「待って欲しい、こちらにはもう攻撃の意志はない」 大竜巻が消えたあとも、油断なくデルフリンガーを構えていた才人の耳に、どこかで聞いた覚えのある声が飛び込んできた。「あれ? この声って、まさか――?」 声と共に現れたのは、自分がよく知る少女―――タバサであった。「ラグドリアン湖の水位があがった件について、調査してたァ!?」 現在の時刻は、深夜2時頃であろうか。湖面にはふたつの月が映し出され、幻想的な雰囲気を醸し出していた。湖のほとりに作った簡易キャンプ――申し訳程度につくられた焚き火と、地面に敷くために持ってきていた布製のシートの上に座り、タバサの説明を聞いた『解除薬作成チーム』メンバーの背中には、いやな汗が流れていた。 まさか、水の精霊が『侵入者』と呼んでいた相手が顔見知り、しかも友人たちだとは思ってもみなかったのだ。ちなみに現在<眠りの雲>によって眠らされた太公望は、彼らのすぐそばに、その身を横たえられている。「みんな……本当にごめんなさい。あたしが先走ったばっかりに、一歩間違えたら大変なことになるところだったわ」 そう言って全員に頭を下げたキュルケの全身は、未だ小刻みに震えていた。「まあ、ぼくもちゃんと止めることができなかったからね。きみだけのせいじゃないよ」「今回はなんとかなったことだし、次からは注意すればいいんじゃないか? 散々やらかしてる俺が言っても、あんまし説得力ないかもしれないけどさ」 そんなギーシュと才人の言葉に、みんなで気をつけよう……と、頷く一同。「ところで、あなたたちは……もしかして『水の精霊の涙』を?」 そのタバサの問いに答えたのは、モンモランシーだ。「ええ。『惚れ薬』の解除薬を作ろうとしてトリスタニア中を探し回ったんだけど、全部売り切れだったから、水の精霊に直接お願いをしにきたところだったの」 そして、お互いに改めてここまでの経緯と――もちろん、タバサは任務云々の話は出さずに――情報の交換を開始した。 ――そこから遠くでもあり、間近でもある『王天君の部屋』の中では。「ハ……ハハハッ……こいつぁ傑作だぜぇ!!」「も、もう駄目……わたし……涙が……くっ……」 ガリアの王女イザベラと、そのパートナーたる王天君が、しっかりとその場面を見ていたわけなのだが――。「惚れ薬を誤飲しただぁ!? 馬鹿かよあいつは! 意地汚ぇ真似すっからだ」 長椅子に座り、のけぞりながら高笑いする王天君。いっぽうのイザベラはというと。「あの禁断の……<魅惑>の秘薬で、妹……恋人じゃなくて妹認定……おほ……おほほほほほほっ! 駄目、やっぱりわたし、もう……笑いで涙が……溢れて止まらないっ! あの子たちってば、ふたり揃って本当に面白すぎるわぁ~!!」 豪奢な絨毯の上を、文字通りゴロゴロと転げ回って大笑いしていた。 それから10分ほどが経過して、ようやく笑いの発作から解放されたふたりは、改めて見知った情報に関する整理を開始する。「解除薬があれば、彼は間違いなく元に戻るわ。その点は安心していいわよ」「そいつぁよかった。おかげで死体をひとつ増やす手間が減った」「冗談にしても笑えないから、それだけは勘弁してもらえないかしら……さすがに、今あの子が『任務』以外で死んだりしたら、ガリア国内で間違いなく内戦が勃発するわ」「ふん、それはそれで面白ぇんじゃねぇか?」 ……などと言って、しばしイザベラをからかっていた王天君は『窓』の外で静かに寝息を立てている己の『半身』を改めて見た。そして断定した。この連中の話から察するに、あの野郎、やっぱりオレのこと、衣食住に釣られた挙げ句、完全に放置してやがったな……と。「ふぅん……そぉいぅコトならなぁ、こっちにも考えがあるぜぇ、太公望ちゃんよぉ」 王天君は、すぐ隣で「うーん、モンモランシ家が没落せずに、まだ湖の管理を任されていた時期だったら、これをネタに色々できたと思うんだけど……」などと物騒なことをブツブツと呟いているイザベラに向かって、声をかけた。「あいつがきっちり治るってわかったことだし、そんじゃぁ城へ戻ろうや」 これに驚いたのはイザベラだ。「えっ? あなたの弟が元に戻ったら、一緒に故郷へ帰るつもりじゃなかったの?」 寂しそうだった顔から一転、喜びの表情を浮かべたイザベラを見た王天君は、ニヤリと笑ってこう答えた。「最初はそのつもりだったんだがよぉ……ちぃと気が変わった。もうしばらくお前んとこでやっかいになっててもいいか?」「本当!? もちろんよ! ずっと側にいてもらいたいくらいだわ!!」「へぇ……このオレを受け入れる度量があるたぁ……やっぱりオメーは」「いいえ、あなたこそ」「わかってるぜ」「素晴らしいわ」 こうして、王天君とイザベラは『空間』を渡り、リュティスへの帰路についた。 ――亜空間の中へひとりで放置され続けていたことに対して、王天君は自分自身が想像していたよりも、遙かにイラッときていたのだった。○●○●○●○● ――そして焚き火の側では。 タバサたち『調査チーム』と『解除薬作成チーム』は、たき火を囲み、夜を徹して語り合っていた。そこで、太公望に関する非常に大切な協約を結んだ。その内容とは。「彼の『妹』に関する事情には、絶対に触れないこと」 これであった。当初はタバサに理由を尋ねようとしたギーシュとモンモランシーであったが、それを他のメンバーが必死の形相で食い止めた。「他人が知られたくないと思うことに、無理に踏み込もうとするのはよくない」 ――と。ここ数回の失敗で、さすがにその行為が、たとえ太公望以外の者に対してでも大変失礼かつ、それがとんでもない『地雷』たりえることを思い知っていたからだ。「確かに。他人の事情を根掘り葉掘り聞くのは、貴族としてどうかと思うね」「で、でしょう? や、やっぱり、そそ、そういうのは、その、よくないわ」 心なしか声が震えているルイズの姿を見ながら、才人は口を開いた。「あと、さっきの魔法についても、聞かないほうがいいんじゃないかな。言いたくないから隠してるんだろうし」 その言葉に、全員が頷いた。モンモランシー自身は、これまで特に太公望と仲が良かったというわけではないが、今回の件で迷惑をかけてしまったという自覚から、それについても了解した。 そんな彼らを見て、才人は思った。色々あったけど、こいつらと会えて本当によかった……と。そして、静かな寝息を立てている友人に視線を向けた。「俺……こいつには、ここへ来てから世話になってばっかりだ。もっと強くなってからならともかく、今の俺の実力だと借りを返す機会がないもんな」「何か言った? サイト」「いや、別に何も」 ――それから数時間後。太公望を除く全員が眠れぬまま明けた、翌朝。 「兄さまは夢を見ていただけ」というタバサの説明をあっさりと受け入れた太公望は、普段と全く変わりない様子で、才人たちがここにいる目的を聞いていた。「なるほど、特別な薬をつくるためにその『水の精霊の涙』とやらが必要なのだな。その条件として『侵入者』を止めろ、こう言われたと。ならば交渉の余地があるな」「わたしもタイコーボーに同意する。その際に、水の精霊が水位を上げている理由を知ることができれば、こちらとしても助かる」 確かにその通りだな、と、一同は頷く。「ふむ……タバサよ。おぬしなら、交渉役として誰を選ぶ?」 その太公望の振りに、タバサは即座に返答した。「まず、モンモランシー。精霊に声をかけてもらうために必要。続いて、サイト。もともと最初の交渉を実現できたのは、彼のおかげ。そのサイトの補佐役として、兄さまについてもらいたい」 指名された3人はその場で頷き、交渉役となることを了解した。そして、全員で交渉のための案を出し合い……それは始まった。 モンモランシーは湖岸に立つと、昨日と同じように湖へ使い魔のロビンを放った。すると、朝靄の中――水面の一部が再びぐにゃぐにゃとうねり、固まり、そして水の精霊が姿を現した。「呼び出しに答えてくださって感謝します、水の精霊よ。それでは改めて、昨日あなたから依頼された内容について、お答えする者たちを紹介します」 そう精霊に語りかけたモンモランシーは、一歩右横へ移動する。その後、ガラス製の瓶を持ち、彼女の後方に控えていた才人と、太公望のふたりが前へと進み出た。「俺のことを、覚えていてくれましたか? 水の精霊よ」 その声に、水の精霊が答える。「覚えている……ガンダールヴよ。して、結果は?」「ありがとう、水の精霊。それについて、彼が説明するので聞いてほしい」 そして才人は、モンモランシーとは逆。左側へ一歩移動すると、太公望に前へ出てくるよう促した。「わしは、今回の報告をさせていただく太公望と申す者。以後お見知りおきを」 すると、彼の言葉を聞いた水の精霊が輝きを増した。「話を聞こう『生命の道を極めし者』よ。そなたならば信用できる」 この呼びかけに、太公望は一瞬ピクリと片眉を上げた。こやつ、わしが何者であるのかわかっておるようだ――もしやとは思っていたが、やはり精霊とは『星の意志を宿す者』か。これは、しっかりと話を進めねばなるまい、と。 いっぽう、側に控えていた者たちは皆一様に不思議そうな顔をしていた。普通、水の精霊は自分たち人間を全て『単なる者』と呼ぶ。だが、才人のことは<ガンダールヴ>と、そして今、交渉のテーブルへついている太公望のことを『生命の道を極めし者』と称した。 ふたりを除く者たちは思った。やはり、彼らはただの人間ではないのだ――と。「ありがたい。では、まず依頼のあった侵入者の件についてだ。彼らは、この湖の水位が上がってしまった原因を調査するために現れた」 太公望は、身振り手振りを交えつつ、精霊と会話を続けている。「そして、可能であれば水位を下げたいと願っている。よって、水の精霊殿が何故水位を上げているのか、その理由を教えてはもらえないだろうか。それがわからぬ限り、彼らは今後、幾度となく現れるであろう……最悪の場合、数が増えるかもしれぬ」 その言葉に、水の精霊が反応した。「『生命の道を極めし者』よ。我が水位を上げ続けている理由を教えることで、そなたは何をしようというのだ?」「うむ。内容によっては、わしらが水の精霊側に対して協力することで、彼ら侵入者を完全に排除できるやもしれぬ。よって、詳しい事情をお教え願いたい」 その言葉を受けた水の精霊は、再びぐにゃぐにゃと形を変え、蠢いている。もしかすると、みんなで話し合ってたりするのかも? などと才人が考えていると。再度モンモランシーの姿をとった水の精霊は、言葉を発した。「<ガンダールヴ>と『生命の道を極めし者』が共に在るならば、我らが動くよりもよい結果が出るだろう。我らはお前たちを信用し、話すこととする」 ぐねぐねと身体を蠢かせながら、水の精霊は語り始めた。「月が30回ほど交差する前の晩のことだ。お前たちの同胞が、我らが暮らす水底の都から、我らが守る<水>の秘宝を盗み出したのだ。なればこそ、我らは己の領域を広げている。水が浸食し、大地の全てを覆い尽くせば、我が身体が秘宝に届くだろう」「つ、つまり、その秘宝を探し出すために、水かさを増やしていると」「その通りだ」「そりゃまた、ずいぶんと気の長い話だなあ」 思わず呆れ声を出した才人に、水の精霊は諭すような口調で言った。「<ガンダールヴ>よ、我とお前たちとの間では、時に対する概念が違うのだ。我らは全にして個。個にして全。過去も未来も、時も空間も、我にとっては同じものだ。いずれの時間にも、我は存在するゆえにな。しかし……」 そう言うと、水の精霊は太公望のほうを向いた。「このまま領域を広げ続けることで、再び侵入者が現れるというのならば……それを阻止せねばならぬ。『生命の道を極めし者』よ。そなたは我らに協力できると申し出た。よって、我は依頼する。期限は一切問わぬ。今すぐ水位を下げ、我が身体の一部を授ける代わりに、我らが秘宝を取り戻してきて欲しい」「期限を問わず、とは……」「それは助かる」 そんなふうに呟く周囲の者たちの声を聞きながら、太公望は内心で呪詛の言葉を紡いでいた。おのれ、精霊どもめ。わしが何者かわかった上で期限なしという設定をつけおったな! つまり絶対取り返してこいという意味か! ……とはいえ、これを飲まねば『薬』のほうはともかくタバサが困る。う~む、こればかりは面倒などとは間違っても言えぬのう……。 ――惚れ薬の影響で、太公望の行動原理の全てがタバサを優先していた。国が、法律でこの薬を規制するのも当然である。「ふむ……そういうことであれば、何か手がかりがほしいところではある。水の精霊殿は、盗人について何か記憶していることはないだろうか。また、秘宝とやらがどんなものであるのかを教えて欲しい。どんなに細かいことでも、一切漏らさずにだ」「奪われたのは『アンドバリ』の指輪。我が永き時と共に過ごしてきた秘宝」 それを聞いて、モンモランシーの顔色が変わった。「水系統の、伝説の<マジック・アイテム>じゃないの! 確か、死者に偽りの命を与えるという指輪よね?」「その通りだ、単なる者よ。お前たちがこの地に現れたときには、既に我と共に在った。『死』は我らにはない概念ゆえ、しかと理解できぬが……死を免れぬお前たちには魅力的に映るのやもしれぬな。しかしながら『アンドバリ』の指輪がもたらすは、偽りの生命。真実の<力>ではないのだ」「そんなシロモノを、いったい誰が盗んだんだ?」「風の<力>を用いて我の住処に現れたのは、数個体。その中に『クロムウェル』と呼ばれていた者がいた」「アルビオン風の名前ね」 ルイズが呟くと、キュルケが同意するように頷いた。「アルビオンは『風の王国』なんて呼ばれているくらいだし、精霊の住処に潜入できるほどの<風>の使い手が大勢いても、おかしくないわ」「ところで、その『指輪』には、他に隠された効果などはないのか? あれば、今後の用心のために教えてもらいたいのだが」 太公望の問いに、水の精霊が答えた。「指輪に偽りの命を与えられた者は、指輪の使用者に従うようになる。また、指輪が解放せし<力>に触れた水を飲んだ者の精神を、思うがままに操る魔法が込められている」 それを聞いた一同の反応はというと。「ずいぶんとまた、えぐいシロモノだのう」「死者を操るなんて、趣味が悪いわね……」「死人だけじゃなくて、生きている人間が水を飲んでもダメなのね。まさか、ワインとかにも効果があるのかしら」「それ、やべーだろオイ。ただのゾンビじゃないってだけでも厄介なのに」 と、いったようなものだった。ある意味想定内のリアクションである。「なるほど、詳細は了解した。では、取引終了ということでよいだろうか?」 太公望の問いかけに対して、返ってきたのは『虹色に輝く水の塊』であった。それは、才人が持っていたガラス瓶の中を目掛けて飛んでゆき、きれいに収まった。おそらく、これが『水の精霊の涙』であろう。 そして、ごぼごぼと水音を立てて水の精霊が姿を消そうとしたその時、突如タバサがそれに待ったをかけた。「待って。あなたに聞きたいことがある」 その場にいた全員が驚いて、彼女を見つめた。普段から滅多に感情を表さないタバサの声に、必死ともいうべき色が滲んでいたからだ。「水の精霊。あなたは『誓約』の精霊とも呼ばれている。その理由が知りたい」「『単なる者』よ。おそらくは、我の存在自体がそう呼ばれる理由かと思う。我に決まった姿形はない。しかし、我はお前たちが目まぐるしく世代を入れ替える間も、ずっと変わらぬ形で、この湖と共に在り続けてきた。それゆえに、お前たちは我に変わらぬ何かを祈りたくなるのだろうな」 その言葉を最後に、今度こそ水の精霊は湖の中へと姿を消した。 タバサは、精霊の言葉を噛み締めるかのように目を閉じると、膝を折り、手を合わせた。ただ一心に……何かを祈っていた。秘めた誓いを、改めて確認するか如く。そんな彼女の肩に、太公望がぽんと手を置いた。 周囲の者たちが、なにやら「誓いなさい」だのなんだの騒いでいたようだが、それはタバサの耳には届かなかった。その熱心な祈りによる強い『願い』が、思わぬ形で届くのは――彼女が想像していたよりも、遙かに早かった。○●○●○●○●「ふう、これで完成! しっかし、やたらと苦労したわね――!!」 トリステイン魔法学院の一室。モンモランシーの部屋の中で、見守っていた一同から歓声が上がった。そう……ようやく『解除薬』の調合が終わったのだ。 モンモランシーは、額の汗をぬぐうと、どっかと椅子に腰掛けて、大きく息を吐いた。かなりの重労働だったのであろう。そして、部屋の隅に置かれたテーブルの上には、彼女の苦労の結晶ともいうべき薬瓶が乗せられていた。「これは、そのまま飲ませればいいの?」「ええ」 タバサは早速その薬瓶を手に取ると、太公望の元へ持ってゆく。だが、あきらかに苦そうな香りがするそれを、彼へ近づけた途端。太公望は顔をしかめ、ふいっと後ろを向いてしまった。「兄さま、これを飲んで」「やだ!」 ……即答である。しかも『タバサのお願い』すら無効化している。「わしは苦い薬はいやなのだ。甘いシロップか糖衣でなければ飲まぬ!」 その場にいた全員が、あきれ果てたように呟いた。「ガキかよ……」「27歳にもなって……」「情けない」「大人なのに」 彼らは、顔を見合わせると……頷いた。そして、後ろから一斉に太公望へ飛びかかると、ジタバタともがく彼を押さえ込んで強引に口を開け、薬瓶を傾けた。「飲まんかい、われ―――ッ!!!」 そこへ、ドバドバと注ぎ込まれる『解除薬』。「―――――――――ッ!!!」 無理矢理飲まされた解除薬の苦さに、むせかえったような声を出しつつ、苦いのはこれだからいやなのだ――!! などと叫びながらゴロゴロと床を転げ回る太公望。だが、突然その動きがピタリと止まった。「効いた……かな?」「た、たぶん」 やがてむくりと起き上がった彼は、周囲をきょろきょろと見回して、言った。「ここは……どこなのかのう? 確か、中庭でワインを飲んで、それから急に頭が痛くなったところまでは記憶にあるのだが。わしは、いったい何をしていたのだ?」 そんなことを言いながら、太公望は首をひねり、うんうんと唸っている。「も、もしかして『薬』が効いていたときの記憶がないのか?」「まあ、確かに覚えてたらアレはキツイだろうなあ……忘れていて良かったよ」「でも、余計なこと言うの禁止な」 こっそりと集い、そう囁きあっているのは太公望を除く関係者一同だ。 と……太公望の元へ、おそるおそるといった様子でタバサが近付いていった。「タイコーボー、もう大丈夫なの?」「どうしたのだ? タバサ。頭痛のことなら、心配ないぞ」「わたしのこと……どう見える?」「どう、とは? いつも通りのタバサだ。特に変わったところは見受けられんが……あ、いや……ちと髪が乱れておるようだな。念のため、自分の目できちんと鏡を見て確かめるがよい。あ、わしは鏡など持ち歩いてはおらんぞ。どっかの美形と違って」 などと言いながら笑う太公望。だが、その笑みは、突如困惑の表情に取って変わった。何故なら、彼の目の前にいたタバサの瞳から、ぽろりと一筋の涙が零れたからだ。「今ここにいるのは、元通りのあなたなのね」 小さく掠れた声でそう呟いたタバサは、太公望の胸に飛び込むと、大きな声を上げて泣きはじめた。それも……魂の奥底から迸るような、それでいて聞く者全てを困惑させるほどに、切実な声で。「どうしたのだ、タバサ!? いったい何があったのだ! 誰でもいいから状況を説明してくれ、頼む!!」 部屋の中には、慌てた声で叫ぶ太公望と、タバサの泣き声だけが響いていた――。○●○●○●○●「なるほどのう、よくわかった」 『解除薬』を飲んでから、約3時間後。泣いていたタバサをようやく落ち着かせ、その上で改めてここまでの事情を聞かされた太公望は、頭を抱えていた。 今回、説明役にまわったのはキュルケである。太公望がタバサをなだめている間、それ以外のメンバーたちは、彼の記憶が飛んでいるもっともらしい言い訳を検討した。その上で、モンモランシーが『惚れ薬』を作った経緯を説明し、謝罪をするということでまとまっていた。 ……ちなみに、その言い訳とは。「今まで3日間、太公望は意識を失っていた。さっきは、ようやく解除のための薬ができあがったため、モンモランシーの部屋へ運び込んでいたのだ」 ――と、こういうものであった。その上で、「惚れ薬が効かなかった理由は、自分たちにはよくわからない」 と、説明することで信憑性を増そうというのが、彼らなりの作戦だ。 なお、この『言い訳』については前もってタバサへ説明しようとしたものの、彼女が太公望から離れようとしなかったため、実現しなかった――それはさておき。「おぬしたちには、大変な心配と迷惑をかけてしまった。それについてはこのあと改めて謝罪したい。だが、その前に……」 そう言うと、太公望は立ち上がり……『惚れ薬』の作成者であるモンモランシーの前に立った。そして、なんと深々と頭を下げたのである。「わしの軽率な行動のせいで、モンモランシー殿には大変な損失を与えてしまった。それに関しての弁済はこのあときちんとさせていただくとして、その前にまず謝罪したい。どうか許して欲しい」 この行動に、部屋にいた全員が驚いた。「え、あ、あの、ミスタ? わたしがあなたに『薬』を飲ませて」 頭を下げたまま、自分の前から動こうとしない太公望に対し、モンモランシーはどう対応していいのかわからなかった。「本人の了解も得ず、勝手に奪って飲むという行動をしたのはこのわしであって、それによって意識を失ったのは完全に自業自得なのだ。しかも、700エキューもする『薬』をだいなしにしてしまった」 心底申し訳なさそうな声で「本当にすまなかった」と謝罪する太公望へ、モンモランシーは「とにかく頭を上げてくれ」そう告げるしかなかった。「わたしは『惚れ薬』を作ったという罪があるから」「いや、それとこれとは話が別。謝罪を受け入れてもらえるだろうか?」「わ、わかったわ。だから顔を上げてちょうだいミスタ・タイコーボー! あ、あと、わたしのことはモンモランシーと呼んでくれないかしら。それと、普段どおりに喋ってちょうだい。お願いよ!」 その言葉に、心底ほっとしたような表情で顔を上げた太公望。「おぬしの寛大さに感謝する。では、遠慮無く……モンモランシーよ、『解除薬』を作るのには全部でいくらかかったのだ? 交通費込みで」 言われて、急いで自分の財布の中身を確認するモンモランシー。「ええっと……精霊の涙を取りにいったぶんの馬車代も含めると……うん、全部で150エキューかしら」「了解した。では、それについては話が終わり次第、すぐに全額返金する。しかし『惚れ薬』の代金700エキューを即金というのはさすがに無理だ。よって、分割にするか……あるいは、別の対価を支払うことによって弁済とさせてもらいたいのだが」「え、ちょ、ちょっと待って!」 慌てて太公望を遮るモンモランシー。周囲にいたルイズ、才人、ギーシュ、キュルケも、あまりのことに呆然としている。タバサも、びっくりした顔で太公望を見つめていた。彼らには、被害者である彼がここまでする理由が全く理解できなかったからだ。「む、やはり不足であったか」「いや、そうじゃなくて! どうしてそこまであなたがする必要が?」 モンモランシーのその言葉を聞いて、太公望は不思議そうな顔をして彼女を見つめた。その表情は、まるで心底意味がわからないと言わんばかりだ。「何を言うのだ。してしまったことに対する謝罪をするのは当然であろう?」 ……と、こう返すのみであった。 モンモランシーのほうはというと、わざわざ弁償してもらえるならそれに越したことはないし、それに対価というのも気になる。そう思い直し、改めて質問することにした。「そ、そこまで言ってもらえるなら、わたしとしても悪い気はしないわ。ところで……別の対価って、いったい何なの?」「それなのだがな……おぬし、わしらが毎日放課後集まって、何かをしていることを知っていたであろう?」「ええ、もちろん。内容はわからなかったけど」 彼女の言葉を聞いた後、にっこりと笑って太公望はこう告げた。「実はな、おぬしをその『仲間』として迎え入れる用意があるのだが」 は? それが対価!? 思ったよりつまらないわ……モンモランシーがそう口に出そうとする直前。その場にいた全員が大声を上げた。「モンモランシー! きみも是非仲間に加わるべきだよ」「700エキューなんて、あれに比べたら安いものだわ!」「わたしも、現金よりこちら側に加わることを勧める」「こっちに来たほうが将来的に絶対得だぜ、モンモン!」「お金に換えられることじゃないわよ、これ! あなたすごくラッキーよ!?」 太公望を除くその場にいた全員が、一斉にモンモランシーの側へ近寄ってくる。しかも、口々に『仲間になること』を奨めながら。モンモランシーは、あまりのことに目を白黒させて言った。「ど、どういうことなのかしら?」 その言葉に、ふむ……と、考え込んだ太公望は、生徒たちに声をかけた。「ルイズよ。おぬしは『仲間』になって、どうなった?」 ――その声に、笑顔で答えるルイズ。「誰にもわからなかった<爆発>の謎が解けて、空が飛べるようになったわ!」「……えっ!?」「才人よ、おぬしはどうだ?」 ――右腕に力こぶしを作り……ニカッと笑って答える才人。「素手での格闘技の腕が上がった! 今ではワルキューレ7体とも戦えるぜ」「ええっ!?」「キュルケよ。おぬしは?」 ――キュルケは、オホホホホ……と、声を上げて笑ったのちにこう答えた。「魔法を放てる数が、以前の1.5倍になりましてよ」「ええええっ!?」「ギーシュ。おぬしはどうだったかの?」 ――薔薇を咥えて、優雅にお辞儀しながらギーシュは答えた。「ワルキューレ操作の幅がとても広がったよ。しかも『ライン』が見えている」「ちょ、ちょっと待って」「最後に……タバサ。おぬしの成果は?」 ――タバサはくいっと眼鏡を直すと、こう呟いた。「『スクウェア』にランクアップ。さらに独自に教わった技術で<精神力>の最大容量が1.5倍にまで膨らんだ上に、回復速度が最大5倍まで上昇。しかもわずか1日の訓練で身についた」「ちょっ」「ねえタバサ何それ!?」「ぼくはまだ聞いていないよミスタ!」 自分たちにもそれを教えて欲しい! そう言って詰め寄る生徒たちを、まあまあ……と、抑えている太公望。「待って、ちょっと待ってよ! どういうことなのよ、みんな! この短期間で、そこまで<力>が上昇するなんて、常識ではありえないわ!!」 そう叫んだモンモランシーに、全員が満面の笑みを向けた。「わしはな、独自の技術で、その人物が持つ『素質』を見抜くことができるのだ。それに合わせた訓練を行った結果が――今の彼らだ」 その言葉に、全員が首を何度も縦に振る。じつにいい笑顔で。 モンモランシーは驚愕した。そんな馬鹿な……ううん、ちょっと待って。そういえばミスタ・タイコーボーは東方ロバ・アル・カリイエのメイジ。たしか、東方では魔法技術がハルケギニアと比べて、ものすごく進んでるって噂を聞いたことがある。まさか、それを放課後に教えてもらっていたから、みんな――!「ひょっとして、わたしにも、その方法を、教えてもらえる……とか?」 ――もしもそうならば、たしかに700エキューなんて安いものだ。「その通りだ。これは、学院長公認の課外授業的なものでな。ただし、決して他の人間にわしが教えている内容を漏らさないという絶対条件付きだが。ちなみにこの機会を逃した場合、余程のことがない限り参加の許可は下りないと考えてもらいたい」 こっちにおいでよ! 誘うように手招きのジェスチャーをする他の者たち。それを見て、ようやくモンモランシーは悟った。これに参加していたから、ギーシュはいつも放課後あそこにいたのだ。ルイズと二股をかけていたわけではなかったのだと。 と、そこへ太公望からさらなる追撃が飛んできた。「ちなみに、今ならもれなく特典がつく」「えっ! まだなにかつけてくれるの!?」 あまりのことに驚きすぎたモンモランシーは、口を開けたままで固まった。それは、周囲の者たちも同様だった。なんだ特典って!? などと、ざわついている。 ――ちなみに才人だけは「テレビの通販かよ!」などと思っていたのだが。「そもそもだな……この『事件』が発生した理由は、ギーシュの浮気性が原因なのであろう? モンモランシーよ」「そ、その通りよ」「この特典をつけるにあたって、念のため確認しておきたいのだが……もしもギーシュが一切浮気をしなくなったら、おぬしは本気で彼とつきあうつもりがあるのか?」「ぼくは浮気なんか」「おぬしはちと黙っておれ」 ギーシュの発言はモンモランシーの耳、いや脳まで届いていなかった。何故なら、 『ギーシュが本当に浮気をしない男になったとしたら』 それをシミュレートすることだけで、彼女の頭の中はいっぱいだったからだ。「そうね、彼……なんだかんだで結構優しいし、気が利くわ。頭の出来も、調子にさえ乗っていなければ、そう悪くない。顔については文句なし。ちょっとエッチなところはあるけれど、男の子だったら誰だってそうだと思うし。おまけに家柄は名門の軍閥貴族。う~ん、わたしだけに尽くしてくれる、そんなギーシュ……」 すうっ……と、モンモランシーの顔が朱に染まる。「どうやら答えは出ておるようだのう。そこで提案なのだが……まずは、お試しで数ヶ月ほど付き合ってみるのだ。その上で、もしもギーシュがまた浮気をしたらだな」「彼が、浮気をしたら?」 モンモランシーの問いに、悪魔のような微笑みでもって答える太公望。「3回だ」「……3回? 何が?」「このわしに、やつが浮気をしたと言うのだ。そうすれば、わしの<風>でもって、その場でギーシュを天まで吹き飛ばしてくれるわ……3回までな。ちなみにわしの<風>に関する実力だが……タバサよ」「彼は風の『スクウェア』メイジ」 言われなくとも、彼の実力はラグドリアン湖畔で見ている。モンモランシーは、彼らへ天使の微笑みでもって応じた。「とてもいい特典ね」「そうであろう? もし3回わしの<風>を食らっても浮気癖が治らないようなら、キッパリと別れてやればいいのだ。そのための『お試し期間』というわけなのだよ」「そうね、ミスタの言う通りだわ」 頬を染め、両手で軽くそこを抑えながら、実に可憐な笑顔で受け答えを続けているモンモランシーの態度に、ギーシュが慌てた。「ちょ……ちょっと待ってくれたまえ、ミスタ・タイコーボー」 冷や汗をかきながら抗議しようとしたギーシュに対し、太公望はぐりん! と、首を回し、顔だけを向けて凄んだ。「おぬしが浮気をしなければいいだけのことであろう?」「その通りよ」「まったくだわ」「タイコーボーの言はもっとも」「お前また二股する気なのかよ、懲りねェなあ」 ――結局。次の『虚無の曜日』から、モンモランシーは『仲間』に加わることをもって『惚れ薬』の弁済とする旨を承諾し……ギーシュは、彼女との関係を公にすることとなった。とんでもない枷つきで。○●○●○●○● ――そして、その夜。 夕食を取りながら、近くで食事をするいつものメンバーの顔をちらちらと眺めつつ、太公望は考え込んでいた。あやつらには、とんだ借りができてしまったのう……と。 そう、実は太公望は、全てを覚えていたのである。『惚れ薬』を飲んだ後に起こしてしまった、自分の行動を。ハッキリ言って、失態などというレベルの問題ではない。 今……どこか遠く、誰もいない空間に自分だけが居たとしたならば、その場で頭をかかえつつ、転げ回って叫び出したい心境であった。「このわしがシスコンとか! あきらかに問題となる言葉を、さらっと口にしてしまうとか! しかもタバサに不安を抱かれるような発言をした挙げ句に『打神鞭』最大出力かますとか、いちばんありえんわ! このわしへの信頼が、威厳が壊れてゆく――ッ!!」 ……と。 だが、彼らはそれを黙っていてくれた。そして、自分を気遣ってくれた。だから、太公望はあえて彼らの『策』に乗ったのだ――あきらかな穴があることを承知の上で。「あいつら……わしが他人に事情聴取をするとか、誰かから、なんだかこの3日間は様子がおかしかったね、とか言われる可能性について考えつかんかったんかい……そもそもだな、3日も倒れていたのなら、誰かが見舞いに飛んでくることだってありえるのだぞ!? 穴だらけではないか!!」 ――『事情説明』直後に彼が頭を抱えていたのは、実はこれが原因だったのである。「しかし……ある意味あの娘、モンモランシーをこちら側へ引き込めたのは成功であった。わしが対抗しきれないほどの『薬』を作れる『調合師』など、そうはおらぬ。将来は、秘薬による<治癒>のエキスパートとして役に立ってくれるであろう」 ……そう、実はあの謝罪。弁済と見せかけた、太公望のスカウトだったのである。相変わらず転んでもタダでは起きない男であった。 ちなみに、ギーシュに対する『枷』は、原因を根本から絶つ……と、いうよりも。今回の件に関する、太公望なりの仕返しである。彼はもう浮気などできないであろう。 こうして、この『惚れ薬』を巡る一連の事件は幕を閉じた――はずだった。