龍宮真名は、もう足取りに迷いを見せなかった。
ただただ、前へと進んでいる。
今までうっとうしい程に白かった通路は、一変して葵と共に歩いていた上の旅館の様になっている。
先ほどまでに比べて、心なしか少し明るくなったその通路を、龍宮は涼しい顔で歩いている。
「ふ、ふふ……ふふふ……」
いや、涼しい顔というのは間違いだった。溢れてくる笑みを表情に出さないように押さえていた結果、普段よりも少し表情が硬くなっているというのが正しい。
知り合いがさらわれているかもしれないのに、こんなにも弾むような気分になっている事を恥じたためか。あるいは、
(やれやれ……守ると言った私が守られたわけか。先輩には借りを作りっぱなしだ)
今までとは比べるまでもない程にはっきりとした思考で、龍宮は自嘲する。それと同時に自分の勘が正しかった事を確認し、そして確信した。
戦う術等一切持っていない友人が、時に予想外の行動力を発揮し、自分に足りない箇所を補ってくれる『相方』であるという事に。
日頃から朝倉や部活のメンバーから言われている『相方』という言葉が、妙にしっくりと感じる事に今度は苦笑いが漏れてしまう。
ちょうどその時、龍宮の背中から微かな振動と共に大きな着信音が鳴り響いた。
背中に感じた違和感はこれかと、未だに寝ぼけている思考に少しいらだちながら、左手に持っていた拳銃をホルスターへと戻して背中に手を廻し、携帯電話をフードから取り出して画面を開く。
そこに表示されている着信元を見て、今度こそ隠しきれない笑みがこぼれた。
龍宮は迷わずに着信ボタンを押して、スピーカーを耳に当てる。
『よう龍宮。お目覚めの気分はどうだい?』
それは聞きなれた相方の声。
どうやってかは知らないが、相手に有利過ぎたこのゲーム板を見事にひっくり返してみせた男の声。
「最悪だよ。まだ少し頭痛がするし微妙に胃がムカムカして気持ち悪いときた。……ふふ、いつか私達が大人になって、お酒を飲みすぎたりしたらこうなるのかな?」
歩き続けている内に、歩いていた通路にようやく行き止まりが見えてきた。
突き当たりには僅かに開いたままのドアがあり、その先からは魔眼を使わなくても分かるほどに膨大な魔力が渦巻いている。
だが、恐らく電話の向こうにいる相方が何かやってくれたのだろう。
その魔力の渦に繊細さはおろか構成としても形を成しておらず、どちらかと言うと暴走に近い状態だ。
要するに、龍宮真名が足を止める理由には欠片もならなかった。
『さぁ? 残念ながら俺は飲酒経験のない真面目で善良な男子高校生なんでね。いつか麻帆良で成人式を迎えた時に一緒にどうだい?』
「ほう? いささか引っかかる所はあるが、その提案はとても魅力的だね。ぜひご一緒させてもらおう」
『決まりだな。佐々木は既に確保して、これから古波さんを探すからそっちは……』
「あぁ、分かってる」
唯一の懸念事項だった行方不明だった知り合いの一人を既に確保している事に、さすがという思いで驚く龍宮。
ドアの前へと辿りつく、向こう側から誰かの狼狽した気配が感じられる。恐らくここに自我を保ったままたどり着くとは思っていなかったのだろう。
右手で拳銃を構え、狙いを定めて二回引き金を引く。狙いは蝶番。寸分の違いもなく狙い通りに、ドアを支えていた蝶番が吹き飛ぶ。
そのまま綺麗に倒れるかと思いきや、どうやらひっかかってしまったようだ。
そのまま足を進め、もはやドアの役割を果たしていない薄い木の板を思いっきり蹴り飛ばす。
「ここから先は――」
吹き飛んだ板の向こう側にはこちらを見て何か叫ぶ、髭も髪も伸ばし放題の男の姿があった。
その男に銃を向けながら、龍宮は部屋の中へと足を踏み入れる。
「ここから先は、私の仕事だ。任せてくれ」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「まったく、ここまで繊細な術式を構築するとは恐れ入ったが……どうやら、チェックメイトのようだ。おとなしく降参してもらえないかな」
龍宮が部屋に踏み入ると、男は背中を向けて部屋の奥――何やら立体迷路の様な複雑な配置をした、巨大な水槽の奥へと身を隠そうとしたが、それを許す龍宮ではない。
即座に足元に銃弾を叩きこみ、男の動きを阻害する。
男は、やはり身体を動かすことに慣れていないのか、足元で銃弾が爆ぜる音がすると同時にその場に躓いたように倒れてしまう。
龍宮はその隙に魔眼を発動し、その巨大な水槽――高さは恐らく1,6mくらいだろう。大きさでいえば、龍宮達が泊っていた旅館のロビーとほぼ同等くらいか。それが、少々複雑ではあるものの少し離れた所にあるひときわ高い円柱の水槽を中心に円を描くように構成されていた。
「……この水槽が魔法陣そのものなのか。中を循環しているのは魔法薬……効率的に魔力を増幅させ、循環させるための構成か。その主軸になっているのはあのひときわ高い水槽。さて、一体何をたくらんでいたのか、聞いてもいいかな? それとも……」
龍宮は、銃口を水槽に向ける。最低限の防護魔法がかかっているのが魔眼に映っているが、他には何もない。恐らく、襲撃されると言う事をまったく想定していなかったのだろう。
銃口の先に何があるかを理解している男は、罵るような荒々しい口調で答えた。
「誰もが……誰もが一度は考える夢だ! お前だってきっと考えた事がある! ないはずがない!!」
叫ぶうちに少しは力が戻ったのか、男は一番外側を構成している水槽の壁にもたれかかりながら少しずつ立ち上がる。
「もう一度声を聞きたいと! かつての悲劇を覆したいと! 考えた事があるはずだ!!」
男は水槽に手をつけたまま立ち上がりきると、その表面を撫でるように手を動かす。
「これはそれを可能にする術式構成。死者蘇生の構成だ!」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
男は幸せだった。少なくともソレが起こるその時までは、幸せだった。
かつては魔法の研究者として――うだつは上がらなかったが――生計を立てていた男だが、魔法など一切知らない一人の女性と知り合い、恋に落ちたその時から、男は魔法というものを疎ましく感じだしていた。
どこかで考えてしまう、自分と彼女は違うのだという思い。
些細な常識の差異が、些細な考え方の違いが、愛した女性はただの人間で、自分は魔法使いなのだという決定的な違いに捕らわれていた。
もし、男が魔法世界という閉鎖された世界でどっぷり研究に浸かっていなかったら。
もし、麻帆良のような表と裏が融和した地域で生活していればそんな思いには捕らわれなかったのかもしれない。
だが、男は悩んだ。人と接した経験の少なさから来る不器用さゆえに。魔法使い以外の人間とさほど接した事がないゆえに。
いっその事、自分が構築した強制認識術式で裏世界の事を頭に叩き込もうかと考え、そんな事を平然と考えている自分の傲慢さに反吐を吐きそうな思いをしたこともある。
結局、そんな葛藤こそが些細な事だと思い知ったのは彼女と何度か会って、いつか自分の生まれ故郷で旅館でも開いて過ごしたいという彼女の夢を聞いた時だ。
それまでいつ成果が出るか分からない研究を続けてきた男は、ただ先の事を考えるのではなく、夢を持つという事を久々に思いだした。
そこから男は変わっていった。研究で疲れ果ててやつれていた顔には生気が戻り、陰鬱だった雰囲気はどこかへと消し飛んだ。
男は表の世界に入るための準備を終えると同時に魔法を捨てた。
そして女性と仲を詰め、愛を告白し、結ばれた。
二人で共に小さめだが旅館を建てて、彼女の――そしていつしか男の夢にもなっていたそれを叶えた。
経営は苦しかったが、それでもなんとかなった。妻となった女性の料理の腕は、家庭料理の範囲で上手いと言えるレベルだったが、それが静かに口コミで広がり、客も年々増えていった。
だけど――
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「なるほど……よく分からない文字で読めん所も多いが……これが黒幕の……ユウキの親父さんの『願い』か」
葵とユウキは、未だに行方が分からない古波を探すために、旅館の中を歩き回っていた。
ユウキ曰く、今は全ての部屋が普通につながった状態となっているため、安心して歩きまわれるらしい。実際、あの異様に白かった不愉快な通路は消えており、配置こそ変わっていたが、ただの旅館のそれとほとんど変わらなくなっていた。
もっとも、弊害としてこの建物の中を熟知しているユウキにも古波がどこにいるかは分からなくなってしまったらしいが。
古波を探しまわっている内に、葵達はある書斎の様な部屋へと辿りついた。
そこは、まるで誰かが何かを探していたのかのように少し荒らされていたのだ。
ひょっとしたら古波が何かしたのかと思い中に踏み込んだ葵が見つけたのは、机の上に広げられていた一冊の手帳――日記だった。
一人の男と女が共に小さな旅館を開き、出てくる様々な問題を共に解決していく過程が書かれていた。女性の葬式を終わらせた記述の次のページから、不可思議な言語で書かれるようになっており、完全に理解する事は不可能だったが、所々日本語で書かれた所には『蘇生』や『再活性化』等と言った言葉が書かれていた。
その合間に、まったく脈絡なく女性の名前――妻の名前が漢字が書かれていた。恐らく彼女を息返らせたかったのだろうと、葵は推測した。
葵はペラペラとページをめくって、最初のページをもう一度開く。そこには、日本語で書かれた、この日記の執筆者の決意があった。
「父さんはその言葉をずっと言い続けていました。必ず、必ずって……」
「そう……か……」
葵は、その言葉をなんとなく指でそっと、横になぞる。
『悲劇を覆す』
見開きには、かなりの筆圧で走り書きしたのだろう、インクが滲んだ汚い文字でそう書かれていた。
「悲劇を覆す。……悲劇を覆す。悲劇を――」
――悲劇を覆す。
その言葉が、妙に葵の頭の中に響いた。
まるで、誰かがそう言っているのを聞いた事があるような。……あるいは、自分が言っていたような奇妙な感覚が葵の身体に広がる。
「うぅ……っ!?」
途端に、葵の身体に寒気に似た何かが走った。
自分の身体の内側にまるで何かが入った様な……あるいは何かが中から生えたかのような感覚だ。
「だ、大丈夫ですか? 顔色が……」
「……あぁ、大丈夫大丈夫。心配掛けて悪いね、ユウキ」
ともあれ、この部屋に古波はいなかった。
これ以上ここにいる必要はないと判断した葵は、日記をそのままにしてユウキと部屋を出て行く。
奇妙な頭痛による不快感と共に、どこか悲しげな――鈴の音が鳴っているような音を聞いたような気がした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「妻は子供と……祐樹と引き換えに命を失った!」
男の叫びはまだ続いている。
今まで誰とも話さず、貯め込んできた悲しみや想いが噴き出しているのだろう。嗚咽が交じりだした声で、男は龍宮に向かって叫び続ける。
「それだけならまだ我慢できた! 私にもまだ守るものがあったからだ! でも……その祐樹も……!」
男はもう一度、水槽に手の平をバンッと叩きつけた。
「だったら……当り前だろう!? あの日に戻りたいと思うのは……もう一度会いたいと願うのは! 違うのか!?」
その想いは、その願いは龍宮にも理解できた。
かつて捨てられていた自分を拾ってくれた恩人。自分が『龍宮真名』となるきっかけをくれた人。
その大事な人も、くだらないしがらみで死んでしまった。
何度世界を呪った事か。何度あの日をなかったことにしたいと思った事か。
「必死に蘇生の術式を構築した。全て上手くいくはずだった。なのに! 妻は身体しか構築されず、息子は形だけの出来損ないしかできなかった!」
ふと、龍宮は一番高い水槽の近くに子供が一人いる事に気が付いた。
膨大な魔力を込められた魔法薬で満ちている水槽越しだったから、今まで気が付かなかったのだ。
だが、その子供の方など全く気にしていなかった。なぜなら、男は壊れているから。
ただ哄笑を上げて、その場にへたり込んでいる。
その姿に龍宮はふと思う。
自分もこうなっていたのだろうかと。
龍宮の家の人間に受け入れられず、あのまま一人になっていたら……と。
(だけど……私は今、龍宮真名としてここにいる。過去はどうあれ……私は……)
拳銃を握る手に力が入る。
龍宮は、一度全てを失ったと思っていた自分がどれだけ愚かだったのか。どれだけのものを残されていたのか、そしてどれだけ恵まれていたかを目の前の男と対比することでようやく理解した。
自分の素姓を知った上で、娘と呼んでくれる人がいる。
肩を並べる戦友がいる。
そして、――背中を任せられる人がいる。
龍宮真名と言う存在は、これ以上ないほどに恵まれている、と。
「あなたの気持ちは……分からなくもない」
龍宮は心の底からそう呟いた。
分からなくはない。文字通り、一歩道が違えば自分もこうなっていたかもしれないからだ。
「だが、幸せを取り戻すことと、不幸をなかった事にするのは似て非なるものだ。あなたのその願い、叶えさせるわけにはいかない」
だからこそ、龍宮は目の前の男を否定する。
男はその言葉を予想していたのか、嗤うのをやめて龍宮を見る。
もっとも、その焦点はどこか虚ろである。
「黙れ! 人外風情が分かった様な口をよくも……!」
「……気が付いていたのか」
「ただの人間がそれほど質の高い魔力を大量に内包できるはずがない。研究者なのだからそれくらい分かる!」
そう言いながら男は再び立ち上がる。正気を失っているのは明らかである。
ふと、水槽の魔法薬の水位が目に見えて下がり出している事に龍宮は気が付いた。
恐らく、葵がとったであろう行動に関係あるのだろう。となれば、このままだとあの女性の身体は持たないのではないかと、疑問に思った。
「あの忌々しい男のせいでもう妻の身体は持たん。急いで修復に時を費やせばどうにかなったかもしれんがもう遅い。だったら……来い!」
男は不機嫌な大声でそう叫ぶと、大きな水槽の横にいた子供――あの時森の中へと消えていった白い髪の男の子が、ふらふらとおぼつかない足取りで男の元へと来る。
「だったらもう一度最初からやり直すまでだ。元々、この出来損ないから妻を再生して、何度も複製して取り込ませることで妻の肉体を戻し、維持し続けたんだ。女、お前には魔力構成の贄になってもらうぞ」
「……そうか、そういう事か」
――取り込ませる
その言葉で、龍宮は目の前の男へ一切の手加減が必要ない事を確認した。
相変わらず焦点の合ってない目で龍宮を睨む男の横に、何も言わずに立ち続ける男の子。
心なしか、龍宮にはその男の子が泣いているように見えた。
「もはや、言葉は不要……か」
男はヨレヨレの服のポケットから手の平より少し大きい程度の金属製のカード――魔法発動体を取り出し、何事か唱えると同時に周囲に漂っていた魔力が収束し、水槽の中の魔法薬の力を借りて循環し、怪しく輝きだす。
「そんな事をすれば、貴方の妻が苦しむことになるぞ! そして、また何度も貴方の息子を殺すことになるんだぞ!?」
「生き返らせてから謝る。それにコイツはただの素体だ、息子じゃない!」
瞬間、龍宮は銃口で男の額に狙いを定め、引き金を引いた。
甲高い炸裂音と共に発射された鉛玉は、それとほぼ同時に水槽を割って飛び出した魔法薬の壁によって絡め取られた。
「あの日を悲劇を覆すために、お前はここで死ねぇっ!!」
男が杖を振るうと、魔法薬が今度こそ勢いよく水槽から飛び出て意思のある生物の様にグネグネと形を変える。
その形状は、例えるならば太い蛇が数匹絡み合っている様な姿だった。もっとも蛇のようと言っても頭はなく、頭があるべき箇所は全て棍棒のように丸くなっている。
それらが膨大な魔力を垂れ流しながら、龍宮に喰らいつこうとうねっている。
「大した魔力だが……それだけだね。これなら先輩を怒らせてしまった時の方がよっぽど怖かったよ」
だが、龍宮はそれに対して全く恐怖を感じなかった。
確かに膨大な魔力の塊であり、一見脅威に見える。が、それ以上に今の龍宮は怒り狂っていた。
「本来ならば捕縛するのが筋なんだろうけど、『貴様』にその価値はない」
左手で一度しまった拳銃をもう一度引き抜き、構える
「喜んで欲しい。運がよければ貴方はまた会えるんだ。奥さんにね」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「なるほど……この魔法薬は、循環させることで中に入っている物体の形状を操作する事が出来るのカ」
葵は破壊した術の構成、演算装置と言いかえることもできるソレが設置されていた部屋に、古波涼奈を名乗っていた少女はいた。
狙っていた術式が、自分が必要としていた条件に合致しない事は分かっていたが、新たな術の構築のヒントになる可能性は十分にあったのだ。加えて、自分すら最初は自覚できなかった程の高度かつ強力なこの術式は、戦術的な切り札になりうるものだった。
そのために、葵を避けながらこの部屋へと辿りつき、調べていたのだが――。
「しかしまぁ、篠崎サンも念入りに破壊してくれたものだヨ。これじゃあ演算部分の解析には時間がかかるネ」
少女は深いため息をつく。少し足を動かすと、『ぴちゃっ』と水音が響いた。
演算装置があったこの部屋は、魔法薬で一面水浸しとなっていた。もし部屋の扉を閉めっぱなしにしていたら、軽いプールのようになっていただろう。葵が派手に壊した水槽やパイプはどこか違う場所へと繋がっているらしく、今も魔法薬が大量にどこかから流れ落ちている音がする。
会話した時や、先ほど覗いていた時の様子から恐らく篠崎葵は魔法と言う存在を知らないのだろうと少女は予測を付けていた。
(一般人に、こうもあっさりひっくり返されるなんて……所詮は実戦経験のないただの研究者カ。自分の術式に絶対の自信があったんだろうガ……詰めが甘いネ)
「最も、私が言える言葉じゃない……カ」
自嘲する様な呟き後、苦笑めいた表情を見せる少女。
結局魔法薬以外に関しては今すぐに調べられるものではなく、機会をみて調べ直さないと難しいと判断した。これ以上はこの部屋にいても仕方ない。
少女は、どこからか試験管を5本取り出して部屋の奥――今も魔法薬が流れおちている所へ行き、それぞれを魔法薬で満たす。
後は、部屋を出て再び古波涼奈となり、素知らぬ顔で葵と合流しようと計画を立てる。
――ぴしゃ、ぱしゃ……ぱしゃ、ぱしゃぱしゃぱしゃ……。
ふとその時、足元の液体が震えだした事に気が付く。
最初は歩いている自分の足音かと思ったのだが、何か違和感が残る。
一拍置いて、その違和感が魔法薬の流れ落ちる音が小さくなったことだという事に気が付いた。
「……あの男カ?」
少女の脳裏に浮かんだのは、一度は自分を完全に手中に置いてみせた、髪も髭の伸ばしっぱなしの男の顔だった。
少々危険かとも思ったが、少女は地面にぶちまけられている魔法薬に直接手をつけてみる。
振動こそ起こっているものの、どうやらこちらにまで干渉はできないようで、ただ薬品が震えているだけである。
唯一少女に理解できたことは、この周辺の魔力が一か所に集束されているということだけだった。
状況を理解した少女は、その可愛らしい顔を苦々しげに歪めた。
「彼女と戦っているのカ。バカダネ」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「なぁ、ユウキ。気のせいか? なんかさっきから俺の第六感とか、危険に対する経験則とかそーいったものが『ココヤバイ!』って叫びまくってるんだが」
行方不明の古波を探して片っぱしから目に着いた部屋を調べている葵だが、未だに彼女は見つからなかった。
葵の背中に悪寒が走ったのは、ちょうど20になる部屋のドアを開けた時だった。
「むしろ、そんな経験則が出来るくらい危ない目にあって、そしてさっきまでが危なくなかったみたいに言うお兄ちゃんの方が色々ヤバいと思うんだけど……」
「…………中々言う様になったなユウキ」
かなり本気で憐みの目を向けてくるユウキから思わず顔を背けて、だがすぐに真面目な顔へと戻る。
(とりあえず佐々木のドアホウとユウキだけでも先に脱出させるか? ……でも道案内ができるのはユウキだけだし……)
今の地下は、変貌していた通路が元のあるべき旅館の通路へと戻った事により、先ほどまでの分かりやすい一本道ではなくなっていた。
さすがにそれほど複雑という訳ではないが、それでも適当に歩いていたら大いに時間を無駄にしてしまうだろう。
「ユウキ、とりあえず佐々木――あの涎をたらしながら寝言をほざいていた馬鹿を回収して一度外に出よう」
「お姉ちゃん達は?」
「一度外まで連れて行って、それからもう一度探して回る」
龍宮の腕前ならば、あのよく分からない超技術さえ封じてしまえばそうそう負けたりはしないだろう――とは思うのだが、それでもやはり心配だった。
出来る事ならばユウキに佐々木を任せて外に出てもらい、自分一人で駆け回ってさっさと古波を探し出してから龍宮の元に向かいたかった。
「お兄ちゃん一人で大丈夫なの?」
「多分な。少なくともさっきまでのような危険はもうないんだろう?」
「うん。その……でも……」
確認の意味を込めて、葵がそう尋ねる。すると、ユウキは肯定を返すもののどこか歯切れが悪い。
何か気になる事が残っているのかと尋ねようとした葵だが、その言葉は口から出なかった。
「篠崎さん! ご無事でしたか!?」
後ろから聞きなれた女の声がしたからだ。
「古波さん!?」
走って来たのだろうか。壁に手をついて切らした息を整えている。
「よかった……。直人さんともはぐれてしまって……」
「佐々木なら確保しています。この通路を真っ直ぐ行って、突き当たりの近くに灯りを付けている部屋がある所で……その……寝ています。恐らくは……」
「? 恐らくは?」
念のために、一度ユウキと共に佐々木の居場所は既に確認しておいた。
あいも変わらず寝ており、おまけに寒いのか全身に鳥肌が立って微妙に震えていたので、上から叩きつけるようにありったけの布団をかぶせてきたのだ。
多分、まだ生きている。
正直、何か寝顔に腹が立ったからといってやりすぎたような気もしなくはない。
「まぁ、とりあえずは無事でよかった」
「あの、龍宮さんは?」
「途中ではぐれてしまって。今から探しに行く所なのですが……古波さん?」
「はい?」
「……いえ、あの……先に佐々木の所に行って待っていてもらえませんか?」
気のせいか?
ふと、葵は館に踏み込んだ時の龍宮の様に、今の古波にも違和感を感じた。
具体的にどこに違和感があるのかと問われれば、葵は迷わず『全部』と答えただろう。
仕草、顔つき、雰囲気など、挙げればキリがない。
例えるならば、目の前にある好物に手を伸ばしたくて仕方がないのを必死に抑えている子供の様に見えたのだ。
あるいは――獲物を前に今まさに飛びかからんとする猫か。
何にせよ、あの休憩室で楽しげに団欒していた時とは違う印象が彼女から溢れ出ている。
冷や汗をかくほどに――
「葵さん、大丈夫ですか? 顔色が悪いですけど……」
「――っ!?」
不意にかけられた声で、葵はようやく思考の内側から抜け出した。
「あぁ、すみません。まぁ、そういう訳です。こっちは大丈夫ですから、佐々木の傍にいてください」
「それは構いませんが……篠崎さんは?」
「自分は……」
正直なところ、もうこのまま全部龍宮に任せて、脱出に専念してもいいんじゃないか。
先ほどからそんな考えが浮かんでくるが、それが龍宮への信頼ではなく、自分自身の恐怖から来るものである事を、葵は理解している。そして、そんな意思から産まれた選択肢を肯定するはずもなかった。
「ちょっと、相方を迎えに行ってきます」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「なるほど、如何に魔法使いとして、研究者として優れていても、それが必ずしも戦闘の強さに直結するわけではない……か……」
普通の魔法使いが見れば、腰を抜かして逃げだすだろう膨大な魔力が渦巻いている部屋の中で、龍宮は素知らぬ顔で立ち続けていた。
辺りには、複雑な水槽の間を縫う様に、液状の魔法薬で構成された大蛇が何匹も彼女に向かって飛びかかっていく。
だが、龍宮は――こちら側の世界でもっとも有名な傭兵は、その場からほとんど動かず、僅かな体捌きとその対極と言える激しい銃捌きで、その全てを片っぱしから粉砕していく。
――ドパパパパパパパパパンっ!!!!!
ありとあらゆる方向から迫ってくる大蛇の身体に、銃弾の嵐が叩き込まれる。
いかに生々しいリアルなものだといっても、所詮は象られただけの大蛇は、声を発する事もなく弾け散り、ただの液体へと帰っていく。
「くそ! くそ! 邪魔を……するなーーーっ!!」
男が吠える。自分の道を阻むなと、願いを叶えさせろと呪文を唱え、膨大な魔法の矢(サギタ・マギカ)を盾としている大蛇の壁の向こう側から放つ。確かに脅威と言えば脅威だろう。
だが、それも所詮は戦う人間からすれば大した事のないモノだ。
龍宮は、即座に自分が羽織っているスキーウェア――万が一に備えて対魔法用の妨害術式を編み込んだそれを即座に脱ぎ捨て、自分の前方にかざす様に放り投げる。
それがサギタマギカと接触すると、同時に激しく発光した。術式が発動した事を示している。ひと際眩しい、緑の光が部屋を一瞬照らしたかと思った次の瞬間、全てのサギタマギカはあらぬ方向へと吹き飛び、水槽や壁へと激突し、爆ぜていく。
「貴方は確かにすばらしい研究者だったのだろう。だが、外の世界に無関心すぎたな。外の世界の戦いは……こういうものも作りだしたのさ。高価な上に使い捨てだけどね」
そして彼女の言葉と共に、一発の銃声が鳴り響いた。
遅れて聞こえてくるのは、金属が砕け、床に散らばる安い音。
龍宮は、妨害術式による発光現象を目くらましに使い、その隙に相手のカード型の発動体を見事に拳銃で撃ち抜いたのだ。
「あ……あぁ…………お、おのれ……っ!」
「チェックメイト。……これが最後だ、降参してくれ」
銃口を僅かに動かし、今度は額に狙いを付ける。
正直、相手の実力はともかく魔力の膨大さは、確かな脅威に違いないのだ。
もし、目の前の男が戦いのコツやテクニックを身につけ出したら、この建物自体に大きな被害が出るだろう。そうなれば、上にいる葵達にも被害が行く。
(……ここで終わらせよう)
罠にかかるという無様を晒した自分を拾い上げてくれた葵に「後は任せろ」と大事を言った後で、葵にまた面倒をかけていれば世話はない。
無理して殺す様な事はしない。逆に、必要ならば殺す。
それが傭兵として生きる龍宮の信条であり、生き方だった。
ただ狙いを定めただけでトリガーに指こそ掛かっていないが、男が妙な動きを見せてから指をかけ、引き金を引くまで数を数える間もなく実行出来る。
「あの男さえ……あの男さえいなければ!!」
やはり、失くした妻にこだわる男が、降伏するはずもなかった。
未だに諦めを見せないその目で、龍宮を睨みつけている。
動かないのは身体だけで、頭の中では彼女を再び捕らえる手段を必死に構築しているのだろう。
(ここまでか……)
龍宮は引き金に指を乗せ、僅かに力を込める――
――ピキッ……
彼女の耳に異音が入ったのは、ちょうどその時だった。
男にも聞こえたのだろう。怒りで真っ赤になっていた顔色を一転、青ざめさせて目だけで周囲の異変を探っている。
その答えが、次の瞬間にはすぐに現れた。
男からさらに2,3mほど離れた後方に存在する、この魔法陣の中心部。女性の形をした『ナニカ』がぷかぷかと漂っているひと際高い円柱型の水槽。
その障壁に、大きな亀裂が走った。
そして、水槽の中の「ナニカ」は、
「っ!! おい、逃げろ!!」
咄嗟に、龍宮はそう叫んだ。
殺そうとしていた相手にかけるような言葉ではない。だが反射的に叫んでいた。
男は、その叫びに何があったか気が付き、咄嗟に後ろを振り向く。
その男の視界に入ったのは、やや高い破裂音と共に雨の様に降り注いでくる水槽の破片と、――水槽の中に蓄積されていた魔力の暴走により吹き飛ばされ、自分に向かって抱きしめるかのように飛ばされてきた、愛しい妻の姿だった。
「おぉ……」
男はそこに何を見たのだろうか。
まるで――いや、恐らくそうなのだろう。彼女を抱きとめるように腕を伸ばし……抱きしめ――
「……っ……あああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!!!」
――取り込まれた。
龍宮にはそう見えた。
水槽から弾き出された『ナニカ』が彼に接触した瞬間、龍宮の眼には彼女の身体の全身から細い糸の様なもの――おそらくは体毛だったのだろうか――が、男の身体へと突き刺さり、そして皮膚の下を蠢き、――彼と同化し、同じ存在へと変えていく。
もはや、女性の形はおろか、人の形も取れていない。ただの肉塊へと変わっていった。
「! 君! 急いで逃げて――!」
先ほどまでその存在を忘れていた、あの白い髪の子供を思い出し、そう叫ぶ龍宮だったが遅かった。
白い肉塊は瞬きすらしない少年に向かって鋭い一本の触手を伸ばし、そのまま貫いた。
「…………ヵ……ァ…………」
彼自身が、半ばその肉塊に近い特質だったのだろうか、触手が突き刺さった瞬間、初めて何かを口にしようとして……そのまま溶けるように、白い肉塊へと変貌していった。
「くそっ!」
白い肉塊は、床に零れ落ちている魔法薬に男の命を奪った目に見えない程の触手を伸ばし、まるで植物の根の様にそれを飲んでいる。
それで魔力を補充しているのだろうか、人間を取り込んだ時の様に急激に巨大化はしていないが、徐々にその身体を大きくさせ、そして魔力を蓄え出していた。
赤い魔力光が、白い肉塊を照らし出す。
「これは……少し不味い……かな」
油断こそしていなかったが、余裕の笑みも見せていた龍宮が、ここにきて初めて緊張からくる冷や汗を流した。