――ウィンの月・ヘイムダルの週・ユルの曜日。 トリステインの王都で戦勝と新王の即位を祝うパレードが行われていた。 聖獣ペガサスにひかれた豪奢な――サンドリオン一世とカリーヌ王妃が座す馬車を先頭に、三人の麗しき王女たちと国内の高名な貴族が続き、その周囲を礼装に身を包んだ魔法衛士隊が油断なく警護している。 さらに、その華やかな一団の後ろを騎士や軍人たちが馬で闊歩していた。彼らは皆、気分が昂揚するのを隠すことができず、一様に顔を紅潮させていた。「新国王サンドリオン一世陛下、万歳!」「トリステイン軍、万歳!」「我らが祖国、トリステインに栄光あれ!」 街路に詰め掛けた大勢の観客たちから歓声が投げかけられる。道に入りきらなかったひとびとは通り沿いの建物の窓や屋根の上から手を振り、この日のために用意された色とりどりの花びら――真冬に咲く花は少ないため、そのほとんどが〝錬金〟の魔法によって造られたものだったが――を撒き散らし、新国王を歓迎した。 世界最強の空軍を擁する神聖アルビオン共和国を退けた軍事的手腕もさることながら、豊かで領民たちが安堵して暮らせると評判のラ・ヴァリエール領を長年に渡って統治してきた手腕こそが、国民に最も期待されている事柄であろう。 おまけに、その伴侶は伝説と謳われた風メイジ『烈風』カリン。 もともと「男装の麗人ではないか」という噂があったこともあり、彼女の正体は驚くほどあっさりと国民たちに受け入れられた。 さらに、国王夫妻の後ろに続く三人の王女たちは全員が天上から舞い降りた女神と見紛うばかりの美しさだ。これでは群衆が熱狂しないほうがおかしい。 ブルドンネ街を埋め尽くした民たちの歓声は、後方の列にも投げかけられている。それを耳にした人物――燦然と輝く勲章を身に付けた男は呆然と呟いた。「提督……あなたにも、生きてこの場にいていただきたかった……」 目にうっすらと涙を浮かべたこの人物の名はフェヴィス。トリステイン王国空軍旗艦の艦長を務めていた男だ。アルビオンの砲撃でフネと共に沈む覚悟を決めていた彼は、側にいた部下たちによって半ば強引に退艦させられ、九死に一生を得ていたのだった。『卿らが文字通り命を賭けてくれたからこそ、トリステインは今日という日を迎えられた。まさしく貴族の鑑である』 治療院のベッドに横たわっていた彼ら空軍兵士たちを見舞い、ひとりひとりに声をかけ、激励と謝辞を述べて回ったのは、誰あろうサンドリオン一世そのひとだった。 彼は国王として取り組む二番目の仕事に、奮闘した兵たちと遺族への補償を選んだ。通常なら王族と一部の軍閥貴族だけが参加できる戦勝パレードへの同行もそのひとつであり、彼らが間違っても「敗軍」などと呼ばれぬよう、配慮した結果だ。 王立空軍兵士たちの奮闘は、戦勝パレードでの華々しい行進というこの上ない名誉と、年金つきの勲章授与という実利によって、確かに報われたのだった。 三番目に着手したのが、隣国ゲルマニアとの軍事防衛同盟条約の見直しと再締結である。 両国の話し合いは、終始トリステイン側の優位で進行した。 アンリエッタ姫と皇帝アルブレヒト三世の婚約は破棄。相手方の外交官は不満を露わにしたが、そもそもの原因がアルビオン急襲の際に発せられた援軍要請に応えなかった自国にあるため、強硬な姿勢など取れようはずもない。 とはいえ、野心を露わにしたアルビオンの空襲に怯えるゲルマニアは〝乗法魔法〟の使い手を複数抱え、かつ精強な陸軍を持つトリステインとの同盟解消など論外であり、渋々ながらも受け入れざるを得なかった。 その代わりに軍の共同演習や街道の整備、一部物資に限り関税を優遇するなどの条約が盛り込まれたため、皇帝の面目が丸つぶれになるような事態だけは辛うじて防がれたようである。 新軍事防衛同盟の調印式典は王都トリスタニアで行われ、トリステインからは新国王と宰相マザリーニが、ゲルマニア側からは外交長官オルトーと陸軍大将ハルデンベルグが出席した。 ゲルマニアとの外交交渉とほぼ並行して不穏分子の粛清も行われた。新王の手腕は苛烈を極め、一時はトリスタニアが膝下まで血に浸かるなどと言われた程である。 賄賂で役人を懐柔し、アルビオンからの密航船を受け入れていた貴族。 劇場に潜り込み、観客にトリステイン王家に対する嫌悪感を植え付けようとしていた脚本家。 権力を笠に着て、平民たちから不当な大金をせしめていた徴税官。 これらトリスタニアで蠢いていた『レコン・キスタ』やアルビオン貴族派の間者に加え、腐敗していた官僚たちが揃って罷免された。 彼らを取り締まるべき立場にあった高等法院の参事官・高等法院長リッシュモンに至っては、厳しいという言葉が生温く感じる程の事情聴取を受けた後、過去の汚職や『レコン・キスタ』との繋がりなど恐るべき事実を自白。 さらに、伝染病根絶のため王軍が焼いたと記録されていたいくつかの村落が、実はロマリアから多額の賄賂を受け取った見返りとして行われた新教徒弾圧・虐殺であることが判明するに至り、既に確定していた罪状に加え、収賄罪、外患幇助罪、外患誘致罪、大逆罪が適用された。 リッシュモンの私腹を肥やすためだけに滅ぼされた村々が、今回戦場となったダングルテールに集中していることに、運命の皮肉が感じられる。 高等法院長は貴族の地位と役職だけでなく家名までも剥奪され、領地を含む財産の全てを没収。彼の一族も連坐となり、最終的に死罪の中で最も重い火あぶりの刑に処された。 処刑の当日。それを伝え聞いた『ダングルテールの虐殺』の生存者が、処刑台の下に積み上げられた薪に火をつけさせてくれと涙ながらに訴えていたと噂されているが……その結末がどうなったのか、そもそも何故ロマリアがわざわざ遠国の鄙びた寒村を滅ぼそうとしたのかは不明である。 国内の統制を終えた後、新王は神聖アルビオン共和国に対する禁輸政策を執り、ラ・ロシェール及び国境からの出入国審査に多数の人員を割いた。 魔法や薬などで操られてはいないか、貴族派連盟のメイジが紛れ込んでいないかどうか、危険なものを持ち込んでいないかを〝探知〟で調査するなど、幾重にも渡る確認を行うためである。 一攫千金、あるいは同志への補給を目論んで密航船を出す者たちが現れたが、そのほとんどが軍事防衛同盟締結後ラ・ロシェールに停泊を許されたゲルマニア艦隊によって拿捕され、法により裁かれた。 ごく稀にゲルマニア空軍の目を逃れて支配空域を抜けるフネもあったが、それらはことごとく空賊の餌食になった。法を犯しての密輸だけにトリステインやゲルマニアへ討伐を願い出るわけにもいかず、彼らは泣き寝入りするしかなかった。 内戦により農地が荒れ、食料供給のほとんどをトリステインからの輸入に依存していたアルビオン貴族派連盟はこの措置を受け、他国へ救援を打診するも、ゲルマニアはトリステインと歩調を合わせ拒否。ガリアは自国における内乱発生の不安があると称して返答を先送りにし、ロマリアはこれまでと変わらず沈黙を貫いていた――。○● ――戴冠式当日の夜。 全ての行事を終え、国王専用の居室で休息を取っていたサンドリオン一世は、心の内側でひとり頭を抱えていた。(おそらく、彼は気付いているのだろう……) 現在彼を悩ませているのは、先日マザリーニ枢機卿自ら届けに来た報告書だ。それを記したのはダングルテールでの戦いにおいて捕虜となった敵兵たちを尋問した衛士であった。 ――フェニックスに関する調書 その報告書には、濃緑の竜に撃墜されながらもかろうじて生き残り、トリステイン軍に捕らえられたアルビオンの竜騎士たちの話が事細かに書き記されていた。 強力な魔弾で次々と味方を撃ち落とした、見たことも聞いたこともない新種の竜。 そんな竜騎士がトリステインにいることなど寡聞にして知らぬ衛士は、引き続き調査を行うことにした。結果、件の緑竜がタルブの村に伝わる『竜の羽衣』と呼ばれる機械であったことが判明したのである。 この『羽衣』が、六十年ほど前に遥か東の彼方から飛来したこと。 以後、村の守り神として寺院に祀られていたこと。 驚くべきことに、火竜を圧倒したその『羽衣』には魔法が一切使われていないこと。 『羽衣』を操っていたのは、ヴァリエール家令嬢の護衛士を務める少年だったこと――。 それが判明した時点で、衛士は少年に接触することを躊躇した。何故なら、彼の主人はトリステインの第三王女となったルイズだったからである。 そこで衛士は一旦調査を中断し、報告書をまとめ上げた上でマザリーニに判断を委ねたのだ。 提出された書類の内容を把握した枢機卿は、何食わぬ顔で王の裁可を必要とする案件と共にこれをサンドリオン一世の執務室へ持ち込み、慎重に人払いをした上でこう述べた。「わたしにとっての祖国は最早ロマリアではなく、このトリステインだと考えております」 その一言だけを告げて退出した枢機卿の背中を、王はただ見送ることしかできなかった。(ゲルマニア皇帝の朝食のメニューから、火竜山脈に生息する竜の正確な数まで把握していると言われるマザリーニのことだ。あの大鳳を切欠にサイトの情報を入手したことで、ルイズとの繋がりに気づき、そこから伝説の系統に辿り着いているに違いない……) マザリーニの情報収集能力はトリステイン国内において群を抜いている。ヴァリエール家の諜報員もそれなりの実力を持っているが、彼の部下たちはその遥か上を行く。(これだけならまだ良かった……いや、決して良くはないのだが、ううむ……) 昨日オスマン氏を通して届けられた伝言が、サンドリオンの心をより曇らせていた。『ロマリアが、聖地奪還のために本腰を入れて虚無の担い手を捜している。その足がかりとして、ご主人さまに接触してきた』 詳細は諜報の危険があるので、後ほど改めてとのことだったが、この情報が示すのは――。(あの聡い姫君のことだ、おそらく彼女も……) 王は、なんだか胃の奥がキリキリしてきた。(オールド・オスマンやミスタ・タイコーボー、それにジャンという前例がある。気付かれる可能性は高いと警戒していたが、まさかここまで早いとは……!) ルイズと才人が騎乗していた『竜の羽衣』は魔法に依らぬ飛行を可能とする機械だそうだが、マザリーニがここからルイズの正体を看破したのだとしたら。(オールド・オスマンも、エレオノールも、聖地には『始祖』が降臨した際に用いた〝扉〟があるのではないかという仮説を立てていた……) ブリミル教の聖典には〝始祖は天上より神に遣わされた〟と記されており、一部の熱心な神学者を除くハルケギニアの民は、それこそが真実だと教えられてきた。 だが、その話がロマリアの偽装工作なのだとしたら。(枢機卿はふたりの説こそが事実であることを知っていて、あの大鳳が〝扉〟の向こうから飛来したのだと考えたのではなかろうか) だとすると、マザリーニは未だサンドリオンたちが知らない〝虚無〟に関する情報を持っていることになる。(故郷、か……) 生まれた国ではなく、自分がこれまで守り抜いてきた場所はトリステインだ。マザリーニ枢機卿はそう言いたいのであろう。(元々穏健派で、トリステインとアルビオン会戦の際も最後まで直接対決を避けようとしていた。教皇選出会議による召還すら固辞し、至高の座に就くことを拒んでまでこの国を救おうと奮闘していた彼が、聖地奪還運動に賛同するとは思えないが……う~む) マザリーニ枢機卿は信頼に値する人物である。 しかし、かつてはロマリアで最も教皇の座に近いとされた聖職者でもある。 トリステインを守りたいという彼の言葉に嘘はないだろうが、ブリミル教の司教枢機卿として、聖典の教えから外れるような真似ができるとは考えにくい。 サンドリオン王は、見事なまでの二律背反状態に陥ってしまっていた。「随分とお悩みのようですね」 そんな王に声を掛けてきたのは、彼の妻だった。「やはり、ジャンの件ですか?」 カリーヌ夫人の問いに、サンドリオンは曖昧に頷く。 ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルド。彼もまた、王の悩みの種だった。「あのときの判断を後悔しているわけではない。だが……」 息子も同然の若者を、二重間諜として『レコン・キスタ』へ潜り込ませる。彼の技量と知謀を評価してのことだったが、それ自体は問題なかった。事実、ワルド子爵は敵と通じる裏切り者のあぶり出しに大きく貢献してくれたし、先の会戦でも見事な活躍をしてみせた。 しかし……。「あの子なら、エレオノールを支える次代の王配に相応しかったのですが」「ああ、本当にな」 小さく肩を落とす王妃に、王は心の底から同意していた。 あの依頼は、ラ・ヴァリエール公爵がオスマン氏に助言を請う前に行われたものだ。もしもこれらの順番が逆であったなら、ワルドにあんな真似はさせなかっただろう。 例の粛正時、当然のことながらワルドは難を逃れていた。彼が二重間諜であることを誤魔化すために、あえて黒と判定された――しかしながら、さほど罪の重くない者を複数見逃している。 ところが、リッシュモンの自白中に子爵の名が出てしまったがために、無罪放免というわけにはいかなかった。もちろん、マザリーニ枢機卿やグラモン元帥など信用できる一部の貴族には事情を説明してあるが……それを公にすることはできない。 そんな真似をすれば、ワルドは卑劣な裏切り者として『レコン・キスタ』から命を狙われるという重荷を背負うことになるだろう。 本人に状況を説明した上で、何も知らないトリステイン側の監視を付けることにより彼の立場を黒から灰色にし、やがて白へと塗り替える――。 応急処置にも程があるが、現時点ではこれが最良の手であった。「ですが、敵と繋がっているという疑惑を持たれている者を、王室に迎えるわけには参りません。あの子は、国と、わたくしたち家族のために命を賭けてくれたというのに……!」 無念のあまり臍を噛む妻に、夫は沈痛な表情で告げた。「全くだ。なればこそ、せめてジャンのささやかな願いを叶えてやらねばなるまい」 ワルド子爵の願い。それは、かつて王立アカデミーの主席研究員であった母が遺した論文及び、研究に関する資料の開示依頼であった。『僕は、亡き母の遺志を継ぎたいのです。いえ、どうしても継がねばなりません』 終始堅い表情を崩さなかったワルドは、王が手配した偽装工作に関して礼を述べた後、手を取って詫びる義父になるはずだった人物に対し、そう切り出してきたのだ。『陛下は、母が心の病に罹っていたことをご存じでしたか?』 その問いに、サンドリオンは頷いた。もともとワルド子爵家とは家族ぐるみの付き合いがあり、先代の領主は王の友人でもあった。 公爵家の当主として顔の広い彼は、友から妻の病を治す方法についての相談を受けている。『母が狂気に囚われてしまったのは、どうやらその研究に原因があるようで……』 ワルド曰く、子爵夫人が遺した日記に「怖ろしい秘密を知ってしまった」「どうしてあんな研究をしてしまったのか」「これは誰にも話せない」などという記述を発見したのだという。『屋敷の中には、それらしき研究資料は一切残されていませんでした。ですが、ひょっとするとアカデミーになら、何か痕跡があるのではないかと思った次第でして』 サンドリオンの目には、ワルドが他にも何か言い淀んでいることがあると映った。しかし、多大なる働きをしてくれた息子に対し、報いることができていないと感じていた王は、エレオノールの伝手で調べてみることを約束したのである。 ……後日、この調査結果によってヴァリエール家の主と長女の胃に穴が開きかけるのだが、それはもうしばらく先の話――。○●○●○●○● ――同じ頃。 サンドリオン王とはまた別の意味で胃を痛めていた人物がいた。 ガリアの王女、イザベラである。「あなたに会って欲しいひとがいる」 タバサに請われ、何事かと思いつつも彼女は了承した。「向こうは寒い。外套と、厚手の服を用意して」「どこへ連れて行くつもりだい?」「着けばわかる」 従姉妹は相変わらず言葉足らずな上に無愛想だが、表情に僅かな緊張が見て取れた。(……今更、謀殺なんか疑っても仕方ないわよね) そう考えながらも、用心深く懐に『地下水』を潜ませている。イザベラは、そんな自分が嫌で嫌でたまらなかった。『つくづく救えないよね。心を開いてくれた実の従姉妹を、まだ信じられないなんてさ!』『そいつは職業病ってやつですよ、イザベラさま』 心の内で『地下水』相手に愚痴りながら、伏羲の開いた『窓』をくぐる。 そこは、どこかの都市――ほぼ間違いなくガリアではない、うらぶれた住宅街の一角。「うわ、ほんとに寒ッ……」 イザベラは思わず大きな声を上げてしまった。無理もない、リュティスでは雨が降っていたが、ここではちらちらと雪が舞っていたのだから。(トリステインの裏町かしら? それにしては建物の構造がらしくないような……) きょろきょろと周囲を見回すも、やはりこんな場所に覚えはない。「シャルロット、ここはどこなのさ?」 訝しげに問う姫君に、タバサはいつもと変わらず簡潔に応えた。「ゲルマニア」「ふうん、ゲルマニアねえ……って、ええええええ!」「静かに。住民に迷惑」 忠告後、蒼い髪の少女は近くにあった共同住宅らしき建物の玄関を開け、中に入ってゆく。イザベラは慌ててその後に続いた。 廊下を進んで一番奥の部屋の前に立ったタバサは、扉に付けられた叩き金を打ち付ける。少し待つと中から返事があり、身なりの整った老爺が姿を現した。「これはこれはお嬢さま、お待ち致しておりました」「ペルスラン。お客さまがふたり」「はい、もちろん承っておりますとも」 そう言って入室を促す老人の顔に、イザベラは全く覚えがない。とはいえ、見たところ彼は単なる使用人に過ぎないようだ。待ち人とやらは奥にいるのだろう。 そんなことを考えながら扉をくぐると、ようやくタバサの後方にいた少女に気付いた老爺は、ぎょっと目を丸くした。「こんなことが、よもや……!」 ペルスランと呼ばれた老従僕は聖具の形に印を切ると、天を仰いだ。「お嬢さま、その……本当によろしいのですか?」「到着前に伝えておいたはず」「しかし……」「いいから、案内して」「……ご無礼を致しました。どうぞ、こちらへ」 ペルスランは主人と来客に対して深々と礼をすると、奥の部屋へ先導した。 タバサと伏羲、そしてイザベラは彼の後について静かに廊下を進んでゆく。(この使用人の顔は、わたしの記憶にない。だけど、こいつはわたしを知っている。それに、シャルロットをお嬢さまと呼ぶってことは……元オルレアン家の、いや、今も従僕なのか) 住宅の内部は質素な造りで、ほのかな明かりに照らされた床には塵ひとつ見当たらなかったが、歩くたびにぎしぎしと音を立てるし、壁には生活によってつけられた傷らしきものがいくつも刻まれていた。どう考えても貴人が住まうような場所ではない。(シャルロットは、一体誰に会わせようっていうんだろう? もしかして、大公家に仕えていた使用人かしら。そいつから昔のことを聞くつもりなのかね?) そうこうしているうちに、先頭のペルスランが目指していた部屋の前へ辿り着いた。「奥さま、お嬢さまとお客さまをお連れしました」「ありがとう。中へ入っていただいて」 その声を聞いた途端、イザベラの心臓がばくんと跳ねる。(嘘、この声は……!) イザベラの知るかの人物は、ラグドリアン湖畔の屋敷に閉じ籠もっているはずだ。それも、魔法の毒に冒された状態で――。 立ち尽くす王女の手を、傍らにいた少女がきゅっと握り締めた。「お願い。いっしょに来て」 そう言って見つめる従姉妹の瞳は、僅かに揺れていた。 ごくりと喉を鳴らすと、イザベラはタバサの手をそっと握り返す。 キィ、という音を立てて扉が開く。部屋の奥には丸テーブルが置かれていた。奥の椅子に座っていた赤毛の女性が、ふたりの姿を確認した途端、ゆっくりと立ち上がった。 それから、イザベラに向けて優雅にお辞儀する。「姫殿下。このような遠方まで、ようこそお越しくださいました」 柔らかな声と物腰。髪の色こそ、本来の濃い蒼ではなくなっているものの――。「お、叔母上……」 父王ジョゼフが宴席で毒を呷らせた、オルレアン公夫人そのひとであった。 夫人は、イザベラを見て微笑んだ。「嬉しいわ。あなたは、わたくしを叔母と呼んでくれるのね」「と、当然です! で、ですが、その、あなたは……」 困惑の色を浮かべた姪を訝しげに見遣ると、オルレアン公夫人は娘に向き直る。「まさか……事情を説明せずに、公務でお忙しい姫殿下をここへお連れしたの?」 こくりと頷くタバサ。「まったく、この子は……。申し訳ございません、昔から、こんな風に悪戯ばかりして……」 イザベラが最後に夫人と顔を合わせたのは、もう四年近く前であったか。毒によって錯乱していた当時と異なり、魔法薬の影響は完全に消え失せている。 どうやって、あの薬を無効化したのか。 どうして、こんな侘しい部屋に元とはいえ王族に連なる者が住んでいるのか。 そんな疑問が蒼き姫の脳内を駆け巡ったが、実際に口から出たのは全く別のことだった。「わたしを、責めないのですか?」 オルレアン公夫人は目を丸くした。「まあ、どうしてわたくしがそんなことをする必要があるのです?」「どうして、って……わたしは、あなたの夫であるオルレアン公を殺し、あなたに怖ろしい毒薬を飲ませた男の娘なのですよ!?」「わたくしは、この通り元に戻っています」「でも、叔父上は戻りません」 深いため息と共に、オルレアン公夫人は吐き出した。「そうね、これが夢であればどんなに良かったか。ですが、全て現実に起こったこと。悲しきことですが、それでもわたくしたちは前に進まねば。未来に生きてゆかねばなりませぬ」 静かに姪の側へ歩み寄った夫人は、優しくイザベラの頬を撫でた。「簡単にですが、事情は聞いています。あなたも、さぞや辛かったことでしょう……」 その言葉に、イザベラはぐっと唇を噛み締めた。 全身を震わせながら立ち尽くしていた王女は、ふいに温かなものに包まれた。オルレアン公夫人が彼女を優しく抱き締めたのだ。「叔母上……」「そう、わたくしはあなたの叔母。わたくしたちは皆、同じ一族なのですよ。周囲に煽られて本来無用な憎しみを向け合うなど……馬鹿げたことです」「わたしを、赦してくださると? わたしは、エレーヌに酷いことを……」「赦すも赦さぬもありません。あなた自身が悔いているのなら、それだけで充分」 夫人に同意するように、タバサも頷く。 ガリアから遠く離れた異国の片隅で、血筋を同じくする三人は抱擁を交わした。 ――イザベラと母を対面させる。 この、一歩間違えば全てを失う危険を孕んだ行動を決断したのは、タバサ自身だった。 当時のことを知る、王族の大人。オルレアン公夫人はそういう意味でも貴重な人材である。 さらにタバサは、太公望と王天君が融合した姿と、彼の言動を注意深く観察していた。その上でふたりが〝分離〟した後も記憶を共有していると判断したのだ。 もちろん、太公望本人にもその仮説が合っているかどうか確かめ、ある程度の時差は発生するものの、最終的に同じ記憶を持つに至ると聞かされたタバサは即行動に出た。 何故なら、最も隠しておきたかった家族の安否が筒抜けになってしまったからである。(それなら、聞かれる前に見せてしまったほうがいい) ……と、いうのは実は建前で。(イザベラは手札の全てを明かしてくれた。ならば、こちらも誠意を見せるべき) それ程までに、あの夜の出来事はタバサの心を揺さぶった。 太公望も、そのほうがよいと後押ししてくれたし――何より、母が賛成してくれた。 そうしていざ決断してはみたものの、やはり不安で……結局、ここへ来るまでに本当のことを打ち明けられなかった。 でも。(やっぱり、これで良かったのね……) 胸の奥が温かなものが満たされてゆくのを感じながら、タバサは小さく微笑んだ。