飛びかっていることに気が付いた。『もっとごはんがたべたいな』『たべたいねえ』『はやく春にならないかなあ』『ならないかねえ』『お花が咲いたらごはんがふえるのになあ』『ふえるのにねえ』『たのしみだなあ』『たのしみだねえ』 窓の外には、今は誰もいないはず。では、あの声はなんだろう? そっとベッドから起き上がり、窓を開けたカトレアは『声』の正体を知って驚愕した。『ヒトが出てくるよ』『こないよ』『どうして』『あのヒトはいつもそうだ』 それは、ピチュチュチュ……というさえずり声。窓の外にある木の枝に止まった、2羽の小鳥。なんと、そのさえずりと共に『声』が聞こえていたのだ。「小鳥さんたち。わたしの言葉がわかる? わかったら、お返事をして」 カトレアは、彼らを驚かさないよう、窓からそっと声をかけてみた。それは、彼女なりのちょっとした冒険心。まさか、通じるわけがない。でも、もしも彼らとお話ができたら……なんて素晴らしいことかしら。そんな、儚い願望から出た声だった。『うん、わかるよ』『わかるに決まってるじゃないか』『わたしたちの言葉もわかるのかい?』『わかるのかしら』『めずらしいヒトだね』『そうだね』 端から聞いていたら、ただの小鳥のさえずりにしか聞こえない。たが、カトレアはしっかりと彼らの『声』を受け止めることができたのだ。 ――その日をきっかけに、カトレアの世界が、ほんの少しだけ広がった。 しばらくの刻を経て――彼女はこの<力>について、おおよそのことを理解するようになった。これは、人間でも動物でも関係なく、彼らが発する「外の声」と『中の声』が、感覚的に理解できるというものなのだと。 その後、魔法の本を読んでいた時に『<サモン・サーヴァント>によって呼び出された使い魔は、人間の言葉を理解し、話すことができるようになることがある』という記述を発見したカトレアは、もしかすると自分に聞こえている『声』は、これに関係しているのではないか、そう考えた。 そのため、最初はメイジであれば誰にでもできることなのだろうと思っていた。しかし、それを両親に話した直後。病弱なカトレアには妄想癖があるのではないか、もしや心の病に罹っているのではと不安視され、ベッドに縛り付けられてしまった。こうして彼女は知るに至った。これは、自分だけに在る特別な<力>なのだと。 カトレアは、それ以降この<力>について、誰にも話すことはなくなった。何故ならば、話しているつもりのない『心の声』が聞かれてしまっていると知れば、周囲の人々が自分のことを畏怖し――離れていってしまうかもしれない。それが何よりも怖かったから。だが、いつしか彼女はこの<力>がゆえに、『非常に勘の鋭い娘』 と、いう認識を、家族全員に持たれるようになった。さらに彼女は、時を経るにつれ相手の『気配』や『本質』にも敏感になった。たとえば<フェイス・チェンジ>で顔を変えた者の正しい姿をイメージで見破ったり、心の動きに敏感になり、嘘や悪意を直感的に見抜くなど、どんどんその<力>が強まっていった。だが、それと比例するかのように、身体の具合も悪くなっていった。 ――そして、時は現代へと移り……ラ・ヴァリエール公爵家で執り行われた歓待の宴・その当日。彼女は出会った。とても面白い人物に。 父に案内されてやってきた、主人と思しき少女の側に控えている、黒い髪の小柄な従者。どう見てもルイズと同じ年頃だとしか思えないその少年は、カトレアの姉であるエレオノール曰く、なんと27歳なのだそうだ。 そんな彼が、母と挨拶を交わしたときに聞こえた声が、彼女の興味を捉えた。「『太公望』呂望と申します。わたくしめのような者にこのお気遣い、感謝致します」『ルイズを10倍キッツくして無理矢理瓶詰めにしたような母親だのう。瓶口から威圧感が溢れ出しておる』 カトレアは、思わず吹き出しそうになるのを必死に堪えた。これまで、自分の母親を畏れる人間は大勢いたが――このひとは怖がるどころか、あっさりと受け流した上に、とんでもなく面白い評価を下している。 わたしとの挨拶では、どんなことを言われるのかしら? カトレアは、期待した。だが、その時に聞こえてきた『声』は、彼女にとって全く想像外のものであった。「ルイズお嬢さまの姉君ですか。どうぞ、よろしくお見知りおきを」『この娘が纏う<気>は、いったいなんだ……? 仙気の類とは似て異なる、これは?』 なんだろう、このひとは。何を言っているのかわからない。<センキ>とは一体? ひょっとして、わたしの<力>について何かを感じたのかしら? これをきっかけに、カトレアは、その面白い従者さんに興味を持った。 その後、カトレアは太公望の言葉へ特に注意して耳を傾けるようになっていた。「この『桃』は、王や高位の貴族に対する貢ぎ物として、部下が献上する品です」『本来は、国王の座にある者ですら、まず口にすること叶わぬ超貴重品だ。わしは、いつも師匠の隠し棚からパクっておるがのう。ケケケ……』 カトレアは、もう笑いをこらえるだけで精一杯であった。少なくとも――それが、たとえ心の内側だとしても、こんなに面白いことを言うひとは今まで自分の近くにはいなかった。それに、嘘をついてはいるけれど、悪気はまったく感じられない。本気でワルド子爵の身体を気遣い、妹の成功を喜んで、あれを使おうとしてくれていることが、彼女独特の勘で理解できたから。 そのひとがくれた『お酒』も、本当に美味しかった。そして、飲むたびに自分の身体が、まるで羽根のように軽くなっていくのを感じた。今ならば、どこまでも飛んで行けそう……そう感じる程に。父も母も、いや家族みんなを笑顔にする魔法。たった一晩の夢かもしれないけれど、この時間をくれた彼に、カトレアは感謝した。 そんな彼女が、より彼に注目するようになったのは、ルイズにどうして魔法を教えてくれたのか、その理由を話してくれた時であった。「いや……まあ、お恥ずかしい限りなのですが。人ごととは思えなかったのですよ」『あんな涙を見せられてしまっては、いくらなんでも無視できるか!』「小石ひとつ、まともに動かすことができなかった『おちこぼれ』としては」『小石どころか、砂粒1つ動かせなかったのう。修行を始めたばかりのころは』 本当に魔法ができなかったのだ、このひとは。だから、ルイズの涙を見て、余計に放っておけなくなったのね。そう考えたカトレアであったが、次の言葉で驚愕した。「生まれ落ちたばかりの赤ん坊が、いきなり魔法を使えたりするわけではない」『わしがいったい何年修行したのか知らぬからのう、このガキどもは。60年と言ったら、さぞ驚くだろう』 60年!? 彼が? 思わず太公望の顔を見つめたカトレアであったが、どう見てもそんな年齢には見えない。ならば、彼は亜人なのであろうか。しかし、そういう感じもしない。彼は、ある意味『人間らしい人間』だと感じる。<フェイス・チェンジ>でもなさそうだ。なら、どうやって?「そこに至るまでの『道』を歩んでいるからこそ、彼らはそのように語り継がれる」『自分より遙かに格上の化け物どもと何十年も戦い続けておれば、嫌でも腕が上がるっつーの。弱いから命だけは助けてください、なんて話が通用するような、甘っちょろい世界ではなかったからのう』 母さまは学者のようだと仰っていたけれど……ひょっとして軍人さんなのかしら。少なくとも、学校を卒業してから何十年も、妖魔討伐を経験していらっしゃるのね。と、いうことは、もうかなりお年を召しておられるんだわ。カトレアは、こっそりと頭の中で計算してみた。80……いえ、もしかすると90を越えているのかもしれない。「魔法面に関しては全く期待されていなかったのですよ」『わしはハルケギニアでいうところの『ドット』か? 現時点で。周りが、とにかく化け物だらけだったからのう。我ながら、よくもまあ挫折せずにいられたものだ』 素晴らしい風のメイジだと聞いていたのだけれど……実は『ドット』メイジ? ひょっとして、周りが『スクウェア』だらけだったから、自分を完全におちこぼれだと思い込んでしまったのかしら、このかたは。カトレアは、そう受け取った。 その後、師匠から<マジック・アイテム>をたくさんもらったという話を聞いたカトレアは、考えた。もしかすると、それを使って子供のふりをしていらっしゃるのかしら。確かにそのほうが、お年寄りの姿よりもミス・タバサの側に仕えやすいわよね。特に、魔法学院にいる間は……と。 だが、次の発言が、彼女にさらなる驚愕をもたらした。「なにしろ、3000年以上前の話でございますから。ただ、その功績は我が国の歴史に記されております」『はあ……3000年か。まったくブリミルのやつめ、よりにもよって、そんな離れた時代から<召喚ゲート>なんぞでこんな異世界くんだりまで引き寄せおるとは! そういえば、あの炎の勇者や他の仲間たちは、あのあと、どうなったのであろうか』 ――3000年前から<サモン・サーヴァント>で喚ばれた? しかも、異世界!? と、いうことは彼はミス・タバサの従者ではなくて使い魔だというの? いえ、そんなことよりも……今から3000年前から喚ばれただなんて。しかも、別の世界の……勇者さまの仲間! まるで、絵物語に出てくる神話時代の英雄のようだわ。 こうして聞こえてくる『声』には、決して嘘がない。カトレアはこれまでの経験で、それを嫌というほど実感している。つまり、これは絶対の真実なのだ。彼女の胸は、高鳴った。 もっと続きが聞きたい。そう思って身を乗り出したところへ、侍従が迎えに来たために、席を立たざるを得なくなった。薬を飲んで、ベッドへ戻らなければいけない時間になったからだ。ある意味、これは彼女だけでなく、その場にいた全ての者たちにとって、幸運なことだったのかもしれない――。○●○●○●○● ――そして練兵場……現在よりも、少しだけ前に戻る。 そんな『神話時代から来た英雄』に叩き付けられた、母の『語り合い』。少なくとも、申し込まれた時点での彼は、本気で戦いを嫌がっていたように感じた。姉や母が学者だと評したように、実際問題、彼は勇者さまの補佐をするような役目を請け負っていた人物なのだろう。そう思って母を止めようとしたカトレアだったのだが……。『娘を魔法に目覚めさせてくださった人物がどんな方であるのかを見極める。これは、親としての責任です』 母の言葉は、内外共に全く同じで、一切の迷いがなかった。いったい何が、母さまをここまで駆り立てているのだろう? 悩んでいるうちに、昼餐会場の壁が消失した。 そして、彼の名乗りを聞いたカトレアは、本気で仰天したのだ。「大陸中央同盟国軍・周国<崑崙>所属、元同盟軍参謀総長、リョ・ボー退役元帥。二つ名の由来は『大公より知恵を望まれし賢者』。『太公望』呂望」『さらに詳しく述べるならば! <崑崙山教主>元始天尊が一番弟子にして最高幹部12名を束ねる総軍司令官だ。さあ、これを聞いてもなお、わしに立ち向かってくるか? カリーヌ夫人よ。たとえやるとしても、全力を出すことなど絶対にできぬであろう!? フハハハハハハッ!』 ……彼は、名乗りよりも、ずっと上の地位にいる。領内に閉じこもりきりで世間知らずのカトレアにも、そのくらいはわかる。何かの理由があって、全てを明かさないようにしているのだろう。 それから、彼の『ご主人さま』であるミス・タバサの言葉にも衝撃を受けた。「彼は、大公の地位を『そんな面倒くさい地位など不要』と、あっさり蹴って旅に出てしまったのです」『おまけに、彼の世界で次期教皇の座まで約束されていたのに、それまで蹴った、とんでもないひと』 カトレアは、ここまでの情報を整理した。つまり、彼は3000年前の、しかも異世界から<サモン・サーヴァント>で呼び出された勇者さまの元仲間で。60年以上修行を積んだ元おちこぼれのメイジ。とても偉い元軍人さん。 魔法を教えてくださった先生から離れてから戦いに赴いているから……少なく見積もっても、現在80歳以上のお年寄り。おまけに、ハルケギニアでいうなればロマリアの<教皇>の座に就いていたかもしれない大賢者さま! いきなりこんな突拍子もない話をされても、絶対に誰も信じないだろう。だから、彼はわざと自分を低く見せようとしているんだわ。わたしが、自分の<力>を隠しているのと同じように。 なのに、わざとそれを名乗ることで、母さまを止めようとしている。やっぱり彼は、できることなら戦いたくなんてないんだわ。だって、本当はかなりのお年なんですもの……無理したくないのは当然のことよね。カトレアは、そのように結論した。 だからこそ、カトレアはその『お年寄り』が次に放った言葉に、居ても立ってもいられなくなった。「ささ、いざ尋常に勝負!」『ま、どっちに転んでもかまわぬ。あれだけの名乗りをした後なのだ、本当に戦いになっても、さすがに手加減してくるであろう。ハルケギニアの『伝説』とやらがどの程度なのか、見てみるのも悪くない』 カトレアは焦った。なんて無茶をするおじいさまなの! そういえば、エレオノール姉さまにもこういうところがあるわ。すごく知りたいことがあると、無理を通してしまう……これが研究者気質というものなのかしら。でも、このおじいさまは、母さまの『強さ』を全く知らない。このままでは、絶対に怪我をしてしまうわ。なんとか止めなくては! そして、カトレアは声を上げた。それが、戦いどころか周囲全ての時を止めてしまうことも気付かずに。「どうやって姿を変えていらっしゃるのかはわかりませんけど、本当はもう、80歳をとっくに越えたお年寄りなのでしょう?」○●○●○●○● ――彼が、80歳を越えたお年寄り!? それを聞いたとき、タバサは一瞬頭の中が真っ白になった。だが、さきほど馬車の中であった出来事。そして、これまでの事件などが、彼女の頭の中でパズルのピースとなり、瞬時に組み上がった。 それから、タバサは太公望を見た。完全に硬直してしまっている。これは……どうやら、彼としては絶対に隠しておきたかった事実らしいと推測した。その上で、彼女はふいに思い出した。以前、才人が『夢の部屋』で語った、太公望に関する伝説の一部を。『まさか太公望が、こんなに若かったなんてなあ。伝説だと、だいたい爺さんの姿で描かれてるし。俺、最低でも70歳は越えてると思ってたんだぜ』 そうだ。タイコーボーは、一度たりとも自分を27歳だと断言してはいない。わたしたちが、そう思い込んでいただけのことだ。そして、このカトレアというひとは、どうやってそれを知ったのかはわからないが、彼の真の年齢を『感覚』で見抜いてしまっている。下手な嘘をつくのは逆効果。ならば、わたしの役目を果たすまで。そう……今こそ、彼を守るために動く。いつも、彼がそうしてくれているように。 ――チェックメイト寸前。『聖なる女王(クイーン)』から『魔王(キング)』を救うために、颯爽と立ち上がったのは『雪風の騎士(ナイト)』タバサ。「彼は、時と空間を駆ける能力を持つ伝説の妖精の<力>によって、子供に戻されてしまったのです。だから、今はこんな姿をしています。わたしは、彼が本当は70代の老人であると伝え聞いております。これは嘘ではありません。お疑いでしたら、トリステイン領内の『ジャコブ』という村に問い合わせてみてください。彼と全く同じ『祝福』を受けた人物がいますから」 カトレアは、口を半開きにして、タバサをじっと見つめた。それから、にっこりと笑顔を浮かべる。「まあ、まあ、まあまあ。やっぱり! わたし、妙に鋭いみたいで、そういうことがわかってしまうんです。ええ、ええ、あなたが本当のことを言っているのも確かだわ。世界には、不思議なことがあるものなのね!」 そこまで言ったカトレアは、くいっと首をかしげてこう呟いた。「でも、70代ってことは……まあ、いやだわ。わたしったら、計算を間違えたのね。あのかたは60年間魔法の修行をして、それから何十年も妖魔討伐をなさっておられたみたいだから、最低でも80代だとばかり」 わたしはそこまで聞いてない。思わず太公望を見てしまいそうになったタバサだったが、ふと考え直した。このひと相手に、タイコーボーが何かを伝えていたことなど、一切なかったはず。さすがに、深夜まで彼と一緒にいたわけではないが、いくらなんでもそんな時間帯に、彼女のところへ行くような真似はしていない……はず。たぶん。「それで、彼を止めてくれたのですか?」「あ! ええと、あの、ごめんなさい。これって、秘密にしていたことなのね? それなのに、わたし、つい……」 心底申し訳なさそうに、しゅんとしてしまったカトレアに向け、タバサは小さく首を横に振った。「いいえ、カトレア殿は、わたしの従者の身を案じてくださったのですから、気に病まないでください。よくあんなふうに、わたしの心臓に悪いことをするので……かえって助かりました」 タバサは、心の底から感謝した。実際問題、太公望の行動は本気で心臓に悪いのだ。「本当にごめんなさいね。従者のおじいさま……あ、今は若返っていらっしゃるのだから、おじいさまなんて言ったら失礼ね。彼にも悪いことをしてしまったわ」 いっぽう、そんな彼女たちのやりとりを聞いていた太公望はというと。ようやくブルースクリーン表示の完全フリーズ状態から起動画面まで戻り、現在までの情報を精査する作業に取りかかっていた。 当初は、かつて彼に『太極図』を授けてくれた――カツアゲして奪ったと言ってはいけない――老子のように、相手の心を読む<読心術>の使い手なのかと思い、警戒した。だが、それならば、タバサが『70代』と言ったことに対して『計算を間違えた』などという返答をするのはおかしい。それに、彼女が本当に心を読めるならば、80代どころか伏羲の――それこそ億を越えた数値が出てくるはずなのだ。 おまけに、普通なら質の悪い冗談としか思えないような胡喜媚の話を、完全に信じているといった様子だ。相手の嘘を見抜く『能力』を持っているのか? いや、違うな……だいたい、わしは自分が60年間修行をしていた話など出しては――む、ちょっと待て。これは、ひょっとすると――?「あ~失礼、お嬢さまがた。ちょっとよろしいですかな?」 相変わらず時間停止から立ち直れない一同を尻目に、太公望が一歩を踏み出した。「カトレア殿。わたくしの推測が間違っていたら申し訳ないのですが。ひょっとして、あなたは『声』を聞き分けることができる『聴覚』をお持ちなのではないですかな?」『もしもそうならば、聞こえますと答えてください。この声が聞こえていればですが』 カトレアは、驚いた。目の前の『少年に戻った老人』は、自分の<力>を知っている。「ええ、聞こえます」 太公望は、思わず手で顔を覆った。なるほど、やはり彼女は『読んでいる』のではなくて『聞き分けている』のか? ならば、もう少し実験させてもらおう。そして、10秒ほど無言でじっと彼女の目を見つめた。『この声は聞こえていますか? 聞こえているならば、はいと答えてください』 だが、それには無反応であった。「なるほど、だいたい理解できました。カトレア殿がお持ちの<力>について」『他人の表向きの声と、心の声の両方が同時に聞こえるのですな? ひょっとして、動物と話すこともできませんか? もしもそうならば、どうしてわかるのですか? と、答えてください。違うのでしたら、それ以外の言葉で教えてください』「どうしてわかるのですか?」 やはりそうか。太公望は納得した。カトレアの能力について。これは<読心術>などではない。「外に出す声」に付随してくる思考を、表の声と同時に特殊な『感覚』で掴み取り、その上で理解することができるという<力>なのだと。「知り合いに『聞ける』『話せる』人物がおったのですよ。どうやらカトレア殿は、ルイズお嬢さま以上に鋭い『感覚を掴む』能力をお持ちのようですな。ひょっとして、聴覚だけではなく、他の感覚も極端に鋭くありませんか? ひと目見ただけで、相手の持つ雰囲気を完全に察してしまうような?」『嘘をついているかどうか、姿を偽っているかどうか。そういったものも含めて』 この問いに、カトレアは驚いた。家族にも話していなかった事実を、ほぼ完璧なまでに理解されている。「え、ええ……その通りですわ」「それは、自分の意志でコントロールできますか? 探りたくないものがあった時、つまりですな……あえて、それを止めることはできますか? それとも、常に鋭いままですか? わたくしには、後者のように感じるのですが」 難しい顔をして問うてきた太公望に、カトレアは困惑した顔で答えた。「ある程度、方向を絞ることはできますけど……止めるというのは考えたことがありませんでした」 ずっと、自分は部屋に閉じこもったまま一生を過ごすのか。そんな切ない思いが、彼女の<力>の範囲を広げていたのだ。そうすれば、世界に溢れるさまざまな『声』が聞こえるから。たとえ、外へ出ることが叶わなくても。「やはりそうでしたか! 初めてお会いした時に、お身体から不思議な<力>が漏れ出しているのを見て、何事かと思ったのですよ」 太公望は、まっすぐにカトレアを見据え、断言した。「もしも自分の意志で止めることができるならば、すぐに止めたほうがよろしい。そうでないと、全身から<生命力>と<精神力>が漏れ出すことによる影響で、どんどん身体が弱っていきますぞ」 その言葉に、これまであまりにもあまりな展開が続いていたがために、停止した時の住人となっていた人々――特に、ラ・ヴァリエール公爵家の者たちが再起動を果たした。中でも大きな反応を示したのは、カトレアの父親であった。「ミスタ。それは、いったいどういうことかね!?」「はい。あくまでわたくしの見立てで、確証は持てないのですが……カトレア殿は、そう。例えて言うならば、何らかのきっかけで、底に穴が開いてしまった『湖』なのです」 今度は、ラ・ヴァリエール公爵の目をまっすぐと見ながら答える太公望。「穴が開いているから、どんなに水を注いでも、いっぱいにならない。だから、棲んでいる生き物が減っていく。つまり、衰退していく。逆に、穴を塞げば生命力に満ち溢れる、美しい湖に戻るでしょう」「つ、つまり……病気が治る、そういうことかね!?」 震え声で問うたラ・ヴァリエール公爵。それはそうだろう、どんな名医に診せても病名が一切わからなかった娘。魔法でも、薬でも治してやれなかった。その重大な問題を、いま、自分の目の前にいる男が解決できるかもしれないというのだから。「病気? いや、カトレア殿は健康体ですよ。病人特有の<気>の乱れがありませぬから。だから、わたくしも今まで気が付きませんでした。つまり、ただ単に<力>が常に外へ漏れ出してしまっているがために、それが原因で身体が弱っているだけです。カトレア殿は魔法を使うと、息が苦しくなったりしませんか?」「なります! 苦しくて、咳き込んで……熱が出たりします」 カトレアは、思わず声を上げた。わたしが、病気じゃなくて健康体!? どんなお医者さまも匙を投げてしまった、このわたしの身体が……?「やはりそうですか。では、その『感覚』の『網』を身体の中に戻して、使いたいと思ったときだけ、ほんの少しだけ出すようにすればよろしい。それから、美味しいものを食べて、1ヶ月ほど養生し、その後改めて外に出て毎日ごく軽い運動をすれば、数ヶ月で体力や筋力がつき、元気になれるでしょう。魔法も、ほかのメイジたちと同じように使えるようにはなると思いますが、無理は禁物ですからな。ああ、もしも『網』の戻し方がわからないというのであれば、このわたくしがお教え致しますから」 そう言って笑った太公望に、「おじいさま、ありがとうございます!」 と、泣きながら叫び、ぎゅっと抱きついたカトレアの姿を見て、思わず杖を抜きそうになったラ・ヴァリエール公爵を<ウインド>で空の彼方まで吹き飛ばしたカリーヌ夫人と。その、あまりの早業に止める間もなく呆然とするしかなかった様子のエレオノール。「ちい姉さまは、病気なんかじゃなかったのね! これからは、みんなと同じように、外へ出られるのね!」 そんな風に、大好きな次姉が弱っていた原因と治療法を知って喜ぶルイズの側で。「あんな美人に抱きつかれるとか羨ましすぎる……」 などとうっかり呟いて、当然の如くご主人さまから踵落としをお見舞いされた才人と、彼と全く同意見ながらも年の功でそれを表に出さなかったオスマン氏。ラ・ヴァリエール公爵の飛んでいった方角と距離を、冷静に観測するコルベールとレイナール。相変わらず、事態の推移についていけずに固まっているギーシュとモンモランシー。「タバサって……妹どころか、もしかして孫みたいに思われてたわけ!?」 そんなことを考えつつも、ひょっとして例の『女狐』さんって、実はエルフみたいな長命の亜人だったりとか? それなら、ミスタと<力>の差がありすぎるって意味が理解できるんだけど……などと、微妙に鋭い感想を持っていたキュルケと。「聞かなければいけないことが、また増えた」 親友のすぐ隣で、杖をぎりぎりと握り締めるタバサ。 そして、ご主人さまから『事情聴取対象』とされた太公望本人はというと――埋もれて窒息寸前に陥っていた。いったいどこに埋まっていたのかは、あえて言うまい。 もう、正直戦いどころではないほどに、場の雰囲気は乱されていた――。○●○●○●○● ――ラ・ヴァリエール公爵が天界(ヴァルハラ)から地上へと戻り、ようやく場が落ち着きを見せ始めた頃。席についていたオスマン氏が、長い髭をしごきつつ、太公望を見てボソッと呟いた。「まったく。妙に枯れたジジイみたいな発言が多いと思うとったら……本物のジジイじゃったのか」「やかましい! 100歳越えとるおぬしにジジイとか言われる筋合いはないわ!」 漫才のような掛け合いをしている老爺ふたりを尻目に、才人は頭を抱えていた。ルイズの綺麗な踵落としによって受けたダメージのみならず、新たに判明した衝撃の事実によって。「いやマジで、ショタジジイとか本当に誰得なんだよ!」「ショタジジイって何だい?」 聞き慣れない言葉にレイナールが疑問をぶつけると、才人は律儀にも解答した。「俺の国の言葉で、外見子供で中身が爺さんのこと」「なるほど、ショタジジイ……と」「いや、メモらなくていいからそんなこと」 そんな彼らのやりとりが終わったと見るや、太公望は改めて『自分の年齢』について語り始めた。カトレアが近くにいるので、うかつなことは喋れない。それを念頭に置いた上で。心からの本音を全員にぶつけた。「これまで黙っていたことについては申し訳ありません。ですが! ここに来たばかりの時に、もしも本当のことを話していたら、わたくしは妖魔や亜人と間違われて、追い回されていたかもしれませぬ」 メイジたちは考えた。確かに、カトレア嬢がおらず、この少年しか見えない彼の年齢が、何かの拍子に表へ出ていたら――誰かが、おかしな使命感に囚われて討伐に向かっていたかもしれないと。「ついでに申し上げておきますが。ここにいる生徒たちは、わたくしにとっては孫みたいなもの。そのような存在が、自分の目が届く場所で、一切相手の実力を計ることなく正面突撃するような真似をしでかしたら、その場でパッタリと心臓が止まりそうになるというのは、ご理解いただけますでしょうか? 特に、完全に無策で『土くれ』のゴーレム相手に特攻かまそうとした者たちのこととか!?」 と、顔を引き攣らせながら紡ぎ出された太公望の言葉に、該当者3名が、顔を赤くして俯いた。なお、タバサはきちんと策有りで動いていたので数には入らない。「主人には散々話しておることなのですが、この機会にラ・ヴァリエール公爵閣下並びに、ご家族のかた、魔法学院の皆たちへも、念のためお伝えしておきます。わたくしは、戦争というものが大嫌い……いいや。憎んでいるといっても過言ではないのですよ。軍に所属したのも、元はといえば数百年に及ぶ、我が国周辺の戦乱を終わらせたい。ただ、その思いが強かったがゆえにです」 そう言った太公望は、静かな笑顔でラ・ヴァリエール公爵と、その家族を見つめた。「よって、わたくしに杖を向けたから戦争だ! などという愚かな選択は、少なくとも我が祖国にはございませぬのでご安心を。ガリアについても、いち従者に対して『試合』を申し込んだ程度で、他国の公爵家相手におかしな真似をする程の愚か者はおらぬでしょう。少なくとも、わたくしどもは内密にします」 彼の言葉に、タバサは小さく頷きながら答えた。「わたしも、本国へ報告したりは間違っても致しません」 そして。そのタバサの発言を受けた太公望はその後……ある意味で、一同にとっては完全に予想外のことを言い出した。まず、彼はラ・ヴァリエール公爵に対して、こう告げた。「カトレア殿がわたくしの年齢を察して、それを心配されたがゆえに試合を止めてくださったわけですが……そのおかげで、長年不治の病と思われていた体調不良の原因が判明した。これはまさしく僥倖といって差し支えないでしょう」 それを聞いたラ・ヴァリエール公爵は、訝しげに尋ねた。「君は、カトレアが病に伏せっていたことを知っていたのかね? 宴席では、これといって話題には出さなかったはずだが」「以前ルイズお嬢さまから、家族に病人がいる。良く効く薬に心当たりはないか、調剤の技術を持ち合わせていないかと、尋ねられたことがございましたので」「なるほど。それで、カトレアの異常な状態に気付いてくれたのだな」「左様でございます。そこで、お礼の代わりと言っては大変失礼なのですが……公爵閣下にひとつ、お願いがございます」「わしにできることであれば、何でもしよう。君は、それだけのことをしてくれたのだ」 太公望は嬉しげに笑うと、言った。「このあと、改めて『烈風』殿と試合をさせていただきたいのです。なに、ご心配なさらずとも、肉体年齢に関しては見た目の通りですから」 その言葉に、一同はどよめいた。さっきまでは、あきらかに戦いを避けようとしていた彼が、何故に突然このようなことを言い出すのかと。「実際問題、こんな機会は二度とありますまい? かの『烈風』殿と杖を交えるなど! おまけに、年齢がバレてしまった以上、わたくしが長期間修行をし、戦い続けてきたいう事実が、全員の目の前に横たわっておるわけですよ。つまり『あいつは天才だからあそこまで戦える』などというような、わたくしにとって不本意極まりない評価を受けずに済みますし」「も、もちろんわしはかまわんが、その……本気かね?」「はい」 返事の後、改めてカリーヌ夫人へ向き直ると、太公望はしっかりとした言葉でもって彼女に『試合』を申し込んだ。「よろしければお相手願えますかな? 『烈風』カリン殿。まあ、わたくしは自力で空を飛べるようになるまで、まるまる10年以上かかった『おちこぼれ』のため、ご満足いただけるかどうかはわかりませぬが」 その申し出に、鋭くも――笑みを湛えた瞳で答えたカリーヌ夫人。それから、ふたりは改めて練兵場の中央で向かい合うと、名乗りを上げた。ラ・ヴァリエール公爵が行った開始の合図と同時に、彼らは揃って杖を構える。「ふふッ……60年間の修行の成果とやらを、見せていただきましょう」 そう言って微笑んだ『烈風』に、『軍師』は不敵な笑みでもって応えた。「その余裕、いつまで続くかのう?」 太公望はその言葉と同時に、裂帛の気合いを込め『打神鞭』を一振りした。カリーヌ夫人――いやカリンの真横、数メイルほどの場所目掛けて。「疾――――ッ!!」 巨大な風刃が、超速でカリンの横を駆け抜けていった。しかも、地面をガリガリと凄まじい音を立てて抉りながら。そして、彼女は見た。自分の真横にできた、長大な地割れを。それは――今、目の前に立つ『少年』が放った<風の刃(エア・カッター)>が作った傷跡。その規模は、全長約50メイル。深さは……わからない。底が見えない。「なっ……!?」 先程までの涼やかなそれとは一変。まるで大蛇の如く絡みつく、力強き<風>を全身に纏った男が、絶句した彼女を見据え――こう言い放った。「おちこぼれが、いつまでも弱いままでおるとは限らぬよ。さあ、本気で来い『烈風』よ!!」 ――こうして。伝説と神話の戦いは、幕を開けた。