地球において熊という生き物は、暖かい地域では小さく、極地に近づくほどに巨大化する傾向がある。
その法則がそのままこの世界に当てはめられるかは分からないが――しかし孝治の知る限り、この島に生息する熊は、大きい。
例えばエルマシトとの初対面の時に孝治が被っていた毛皮は、余裕で地面に引きずるほどの長さであった。それでもまだ、この島では決して大型というほどのサイズではない。
孝治が熊を見た経験はさほど多くはないが、春先の解体にクゥルシペの市場で見た毛皮――体長三メートル近いものもあったはずだ。
「そうだな、でかいのは三メートルもあり得る。……今回の『人食い』がどの程度かは分からないが、見た奴の話だと、それなりにでかいみたいだな」
一旦家に戻って、熊について訊いた孝治に、カルウシパはこう答えた。
この島に統一された長さの単位など無いはずなのだが、『三メートル』という表現が通じているのは、これまたチート能力の恩恵である。ここ最近は孝治も意識していなかったが、相変わらずかゆい所に手の届く能力だった。
「そんな大きさじゃあ、茅葺小屋なんか一撃だろう。家に入って身を守れるものなのか?」
「だから寝ずの番を立てる。今夜は絶対に家から出るなよ、動くものがあったら迷わずに毒矢で射るからな」
「例の肉が腐る奴か」
「ああ、一番強い奴だ。半端な威力じゃない、当たればすぐに死ぬぞ」
人肉の味を覚えた熊というのは、およそ人食いの獣の中でも最も凶悪な生き物だ。
知恵、移動能力、怪力、そして巨大な体躯と毛皮による防御力――それらを突破して仕留める為には、こちらも強力な武器が要る。この地で使われる鏃は石器や骨器で貫通力には多少難があるが、毒矢であれば問題はない。
毒矢は肉を汚染するため、通常の狩りではそこまで強力な物は使わない。しかし相手が人食い熊では、そんな悠長なことは言っていられないため、即死級の毒を使うのである。
「……そこまでやるってことは、その熊はこっちに来てるのか?」
「その可能性が高い」
もちろん、犠牲を出した村の狩人たちが人食い熊を許しておくわけがない。すぐに討伐隊を編成して、熊の痕跡を追いかけた。
どうやら相手は相当に賢い熊だったようで、その痕跡は途中でぷつりと途絶えていたが、しかしルートからして山を越えているだろうと踏んだ狩人たちは、山を越えてこちら側の集落に注意を促し、協力を呼びかけて回っていた。
人食い熊というのはこの島の人間にとって共通の敵だ。何が何でも追いかけて殺さなくてはいけない。挨拶回りの途中で彼らと遭遇したカルウシパも、当然協力することを決めて村に戻ってきたのである。
「とにかく、熊を仕留められるまでは山狩りだ。人の味を覚え、しかも追跡を振り切るほどの大物を、放っておくわけにはいかない」
「それまでは村を出ないほうが良いんだな?」
「そういうことだ。『人食い』は待ち伏せを覚えてる。正直、熟練の狩人でも危ない」
紛れも無く熟練の狩人であるカルウシパがそこまで言うのだ。相当にやばい手合いなのだろう。
もちろん、ここに至って孝治にできることなどほとんどない。だが、何もせずに待っているだけというのも性に合わないし、それに漠然とした不安もある。何でもいいから仕事をしていたかった。
「手伝えることはあるか? 一応、仕掛け弓の材料はまだ少し残ってるが」
「仕掛け弓か……。いや、使えるものは使うべきだな。設置しに行くのは俺達がやるから、タカハルは家で弓作りを頼む」
「了解。……正直助かる」
いや、とカルウシパは首を振った。彼とて熊狩りに参加できない孝治の不安は見抜いていたが、弓作りが無意味でないことも確かだ。単なる気休めではない。
「私は?」
「ルゥシアはタカハルを手伝ってやってくれ」
「うん、分かった」
男同士の会話が途切れた隙を見計らって声を掛けてくるルゥシアに、カルウシパは端的にそう告げて、立ち上がった。
「それじゃあ、俺は今夜の打ち合わせをしてくる。夕飯には戻るが、お前らは家から出るなよ」
そろそろ太陽の赤くなる頃だった。
夕飯を終えた残り火を灯りに、孝治は仕掛け弓の製作に勤しんでいた。
すでに太陽は沈み、外は夕闇に包まれている。カルウシパは夜間の見回りを見越してもう眠ってしまっていたが、到底眠れるような心境ではない。
元々現代日本人だった孝治は夜更かしにも慣れている。今夜は火の番をしながら、遅くまで手を動かしていようと考えていた。オクルマやルゥシアも同じ気持ちなのか、手持ち無沙汰に作業を眺めていた。
「……お母さん」
「大丈夫よ、ルゥシア。今はお父さんだけじゃなくてタカハルも居るもの」
「お役に立てるかは微妙な所ですが」
とはいえ、養ってもらった恩がある。命を救われた恩は、命懸けで返さなくてはならない。その程度の仁義は孝治にもあった。
そもそも自分は一度死んだ身である。今更惜しい命ではない。恩人のために死ねるなら、むしろ本望というものだった。
……いや、こういう考え方は良くないな。
勝手に先走りそうになる発想を、孝治は戒めた。
そもそも現状では、熊の足取りは掴めていないのである。山を越えたのは間違いないらしいが、一言で『山のこちら側』と言っても集落は複数あって、こっちに来るという確証はない。
そうだ、“確証は無い”のだ。自分で勝手に先走って、勝手に覚悟を決めるなど、滑稽な話ではないか。
――――たしかに、確証は無いな。“現在開示されている限りの情報では”。
「……痕跡が消えてる、っていうのが、不気味だよね」
「え?」
思考に没頭しかけた孝治を引き戻したのは、ルゥシアの声だった。
「……熊ってのはそういうもんだろ?」
「それはそうなんだけど、でも……」
ルゥシアは言葉を迷うように視線を泳がせた。
「なんていうのかな……人食い熊って、人を恐れないはずなんだよ」
「まあ、人間を弱いと思って襲ってくるわけだからな」
「それにこの時期に冬眠に入ってないってことは、お腹を空かせてるはず」
「そうでなくても、今年は山の恵みが少なかったからな。……いや、だから冬眠に失敗したのか?」
孝治自身も獲物の少なさを嘆いていたが、もしかすると熊もそうだったのだろうか。だとすると多少の親近感を感じないでもない。
「だったら、もっと積極的に人を襲ってもおかしくないはずなんだよ。普通人食い熊はある集落に狙いを付けたら、そこを狩場にするって聞いたことある」
「……そういえば、熊が大移動して追跡を振り切るのは、手負いになった時くらいだったか」
「うん。だけど山向こうの集落の人たちは、まだ一矢も当ててないっていうし……」
嫌な感じがする、とルゥシアは語った。孝治としては反論の言葉も無く、無言で弓の製作を続行する。
ルゥシアが感じている不安を、熟練の狩人であるカルウシパが気付いていないはずもない。こういう場合はリーダーの判断に黙々と従うべきである。
「それどころか、追撃に出た狩人が返り討ちにあってるんだよ? なんか、私が知ってる熊とは行動が……」
「ルゥシア、少し落ち着け」
饒舌になる気持ちは痛いほどに分かるが、もういい加減夜中だ。それに作業にも集中できない。
「不安な気持ちは分かるが、カルウシパが寝てるんだ。ゆっくり寝かせてやれ」
「そうよルゥシア。タカハルの作業の邪魔をしないで、もうそろそろ寝ましょう?」
「……うん」
オクルマに促されて、ルゥシアは素直に頷いた。一緒にごそごそと布団の用意をする。起きていても出来ることなど無いのは、分かりきったことだ。
「私も寝るわ。火の番をお願いね」
「了解。おやすみなさい」
オクルマもまた布団に入って、孝治は一人、囲炉裏に薪をくべながら作業を続行した。
家人の寝静まった茅葺小屋の中、孝治は丸めた木の皮に糸を巻いていく。
矢筒の製作はこの秋に何度も繰り返した作業だ。何も考えなくても自然に手は動く。それはつまり、考え事をする余裕があるということだ。
……人食い熊、か。
熊の性質については孝治も教えられていたし、山歩きの途中で見かけたこともある。糞の鑑定や足跡を追跡する技術も、一通りは学んでいた。
追われている熊は追跡を振り切るため、様々な手段で足跡を撹乱する。『止め足』は代表的な技術で、一度付けた足跡をそのままバックして戻り、途中で足跡を残さないように横に逃げる技だ。よほど注意深く足跡を観察しないと、これを見破ることは難しい。
これが手負いになると、逆襲の技に変わる。深手を負った熊は遠くまで逃げる体力を失うため、追撃者を振り切るのではなく反撃して生き残ろうと考えるようになる。
この時熊は、足跡を残した脇の茂みにじっと伏せて追跡者を待つ。熊を追う狩人は足跡に注意しているため、狩人が行き過ぎたところを背後から襲うのである。
今回の熊は、その技を使って狩人を仕留めたらしいんだよな……。
ルゥシアと同じ危惧を、孝治もまた抱いていた。
通常人食いの熊は人を恐れず向かってくるため、かえって仕留め易いという。熊は基本的に人を一律に恐れる。一度人間を殺した熊は自信過剰となって弓矢の脅威を忘れ、狩人に対しても堂々と向かってくるようになるらしい。
一度人食い熊が出れば、周辺の狩人は総出で毒矢を使って山狩りに出る。警戒を忘れた熊など良い的で、一流の狩人にとっては組しやすい相手だそうだ。
だが、今回の熊は人間への警戒を忘れていない。その上で明確な意思を持って、人間を食料とするために行動しているように、孝治には感じられた。
冬場の食料として、人間の方が鹿より狩りやすい……みたいな判断か?
だとしたら思い違いだ。たしかに殺すだけなら人間は楽に殺せるが、その反撃は執拗で周到である。
この十ヶ月を通して、孝治は自然界における人間の恐ろしさを痛感していた。人間は執念深く、また本人が死んでも別の人間が遺志を継ぎ、目的を達成する。
集団として共有され継続される意思――それが人間の凄味だ。これはどんな野生動物にも無い、人間のアドバンテージだった。
……そうだな、俺も村の一員として、自分の仕事を果たさなくては。
嫌な感覚を振り切って、孝治は再度、己の立ち位置を見定めた。
五体は満足に動く。戦うための力はある。この世界で生きてきた経験も、この世界に対する愛着も、この世界の人々との絆もある。
最初の冬、孝治は生きるのに必死だった。苛酷な環境と直面した命の危機に対して、全力で生き足掻いた気概を思い出せ。
「俺は、生きると決めたんだ」
そう、『辞退』するタイミングは既に通り過ぎている。
すでに孝治は、この世界に居場所を作ってしまったのだ。今更別の世界の記憶を持ち出して、他人のふりなどできるはずも無い。
ルゥシアを見る。彼女に至ってはこれから家族になろうかというのだ。ならば孝治がこの地で果たすべき責任は、十分すぎるほどにある――
「ああ、そうだ。来るなら来い。今更この地で生きることに、俺はもう迷いなど――」
そしてそう呟いた孝治は、次の瞬間。
「熊だ! 大きいぞ!!」
見張りの男達の怒号を聞いた。
「しまった、フラグを立てちまったか!?」
自身の迂闊な発言を後悔しつつも、作りかけの矢筒を壁際にぶん投げて、孝治は慌てて立ち上がった。
寝る前だったので、山刀はまだ腰に着けてある。弓を取るべきか一瞬悩んだが、毒矢でなければ効果は薄い。それよりもカルウシパを起こさなくては――
「お父さん起きて!」
「くそ、なんだ!? 熊か!」
孝治が動くより早く、目を覚ましたルゥシアが叩き起こしていた。やはり不安で眠りが浅かったのだろう。対して熟睡していたカルウシパは、『寝るべき時に寝る』を実践していたわけで大したタマだった。
枕元の弓を引き寄せたカルウシパを横目に、孝治は耳を澄ませて外の様子を探る。目を覚ました村民のざわめき声。しかし派手な物音は聞こえなかったし、最初の一声以降追加の呼び声も無い。
外の様子を見に行こうと、山刀を引き抜いて外に出ようとした孝治を、カルウシパは制止した。
「待て、タカハル。まだ出るな」
「あ、……そうか、そうだな」
言われて孝治は動きを止めた。恐らく今、外の狩人たちは殺気立っている。下手に外に出たら誤射されかねない。
「壁から離れて家の中心に寄れ。ルゥシアはタカハルの弓を持て。タカハルは山刀をそのまま使え」
「背中合わせで四方の壁に向き合う?」
「そうだ」
孝治の確認にカルウシパは頷いた。
熊の膂力ならば茅葺小屋などどうと言う事はないが、基本的に熊は慎重な生き物だ、壁越しにいきなり突っ込んでくるような真似はしない。必ず先に壁を破壊して、目視で獲物を確認してから襲ってくる。
全員言われたとおりに構える。オクルマはカルウシパの山刀を借りていた。
数分、緊張した時間が流れて……。
「カルウシパ、来てくれ」
「エクトトか。外は?」
「熊は逃げた、負傷者も居ない」
その言葉に、ルゥシアはふぅ、と一息吐いた。へたり込みそうになるのを孝治は支える。オクルマも気が緩んだのか山刀を下ろしていたが、孝治はまだ構えを解く気にならなかった。腐っても黒帯である。残心の習慣が残っていた。
「タカハルは残ってろ。ちょっと行ってくる」
「分かった。俺も外に出る準備をしておいた方が良いか?」
「……そうだな」
カルウシパは頷く。近くに熊がいるなら警戒レベルを上げる必要がある。賑やかし程度の歩哨でも、居る方が良い。
出て行ったカルウシパを見送って、孝治は外套の準備をした。
はたしてその夜、孝治は見張りとして朝まで過ごすことになった。
昇る朝日に欠伸を噛み殺し、握り締めていた弓を持ち直す。元は日本人とはいえ、この世界で十ヶ月も過ごせば生活リズムも慣れる。徹夜は身に沁みた。
「……おい、大丈夫かタカハル。交代してもよかったんだぞ」
「ラカンシェか、おはよう。……そうは言っても、俺は山狩りには出られないからな」
「テメエの仕事は見張りになるぞ」
そう言われて孝治は、ああ、と一つ頷いた。
「やっぱり熊だったか」
「ああ。見間違いなら良かったんだがな……」
昨夜の茂みの中に、熊の足跡が残っていた。疑いようも無く大物で、しかも人に近づくことを恐れていない……。
「ほぼ間違いなく、例の『人食い』だろう。朝飯を食ったら足跡を追跡する。テメエは寝てろ」
「男衆総出でか?」
「いや、大半は残すそうだ。はっきり足跡が残っている以上、ゾロゾロ行っても人手の無駄だ。それに万が一、熊が戻ってきたときに備える必要がある」
「大変なことになったなあ……」
遠い目をして、孝治はぼやいた。
本当に、大変なことになってしまった。昨日はルゥシア相手にドギマギしていたはずなのだが、一夜にして臨戦態勢だ。展開が早過ぎる。
「クゥルシペ行き、何時になるかな……」
「なあに、すぐに仕留めてやるよ」
肩を落とす孝治の背中を、ラカンシェは励ますように叩いた。
「お前とルゥシアの話も、今のままじゃ進展のしようがないからな。とっとと終わらせてやる」
「……ラカンシェ、そういう態度は命取りになるぞ」
「ハン、人の心配している暇があったら、テメエこそ自分の役割を果たせよ」
ラカンシェは鼻を鳴らしたが、昨夜迂闊にフラグを立ててしまった孝治は、ラカンシェのこの態度は死亡フラグに思えて仕方なかった。
「……ラカンシェは山狩りに出るのか?」
「ああ。オレが行かないでどうする」
……物凄く、嫌な予感がする。
とはいえ実際、ラカンシェが出ないで誰が出るのかという話である。誰かがやらなくてはいけない仕事なら、優秀な人間にやらせるしかない。
孝治はもう、この世界の人間なのだ。この世界の道理を曲げる論理は、すでに捨ててしまっている。
「本当に、気を付けてくれよ……」
くれぐれも念を押して、孝治はラカンシェと別れた。
――今の孝治には、これ以上言えることはない。
さて、そんな孝治の不安はさておき、こうして山狩りは開始された。討伐隊はカルウシパを筆頭に、若手壮年から選りすぐった狩人七名。
熊狩りというのは数日がかりの仕事になる。季節もそろそろ冬で、食料の携帯は必須だった。差し当たり背負えるだけ、十日分ほどの食料を持って行ったが、足りるかは不安な数字である。
孝治を含む残りの男たちは、交代で弓を持って集落の見回りをする。例の強力な矢毒を孝治は当初おっかなびっくり扱っていたが、三日も経つ頃にはすっかりと慣れてしまっていた。
「ふぁあ……」
カルウシパ達が出発して四日目の朝、例によって夜番を務めていた孝治は、恒例の朝日を見ながら欠伸をしていた。
初日の夜の騒動以降、熊の気配は感じられない。いや、野生の熊が気配を消したら、そう簡単に見つけられるものでは無いのだが……居残り組による集落近郊のパトロールは継続されていて、彼らが痕跡を発見できない以上、今は安心して良いだろう。
追跡隊からの連絡も無いが、案外今頃は、熊も遠くに行ってしまっているのではないか――そんな楽観を持ちたくなる程度には、この数日は平穏だった。
「もしそうなら、いいんだがな……」
熊は獲物に執着する性質がある。一度この集落を下見に来ていた以上、楽観は出来なかった。
と、交代の人間の気配を感じて、孝治はそちらに視線を向ける。視線を受けた年若い少年は、軽く片手を挙げて挨拶した。
「タァカル兄、代わるぜー」
「マンナクルか。……そのタァカルって表現、あまり流行らせないでくれるか?」
「なんで? いーじゃん別に」
交代に来たマンナクルに、孝治は苦言を呈した。
十六歳のこの少年は、どうも万事に適当な所がある。孝治に対して物怖じせずに話しかけてくるのはそれが良い方向に出た結果だろうが、しかし名前を略されるのは、孝治としては気に入らない。
「俺の名前は月人としての名なんだよ。下界風に改名されるとアイデンティティに関わる」
「ツキチタカハルって言いにくいじゃん。すげー言いにくいじゃん。ツァキ・タァカルでいいと思う」
「ツキチじゃねえ築地だ」
大体カルウシパ達は、問題なく『タカハル』と呼んでいる。たしかにこの地の人々には耳慣れない名前だろうが、そこまで発音しにくい訳ではないはずだ。
「それに、どちらかというとタカァルだろう。なんでタが伸びるんだ」
「突っかかるなあ、タァカル兄。機嫌悪い?」
「徹夜明けなんだから当たり前だ。……まあ、いいや。帰って寝る」
「おやすみー」
ふらふらと孝治は家路に着いた。
カルウシパもラカンシェも居ないとなると、必然的に他の男衆との絡みが多くなる。元々孝治は人付き合いが苦手で、今までそれほど親しくなかった相手と話しを合わせるのも、中々億劫な話だった。
クゥルシペでの幾多の交渉を乗り越えて多少は成長したかと思っていたが、やはり基本的な性格は変わらないものである。仕事がらみならともかく、それ以外の世間話は苦手なままだった。
もう少し、会話のレパートリーを増やすべきだろうか……そんなことを考えていると家に着いたので、孝治はおもむろにルゥシアにこう言った。
「あ、タカハルお帰り」
「ああ、ルゥシア。今日も可愛いな」
「タカハルが壊れた!?」
気持ちは分からないでもないが、失礼極まりないリアクションに、孝治は顔を顰めた。
別に冗談のつもりではなかったのだが……しかし本当ならとっくに済んでいた筈の結婚の話も、熊騒動で棚上げになっている。カルウシパが熊狩りに出ているこの状況で、そんな話を持ち出すわけにもいかない。
「ああ、嫌だ嫌だ。とっとと熊を仕留めないと、クゥルシペにも行けやしない」
「そうだよね。そろそろ雪も振る頃だし」
孝治の真意など知る由もなく、ルゥシアはのほほんとそう返した。
「タカハル、朝ごはんは?」
「食わん。昼に温めなおして食うから、とっといてくれ」
「わかったー」
ルゥシアにそう言い置いて、孝治は布団に入った。
この騒ぎが一刻も早く終わりますように、と――そんな、虫のいい考えを浮かべつつ。
「大変! 大変だよタカハル!!」
「――!? なんだ、どうした!?」
眠りからたたき起こされて、孝治は仰天した。
悲鳴じみたルゥシアの叫び声。常は気丈な彼女の狼狽した様子に、意識が急速に覚醒する。
すわ熊かと体を起こし、急いで枕元の山刀を引き寄せる孝治に、ルゥシアは続けて言った。
「ラカンシェ達が怪我してる!」
「ラカンシェ……。カルウシパ達が帰ってきたのか!?」
「うん、でも熊は仕留められなくて、それで大怪我して帰ってきて」
掛け布団を蹴り上げて、孝治は飛び出した。パニック気味のルゥシアの説明では埒が明かない。
家を出て、辺りを見回す。騒然としている集落、人だかりの出来ている家に当たりを付ける。
負傷者を運び込んだのは、あそこか!?
駆け出した孝治は人だかりをかき分けて声を上げた。
「カルウシパ!」
「タカハルか! ちょっとこっちに来てくれ!」
許可を得て家の中に入った孝治は、並んで布団に寝かせられた負傷者を見て表情を歪めた。
人数は三人。非武装ならともかく、熊を追跡中の狩人である。一度に三人が重傷を負わせられるというのは尋常な話ではない。
慄きを隠して、孝治はカルウシパに尋ねる。どうやらカルウシパは無事のようで、その点だけは安心できた。
「どうしたんだ、一体」
「待ち伏せだ。それも、崖の上からいきなり“降ってきた”らしい」
痛恨の表情で答えるカルウシパに、孝治は慄然とする。
「夜襲じゃなくて、追跡中の奇襲? それで三人やられたのか?」
「俺だって信じられん。気付いてすぐに救援に向かったが、弓の射程に入る前に逃げやがった」
「どうも……毒矢を知ってるみたいだな……」
苦しげな声に、孝治は布団の方を見た。
顔に血まみれの布を巻きつけたラカンシェが、眼球だけでこちらを見ている。
「オレが……山刀で切りつけても、ほとんど、怯まなかった……だが、カルウシパが弓を構えるのを、見たら……跳んで、逃げた」
「大丈夫かラカンシェ、傷の具合は?」
「ラカンシェは顔の左側を岩で切った。それと左腕を噛まれてる」
孝治の問いに、カルウシパが代わりに答えた。
「エクトトは引っ掛かれて胸を裂き、アバラを折られた。アクナプは左腕を折られて、それに右脚も噛まれて血だらけだ。……最初に熊の下敷きになったイワテグは、連れて帰れなかった」
「……イワテグも、だと」
「ああ……」
カルウシパは肩を落とした。
それはそうだろう――――村の仲間が、死んだのだから。
「……っ」
ガクリと力が抜けて、孝治は地面に膝を付く。死の近い世界であることは知っていた。だがそれでも、実際に知っている人間が死んだのは、初めてだ。
イワテグは二十代後半の男だった。妻も子供も居る。山刀の鞘や柄を彫るのが趣味で、自分の山刀にいくつもの鞘を用意しては、日によって取り替えていた。孝治もある時、刀の装飾を自慢されたことがある。
いくら孝治が人付き合いが悪いといっても、狭い集落の中だ。皆、顔見知りなのである……。
「落ち込んでいる暇はないぞ、タカハル。手を貸してくれ」
「……貸せる手があれば幾らでも貸すが、一体俺に何が出来るんだ……」
無力感に苛まれて落ち込む孝治に、カルウシパは声を掛けた。
正直、今は気力が湧かなかったが、孝治も何とか搾り出すように返事した。消沈した声に、カルウシパは発破をかけるように言う。
「怪我人の治療を手伝ってくれ。それと、知っていることがあれば知恵もだ」
「治療? ……俺の知識は大したことない、こんな重傷者を治す技なんぞ……」
……いや。
弱気な発言を、孝治は途中で打ち切った。ネガティブは発言は口にしてはいけない。まして目の前には、当の患者が居るのである。
力の入らない両足に無理矢理力を込めて、どうにか孝治は立ち上がる。膝は震えていたし、手も震えていたが、……そんな状況では、ないのだ。
ラカンシェを見る。この世界に来て何くれと無く世話を焼いてくれた彼は、今やヒューヒューと荒い息を吐いていて、既に意識は朦朧としている様子だった。
恩義は……返さなきゃならん。ラカンシェだけじゃない。エヘンヌーイの皆は、俺の恩人だ。
深呼吸して、なんとか孝治は気分を落ち着けた。もちろんまだ本調子ではない。イワテグの死のショックも、重傷を負って死に掛けている三人の重さも、ずしりと胃袋の辺りに圧し掛かっているし、それに例の不安も、晴れてはくれない。
それでも――『必要な時に必要な行動を』。
己の信念を思い出して、孝治は、
「鉄鍋に水を張って、湯を沸かしてくれ。それと石鹸の用意だ。患者に触れる人間は、先に手を洗わないと駄目だ」
まず最初に、そう指示を出した。
この土地にも薬草を用いた原始的な医療技術はあって、彼らの治療は基本的にそれに則って行われた。
そもそも消毒薬も抗生物質も無いこの島では、出来ることなど高が知れている。清潔を保って化膿を防ぐ。創傷に対して、それ以上出来ることは無い。
なので孝治は余計なことはせず、患部の衛生を保つことだけに集中した。
「湯が沸いたら、布を浸して煮込むんだ。それと患者の傷口を流水で洗おう。石鹸も使うか。水瓶に水を……いや、鍋のお湯を水瓶に注いで、冷やしてから使ったほうがいいな」
重要なことは、雑菌を入れないことだ。傷口を洗浄した上で、傷口に触れる可能性のある物を徹底的に消毒する。
こういう場合は酒を使って殺菌するのがお約束だが、エヘンヌーイには酒の備蓄が無い。代わりに孝治がクゥルシペから持ち帰った石鹸があったのでそれを使ったが、効果の程はどうだろうか。
さて、こうして傷の洗浄までは孝治が問題なく行ったが、この次に薬を塗りこむ段になって、見解が分かれた。
「肉と肉はくっつくようになってるんだ。そこに余計なものがあったら、いつまで経っても傷が塞がらない。止血と消毒が済んだら、薬は一度水で流してから清潔な布で巻こう」
「いや、傷を治すのは薬の力だ、薬はしっかり当てておいた方が良い。取り除くなんてもっての外だ」
カルウシパも傷の治療に関しては、相当の経験の持ち主である。『傷が膿むのは不潔な悪い気が入るからだ』という孝治の感染症の説明に納得は見せたが、伝統的な創傷の治療法までは譲らなかった。
結局これに関しては、カルウシパの意見が優先される。ダメ押しとなったのは患者達の意見だ。
「薬は塗っておいてくれ。何もないと落ち着かない」
そう言ったラカンシェの表現が、一番分かりやすかったろう。やはり怪我人は『薬を塗った』という安心感を求めるものなのだ。
それに衛生の管理が難しいこの土地では、殺菌効果のある薬剤を患部に直接塗布するのも、別に間違っては居ないだろう。そう思いなおして孝治は、『定期的に薬を洗い流して塗りなおすように』という忠告に切り替えた。
こうして煮沸した包帯を巻き上げて、創傷の治療は完了した。いずれの傷も縫合が通用するような傷痕ではないが、不幸中の幸いで動脈は無事だったらしい。後は彼らの生命力次第だ。
最後にアクナプの左腕に添え木を当てる頃には、すでに夕方になっていた。
「……終わったな」
「ああ、ご苦労だった、タカハル」
「そちらこそ」
病室と化した茅葺小屋から出て、孝治とカルウシパは互いの労を労う。
今後の治療方針は、すでに村の女衆に引き継いでいる。他の男達はすでに、今夜のローテーションの話し合いに入っていた。
「……助かるといいんだが」
「ああ。しかし、エクトトは……」
カルウシパは言葉を濁したが、言わんとすることは孝治も分かる。
強力な熊の前腕による一撃を食らったエクトトは、三人の中でも一番の重症だった。爪が引っ掛かった胸部の裂傷は深く、肋骨は折れて、恐らく肺にもダメージがあるだろう。それどころかラカンシェの話だと、倒れたときに頭を打った恐れがあって……すでに、虫の息と言っていい状態だった。
明日の朝まで、命は持つまい……二人とも口にはしなかったが、それが共通認識であることは、お互いに察していた。
「アクナプとラカンシェが、手足しかやられてないのは流石だったな」
重くなった空気を振り払うように、孝治はそう言った。
「熊は動くものを攻撃するんだろう?」
「ああ、そうだ。手足を振り回していれば、必ずそこに噛み付いてくる」
「だったら、最後まで抵抗を諦めなかった証拠だ。ウチの狩人は、肝が据わってるよ」
「……ああ、そうだな」
――それが、孝治が『ウチ』という表現を使ったが故だとは、孝治は気付かなかったけれど。
カルウシパが薄く笑って、孝治は少し安堵した。
「それじゃあ……おっと」
安堵ついでに腹がぎゅうと鳴って、孝治は胃袋の辺りを押さえる。
そういえば、今日は朝から何も食べていない。夜番が終わった後は朝食を取らずに寝てしまったし、ルゥシアに叩き起こされてからは、怪我人の治療でそれどころではなかった。
「……腹減ったな」
「ははは、言われてみれば俺も減ったなあ!」
カルウシパの笑い声は、常のものより威勢が弱かったが――たとえ空元気でも笑って見せる度量は、流石に集落の長だった。
孝治もまた気を取り直す。いまだ熊を討てていない現状、沈み込んでいても得はない。
「家に帰って晩飯を食おう。今夜はゆっくり眠っていいぞ」
「言われてみれば、昼寝も足りてなかったなあ」
「俺も今夜はゆっくり休む。明日からは、また色々とやらなきゃならないからな」
「他の村とも連携するか?」
「そうだな……おっ」
ひやりとした感触に、カルウシパは空を見上げた。釣られて孝治も上を向く。
分厚い冬の雲に覆われた空、ちらほらと降り注ぐ小さな欠片。
「初雪か……」
「そろそろ降るとは思ってたがなあ……送り雪、か……」
鉛色の雲は切れ目を見せず、夕日の赤も雲の向こうに閉ざされている。
明日も雪だ――それに気付いて、二人は揃って溜息を吐いた。カルウシパは明日以降の熊狩りを、孝治はクゥルシペへの移動の困難さを、うんざりとして予感する。
本当に、熊が出てから孝治の予定は狂い続けだった。それまでがスムーズに運んでいただけに、ここ数日のストレスは酷く身に沁みる。
畜生、と口の中で悪態を吐いて、カルウシパに向かって言った。
「明日には周囲の村に使者を出して、一刻も早く熊を倒そう。俺だって、クゥルシペ行きをこれ以上遅らせたくない」
「そうだなあ……狩場に余所者を入れたくないが、四の五の言ってる場合じゃ――」
絹を裂くような女の悲鳴が、集落に響き渡った。
「――なんだ!?」
「待て! タカハル!」
弓矢を持った男達が悲鳴の方に駆けて行くのを、反射的に追いかけそうになった孝治の肩を、カルウシパは慌てて掴んで制止した。
「家に帰って弓矢を取って来い!」
「あ、ああ、そうだな! カルウシパは?」
「俺は先に行ってる! だから俺の分も弓を忘れないでくれ!」
そう言って駆け出すカルウシパ。先に言った男達が、『熊だ!』『畜生、追いかけてきたのか!?』などと叫ぶのが聞こえてくる。
くそ、なんで見張りが――そうか、夜番のローテーションの組み直しか!
まさに一瞬の隙を突かれている。そういえば今日は昼から怪我人の治療に村中大わらわで、周辺のパトロールが疎かになっていた……。
恐らく、朝に仕留め損ねたラカンシェ達を追いかけて来たのだろう。そして村の近くに潜伏して、警戒が緩むのを待っていたのだ。
「タカハル! 一体何が……」
「ルゥシア! 弓! カルウシパのも!」
「わ、分かった!」
家に飛び込むや弓と毒矢を受け取って、孝治は踵を返して飛び出した。
向かう先、今は倉庫として使われている空き家に、男達が群がっている。どうやら熊は倉庫の中で食料を漁っていて、取りに来た村の女と鉢合わせになったらしい。鉢合わせた彼女は何とか難を逃れたようで、呆然の体で避難していた。
カルウシパに弓矢を渡して、孝治も包囲に参加する。賑やかしの矢でも、あった方がいい。
「……どうなってるんだ」
「中に居る。絶対に近づくなよ」
どうやら熊は倉庫の中に隠れてしまったらしく、恐ろしいほどに静かだった。
気配を消した熊というのは、驚くほど身動きをせず音を立てない。茅葺小屋は防風のため、入り口が直角に折れ曲がっている構造で、倉庫のどのあたりに熊が居るかは判断が付かない。やむなくじりじりと包囲の輪を広げ、不意の襲撃に備えざるを得なかった。
時折入り口から矢を射込んではみるが、反応はない。孝治もしゃがみこんで弓矢を構えるが、刻一刻と暗くなっていく風景に焦りを覚える。
熊は夜目が利くが、人間は利かない。このまま夜になれば、飛び出してきた熊への対応は確実に遅れ、犠牲も出しかねない……。
「……カルウシパ、火をかけよう」
痺れを切らして、孝治はこう提案した。
「茅葺小屋はよく燃える。火を掛ければあっという間に炎上して、熊はたまらず飛び出してくるだろう。もう時間が無い」
「……あの中には冬場の食料も入ってる。それに、延焼したらまずい」
「イワテグの仇だ、カルウシパ」
この孝治の一言に、カルウシパは沈黙した。額面どおりに受け取ったわけではない。既に出た犠牲を思い出すことで、これから出るかもしれない犠牲に思い至ったのだ。
食料が無くなれば、冬を越すのは難しくなる。しかしだからといって、熊を放置したまま夜を迎えれば、また犠牲を出すことになりかねない――三呼吸ほどじっくりと悩んで、族長は決断した。
「……タカハル、火の用意を頼む」
「了解した」
言われて孝治は即座に動いた。火の用意など何も難しいことはない。夕食時のこの時間帯、適当な家に飛び込めば囲炉裏に火は点いている。
素手で掴める程度に火の点いている薪を引っ張り出して、カルウシパの元に舞い戻る。冬の日没は早い。視界は既に薄闇に閉ざされつつあって、最早一刻の猶予も無かった。
「裏手に回って火をかける。入り口側に人を集めてくれ」
「……ああ、分かった」
味方同士の誤射を恐れてそう提案したタカハルに、カルウシパは一瞬、周囲の男達と目配せを交し合って頷いた。
倉庫に潜んでいる熊は、集落全体の敵だ。何が何でもここで仕留める――一致した決意を胸に、男達は弓を構えた。見届けて孝治は裏手に回り、火の点いた薪を放り投げる。
放物線を描いて飛んだ薪は狙いを過たず茅葺小屋の壁下に転がり、壁から屋根へと燃え移らせた。この地の家は壁から屋根までが萱で葺かれていて、炎上はあっという間である。
メラメラと燃え上がる倉庫。グオォという驚いたような熊の唸り声に、急ぎ表に駆け戻った孝治は、自分も弓を取って入り口の辺りに狙いを合わせた。
姿を見せてから一拍置いて、狙いをつけてから、射る!
気を静めて、孝治は心中に決した。野生動物の動きは速く、慌てて射ても中りはしない。
番えた毒矢は必殺の矢で、手足にでも当たれば命を奪える。焦る必要は無い……。
一秒、二秒と時を刻んで、引き絞った弓の先を睨む。熊の唸りは先の一回、しかしその後は音沙汰が無く、今や炎は倉庫をほとんど飲み込んでいた。
……まだか、まだ出てこないのか?
動揺した空気が、包囲する男達の間に流れる。
野生動物が炎を恐れるというのは一種の迷信だが、この状況で危機感を覚えないのは、動物として異常である。
どういうことだ、と一人がポツリと声を出した。釣られてざわざわとささやき声が聞こえる。まさかこのまま、炎に巻かれて死んでくれるのではなかろうか。
すでに燃え移った炎は入り口に達していて、今更飛び出してきたとしても、炎に巻かれるのは避けられまい――
「――まさか!?」
孝治の思考が、状況の理解に追いつくのと同時に、
ドーン、という音と共に、炎上した倉庫が揺れた。
「なんだ!?」
カルウシパが叫ぶ。
孝治は答えた。
「裏手だ! 燃えて脆くなった裏の壁を突き破って逃げる気だ!」
「何ィ!?」
男達が反応するより早く、バリバリと音を立てて倉庫が崩れる。
ガサガサと音を立てて木立の間を疾走する黒い影に、慌てて射掛けられる毒矢の群れ。
それを振り切って、熊は茂みの向こうへと消えて行った。
「……やられた」
呆然と孝治は呟いた。眼前の倉庫は今まさに燃え落ちようとしていたが、それに対処する気力も湧かない。
炎に巻かれてなお、あの熊は包囲する狩人たちを忘れなかったのだ。炎の危険性と毒矢の危険性を、冷静に天秤にかけて気配を消した。
そして動揺した男達が漏らしたあのざわめき――あれで包囲の偏りを把握して、その逆へと逃げたのである。
「千載一遇の好機を、みすみす……」
「気を落とすな、タカハル」
カルウシパも残念そうな様子であったが、流石にもう切り替えていた。
「お前が火をかけることを提案してくれなかったら、どう転んでたか分からない。少なくとも今夜、無傷で撃退することには成功したんだ」
「無傷じゃない。倉庫の食料を失った」
「だとしても今夜、犠牲を出さなかったのはお前のお陰だ」
「『出さなかった』と言い切るのは、夜が明けてからだ、カルウシパ」
励まされて、しかし孝治の気分は晴れなかった。
食料の事もあるが、それ以上に猛烈に嫌な感じがする。間違いなく今の包囲は、熊を討ち取る絶好の好機だった。
余計なことをしてしまったのではないか、“自分が居なければ”、上手くやっていたのではないか――
「……タカハル」
心配した口調で名前を呼ばれて、孝治ははっとして顔を上げた。
「すまない、暗くなってしまっていた」
「……いや」
カルウシパは首を振った。半端な慰めの言葉は無意味だろうと悟って、端的に告げる。
「火をかけると提案したのはタカハルだが、同意したのは全員だ。お前一人が悪いわけじゃない」
「……ああ」
「お前はもう戻れ、タカハル。昼から働き続けだろう」
「ああ……そうだな」
弓を拾って、孝治はふらふらと立ち上がった。
今更ながらに空腹を思い出す。朝から何も食べていないのだ。それは元気が出なくて当然だった。
とにかく飯を食って、寝よう――憔悴して孝治はその場を離れたが、嫌な気分は晴れてくれなかった。
「……う」
朝の光を感じて、孝治は目を覚ました。
熊が出てからは夜番続きで、朝日で目覚めるのは数日振りのことだ。久しぶりの感覚に、『うあー』と安堵の息を漏らす。
だがすぐに、昨夜の事を思い出して、孝治は眉間に皺を寄せた。
「まだ、熊は討ててないんだよな……」
昨日盲射ちに射た矢の一本でも刺さっていれば、今頃は毒が回って死んでいるかもしれないが……少なくとも孝治には昨夜、そんな気配は感じ取れなかった。
どの道死体を見つけるまでは安心できないのだ。今日も自分の仕事をこなさなくてはならない。
「あ、タカハル。起きた?」
「ああ……何か昨夜の内に、進展はあったか?」
先に起きていたルゥシアに声をかけられて、孝治はまずそう訊いた。昨夜は夕食後すぐに寝てしまったため、あの後どうなったのか把握していない。
カルウシパはまだ眠っている。思えば彼も昨日は働き詰めだったはずで、後始末を押し付けてしまったのは不覚だった。
「倉庫はどうなった。延焼したりはしなかったか?」
「延焼はしてないよ。消火も出来なかったけど……今朝になって、燃え残りが無いか、皆で掘り返してる」
「……そうか」
なにか見つかればいいんだが。
そう祈りつつも布団から這い出した孝治は、気温の低さに身震いした。朝方というのは一日で最も気温の低い時間帯だ。寒いのは当然だが……。
「そうだ、雪は」
「昼になったら解けると思うよ。今はまだ薄っすら積もってるけど……それより、タカハル」
暗い表情でルゥシアは言った。
「……エクトトさんが」
「……ああ」
そういえば――そうだった。
熊との戦いで頭から抜け落ちていたが、今、エヘンヌーイには重傷者が三人居た。
その中でも最も重篤だったエクトトは、昨夜の時点で虫の息で……。
「……怪我人の様子を見てくる」
「うん、いってらっしゃい」
重苦しい空気を吐き出しながらも、孝治は外套を羽織った。
自分に出来る事を、する。
ラカンシェとアクナプは、生かさなくては。
エヘンヌーイの集落は、朝から重苦しい空気に包まれていた。いや、本当は昨日の時点でそうだったのかもしれない。なにしろ昨日の孝治は負傷者の救護で大騒ぎしていて、周りに気を配る余裕が無かった。
最初に救護施設となっている茅葺小屋に向かった孝治は、すでにエクトトの遺体が運び出されている事実を知る。先に弔問に行くべきかとも悩んだが、それより先にラカンシェとアクナプの容態を診ることにした。孝治は日本人だ。死の穢れを付けたまま、塩も振らずに重傷者を見舞うのは嫌なものがあった。
「よう、元気か、ラカンシェ」
「ああ、お陰さまでな……」
努めて軽く挨拶した孝治に、ラカンシェはそう答えた。
アクナプは眠っている。骨折が痛むのか、噛まれた足が痛むのか、時折うなされている様子だった。
「先にアクナプを診てやってくれ。オレはまだ大丈夫だ」
「傷の腫れはどうだ?」
「顔はともかく、左腕は痛むな……」
「傷口を洗って、薬を塗りなおすべきだろうな」
ラカンシェの左腕を軽く触って、これならまだ大丈夫かと孝治は一安心した。
言われたとおり、先にアクナプを診る。折れた左腕は案の定腫れ上がっているし、噛まれた右脚も化膿したのか腫れている。それに熱も出しているようだ。
骨折の腫れも化膿も、今更出来ることはほとんど無い。化膿した傷は膿を出して流水で洗うべきなのだが、流石にその作業は男手が要る。後でやるしかない。アクナプに関してはとりあえず手伝いの女の子を呼んで、濡れ手ぬぐいを額に乗せるように指示しておく。
「ラカンシェ、立てるか?」
「ああ、なんとかな……」
「じゃあ、傷口を洗いに行くぞ。……その前に湯を沸かすか」
どうやらラカンシェはまだ体力が残っている様子なので、今の内に膿を抜いてしまうことにする。
沸かしたお湯で小刀を煮沸して、ブスブスと膿を抜く。外に連れ出して、川で傷の内側まで洗い流し、ついでに石鹸まで使って洗浄した。
ギャアギャアとラカンシェは悲鳴を上げていたが、孝治は関節を極めて抑えこみ、無理矢理洗浄を完了した。
「ラカンシェ、体力の消耗は命取りになるぞ」
「テメエ後で覚えてろよ!?」
洗浄後真顔でそう言った孝治に、ラカンシェは地面を叩いて抗議の声を上げた――当然である。
最期に石鹸による手洗いの徹底を再度念押しして、孝治は茅葺小屋を出た。とりあえず朝の診察は、終わりである。
さて、治療もひとまず終わったので、孝治は弔問に回ることにした。
そろそろ朝食の時間であったが、流石に食事を取る気にもなれなかったのだろうか。エクトトの妻は静かに自宅で過ごしていて、尋ねた孝治を出迎えてくれた。
布団に寝かせられたエクトトの遺体に、孝治は言葉を失う。昨日治療した時には温かかった体も、もう冷たくなっている――
「……お悔やみ申し上げます」
「いえ……」
否応無くこの地の現実を孝治に思い知らされて言葉に詰まる孝治に、エクトトの妻は――今は未亡人となった彼女は、涙を見せることはなかった。
無論、悲しんでいないわけもない。しかしそれでも彼女には、悲しんでいられない理由があった。
「それでも最期に言葉を交わせただけ、まだ幸せでしたから……」
そう、犠牲となったのは、エクトト一人ではない――遺体でさえ帰れなかったイワテグもまた、そうなのだ。
エクトトの家を辞した孝治は、次にイワテグの家に向かう。遺体が無い今、弔問に行くのは逆に残酷な感じもするが、どうしても様子を見ておきたかった。
「すみません、サットマさん。今日は――」
「あ、タァカ兄だ!」
そうして足を向けた孝治を出迎えたのは、イワテグの妻のサットマではなく、娘のナジカちゃんだった。
御年五歳の彼女にこう言われて、孝治は己の短慮を恥じることになる。
「おとーさんは、出かけてるよ!」
「……どうした、大丈夫かタカハル」
「ああ、カルウシパ、起きてたか……。いやなに、ちょっと自分の迂闊さを悔やんでいただけだ」
朝食に戻るやカルウシパに声をかけられて、孝治はそう答えた。
大分この世界には慣れたと思っていたが、やはりまだまだ経験が足りない。それも『この世界での』というよりは、純粋な人生経験が。
強くならないとな、と思う。何事にもソツなく対峙できる胆力を、対応力を――そのためには、経験が必要だ。
――――“七難八苦を与えたまえ”、か。
冬に比べて大分逞しくなった自覚はある。だがそれでも、まだまだ足りていない。
足りないのだ。“こんなものでは、届かない”。
…………届かない?
一体――何に届かないというのだろうか。
「……まあいい。そんなことより今日はどうする、カルウシパ。このままにしてはおけないぞ」
「ああ、もちろんだ。今日は、周りの村に救援を頼みに行こうと思う」
朝食の粥をすすりながら、カルウシパは今日の予定を述べる。
「朝飯を食ったら、すぐにでも使者を出す。他の人間は見回りだ」
「足跡の追跡は?」
「今の人数だと、村が手薄になりすぎる。増援待ちだな」
エヘンヌーイは総人口百人に満たない集落である。熊狩りに動員出来る成年男子の人数は、その内の四分の一程度。腕利きの狩人四人という損失は、極めて大きい。
「今から人を出せば、日没までには戻れるはずだ。流石にこれ以上、夜の警備を疎かにはできない」
「そうだな。熊はうちの集落に狙いをつけているようだし……いっそ、追跡するよりおびき出した方がいいんじゃないか?」
「それも考えてはみた。……だがなあ、あの熊がそんなに簡単に、釣れるとは思えん」
はあ、とカルウシパは溜息を吐く。たしかにな、と孝治も頷いた。
完全に裏をかかれた昨夜の一件は、二人の脳裏に鮮烈に印象付けられている。
「長期戦になりそうだな……」
「ああ、こんなに大変な狩りは俺も初めてだ。……色々と、ケチが付いちまったなあ」
カルウシパはちらりとルゥシアの方を見た。
めでたい話題もあったのにな、という言外の意図を汲み取って、孝治は気分を重くした。
……嫌な感じだ。
そう思う。本当に、本当に嫌な感じだった。
胃袋の辺りに言い知れぬ不快感を感じて、孝治は残りの粥をかっ込んだ。椀を置いて手を合わせる。
ご馳走様、という祈りの中に、別の祈りを混ぜた。他の何者にではない、自分自身への祈りを。
必要な時に、必要な行動を。
自分に出来る事を、誰かの為に。
そうして祈っていれば、己のやるべきことも見えてくる。
今は集落の危機である。“余計なこと”を考えている場合では、ない。
「……カルウシパ、使者を出す前に、アクナプの治療に手を貸してくれ。傷を洗ってやりたい」
「ああ、わかった」
じゃあ、先に行ってるぞ、と言い残して、孝治は家を出た。
今はとにかく、体を動かしていたい気分だったのだ。
膿を出したアクナプの右脚に、布を巻いていく。
化膿した傷は、とにかく膿を出さなくてはならない。傷を膿ませるのは細菌の働き以上に、壊死した細胞の悪影響が大きいそうだ。
「大丈夫か、アクナプ」
「……ああ……」
アクナプの返事は朦朧としていた。なにしろ先ほど川で傷口を石鹸で洗われて、大騒ぎしていたのである。仕方のないことだった。
この体力の消耗が、後に響かなければ良いのだがなあ、と孝治は思う。抗生物質が無い以上、細菌感染を防ぐのは免疫力の働きだ。処置によって失われる体力と、処置しないことで出る悪影響――この二つを天秤にかけなくてはならない。
文明社会は偉大だったと、今更ながらに痛感する。同時に自分も気を付けなくてはならないと、覚悟を新たにした。
……俺だって、他人事じゃない。
今となっては孝治も、この地に生きる一人の人間だ。傷を負えば同じように、命の危機に晒される。
いや、むしろ免疫力という観点では、孝治こそ弱者では無いか――
「おい、タカハル。どうした」
「いや、なんでも……というかラカンシェ、起き上がって大丈夫なのか?」
「朝より大分楽になったからな。あの時は死ぬかと思ったが、たしかにテメエの治療は効いたぜ」
左腕を軽く動かして、ラカンシェは言った。膿を抜いたお陰で、一時的に楽になっているのだろう。
「またしばらくしたら膿んでくるかもしれないぞ。大人しくしてろ」
「傷が治るまでは大人しくしてるっての。しかし昨夜は残念だったらしいな」
「……聞いたのか」
おうよ、とラカンシェは頷く。
「熊を仕留め損ねて随分と落ち込んでたそうじゃねえか。今朝はそうでもなかったが、どうも今の様子を見てたら気になってな」
「まあ、な……。引っ掛かってるのは、たしかだ」
昨夜感じた、強烈な後悔――その感触を、孝治はまだ覚えている。
「冬のための食料を燃やして、熊を討ちもらした……俺の提案のせいで、そうなった。……そのことがな」
「直接見たわけじゃないから何とも言えねえが、倉庫に火を付けた判断が間違ってたとは思わねえよ。カルウシパ達も賛同したんだろ?」
「ああ……」
「だったら、いいじゃねえか。何がそんなに気になってやがるんだ」
「何が……何、だろうな」
ラカンシェの指摘に、孝治は考える。
あの時感じた後悔の正体。それは、そう――
「“余計なことをしてしまったんじゃないか”……」
たしか、そういうものだった。
自分の提案が無ければ、自分が居なければ、カルウシパ達はもっと上手くやっていたのではないかと――そういう不安だ。
「俺が提案したことで、カルウシパの判断を惑わせたんじゃないかと、そう思ったんだ」
「自意識過剰だな」
ラカンシェはそんな孝治の不安を切って捨てた。
「カルウシパは一人前の狩人だ、テメエの意見程度で判断を誤ったりしねえ」
「……ああ」
「仮に間違ったとしても、その責任を自分で取る覚悟だってある。馬鹿にするんじゃねえよ」
「そうだ、な……その通りだ」
……そうだ。
築地孝治に、そんな影響力は無い。
こんなことを考えるのは、この世界に生きる人間への侮辱だ。
「……クゥルシペで色々やって、ちょっと思い上がってたかもしれないな」
「クゥルシペか。そういや詳しい話を聞いてねえが、その様子だと随分な活躍だったみてえだな」
気を取り直した孝治の様子に安堵して、ラカンシェは笑って声をかけた。
「今度話を聞かせろよ」
「いいぜ。そのためには、ちゃんと傷を治してくれ」
「おうよ。まだ嫁も貰ってないのに、死ぬわけにはいかねえ」
「その時は、酒も用意しよう」
「やめろ!?」
元気そうなラカンシェの様子に、孝治も安堵する。
それにしても――友人というのは、ありがたいものだった。
「……タカハル」
「ん? カルウシパか」
治療を終えて外に出た孝治は、カルウシパに声を掛けられて足を止めた。
これから見回りだ。すでに使者は出してしまっていて、男手が足りない。今日は夕方まで、ずっと外で張って居なくてはいけなかった。
なので弓を取りに戻ろうと思っていたのだが……真剣な表情に、何かあったのかと不安になる。
「ちょっと来てくれ」
「あ、ああ……。構わないが」
なにか重大な話があるのだろう。
察して孝治はカルウシパについていく。向かった先は集落の中心部から少し離れた、普段は空き家となっている茅葺小屋だ。
中に入ると、吊るされた鮭の干物が目に入る。今は空となっている囲炉裏に刺さった火箸と、天井から吊るされた鉄の棒。他の家と同じ構造のはずの内装は、しかし孝治の記憶を想起した。
「……懐かしいな」
「ああ、覚えてたか」
「もちろんだ。最初に俺が運び込まれた空き家だな」
雪原のど真ん中に埋まっていた孝治は、救出されてここに運び込まれた――もう、十ヶ月以上前の話である。
囲炉裏に火をつけると、カルウシパと孝治は向かい合って座った。しばしの沈黙。
「……相談したいことがある」
真面目な顔をしたカルウシパは、ゆっくりと思考を纏めてから口を開いた。
「この村の将来についてだ」
「……将来?」
「ああ。といっても、そんなに遠い未来の事じゃない。……今年の冬、来年の春の話だ」
「まさか、食料か?」
それもある、とカルウシパは頷いた。
「昨日燃やした倉庫の跡を掘り起こしてみたが、やはり食えそうなものは見つからなかった。今残っている食料だけで冬を越せるかというと、かなり厳しい」
「周囲の村に協力を頼む……ってわけにはいかないか、やっぱり」
「ああ。食料は貴重だし、何が起こるかわからん……こういう場合、女を嫁に出したり子供を養子に出すのが普通なんだが……」
それは出来ればしたくない、とカルウシパは言った。
孝治としても完全に同意だった。倉庫を燃やしたのは、自分の意見である。それが原因で口減らしが起きるのは耐え難い。
「熊を討った後に鹿狩りにも出てみるつもりだが、なにしろ四人も戦力外だ。今年の冬を乗り越えられるかは、相当厳しい」
「それで、俺に何をしろと?」
「クゥルシペに行って、漁の手伝いをねじ込んできてくれ」
「漁……十二月の?」
「ああ」
十二月にクゥルシペで行われる漁は扶桑の漁船がメインであるが、この島の人間も手伝いとして参加する。
大半はクゥルシペの人間だが、食うに困った他集落からの出稼ぎ人も参加することがあるらしい。
「参加枠にはあまり余裕が無いんだが、なんとかうちの連中を参加させてくれ。そして春まで居座らせるんだ」
「……そんなことして大丈夫なのか?」
「あまり大丈夫じゃないが、クゥルシペには余裕がある。……後でエルマシトに色々言われるだろうが、一応は面倒を見てくれるだろう」
それが苦渋の決断なのは、カルウシパの顔を見れば分かった。
カルウシパとエルマシトは友人同士だが、だからといって無条件に甘えられるわけがない。そんなに余裕のある世界では無いのだから。
「頼む。俺はこの集落を離れられない。熊を討ったら、すぐにでも向かってくれ」
「ああ、分かった。どの道クゥルシペには行く必要があったんだ、連れて行く人間が増えるだけだ」
「……すまん。お前はこれからが大事な時期だというのに」
孝治の立場を慮って、カルウシパは頭を下げた。
幾ら言い訳しても、これは褒められた真似ではない。夏の間に孝治が挙げた功績は孝治自身のものだ。それを頼るのは、集落の長として無念であった。
「余計な重荷を背負わせてしまうことになる……」
「頭を上げてくれ、カルウシパ」
慌てて孝治は手を振った。
「何も気にすることはない。あんたが居なかったら死んでいた命だ、恩を返せることを嬉しく思うよ」
「そう言ってもらえると、助かる」
「なあに、むしろ俺も出世したもんだな、と誇らしくなるくらいだ」
「出世?」
「ああ。村の居候だった俺が、村の将来について相談されるようになったんだぞ?」
ニヤリと孝治は笑ってみせる。
「大出世じゃないか。だからこう言ってやる。――任せろ」
『誰かのために出来ることをする』
忘れてはいけない。それが孝治の、この世界で生きるための信念だ。
だからこれは、幸いであっても不幸でなどない。村の将来? 上等だ、全力で背負ってやろうじゃないか。
「だから心配するな、カルウシパはどんと構えていればいい。カルウシパの手の届かない所では、俺が村の為に働くさ」
この孝治の宣言を、カルウシパは驚いたような表情で見て、そして次に苦笑する。
随分と頼もしくなったものだと、感動さえ覚えていた。家族――そう、もう孝治は、彼にとっても家族なのだ――その成長を、素直に喜ぶ。
「ハハハ。じゃあいっそ、村の将来はタカハルに頼むとしようか!」
「ああ、任せろ。エヘンヌーイもルゥシアも、いっそまとめて面倒見てやる」
「おいおい、こりゃあ、俺の引退も近いかな!」
ゲラゲラと笑って、カルウシパは膝を叩いた。
一緒に笑いあいながら、孝治は天井を見上げる。天井板の張られていない茅葺屋根は、あの日布団から見上げた物と同じだ。
思い出して、なんとなく口にする。出会った頃の思い出を。
「そういやあ、一緒の布団で寝たこともあったっけなあ」
「おう? ……ああ、そんなこともあったな」
カルウシパも思い出したのか、くっくっと喉の奥で笑った。
「月から来た、って話を聞かされたの、そういやこの家だな。懐かしいなあ!」
「本当にな。あの時食った熊の汁物、あれは旨かった……」
しみじみと語って、孝治は目を閉じる。
ルゥシアと初めて会ったのも、この家になる――あれ以来数えるほどしか訪れなかったが、ここは思い出の場所だった。
随分と、遠くまで来た気がするな……。
無力なままに保護された、一月の事を思い出す。必死で仕事を覚えた、二月の事を思い出す。
レンガ作り、炭焼き、エルマシトの説得、クゥルシペでの交渉と石鹸作り。ラカンシェと一緒に行ったアザラシ狩りと、秋に実施した製鉄作業。
この世界での経験は、確実に孝治の血肉となっていて……だったらもう、“それ以前”は、どうでもいいじゃないか、と思う。
『俺はあの日、月から落ちてきた』。……もう、それでいい。それでいいんだ。
そうだ、もう、思い出すまい。
日本での事も、“この世界に来た原因”も――
――――。
「……と、いかんいかん。感傷に浸ってる場合じゃないな」
頭を振って、孝治は雑念を振り払った。
そろそろ見張りに出なくては、他の連中から怒られる。
「カルウシパ、話ってのはそれだけか?」
「ああ、そうだな。……本当は春から先の話もしたかったが、それはその時でいいか」
「じゃあ、そろそろ戻ろう。……その前に火の始末か」
薪はまだ燃えていたが、放って置くわけにもいかない。手早く火を消そうと火箸を取って、孝治は火消し壷が無いことに気付いた。
灰を被せておけばいいだろうか、とも思ったが、ここは空き家である。放って置いていつの間にか火事になっていたら大変だった。
「……ちょっと壷取ってくる。火を見といてくれ」
分かったと頷くカルウシパを確認して、孝治は立ち上がった。
そのまま空き家を出ようとして、あ、おい、とカルウシパに声を掛けられて振り返る。
「どうした?」
「そう言うなら火箸を置いてけ、タカハル。どうやって火を見ろって言うんだ」
「あ」
手に持ったままの火箸に気付いて、孝治は気の抜けた声を出す。
どうせすぐ戻るから大丈夫だと思うが、たしかに火箸無しで火を見るのは無理だ。注意力が切れていたのかもしれない。
思い出に浸っていたとはいえ、精神的な疲れは抜けていなかったか――溜息交じりに苦笑して、孝治は囲炉裏の方へ足を向ける。
「これはうっかりしてたな。今――」
次の瞬間、強烈な衝撃に、孝治は一瞬で昏倒した。
「……う……」
最初に感じたのは、冷たい地面の感触。
床板など無いむき出しの土は、十二月の迫るこの季節に相応しい冷たさで、孝治の体を冷やしていた。
寒い――意識の浮上と共に温感が戻り、次いで痛覚が戻って、体の痛みを認識する。
痛い。
左腕と肋骨の辺りがズキズキと痛む。他にも頭が――ああ、これは脳震盪だろうか――芯の方から痛み、意識が朦朧としている。
起き上がるのが酷く億劫だ。この調子だと三半規管もやられているのだろうか。耳鳴りがして周囲の音が聞こえない。
「う、ぁ……」
生臭い臭いがする。酷く不愉快な匂いだった。胸の辺りがむかむかして、吐き気のする腐敗臭。
ここに居てはいけないと、本能が警告する。山の中では何度か経験した感覚――“危険”の存在を示す臭い。
がり、と右手の指先が地面を掻いた。指先の触覚が地面のざらつきを感じ取って、ここでようやく、思考が戻ってくる。
仰向けに倒れているの、か。
霞んでいた視界が焦点を結んだ。自分は今、ぼんやりと屋根を見上げている。そのことに気付く。
一体、何が起きたのか……この期に及んでそんな愚問は浮かばなかった。何が起きたかなど、決まっている。
ゆっくりと倒れたまま首をめぐらせて、孝治は室内を見た。
……近い。
三メートルほどの距離に、黒い巨体。こちらに尻を向けた大きな熊が、孝治には目もくれずに体を揺らしていた。
恐怖に浅くなりそうな呼吸を、無理矢理に宥めた。熊はこちらを向いてはいない。今なら――今なら、逃げられる、かもしれない。
左半身はまだ痛む。なので体を右に転がして、体の下に敷いた右腕で地面を押すように、ゆっくりと体を起こした。
まだだ、まだ、熊は気付いていない……。
両足に力を込める。左腕は痛むが、幸い足は無事だったようだ。立ち上がる力は、ある。
先ほどの耳鳴りも、もう聞こえない。回復した聴覚で周囲の状況を探った。ざわざわとした空気は、この空き家を包囲する狩人たちのものだろうか。
だったら、大丈夫だ。外に逃げれば、弓矢の援護を得られる。
そのことに気付いて、孝治は少し冷静さを取り戻した。幸いにして、今居る位置は空き家の入り口付近だ。外に飛び出すには三秒とかかるまい。
とはいえ急な飛び出しは、誤射の危険性を高める。熊から目を離さないよう、ゆっくりと後退して空き家から出るべきだろう――
――――そうだ、逃げろ。
音を立てないよう、慎重に孝治は立ち上がった。
そろそろと腰を上げる。大丈夫だ、熊はこちらに気付いていない。今も一心不乱に、地面に向かって、その巨大な頭を動かしていた。
ぐちゃぐちゃという音が、聞こえる。
逃げられる。
今ならば、逃げられる。
熊から視線を離さないままに、孝治は一歩、足を後ろへと運んだ。
そうだ、逃げられる。“熊が気を取られている今なら”、十二分に逃げられる可能性はある。
もう一歩、後ろに下がる。視線は熊から離さない。熊の背中を凝視して、決してそこから離さない――
「ぐ、あぁ……」
呻き声が、聞こえる。
聞き知った人間の、聞き慣れぬ声だ。
もう一歩、下がろうとした、孝治の足が止まる。
――――見るな。
視線は熊から離さない。離してはいけない。
絶対にそれ以外を見てはいけない。
警告するのは理性の声だ。状況を俯瞰的に見る孝治の理性。冷笑的な自己。
“それ”はきっと、分かっている。何が起きているのか。自分が逃げられるのは、“一体どうしてなのか”。
全部分かった上で――生き残るための最善の判断として、見るなといっているのだろう。
……だが。
血の臭いがするのだ。先ほどから強烈な。
荒い熊の吐息と、それに紛れて聞こえるうめき声は、すでに孝治の脳に明確に認識されている。
耐えられなくなって、ちらりと視線を床に向ける。熊の体の下、敷かれるように広がるどす黒い血液の色彩が、目に入る。
そこからさらに、ゆっくりと視線を巡らせて。
熊に押さえ込まれるように倒れる、すでに土気色となった、カルウシパの顔を見た。
…………ああ、なるほど。
一瞬だけ浮かんだその納得が、一体何に対するものであったか。
それを考えるより先に――――孝治は絶叫した。
「そこを動くんじゃねえぇぇええええ!!!! ぶっ殺してやらぁぁああああああ!!!!!!!!」
そして孝治は、地面に落ちていた火箸を引っ掴んだ。
――――『彼』が生まれたのは、この島の北部にある山の中だった。
穴の中で産み落とされた『彼』は、大抵の熊がそうであるように、同時に産み落とされた兄弟と、母熊との三頭家族で過ごしていた。
母と兄弟と共に過ごしていた『彼』は、親離れを間近に控えたある日、人間の狩人に襲撃された。
――一撃であった。
兄、あるいは弟であった『彼』の兄弟は、狩人の放ったたった一矢の矢によって地に倒れ伏した。
その直後、気付いた母熊の反撃によって、狩人を撃退することには成功したが、『彼』は兄弟があっという間に衰弱して死んでいく様を、間近に観察することとなる。
ああ兄弟、人間というのは、恐ろしいものだなあ。息が苦しくて苦しくてたまらないよ。
言葉は無くとも意思は通じる。兄弟の遺言を、『彼』は間違えずに受け取った。
山の生き物にとって、人間は恐怖の対象であったが、しかしまざまざとその力を見せ付けられて――『彼』はその恐ろしさを痛感したのだ。
人間というのは怖いものだ。見つからないようにしなくては。
こうして『彼』は、親離れの後に深山に入り、徹底的に人を避けて生活するようになる。
人間さえ避ければ、この島に熊に敵い得る敵などいない。山の奥でひっそりと年を重ねた『彼』は、やがて魁偉な体格を得るに至る。
転機が訪れたのは、彼が十五歳を超えてからの事だ。
ある春、冬眠から覚めて巣穴を出ようとした『彼』は、熊狩りに来ていた狩人達と、ばったりと鉢合わせてしまった。
『彼』はビックリ仰天したが、狩人達も仰天した。そしてその中に一人、不慣れな若い狩人が居て、迂闊にも背中を見せて逃げ出してしまった。
追いかけて、引き倒した。
これは熊の本能だ。反射的に逃げる相手を引き倒した『彼』は、恐れていた人間の、あまりの非力さに驚いた。
打ち所が悪かったのもあるのだろう。地面に倒れた時たまたま頭を岩にぶつけてしまったその若い狩人は、『彼』が気付いた時には絶命してしまっていたのだ。
こんなものか。こんなものなら、倒せるのではないか。
彼はこの瞬間、こう思ったが――しかし次の瞬間矢が放たれて、身を翻して慌てて逃げた。
それは兄弟の最期が記憶に残っていたからだ。そうして慌てて山を駆け下りて、しかし射られた矢の一本が、毛皮を掠めて皮膚を裂いた。
その場は気に留めなかったものの、しかしその夜、息苦しさと激痛に苛まれた『彼』は、茂みの中に身を伏せながら、こう思った。
人間そのものは、あまり強くない。しかしあの、飛んでくるヤツは厄介だ……。
だが、彼の災難はまだ終わらなかった。仲間を殺されたことに怒った人間達が、山狩りを実施したからだ。
これに対して、彼は必死に逃げた。毒によって弱った体を引きずり、山から山へと逃げ続けた。
途中で、追っ手を襲って殺したこともある。茂みに引きずり込んで食らった人間の肉は、たしかに美味であったが……その直後、応援に来た人間の気配を感じ、即座に逃げざるを得なかった。
やはり人間は、敵に回してはいけない。一人を楽に殺せても、すぐに仲間がやってくる。
何とか追っ手を振り切った『彼』は、以前にもまして人里を避け、深山に潜むようになる。
そうして『彼』は数年を過ごしたが、ところが今年の秋、不作であった山の恵に空腹を耐えかねて、人里に下りることになる。
人間の里には食料が豊富だった。里の倉庫を物色していた『彼』は、そこで人間と鉢合わせて反射的に叩き殺してしまう。
やはり人間は鹿などより余程狩り易い獲物で――しかしその苛烈な反撃に、『彼』は住み慣れた山を離れざるを得なくなった。
『彼』の体格は巨大である。冬眠用の穴など、そう簡単に見つかるものではない。
やむなく『穴持たず』となった『彼』は、冬場の食料を人里に求めるしかなくなって……そうして人間と、衝突するようになったのである。
そして、今。
「そこを動くんじゃねえぇぇええええ!!!! ぶっ殺してやらぁぁああああああ!!!!!!!!」
突然の背後からの大音声に、『人食い』は獲物を食らうのを止めて、慌てて振り返った。
築地孝治は激昂していた。この世界に来て最初に出会った人間、命の恩人が、無残にも食われていたからだ。
勝てる勝てないとか、生きるとか死ぬとか、そんなことはどうでもいい。とにかく目の前の存在をブチ殺してやらなくては気が済まない――!!
――――だから、見るなと言ったんだ。
自分自身に対する呆れの声が聞こえて、うるせえ、と孝治は一喝した。
テメエも俺の一部なら、大人しく俺の決定に従え――!!
生来孝治は激情の気質がある。その本性が、この土壇場で惜しみなく発揮されていた。
左手に把持する火箸は二本、その一本を右手で構える。振りかぶりは熊が振り返るのと同時。眼前の熊は、急いで孝治を黙らせようと飛び掛りの姿勢を見せる。
攻撃時の熊の瞬発力は、鹿をも超える。人間が回避できるような速度ではない。
だが、その瞬発力が発揮されるより一瞬早く、孝治の右手は振り下ろされていた。
――――目を狙え。
己の生還すら放棄させる激情の中で、しかし孝治の判断力は揺るぎがなかった。
飛び掛ろうと熊が背中を丸めた一瞬、その左の眼球目掛けて、火箸は飛んだ。
グァア、という声。
静から動へと移行する、その一瞬の居着きを突いて、火箸は見事に突き立っていた。
なんだ、これは。
走る左目の激痛に、『人食い』は驚愕する。
元より人の恐ろしさを知る『人食い』である。丸腰に見えた先の獲物がもたらしたこの痛みに、恐怖して全身の毛を逆立たせる。
まさか、毒か。しかし毒を食らった時のような、体の重さは感じられない。
攻撃だ、見知らぬ攻撃だ。
眼前の『獲物』が再度、右手を振り上げる。先ほどと同じモーションに、危機感を煽られて『人食い』は横っ飛びに避けた。
どおん、と、勢い余って壁に激突する。その巨体の俊敏な動きに、しかし『獲物』は冷静であった。『獲物』から目を離さなかった『人食い』は、飛びながらその事を理解していた。
力強い振り上げは、フェイント。着地の瞬間、激突の衝撃で僅かに硬直したその隙を突いて、『獲物』はようやく、右手を振り下ろす。
咄嗟に、『人食い』は頭を振った。
放たれた『矢』は、『人食い』の頬骨に当たった。鈍い痛みが走り、しかし毛皮を貫かれなかったことを、『人食い』は感覚で理解した。
グオォ、と威圧的な唸りを上げる。しかし『獲物』は怯む様子もなく、滑らかな動きで『刀』を抜いた。
放たれる金属の輝き。だが――『それ』は知っている。
『あれ』なら、問題ない。
歴戦の『人食い』は、そのことに気付いた。大丈夫だ、『あれ』は大して痛くない。
それでも、慎重な『人食い』は、本能的な働きで前足を上げて立ち上がった。
両眼を潰すのは、失敗したか。
山刀を抜いた孝治は、目論見が潰えたことに気付いた。
完全に視力を奪えていれば、多少は勝ちの目があったかもしれないが――まあ、一パーセントが二パーセントになる程度だろうか。大した違いは無い。
もはや孝治は覚悟を固めているのだ。『やるといったら、やる』。とうに失ったはずの命、なんぞ惜しいことがあろうか。
――――捨て鉢だな。
それに、何の問題がある。命を長らえて、一体何の意味がある。
自問自答は、刹那に満たぬ時間。
踏み出して孝治は、熊に向かった。視線の先の熊はおあつらえ向きに、後ろ足で立ち上がろうとしていた。
渾身の力で胸を刺突する、上手くいけば、心の臓に達するやも知れぬ――
――――何の意味が、だと?
走り出す孝治の胸の内に、不意に、疑念が浮かび上がった。
孝治と熊の距離は、至近。余計なことなど考えている暇は無いし、事実この時孝治は、浮かんだ疑念を聞き流した。
立ち上がった熊は両の前腕を上げている。恐らく飛び込もうとする孝治を迎え撃ち、強力なベアクローで頭を叩き潰して殺すつもりだろう。
だったら、それでいい。
酷く清清しい気分で、孝治は疾走する。たった数歩の距離だ、何秒も掛かるわけがない。
ここで死のうと、覚悟を決める。先ほど熊が横っ飛びに飛んだ瞬間、ちらりと見えたカルウシパの姿――あまりにも無残な有様は、孝治から気力を奪っていた。
そうだ、結局“そういうこと”なのだ。だったらもう、いい。“この先”には、進まない、進みたくない。
ここですっぱり終わらせよう。恩義に殉じて死ぬ。それで終いだ、“ゲームオーバー”だ。
目の前の熊が前腕を振るおうとするのを認識して、ざまあ見やがれ、と孝治は悪態をついた。
もう、熊の殺傷圏内に入る。もうすぐ、終わる。
だからもう一度、孝治は悪態を吐いた。
ざまあみろ、邪神。もう付き合ってなど居られるか――――
迫り来る死を前にして、孝治はとうとう、自分の存在に対する欺瞞を止めた。
そんな孝治の心の中に、先ほどの疑念の続きが浮かび上がる。
――――意味はある。
熊が、残る右目に殺意を燃やした。
――――あるから、お前は、“ここまで付き合ってやった”んだ。
前腕が、唸る。単純な特攻の体勢を取っていた孝治は、それを避けられるはずがない。
ああこれで楽になれる、と、心のどこかで安堵して、
――――だがまあ、仕方ないか。“忘れている”のだから。思い出したいとさえ、思わなかったのだから。
どういうことだろうか、と、ほんの僅かの疑問が浮かんだ。
しかしもう、遅い。その疑問を解決する機会は、永遠に失われるのだ――――
――――だからまあ、仕方ないか。
――――“手を貸してやろう”
「――!?」
孝治の右膝から、突然、力が抜けた。
死を目前にした恐怖から、弛緩してしまったのだろうか。まさかそんなはずは――
ごうと振るわれた熊の腕が、孝治の頭を掠める。
回避したのだ、と遅れて認識が届いた。いやおかしい、と理性が叫ぶ。そんなつもりではなかったはずだ。
しかし孝治は、孝治の殺意は、その好機を逃さなかった。傾いだ体は右前方へ、即ち熊の死角となっている、左脇腹へと突っ込んでいる。
遮二無二山刀を突き立てる。体重を乗せた刺突は、アバラ三枚と呼ばれる急所に、見事に突き刺さった。
深々と、刺さる。強靭な熊の筋肉を貫き、“奇跡的な強運で”頑丈な肋骨を回避して、鍔元近くまで。
「ぐ、……!」
だが、まだだ、まだ終わらない。
突き立てた切先は肺腑まで達したはずで、傷そのものは致命傷だ。しかし致命傷を負ったくらいで、野生の熊は止まらない。
孝治を振り払おうとする『人食い』の一撃を、甘んじて受ける一瞬――指先で、鍔元を引っ掛けた。
吹き飛ばされる。その勢いを利して、山刀を引っこ抜く。
「がはっ」
茅葺の壁は柔らかく、孝治の体を受け止める。しかし吹き飛ばされた衝撃は大きく、一瞬視界がブラックアウトする。
途切れそうになる意識を、何とか繋ぎとめた。視線は熊から離さず――その熊が、こちらに向かって血走った目を向けたことに気付き、痛む体で強引に、横っ飛びに避ける。
どおん、と先ほどよりも大きく小屋が揺れて、孝治は辛うじて回避に成功していた。
「げほっ……くそ、どうなって……」
わけがわからなかった。何故自分が生きているのか、何故熊が脇腹から、おびただしい量の血を流しているのか。
ぶちまけられた血液は、完全に室内を血の海に変えていた。無論、カルウシパの分の血液も混ざっているだろうが……しかし最早、その大半は熊の物ではないだろうか。
壁に激突した熊は、すでに先ほどまでの元気を失っていた。戦意は衰えていないようだったが、足取りをよろめかせている。
だが、まだだ、まだ終わっていない。
山刀を構えなおして、孝治は熊を睨んだ。
傷は深い、もう長くあるまい。それでも、野性の本能は、『人食い』を闘争へと駆り立てていた。
彼にとってはもう、孝治は獲物ではない。己を殺そうとしてくる、狩人なのだ。敵が居るなら食い破って生き残る――そんな強烈な野生の意思が、孝治を貫いた。
……上等だ!
応じて孝治も、一歩を踏み出す。先ほどまでの捨て鉢な感情は鳴りを潜めて、今はただ、目の前の敵を殲滅しようとする意思が、前面に押し出されていた。
勝算があるならば、相手が弱っているならば、全力で殺意を完遂する――それは目的達成の意思だ。冷静な分析力と一貫した意思。人間特有の心の働きが、孝治を突き動かしている。
――――そうだ、それでいい。
すでに脇腹の傷は致命傷で、『人食い』の命は長くはあるまい。後は時間を稼ぐだけで、良い。
腰を落とした孝治は、飛び掛ってきた『人食い』の攻撃を、紙一重でかわす。
……ここからわずか数十秒間の死闘を、孝治は後々になっても思い出せなかった。