人類史において大きなターニングポイントとなった『製鉄』であるが、化学的にはそこまで困難な技術ではない。
最も単純な方法は、酸化鉄――砂鉄や鉄鉱石など――を炭素によって還元する方法である。ある程度の大きさに砕いてから石炭あるいは木炭と交互に重ねて燃焼させ、発生した一酸化炭素によって酸化鉄中の酸素を奪う。実験室で行うなら、それこそ中学生レベルの実験である。
また、鉄元素は自然界に多く存在する元素の一つだ。単体では不安定なため、化合物の形で存在するのだが、しかし鉄鉱石というのは結構ありふれた石のはずだった。
そう、そのはずなのだ。手段は分かっているし、原料の調達も多分、不可能ではない。
では何が、孝治にとって最大の難関となっているかというと――――
「さあ、鉄鉱石を特定する作業に入ろうか!」
テンション高く言い切った孝治に、『おー』とルゥシアは眠そうな声を上げた。
そう、『原料の特定』である。高校時代に地学教室や科学教室で鉱物サンプルくらいは見たことがあるが、大学以降完全に文系の孝治、石の鑑定能力が少々ならず怪しかった。
とりあえず酸化鉄なんだから赤錆か黒錆だよな、程度の認識でそれっぽい色の石を拾い続けてきたが、果たしてこの中に本当に本物があるのだろうか。並べた石を見て孝治は不安になる。
「……だが、やってみるしかない! 行動あるのみ!」
「おー」
ルゥシアは欠伸を噛み殺しながらも律儀に返答した。
なにしろ時刻は早朝である。前日には村の皆と燻製作りを行ったばかりで、ルゥシアは結構疲れていた。しかし孝治は一向に元気そのもので、正直ちょっと驚きだった。
冬にはあんなに頼りなさげだったのになあ……。やっぱり男の人なんだね……。
つくづく目を瞠る成長振りである。鹿一頭狩ったことの無い男とは思えない。
眠い目を擦るルゥシアにどうこう言う余裕もなく、孝治はうちわを取り出した。春に炭焼きに使った物と同じ、二本の支柱と布で構成される代物だ。
自分自身に言い聞かせるように、力強くうちわを握り締めて宣言する。
「春先に焼いた炭が残っていたので、今回はそれを使う。拾ってきた石を二つに割って、片方ずつ順番に焼いていくぞ」
「……うちわで扇いで出来るものなの?」
「正直知らん。……まあ、表面の一部が還元されれば今回は十分だからな」
カンゲンってなんだろうな、と首を傾げるルゥシアに構わず、孝治は炭と石を積み上げていく。
本当はレンガを積み上げて炉を作るべきなのだろうが、今回は焼くべき石の量も少なく、それにレンガのストックも無かった。余っていた木炭を惜しげもなく使い、包み込んで焼くことにする。
「多分出来ると思うんだが……やっぱり本番までにレンガ焼かないと駄目かな……」
「レンガなら子供達に作らせるよ? 土を練って四角くして、乾かしておけばいいんだよね?」
「あー、頼んで良いか?」
「任せてよ!」
ようやく眠気が晴れたのか、元気良く返事したルゥシアに、孝治は『じゃあ頼む』と頭を下げた。
他人に投げられる仕事は丸投げする。クゥルシペで学んだ知恵である。
「鉄鉱石が特定できたら、俺は石拾いに行かないとならん。近場ならいいんだが、遠出になる可能性もある。大丈夫だとは思うんだが……」
「え、タカハルまた出かけるの?」
「石が無いと話にならないからな。……炭は焼いた、レンガはルゥシアに頼む、それとふいごが……ああ」
うちわでばっさばっさと扇ぎながら、孝治は天を仰いだ。
「ふいご作りも俺が直接監督しないと駄目か。……イカダ二つで袋を挟み込んで重石を載せて、てこの原理で持ち上げるための操作レバーを付ければ良いんだよな……?」
「何を言ってるか良く分からないよ……」
本当に初雪が降るまでに終わるのだろうかと、孝治は不安になる。
しかし、既に賽は投げられているのである。とにかくやってみるしかないと、孝治は腹を括っていた。
「カルウシパぁー!!」
「うおっ!? なんだいきなり!?」
昼食時に家に戻っていたカルウシパは、いきなり駆け込んできた孝治に仰天した。
「どうしたタカハル! 朝早くから作業に出てたみたいだが、一体今度は何があった?」
「こいつを見てくれ!」
単刀直入に孝治は、手に持っていた塊を床に叩き付けるように置いた。
水で濡れたその塊を、カルウシパは手に取って見る。濡れているのは冷やすためだったのだろうか、まだかすかに熱を持つそれに、カルウシパは目を見張った。
表面に細かな穴が開いたそれは、明確な金属の光沢を放っている――――
「石の特定に成功した」
孝治は勢い込んで言う。
「炭の量が足りなくて還元は不完全だが、ようやくこれでスタートラインに立てる。炭焼きに人手を出して欲しい。これから先大量に必要になるぞ」
「ま――待て、タカハル。その肝心の石は、一体何処にある?」
興奮する孝治を抑えつつも、カルウシパは深呼吸して質問する。
『炭の調達』と『石の輸送』が最大の難所になるとは、カルウシパも孝治から何度も聞かされている。孝治は自らの知識を整理するために他人に説明して回っていて、カルウシパも製鉄計画の概略くらいは既に脳内にイメージを持てていた。
「石は重い、運ぶのが面倒だから現地に炉を作って、そこで『カンゲン』を行う。そう言っていたのはお前だろう。それでその石は何処にあるんだ?」
「すぐそこだ、カルウシパ」
孝治は親指で南を指した。クゥルシペへの峠道の方向だ。
「峠に通じる道の麓に、断層が露出している場所がある。その下の方に大量に落ちてた赤い石が、やはり赤鉄鉱だ。こいつでいける」
「……いつの間にそんな所で石を拾ってたんだ」
「クゥルシペからの帰りにな。しかし運が良かったよ」
近場で見つかったのは僥倖といって良い。最悪遠出してまで拾いに行く覚悟を決めていた孝治だ。日帰りで持ち帰れる距離は願っても無い。
「石の見つかった近くには、地面が平らな空間がある。あそこを切り開いて炉を設置してしまえば、一気に大量の鉄を作ることも出来るかもしれない。エヘンヌーイの基幹産業になりえるぞ」
「炉ってのは、レンガを組み上げて作るやつだよな?」
「ああ。地面に直接鉄鉱石と炭を積み上げて送風しただけでも、還元は進むようだが……やっぱり壁で囲って、ふいごで下からガンガン風を送ったほうが効率が良いと思う」
鉄を還元するのは熱と一酸化炭素の働きだ。吹きっさらしで反応させるより、ある程度密閉した方が良いのではないか。そう考える孝治の思考は妥当であろう。
「というわけで、しばらくはレンガ造りだ。それと炭焼き。レンガは輸送の手間を省くため、現地の近くで粘土を見つけて作る。炭は軽いからいつもの場所でもいいだろう。問題はふいごなんだが……」
「ちょ、ちょっと待ってくれタカハル」
カルウシパは慌ててストップをかけた。
「一度に言われても分からん。それに今は秋だ、人を出すにも限界がある」
「じゃあせめて、炭焼き用の木の調達だけでも手伝って欲しい。どの道冬に向けて、薪は必要になるだろう?」
「まあ、それはそうなんだが……今の時期、薪は燻製に使いたいんだよな」
カルウシパは囲炉裏の方を見た。今は昼飯の準備中で、囲炉裏には薪が燃えている。
その上には鮭や鹿肉が吊るされているが、これは既に燻製にされたものだ。この土地での燻製の作り方は、天井に肉を吊るしてから囲炉裏に薪を放り込んで昇る煙で燻すやり方で、孝治も何度か参加したが、室内中猛烈に煙い。
「タカハルも分かるだろうが、今は重要な時期だ。もう少し待て」
「……もしかしてルゥシアを連れ回してるのもまずかったか?」
孝治はそう尋ねた。夏に成果を挙げたお陰で調子に乗っていたが、改めて思うと今の季節、食糧の備蓄に貢献しないのは問題ではなかろうか……。
「いや、その程度は俺の方でカバーできる。ルゥシアには色々と教えてやってくれ」
「俺もそのつもりだが……」
「頼む。これから先、うちの集落にとっての鍵は多分、タカハル、お前だ」
急にそんなことを言われて、孝治は困惑した。
「そういってもらえるのは嬉しいが、俺は元々客人だ。それに俺の知識はそろそろ打ち止めで、鉄以上のものは……」
「知識とか知恵じゃない。お前には“貫禄”がある」
「貫禄?」
考えたことも無かった、という顔をした孝治に、カルウシパは言い聞かせるように言った。
「何事か起きた時、他人の顔を見ないでじっと考え込むだろう? そういう部分が重要なんだ」
「それはまあ、最初に自分の頭で考えるタイプではあるが」
そこが重要だと言われると、そうなんだろうか、としか答えられない。
孝治が他人の意見を参考にしないのは、元々の性格によるものでしかない。自分の行動の責任を自分でとるために、他人の意見には流されない、という。自分でも以前から協調性に欠けるという自覚はあって、そこを褒められても違和感しかなかった。
しかしカルウシパは、そこを買っているのである。
「人間は不安になると口数が多くなるだろ? そこで沈黙を守れるのは、肝が据わってる証拠だ」
「……そうかなあ」
このような原始的な集落では、周囲との協調は生き残るための必要条件で、全ての人間が等しくその能力を身に付けている。非常時にまず周囲の様子を伺うのも、その延長線上のものである。
しかし集団には指針を示す人間が必要だ。リーダーであれ参謀役であれ、そういった人間は軽々に他人の顔色を伺ってはいけない。そしてカルウシパは孝治に、その為に必要な貫禄を見出していた。
面倒見が悪いためリーダーには向かないが、知恵者として意見を求められる立場にはなりえる。それがカルウシパの孝治への評価だった。
「それにタカハルはエルマシトに評価されてる。クゥルシペはウチと違って大所帯だ。鉄作りに人を出す余裕もあるだろう」
「……エヘンヌーイで製鉄は無理だと、カルウシパはそう思っているのか?」
「お前だってそうだろ?」
言われて孝治は沈黙した。
エヘンヌーイは結構な交通の要所であって、夏にはクゥルシペに向かう他部族が宿場扱いで集まってくる。彼らに鉄製品を卸して集落を栄えさせよう、というのが孝治が描いていた計画だった。
だが、
「……人手、そこまで足りないのか」
「炭焼きの季節が秋、ってのが大きい。それに春に作業してるのを見たが、ここはエヘンヌーイ(沼辺)だ。木を大量に切れば……」
「……獣達が困る」
目を閉じて、孝治は湖畔の風景を思い浮かべる。確かにこの辺りの風景は、日本なら道東にでも行かなければ見ることの出来ない絶景だ。この風景を壊すのは、たしかに罪悪感がある。
それに以前にも考えたことだが、寒冷地では森林資源の回復が遅い。そして製鉄は、大量の木を必要とする――――
「率直に言おう。タカハルの力を存分に振るうには、エヘンヌーイは適してない」
ズバリと言われて、孝治は渋面を作った。
「この村には、愛着もあるんだが」
「それは分かってるし、そう思ってもらえて俺も嬉しい。だが事実だ。タカハルは、クゥルシペで働くべきだ」
この島に留まる限りはな、とカルウシパは一応前置きした。
その上で、こう言った。
「そしてもし、クゥルシペで働くなら、ルゥシアも連れて行ってくれないか」
「ルゥシアを?」
孝治は聞き返した。いや、カルウシパの娘であるルゥシアをクゥルシペに常駐させるのは、集落同士の関係を考えるならおかしな話ではない。
それにルゥシアは前から孝治の仕事の手伝いをしていて、炭焼きやレンガ造りのノウハウも持っている。物覚えも早く、作業助手としては結構優秀だった。彼女がクゥルシペで活躍してくれれば、集落の評価は上がる。先を見据えるなら悪い判断ではない。
レンガの製造はクゥルシペの若い衆にも仕込んでしまっているが、製鉄関係のノウハウはこれから作る。今から叩き込めば多少のアドバンテージにはなるか……などと考えつつも、そういう意味じゃないな、と孝治は感じ取っていた。
「連れて行くのは構わないさ。ルゥシアも好奇心旺盛だ。港の仕事にもすぐ慣れると思う」
「だろうな。あいつはこの村に置いておくには、少しばかりはねっかえりだ。……ただまあ、そういう意味じゃなくてだな」
ゴホン、と咳払いしてカルウシパは言った。
「その、なんだ。……あいつのことを、嫁に貰っちゃくれないかと思ってだな」
その一言を、孝治は妙に冷静な気分で聞いていた。
なんとなく。……なんとなく、そんな気はしていた。七月のラカンシェの発言といい、“伏線は張られていた”気がする――――
「……?」
違和感を覚えて、孝治は頭を掻いた。
そんな様子をどう捉えたか、カルウシパは『ああいや』と前置きして続けた。
「今のタカハルは難しい立場だ、無理にとは言えないが……」
「いや、そうじゃないんだが……」
慌てて孝治は手を振った。ようやく思考が現実に追いついて、背中に脂汗が滲むのを感じる。
……結婚、結婚だと? 俺とルゥシアが?
自問自答して、孝治は頭を抱えた。どうにもイメージが浮かばない。
ルゥシアは妹のようなもので、そういう目線で見たことはない。それは実年齢がまだ12歳だか13歳だかということもあるが、なによりこの世界に来て最初の家族だったという、立ち位置の問題が大きいのである。
頭では理解できるのだ。異邦人が現地に根付くためには、現地の人間と結婚してしまうのが手っ取り早いということも。しかし基本がオタクの孝治は、結婚というものを必要以上に仰々しく捉える傾向があった。
「……しばらく考えさせてくれ。この話、ルゥシアには?」
「してない。まあ、あいつは嫌がらないと思うぞ。タカハルより親しい男も居ないはずだからな」
「いつの間にそんなことに……」
この土地の感覚だと、ルゥシアがそろそろ結婚適齢期なのは、たしかに孝治も知っていた。
嫁入り前の娘を連れ回していた事実に気付いて、孝治はいよいよ頭を抱えたのである。
「……どうしたの?」
「いや、なんでもない……」
その日の午後の話である。粘土を練って成形しながら、孝治はルゥシアから目を逸らした。
ここは沼――あるいは湖の近くである。先ほどまでは鉄鉱石の鉱脈の近くに炉を作る予定だったが、エヘンヌーイでの本格的な製鉄が不可能という事情を鑑み、せいぜい人間の肩の高さくらいの小型の炉で、実験的な製鉄装置を組み上げるに留めることとしていた。
よくよく考えると製鉄は火を使うため、山の方で行うのは中々リスキーなのだ。山火事になると困る、というのはカルウシパの指摘で、孝治は自分の浅慮をつくづく悔いていた。まだまだ未熟である。
「結局水辺が一番安定なんだよな。粘土を練るための水もあるし、ここには粘土もちょうど有るし」
「村の近くだから作業も楽だしね。石を運ぶのは面倒そうだけど」
「今回は少量だから、最悪俺一人で運ぶさ。……男連中には、ふいごの製作に協力して欲しいしな」
例によってふいごも小型の模型を作って試行錯誤した孝治である。基本構造は確定したが、現物サイズだと製造にどれだけ労力がかかるかは未知数だった。
猟期が終わってから雪が降るまでの一時期、そのタイミングを見計らって協力を仰ぐつもりでいる。夏に仕留めたアザラシの皮は、オクルマの手によって立派な皮袋となっていたが……二頭分の皮を丸々使った結果、妙に大きくなってしまっていた。
正直もう少し小さくても良かったかな、と孝治は後悔していたが、そんなことを言ったらラカンシェやオクルマに悪いので口を噤んでいる。まあ来年、クゥルシペに持って行けば無駄にはなるまい。
「木々を結び合わせるロープワークの技術、俺はほとんど持ってないからな……早く覚えないと」
「私も一緒に練習するよ! ……ところでタカハル、なんでこっち見ないの?」
むー、と頬を膨らませるルゥシアは可愛かった。ほんの数日前なら、孝治もまったりと彼女を愛でていただろう。
しかし、今となっては虚心で居られないのである。今までは子供相手の対応で済ませてきたが、結婚するかもしれないとなれば女性として扱わざるを得ない。その程度の分別は孝治にもある。
最低でも学生時代、部活の後輩に接していた程度の扱いはしなくては……などと考えて孝治は首を振った。
……そういえば後輩女子の扱い、結構酷かったな、俺。
「はあぁー……」
「……疲れてるの? 今日は休みにしようか?」
「そんな暇はないよ、ルゥシア……」
ルゥシアの名前を呼ぶ時、少しだけ舌がもつれた気がする。そんなことを考えて孝治は視線を泳がせた。
割と何事にも動じないタイプの孝治であるが、恋愛経験はほぼゼロだ。自分でもビックリするほどナイーブになっているのを感じる。
せめて製鉄を成功させるまで待っていてくれれば……などとカルウシパを恨んでも仕方がない。明らかにこれは、共同作業で仲を深めろという意図である。孝治としても、いつまでもこの状況に甘んじているつもりもない。早く慣れなくては。
「よし、ルゥシア。握手しようか」
「なんで!?」
そして煮詰まると極端な行動に走るのが孝治だった。
……こういうちょっと間違った行動力が、異世界で生き抜く原動力となっている部分もあるのだが。
さて、こうして九月も過ぎ去って、再び調達したレンガを厚く積み、孝治はまず炉を仮組みしてみた。
野火焼きのレンガを円形に積み上げる。内部の直径は五十センチ程度、高さは孝治の胸の高さだから、せいぜい百二、三十センチ程度だろう。耐火レンガを焼くのが面倒だったため、高温に耐えるために外壁は厚くする。再利用は考えなくていい。
隙間は泥で埋めてしまえば、還元作業中に勝手に焼きしまるだろう……そう判断して、一旦このレンガは倉庫に仕舞い込んだ。製鉄作業は一ヶ月以上先で、この間雨ざらしにするのは少々不安がある。
その次は炭焼きを行ったが、炉を二回分満たすに十分な量の炭を確保したら、これはすっぱりと打ち切った。大量に使っても使い道が無い。この地の燃料は薪が基本だ。煙が出るのにも意味があって、安易に炭に置き換えるのは孝治も不安だった。
炭焼きが終わったら、原料である鉄鉱石を村まで運んだ。孝治がひたすらタガネで砕き、一日だけ人を出してもらって一斉に運ぶ。近いといっても集落からは一時間以上は離れていて、少人数で何度も往復すると熊が怖い。
こうして炉、木炭、鉄鉱石が揃った所で、孝治は一旦作業を中断する。ふいごの製作には人手がかかる。食料の調達が一段落する十一月の下旬までは、無理にルゥシアと二人で進めても効率が悪い。そういう判断だった。
こうして十月の十日になる頃には、孝治は村の男達に混じって、狩猟に参加することとなったのである。
「今回も全く当たらなかった……」
鹿狩りから戻って火に当たりながら、孝治は消沈したように呟いた。山歩きには慣れたものの、流石に野生の鹿は俊敏だった。そうそう矢に当たるものではない。
既に日は落ちている。十月も半ばともなれば日照時間はかなり短くなっていて、この土地の生産性の悪さを肌で実感させてくれた。照明用の燃料に余裕など無く、夕飯が終わったらさっさと寝るのが基本だ。今使っている火も夕飯の残り火で、本当に厳しい土地だと孝治はうんざりする。まだ六時前なのに。
「気を落とすな、誰だって最初はそんなもんだ。それにタカハルは十分に役に立ってる」
「解体にはかなり慣れてきたと自分でも思ってる。しかしそれとこれとは別だろう」
「ま、そりゃそうだな」
カルウシパは軽く頷いた。獲物に矢が当たらない悔しさは、狩猟経験者なら共感できるものだ。
「接近して射る役、まだ任せてもらえないのか? 俺の腕だと、手負いで逃げる鹿には到底当たらんぞ……」
「接近する所までは、今のタカハルでもできるとは思う。止まっている鹿にも一応は当たるだろうが、しかし急所に当てられないだろうからなあ」
毒矢を使えば別であるが、あくまで鹿は食用である。毒はあまり使いたくないし、使うとしても弱い物だ。どちらにせよ急所に当てなくては効きが悪い。
なので鹿を見つけたら、最も弓の腕に長けた人間が接近して矢を放ち、急所を狙う。これで倒れればしめたものであるが、現実には致命傷に至らないことも多い。そのため保険として、鹿の逃走系路上に射手を配置して追い込んだりする。孝治に割り振られた仕事はこれだった。
弓の技量からいって妥当ではあるものの、当たらない矢を射る作業は気分のいいものではない。憂さ晴らしに肺を切り刻む――食用にならない鹿の肺は、細かく刻んでカラスに与える――手にも力が入るというものだった。
「まあ、訓練だと思って我慢してくれ。正直今のお前の弓の腕じゃ、任せられん」
「……夏の間、弓も練習しておけば良かった」
クゥルシペでは投石や相撲、ナイフ投げの練習はしていたものの、弓の練習は怠っていた。
他の人間が持たない技能を持つことは、別に無意味なことではないが……日本だろうが異世界だろうが、やはり『一般常識』は、優先して身につけておくべきなのである。
さて、このように弓矢の腕には良いところのない孝治であるが、何も弓矢で獲物を追いかけることだけが猟ではない。
翌日には気を取り直して、別のやり方を試みていた。
「カルウシパ、どうだ?」
「……ふむ」
出来上がった仕掛け弓を囲炉裏の炎にかざして、カルウシパは目を細めた。
そう、狩猟とは弓矢で獲物を追うだけではない。というよりも人類の狩りは、むしろ仕掛けによって獲物を捕らえる方が主流である。それはこの地でも同じことだった。
「弦の張りはまあまあだな。『矢筒』の出来は……ま、大丈夫か」
「本当か?」
「ここが命だ。嘘なんか言うものか」
この土地で使われる仕掛け弓には毒矢が用いられるが、設置した毒矢の毒が雨で流れないよう、また矢の直進性を高めるために筒状の覆いをかける。基本的に単純な構造の仕掛け弓だが、防水性を持たせる必要のある『矢筒』の部分は、結構手間がかかるのである。
手先の器用さに自信のある孝治も、作りながら何度か注意を受けていた。ここが問題ないならまあ大丈夫か、と、孝治は肩の力を抜く。
「慣れない作業ってのは疲れるもんだな……。いや、この島に来てからずっと、そんなことの連続だったが……」
「おいおいタカハル、気を抜くのは早いぞ。むしろ仕掛け罠はここからが本番だ」
「分かってる、分かってる。設置する場所、タイミング、隠し方……だろ?」
横に置いていた設置用の支え木を持ち上げて、孝治は言う。
知識だけは、空いている時間にひたすら叩き込まれてきているのだ。後は実践あるのみである。
「タヌキ箱、鳥バサミ、ウサギ糸と作り方だけは習ってきたが、このままだと仕掛ける間もなく冬になってしまう。早く実地で教えてくれないか」
「随分とやる気じゃないか、タカハル」
「そりゃあそうさ。自力で獲物を捕らえない事には、いつまでもルゥシアにグチグチ言われる羽目になるからな」
この孝治の物言いにカルウシパは苦笑する。狩りができない狩りができないと言い続けたルゥシアの言葉を、孝治も結構気にしていたのか。
まあ男として気持ちは分からんでもないなと、カルウシパは孝治の肩を叩いた。
「ようし、じゃあその意気だ。明日早速、仕掛けに行こうじゃないか。いい加減ルゥシアを見返してやれ」
「ありがたい。これで『小弓』は返上だな」
「代わりに『置き弓』になるだけじゃあないか? そもそも『小弓のタカハル』なんて、もう誰も言って無いぞ」
懐かしい話に二人揃って笑う。まだ孝治が村に馴染んでいなかった晩冬、そんなことをいわれていた時期もあった――そんな思い出深い笑みだった。
「……だからなんで、毎度毎度オレがテメエの指導担当なんだ」
「ラカンシェが一番上手いからだろ。歳の近いのもあるだろうし」
「納得いかん……」
ブツブツと言いながらも、ラカンシェの獣道を進む足取りは確かである。罠を仕掛けるにちょうど良いポイントというのは大体決まっていて、彼らにとっては迷うような場所ではない。
「カルウシパも世代交代を考えてる節があるからな。お鉢が回ってくるのはむしろ光栄じゃないか?」
「……オレとテメエでこの村の将来を担えってか?」
「そうみたいだな。……ここだけの話、ルゥシアとの結婚を打診されてる」
声を潜めてそう言った孝治を、ラカンシェは驚いた表情で振り返った。
「おいおいマジか。そうなるんじゃないかとは思ってたが、話が早すぎるぜ」
「……そういえばアザラシ狩りの時、ラカンシェも言ってたな」
「忘れんな。……しかし、そうか」
へえへえと頷きながら、立ち止まったラカンシェは孝治を値踏みするように見た。狭い獣道で髭面の男とお見合いする羽目になった孝治、居心地が悪くなって視線を逸らした。
「なんだよ、文句あるのか?」
「文句なんかねえが……いや、テメエが正式に村の人間になるなら、多少は態度を改めてやらねえとな」
「……今まででも十分、仲間として扱われてた記憶があるが」
「おいおい、どの辺がだ?」
不服そうな顔をするラカンシェに、孝治は『いや、まあ……』と言葉を濁した。薄々そうじゃないかとは思っていたが、やっぱりこいつツンデレなんだろうか。そんな思考が頭を過ぎって、それも嫌だな、と自分で否定する。誰得だった。
「それで結婚はいつになるんだ?」
「知らん。……個人的には色々と、迷う所もあるんだが」
「迷うようなことじゃないだろ。月に恋人でも残してきたのか?」
「……いや……」
孝治は僅かに返答を躊躇ったが、ラカンシェは気にせず続ける。
「だったらいいじゃねえか。テメエは狩りの腕は半人前でも、クゥルシペでは一人前以上の働きをしたんだろうが。今更女一人養う甲斐性が無いとは言わせねえぞ」
「ああ、そうか。そういう考え方になるのか……」
家族を養う甲斐性があるなら、さっさと結婚して子供を作る。そういう思考になるのはむしろ当然の事だなと、孝治は納得して頷いた。
なにしろこの土地では人口が少ない。『人口は国力』という標語を孝治は何処かで見たような記憶があったが、そんな言葉を思い出すまでも無く、身内は多いほうが良いと、この地で生活して痛感していた。
「……というかラカンシェ、お前こそ独身だろうに。結婚しろよ」
「オレのことはいいじゃねえか! なんか毎回タイミングずれてんだよ!」
「タイミング……?」
ラカンシェの過去の女性関係も気になったが、尋ねるより先にラカンシェが足早に歩きを再開してしまったので、慌てて孝治は追いかけた。
「ほら、ここだここ! ここに仕掛けろ!」
「って、近っ! 設置作業しながら話せばよかったじゃないか。なんで設置場所のすぐ手前で話し込んでたんだ」
「その時々で最適なポイントってのは変わるんだ。覚えとけ!」
フン、と鼻を鳴らして腕組みするラカンシェに、それはそうなんだろうが、と返しつつも釈然としない孝治である。とりあえず持ってきた罠を助言を受けながら設置しつつも、世間話風にラカンシェに相談する。
「しかし本当に良いものなのかね、ルゥシアを俺が娶っても。これを言うのも今更だが、俺は月人としてやるべきことがあるんだが」
「少なくとも表立っては、誰も反対しないだろうよ。ルゥシアは一部から人気があったから、妬む奴は出るかもしれねえが……しかしテメエはクゥルシペに行くんだろ?」
「そうだな。エヘンヌーイで狩りをするより、クゥルシペで扶桑の商人たちと取引してる方が性に合ってる」
「だったら関係ねえな。どうせルゥシアも連れて行くんだろうし、こっちに戻る頃には子供も出来てるだろ」
「子供、ねえ……」
……今のルゥシアで産めるのだろうか。
孝治はそう危惧するが、体格的にはルゥシアより小さい成人女性だって珍しくはない。帝王切開が必要になるほどではないだろうと、適当に納得しておいた。
ローティーン相手に子作りするのはどうよ、という倫理的な問題は放り投げておく。この手の良識は異世界では邪魔なだけだ。出生率向上だけ考えるなら、出産適齢期になったらガンガン産むのがベストだろうし。……つくづく合理的なのが孝治だった。
「……やっぱイメージ湧かないなあ」
「なっちまえば何とかなるもんだろ。ところでこの話、他にして良いのか?」
「いや、ルゥシア本人にもまだ言ってないはずだ。伏せといてくれ」
「どうせなら早く言った方が良いと思うぜ? ……というか、俺の方が先に話を聞かされるってどういうことだ」
他に相談できる奴が居なかったんだよ、という一言を飲み込んで、孝治は黙々と作業を続けた。
罠の設置にもコツがあって、足跡やフンから獣の行動パターンを把握して的確に設置する必要がある。
最初は他人に指示されながら設置するのがいっぱいいっぱいだった孝治も、数をこなしているうちに段々と要領が掴めてくるもので、暦が十一月に入る頃には、一人でも問題なく罠を仕掛けられるようになっていた。
これはラカンシェがわざわざ時間を取って、根気強く教えてくれたお陰である。本来この辺りの文化では、狩猟の技術は先達と一緒に作業をしながら覚えていくものなのだが、孝治には何しろ時間が無かった。
十二月にはクゥルシペに行くことになるため、それまでに最低限の狩りの技術を教えておかなくては、後で孝治に恥をかかせかねない。そう言ったカルウシパの真意は明らかにルゥシアとの結婚を見据えたものだったが、孝治もこの頃にはいい加減腹を括っていた。この世界に骨を埋めるなら、遅かれ早かれ所帯を持つ日は来るのである。
未だルゥシアは知らないが、とっくにこの縁談はカルウシパとラカンシェにとっては規定事項で、他にも村の大人達で勘の良い者は薄々察している様子だった。逃げ遅れたな、と孝治は冗談交じりにラカンシェにこぼしたものである。
というわけで花婿修行の意味合いを帯び始めたこの狩りの訓練であるが、これが中々に難しかった。仕掛けに獲物がかかるかどうかは運の要素もある。それでも一ヶ月という期間は、短くはないはずだったのだが……。
日課となった山の巡回で仕掛けた罠を確認して、孝治は溜息を吐く。
吐いた息がわずかに白く見えるのは、既に冬に入り始めているからだろう。木々の紅葉もすっかり落ちて、山道もそろそろ冬景色に近づいている。下草も枯れて垂れ下がっていて、仕掛けた罠も風景から浮き上がっていた。
いくらなんでも、ここまで獲物がかからないというのも珍しい話だった。カルウシパ達曰く、今年は全体的に山の実りが少ないらしいが……それにしたってこれは酷い。一ヶ月近く仕掛け続けて、全くかからないとはどういうことなのか。
一応点検だけ済ませて、孝治は村に戻った。この巡回作業も獲物を期待してのものではなく、孝治の狩猟技術の鍛錬のためという意味合いが強い。
だが、獲物のかからない罠をひたすら点検して回るのも空しい話だ。目的が分かっていても徒労感はあるし、なにより――――
「あ、タカハル。今日はどうだった?」
「残念ながらいつも通りだ」
「そっかー……」
村に戻るや駆け寄ってきたルゥシアにそう返事して、孝治はこっそりと溜息を吐いた。
ルゥシアとて、今年の不猟は知っている。……しかしそれでも毎日繰り返されるこのやり取り、結構孝治の心にのしかかっていた。
「まあ、気にすることはないよ! 獲物がかかるかどうかは時の運だし、それにタカハルの良さは狩りの腕じゃないしね!」
「……ふむ、じゃあ俺の良さってのはどの辺だルゥシア」
「え?」
フォローするルゥシアに、ふと気になって尋ねてみる。
これは完全に悪戯心の発露だった。孝治としてはルゥシアを嫁に取る覚悟で罠の見回りをしているのだ、これくらいは聞いても罰は当たるまい。
「えっと……とりあえず物知りだし、頭は良いよね」
指折り数えてルゥシアは答えた。
「それと働き者だし、面白い話をしてくれるよね」
「基本的に能力ばっかりだな」
いや、仕事が出来るかどうかは、全人類共通で男の価値ではあるのだが。
「せっかくならもう少し、俺がやる気を出すような褒め方をしてくれないか?」
「具体的にはどんな感じで?」
「そうだなあ。『カッコイイ』とか『頼りがいがある』とか言われるとグッとくる」
「……その二つは違うと思うなあ」
「えっ」
切って捨てられて、孝治は結構ショックを受けた。
しかしルゥシアは『あ、でも』と前置きして、
「一緒に居て楽しいよ。少なくとも私は」
にっこり笑って、こう言った。
「ラカンシェ! 罠を増やせないか!?」
「いきなりなんだ!?」
村の保存食も十分な量が確保できたため、そろそろ暇なラカンシェである。孝治が飛び込んできて驚いた。
「なんとかこの冬の間に獲物を獲りたいんだよ! 毎日毎日ルゥシアに猟果を聞かれる俺の身にもなってみろ!」
「知るかぁー!!」
横になったままのラカンシェに蹴り飛ばされて、孝治は土間に倒れた。
しっかりと受身を取っているのでダメージはないが、冷静になる程度の効果はあった。起き上がって口を開く。
「……なんとかならないか?」
「あのなあ……罠の設置場所には限界があるし、作るのだって労力が要るだろうが。もう冬になるってのに、一日中罠を作り続ける気か?」
「ううむ……」
腕組みして唸る孝治に、先ほどの興奮した様子を思い出してラカンシェは笑った。
「そんなにルゥシアに獲物を持ち帰れないのが辛いのかよ? 所帯じみてきやがったじゃねえか!」
「む……。そう見えるのか?」
「それ以外の何に見えるってんだ。以前のテメエなら、獲物が獲れなきゃもっと別にやることを見つけてたんじゃねえか? それを狩りにこだわるとは、らしくねえぜ?」
「……たしかにそうだ」
というか、そろそろ製鉄に取り掛かる時期に来ている。この期に及んで狩猟に没頭するとは、はっきり言って不合理だった。
ルゥシアの笑顔に高揚して思わず暴走してしまったが、孝治の本領はたしかに狩猟ではないのだ。……そう分かっていてもなお、今一つ納得できない部分があるのだが。
そんな孝治にニヤニヤ笑って、ラカンシェはからかうように言う。
「まあ世間の父親ってのは、そういうもんじゃねえのか? 夫としての自覚が出てきたことを喜べよ」
「夫……なのかなあ?」
「夫だろ。まあルゥシアはまだ子供だ、父親や兄のような心境かもしれんが」
「ああ、そっちの方がしっくり来るな」
どちらかというとこの感情は『妹萌え』だ――そう考えて孝治は納得する。この期に及んでこんなことを考えられる辺り、本当に図太いというか、いささかねじが飛んでいる。
「しかし、そうだな。狩りはそろそろ打ち止めにするか……」
「諦めるのか? って、ああそうか。雪が積もる前にクゥルシペに行くんだったな」
「そうなんだよ。それで、その前に製鉄をやらないとならん」
「鉄、ねえ……前に作った塊は見たが、あそこから刃物に出来るのか?」
「金槌はあるからな。岩を金床にして加熱してぶっ叩けば、棒状には出来るはずだ。そこから刃物にするのは難しいだろうが……」
一応、刃物の基本的な作り方は知っている。炭素を混ぜる、水で焼入れをする……しかし扶桑からの輸入品に匹敵する高品質なものは作れないと、最初から孝治は諦めていた。
「少なくとも、鏃と彫刻刀くらいは作れるだろう。山刀に関しては、正直作れる気がしない」
「鉄の鏃か、中々良いじゃねえか」
「俺も鏃が狙い目だと思う」
骨や石で賄えるため、鉄の鏃は扶桑から輸入しない。扶桑政府も武器の輸出には慎重で、扶桑の商人たちも鏃は扱いたがらない。下手に大量に輸出したら、お上に目を付けられかねないのである。
だからこそ孝治は、鏃を主力商品にするつもりだった。競合品が無いため質が悪くても売れるだろうし、商人たちから反感を買う可能性も低い。絶対に彼らの『商売敵』になるわけにはいかなかった。
それに万が一の場合、鉄の、あるいは鋼の鏃は侵略者に対する強力な武器となる。誰にも言っていないが、孝治が製鉄技術の確立を急ぐのにはこういう理由もあった。
「そうだな……明日から鉄作り、始めるか」
「相変わらず行動が急だな。とりあえず人手が要るようなら、俺が暇な時に集めろよ? テメエはなんというか、人望がねえからな」
「……肝に銘じとく」
……長の娘を娶ろうって人間に人望が無いって、大丈夫なんだろうか。
不安になりつつも孝治は頷いた。
まったく、持つべきものは友人である。
さて、こうして第一次製鉄計画の最終段階は開始された。
季節はすでに十一月も半ばを過ぎていて、気温は低い。白い息を吐きながらも孝治たちは、まず最初にふいごを作ることにした。
中核となるのは、一抱えもある大きなアザラシ皮製の袋だ。はっきり言って今回の実験的製鉄には不都合なほどに大きいが、今更縫い直すのも面倒だった。
ふいごというのは基本的に、袋を板で挟んで、膨らませたりしぼませたりして風を送る装置だ。なのでまず、この巨大な袋を二つの大きな板状のもので挟む必要があるが、これには細長い丸太で枠を組み、木の枝などを張り巡らせた物を使う。
材料となる木材は、孝治が罠の見回りをしながら地道に拾い集めていて、特に不足は無かった。この辺りは流石に経験を積んで段取りが良くなっていた。
……なので問題となったのは。
「おいタカハル、やることは分かったが、この丸太を縛るための縄は何処にあるんだ?」
「縄なんぞその辺の蔓で足りるんじゃないのか?」
「今、秋だよ?」
ラカンシェとルゥシアの指摘に、孝治は沈黙せざるを得なかった。
一応枯れたつる草を編んで使ってはみたものの、強度的にも不安があって、結局村の倉庫にあった、強靭な背負い縄を一時的に借りる形で使用することになる。
スリングでも使ったこの背負い縄は、樹皮の繊維を編んで作る。強度は十分であるが、しかし本来は消耗品ではなく日用雑貨だ。重い丸太を縛り上げることで痛めてしまうのは、正直かなり勿体無い。
とはいえ他に方法も無いので、使う縄が少なくてすむよう、孝治は慎重に木材の組み方を調節した。こうして出来上がった二つの枠は、炉の設置予定場所まで運び、そこでアザラシ袋と縫い合わせる。
次にふいごの操作レバーを作るのだが、これは案外簡単に済んだ。三本の丸太を縛り上げて三脚とし、その上にもう一本の丸太を水平に乗せ、一端はアザラシ袋の上の木枠と繋ぎ合わせて連動して動くようにする。レバーと三脚の固定の必要はない。
最後は袋の先端に土管を差し込んで縛り、こうしてふいごの設置が完了したら、倉庫から持ち出したレンガで炉を組み上げていく。
このような苦労を経て、なんとか初雪が降る前に、製鉄装置の準備は完了したのである。
「……長かったなあ」
朝の太陽の光に照らされた炉を眺めて、孝治はしみじみと呟いた。
現在、炉にはルゥシアが木炭と鉄鉱石を交互に詰め込んでいる。彼女がやりたがったので任せたが、ちょっと自分でもやりたかった気もする。炭と鉄鉱石の配分は重要なはずだった。
四月の宣言から八ヶ月近く。ようやくここまで辿り着いたのだ――そんな感慨に、孝治は眩しいものでも見るかのように製鉄装置を眺める。
……たったこれだけの装置を作るのに、本当に苦労したもんだな。
モノに満ち溢れた現代日本。そこで育った孝治にとっては、『工具も材料も無い』というのは全く未知の体験だった。あるのは材料以前の原料、そして己の知恵と五体――まったく文明というのは偉大なものだ。
次第に遠くなった日本への郷愁を蘇らせて立ち尽くす孝治に、今やすっかり相棒となったラカンシェが近づいてくる。今回の製鉄においては、彼はルゥシアと並んで助手の立場にある。
「おいタカハル、これで本当に出来るんだろうな?」
「出来るはずだ、ラカンシェ。ルゥシアの作業が終わったら火をつけて、後は炭が燃えている間中、ひたすらレバーを動かし続けるくらいだ。まあ……見物客が多いから、いざとなれば人手には困らないだろう」
ぐるりと孝治は見回した。流石に皆興味があるらしく、今日は大盛況である。
しかしその中にカルウシパが居ないのが、孝治としては残念だった。彼は今族長として、付近の集落との連絡に奔走していた。本格的な冬の訪れを前にした連絡会は、厳しい冬を乗り切るための保険である。
「……分かっちゃいるが寂しいもんだなあ。親爺殿にも見て欲しかったんだが」
とはいえ、これ以上日にちを遅らせるわけにもいかなかったのである。十二月の迫るこの時期、いつ初雪が降ってもおかしくない。初雪が根雪になる可能性は低いが、しかしエヘンヌーイとクゥルシペの間には峠がある。
多少の積雪なら強行突破できなくも無いが、足を滑らせて怪我でもしたら厄介だ。カルウシパも数日中には戻るはずで、そうなったらすぐにでもクゥルシペに向かわなくてはならない。
その時はルゥシアも連れて行くことになるのか。……随分遠くに来たもんだな。
正式に夫婦となるのはもう少し先のことだろうが、クゥルシペでは同棲生活を送ることになる予定だ。
女性経験は皆無に近い孝治であるが、この世界に来て以来、環境の変化にはいい加減慣れてきている。意外なほどに冷静であった。
最初こそ戸惑ったものの、二ヶ月あれば覚悟も定まる。恋愛感情と呼べるものかどうかは分からないが、今では孝治もルゥシアとの結婚生活をイメージできるようにはなっていた。
とはいえそんな孝治に、ラカンシェは近づいてきてもう一度先の質問を繰り返す。
「……もう一度聞くが、成功するだろうな? これだけ注目集めて失敗したら、面倒なことになるぞ」
「面倒? ……あ」
ラカンシェの言わんとするところを悟って、孝治は少し硬直した。
これだけの人手を借り、村中の注目を集めての作業である。ここで失敗したらエヘンヌーイでの孝治の評価は地に落ちる。いや、彼の本領はクゥルシペでの外交であって、別に一回製鉄に失敗したくらいでどうこう言うことはない、ないのだが……。
そうか、これが終わったらすぐクゥルシペだ。失敗したら再挑戦する時間はない……。
いつぞやのアルカシトの発言ではないが、孝治の立場は製鉄の失敗一つで吹き飛ぶような脆弱なものではない。しかしそれはあくまでクゥルシペでの話である。
ルゥシアの帰属はあくまでエヘンヌーイだ。ここで村人から失望されれば、結婚話は流れるだろう。
「……どうしようラカンシェ。今更ながらに緊張してきたんだが」
「タカハル、テメエ本当に危機感足りてねえ所あるよな……」
「タカハルー! 大体こんな感じでいいかなー!」
「ちょ、ちょっと待ってくれルゥシア、今行く!」
慌てて炉のほうに駆け寄って、孝治は内部を覗き込んだ。
「ちゃ、ちゃんと交互に並べたか?」
「うん、混ぜれば良いんだよね?」
「たしかそのはずだ。石の大きさは事前に揃えてあるし、あとは……」
頭を働かせてはみたものの、事前に思いつく限りの準備はしてある。
鉄鉱石は事前にある程度の大きさに砕いているし、使用する木炭と鉄鉱石の比率、量はあらかじめ決めてある。鉄鉱石を炭の下に敷くような真似をしない限り、還元は進むはずだ。
「……よし」
覚悟を決める。これは孝治にとって、この世界に来て二度目の正念場だ。
失敗は出来ない。しかしそれを自覚してなお、後退しない程度の肚は出来ている。
それに。
「いいの?」
「ああ。火を点ける準備をしてくれ」
「上手くいくかなー」
ルゥシアは期待と不安の混じったような声を上げていたが、しかしそれでも。
「大丈夫だと思うぞ」
「本当?」
「ああ。……どうしてだろうな、」
“失敗はない”
孝治はそう、確信していた。
……とは言ったものの、実際には作業は難航した。
まずはふいご。レバーを動かすたびに三脚がグラついて、安定させるために三人がかりで押さえ込む必要がでた。
さらにそのレバー自体が何度も三脚から外れそうになって作業が止まり、またふいご本体に乗せていた重石の重さが足りなかったのか、送風の勢いが弱い。仕方ないのでこれまた重石の代わりに両脇に人を置き、人力で押し潰すようにして――――
「レバー要らねえよな!?」
「本当だよ! 三脚撤去して直接手で動かすぞ!!」
「えー! 苦労して作ったのに!」
というわけで地面に固定していたわけでもない三脚は即座に撤去され、レバーの切り離しを行った上で、板を直接三人がかりで上下させて送風するようにした。結局最後は力技である。
動きが大きいため体力の消費は激しいが、幸い人手だけは大量にあった。見物人も動員して、ひたすら交代で送風を続けると、安定した送風によって赤熱した木炭がゴウゴウと音を立てて、炉の上部から炎を吹き上げた。
「凄い炎……」
「俺も驚きだ。人間サイズの小型炉でも、風を送るとこんなことになるのか……」
この島ではお目にかかれない光景に、ルゥシアが感嘆の声を上げた。他の皆もまた同様であり、同時に孝治も感動を覚える。
製鉄炉の吹き上げる炎――――これこそ、文明の火である。
「……理系だったら、もっと色々作れたのかなあ」
「おいタカハル! そろそろ交代だ!」
「ああ、分かった!」
こうして送風を続け、午後には炎も落ち着いた。人手はあるといっても結構な重労働で、孝治が終了の合図をした頃には、村の若者達は疲れ果てていた。
これで失敗したら本格的に恨まれるな、などと思いつつも孝治は火の消えた炉を覗き込む。
「……どう?」
不安そうに見守るルゥシアの視線を感じつつも――火箸で灰をかき回していた孝治は身を震わせた。
灰の中から取り出された紛れも無い金属の輝きに、感極まった声を上げる。
「成功だ!!」
掲げた鉄の塊は、太陽の光を反射して銀色に輝いていた。
――――こうして孝治の一年目の大目標は、一応の決着を見たのである。
とはいえここで手に入れられた鉄はスポンジ状で、放っておけばすぐに錆びて駄目になることは目に見えていた。保管するにもある程度形を整えてやる必要がある。
炉内の温度が鉄の融点に達しなかったのだろう。孝治も予想はしていたのでぬかりはなく、還元作業の翌日には準備を整えていた。
「というわけで今日はこのスポンジ状の鉄の塊を、叩いて棒状にする作業を行う」
水辺の岩場に余ったレンガで火箱を作り、さらに余った木炭で火を熾す。その中で昨日手に入れた鉄を加熱して、岩を金床代わりに叩いて成形するつもりだった。
腕まくりして意気込む孝治に、見学するルゥシアはふんふんと頷く。今日の作業はルゥシアと二人きりだ。鍛冶仕事もこの島ではお目にかかれないものではあるが、孝治はずぶの素人である。下手な作業を見せて先入観を持たれたら逆に面倒だった。
「大工用なのが不安だが、とりあえず金槌はある。岩も平面というわけではないが、とにかくやってみよう」
「大丈夫? また見落としがあったりしないかな?」
「そうそう失敗してたまるか」
孝治は自身ありげにそう言ったが、ルゥシアは不安だった。ふいごの製作の時といい、孝治が意気込んでいるとなんだか失敗しそうな気がする……この短期間でフラグというものを覚えたルゥシアである。
一方の孝治は孝治で、案の定『鍛冶仕事』という響きにテンションを上げていた。彼は中学時代、『刀匠になりたい』と進路志望に書いて担任に頭を抱えさせた男である。それはもうやる気だった。
火箸を使って火箱の中から熱された鉄塊を取り出す。熱され赤くなった塊を火箸で押さえたまま、左手で大工用の金槌を構えた孝治は、勢い込んで振り下ろした!
「せりゃぁぁあああああああっっづぅぅうううううう!!!!!!!!!!!」
「タカハルーっ!?」
そしてそのまま飛び散った火花で火傷して、十一月の沼に転がり落ちた。
そんなトラブルに見舞われつつも、鍛冶仕事は続行された。一度着替えに戻った孝治は、水で塗らした毛皮を手に巻きつけて、飛び散る火花から守ることにした。
数をこなしていく内に孝治も作業に慣れてきて、午後には数十本の鉄の棒がずらりと並べられた。夕方までまだ時間があると見た孝治は、実験的にこの中から一本を選ぶと、先端を鋭く打ち伸ばしてみる。
カンカンと針状に引き延ばされた鉄棒は、どんどんと細く長く伸びていった。バランスをとるために根元の側も叩いていって……。
「……何作ってるの?」
「鏃のつもりだったんだが……」
「串にしか見えないよ」
……ひたすら叩き続けた結果、出来上がったものはルゥシアの言うとおり、串にしか見えないものとなっていた。
「針状に引き延ばしたら、途中でタガネで切り離すべきだったんだな……それが分かったのが収穫か」
「それはいいけど、どうするの、これ」
「……肉を刺して焼こう」
「肉を焼くのにわざわざ鉄の串って……あ、そうだ」
ぽんと手を叩いてルゥシアは言った。
「ちょっと貸して?」
「何に使うんだ?」
「ふふふー。ちょっと向こう向いててね」
渡された串を受け取って、ルゥシアはニマニマと笑った。首を傾げつつも孝治は言われたとおり、ルゥシアに背を向ける。
わさわさとルゥシアが身じろぎする気配。
「えーっと、ここがこうで、たしか……」
……何やってるんだ?
気になりつつも孝治は、意識的に背後の気配から気を逸らした。こういう時に焦っても意味が無い。
仕方ないので晩秋の山の風景を眺めることにする。すでに葉の落ちた木々は雪の訪れを待っているようで、孝治にこの世界にやってきたばかりの頃を思い出させた。
あと一ヶ月もしたら、あたり一面は雪に覆われるだろう。孝治がこの世界に来たのは今年の一月だった。その季節が近づいている――――
「いいよー」
物思いにふけっていた孝治に、ルゥシアが声を掛けた。
ようやくか、と振り返る。視線の先のルゥシアは軽く横を向いていて、常は隠れているうなじの辺りを孝治に見せ付けるような姿勢だった。
そして隠れているはずの首筋が露出しているのは、
「じゃーん! どう? 扶桑風だよ!」
「……なるほど、かんざしか」
「反応薄いよタカハル!」
感心して頷く孝治に、ルゥシアは抗議の声を上げた。確かにこのリアクションは酷い。
後頭部で髪を纏めたルゥシアはたしかに目新しかったが、驚いてみせるタイミングは喪失してしまっている。どうしたもんかと孝治は少し考えて、当たり障りの無い反応を返した。
「そうやって髪を纏めるのもアリだな、うん。雰囲気が変わる」
「そうかな? 綺麗に見える?」
「見える見える」
もう一言くらい付け加えるべきだろうかとも思ったが、気の利いた言葉も浮かばなかった。これまでの人生で碌に女の子を褒めたことが無いのが痛い。
それでも、嫁になる相手である。孝治は咳払いしてこう続けた。
「ああ、その……可愛いよ? ルゥシア」
「えっ……どうしたの、タカハル」
「いや、その」
あまりにも唐突だっただろうか。怪訝な目で見られて孝治は視線を逸らした。一方的に意識している立場というのは、実にやりにくい。
……まあそれも、もう少しの辛抱か。
鉄作りに成功した以上、カルウシパが戻ったら婚約発表だろう。今までが一方的に意識していた分、これからは有利になる……はずだった。
まあルゥシアの事なので、大して深刻に受け止めない可能性もあるのだが……。
「ま、まあいい、気に入ったなら使え。力を入れたら曲がるから気を付けろよ」
「あ、くれるんだ。ありがとうタカハル! 大事にするよ!」
「……一応言っておくが、すぐ錆びるからな?」
髪の油である程度はコーティングされる気もするが、なにしろほぼ純鉄だ。あっという間に錆は浮くだろう。
それでもルゥシアは嬉しそうに言った。
「錆びたって平気だよ。だってタカハルから貰ったものなんだし!」
「そ、そうか?」
その笑顔に、孝治も釣られて笑みを浮かべる。
「当たり前だよ、一生大事にする! タカハルがあんなに頑張って作った物なんだから!」
「そんなことも……あるな。すげえ頑張ったな、俺」
「うんうん、タカハルは頑張ったよ。レンガを作って炭を焼いて、アザラシを狩って石を拾ってふいごを作って、他にもクゥルシペでも色々やってたんだよね?」
「……まあな」
異世界生活最初の一年、確かに色々なことがあった。
真冬に雪原のど真ん中に落とされた時はどうしたものかと思ったが……それももう十ヶ月という時間に隔てられた、過去の話となっていた。
最初の冬、ひたすら自分に出来ることを探した。食事が合わなくて腹を壊したこともあった。屋内で樹皮から糸を紡いでいたこともあった。ルゥシアに物語を聞かせたり、弓の訓練を見てもらったこともあった。
春になってようやく目標を掲げた。製鉄を大目標として始めた『技術開発』は、最初にレンガ作りと炭焼きから始まった。石灰、石鹸……そしてようやく今、こうして鉄の精製に成功したのだ。
「そうだな、これは俺の一年の集大成みたいなもんか」
「うん!」
頷くルゥシアを、孝治は無性に抱きしめたくなった。
別に良いかな、と思う。きっと彼女は嫌がるまい。それにもうすぐ、彼女にも婚約の事実は伝えるはずだ。
だ、大丈夫だよ……な? この十ヶ月のご褒美ってことで……。
らしくもなくどぎまぎしながら、孝治は手を伸ばす。
もちろん、クゥルシペでの仕事には決着がついていない。扶桑との交渉も、アトラスの問題も、すべてはこれからだった。
だがそれでも、こうして、“結果は出た”。“成果は上げた”。“成功した”。
その上で、この一年間の努力の結晶を、ルゥシアに渡せるというのは、きっと、きっと素晴らしいことで。
そしてこの成功を糧に、彼女を娶れるというのは。多分、とても、素敵なことだろうと。孝治は“喜びを露にして”ルゥシアを――――
見られている。
伸ばした手を――――孝治は止めた。
「? どうしたの、タカハル」
「……い、いや、なんでもない」
……やっぱりやめておこう。こういうのは、うん、順番とか色々とあるしな。
いやまあ、物作りの成功を祝って抱き合うくらいは、別にしても良いような気がするが……奥手なんだよと、自分に言い聞かせる。
やはり彼女居ない暦二十年――もう二十一年か? の孝治としては、こういった異性との触れ合いに抵抗があるのだ。
「作業も終わったし、そろそろ戻ろう。……うん、寒くなってきたしな」
「言われてみればそうだね。もう太陽もだいぶ下がってるし」
テキパキとルゥシアは炭を片付けた。すっかりと作業助手として成長している。これならクゥルシペに行っても、物作りは任せられそうだった。
孝治も作った鉄棒を風呂敷よろしく布で包んで、さて帰ろうかと立ち上がった。火箱にしていたレンガは放置する。回収しても使い道が無い。
「カルウシパ、そろそろ戻るかな」
「そうだね、今日あたり戻っててもおかしくないと思うよ」
村までの道を歩きながら、そんな会話を交わす。
快活に笑うルゥシアだが、しかしカルウシパが戻れば婚約発表だ。その時彼女はどんな顔をするやら……そう思うと孝治は緊張を覚えた。
……嫌がられることはないはずだ、多分……。
掌に浮かんだ汗を拭う。そうだ、これは緊張の汗だ。結婚という人生の一大事を前にして、自分は今緊張している――――
「タカハル? どうしたの?」
「……え?」
「なんだか顔色、悪いよ?」
心配げに見上げるルゥシアに、慌てて孝治は心配ない、と両手を振った。
「あー……昨日は製鉄の成功で興奮して、あんまり眠れなかったからな。きっとそのせいだろう」
「タカハルはいっつも、そうやって一人で突っ走るよね。子供じゃないんだから自分でちゃんとしなよ」
「……はい」
指摘されて孝治は項垂れた。
なんというか、なんだ。今からこんなことで、大丈夫なのだろうか。
しかし実際、“頭の中に靄のかかったような感覚”があるのも事実である。そしてこの土地では、体調不良は命に関わるのだ。
「そうだな、うん、これからはちゃんとしないとな」
製鉄の成功やルゥシアとの縁談で浮かれていたのかもしれない。軽く顔を叩いて孝治は気合を入れなおした。
これからは一人ではなくなる。所帯を持つからには今まで以上の働きをしなくてはならないし、下手を打った時痛い目を見るのは自分だけではない。それを思うと身の引き締まる思いになる。
「よし、じゃあさっさと帰ろう。いっそ競争するか?」
「へー。タカハル、私に勝てると思うの?」
「そろそろ良い勝負できると思うぞ? 足の長さが違うからな」
春先ならいざ知らず、今のならこの土地の環境に適応して体力が付いている。体格差も男女差もある以上、そうそう負けることはないだろう。
そう思った孝治の発言に、しかしルゥシアは、む、と眉間に皺を寄せた。
「それは聞き捨てならないよ。じゃあ勝負してみる?」
「いいだろう。じゃあゴールは村の入り口までだ」
乗っかって、ルゥシアとの勝負を決める。
こういう戯れをする機会も、じきに無くなる。この時孝治はそんな予感がしていた。
軽く膝を曲げて、駆け出す体勢をとる。不適な笑みを浮かべたルゥシアも呼応して膝を曲げる。
「よーし。じゃあヨーイ……」
やる気十分に掛け声を上げながら、思う。そういえばルゥシアと勝負をしたことはなかったような気がするな、と。
冬からずっと、二人は教え合い協力し合う関係だった。互角の勝負というのはきっと、初めての体験で――そしてこれが最初で最後になるのではないかと、孝治は漠然と感じ取っていた。
「ドン!」
だったら、悔いの無いように、と孝治はスタートの合図を出して。
そうして二人揃って、駆け出した。
この時の予感は正しかったと――ずっと後になって、孝治は思い出すことになる。
「やった! 私の勝ち!」
「畜生っ……」
枯れ草に覆われた木々の間を駆け抜け、村の入り口まで走り切った二人だった。
まずルゥシアが到着し、数秒遅れて孝治が着く。蓋を開けてみれば結構な大差で、孝治は少々ショックだった。
「序盤のリードをあっさり奪い返されるとは……」
「ふふーん。タカハルもまだまだだね!」
荒い息を吐いてへたり込む孝治を、まだまだ余裕綽々にルゥシアは見下ろした。
見上げる孝治は悔しげな表情ではあるが、手に持った包みを掲げて負け惜しみを吐く。案外大人気なかった。
「一応、俺は荷物の分ハンデがあったんだからな」
「むむ、言われてみれば……。でも、勝ちは勝ちだよね」
「……否定はしない」
溜飲を下げた孝治はあっさりと引き下がった。これにかえってルゥシアは嫌な顔をして、そっぽを向いて言う。
「でもタカハル、もっと足を鍛えないと駄目だよ? もうすぐ冬だけど、来年は……」
「おーい! タカハル! ルゥシア!!」
村から聞こえる声に、ん? と二人は揃って顔を向けた。
「あ、お父さん!」
「カルウシパ? 帰ってたのか……」
広場に居るのはカルウシパである。数日振りに見る顔に、二人は歓迎の声を上げた。
だがその周囲に、弓を持った男達が集まっているのに気付き、揃って怪訝な顔をする。
……なんだ?
疑問を持ちつつもどっこらせ、と腰を上げて、孝治はルゥシアと共にカルウシパの傍まで寄る。見ればカルウシパも弓を手に、険しい顔をしている。
重苦しい雰囲気に不安を覚えつつも、聞いた。
「どうしたカルウシパ、もうすぐ夕方だぞ」
「いや……少し面倒なことになっててな」
険しい表情のままに、カルウシパはそう答えた。
「タカハルは、クゥルシペに行くんだよな?」
「ああ、そのつもりだったが」
「しばらく出発は見合わせてくれ」
「……どういうことだ」
孝治は不安を押し殺すように低い声を上げる。
ルゥシアもまた、痺れを切らしたようにカルウシパに聞いた。
「何があったの?」
「熊だ」
対するカルウシパの答えは、簡潔だった。ここまで言われれば大体の察しは付く。
「熊? ……この季節にか」
「ああ」
孝治とてこの島で十ヶ月を過ごしている。熊の習性についても多くを学んでいて、今の時期が熊の冬眠期であることも知っていた。
冬眠に失敗した熊は、食料が取れなくて凶暴化する。そしてこの物々しい雰囲気――おおよその予想は付く。
そんな予想を裏付けるように、カルウシパは険しい顔で山を睨む。落ち着いた、しかし固い声で、
「熊が人を襲った、山向こうの集落で。……すでに三人、食われてるそうだ」
築地孝治、異世界生活一年目。
最後の“イベント”は、こうして向こうからやってきた。