篠崎葵は心底驚き、困惑していた。
いよいよクライマックスかと思っていたその時に、いきなり女子生徒が飛び込んできた事。ついでにその肩には、ネギと共に今回の策を練ったオコジョがなぜか乗っている事。
本気になりつつあったエヴァンジェリンが、飛び込み参加のただの女子生徒に従者もろとも蹴り飛ばされ、地面を削るようにズザザーッと飛ばされていった事に。
そしてその勢いで少女がこちらに走ってきて『大の男が子供に何してんのよー!!』と叫びながら、回避する間もない見事なとび膝蹴りをアゴに決め、結果エヴァンジェリンと同じように自分が地面に這いつくばっている事に。
ネギの頭を鷲掴みにしていたことから、恐らくは敵(エヴァ)側の人間だと思われたのか、ただの暴力高校生と思われたのか……。
どちらもそれほど変わりはないのだが、せめて前者である事を葵は心の底から祈っていた。
(おぉ……まだ世界が揺れてやがる……)
真祖の吸血鬼よりも先に、女子生徒――制服からして恐らく龍宮と同じ学校の中等部の生徒――からダメージをもらうとは……。
そこはかとなく情けない気持ちになりながらも、揺れる視界と顎の痛みを我慢してどうにか立ちあがる葵。
エヴァもまた同時に立ちあがったが、蹴り飛ばされたときに打ったのだろうか片手で鼻を押さえていた。
よっぽど痛かったのだろう、軽く涙目になっている。
「くっ……おい葵! あいつらはどこに消えた!?」
加えて、あの少女はネギを引っ掴んだままどこかへと消えてしまっていた。
身を隠しただけなのか、あるいは逃走したのか……。
(とりあえず動揺を見せるのはまずいな。全て俺の計算通りだフハハハー! ってハッタリ決めたい所だけど蹴り飛ばされる所見られてる……よね?)
頭の中でこの状況をどう捌こうかと悩む葵だったが、悩む暇もない程にあっさりと事態は動き出した。
近くの鉄柱の物陰から、まばゆい光が溢れだしたからだ。
「ほう、そこかっ!!」
光を放った場所にネギと少女がいると判断したのだろう、そちらに向かおうとするエヴァを牽制するために、葵は袖に隠していた数個のビー玉を取り出し、気を流し込んでから投げつけた。
無論、その程度の牽制などまるでなかったかのように手ではじき飛ばすエヴァだったが、それでもやはり足並みは少し乱れてしまう。
その僅かな間の間に光は治まっていき、そして――
「お待たせしましたエヴァさん!!」
鉄柱の影から、少年と少女が堂々とその姿を現した。
『Phase.16 Who is she?』
「エヴァちゃん!!」
「くっくっく。よくもやってくれたな神楽坂明日菜。そして坊や、お兄ちゃんだけではなくお姉ちゃんまでが手を貸してくれるぞ? よかったなぁ……えぇ?」
ネギが少女――神楽坂明日菜というらしい――と共に現れて、場は再び硬直した。
彼女もまたネギの生徒で龍宮やエヴァのクラスメートだということを知り、なんとなく葵はその場で頭を抱えたくなった。
(古といい長瀬といい……3-Aっていうのはそういう人間の寄せ集めなのかね?)
なんとなくそんな事を考えながら、再び葵は鉄扇を構える。
龍宮との訓練でそれなりに持久力はつけていた葵だが、『闇の福音』という裏で一流の中の一流の敵とその従者を相手に、ネギ=スプリングフィールドの壁として戦い続けてきたのだ。その消耗度は、龍宮や葵が予想していた物よりもさらに上だった。
まだ10分にも満たない戦闘で、すでに体力は限界に近付いていた。
「ほう……どうやら優しいお兄ちゃんの方は既に限界ギリギリのようだな? どうする葵。なんなら休んでいても構わんぞ?」
やはりそれを見逃すエヴァではなかった。
葵も、エヴァへのハッタリやネギを不安にさせまいと思って笑みを浮かべて外面だけでは取り繕っていたのだが、エヴァの観察眼によってあっさりと暴かれてしまった。
ネギが心配そうに葵を見上げ、明日菜もその目に後味の悪そうな光を浮かべて彼を見ている。先ほど蹴り飛ばした事を悔いているのだろうか。
内心で深いため息をつきながら、先ほどの様にネギの頭に手を乗せる。今度は指に力を入れず、本当に軽く手を乗せただけだ。
(事情を知っててギリギリまで放置したり、囮として利用したりしてる分際で『優しいお兄ちゃん』はないと思うんだけど……)
軽くネギの頭を撫でながら、エヴァの発言の内容に葵は苦笑を浮かべてしまう。
(俺が『優しいお兄ちゃん』だっていうんなら、弟にこんな顔させるのはマズいよなぁ……)
そしてなにより、自分よりも年下の二人からそんな視線を受けて、簡単に弱音を吐いて彼らに戦いの主軸を任せる程……篠崎葵という男は図太く出来ていなかった。
「おや、これが『貴女』には疲れているように見えるのかい? 闇の福音」
だから、篠崎葵は再び――自分の意思で『役者』となった。
ネギ達から見て盾として、矛として十分に――十分すぎるほどに役に立てる強者であると見せるために。
エヴァンジェリンに、ネギでも明日菜でもなく――自分こそが最大の敵であると魅せるために。
休息を求めて痛みという名の信号を送ってくる肉体を意志――というより意地やら見栄といったものの力でねじ伏せ、ネギの頭から手を離すと同時に二人より一歩前に踏み出し、舞う様にゆっくりと純白の鉄扇を広げて、静かに微笑んで見せる。
明日菜はまるで別人のような雰囲気を出した葵を唖然と見つめ、ネギはその姿を見てホッと一息ついた後に気を引き締め直し、エヴァと茶々丸に向かって杖を構える。
そして対するエヴァは――ネギ達には分からない程度に静かな笑みを浮かべていた。
やはり目の前に立つ男は『こちら』の方が自分の好みに合っているという事実のおかしさ。
自分が今この中にいる人間の中で一番の弱者でありながら――そして恐らくそれを自覚しながらも強者を演じようとしている目の前の『三流役者』の馬鹿らしさ。
強者を演じる理由が、恐らくはネギ達への負担や不安を少しでも減らすためだろうという事に――いわば、ある意味で強者らしい彼の行動へのある種の敬意。
なにより、その三文芝居に乗ってやろうという気持ちになっている自分への呆れ。
それらがエヴァの中で混ざり合って、苦笑じみた笑みが顔に出そうになっていた。
「なるほど……。本気を出す。そういうことだな、葵?」
切ってない札はあるけど基本さっきからずっと本気だったよ!! と頭を抱えながら叫びたい葵だが、エヴァがこちらの芝居に乗ってきてくれたという事を理解していた。
一方、ネギは「本気を出す」という言葉から葵がまだまだ力を隠していたと思い込んだらしく、尊敬に目を輝かせて葵を見ている。
とても良心に響く視線だったが、今は都合がいいと思い込むことにして葵はネギに後ろ手でこっそり、二人で従者を狙えと指示を出す。
葵は振り向かなかったが、自分の後ろでネギが頷くのが分かった。
そして葵は、更に一歩エヴァに向かって足を進める。
「あの夜と同じだね。貴女が誰かを襲おうとしていて、そしてその前には俺がいる」
「フッ……そうだな。違いがあるとすれば、襲う対象が倒れているか反撃してくるかの違いといった所か」
すでにエヴァの目にはネギと明日菜は映っていなかった。
今この時、エヴァは葵を真祖の吸血鬼に相対する『敵』だと認めた。
「さぁ、いくぞ役者!」
既に武器を失ったエヴァが取れる手段は一つ。己の肉体による格闘戦だけだ。
それは誰の目にも明らかな事。葵も当然そう来るだろうと推測していた。
自身の警戒レベルを最大に引き上げ、エヴァンジェリンから一瞬たりとも目を離していなかった。
だが、エヴァが戦闘の開始を宣言した瞬間。
――既に彼女は葵の目の前にいた。
「は?」
余りにも唐突に眼の前に現れた少女に対して、葵は目を丸くして驚くしかできなかった。
いや、反射的に鉄扇を彼女の首めがけて走らせていたが、エヴァは不敵な笑みを浮かべたまま鉄扇を握る手に、そっと自分の手を重ねた。
――重ねただけとしか見えなかった次の瞬間、葵の体を宙へと放り出されていた。
「!!?」
一拍遅れて自分が投げ飛ばされた事に気がついた葵は、身体を捻ってバランスを取り戻して地面に着地しようとした。
が、その着地しようとしたそこには既にエヴァが待ち構えていた。
着地しようとしていた足に、彼女は自分の足首を絡めると思った次の瞬間には先ほどと同じように何をされたかも分からないまま、葵は地面に激しく叩きつけられていた。
葵の口から、肺に溜まっていた空気が一気に溢れる。
(なんだこれ!? 糸もないのに……お前魔法使いだろうが!)
悪態をつきながら思考を巡らせ、咄嗟に葵が思いついたいくつかの反撃方法。その中で即座に行動に移せそうなものを選択する。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「どれだけ粋がっても、所詮は付け焼刃か!」
葵が思考に集中している間に、エヴァは葵の首を掴み持ち上げる。身長差がかなりあるので足は地に着いているのだが、身体に力が入らない葵はされるがままとなっている。
「ほらどうした。ここでお前が倒れれば私は坊や達の方に向かうぞ? ん?」
そう言いながらエヴァは葵の意識を一撃で狩るべく、足を一歩引いて力を込め――
気が付いたら空を仰ぎ見ていた。
「――なにっ!?」
足を引いて構えを取ろうとした時に、足に何かが引っかかってバランスを崩したのだ。
倒れながら、咄嗟にエヴァは葵から視線を外して自分の足元を見る。停電で明かりが全て消えているため分かりづらいが、月明かりに照らされてようやく足元に絡みつくそれが見えた。
(糸……!? なぜ……そうか先ほどの!)
エヴァの脳裏に浮かんだのは、神楽坂明日菜が現れる直前までのやりとり。
こちらが放った糸を葵が掴み取って自分の武器として使用した時の事だ。
あの時咄嗟にエヴァは掴まれていた糸の魔力を解いて切断したのだが、恐らくその時に切断した糸を回収していたのだろうと当たりをつける。
(偶然……いや、私が糸を切断する事まで計算に入れていたのか!)
不味いとエヴァが判断した時には、葵はもう一度体に力を込め、その身体と鉄扇にありったけの気を巡らせて向かってきていた。
「っおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!」
葵が渾身の力を込めて振るった鉄扇は、隙だらけの上に魔力による防御も間に合わなかったエヴァの脇腹にめり込み、そのまま彼女を吹き飛ばした。
「か……っは……!」
喉の――腹の奥から熱いものが込み上げてくるのを感じながら、エヴァは衝撃を逃がすために咄嗟に捻った体を更に動かして態勢を立て直す。
どうにか地面に着地した時には肺に血が入ったのか咽込み、口から少し血を吐きだした。
(久々だ……ここまでダメージを受けるのは……本当に……)
結界に封じられているとはいえ僅かに生きている再生能力のおかげで、かなりゆっくりだが痛みが引いていく事をエヴァは不快に感じた。
今更ではあるが、やはり自分の体が人間ではなくなっている事を思い出させるから。
なにより、自分がここまで追い込まれたという事実――この闘いの記録があっさりと消えていくようだったから。
ふと自分が戦闘中だという事を忘れている事に気が付き、自分に一撃喰らわせたというのに追撃して来ない葵を不審に感じてエヴァは目線を彼の方に向ける。
そして彼女は理解した。追撃を仕掛けてこなかった訳を。
(そうか……。そういえばそうだった。貴様は気も魔力も常人以下だったな……)
追撃を仕掛けてこないのではなく、仕掛けられない。
どうにか笑顔を保っているが、その姿はどう見ても限界を超えていた。
葵は息を切らしながら、エヴァに向かって鉄扇を構えて――そこから動く事が出来なかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
(まぁ……さっきから既にバテバテだったってばれてたし、気がつかれても仕方ないのかな)
エヴァと葵は互いに睨みあいながら、ただその場に立っている。
エヴァの後ろでは茶々丸とネギ達の戦いも激しさを増し、そろそろ決着がつきそうだった。
葵から見る限りでは、ネギと神楽坂明日菜の方が有利に見える。
葵にとって嬉しい誤算だったのは、今ネギと肩を並べて戦っている少女が葵の想像以上に戦える事だった。
その状況を好機と思う一方で、一か月訓練した自分以上にそれらしく戦えている少女に内心嫉妬したり、ネギ同様年下の――しかも一般生徒と思われる女の子を戦わせている自分が情けなかったり、ついでにその勢いで目の前の吸血鬼もう一度蹴り飛ばしてくれと思ったり等、頭の中で様々な感情がごちゃまぜになって混乱気味になっていた。
(いかんいかん、冷静にならんと……)
今現在切れる切り札はない。糸を使った牽制と攻撃で相手にそれなりのダメージが入ったのはよかったが、結界内でも吸血鬼の不死性――再生能力がこんなにも高いとは思っていなかったのだ。
最低でも相手の行動が鈍る程度のダメージを与えられていれば十分と考えていた葵だが、エヴァの身体能力はそれを超えていた。
結界で能力がかなり落ちているはずなのにも関わらずだ。
(もう、出来る事は一つしかないか。正直、一番取りたくなかったけど……今切れる札なんてないし……)
葵に思いつく策で残されたのは一つだけ。ただただエヴァを引きつけ、時間を稼ぐ事である。
もはや体力も気も限界を超えている葵は、個人でエヴァに勝利する事を諦めた。
元々の作戦が失敗して、神楽坂明日菜というイレギュラーが発生してどうにか現状維持できているのだ。葵からすれば大敗もいい所である。
せめてこの戦いの大まかな絵を描いた人間として、巻き込んだネギと明日菜の勝利だけは確約しなければならない。
幸い、このままいけばエヴァはネギと明日菜を相手に二対一で戦うことになる。仮契約までした上に、自分よりもよっぽど戦い方が様になっている彼女なら、ネギも安心――は出来ないかもしれないが、詠唱には十分な時間は稼げるはずだ。
正直な話を言えばネギ達にとって裏では勝利がすでに確定されている戦いだが、それでも万が一の場合がある。
エヴァにとっても納得できる敗北を用意してやりたいし、ここでネギ達に有利な場を作っておけば、彼女も事態を収拾させやすいだろう。
そこまで考えた葵は、少しでも体を軽くするために羽織っていたブレザーをその場に脱ぎ捨て、もう一度鉄扇を構える。
もはや、葵にはそれしかできる事がなかった。
構えるのを待っていたのだろう。葵が構えた瞬間にエヴァが飛びかかって来た。
そこからは、やはりエヴァにとって一方的な展開になる。
葵が鉄扇を振るえばそれを逆手にとって一撃を食らわし、こちらの攻撃を避けようとすればその動作の隙を狙ってコンクリートの上に倒し、転がせる。
葵も執念に近い気合いで何度かエヴァに打撃を入れるが、もはやエヴァが魔力で防御膜を張っていなくともほとんどダメージは入らない程の微弱な威力だった。
「どうした葵! さきほどの啖呵はただの飾りか!?」
そう叫びながら、エヴァは葵の胸目掛けて掌底を叩きつけようとし、それを葵が鉄扇で受け流す。そして、空いた手でエヴァの首を突こうとするがその腕を取られ、またも宙へと投げ飛ばされる。
葵は気を流し込んだ隠し持っていた手持ちのビー玉を全て投げつける事で牽制し今度は足元こそ掬われなかったが、一気に踏み込んできたエヴァの掌底をほぼ完全な形で受けてしまった。
一瞬呼吸が止まり、視界が定まらなくなる。
何も見えなくなる瞬間、うっすらと再びネギ達の戦いが見えた。
神楽坂明日菜が茶々丸の攻撃を驚異的な動体視力と運動神経を持って受け止め、その隙にネギが呪文を詠唱している。
その光景に、葵は奇妙な感覚を覚える。
(デジャ……ブ? 前に……似たような物を見た記憶が……)
(そうだ、ネギ――と明日菜サンがエヴァと茶々丸相手に……)
(自分はそれを……どこかの部屋で……誰かと一緒にモニター越しに――)
――見ていた……?
――なんで?
――しらない……。
――でも俺は……ワタシは……ワタシ……?
――違う……俺は俺。ワタシって……誰……だ……?
薄れ行く意識の中で思い出せなかった『ナニカ』が噛みあっていく。
自分の失った記憶……ではない。それとは違う物だと勘が伝えていた。
そして、これが自分の根幹にかかわる事だと『ナニカ』が言っている。
――スマナイ……シノザキサン……。
薄れゆく意識の中で、どこかで聞いた事があるような女の声が聞こえたような気がした――。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
(こんなものなのか……? この程度で終わるような男なのか、お前は?)
自分の掌底を受けて崩れ落ちた男を見下ろしながら、エヴァは失望のため息を吐く。
もっと足掻く姿を見ていたかった。
もう少し時間を置いて、鍛え抜いたコイツと戦ってみたかった。
なにより、もっとこの男の戦う姿を見ていたかった……と。
魔法の発動体も兼ねて自作した武器は数あれど、その中でなぜエヴァは鉄扇という扱いづらい武器を素人の葵に渡したのか。
理由は単純なものだった。
この男には必ず似合うとエヴァが直感したからだ。
180センチあるかないかくらいの長身に、なんらかの運動で鍛えていたのだろうしなやかな身のこなし。初めて出会ったときに見せた粘り強さ――。
気も魔力も貧弱な男だった。どれだけ鍛錬を積んでも、恐らくは二流止まりだろうとエヴァは理解している。
それでも……それでも。この男が戦う姿は恐らく美しいのだろうと思ったのだ。
それこそ、舞を舞う様に――
――だが、今その男は……篠崎葵はなすすべなく倒れている。
「あれだけ大口を叩いて、あれだけ格好つけて……これなのか? いや――」
エヴァの後ろでは従者がネギ達と戦っている。恐らく従者は負けるだろうと彼女は感じていた。
そういう意味では、この男――篠崎葵の思惑通りに事は運んでいる。
自分がわざと芝居に乗っかった所があるとはいえ、よくぞここまでという気持ちもある。
しかし、それよりも大きな孤独感に似た何かが彼女の胸を占めているのも確かだった。
「そう……だな。よくやったよ。お前は……。この私と対等に戦うために全力を尽くしたんだ」
後ろから声が聞こえてくる。従者の謝罪の声と、ネギ達の勝利の歓声だ。
そろそろ、この茶番の幕を下ろさなくてはならない。
(まぁ、そこそこには楽しめたよ。葵)
エヴァはゆっくりと振り返る。ネギ達と戦うために。ネギ達に破れるために。
――振り返ろうとしていた。それが目に入るまでは。
(ん?)
それはほんの僅かな違和感だった。
振り返ろうとした時に、視界に入っていた葵の体が動いたような気がしたのだ。
まだ立ち上がるのか……立ち上がってくれるのかと、懇願に近い想いでエヴァは葵を一瞥して――
――その目は驚愕へと変わる。
――なぜなら、倒れている葵の傍らに跪いている、今まで存在しなかった女の姿があったからだ。
「な……ぁ……?」
あまりに突然の展開に、エヴァは口をパクパクして茫然としてしまう。
目の前に確かにいるはずの女から、その存在――気配というものが一切感じられないからだ。
さらによく見ると、その女の体は半分透けていた。本来ならその女の体によって見えないはずの向こう側がうっすらと見える。
俯いている上に妙な影がかかっていて顔は良く分からないが、エヴァはそれが恐らく自分のクラスメート達と同じくらいの年齢だと辺りを付ける。
その女が、うつ伏せに倒れている葵の背中に両手を当てて――いや、両手を葵の背中に『差し込んで』いた。
「なんだ……貴様は……」
女が手首まで葵の体に入ると、少女の姿は周囲に溶け込むかのようにだんだんと薄くなっていく。
それと同時に、葵の中に僅かに残っていた気が再び彼の身体の中を巡りだすのが感じられた。
量が増えた訳ではない。見ていて哀れになるほど虚弱な、残りカスと言っていい程の気だ。
だが、その気を最小限に、効率的に身体を巡らせればそれは立派な武器となり鎧となる。
今、エヴァの目の前ではそれが行われている。
ダメージの大きい胸部を気が駈け巡り、その後体力を回復させるために全身にうっすらと気が廻り出す。
どう見ても篠崎葵は気を失ったままだ。彼に気を操作できるような状況ではない。
そもそも、これほど完璧な――計算しつくされたような気の操作が、いくら奇妙な成長をするとはいえたった一カ月の修練で出来る筈がない。不可能だ。
ならば、それを行っているのは――誰だ……?
そこまで考えていると、女の姿が完全に掻き消える。
そして、彼はゆっくりと――
―― 篠崎葵はゆっくりと、もう一度立ちあがった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
(なんだ……変な夢を見ていた気が……)
妙にすっきりした――とまではいかないが、ボロボロにされていた先ほどに比べて少し身体が軽くなったように感じる。
(あれか、もう気を使い果たして肉体的にも精神的にもハイになってんのかね……終わった時にネギ先生が急いで俺を医者に連れて行ってくれる事を祈るか……)
葵の目の前には、先ほどまで自分をボコボコにしたにも関わらず、自分を警戒しているエヴァの姿があった。
(これもデジャブ……いや、違う。これあの時と同じだ)
いつでも飛びかかれる態勢を保ちながら、なぜか必要以上に警戒してかかってこないその姿に、葵は山での逃走劇で見ることになった龍宮の姿を思い出した。
「すまない。役者が観客を放り出して眠ってしまっていたようだね。これじゃあ三流と言われても仕方ないかな」
理由はどうあれ、身体が少し軽くなってことで心に余裕が出てきた葵はエヴァへの挑発を始める。
エヴァの後方で、勝利を収めたネギと明日菜が息を切らせながらこちらに向かってきており、3対1の形になった事も余裕が出てきた理由に入っていた。
ちなみに茶々丸は捕縛魔法で橋の隅に転がされている。
「篠崎葵……」
エヴァは後方にも注意を払いながら、ゆっくりと葵との距離を詰めてくる。
まるで観察対象の虫か動物を、驚かさないように近づく学者のように。
「篠崎葵。貴様には感謝するぞ。この退屈な15年が吹き飛ぶ程に……お前は興味深い!」
「おや、自分の舞は気に入っていただけましたか? お客様」
「……そうだな。あぁ、お前の舞も悪くない。だが何よりも――お前と言う存在そのものに興味を覚えたよ。お前という未知の存在。どれだけみっともなくとも、折り合いを付けて難題に立ち向かう姿。お前の役者としての在り方……には合格点をやれんな。強者を演じるならもっと傲慢になってみせろ。強者とはそういうものだ」
「これでも謙虚な人間であることが売りだからね。慣れない事を演じるのは難しいんだよ」
「なら、さらに演技を磨く事だな。この『闇の福音』が認めよう。お前の演技はいずれ誇れる才になる。おっと……正確にはハッタリと言うべきか?」
「はは……ハッタリときたか。なら、ハッタリが得意な三流役者として、貴女には皮肉の才能がある事を認めるよ」
「フン。600年も生きていれば口喧嘩にも強くなるさ」
いつぞやの桜通りを再現するかのように、互いに軽口をたたき合いながらも目を逸らさない。
もっともエヴァは、ネギの魔力がほとんど切れかかっているという事に気付きよ、主に警戒を葵と神楽坂の方に割いている。
(ネギ先生も結構ギリギリか。こっちから見る限りだと一応まだ魔法薬は残ってるみたいだけど……。神楽坂さんはまだまだ余裕があるけど契約執行は多用出来ない……となると)
ある程度回復しているとはいえ、それでもかなりの疲労がかかっている葵は、思考に霞がかかった様な状態で……それでもフルで頭を働かせていた。
(仕方ない。一か八かの賭けだけど……)
「さて、向こうの劇も終わったようだね。……なら、こちらも決着をつけようエヴァンジェリン」
「はっはっは! 少しでも余力が残っている内に決着を付けたいか? あぁ、結界の制限時間もそろそろか」
「そこまで推測されているのか。ならどうする? このまま睨みあうかい?」
相変わらずの軽口を叩きながらこちらの弱点を指摘してくるエヴァに対して、葵は堂々とその弱点を認めた上で挑発を行う。
ここで待たれたら、勝敗がどうなるにせよ葵の策が本当に破れた事になるからだ。
なんとしても、ここでエヴァと決着を――せめて後に続く様なダメージを残さなければならない。
まだ余裕があるように見せかけながら、ほんの少しだけ相手のプライドをくすぐる。
今の葵に要求されているのはそういう技能だった。
「くっくっく。良いだろう。決着をつけようじゃないか。お前には聞きたい事……いや、調べたい事が山ほど出来たからな。今ここでお前の鼻っ柱をへし折っておいた方が後々楽そうだ。あぁ、坊や達もかかってくるか?」
エヴァは後ろに立つネギと神楽坂に尋ねる。
即座に「やってやろうじゃない」と言い放つ程やる気に満ち溢れている神楽坂を、ネギは片手で制し、「邪魔になりますから」と言って一歩下がった。
それでも葵に全てを任せるわけではないという意思表示と、万が一には襲いかかるという覚悟を見せるためか、杖を構えて見せる。
(サンキュー。ネギ先生)
口には出さずにネギに感謝する葵。
一斉にかかれば火力・戦力は増すが、そういった訓練をしていない自分達が実際に行うとなると動きが読まれやすくなる。
なにより、今のネギに全力を出させたら後が続かなくなる。
最悪、ネギが最後に立っていれば葵の負けにはなっても葵『達』の勝ちにはなるのだ。
葵の内心に気がついたのか、彼女は不敵な笑みを浮かべるのと同時に、静かに身構えた。
心の中で、この茶番に全力で付き合ってくれているエヴァにも感謝の言葉を紡ぎながら、葵もまた鉄扇を構える。
ほんの二秒程、互いを真っ直ぐに見据えてから、最初に動いたのはエヴァだった。
「フッ」と一息吐くのと共に、先ほどと寸分違わぬ速さで葵の目の前に躍り出る。
先ほど一度その速さを見ていた葵は、エヴァが一息吐いた瞬間に、あえて一歩前に踏み出ていた。
後ろに下がった所で次の行動に上手く続けられない程度の考えで動いたのだが、それが事態をいい方に転がした。葵の顎を狙ったエヴァの初撃が微妙にずれ、葵の頬に傷を作っただけで済んだ。
すかさず葵は鉄扇を、同じくエヴァの顎を狙って振るう。もうこれが最後のチャンスだと理解している。
切れる札は全て切った。『葵個人で切れる札』は全てだ。
顎を狙い一閃させた鉄扇を避けられ、葵は即座に鉄扇を翻しもう一撃加えようとする。
そして鉄扇を翻すのと同時に、葵はネギに目で何かを促す。
「無駄だ! その程度の気ではもはや私にかすり傷すら与えられんぞ!」
「そうだね。俺の気ではもうどうしようもないなぁ!」
二撃目は鉄扇そのものを弾かれ、今度はエヴァがもう一度葵に攻撃をするがそれを葵は自然に受け流す。
「……っ! 貴様、やはり身体に戦い方を染み込ませたな!? この十数分の間に!」
「何の事だか……! それが出来たら初めからやっている!」
エヴァは叫びながら更に跳躍し顎に一撃を入れる。だが、葵はそれに耐えると活歩を用いてエヴァにほぼ密着するくらいに間合いを詰める。
既に何の役にも立たない気はここで解除する。
そして――それまで使えなかった切り札を切る。
ネギ=スプリングフィールドが――
「契約執行5秒間! ミニストラ・ネギィ『篠崎葵』!!」
「なにっ!?」
ネギが声高に呪文を唱えるのと同時にネギの魔力が葵へと流し込まれ、その身体能力は葵が気を纏っていた時よりも遥かに高い身体の向上を見せる。
元々発動体としても作成されていた鉄扇にもその魔力は伝わり、葵と同じくネギの魔力光に包まれる。
「エヴァンジェリン――っ!!」
叫ぶと同時に、真っ直ぐ前に突き出した鉄扇がエヴァの胴体にめり込む。
篠崎葵が用意した最後の札。それが今、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルに喰らいついた。
「っくぁ……葵ぃぃぃぃぃぃぃっ!!」
無論、それで大人しくやられるようなエヴァンジェリンではなかった。
想像以上のダメージを受け、顔が苦痛に歪みながらも手刀で葵の胸の辺りを斬り裂こうとする。
それと同じく、葵の左手には袖から転がり出た物が――なけなしの気を込めた500円玉が親指の爪の上に乗っていた。
もはや塵ほども残っていなかったために解除した気だが、契約執行が『5秒しか使えない』のでもう一度気を纏う。ただし、防御には一切廻さず、500円玉に全てだ。
修行の間に、龍宮真名から教えられ何度も爪が割れ、剥げ、それを回復札で無理矢理直して尚特訓を繰り返した技。
今の葵が唯一自信を持って技であると言えるモノでもあった。
互いの視線が交差する。
敗北するのは貴様だと。
勝利を手にするのは俺達だと。
そして、瞬きよりも短い一瞬の間に勝負は決する。
葵の放った500円玉が親指に弾き出され、エヴァの顎を撃ち抜く。
エヴァの振るった右手の鋭利な爪が、葵の体を斬り裂く。
それらはまったく同時に行われ、互いにダメージを残した。
エヴァは脳を思い切り揺らされ、思わずひざまずくがその場に踏みとどまり、
鮮血を撒き散らしながらも、後ろに数歩たたらを踏む程度で済んだ葵は……
「……届かな……かったか……」
――そのまま膝から崩れ落ちた。
(ごめんなさいネギ先生。後、頼みます……)
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「届かなかった……だと……? 一体、どの口が言うんだ……」
目の前で崩れ落ちた男を見降ろしながら、エヴァはとぎれとぎれにそうぼやく。
後ろでは、ネギと神楽坂が戦闘態勢に入ったのだろう。先ほどまでよりも強い気配――闘気が漂ってくる。
(ボロボロになりながらも闘い抜いたこの男の姿が、純粋な坊や達の闘う意思を強固なものにしたか……)
未だ揺れる視界に吐き気を覚えながら、エヴァは倒れ伏している葵に背を向けてネギと神楽坂に向き合う。鉄扇で受けた一撃によって肋骨のいくつかがイカれ、そのうちの一本を恐らく折れて肺に達している。咽込む度に血が口から吐き出る。呼吸も上手くいかない。
致命傷ではないが、今の再生能力では回復にも時間がかかる重傷――もし自分がただの吸血鬼だったら負けていたかもしれない。そう思うほどのダメージだった。
そして、向き合う二人の目には迷いはなく、真祖の吸血鬼を目の前にしているというのに一歩たりとも引く気配がない。
特にエヴァの目を引いたのはネギだった。
彼女からすれば隙だらけだし、この身体でも驚異とはまったく感じない。
だが、その体から沸き上がる不屈の闘志とでも言おうか。闘う覚悟よりももっと上の覚悟。勝つ覚悟というものがはっきりと見てとれた。
その迷いのない目を見て、エヴァは確信する。
ネギ=スプリングフィールドは間違いなく英雄の息子だと。
(あぁ……私は負ける。……いや、負けたのか……)
自分の遊び心が、神楽坂明日菜の介入が、そして謎の『女』というイレギュラーが、ネギ=スプリングフィールドの短期間での成長が……。
なにより、篠崎葵の策と粘りが自分の敗北を呼び込んだと、『真祖の吸血鬼』は理解した。
(退屈な茶番になるはずだったというのに……)
今のエヴァに、退屈を感じている暇などなかった。
予想を超える一手を打たれて力を封じられ、一騎打ちの末にただの吸血鬼ならば死んでいてもおかしくない程のダメージを受け、そして今不退転の覚悟を胸にした英雄の息子が――英雄の卵が自分に向かい合っている。
(後にしこりを残すような敗北になると思っていたが……)
悪くない。エヴァは素直にそう思った。この戦いは――この敗北は悪くない、と。
だからエヴァは口には出さずに、自分の後ろで倒れている男への言葉を紡ぐ。
――感謝する。と