――ラ・ヴァリエール公爵家の屋敷、中庭の池にある小島にて。 ルイズは、困惑……いや、沈痛としたほうが適切とも言える表情を顔に浮かべながら、目の前で笑うワルド子爵の身体を気遣っていた。「ワルドさま、本当にもう大丈夫ですの?」「ははは、心配性だな僕のルイズは! いただいた『酒』のおかげで、この通りさ」 そう言って、再び自分をその逞しい両腕で抱きかかえてみせてくれたワルドに対し、彼女は心から申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。 かつて……よくこの屋敷を訪れては、小さな自分の遊び相手になってくれていた、憧れのひと。いつもの夢の中で、小舟に隠れていた自分を探し出し、手を差し伸べてくれた、歳の離れた兄のような存在。 ――ワルド子爵。彼は、ヴァリエール領と隣接するド・ワルド領の現領主にして、ルイズの婚約相手である。と、言っても友人同士であったふたりの父親が、口頭で交わした約束に過ぎず、証文の類があるわけでもない。 ただし、貴族同士の約束事とは、軽々しく行われるものではない。実際、何気なく放ったつもりの一言が、生涯を賭けて果たすべき誓いと化した、などという例が、星の数ほど存在するのだ。それを充分に心得ているであろう、ラ・ヴァリエール公爵は――当時、本気でふたりを結びつけようと考えていたと言って差し支えないだろう。 事実、10年前にワルド子爵家を襲った悲劇さえなければ、状況的に考えて、彼らは既に結ばれていてもおかしくなかった。そんなふたりの『道』が、突如違えてしまった理由とは――ワルドの父親が、戦場に散った為だ。 既に母をも亡くしていた彼は、躊躇わなかった。父親の爵位と領地を受け継いだ後、ワルドはすぐさまヴァリエール家を訪れ、目に涙をいっぱい溜めた幼いルイズに告げた。「いつか立派な貴族になって、君を迎えに来るからね」 その一言を最後に、ルイズに背を向けたワルド子爵は――王都トリスタニアへ出て、騎士見習いとなった。年に幾度か、ヴァリエール家を訪れることはあったものの……その間、ルイズはほとんど彼と顔を合わせなかった。別に、ワルドに避けられていた訳ではない。彼女が彼から逃げていたのだ。 何故なら、屋敷を訪れるたびに立派になってゆくワルドと比べ、ルイズ自身は幼い頃と全く変わらず、どんな魔法も爆発させてしまう、おちこぼれメイジのままだったからだ。 そのうち、ワルドはだんだんと訪問の数を減らしてゆき……ついには、現れなくなった。最後にワルドの消息を知ったとき、彼は既にトリステインの中でもエリート中のエリートしか所属できない女王陛下の近衛部隊にして、全男子生徒の憧れたる魔法衛士隊、その隊長を任されるまでに出世していた。 だからこそ、ルイズはこう思い込んでいた。 ――もう、婚約など反故にされてしまったに違いない。だから、ワルドさまは遠慮して、屋敷へいらしてくださらないのだ。おちこぼれのメイジなど、グリフォン隊の長の隣に立つには相応しくない。それを直接わたしや父さまに仰らないのは、きっとお優しいワルドさまなりの、思いやりなのだわ……。 そう自分の中で結論していた彼女は、とっくの昔に彼との仲を諦めていたのだ。 ……しかし。つい先程の『事件』を思い起こしたルイズは、とあることに思い当たった。そこで、彼女はおそるおそるといった表情で口を開いた。「わ、ワルドさま。お、お聞きしたいことがあるのですが」「なんだい? ルイズ」 ルイズは、カタカタと震えながら訊ねた。「ここ、子供の頃は、恥ずかしながら気付いてい、いなかったのですが。も、もしや、騎士見習いになった後に、や、屋敷へ、いらしてくださっていた際に、その……きき、今日の、よ、ような?」 その言葉を聞いたワルドの全身が、瞬時に硬直した。それから彼は、ギギギ……と、まるで錆び付いた金属製の甲冑を身につけているかのようなぎこちない動きでもって、腕に抱えていたルイズをそっと岸辺に降ろすと、頭を押さえ、その場へ蹲ってしまった。「や、や、やっぱり……! か、か、母さまったら……!」 衝撃の真実を知ってしまったルイズは、ぷるぷると身体を震わせ、その場で叫びそうになるのを、必死にこらえた。まさか。まさかとは思っていたが、よりにもよってワルドさまがいらっしゃるたびに『稽古』をおつけになっておられたのですか、母さま! 魔法ができないおちこぼれの娘に、来訪のたびにとんでもない試練を押しつけてくる姑がもれなくついてくる。そんな状況で婚約を破棄されないほうがおかしい。 ――そう。ルイズとしては、もう婚約はとっくに破棄されたものだという認識であったため、今回彼が『婚約者』として紹介されたのは、あくまで儀礼上のことだと考えていた。 さらに言えば、長姉のエレオノールが最近婚約破棄をされたばかりだという事実があり、連続してそのような事が表沙汰になれば、家の恥となる。だから、優しい彼はきっとそれに乗ってくれているのだ。ルイズは、心からそう思い込んでいた。 そんな複雑な思いを抱いていたルイズに対し、ワルドはややぎこちない笑顔で告げた。「い、いや、そんなことは気にしないでくれ、ルイズ。正直なところ、君のお母上に課していただいた『訓練』のおかげで、今の地位に就けたといっても過言じゃないんだ」 元トリステイン王国近衛魔法衛士隊・マンティコア隊隊長『烈風』カリン。その苛烈さと『鋼鉄の規律』とまで呼ばれた厳しさがゆえに、かの者が隊長職にあった時代のマンティコア隊は、各国にその名を知られる精強な騎士団であったといわれる。 当然、彼らに課せられた『訓練』も、他部隊のそれとは一線を画すものであった。事実、当時を知る現マンティコア隊の隊長など、既に引退して久しいカリンのことを、未だ夢に見るほど畏れていると、もっぱらの噂だ。 かつておちこぼれであったルイズは、その内容を誰よりもよく知っていた。それだけに、自分のあずかり知らぬところで、かつての『憧れの君』がそんな目に遭っていたことも、それを知らなかった自分自身にも腹が立った。「相変わらずお優しいのね、ワルドさまは」 そう言って頭を下げようとしたルイズを、ワルドは押し止めた。「ま、まあ確かに厳しい訓練ではあったけれど、僕は本当に気にしてなどいないよ。むしろ感謝しているくらいさ。逆に、済まなかったね……いくら出世のためとはいえ、こんなに長い間、君のことを放っておいてしまった」 ワルドは申し訳なさそうに顔を伏せた。それを聞いたルイズの頬が、恥ずかしさのために朱く染まる。知らないとは本当に罪なのだ……と。 しばし、なんともいえない気まずげな空気がふたりの間に漂った。その沈黙を破り、最初に口を開いたのはワルド子爵のほうだった。「それにしても、素晴らしかったよルイズ。あんなに華麗に飛べるようになっていただなんてね。ひょっとすると、僕よりも速いんじゃないかな」「いえ、そんな。わたしなんて、まだまだですわ」「いやいや、実際びっくりしたよ。<フライ>や<レビテーション>を使わずに空を飛べるのは、トリステインでは君くらいだろうからね」 ルイズの鳶色の両目が、驚愕によって見開かれた。「姉君からいただいた招待状に『東方から来た風メイジが、君の魔法を見てくれた』と書かれていたんだ。もしかして……あれは、彼が教えてくれた魔法なのかい?」「いいえ。あれは、その……」 ルイズは悩んだ。果たしてこれを言ってしまってもよいのかどうか。だが、別に<念力>で飛んでいることを隠しているわけではない。喋ってはいけないと念押しされてもいない。そもそも、クラスメイトたちだって、自分が<念力>で箒を浮かせて飛んでいることを知っている。 ――お忙しいのに、こんなちっぽけなわたしのお祝いに、わざわざ危険を顧みず駆けつけてくれたワルドさま。そんな方に嘘をつくだなんて、貴族としてあるまじきふるまいだわ。そう判断した彼女は「ワルドさまだけに、こっそりお教え致しますわ」と、念を押した後、答えを告げた。「実は<念力>で浮いていたのです。わたしにそれを教えてくださった先生が仰るには、もっと慣れれば<フライ>よりも楽に、しかもずっと速く飛べるのだそうですわ。ひょっとすると……ワルドさまも、練習すればすぐおできになるのではないかしら?」「んな! ね、<念力>で、空を飛ぶだって!? しかも<フライ>よりも速いと?」 驚愕を隠そうともしないワルドを見て、ほんの少しだけいたずら心が湧いたルイズは、小悪魔のような笑みを浮かべて言った。「ええ。先生の出身地では、ごく当たり前のことらしいですわ」 ワルドは信じられないとばかりに右手で顔を覆い、ふるふると首を横に振った。それから小さく肩を竦めながら言った。「いや、驚いたよ。例の酒といい、この件といい……東方とは実に興味深い場所なのだね。もっと別の魔法や<マジック・アイテム>があったりするのだろうか。いつか、君とふたりだけで、かの地を旅してみたいよ、ルイズ」 ――いつか、君とふたりだけで、かの地を旅してみたいよ。 この言葉で、数日前に見た夢のワンシーンを思い出したルイズは、激しく動揺した。『約束してただろ? みんなで一緒に行こうって』 いつも、ワルドさまが現れていた夢の中。でも、あのときわたしの手を取ったのは別のひと。どうして、今になってあんな夢を見たの? あれは、憧れが書き換わったから……? ううん、まさか。そんなはずは。「さてと、いつまでも主役の君をひとりじめしているわけにはいかないし、ホールへ戻ろうか。もしよかったら、お友達と、例の先生を紹介してもらえるかい?」 そのワルドの問いに、ルイズは黙って首を縦に振るのが精一杯であった。○●○●○●○● ――かっこいい。ああ、そうだネ。こいつ、かっこいいヨ。 並べられた円卓を囲み、歓談する者たちの中で。才人は、ただひとりの男だけを、じっと見つめ続けていた。 鋭く光る、鷹みたいな目。男らしさを強調する形のいい口髭。おまけに魔法使いのくせにがっちりした身体つきしてやがる。しかも、いいやつだ。俺のことを『平民』とか言って見下さなかっただけじゃない。「ルイズが世話になっているそうだね!」なんて言いながら、笑顔でばんばん肩叩いてきやがった。おまけに、超エリートらしい。女王さまを守る近衛隊の隊長だと。SPってやつ? つまり相当強いってことか。 しかも、さっきからルイズに取ってる態度もすごい。グラスの中身が少し減っただけで注文してやったり「魔法を使った後だから、疲れただろう?」なんて言って、使用人に足元に置くクッションやら、柔らかそうな膝掛けを持ってこさせたり。これが貴族のたしなみってやつですか? いや、モテる男の秘訣ってトコ? 才人は、悔しかった。どこを取っても、自分が勝てそうな要素が見あたらない。ルイズはこいつと結婚するのか。そう考えた途端、なんだか胸の奥に大きな穴がぽっかり開いたように感じ……がっくりと首を垂れた。 そんな才人の態度を横目で見ていた太公望は、さすがにこのままではまずいと思った。よって、彼の脇腹を軽く肘で小突いた。それがまた、才人を苛つかせた。 いいですよネ、アナタは。ねえ? 伝説の大軍師サマ。なにせ、本物の英雄ですから! その気になれば、こいつと充分以上に張り合えますもんね! ……もう完全に八つ当たりでしかないのだが、気分が底の底のどん底まで落ちてしまっていた才人は、そこで、よりにもよって恨みの矛先を太公望に向けてしまった。 もしも、ワルド子爵が次に発した言葉がなかったら――才人は、その僻みを口に出してしまっていたかもしれない。だが、閃光の如く繰り出されたその質問によって、ある意味才人も太公望も、大変な窮地から救われた。「ミスタは、何故ルイズに魔法を教えてくださったのですか? その……狭量だと思われてしまうかもしれませんが、他国の人間に技術を伝えるというのは、祖国にとっては不利益になるのではないでしょうか?」 太公望は、ぽりぽりと頬を掻きながら答えた。「いや、まあ……お恥ずかしい限りなのですが。人ごととは思えなかったのですよ。子供の頃、小石ひとつまともに動かすことができなかった『おちこぼれ』としては」 ――小石ひとつまともに動かせなかった『おちこぼれ』。 その場にいた者たちは、ざわめいた。それも当然である。なにせ太公望は『失敗続きであったルイズの魔法を成功に導いた優秀な教師』と紹介されていたのだから。魔法学院の関係者たちも、どん底の底にいた才人ですら、ピクリと反応した。 しかし実際、この話は嘘でもなんでもない。崑崙山へ入山したばかりの頃の太公望は、何もできない、ただの子供だったのだから。もっとも、これは別に彼に限ったことではなく、仙人を志す者ならばあたりまえのことなのだが。 どうしていきなり太公望が、こんなことを言い出したのかというと――さすがに今のままではまずいと思い始めていたからだ。届かない領域にいるような目で見られるのも、全員から頼られ過ぎるのも、はっきり言って、迷惑極まりないことであった。自分にとってもそうだが、何よりも、このままでは将来ある者たちの成長を阻害してしまう。 もともと自分の不注意から『正体』を晒すことになってしまったわけだが、これを機に、ある程度評価をリセットさせてもらおうと太公望は考えた。それに、彼らと同年代であった頃――自分に<力>が無かったのは、間違いのない事実なのだから。 ワルドの言葉を<仙桃>の礼として受け取ることにした太公望は、それを策に変えた。「ミスタが、おちこぼれ!? 嘘よ、信じられないわ!」 そう言って、思わず立ち上がったのはルイズだ。それはそうだろう、魔法学院の誰よりも速く空を飛び、複数の風魔法だけでなく、火系統をも自在に使いこなす『天才』。ルイズの目には、太公望がそのように映っていたのだから。「世に生まれ落ちたばかりの赤ん坊が、最初から魔法を使えないのと同じですよ。歴史上『伝説』と呼ばれる者たちですら、例外ではありません。そこに至るまでの『道』を歩んでいるからこそ、彼らはそのように語り継がれる存在となったのです。無の状態――原初からある伝説などないのです」 何やら思うところがあったのであろう、ラ・ヴァリエール公爵がうんうんと頷いている。 それを聞いた才人が再び反応した。無からある伝説など存在しないという、彼の言葉に。ただ、今回向いた方角はいつものそれではなかった。才人はとことんネガティブ思考に陥っていた。え? ひょっとして俺の心読まれてる!? さっすが伝説すごいデスネ……って、なにそれ超怖い。 もちろん、太公望に(仙術的な意味での)<読心術>の心得などない。だいたい、そんなものがあったら、例の女狐相手にあそこまで苦労していないだろう。もう、そんなことを考える余裕すらない才人であった。「わたしも信じられない」 思わず声を出してしまったタバサと、それに同意するように頷く魔法学院関係者たち。彼らの反応に「釣れた!」と実感しつつも、内心とはまるっきり正反対の表情――眉をしかめてボソッと呟く太公望。「いやいや。わたくしには、本当にメイジとしての才能が無かったのですよ」 彼はわざとらしくため息をつき、がくっと肩を落としながら言葉を続ける。「同期の者たちが、自在に<火>や<水>を操る中で――そよ風ひとつ起こしただけで倒れてしまうような貧弱者でした。そのせいで、周囲から完全に邪魔者扱いされていたことすらあります。もしもあのとき『師』に巡り会えなければ、わたくしは、あそこで潰れていたかもしれませぬ」 ――もしもそれが本当なら、わたしに近い状態だとルイズは思った。何をやっても爆発させてしまっていた自分と。気絶しなかったぶん、わたしのほうがずっと恵まれていたのかもしれない。それからルイズは想像した。もしも自分が、彼に巡り会えなかったら……どうなっていたのかを。だから、彼女は問うた。「ミスタの先生って、どんな方だったの? どうやってあなたは変わったの!?」 その問いに、重々しい雰囲気でもって頷き、答える太公望。「師は、わたくしの根本となった『自然科学』の教師であり、高名な<魔法具>の制作者でした。師は、ある日……どうして、自分は同期の皆と同じようにできないのかと嘆いていたわたくしに、こう仰ったのです」 そして、大きく息を吸い込むと。彼は自分の師をそっくり真似た口調で怒鳴った。『お前には、最初っからメイジとしての才能なんぞ一切期待しとらんわ! 自分でもわかっとるだろ? だが、いつまでもわしの屋敷でぐうたらさせておくわけにもいかんのだ、このたわけが! 術者としての才能が足りないぶんは、その狡い頭でなんとかせいボケ!!』「……と」 ――見事なまでに、場が凍った。タバサなど、テーブルに突っ伏してしまっている。 太公望に、メイジとしての才能がないのは当然である。そもそも彼は、仙人なのだから。よって、嘘は言っていない。ちなみに、師の言葉も後半末尾に限って言えば、ほぼそのまんまである。「そもそも、わたくしは頭の回転の速さを買われて師に拾われたので、魔法面に関しては、全く期待されていなかったのですよ。それでもやはり<力>に憧れる年頃でしたから、周りと自分を見比べながら、いつもこう思っていたのです」 ……自分も、みんなと同じようになりたい。「そこで、我が師に教えを請い出ましたところ……蹴り一発で気絶させられた挙げ句、襟首を掴まれて、師の住まう屋敷の外へと引きずり出されました」 ――この話が本当に本当なら、ミスタはわたしと同じだったんだ。ただ、みんなと同じようになりたかっただけ。でも、それを願い出ただけで気絶させられるなんて。彼の先生は、わたしの母さまよりもずっと苛烈かもしれない。ルイズはその光景を想像し、思わず身震いしてしまった。 なお、太公望が師の部屋から蟷螂拳や気功で吹っ飛ばされるのは、一種のお約束である。「で、そのまま図書館へ連れ込まれましてな。自然科学の棚にある本の内容を、連日連夜、徹底的に叩き込まれました。その上でより効率化を計るため『速読』『分析』『解析』『複数思考』を習得したわけですが……これらを身につけるまでの数年間は、魔法の修行どころか、練習すらさせてもらえませんでした」 と、ここでワルド子爵が手を挙げた。「失礼。先程から何度か『シゼンカガク』という言葉が出てきておりますが、初めて耳にする言葉です。それは一体どんなものなのでしょうか?」「簡単に申しますと、自然の成り立ちや在り方を『法則』として導き出し、理解するための学問です。たとえば……そうですな、魔法によらない自然の風は何故吹くのかを、簡単にご説明します」 『風は何故吹くのか』。風メイジにとっては、とてもわかりやすい内容である。「これは、温度によって空気の重さが異なることが根本的な理由です。身近でわかりやすい例としては――太陽の光によって暖められた空気は、軽くなります。逆に海の水に触れると冷やされ、重くなります。それらが重さの違いによって、上がったり、下がったり、ぐるぐると循環する。つまり、空気が動くことで風が発生する……と、いったようなものです」 この説明で、即座に『自然科学』の意味が理解できたという表情を見せたのは、風メイジ全員と、オスマン氏、コルベール、エレオノール。才人に関しては、学校で既に習っている内容のため、メンバーからは除外する。「魔法でも『循環』を意識することで、より効率的に<風>を吹かせられますからな」 納得したという顔で、そう口にしたワルドに、太公望は笑顔で頷いた。「その通りです。つまり、師は……もともとの<力>が弱かったわたくしに、そういった法則を徹底的に学ばせることで、少ない<力>で効率的に事象を発生させるための『知識』と『応用力』を叩き込んでくださったわけです」 ――事象を学び……効率的に、かつ計算して魔法を使う。コルベールは思い出した。これは、今まで彼がよく口にしてきた言葉だ。たしかに、この『学問』を修めているか否かで、メイジとしての実力に相当な差が出ることは確かだろう。 事実、コルベール自身がそうだ。自己流だがこの『自然科学』の扉を開け放ち、入り口どころか、既に玄関から廊下へ上がりかけている彼は、通常のメイジでは為し得ない事象を発生させることに成功している。その成果があの『ガソリン』だ。 そんな彼らの思いとは裏腹に、太公望の弁舌は続いていた。「ハルケギニアにも、これと非常に近しい学問があるようなのですが……自分の立場では、まだ『フェニアのライブラリー』に収められている、ごくわずかな資料にしか触れられません。そのため、ハルケギニアにおける正式な名称がわからないのです」 実に残念だ。そう言いたげな顔をしていた太公望に答えたのは、エレオノールだ。なにしろ彼女は、この手の話がしたいが為に、わざわざ休暇を取ってまでこの場を用意したのだから、それも当然だろう。「それは、各国のアカデミーでも最先端レベル。しかも首席研究員になって、ようやく着手できるような機密性の高い内容ですもの。一般に出回っているはずがありませんわ。学問の名に関する総称についても確定しておりませんし」「やはりそうでしたか! もっとも、総称以外についてはわが国でもほぼ同様の扱いです。先程の図書館も、師がいたればこそ入館を許されたような、一般人立ち入り禁止の場所でして……本来であれば、自分のような若輩者が読める書物ではなかったのです」 太公望は、場を締めるべく動いた。「そして、それらのあらゆる自然現象に関する法則や事象を学んだ後――師が、この『杖』をわたくしに授けてくださったのです。それで……ここからは、その、我ながら少しお恥ずかしい話となるのですが……」 左手で懐から『打神鞭』を取り出し、空いた手で頭を掻きながら太公望は言った。「以前『疾風』ギトー先生の授業で言った台詞なのですが……実は一部、我が師の受け売りなのですよ。この杖を渡されるときに、こう言われたのです」 ――わしはお前に<風使い>としての『道』を示す。お前は、時間をかけて万物の事象を学んだ。それらを元に知恵を振り絞れ! <風>はな、大きく化ける可能性を秘めている。そう……たとえ元の<力>が弱くとも、使い手次第でいくらでも『最強』に近付くことができるのだ。その汎用性の高さがゆえにな。「……と。それと併せて、複数の<魔法具>を卒業祝いとして贈られました。残念ながら、わたくしには師のようなアイテム造りの才能は無かったのですが、師曰く『お前は制作者にとって、完全に想定外の使い方をするから面白い。その発想力を生かせ!』などと言われましてな」 この『アイテム作りの才能』が云々は、半分嘘である。勉強しようと思えば、きっと出来たはずだ。しかし太公望は、その手のことが実はちょっと苦手――と、いうよりも、覚えるのが面倒で、サボりまくっていたのだ。彼からしてみれば、自分などがやるよりも、身近に天才技術者がいるのだから、全部そっちに任せればいいという考えがあったのだろう。 ――任せきった結果、いろいろと弊害もあったのだが、ここでは割愛する。 なお、太公望がここでわざわざそれらしくアイテム云々の話をしたのは、所謂『前置き』だ。ありていに言えば、自分の能力やハルケギニアで『異端』と見られてしまうような事柄――特に、宝貝で起こす一部の奇跡について「アイテム使ってやってます」と誤魔化すためである。追い回される生活は、しばらくご免被りたいのだ。そういう意味では先程提供した未熟な<仙桃>も、立派にその役割を果たしたと言えよう。「それで、あなたは<マジック・アイテム>を集めることにこだわるの?」 タバサの言葉に、太公望は頷いた。それを聞いたワルド子爵の表情が、ごくごく僅かに強張ったことに気が付いたのは、周囲に気を配っていた太公望と、彼の顔をずっと見続けていた才人だけだった。「左様です。卒業から10数年、こつこつと積み上げて、ようやく現在の段階まで辿り着いたわけですが、まだまだ力不足であることを実感しております。強力なアイテムさえ手に入れば、多少なりともそれを補えますから」 これを聞いた才人は、またしてもネガティブ思考の渦に飲み込まれてしまった。 ――あれで力不足なのかよ。どんだけ師叔はとんでもない戦いを潜り抜けて来てんだよ。パソコンで見た数字と、直接聞いた言葉だけじゃ想像がつかない。ウン、なるべくしてなった伝説なんだよな。ほらみろ、やっぱり俺はダメなんだ。ギーシュのモグラ……は、役に立ってたな。モグラより下、つまりオケラだ。いや待てよ? オケラって、結構凄くなかったっけ? 水陸両用で、空も飛べたはず。じゃあそれより下だ。となると、ミミズ? ……もう、完全に思考の悪循環にはまり込んでしまった才人は、ひたすらに自分を貶める作業に取りかかってしまった。普段の姿からはあまり想像がつかないが、実は彼、非常にアップダウンの激しい性格をしていたのである。 良い意味でも悪い意味でも『風の循環』そのものだ。現在、彼の空気は冷え切ってしまっているのだ。才人は一度こうなってしまうと、なかなか自分の世界から戻ってこられない。 ちなみに、才人がここまで激しい落ち込みを経験したのは、ハルケギニアに来てから初めてだった。そう――太公望という名の防御壁によって、彼は厳しい異世界の風から守られ、心が折れるという経験を、ほとんど積むことができなかったから。 ――これも太公望が危惧していた、ひとつの弊害かもしれない。「と、まあ……そういうわけで、ルイズお嬢さまの魔法を拝見しましたところ、我が国で『戦いの天才』と謳われし<火>の使い手が、若い頃によくしていたとされる失敗と非常に似通っておりましたので、これはもしやと思い、改めて調査させていただきましたところ、まさしく! その彼と同じ『才能がありすぎる』がゆえに、魔法の枠に収まりきらず爆発させてしまっていたことが判明致しまして」 そして、現在に至ります。と、これで締めようとしていた太公望だったが、それは<火>それも『戦いの天才』と聞いて黙っていられなかったキュルケによって阻まれた。「もしかして、その使い手って……前に少しだけ仰っていた、ミスタの出身国最強の火メイジのお話ですの?」「はい、その通りです。彼は自由自在に炎を操る、戦の申し子でありました。しかし彼は、その才能に驕らず、無駄な殺生は一切行わず、ひとびとを救う為だけにその<力>を振るった、高潔な魂の持ち主だったとのことです。よくルイズお嬢さまが仰る『貴族たるもの、かくあるべし』を、体現しておられた方ですな。わたくしが知る伝説によれば、ですが」「伝説によれば……と、いうことは、そのかたはもう……?」 カリーヌ夫人の質問に、太公望は頷いた。「なにしろ、3000年以上前も昔の話でございますから。ただ、その功績は今も我が国の歴史に記されております」「そうですか。その人物は、まさに伝説の勇者だったのですね」「左様です。ある意味では、ルイズお嬢さまの『道』は、彼に近しいものとなるのかもしれませんな。あくまでも、お嬢さまがそう望まれるのであれば、ですが。ただ、個人的にはもっと穏やかな方向へ進んでいただければと考えております。なにしろ、ルイズお嬢さまは学問に関しても、大変優秀であらせられますから」 その解答に、ルイズの父親であるラ・ヴァリエール公爵は満足げに頷いた。いくら才能があっても、愛する娘を戦に出すなどという真似はしたくない。自分の妻という例外があるにしても――だ。一瞬危うい方向へ話が進みそうであったが、少なくとも娘を目覚めさせてくれた人物は、穏やかな『道』を提示している。彼としても、それには大賛成であった。 それから公爵は、一瞬だけちらと愛する妻の顔を見た。そして気が付いた。ほんのちょっとだけ、彼女の顔に残念そうな色が浮かんだのを。果たして、その<火>の使い手と戦ってみたかったのか、娘が自分と同じ『道』を歩んでくれないことに対する反応であるのか。 妻の持つ気性に、思わずため息をつきそうになったラ・ヴァリエール公爵であったが、彼はなんとかそれを押し止めることに成功した。「なるほど。学者らしいご意見ですこと。ルイズ、よい方に巡り会えましたわね。そして、ミス・タバサ。彼を娘に引き合わせてくださったことに、改めて礼を申し上げます」 ルイズは、母の声で思い出した。そうだ、彼は今から遠く離れた時代から、タバサが呼んでくれたんだ。しかも、サイトの知っている歴史の中の英雄。そんな人物を――世界を越えて引き合わせてもらえたんだ。 ミスタ・タイコーボーが『おちこぼれ』だったという話は、今の彼からは正直想像がつかないけれど……でも、そう考えると、わたしに魔法を教えてくれようとしたときに、ミスタがあそこまで不機嫌になってしまった理由が、少しわかる気がする。 自分と同じ『おちこぼれ』だと思って同情してくれていたのに、実は彼の世界で最強の火メイジと同じ才能がありました。それがわかったとしたら――もしもわたしが、彼と同じ立場だったとしたら……確かに、悔しかったと思うもの。 ルイズは、席を立つと改めてタバサと太公望のふたりに感謝を述べた。本来なれば、そこで話は終了するはずだった。太公望が、そのように会話の流れを導いていたからだ。しかもトリステインでも有数の大貴族相手に、自分の素性を『学者』として認識されるという、太公望本人にとって思わぬ副産物を手に。 ……だが、残念ながら話はそう上手く運ばなかった。もしも、これがハルケギニアではなく地球上で繰り広げられていた物語であるならば、太公望はこの時を振り返って、こう例えたかもしれない。 ――『歴史の道標』の介入か? ……と。 割り込みをかけてきたのは、ルイズの婚約者であった。彼は感心しきりといった体で、太公望を褒め称えた。「東方の学者殿のお話、大変興味深く拝聴させていただきました。いやしかし、残念です。もしも貴君が学者ではなく、軍人であったなら……是非とも手合わせをお願いしたいところだったのですが。なにせ東方のメイジと杖を交える機会など、まずありませんからね」 そう言って、ワルド子爵はにっこりと笑って見せた。 こやつ、まさかバトルマニアだというのか! だとしたら面倒な……などという思いは一切表情に出さず、太公望は答えた。「いやいや、このわたくしめが現役の近衛隊隊長殿と!? そんな、とんでもない! それにしても、すっかりお元気になられたようで、本当に良かった。こちらへいらした際には、まるで――どなたかと一戦交えた後のようなお顔をなされていましたからな」 ワルドの身体が、ほんの一瞬だけ固まった。それは、よほど注意していなければ、気付かないほどの硬直。しかし彼はすぐさま自分を立て直すと、口を開いた。「いえいえ、突如発生した問題を解決するために、予定よりもこちらへ出向くのが遅くなったまで。貴君のおかげで、すっかり回復しました、ありがとうございます。そこで……感謝のついでなどと言っては大変失礼なのですが、実はひとつお願いがございまして」「む? わたくしに、ですか? やはり杖を抜いてくれ、などと言われては困りますぞ」 慌てふためくように後ずさる太公望の姿を見て、ワルドは苦笑しながら言った。「そんな、とんでもありません。僕がお願いしたいのは――あなたの連れである、彼です。剣を吊り下げているということは、剣士なのですよね? もしもよろしければ、互いを高め合う意味での手合わせ……模擬戦の許可を頂きたいのですが」 ワルド子爵が相手に指名したのは、太公望ではなく――その舞台こそ異なってはいたものの、この物語本来の歴史通り、才人だった。 『閃光』が新たに起こした風が、場を支配しようとしていた――。