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No.33159の一覧
[0] 【習作】世神もすなる異世界トリップといふものを、邪神もしてみむとてするなり[ハイント](2013/03/23 17:46)
[1] 『かみさまからもらったちーとのうりょく』の限界[ハイント](2012/05/19 03:13)
[2] 辺境における異世界人の身の処し方[ハイント](2013/04/04 23:48)
[3] 現代知識でチートできないなら、近代知識でチートすればいいじゃない[ハイント](2012/06/12 20:51)
[4] 至誠にして動かざる者は未だ之れあらざるなりと雖も、[ハイント](2012/07/01 22:11)
[5] 道徳仁義も礼に非ざれば成らず。[ハイント](2013/04/04 23:52)
[6] 辺境における異世界人の身の処し方 その2[ハイント](2019/01/30 02:00)
[7] 出来ること、出来ないこと[ハイント](2019/01/31 00:14)
[8] プロメテウスの火[ハイント](2019/02/05 01:21)
[9] 『人食い』[ハイント](2019/02/07 04:31)
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[33159] 辺境における異世界人の身の処し方 その2
Name: ハイント◆069a6d0f ID:a5c8329c 前を表示する / 次を表示する
Date: 2019/01/30 02:00
 最終話を書き上げたら投稿しようと誓って6年近く経ってしまった。
 5年以上かけてもとうとう書けず仕舞いですが、とりあえず当時書いていた分だけでも投稿します。













 異世界で生きていく――そんな物語は、巷に溢れている。
 そもそも未知の世界を旅したいというのは、人間にとって普遍的な欲求だ。それこそ神話の時代から、『ここではない場所』へ迷い込む物語は幾らでも存在した。
 ならば、その機会を得た築地孝治は幸運だったのだろうか――もしこの頃の孝治にそれを訊いたら、こう答えただろう。

「……さあ?」

 この時すでに、孝治は『自分が異世界に居る』という事実に、違和感を感じなくなっていた。
 もちろん、不安はある。“発端”たる彼の神性の存在を忘れてはいなかったし、根本的に自分が異世界出身者である事実は消せない。
 だがそれでも、それらの不安をうっちゃっておける程度には、孝治はこの世界に馴染んでしまっていたのである。

「仕事をして飯を食う。……異世界だの神様だのと言ったって、結局それだけなんだよなあ」

 あの異常な『プロローグ』から五ヶ月を過ごした今、それが孝治の実感だった。
 人の営みは、どの世界でも共通だ。だから孝治も、その理に従ってさえいれば良い。

 『誰かの為に出来ることをする』

 日本に居た頃の常識は、この世界では通用しないが……それでも、日本人として培ってきた、良識までは捨てるまい。
 孝治は、そう考えるようになっていた。
















 こうしてこの土地で、一人の人間として誠実に生きていく覚悟を決めた孝治であるが、別に自分の知識を活かす事自体を否定したわけではない。
 そもそも築地孝治の能力は、この世界の人間の水準を特別上回ってはいない。むしろ炭焼き一つに手間取る有様は、この世界の平均より役立たずでは無いかと、最近では思うようになっていた。

 だったら別に、セーブする必要は無いんじゃないか?

 ――――随分と、都合のいい話だな?

 孝治の脳内会議はそんな思考を非難していたが、しかしもういい加減、この手のネガティブな思考に付き合うのもうんざりだった。
 まさかこれから死ぬまで“居候”として、肩身の狭い思いをしているわけにもいかないのだ。自分自身の知識と能力くらい、全力で揮わせてもらいたい。
 ……というわけで開き直った孝治は、目下やらなくてはならない仕事が二つある。

 一つ目は、新製品の生産。一応の大目標は製鉄技術の確立であったが、それ以外にも思い出せるアイテムは作っていきたい。
 二つ目は、扶桑商人との交渉。これはエルマシトからの依頼であって、クゥルシペに留まるための条件でもある。手は抜けなかった。

 ついでにこれらと平行して、この世界の情報収集も進めなくてはいけない。アトラス帝国という脅威が存在する今、海外情勢の分析は孝治の重要な仕事である。

 さて、このように状況を整理した孝治が今、何をしているかというと――――







「うおぉぉーー!! 冷てえ!」

 六月も終わりに近づいた、天気の良い日の事である。
 エヘンヌーイの皆を見送ってクゥルシペに留まっていた孝治は今、浅瀬で海草を収集していた。
 午前中は仕事が無いということで、遠慮なく“趣味”の商品開発に勤しむことにした孝治である。クゥルシペにおけるメインの仕事はあくまで『通訳・交渉』であって、この手の作業は休暇を利用してやるしかない。
 とはいえ、物資の集まるクゥルシペである。好奇心旺盛なアルカシトが結構乗り気なこともあって、エヘンヌーイに留まっている頃よりも、作業の進展は遥かに良いのだが……。

「くそ、足が痛い! なんだってこんなに海水が冷たいんだ! 寒流か!」

 多分そうだろう。どうもこの土地、冬になると北の方の海岸には流氷も来るらしい。
 海水の冷たさに辟易しつつも、ブチブチと海草を毟り取っていく。服が濡れるとかえって寒くなるため褌一丁の格好で、クゥルシペの人々から裸族認定されてないかと心配になってくる。

 ……しかしまあ、たとえ変態扱いでも、仕事してる内は大丈夫か。俺の能力は替えがきかないし。

 周囲からの評価を気にしつつも、一方で冷静にこんなことも思う。以前カルウシパに指摘された『計算高さ』に、今や磨きもかかってきていた。
 春の日差しのせいだろうか。あるいは新天地クゥルシペでの生活に、スムーズに順応できて気が大きくなっているのか……妙にテンションの高い孝治であった。
 まあ、なにしろ開幕が真冬の雪原に叩き落されるという過酷なものだったのである。その頃から考えれば状況は大きく好転していて、はしゃぎたくなっても仕方あるまい。

「おーい、タカハル」

 そんな感じで一人で大騒ぎしながら作業をしていた孝治は、岸の方から声を掛けられて振り返った。

「おう? ああ、アルカシトか。どうした?」
「昼食時だから呼びに来たんだ。……随分取ったね」

 岩場の上に投げ出された海藻類は、種類もなにも雑多な有様であったが、その量だけはとにかく多い。
 こんもりと盛り上がった海草の山に、ああもうこんなに取ったのかと、孝治は頷いて陸に上がった。

「後は天日で干しておくか。砂が付きそうだが、地面に広げよう」
「下に小石か何かを敷けば良いんじゃないかな?」
「ああ、そういうのもあるか……しかしまあ、こいつらは食用にはしないからどうでもいいかなあ」

 もちろん日本人である孝治にとって、海草は完全に食材という意識である。しかし今回は、食材ではなく別の用途で使う予定だった。幸いにしてこの土地の人間は海草を食べないらしいので、遠慮なく使うことが出来る。
 やや深いところには昆布らしき海草もあったが、これは生身で取ることは不可能だった。孝治としては喉から手が出るほど欲しかったのだが、流石にこの海水温で素潜りは辛い。もし昆布が取りたいなら、小船と竿か何かを使う必要があるだろう。

「とりあえず今取った分は適当に広げて乾かしておくか。海草が乾燥するまで何日かかるか分からんが、雨さえ降らなければなんとかなるだろう」
「今日は天気も良いし、夕方までには結構乾くんじゃないかな。まあ、しばらく雨の心配はないと思うよ。……それにしても、何に使うんだい?」
「じきに分かる」
「タカハルはいつもそれだね」

 やれやれ、とアルカシトは呆れたように肩をすくめたが、孝治としてはあまり詳しく説明したくない。
 自分の知識にそこまでの自信はなかったし、説明して失敗するのは格好が悪い。作業に見通しがつくまでは、他人の干渉を避けたかった。
 とはいえ、必要な物の調達のためには、彼らに協力を仰ぐ必要もあるわけで。

「……そういえばアルカシト、油って手に入るか? 動物の脂肪で良いんだが」
「油? 灯りにでも使うのかい?」
「いや、そういうわけじゃないんだが……まあ、イメージ的には灯油が欲しい」
「灯油……そうなるとアザラシの脂かなあ」

 ……やっぱり居るのか、アザラシ

 今更動植物の生態系で驚く段階は過ぎていたが、しかしアザラシの存在が確定したのはありがたかった。あれは色々と役に立つ動物だ。
 それこそ『神秘の島』でも、かなり重要な役割を果たしている。手に入るなら是が非でも欲しい。

「でも今はこっちに入ってきてないなあ。秋になれば入ってくるだろうけど」
「夏は居ないのか?」
「一応居るけど、アザラシが居るのは北の方の港なんだよ。扶桑の商人はそっちまで直接買い付けに行くから、わざわざ陸路でクゥルシペに持って来たりしない。それに皮ならともかく、脂はあまり使わないしね」
「まあ、夜はさっさと寝るか、冬場なら暖房の炎があるからな……」

 昼夜逆転など、望んでも出来ないのがこの島である。
 しかし困った。まとまった量の脂が手に入らないなら、代替案を出さなくてはいけない。

「海草を薪に混ぜて魚や肉を焼いて、脂を垂らすか……でも大した量が取れないだろうなあ……」
「タカハルが何をしようとしているのかは知らないが、とりあえず昼食にしないかい?」

 考え事に没頭し始めると寝食を忘れる孝治に、アルカシトは呆れたようにそう言った。





 さて昼食後、孝治は扶桑商人との交渉のために港に出ていた。
 クゥルシペで働くようになって、交渉事に対する意外な適正を見せ始めた孝治であるが、今だ鉄製品の輸入再開に目処は立っていない。今日も交渉の主眼はそこにあった。

「扶桑政府は別に、刃物類の輸出に規制を掛けてるわけじゃあないんだろう? 刀はともかく、小刀や工具類まで入ってこないってのはどういうわけだ」
「専門性の高い工具類は、夷は好まんじゃあないか。それに大工道具は小刀より高い。夷細工の価値の暴落で、そちらの支払い能力も落ちてるからなあ」

 ここは扶桑の商船の中である。いかにも大航海時代然としたレトロな――孝治にとっては――船内での会談は、アルカシト達にとっては居心地が悪いものらしいが、孝治としては結構楽しいものだった。
 扶桑商人たちも孝治の事を扶桑人だと認識しているため、いたって気安く話しかけてくれる。相手のホームということもあるのだろう。外で話すよりは口が軽い。

「小刀はどうなる。あれはこの島じゃ生活必需品で、無いと困るんだ。まさか戦に使うわけじゃあないだろう」
「こいつも採算の都合だよ。……ここだけの話、仕入れてないわけじゃあないんだ」
「何?」

 初耳な内容に、孝治は目を光らせた。ここ数日、扶桑商人たちとの顔つなぎに奔走していた成果が出たのだろうか。今日の収穫は大きくなりそうだった。
 とはいえ商売は誠実と信頼関係が重要だ。神妙な態度で孝治は言った。

「あんたらは商人だろう。仕入れて売らないってのは、どういう理由か聞いても構わないか」
「商人だから、さ。去年の時点で貿易用に仕入れてあった品があるんだが……」
「……ああ、なるほど。不良在庫か」
「ご明察。戦争で夷の工芸品の価値が下がって、売り時を逃した品がある。小刀なんてのはまさにそれだ」
「本土では需要が少なく、外に持ち出せば交易品暴落で足が出る。面倒なことになってるな……」
「まったくだよ。せめて夷細工にかかる関税が下がってくれれば、話は別なんだが……」
「関税?」

 ああ、と商人は溜息混じりに頷いた。

「お上はこういう時腰が重い。戦争の長期化を否定してるってのもあるんだろう」
「……なるほど」
「本土での夷細工の売値と税額をを考えると、完全に赤字だからな。ふざけた話だ」

 おっと、こいつはオフレコにしてくれよ、と冗談めかして商人は言った。
 孝治としては頭が痛い。それでは取引が成立しなくなるのも当然だ。むしろ今、曲がりなりにも交易が成立していることがおかしいくらいだろう。

「……たしか刃物の取引は、民芸品と交換するのが原則だったな」
「ああ、木彫りだ。まさに現状だと、仕入れれば仕入れるほど赤字になる品だな」
「刺繍細工や食料との交換に、切り替えられないか?」
「難しいなあ」

 扶桑と夷の間には、交易のレートを巡って何度も対立が起きている。
 現在の交換条件も、過去の諍いの末に成立したものだ。下手にいじるのはリスキーなのである。

「『食料は食料』『衣類は衣類』って原則は、五十年近く継続してきたルールだ。下手に前例を作りたくない」
「言いたいことは分かる。しかしな、あんたらだって、商売の為に海を渡ってきてるわけだろう。わざわざ船を出す以上、利益を上げなきゃ勿体無いだろうに」
「目先の利益に食いついてるようじゃ、扶桑の回船商人は出来ないね。それに船を出すこと自体に意味がある。はっきり言って今、この島に商売上の旨みは無いが、それでも俺達は構わんのさ」
「へえ?」

 この発言に孝治は興味を惹かれる。前から疑問には思っていたが、どうも扶桑には、独特のシステムがあるらしい。
 なので冗談めかして聞いてみる。

「おいおい、商売上の旨みが無いなら、どうしてこの島を訪れるんだ。まさか避暑とは言うまいな」
「そりゃあ、補助金と交易免許の維持が目当てに決まってる。そうじゃなきゃあ来るもんか」

 この一言に、孝治は内心驚愕した。免許だけならともかく、補助金まで出ている。この表現は孝治の翻訳能力によって導き出されたものであり、ならば扶桑の社会システムは、相当に高レベルである。
 せっかくなので突っ込んで聞いてみる。海外の情報は少しでも欲しい。

「この情勢でも定期的に島を訪れないとならんとは、交易免許の維持ってのも大変だな」
「だから補助金が出るんだろ? 俺たちは交易立国扶桑の神経であり血管だ。外地との連絡は、何があっても断つことはできない」

 つまり彼ら扶桑商人は、情報機関を兼ねているのだと孝治は気付いた。たしか日本の戦国時代にも、商人を抱き込んで情報収集に当てるのは常識だったはずだ。それ自体は不思議なことではない。
 だが、わざわざ政府が損失を補填してまでその情報網流通網を維持できるということは、扶桑の政府は相当に資金力がある。というよりもはっきりと、“帝国”と表現しても良いのではないだろうか。

「今回の戦争、『本国』の旗色は?」
「……南海は広く、島は無数だ。そして船は、アトラスの方が速い」

 ……守備側が絶対的に不利じゃねえか。

 俺が扶桑の提督なら、南海は放棄して全力でアトラス本土の沿岸部を攻撃しに行くなと、孝治は考えた。相手が海賊を称しているならばともかく、既にアトラス側は正規海軍を動かしているらしい。完全に戦争状態だ。名分はある。
 しかし彼らはあくまで植民地を防衛するつもりらしい。それが一体如何なる理由に基づいた判断なのか孝治は理解できなかったが、まあ他国の戦略をどうこう言う必要はない。
 だが……。

「……一応、聞いておくぞ。アトラス海軍の別働隊が、この島に来る可能性は?」
「アトラスの連中に聞いとくれ。……まあ、五分五分ってところか」
「一体何が五分で、何がもう半分なんだ?」
「『採算』だよ。もう一度言うが、この島には旨みが少ない。主戦場が南海なのは間違いないんだ」

 だがなあ、と商人は溜息を吐く。

「アトラスの拡大主義は異常だ。北海が手薄になったと知れば、取り易い所を取りに来る可能性はある。そうなったら一たまりもないだろうな」
「そう思うなら」

 孝治はここで攻めた。身を乗り出してこう談判する。

「武器類の輸出を行って欲しい。鏃と、刀を。この島は扶桑の友邦だ。この土地の人間に自衛の手段を与えてくれよ」
「あんたの気持ちは良く分かるよ。しかしそいつは望み薄だ」
「奉行様に掛け合ってくれ、とお願いしても?」
「もしこの島がアトラスの手に落ちたら、俺たちの交易免許も紙くずになる。言うだけならこちらも望む所だが……期待はしないでくれ」
「ああ。もし協力できることがあれば、こちらとしても協力は惜しまない」

 言い切った孝治に、やれやれと商人は肩を竦めた。

「これほど話の通じる渉外担当が居るんじゃあ、お奉行も無下にはしないだろうな。惜しむらくはせめてあと一年早く、窓口になってくれていればというところか」





「ああ、タカハル。会談はどうだった?」
「色々と、面白いことが分かった。……しかし報告は少し待ってくれ」

 今日仕入れた情報が頭の中をグルグルと回っていて、孝治は生返事を返した。

「もう少しで思い付きそうなんだ。やっぱり商売で重要なのは、『利益を提供する』ことで……」
「いや、説明は後で良いよ。まとまってからで」

 アルカシトは孝治の発言を遮った。語りだすと長くなるのは、ここ数日で思い知っている。
 孝治も会談で少々疲れていたため、一旦思考を打ち切る。やるべきことはたくさんあって、考えるのは後でも出来た。

「なら、とりあえず海岸で海草をひっくり返そう。もうすぐ夕方だ」
「手伝うよ。ああそうそう、タカハルが昼に言っていた油の件だけど、なんとかなりそうだよ」
「本当か!?」

 さっきの今でそんな回答がもらえるとは、と、孝治はアルカシトの顔を見た。
 ニッと笑ったアルカシトは、『運が良かったよ』と孝治に言う。

「さっき、狩りに出ていた連中が鹿を狩ってきてね。そこまで大量には必要ないんだろう?」
「ああ。しかしいいのか? 貰っても」
「分かってないね孝治。鹿は赤身が旨いんだよ」

 それはアルカシトの個人的好みではなかろうか。

 いや、言わんとするところはたしかに分かるが、そもそも獣脂というのは食用ではない。
 とはいえこの一言はアルカシトの配慮だろう。この地の夏は短い。作業の進行が一日でも速く進むならば、それに越したことは無いのである。

「皮の裏側の脂身をこそぎとって、一旦加熱して脂を取ろう。動物性脂肪は冷えれば固まる。保存は容易だ」
「何をやるつもりかは知らないけど、楽しみにしてるよ」
「まあ、それなりに面白いものにはなると思うぞ。……お」

 海岸に着いた孝治は、海草を見下ろして軽く眉を動かした。

「乾くのが早いな。……数日中には、燃やせそうだ」
「燃料にするのかい?」

 そいつは後のお楽しみだ、と孝治は口の端を吊り上げた。










 数日後。

「うおおぉぉーーー!! 寒い!!」
「……タカハルは元気だなあ」

 悲鳴を上げながら海から飛び出してくる孝治を見て、アルカシトは穴に海草を放り込む手を止めた。赤く燃えた薪が海草を焼き尽くしていく。
 海から上がってきた孝治の手には、大型の海草が掴まれている。恐らく昆布だろうと当たりを付けていた例の海草である。結局我慢できなかった孝治は、倉庫で見つけた錆びた小刀片手に素潜りでの採取に挑戦していたのだった。
 小石を敷き詰めた乾燥台に昆布を放り出して、褌一丁の孝治はアルカシトの下に駆け寄ってきた。火に当たりたいのだろう。

「暦の上で七月に入ったから大丈夫かと思ったが、やっぱり尋常じゃなく冷たいぞ! いつになったら暖流が来てくれるんだ!」
「海水ってのは冷たいものだよ」

 唇を紫にしてガタガタ震える孝治に、アルカシトはのんびりと返した。
 諦めて孝治は横に座って暖を取る。北海道の海水浴は焚き火しながらやると聞いたことがあるが、まさにそんな感じであった。
 それにしても冬場はあれほど体調管理に気を使っていたのに、夏になるとこんなことを始めるのだから孝治も肝が据わっているというか、大概変な男である。

「そんな苦労をしてまで、あの海草には取る価値があるのかい? 海の中には昔から生えていたけど、誰も使い方を知らないんだよ」
「扶桑人でさえ海草を食わないらしいからな……日本人以外は食わないって話は聞いてたが……」
「食べるのかい?」
「多分食える、と思う」

 実際に食ってみないと良く分からないが、と、孝治は一応断ってはおいた。少なくとも出汁位は出ると思うが、どんな味かは正直想像がつかない。

「もし出汁に使えるなら、有望な新商品になるだろうな。……まあ、期待はしないでおくか」
「こっちとしては期待したい所だけどね。でも、取るたびに潜っていたら身がもたないよ」
「そのことについても少し考えてみたんだが」

 パチパチと燃える炎に手をかざしながら、孝治は思い付いた案を述べる。

「先端に鉤状に曲がった骨なり尖った石なりをつけた長竿を用意して、船の上から岩を引っかくようにして取れば良い。丸木舟はあるだろう?」
「あるね。それに小船なら、扶桑の技術で作った物もある」
「じゃあそれだな。とりあえず最低限のサンプルは確保したから、後はアレを乾かして味見を……ヘャックシ!」
「……体、壊さないでよ」

 いや、すまん。と孝治は軽く頭を下げた。
 ざるに乗っていた最後の乾燥海草を投げ込んで、アルカシトは孝治に尋ねる。

「で、これで乾かした海草は一通り火にくべたわけだけど。これからどうするんだい?」
「燃え尽きるまで待って、天然ソーダ……というか海草灰を取る。それから真水に沈めて温め、溶かした脂と混ぜるんだ。火を使う必要があるから、この作業は屋内でやろう」

 石鹸の作り方はこれでよかったはずだよな、と、孝治は多少不安になりつつも説明した。
 本当はガラスの容器と蒸留水が欲しいのだが、今使えるのは陶器の瓶と湧き水くらいだ。この島の湧き水は味からして軟水のような気はするが、うまく反応してくれるかはやってみなくては分からない。
 蒸留水を得る方法も色々と考えてはみたが、日光を使用する方法はビニール無しではどうしたら良いか分からないし、やかんの蒸気を集めるには燃料が必要になる。この土地では本当に燃料が貴重だ。迂闊に消費できない。
 それに海草灰に含まれるソーダの量も全く見当が付かず、はっきり言って成功するかは運だった。仮に上手く鹸化してくれたとしても、PHの調整が上手くいくか――――

「……研究と生産にかかるコスト考えると、採算取れない気がする……」
「え?」

 ただ、石鹸が扶桑でも生産されていないことは既に確認してある。上手く生産できれば、輸出品になる可能性は一応あった。
 ……そう、輸出だ。当初は八割方趣味で行っていた『新商品の開発』だが、ここ数日の交渉の進展によって、また違った意味合いを帯びてきていたのだ。

「売れれば良いんだが。でも、動物性油脂の石鹸は臭いらしいんだよな……」
「良く分からないけど、とりあえず今は燃え尽きるのを待てばいいんだよね?」
「ああ。とりあえず俺は火を見ているが、アルカシトはどうする?」
「今日は割と暇なんだ、タカハルがいろいろ動いてくれたお陰もあるしね。せっかくだから海の向こうの話を聞かせて欲しい」
「……そろそろストックも尽きそうなんだよなあ」

 外国語を操るだけあってアルカシトは中々に好奇心旺盛な男で、暇さえあれば孝治から日本の話を聞きたがっていた。
 アルカシトが興味を持つのは、主に思想や戦略的なものが多い。扶桑人との考え方の違いに日頃から悩んでいたのだろうか、孫子や六韜、論語あたりから適当に抜粋したうろ覚えの戦略論、人間論にやたらと食いついていた。
 おそらくは次期族長であろうアルカシトが、その手の知識に興味を持ってくれるのは非常にありがたいことだ。そうでなくとも現時点で、クゥルシペの政治と経済を担っているわけで――ああそうだ、と孝治は思う。いい加減“これ”の説明もしておかなくては。

「……そうだな。じゃあちょっと今日は趣を変えて、なんで俺がこうして海草を燃やしているのか、その辺について説明しようか」
「セッケンとかいう物を作るため、じゃなかったのかい?」
「直接的にはその通りなんだが、石鹸を作ることにどういう意味があるのか、考えたことは?」

 はて、とアルカシトは首を傾げた。

「深く考えたことは無かったな。『珍しいものを作る』ってだけで」
「俺も今まで言ってなかったからな。……俺のクゥルシペでの仕事はなんだ?」
「渉外担当だね。目下の目標は、刃物の入手」
「その通りだ。そしてこの石鹸作りも、その一貫なんだ」
「へえ? てっきり、趣味でやってるものだと思っていたけど……」
「途中までは実際、そのつもりだった」

 正直に孝治は白状した。

「ただ、実際に扶桑の商人達と話し合って分かったんだ。彼らが刃物を売ってくれないのは、結局こちら側に魅力的な商品が無いことが理由なんだと」
「言わんとするところは分かるよ。今年に入って、彼らは工芸品に見向きもしなくなったからね」
「だから、新しい商品……目新しい輸出品を、開発する必要がある」

 当初孝治が新商品を開発しようとしていたのは、第一に日本への郷愁のためであり、第二にエヘンヌーイへの恩返しのためであった。しかしここクゥルシペに来て、その目的は変化せざるを得なくなった。
 刃物の輸入はこの島の至上命題。それを担わざるを得なくなった孝治は、様々な可能性を考慮した上で、こう結論を付けていた。

「『珍しいもの』を作って、売る。とにかくそれだ、それしかない」
「……それはつまり、今までと同じものを売ってちゃ駄目、ってことかい?」
「ああ、そうだ。『今まで見たことないもの』を紹介してやれば、後は商人達がなんとかする」
「商人達が? タカハル、それは……」
「ああ、彼らとの間に、そういう方針でまとまりつつある」

 初耳である。アルカシトは驚いた。

「……そういうことは、もう少し早く言って欲しいんだけど」
「実際に商品を提供できるか、全く見通しが立ってないんだ。中途半端な希望を持たせて失敗したら、碌な事にならんだろう」
「それはまあ、一理あるけど」

 父親の気性を思い出して、アルカシトは引き下がった。
 しかし一応、釘は打っておく。

「でも、とりあえず僕には言っておいて欲しい。万が一の時に、引継ぎをしないといけないからね」
「それもそうか。すまなかった」

 報告・連絡・相談は社会人の基本である。孝治は素直に謝った。
 ここ数日で、アルカシトとの信頼関係も大分築けてきている。そろそろ信用してもいい頃だ。
 さて、と前置きして孝治は説明する。

「数日前に聞いた話だが、こちらが工芸品を倉庫に眠らせてるように、商人達も小刀を不良在庫として抱えてるんだ」
「……それも聞いてないんだけど」
「まあ連中は、俺に対しては口が軽いからな。……ともあれそんなわけで、実は刃物を入手したい俺達と、刃物を放出したい商人達の間で、利害は一致してる」

 そう、たしかにこの点において、利害は一致している。
 問題は、扶桑における物価の変動であり、『交易』に対する夷側の無知だった。

「干し鮭や鹿の燻製を大量に用意できれば、おそらく商人達は小刀を売ってくれるはずなんだ」
「干し鮭や燻製? ……食料は食料と交換するのが原則じゃなかったっけ?」

 貨幣経済が存在せず、また長年扶桑との間に独占的な交易を行っていたこの島の人間には、『価値の定量化』という概念が薄い。また狩猟民族のため、食料の価値が農耕民の扶桑人とは比較にならないほど高い。
 『食料が欲しければ食料を』『刃物や生活雑貨が欲しければ工芸品を』というのは、双方の価値観をすり合わせるために自然発生した原則である。この単純な交換原則はこの島の人々にも理解しやすかったし、老練な扶桑の商人達もまた、これを利用して『公平さ』を演出していた。
 ……そう、あくまで、『演出』なのである。絶対的な文明の差がある限り、どう足掻いても公平など望めない。なにしろこの島の人間は、自力で島外に出ることがほぼ不可能――これでどうやって、交渉しろというのか。

「原則は原則だからな。どうしようもなくなったら、そういう手もあるって話だ」

 まあ、そんな事実をアルカシトが知る必要はない。なので孝治はこう言っておくに留めた。知らないほうが幸せなこともある。

「……まあ、食料との交換はレートで揉めるだろうから最後の手段だ。新商品を作って売り出す方が、角が立たないのは間違いない」
「つまりそれがセッケンになるのかい?」
「それはまだ分からないが、上手くいけばそうなるだろうな」

 正直半信半疑だったが、とりあえずはそう答えておいた。
 この辺りは、完全に商人達のプロデュース能力が頼りだ。なにしろ、

「『珍しいもの』ってのは、買う人間も価値がよく分からない。ついでに新規開拓商品は最低一年は関税がかからないんで、利益率が高い。だから有望そうな商品が生まれたら北海商人の間でカルテルを結び、相場が落ち着くまでの間に値を吊り上げて全力で売り捌く。そういう約束だ」

 既にこういう方向で、話はまとまりつつあるのである。
 結構えげつない商売であるが、詐欺とまでは言い切れまい。目新しい新商品を大袈裟に宣伝して荒稼ぎするのは、現代日本でもよくあることだ。流行が落ち着けば値下がりする所までお約束である。
 そしてこういう悪巧みは、連帯感を生じさせる――この共犯者意識が、短期間で孝治と商人達の間に信頼関係を生み出したのは偶然ではない。

「要は、あいつらを儲けさせてやればいいんだよ。儲けが出る限り、商人達はこの島を見捨てないだろうさ」
「はあ」

 今はまだ、アルカシトも理解が追いついていないが。
 この方針はこの先しばらくの間、クゥルシペの対扶桑外交の柱となる。




















 季節も七月ともなれば、いくら北方のこの島とて、植物は勢い良く伸び始める。それは野生の草花のみならず畑の作物にも言えることで、同時に畑の雑草もまたそうだった。
 エヘンヌーイの村の一角、畑の雑草をぶつりぶつりと抜いていたルゥシアは、立ち上がって軽く伸びをした。

「うーん……はぁ」

 溜息を吐く。別に畑仕事が嫌なわけではない――というより、仕事を嫌がるという“贅沢な”感性はこの土地の人間にはない――が、しかしもっと面白いことが無いものかと、ルゥシアはここ数日頭を悩ませている。
 タカハルが居た頃は毎日楽しかったのになあ、などとぼやきつつも日々は待ってはくれない。雑草を抜かなくては畑の作物は育たないし、作物が育たなくては食料に困る。
 労働効率の悪いこの土地では、働くべき時には働かなくては生きていけない。逆に貨幣経済に染まっていないため、働かなくて良い時は働かなくても良いのだが……。

「月の国なら、このくらいの仕事はパパッと出来るのかなあ」

 はぁ、と再び溜息を吐く。月の国には便利な道具があって、一人の人間が短時間に多くの仕事をこなせるのだと、孝治は以前ルゥシアに語っていた。
 羨ましいなあ、とルゥシアは思う。もしこの草むしりが半分の時間で終わるなら、空いた時間で矢を飛ばしたり、タカハルの話を聞いたりも出来るのに。

「……タカハルが居ないとつまらないよ。帰ってこないかなあ……」

 クゥルシペでの孝治の働きぶりはルゥシアも間近で観察していて、その仕事ぶりは知っている。具体的に何がどう凄いのか、今一彼女には理解できなかったが、少なくとも扶桑の人間と話を合わせて信頼関係を構築する技術は、この地の人間には持ち得ないものだ。
 それにクゥルシペを発つ前、カルウシパの縁でルゥシア達エヘンヌーイの代表者はエルマシトと宴席を共にしたが、そこでの孝治の振る舞いは堂々としたもので、正直ルゥシアはちょっと驚かされていた。
 ルゥシアだけではない。ラカンシェ達もあれで孝治を見直したらしく、別れの時には下にも置かない扱いで遇していた。というか今の孝治の立場は、いつぞや語っていた『エヘンヌーイの駐クゥルシペ大使』に近い。下に置けるはずが無い。
 そしてそんな立場である以上、あまり早く帰ってこられても困るのも事実なのだ。

「……ラカンシェも置いてきたら良かったのに」

 ポツリと呟いて、ルゥシアは草むしりを再開した。









 そんなことを考えていたので。

「ただいまー」
「よう、ルゥシア。帰ってるぞ」
「なんで居るの!?」

 こういう展開になるのも無理の無いことであった。










「……アザラシ?」
「ああ」

 別れてから半月しか経っていないというのに、一体全体どうして帰ってきたのやらと、詰りそうになったルゥシアであったが、孝治の土産の昆布を齧らされて少し大人しくなっていた。
 まだカルウシパが帰ってきていないため手持ち無沙汰だった孝治も、久方ぶりのルゥシアとの交流にほっと一息吐いていた。オクルマと二人きりは居心地が悪かったらしい。
 ちなみにそのオクルマは、ルゥシアと入れ替わりに出かけていた。どうも他にも仕事があったらしく、引きとめてしまったのは不覚だった。

「アザラシって海辺に居る動物だよね? 見たこと無いけど」
「ああ。加工された形でしか、クゥルシペには入ってこないんだよな」
「何に使うの?」

 ルゥシアは首を傾げた。その質問に孝治は端的に答える。

「石鹸作りのために大量の脂が欲しい。……そういう建前でクゥルシペを出てきた」

 鹿の脂で試作した石鹸は無事に鹸化していて、現在はクゥルシペの倉庫で乾燥中だった。
 アルカシトが鹸化反応にやたらと興奮していたのが印象的だったが、試作品一つで満足するわけにもいかない。試作を繰り返して完成度を高めなくては、輸出品になど出来ないのだ。
 というわけで脂を手に入れてくると言い残し、孝治はクゥルシペを出てきたのである、しかし。

「だが本当に欲しいのは、皮だ」

 孝治は両手を大きく広げる。

「これくらいのでっかい一枚の皮が欲しい。それも複数だ。色々考えてみたんだが、やっぱり炉にはふいごが必要になる」
「……ろ?」
「ああ。石を鉄に還元するのに必要な物だ」

 クゥルシペでの生活の中でも、孝治は初心を忘れてはいなかった。
 『製鉄』――その大目標のために、夏の間にも進めておきたい作業は幾つもある。皮の入手はその一つだ。

「どうしても最初の製鉄はエヘンヌーイでやりたい。世話になった恩義もあるし、それに最初に『鉄を作る』と宣言した相手はルゥシアだからな」
「そうだっけ?」
「そうなんだよ。だから製鉄に必要な機材と素材はエヘンヌーイに集め、出来れば今年中に小型の炉での製鉄を成功させてしまいたい」

 効率だけを考えるならば、交通の要衝とはいえ内陸部のエヘンヌーイは製鉄に適しているとは言い難い。何しろ鉄鉱石は石である。その重さ故に輸送が面倒だ。
 なので最終的には港であるクゥルシペか、あるいは発見した鉱床の近くに製鉄所を設置する必要があるとは孝治も理解している。鉄の輸入が途絶えた現在、製鉄所の設置は夢物語ではなくなっていた。
 だがそれにしても、まずは小規模な実験を成功させておく必要がある。そしてその時点でエヘンヌーイの皆に技術を伝えておけば、それは他部族に対するアドバンテージたりえる――――

「良く分からないけど、タカハルは私達のために働いてくれるってことだよね?」
「いや、まあそうなんだが……」
「義理堅いね! 流石に私が見込んだだけの事はあるよ!」
「……あれ、見込まれたことなんてあったか?」

 孝治は首を捻ったが、バシバシとルゥシアは背中を叩いた。この動作は父親譲りなのだろうか。ひどく上機嫌である。

「タカハルはずっと、エヘンヌーイの仲間だからね! 忘れないでよ!」
「いや、忘れてはいないぞ? こっちに来て以来、俺の拠り所はずっとこの村だし」
「だよねー! こんぶちょうだい!」
「……はいはい」

 妹がいたらこんな感じなのだろうかと、孝治はふと思った。










「よし、ラカンシェを連れて行け」
「即答だな親爺殿」

 少しして帰ってきたカルウシパにアザラシ狩りの助力を頼むやその返答が返ってきたことに、孝治は少々面食らった。
 ルゥシアは隅の方で昆布を齧っている。男二人の会話に口を挟む気はないらしい。

「あいつは若い衆の纏め役だろう。遠出させていいのか?」
「纏め役だからこそ、色々経験させておく必要がある。アザラシ狩りならナハンカシペだな。俺も若い頃にやったことがあった」

 懐かしげな表情でカルウシパは語った。

「陸上では動きの遅い動物だ、現地の連中は棒で叩いて捕まえる」
「棒で?」
「ああ。孝治もせっかくだから経験しておけ。まだ獲物を狩った事が無いだろう」
「……そうだな」

 少し考えて、孝治は首肯した。
 この地で生きるなら、最低限の狩猟の技術は必要である。鹿の解体には何度か参加していたが、自ら生き物に止めを刺したことはない。たしかにこの辺りで、経験しておいた方が良いだろう。
 殺生に対する忌避感はそれほど残ってはいないが、しかし目の前で生き物が死んでいく姿を見るのはどんな気分かと、孝治は少々不安に思う。

「本当なら皮や脂の輸送のために人を出すべきなんだろうが、流石に何人も人手を割くわけにはいかん。ラカンシェと二人で行ってくれ」
「それは構わないが、ついでに道々の集落に顔つなぎもしておきたい。カルウシパの名前を出しても良いか?」
「お前は息子みたいなもんだ。一向に構わん。ついでにラカンシェも売り込んでおいてくれ」
「ついでかよ。ラカンシェも報われないな」

 軽口を叩きつつも、孝治は不思議な安堵を得ていた。家族だと明言された事実が、ゆっくりと心に染み渡っていくのを感じる。
 にやけそうになる口元を押さえる。すっかりと伸びた口髭の感触、その長さにこの世界で過ごした時間の長さを実感して、不覚にも孝治は泣きそうになった。
 それは故郷への郷愁か。それはこの世界への愛着か。判断できない孝治は、奥歯を噛み締めて涙を飲み込んだ。泣くのは何時でも出来るはずだ。今は仕事の話をしよう。

「それじゃあ、明日には発つとするか。ラカンシェにも今のうちに会いに行かないと」
「明日!? 随分と急だな!」
「雪が降る前に、なんとか最初の鉄くらいは作っておきたいんだ。素早く行動する必要がある」

 言い切って孝治は腰を上げた。その動きの意外な機敏さに、カルウシパは頭を掻いて苦笑する。張り切っている息子を見る父親の笑みだった。

「それはいいが、少し待てタカハル。道々の集落に挨拶に行くなら、手土産を用意しないとならん」

 カルウシパの名前を出すなら、彼の面子にも関わる話である。さて何があっただろうかと、頭を回すカルウシパに、孝治は言う。

「手抜かりはないぞ、親爺殿、手土産ならこっちで用意してある」
「ほう?」

 また何か作ったのかと感心するカルウシパ。孝治はルゥシアにちょいちょいと手で合図した。

「んー? これ?」
「ああ」

 差し出された昆布を、孝治は軽く手で裂いてカルウシパに渡した。

「輸送の際に割れるのが難だが、味は変わらないはずだ。親爺殿、食ってみてくれ」
「……なんだ?」
「海草だよ。海の中に生えてるあれだ」
「ああ、あのヌルヌルしたやつか。食えるものだったのか……」
「結構美味しいよ?」
「ルゥシア、量に限りがあるんだから、あまり食いすぎないでくれよ……」

 それに昆布は腹に溜まる。今夜の夕飯は食べられるのだろうか。そう危惧する孝治であるが、食うなとも言えなかった。弓を教えてもらったこともあり、なんだかんだでルゥシアには甘い。
 一方昆布を渡されたカルウシパは、軽く口に咥えて味をみる。

「なんだこりゃ、塩っ辛いな!」
「軽く水で戻したら食べやすくなるよ。ねー、タカハル?」
「塩抜きして食うのはやめてくれ! どれだけ食う気だ!?」

 ルゥシアはすっかり昆布が気に入っていた。何が彼女をそこまで引きつけたのか、日本人である孝治にもよく分からない。
 しばらく噛んでいる内に味が分かってきたのか、眉間に皺を寄せてカルウシパも唸った。孝治に向かって言う。

「変わった風味だが、不味くはない。磯臭いが」
「俺は結構好物だぞ。それに歩きながら食うと塩の補給にもなる」
「ああ、たしかに夏場に外を歩いていると塩気が欲しくなるな。そうやって使うのか」
「私は美味しいと思うけどなー。お母さんも結構美味しそうに食べてたよ?」

 ルゥシアはやたらと昆布を押しているが、こればかりは味覚の違いだろう。
 クゥルシペで生産した干し昆布、孝治も散々食い尽くして使い方を確認したが、日本のものと遜色ない風味である。流石に加工法が未熟なので品質は安定しないが、こればかりは経験を積んでなんとかするしかない。
 内陸の交通の要衝であるエヘンヌーイは、流通の中継点として有望だ。この地の商業活動は生産者と消費者の直接取引が基本で、流通の便が悪すぎる。実験的に昆布の出張販売所を設置してみたい。
 人が集まればその土地は活性化する。エヘンヌーイの発展は孝治の本望だ。問題は、それだけの購買力を持った顧客がいるかと言う事なのだが……。
 いつものように思案に入る孝治に、カルウシパは声を掛けた。

「そういえば孝治、おまえクゥルシペから一人で戻ってきたのか?」
「ん? ……ああ、そうなるな」
「随分と逞しくなったなあ。何日かかった?」
「一昨日の朝にクゥルシペを出たから、二日半って所か。荷物が軽いから楽だったな」
「そりゃそうだ。一人なら身軽だし、自分のペースで進めるからな。……だがまあ、そうか。二日半か」

 行きは三泊かかった行程だ。二日半というのは遅くはない。特別に早いというほどでもないが、ラカンシェの足は引っ張らないだろう。

「ナハンカシペは片道四日って所か。準備は怠るなよ?」
「ああ、今日中に用意は済ませないとな。とりあえずラカンシェと打ち合わせてくる」
「タカハル忙しそうだね。……久々に月の話、聞きたかったのになあ」

 残念がるルゥシアに、孝治はやれやれと肩を竦めた。

「夜にでも話してやるよ。クゥルシペでの事も含めてな」
「ホント!? じゃあ、早く帰ってきてね!」

 そんなやり取りを、カルウシパは穏やかな目で見つめていた。




















 人の移動の乏しいこの土地にも、街道らしきものは存在する。もちろん管理者が居るわけもないので、獣道に毛が生えたような代物であるが、迷わない程度の役割は果たしていた。
 とはいえ下草は伸び放題だし、道幅も狭い。せめて木を切り倒して道幅を広げるくらいはしても良いのではないかと孝治は思ったが、そういえばエヘンヌーイにも斧は無かった。

「前途多難すぎる……」
「なんだ、もうバテたのか? 立派な山刀を持つようになったってのに、情けねえ話だな!」
「体力はまだ大丈夫だ! それとこの刀は借り物だ。俺の私物じゃない」
「ハン、エルマシトから刀なんぞ借りやがって。テメエの立場なら、カルウシパから貰うのが筋だろうによ」

 不機嫌そうにラカンシェは鼻を鳴らした。
 刀の授受に特別な意味があるのは、孝治にも割と理解できる。とはいえクゥルシペからエヘンヌーイまでの道中、丸腰というわけにもいかなかったのだ。割り切らざるを得ない。

「そう言わないでくれよ。刀も無しに熊に襲われたら、ひとたまりも無い」
「刀があったって、テメエじゃひとたまりもねえだろ。立ち上がった瞬間に心臓を一突きにでもしないと熊は仕留められねえよ」

 それはそうだが。

「大体テメエ、刀の使い方が分かるのか?」
「む、そいつは聞き捨てならないな」

 孝治は腰に指した山刀の柄を、左手の甲で軽く叩いた。
 ゲームにおいて武器は装備しなくては意味が無いが、現実では装備しただけでも不足である。幸い孝治は多少とはいえ武器の使い方を学んだことがあり、経験からそれを知っていた。
 実際にクゥルシペからエヘンヌーイへの道中、何度か小枝に斬り付けて感触を確かめている。抜いて振り下ろすくらいは出来るはずだ。

「鹿は狩れないが、戦い方はそれなりに知ってるんだ。人間相手ならな」
「鹿が狩れなきゃ意味ねえだろうが。少しはマシになったようだが、テメエの歩き方はまだまだ騒がしいぜ」
「手厳しいな……」

 とはいえ、ラカンシェの言うことには一理も二理もあった。鹿狩りも人間相手のゲリラ戦も、山で戦うなら同じ技術だ。
 タイマンや平野での乱戦なら柔道技も多少は有効だろうが、そもそも平野での戦いになれば火力が物を言う。扶桑にせよアトラスにせよ火砲の技術はあるはずで、ならば対外戦争で役に立つ技術にはならないだろう。

 それでもクゥルシペに戻ったら、若い奴らと格闘技術の訓練をしてみるべきだろうか……いや、エルマシトに余計な疑いを持たれかねないか……?

 そこまで考えて孝治は首を振った。クゥルシペでは渉外担当をやっていたせいか、どうも最近、扶桑とアトラスの戦争の事が頭から離れてくれない。
 分かっているのだ、戦争になれば負けることは。第一に考えるべきは扶桑と連携することであって、二の矢はない。攻められれば落ちる――――

「……うおっ」
「おい! 気を付けろ!」

 などと考えていた孝治が足を滑らせて、ラカンシェは慌てて二の腕を引っ掴んで支えた。
 いかんいかん、周囲への警戒が散漫になっていた……そう反省する孝治に、ラカンシェは呆れる。

「テメエは本当に危なっかしいな……ルゥシアが心配するわけだぜ……」
「面目ない。……ルゥシアは俺の保護者ぶってる所があるからなあ」
「似合いだと思うぜ、あのじゃじゃ馬とはな」

 足して割ったらちょうど良くなるんじゃないか、とラカンシェは呟く。

「あいつもそろそろ婿を探さなきゃならん頃だ。いっそテメエが引き取ってやれ」
「おいおい、年齢差……はいいとしても、余所者の俺が族長の娘を娶るわけにもいかんだろう」
「余所者だから、よ。テメエは役に立つ、村の一員になってもらいたいと、今では少なくない人数が思ってるぜ」
「……クゥルシペとのパイプか」
「ああ」

 はっきりとラカンシェは断言した。

「残念だが、オレじゃあエルマシトと渡り合えねえ。アルカシトとも話が合わない。今後のことを考えるなら、エヘンヌーイに必要な人間はタカハル、テメエだよ」
「あの一件で、俺の立場も変わったもんだなあ」

 そう孝治は呟いたが、ラカンシェは少し違う感想を持っていた。
 確かにクゥルシペに行く以前の孝治はたしかに変人扱いではあったが、しかし決して侮られてはいなかった。春先の炭焼きで、朝から晩まで狂ったように動き回っていた孝治の姿を、村人たちは目撃している。
 現代日本人である孝治は、仕事のスケジュールさえ決めてしまえば実行が極めて早い。孝治はあまり気にしていなかったが、この段取りの良さはこの土地の人間には持ち得ないものである。
 クゥルシペでの働きは確かに瞠目すべきものではあったが、それ以外にも見るべき所はあったのだ。

「……まあ、そいつはオレがどうこう言うことじゃねえな。ところでタカハル、『戦い方を知ってる』とか言ってたが、一体何が出来るんだ?」
「なんだ、興味あるのか?」
「ああ。月の国の話は多少聞いてるが、具体的な月人の技ってのを見たことがねえ。何か芸があるなら見せろ」
「芸、ねえ……」

 下草を踏みしめて歩きながら、孝治は少し考えた。
 まさか山道で投げ技をかけるわけにもいくまい。二人旅である、怪我でもさせたら大変だ。
 そうなると……。

『よし、築地君。君の研究テーマを決定した』

 高校時代、先輩達の熱烈な勧誘に負けて入った化学部で、言い渡された一言が孝治の脳裏をよぎった。
 あれはそう、たしかまだ五月になる前の出来事だ。孝治の高校生活を決定する一言を、当時の部長が発したのは。

『君の研究テーマは、「飛翔体の観察」だ。引退までこれに打ち込んで欲しい』

 いまや五年も前の出来事となったあの日の情景を思い出してしまって、孝治は強烈な寂しさを覚えた。
 当時は酷い部活に入ってしまったものだと後悔したものだが、今となっては忘れがたい、遠い世界の思い出である。

 ……ああ、くそ。もう思い出すまいと思っていたのにな……。

 それはもう、別の世界の出来事だ。世界の壁という絶望的な断崖によって隔てられた、隔絶した“物語”なのだ。
 諦めなければならない。余計なことは、忘れなければならない。最早孝治の立つべき大地はこの島で、ここでただ生きて死ぬ。それ以『上』は考えるな――

「……ん?」

 なんとなく違和感を感じて、孝治は首を捻った。

「どうした?」
「いや……気のせいだろう。それより、少し思い出した技がある」

 そう言って孝治は、山刀の柄を軽く撫でた。

「お、なんかあるのか」
「先に言っておくが、あまり使える技じゃないぞ」

 自嘲しつつ、山刀を抜く。
 日本に居た頃は、まるで役に立たないと思っていた技だった。そして実際、この世界でも役に立つとは思えない技だ。

 それでもこれが、あの高校時代の唯一の遺産、か……。

 抜いた山刀を観察する。刃渡りは三十センチほど。形状はいわゆる剣鉈に近く、先端は刺突に適した構造になっている。少々どころではなくでかいが、まあ自分なら出来るだろう、と孝治は踏んだ。
 右手で柄を持ち替えて、重心のバランスを確認する。重みがあるため威力もでかいだろうなと、孝治は経験的に感じ取る。

「ちょっと下がっててくれ」
「おう」

 ラカンシェに警告を発した孝治は標的を定める。ちょうどおあつらえ向きな立ち木が前方にあって、距離は目測で五メートル程度。“打法”を悩む距離ではない。
 木の幹は丸みがあるため、中心を捉える必要がある。右手を静かに振り上げた孝治は、一呼吸だけ間を置いた。

 ……久しぶりだよ、本当に。

 大学に行ってからは、一度も練習していなかったはずの技能。錆び付いていることは間違いないが、それでも。
 脳裏に蘇るのは、高校時代の風景。胸を締め付けられるような感情を飲み込んで、孝治は右手を振り下ろした。

 ――“離れ”は、かつてと同じ感触。

 ドスッ、という重みのある音に意識を引き戻されて、孝治はただ静かに、己の為した技を評した。

「……かなり腕、鈍ってるな」

 投げ放った山刀は、狙った位置から二十センチほど下に突き刺さっている。孝治は手首を振りながらぼやいた。ぼやかざるを得なかった。
 左右にズレない程度の技量は残っていたが、山刀の重さで完全に腕の振りが遅れた。初速が足りなかったために、狙った位置より下に刺さってしまったのだと反省する。
 少しは柔道共々訓練しておいた方が良さそうだ……そんなことを思いつつ孝治はラカンシェに言った。

「酷い出来だが……どうだラカンシェ。一応俺の得意技だ」
「いや……たしかに凄いのは凄いんだけどよ」

 ラカンシェはコメカミを抑えながら言った。山刀を投げて五メートル先の立ち木に突き刺すナイフ投げの技術は、確かにこの土地には存在しない。
 しかし。

「……弓矢で良いよな?」
「俺もそう思う」

 貴重な刃物を投げてどうする。
 そんなラカンシェの突っ込みに、孝治は反論する論理を持たなかった。




















 その後も時折ナイフ投げについての雑談をを挟みつつ、ラカンシェとの道中はつつがなく進んだ。道々の集落で昆布の宣伝をしたり挨拶回りをして、出発五日目の午前中にはナハンカシペに到着する。
 ナハンカシペとは『岩のある港』といったニュアンスらしい。海岸なんだから当たり前だろと思うが、現地にきた孝治はなるほどと納得した。海の中から突き出した特徴的な岩がある。あれが名前の由来だろう。
 とりあえず現地の集落の人間と挨拶をして、アザラシ狩りの打ち合わせをする。ついでに扶桑の商船を見つけた孝治は、こちらにも挨拶に行った。やはりアザラシの皮や脂はこちらで直接買い付ける方が安いらしい。
 滞在中の商人の中には、クゥルシペで孝治と面識のあった者も居た。

「脂がご入用なら、クゥルシペまで運んでも構いませんよ」

 そう言われて、孝治は少しの間思い悩むことになる。漠然と思い浮かべていた『鉄鉱石の水運』、その実現のための第一歩が、思いもかけず浮かんできたのだ。

「……そうだ、そもそもこの島には、島内で水路を使って物を運ぶって発想が無いんだ。だったら……」
「テメエは何を言ってるんだ? さっさとアザラシを狩って帰るぞ」

 ブツブツ呟く孝治を引きずるようにして、ラカンシェは猟場に向かった。





「……本当にこんなので狩れるのか?」
「ナハンカシペの連中から借りたんだ。連中に出来るならオレたちにもできるだろうよ」

 ラカンシェと共にナハンカシペから少し離れた入り江に来た孝治は、砂浜にアザラシの群れを見つけて息を潜めていた。
 握り締める棍棒に視線を落とす。直径五センチほどの固い木の枝の先端に石を括り付けたそれは、ハンマー、あるいは石斧と表現しても良いかもしれない品である。尖った石の先端を見て、孝治は複雑な心境になった。

 こいつでアザラシを撲殺……あの平和そうな丸っこいのを……。

 獣を殺すのは良い、別に良い。しかしまさか最初の狩猟が“接近戦”になるとは、孝治もちょっと予想外である。確かにアザラシを棒で袋叩きにするシーンは『神秘の島』にもあったのだが……。
 悩みながらも軽く振ってみる。トップヘビーで威力はありそうだが、棒による撲殺というのはちょっと孝治には想像できない領域である。

「……弓矢を使いたかった」
「毛皮に穴が開くだろうが。それに矢が勿体無いだろ」
「いやいや、俺の腕力で殺しきれるか不安でな」

 思わず漏れた不安をラカンシェに聞きとがめられて、孝治は慌てて弁解した。
 理屈では孝治もわかっている。いや、むしろ理屈を語らせたらラカンシェよりも詳しいくらいだろう。
 アザラシは動きが鈍く、また毛皮と分厚い脂肪によって弓矢ではダメージが通りにくい。致命傷を負わせてもそのまま海に逃げられ、沖に流される可能性もある。サイズにもよるが、小型の物なら棒による狩猟が最適なのである。

「ナハンカシペじゃ子供だってアザラシ狩りをやるんだ、テメエに出来ないはずが無い。問題はむしろ、仕留めた獲物を持ってナハンカシペに戻ることだろうよ。結構でかいぞ、あれ」
「俺達が必要なのは皮と脂だ。肉と内臓と骨は……ナハンカシペの人達に何とかしてもらおう」
「どっちにしろ持って帰る必要があるだろうが。まあ、仕留めてから考えるか……」

 棒を軽く振って、ラカンシェは呟いた。
 現地の人に聞いた話だと、アザラシは陸で昼寝をするらしい。つまり眠った所をそろそろと近づいて、起きそうになったらダッシュして殴る。非常にシンプルな狩りだった。
 逃げ遅れて群れから脱落した奴を叩けばいいんだなと、孝治は深呼吸して覚悟を決める。今更グダグダ言っても仕方ないのだ。

 ……そうだ、俺の生きるべき世界はここだ。そう決めたんだ。

 それからしばらく岩陰から二人揃って待機して、アザラシの群れが眠るのを待つ。
 岩陰にもたれかかり、数分から数十分ごとに顔を出して様子を伺う。太陽の位置が二個分ほどずれた頃、何度目かになる確認の声を孝治は上げた。

「……眠ったか?」
「……そのようだ」

 言われて孝治も腰を上げた。音を立てないように注意する。長時間ならともかく短時間なら、今の孝治は十分に狩人として振舞えた。
 様子を見る。視線の先のアザラシの群れは、たしかに昼寝をしているようで、鳴き声も聞こえなければ身じろぎも無い。

「それじゃ、行くぜ。遅れるなよ」
「了解、先導は頼んだ」

 軽く腰をかがめて、ラカンシェは砂浜に身を晒す。中腰の姿勢でも上体が揺れないのは見事な技だった。足元が砂なので多少やりにくそうだが、なるほどこれが獲物に近づく呼吸なんだなと、後を追う孝治は注意深く観察する。
 そろそろと足を運びながらおよそ二十五メートルまで近づいて、ラカンシェは一度立ち止まって身を低くした。呼応して孝治も姿勢を低くする。視線の先、わずかにアザラシが動いたのである。

 ……起きたか?

 緊張の一瞬。しかしどうやら単なる寝返りだったようで、数秒待ってもアザラシは身を起こす気配がない。声を潜めて孝治は聞いた。

「走るか? ラカンシェ」
「いいや、まだだ。逃げる素振りを見せてからでも遅くねえ」

 そろりそろりと、二人は歩みを再会する。二十メートル、十五メートル。流石のアザラシも違和感を感じたのか、僅かに身じろぎをした。
 ラカンシェはここで大股に踏み出す。決して雑な動きではないし、音もほとんど立ててはいない。だがそれでも、衣擦れの音でも聞こえたのかアザラシは目を覚ました。
 身を起こして、

「ウォォオオオオオオオ!!!!!!!!!」

 刹那轟いたラカンシェの喊声に、アザラシたちは一斉に驚いて動き出す。全く同時に駆け出していたのはラカンシェで、驚いて反応の遅れたアザラシに造作もなく追いついた。
 遅れたのは、孝治である。この怒号は全く打ち合わせになかった動きだった。狩人としてのラカンシェの直感的な反応なのだろうか。どちらにせよアドリブでこういうことをするのはやめてほしい。

 そういうことするなら事前に打ち合わせしとけやラカンシェーッ!!

 声に出さないで非難の声を上げ、一拍遅れて孝治も続く。砂浜に足を取られそうになりつつも、体を傾けて勢いに乗った。この辺りの動きは流石に、昔のままではない。
 地面を蹴るのではない、踏むのである。不整地を長距離に渡って歩き続ける技術とは、膝に負担をかけない歩法だ。知らず知らずのうちに孝治は、そんな技術も習得していた。
 走る。アザラシの動きは確かに遅く、多少遅れたとはいえ海に逃げ込まれる前には確実に追いつける。群れの内側にいる個体には届かないため、群れの外周部に居る固体の中で、大きなものに目を付けた。

 ――狩る!

 丹田に力を込めて、孝治は殺意を沸き立たせた。両目をクワッと見開いて、意識的に仁王のような形相を作る。『表情は精神状態に関与する』とは、誰の教えだっただろうか。
 走る勢いのまま棍棒を振り上げた孝治は、狙ったアザラシの頭部目掛け、棍棒を振り下ろした。

 ゴン、という反動。

 こちらを向いていなくて良かったな、と、再度棍棒を振り上げながらも孝治は思った。目が合っていたら振り下ろせなかったかもしれない。
 それでも、殴られたアザラシが身を跳ねさせたのには心が痛む。しかしこれも自然の摂理だ。出来る限り顔を見なくて済む位置に立って、後頭部だか頭頂部だかに二撃目を振り下ろす。
 自らの頭部に幻痛を感じる。人間には想像力がある。日本に居た頃でも鼠くらいなら処分したことのある孝治だが、やはり人間と同程度のサイズの哺乳類は勝手が違う。今夜辺り撲殺される夢を見そうだなと、心のどこかで予想した。
 それでも三撃四撃と振り下ろしていくうちに、抵抗感というのは薄れていくものだ。慣れが感覚を麻痺させて、無表情に孝治は棍棒を振り下ろし続けた。





「……はぁ」

 アザラシが動かなくなったのは、一体何発目だっただろうか。最初から数えてはいなかったし、途中から夢を見ているような感覚で、どうも意識がはっきりしていなかった気がする。
 へたり込んだ孝治は、自ら殺したアザラシの死体にもたれかかった。とっくに群れのアザラシは海に逃げ込んでいて、残っているのは死体だけだ。まだ暖かいアザラシの体に、孝治は失われていく生命の重さを感じ取る。

 これがこの土地で生きていくって事、なんだろうな……。

 空を見上げて、孝治は思う。もちろん日本に居た頃にも肉は食べていたが、しかしこの地では人間と獣の距離が近い。というより、人間もまた自然の一部であり、一種の獣と言った方が適切に思える。
 俺もまたこうして死ぬのだろうか。そんな感傷的な気分に浸る孝治だが、気だるい気分を振り払って身を起こした。
 さてラカンシェはどうなったか――首を回して、孝治はおいおい、と声を掛ける。

「二頭も仕留めてどうするんだよ、ラカンシェ」
「いざとなりゃ人を呼べば良いだろ。アザラシの皮を手に入れる機会なんてあんまりねえんだよ」
「ふいごに使うつもりなんだが……」
「だから多目に狩ったのよ。さて、解体するか」

 山刀を抜くラカンシェに、孝治は疲れ切った声を上げた。

「ナハンカシペでやろうぜ。現物見て確信したが、とてもじゃないが全部の脂は持って行けない。放棄する代わりに仲介料にして、ナハンカシペの奴らに手伝わせよう。勿体無い」
「皮が一番価値があるんだぞ? それを持っていかれたらどうする気だ」
「皮だけは死守する。脂はいざとなったら、扶桑の回船商人に運ばせる」
「……扶桑人に?」

 ああ、と孝治は頷いた。

「今までクゥルシペにはアザラシ脂の需要がほとんど無かったが、儲かるなら運ぶのが回船商人だ。関税の入らない新規航路が開拓できるなら喜ぶだろうさ」

 それは島内流通経路の新規開発という点で、結構革新的なことであったのだが。
 興味の無いラカンシェは、はあ、と生返事をするばかりだった。


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