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No.33159の一覧
[0] 【習作】世神もすなる異世界トリップといふものを、邪神もしてみむとてするなり[ハイント](2013/03/23 17:46)
[1] 『かみさまからもらったちーとのうりょく』の限界[ハイント](2012/05/19 03:13)
[2] 辺境における異世界人の身の処し方[ハイント](2013/04/04 23:48)
[3] 現代知識でチートできないなら、近代知識でチートすればいいじゃない[ハイント](2012/06/12 20:51)
[4] 至誠にして動かざる者は未だ之れあらざるなりと雖も、[ハイント](2012/07/01 22:11)
[5] 道徳仁義も礼に非ざれば成らず。[ハイント](2013/04/04 23:52)
[6] 辺境における異世界人の身の処し方 その2[ハイント](2019/01/30 02:00)
[7] 出来ること、出来ないこと[ハイント](2019/01/31 00:14)
[8] プロメテウスの火[ハイント](2019/02/05 01:21)
[9] 『人食い』[ハイント](2019/02/07 04:31)
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[33159] 道徳仁義も礼に非ざれば成らず。
Name: ハイント◆069a6d0f ID:a5c8329c 前を表示する / 次を表示する
Date: 2013/04/04 23:52
 クゥルシペの居住区、その中央に、それはあった。
 大型の木造建築。大工を招き、扶桑の様式で建てられたというその白亜の建物こそ、族長エルマシトの居城――という表現は、甚だ大げさだが――である。漆喰と瓦のコントラストは孝治にも馴染みのあるのもではあったが、上から見ると六角形で、鏡餅のように二段になっているその構造は、むしろ遊牧民のテントを連想させた。
 クゥルシペの居住区は港や商業区よりもやや高台にあり、また家は原始的な茅葺小屋が基本だ。この二階建ての建物は、なるほど、居住区も商業区、港に海まで一望できる有効な監視台であるだろう。それにその大きさは、周囲から一際目立っている。権威主義とカルウシパに評されるエルマシトの、面目躍如といったところだろうか。

 決して無能ではないよな、エルマシトは。……それともブレインが居たのかね。

 この建物を建てる際、エルマシトは扶桑の貨幣で決済を行ったという。それまで米による物納であった港の使用料を貨幣によって支払うよう改めたのはエルマシトで、それによって獲得した外貨はクゥルシペの蔵に入っているが、これは非常時のための保険として使えるはずだった。
 そう、非常時だ。今こそ非常時なのである。溜め込んだ外貨を放出することで、扶桑の品を『適正価格』で買い上げられる。それは他部族に対するアドバンテージになるはずだった。なのに何故エルマシトはそれを行わないのか……孝治は思考を巡らせる。

 蔵から貨幣を放出して扶桑の品を買い上げ、民芸品……は要らないから食料や労働力を対価として他部族に売る。そうやって獲得した労働力を……使い道が無いな。

 色々と考えてはみるが、しかし大していいアイディアが浮かばなかった。エルマシトもそうなのだろうか。アルカシトに聞いておくべきだったと、孝治は後悔した。
 結論の出ない思考を打ち切り、改めて孝治は、建物とクゥルシペの居住区を見回してみる。

 ……建物本体はそれなりにでかいが、しかし防御設備は脆弱だよな。

 孝治は周囲の地形を見て分析する。川も堀も無く、柵も石垣も土塁も無い。そもそもクゥルシペは基本的に平野の街であり、港から居住区まで自然の要害が存在しない。
 孝治の故郷は日本でも有数の城下町だ。東京に居た頃は皇居見学に言ったこともある。その孝治の感覚では、これはまったく心許ない代物だった。

 銃兵数百……いや、長弓だ。短弓の射程の外から火矢を放つだけで、茅葺小屋は燃える。そうやってこちらが逃げるか、消火に奔走している間に上陸部隊を上げるだけで、クゥルシペは落ちる……。

 ……などと孝治は分析してみる。先進国の海上輸送能力がどの程度か分からないが、植民地獲得戦争の動員兵力が千人以下と言う事は無いだろう。守るのは不可能に思えた。
 もっとも、この地の民の戦闘技術は山林での狩猟の技術だ。ゲリラ戦に徹し、冬の間に反攻して奪還しまえば……とも考えてはみるが、

 一夏あれば、越冬の為の準備や防衛設備も整うか……。

 どう頑張っても平野部は守りきれない。そう孝治は結論した。
 考えてみれば江戸時代の北海道も、函館の辺りは日本領だった。松前藩という名前を孝治は自信を持って思い出せなかったが、狩猟民が農耕民、それも組織化された軍隊相手に平野部を守り抜くのは難しいのだろう。

 ……大人しく森に拠って戦うべきだな。数年耐えれば和睦も出来る……といいんだが。

 そんなことをぼんやりと考える孝治だが、結局は素人考えだ。そもそも必ずしもこの土地に海外からの侵略者が訪れるとは限らないし、訪れたところでエヘンヌーイは内陸だ。孝治の出番があるとも思えなかった。
 ああ嫌だ嫌だ、全く嫌な想像をしたもんだ……などと首を振った孝治の耳に、こんな声が聞こえてくる。

「お母さーん、あの人何やってるの?」
「きっと族長のお客さんよ。話しかけちゃ駄目」
「はーい」

 …………。

 孝治は自らの装束を見下ろして……うんざりと溜息を吐いた。

 










 クゥルシペの族長エルマシトは、この島でも多忙な男である。それはそうだろう。なにしろ彼の持つ権益はこの島でも最大のものであり、また港湾施設の使用料を徴収することで成り立っている彼の部族は、単純な狩猟採集生活とは根本的にライフスタイルが違う。
 さらに現在は扶桑の商人との諍いを抱えており、常よりも懸念事項が多い。そんな多忙な男は今、目の前の無法な来客に険しい眼を向けていた。

「よう、エルマシト。また来たぜ」
「……一日に二度も何の用だ。俺も暇ではないのだぞ」

 いかな旧知の仲とはいえ、二度も押しかけてきた友人に、彼は苦言を呈した。
 己が息子に目を向ける。取り付いたのはアルカシトで、故にこそ門前払いも出来なかったのである。苛々としながら、エルマシトは重々しい声を上げた。

「しかもアルカシト、その事はお前も知っていただろう。何故わざわざ取り次いだ」
「それは父上、この件は単なるカルウシパ殿の要請ではなく、僕の意思も介在しているからですよ」
「お前の?」

 アルカシトとて、今は極めて多忙なはずだった。むしろ扶桑人との折衝担当という立場上、自分より忙しいはず――などとエルマシトはいぶかしむが、彼が思考を巡らせるより先にカルウシパが口を挟む。

「ああ。実は今、うちに変わった客人が居るんだが、そいつをお前に紹介したいと思ってな」
「客人? 島外の者か?」
「そうです父上。それも遥か遠国より、この地にやって来た男です」
「……ほう」

 興味を惹かれ、エルマシトは一つ頷いた。
 思えばここしばらくの間、扶桑の商売人共を相手に不毛な恫喝を繰り返していたばかりだった。彼ら商人も災難だが、エルマシトとて平安な心持ではない。気分転換は必要だった。
 それに海外の者ならば、今回の一件についてなにか卓越した見識を示してくれるかもしれない――とエルマシトが思ったかは定かではないが、ともあれ、彼は友人に向かって言った。

「何か面白い芸のある男なのか?」
「ああ、中々ユニークな奴だぜ」
「ふむ。では通せ、アルカシト」
「はい」

 アルカシトは立ち上がり、入り口に歩み寄ると扉を開けた。扉の前で待機していたのだろう人物は、即座に入り口で一礼して入室する。
 その姿に、エルマシトは思わず目を剥いた。

「おい、カルウシパ」
「おう、なんだ」
「なんだ、あれは」

 入ってきた男は静かな摺り足ですすすと歩み寄ると、エルマシトの対面に膝を折って座り、深々と頭を下げたまま動かなくなる。
 その格好は、一言で言うならば――奇態であった。

「おい」
「紹介しよう」

 疑問の声を上げようとしたエルマシトを遮って、カルウシパが言う。至極大真面目な顔で。

「タカハルだ――――月からやってきた」
「……はあ!?」

 今度こそエルマシトは素っ頓狂な声を上げていた。










 ……頼むぜ親爺殿。

 平伏した姿勢のまま、孝治は祈るような心持で地に顔を伏せていた。
 頭に被る熊皮の臭いが、息苦しくてたまらない。そして上半身は毛皮で暑苦しいにもかかわらず、むき出しの脛は床板とぴっちりと密着していて、はっきり言って肌寒かった。
 股間を締め上げる晒し木綿の感触だけが、今の孝治にとって人間の尊厳を示している。これが無ければ、もう発狂した態で踊りだしていただろう。
 高校以来封印していた芸風を、まさか死後に異世界で披露する羽目になるとは思わなかった――そう嘆息する孝治の頭上、カルウシパは如何にもなんでもないような雰囲気でしゃあしゃあと言ってのける。

「こいつは半年ほど前に盗み食いの罪で月の国を放逐されたそうだ。元はユピリイエ様の従者だったが、今では海の幸山の幸をユピリイエ様に奉納するため、この地を放浪しているそうだ」
「……おい、アルカシト。こいつは頭でも打ったのか?」
「おいおい失礼な言い草だなエルマシト。これでもこっちは真面目も真面目、大真面目だ」

 カルウシパが声を張り上げて、エルマシトは眉間に皺を寄せてカルウシパを睨んだ。
 目の前の“無礼な男”を指差して、吐き捨てるように語気を荒げる。

「カルウシパよ、下らないホラを吹くために、わざわざこのような無作法な男を俺に引き合わせたというのなら、今すぐここから出て行ってもらおう」
「おいおいエルマシト、その言い草は無いだろう?」

 だが、これにカルウシパは動じなかった。ニヤニヤと笑ってエルマシトを指差す。
 神経を逆撫でする態度に、エルマシトは顔面に怒気を現した。それを見たカルウシパは如何にも面白そうに、からかうような口調で言った。

「俺との長年の友誼を忘れたのか? 昔のお前はもっと、度量の深い男だったはずだ」
「それを言うなら貴様こそ、昔はもっと“純朴”な青年だったはずだ。少なくとも、忙しい人間をからかうために、こんな馬鹿な真似をするような若者ではなかった」
「父上、お言葉ですが」

 ここでアルカシトが口を挟んだ。伺うような態度だが、しかし卑屈では決して無い。彼とて一端の交渉人である。

「父上は少々お疲れの様子。旧友であるカルウシパ殿のご厚意を、そうも無情に切り捨てるとは、クゥルシペの族長として、鼎の軽重が問われますよ」
「な――」

 エルマシトは絶句して息子を見た。アルカシトは飄々としたところはあるが、基本的には真面目な男である。まして父である自分の狭量さを責めるような性格ではない。

「何を言うかアルカシト! 貴様までこのような悪ふざけに同調するとは!」
「父上、父上は誤解されておられます。彼のこの装束は月人の正装。彼は父上への礼儀の為に、敢えてこのような格好をして望まれたのです」

 アルカシトはいたって真面目な顔でそう言った。
 これにエルマシトは口を半開きにして眉を顰めた。息子は一体全体どうしてしまったのか。そんな心中を如実に表した表情に、カルウシパが『ぐふっ』と声を漏らして睨まれる。
 ……アルカシトの左手は思い切り自分の脇腹をつねっていたが、エルマシトからは死角になって見えなかったのだ。

「そのような礼儀など聞いたことが無い! こんな――」

 一瞬表現に詰まって、エルマシトは孝治を見た。
 いまだ平伏する孝治は、もはや単なる熊の毛皮の敷物にしか見えなかったが――ようやく思いついて、エルマシトは怒鳴り声を上げた。



「――――こんな、『裸毛皮』の小僧を俺の眼前に突き出して、一体どうするつもりだ貴様ら!?」



 そのエルマシトの怒声は如何にももっともである。しかし動じずカルウシパは真顔で言った。

「いやいやエルマシト。これは『裸毛皮』じゃない『褌毛皮』だ」
「大して変わらぬわ!!」

 げほっ、とアルカシトが噎せこんだ。
 髭男二人に視線を向けられて、アルカシトは僅かに震えながら答えた。

「失礼しました。痰が絡んで」
「……。貴様ら、やはり俺を担いで笑い者にする腹だろう」
「おいおいエルマシト。お前は何時からそんなに疑い深い性格に……いや、それは元からだったな」
「喧嘩を売るつもりなら買うぞカルウシパ!!」

 怒号と共にエルマシトは立ち上がった。

「殴り倒して海に投げ込んでやる!」
「面白い。他の小僧ならいざ知らず、このカルウシパを海に投げ込めると思うのか?」

 呼応して立ち上がろうとするカルウシパ。
 思えば若い頃から、この二人の関係はこうであった。年甲斐も無く血を滾らせた二人に、しかしここでアルカシトが止めに入る。流石に本当に殴り合っては、『計画』に支障をきたしてしまう。
 素早くカルウシパを目で制して、こう声を上げた。

「お待ちください! 父上、一体何時まで客人を待たせるおつもりですか」
「客人、客人だと?」
「カルウシパ殿も、本題をお忘れなきよう」
「……ああ、そうだったな」

 再び腰を下ろして、カルウシパは手で孝治を指した。
 目を吊り上げたエルマシトに、不適な笑みを浮かべて言う。

「いつまでも地面に伏せたままでは、月人殿も可哀想だ。なあ?」
「ええ、全く。父上、そろそろタカハル殿に発言の許可を」

 しれっとそんなことを言い出す二人。エルマシトは山刀に手をかけた。

「……もし粗相があれば、斬り捨てるぞ」
「その時は俺が相手になってやるよ」
「貴様……!」
「ああもう、お二人とも落ち着いて! タカハル殿、顔を上げてください」

 促されて、孝治はようやく顔を上げた。










 ……扶桑の者にしか見えぬ。

 エルマシトは内心でそう考える。顔を上げた月人とやらは、髭こそ伸び放題に伸ばしているものの、その顔立ちは扶桑人に似ている。そう名乗られれば違和感を感じないほどである。
 そしてその装束たるや、裸体に六尺褌を締め、上からすっぽりと熊の毛皮を被っているという有様で――はっきり言って、気が触れているようにしか思えなかった。
 第一毛皮を被っているとは言うものの、体の前面はほとんど覆われていないのである。まして熊の毛皮は結構な大物で、先ほど立っていた時も、下の部分は思い切り地面に引きずっていた。
 まさかこれで、この地に馴染んでいるとアピールしているつもりなのだろうか? エルマシトはそう考えて、即座に否定した。

 ……カルウシパがこんな『下策』を許可するはずが無い。一体なにが狙いだ。

 警戒して、エルマシトは山刀の柄を撫でる。
 露骨に殺気立ったエルマシトの眼光に、孝治はしかし動揺する素振りを――少なくとも表面上は――見せなかった。すまし顔を維持する。
 一応、ここまでは予定通りだ。故に恐れる必要は無い。無いのだが……あの二人後で覚えてろよ、と孝治は内心、猛烈に悪態を吐いていた。
 しかしもう賽は投げられた。己の役割を果たすしかないのである。
 正座したまま、丹田に力を込める。朗々とした声で、孝治は高らかに――詠い上げた。



「八十日日はあれども、今日の生日の足日に、掛けまくも畏きクゥルシペの大君エルマシトの大前を拝み奉りて、エヘンヌーイの稀人築地孝治、恐み恐み申したまわく」



 飛び出してきた言葉に、エルマシトは思わずぽかんと口を開けた。
 その顔が壷に入ったのか肩を揺らしたカルウシパを、アルカシトが突っついたが、幸い孝治の視界には入らなかった。
 平然とした顔を崩さず、孝治は声音を少々落ち着かせて続けた。

「我築地孝治は月より降臨せし者にして、此の地に在りてはカルウシパ殿の厚意に与り、その恩義に報いんと遠く外つ国の珍奇なる品々を再現せんと努める身。此度はその珍しき品々、エルマシト様の御前に奉りたく思います」

 その流暢な――エルマシトをして今まで聞いたことの無いような流暢さをもって紡がれる“祝詞”に、エルマシトは先の怒りを忘れ、驚嘆を通り越して畏怖の念さえ覚えていた。
 思わず孝治に尋ねる。

「な、なるほど。しかし一つ尋ねて良いか」
「恐みて拝聴いたしまする」
「その“詠い”、一体どこで身に付けた?」

 さて、この辺りで少し解説しておこう。そもそも彼らの言う『祝詞』とは、一体如何なるものなのか。
 まず第一に、この土地の神話は口述詩であり、その内容は集落、部族によって異なるが、独特の節回しによって詠うように語られる点では共通している。またこの節回しは祭事における祈祷、即ち神への祈りとも共通しており、つまりこの土地の言語における唯一の『敬語』表現だった。
 そしてこの節回しはこの土地の人間以外が行うにはかなり難しく、またこの土地の人間であっても、上手に詠い上げるには相当の修練を要する。祭事においては長老と呼ばれる老人達が祈祷を行うが、彼らの唱え方は一種異様な壮大さを持ち、祭事のクライマックスに用いられる発声法は秘伝に属す。

 これを、孝治は利用した。

 今回孝治が最初に奏上した『挨拶』は、この地の長老達の秘技と同じ術をもって発せられていた。エルマシトとてこの島最大の勢力の長であり、“詠い”にもそれなりの自信はあるが、流石に孝治ほどの領域には達していない。
 珍妙な姿で月人を騙る人間が、これほどの技を見せたことに、エルマシトは激しく動揺したのである。恐るべきは言語チートであり、まったくその応用力であった。

「無論、月の国に御座います」
「……真に、月人だというのか」
「はい」

 この回答に、もはやエルマシトは強く反論することが出来なかった。
 一朝一夕には、この謳いは決して身につかない――それはこの土地の人間であればすぐに理解できるのだ。
 一度怒りを抱いたなら、後は冷めるだけである。すっかりと頭の冷えた様子のエルマシトに、孝治は内心で安堵した。

 ここまでは、計画通りだ。意表を突いて頭を冷やす。一度怒りが冷めれば、しばらくは冷静に話を聞いてくれるはず……。

 慇懃に謙りつつも、孝治は静かに背後から、木で作られた箱のようなものを取り出した。

「此度用意せし品は二つ。エルマシト様に奏じ奉りまする。まず第一に、これは家」
「家だと? この箱がか」
「より正確に申し上げますれば、これは極めて小さく作り上げた、月の家に御座います」

 膝行によって進み出た孝治が差し出した模型――木の枝を組み合わせて作り上げられたそれを手に取り、エルマシトはしげしげと見つめる。
 焼き固められた板状の土器を地面として、その上に指ほどの太さの枝を長方形に積み上げ、屋根にはこの土地で使われているのと同じ茅葺の屋根が乗せられている。これは工具が足りず、孝治が屋根を再現できなかったからなのだが、そんなことをエルマシトは知る由も無い。
 子供の頃に読んだ『大草原の小さな家』の描写を必死で思い出し、さらにルゥシアと試行錯誤を重ねて作り上げたログハウス――孝治の苦心の一作である。

「丸太小屋、と呼ばれる家に御座います。丸太に溝を切り、角で組み合わせて積み上げて作ります。これは小さいので膠で固めてありますが、本来は丸太を使い、自重で安定させるものです」
「ほう……」

 しげしげとエルマシトは見つめた。木材を組み合わせて道具を作ることはこの土地でも一般的だが、丸太をそのまま噛み合わせて家にするという発想はなかった。
 物珍しげに見るエルマシトに、孝治は言葉を続けた。

「丸太同士の間は隙間風を防ぐため、泥などで埋めます。壁が分厚いためにこの土地で使われている茅葺の家よりも、中は暖かくなります」
「なるほど。しかしこれは、一軒立てるのに結構な数の木を伐る必要があるな」
「はい。如何にもこの『丸太小屋』は、“贅沢な”品に御座います。故にこそ、エルマシト様のお目にかけようと思った所存に御座います」
「ほう」

 エルマシトは目を光らせた。元より彼は権威主義的であり、同時に扶桑の商人と渡り合うためにも、この手のハッタリを必要としている。
 あらかじめそれを知っていた孝治は、堂々とその所以を述べた。

「この丸太小屋は、畑を作るために木を伐り、切り倒した木を利用して作るのが本来の作法に御座いまするが、エルマシト様の部族は大所帯で、増えた人口を養うために、木を伐る機会があると聞きました。なのでこれをご紹介した次第です」

 エルマシトはなるほどと納得させられた。真に月人かはさておき、たしかにこの男、外の世界からやってきた人間であるらしい。このような建築様式は扶桑人からも聞いた事が無い。

「なるほど。たしかに丸太が余れば、この様式で家を建ててみるのも良いかもしれん」
「丸太に切る溝の形式が知りたければ、こちらの、」

 孝治はさらに、切り込みの入れられた四本の枝を出した。

「これも献上いたします。これを見れば、丸太小屋を建てることは容易のはずです」
「用意がいいな。ありがたく受け取っておこう」
「では、本日お目にかけまするのはこれともう一つ」

 孝治は次に、袋を取り出した。この袋自体、目の細かい木綿の布を何重にもして作り上げた、貴重な品だった。
 口を開ける。中に入っている白い粉末を、エルマシトに見せた。

「これはエルマシト様もご存知の品。扶桑で『石灰』と呼ばれる物に御座います」
「石灰? たしか石灰とは」
「この家を建てる時、扶桑の職人が白壁を誂えるのに使った物です、父上」

 素早くアルカシトが補足した。
 ああ、あれかとエルマシトは得心する。この建物を建てる時、エルマシトも扶桑の職人の仕事ぶりをつぶさに観察しており、その作業に左官工の漆喰塗りも含まれていた。

「水で練って藁などを混ぜ、塗りつけるのだったな」
「仰るとおりに御座います」

 孝治は深く頭を下げる。エルマシトが石灰の使い方を知っているのは、孝治にとっても好都合だ。有効性と利用法を説明する手間が省けた。
 しかしエルマシトの食いつきは今一つである。それはそうだろう、この品には“目新しさ”がない。その内心の不満を、彼は口に出した。

「しかし石灰は扶桑との交易で手に入る品。それほど珍しいものではない」
「仰るとおり、石灰は扶桑との交易で手に入りましょう。――交易ならば、実に容易く」
「!」

 たったこの一言だけで察したように、エルマシトは髭面の双眸を見開いた。
 やはり頭の良い男であると、孝治は気を引き締める。ここからが本番であった。





「私がこの度エルマシト様に奏じ奉りまするのは、このたった一握りの石灰には御座いません。この百倍の石灰を得る、その『製法』に御座います」
「作れるというのか、この土地で」
「不可能では御座いません。現にこの石灰は、私がこの地で作りしもの。扶桑の民も手足は二本ずつ。この地の民も手足は二本ずつに御座います。出来ない道理がありましょうか」

 あくまで慇懃に、孝治はこう語った。

「石灰とは、ある種の石を焼くことで得られる『灰』に御座います。必要なものはその石と、石を焼くための窯。そして大量の薪、あるいは炭に御座います」
「それを集めれば作れる、ということか」
「はい。作り方自体はそれほど難しくは御座いません」

 こう言って孝治は言葉を切った。
 後は、エルマシト自身に気付かせる。諫言というのは一歩間違えば命の危険のある行為で、相手の性格と能力を把握した上で慎重に行わなくてはいけない。
 孝治はエルマシトとは初対面だったが、彼を良く知るアルカシトとカルウシパの知恵を借りて、綿密に打ち合わせてあった。
 横でアルカシトが呼吸を整える気配を感じる。もしエルマシトが自分で気付かないようならば、彼が直接危惧を述べる役割を果たす。そういう約束だった。不安はない。

「……石、窯、薪。……その石というのは、どういう石だ」
「こちらの石に御座います」

 果たしてエルマシトは、思考を進めつつも孝治に質問してくる。まず石の種類に目を付けるあたり、論理的な思考をしていると判断できた。
 サンプルを取り出した孝治は、恭しくエルマシトに差し出して所見を述べる。

「私はこの石を山より採取いたしましたが、それほど珍しい石でも御座いません。良く良く探せば、“人里近くで”見つけることも可能ではないかと推測しております」
「……なるほど。山から石を運ぶのは、それなりに人手がかかるな」

 孝治が挿入したヒントに、察したようにエルマシトは呟いた。
 孝治は恭しく頭を下げる。ここで迂闊なことを言うのは逆効果だ。静かにエルマシトの次の言葉を待つ。

「次に、窯か。窯はあるが、石を焼くために使ったことはない。そして最後に、燃やすための燃料と」
「はい。その通りに御座います」
「違うな」

 追従を述べた孝治に、エルマシトは鋭い視線を送った。
 孝治は軽く目を細めて受け流す。下っ腹に力を入れて、己の姿勢を維持してのけた。

「最も重要なものがある。それは作業する『人間』だ」

 エルマシトは言い切った。
 元より族長であるならば、配下に仕事を割り振るのは日常業務の内であろう。ならばここまでは当然の思考だ。
 問題は、この先にある。孝治は頭を下げて、静かに続きの口上を述べた。

「はい。ですのでもし石灰を作れとお命じになられたなら、人手を割いていただくこととなりましょう」
「そうだろうな。だが」

 エルマシトはこう問うた。

「この石灰というもの、一体何に使えるのだ」
「石灰には、水で練り、藁や砂を加えて数日置くと、石のように固まります。窯の隙間を埋め、また白壁を塗るのに使えましょう」
「それだけか」
「はい」

 実際にはもっと他にもあった気がするが、孝治はとりあえずそう答えた。
 これを聞いてエルマシトはきっぱりと言い切る。

「ならばこれは作るに値せぬ。大量に作っても使い道が無く、またその為に人手を取られるならば」

 『何に使えるか』を理解した上で、コストパフォーマンスを考えて結論を出す。
 エルマシトは至って合理的な思考の持ち主だと、孝治は結論付けた。故に。

「ご賢察真に恐れ入りまする」

 頭を下げて平伏し、袋に入った石灰を、す、と差し出した。
 そして平伏したまま孝治は、

「“交易のため”民芸品を作り、“交易のため”港を管理する。クゥルシペの貴重な人手を石灰一つの為に裂けぬというその御深慮、この築地孝治真に感服いたしました」

 この痛烈な一言に、エルマシトは目を見開いた。








 平伏し、床を睨みつけたまま、孝治は全身に気迫を張り詰めた。全身の皮膚から磁場を発するようなイメージ。他者の圧力を跳ね返すための“膜”を、先行して自らの意志で張っておく。
 最早エルマシトの返答を待つ必要はない。朗々と語り上げるのみ。

「そう、人手は貴重です。石灰作りなどに裂けぬほど。ならば今、港で働くクゥルシペの男たちは、一体どうして働くことも出来ずに居るのでしょうや」

 すっぽりと体を覆う熊の毛皮が暑苦しくてたまらない。きっと今自分を見たら、熊の毛皮の敷物の下に人間が潜り込んでいるような光景だろうなと、孝治は少し面白く思った。

「今は夏です。彼らは山に入れば鹿を狩り、海に出ては魚を獲ることも出来ましょう。しかし扶桑の者達の監視のため、勇敢なる男たちを港に置いて置くのは、これは少々道理に合いますまい」
「アルカシト!」
「父上、タカハルの言葉をお聞きください」

 叱責の声を上げたエルマシトに、アルカシトは決然として言い返した。
 カルウシパもまた居住まいを正す。僅かに腰を浮かせ、尻の下に片足を敷いて爪先を立てる。即座に立ち上がれる体勢である。

「先も申し上げましたとおり、如何にも石灰は扶桑との交易にても手に入るもの。自ら作るまでも無く、必要ならば海の向こうから輸入してしまえばよい。この地の民の生業は狩猟と木工、そして交易。火を使う技などは扶桑の民に任せてしまえばよいのです」

 臆することなく孝治は言葉を紡ぐ。うなじの辺りにビリビリとした殺気を感じるのは、これは自意識過剰というものか。
 我が首を打ち落としたくば打ち落とし給え。いっそそこまで開き直って、孝治は魂魄を奮い立たせた。
 葉隠に曰く、諫言とは戦場の槍働きに劣らぬ武士の花道であるらしい。よろしい、ならばここが己の天王山かと、孝治は覚悟を定めた。

「そう、交易こそが夏のクゥルシペの最大の仕事! それを為さずして滞らせるならば、エルマシト様、貴方はクゥルシペの男達と、交易に訪れた他部族の者達を裏切っていることになりましょう!」
「吼えたな小童!」

 エルマシトは山刀を抜いて立ち上がった。気配を察して孝治は身を強張らせる。
 だが同時にカルウシパも立ち上がって、こちらは山刀を抜かず、拳を握り締めてエルマシトに対した。

「おいおいエルマシト! 裸の小童一人に刀を抜くとは、貴様も耄碌したもんだ!」
「何を言うか! 月人を名乗る胡散臭い小僧、貴様の客人というから通してやったものを、結局は扶桑の商人どもの差し金ではないか! 取り込まれたかカルウシパ!」
「タカハルがエヘンヌーイの客人なのは事実だし、大体今言ったことに嘘は無いぜ! はっきり言うがなエルマシト! 持ってきた工芸品が売れなくて、俺達も迷惑してるんだよ!」
「何を! 俺にはこの島の交易を守る義務がある!」
「父上! 落ち着いてください!」

 腰を浮かせたアルカシトが声を上げたが、年甲斐も無くヒートアップした中年二人は耳を貸さない。
 これは困ったと思いつつも、アルカシトは自分の山刀に手をかける。客人であるカルウシパがあくまで刀を抜かず対している以上、万が一の時は自分が父を止めなくてはなるまい。
 外見こそ柔和に見えるアルカシトも、結局は狩猟の民である。片膝立てた前傾姿勢でエルマシトの持つ山刀を注視し、息を詰めて警戒の態勢に入る。大荒れに荒れた会議場に制止役が居なくなり、一触即発の状況が完成する。

「お待ちください、ご両人」

 しかしここで、平伏していた孝治が面を上げた。
 一度はカルウシパに向かったエルマシトの怒りの矛先が孝治に向く。平伏しながら呼吸を整えていた孝治はこれをなんとか受け流し、表情を引き締めて言葉を発した。

「エルマシト様。扶桑の民を港から締め出すことは、この地の民にとって嬉しからぬことなのは、先の石灰一つをあげてもお分かりの事と存じます」
「しゃあしゃあとよくも言えたものだな、小僧」
「そして!」

 有無を言わせぬ口調で、孝治はエルマシトの言葉を遮った。

「扶桑の民の侮るべからざることもまた、石灰一つでお分かりのはず!」
「ぬっ……」

 エルマシトは図星を突かれて言葉に詰まった。
 そう、そんなことは最初から分かっているのだ。港に泊まる大型帆船。あれに使われている木材の量、巨大な一枚布の帆を見れば、そんなことは明確に理解できる。
 だがあえて、孝治は石灰を持ち出した。それは文明の格差がどういう意味を持つのか、この地の人間にも分かりやすくイメージさせるためだった。

「彼らはあらゆる物を作ります。それを作れる人手があります。それが出来るだけの、大量の、保存の利く、食料が存在します」
「米、か」
「そうです。彼らには米がある。だから石灰を焼き、鉄を作り、あのような巨大な船まで作ります。そして、」

 孝治は一旦言葉を切った。
 呼吸を整える。エルマシトはカルウシパと怒鳴り合った直後で、感情の波が沈静化したタイミング。
 やるなら今だと、孝治は決断した。

「そんな彼らをもってしても、侮れぬ大敵が――海の向こうからやってきたのです」








「此度の『鉄製品の値上がり』が、戦支度によるものであること。これはエルマシト様もご存知のはず」

 随分と回り道をしてしまったが、ようやくここからが本題だった。
 訪れる扶桑商人の減少、さらに鉄製品の高騰は、港の交易で栄えたクゥルシペにとって致命的だ。その対策にエルマシトは頭を悩ませていたし、生返事ばかりで事態を好転させるつもりのない扶桑商人に苛立っていたのである。
 思い出して渋い顔をするエルマシトに、孝治は落ち着いた声音で語りかける。

「故に扶桑の男達はこぞって剣や槍を買い集め、この地へと輸出する鉄製品が少なくなっています。物が無いから売れない。そういった単純な事情が背景にあるのです」
「勝手な話だ。150年ほど前にも奴らは戦に明け暮れていて、挙句我々の土地に踏み込んできた。今回もまた同じことが起こるというのか」
「いいえ、今回は事情が違います」

 孝治は首を横に振る。なるほど、それを警戒しているから強硬な態度なのか、と内心で納得しつつ。

「今回の戦は、扶桑内部の争いではないのです。敵はあくまで、扶桑の外から襲っています」
「扶桑の外……つまり、奴らとは全く関係のない者達だと?」
「はい。遥か東の海を渡った、アトラスという大きな国に御座います」

 実の所孝治は、アトラス帝国とやらについて詳しくは知らない。しかしここは敢えて、まるで知っているかのように振舞うことに決めていた。
 アルカシトから『エルマシトの扶桑への疑念を解消し、取引停止措置を解除して欲しい』と依頼された時、孝治が立てた目標は二つある。

 一つは『エルマシトの扶桑への疑念を解消する』こと。
 一つは『今回の事態に対する危機感を植えつける』こと。

 どうしてわざわざ条件を加えたのかなど言うまでもない。孝治自信が強い危機感を覚えていたからだ。
 『アレ』の介入を疑うまでも無く、地球の歴史にも似たような話は幾つもある。拡大戦略を取る帝国が海を渡り、それまで交流の無かった土地に目を付ける。そうして行われることは、大概において一方的な搾取だ。
 仮にも二十一世紀を生きた孝治には、どうしてもこの土地の人々――『夷』と呼ばれる人々が、それに抗えるだけの力があるとは、信用することが出来なかった。

「南の海にはここと同じように、扶桑と交易を行っている島々が在るのですが、そのアトラスと言う国は彼らを襲い、そこに住む人々を攫っています」
「なんだと?」
「しかもアトラスという国にはとてもとても巨大な船があり、その巨大な船を沖に停泊させると、たくさんの小船に大勢の兵士を乗せて上陸してくるのです」

 この話に、エルマシトは興味を引かれた。まるで見てきたような物言いは、いかにも孝治のハッタリであったが……しかし孝治の言葉には、奇妙な真実味が篭っていた。
 何故ならば孝治は知っているからだ。体験ではなく歴史として、現実に満たずとも物語として、そういう世界を明確にイメージできる。

「アトラスの船はとても大きく、クゥルシペの港に泊まる扶桑の商船とは比べ物になりません。またその側面には真っ黒い鉄の、そう、大きな筒のようなものが一つ、二つ、三つ……五つは伸びているのです」

 孝治はここで目を閉じて、まるでアトラスの戦艦を思い出すかのような素振りを見せながら、わざとらしく指折り数えて見せる。

「黒い筒……何故そのようなものが伸びているか、エルマシト様はご存知でしょうか」
「いや、知らんな。そんなものは見たことが無い」

 問いかけに、エルマシトは首を横に振る。
 彼が孝治の語りに引きこまれているのは、まさしく『詠い』の旋律によるものだ。祭事の度に口述詩の吟詠を聞いているこの地の民には、この『翻訳』技能は絶大な威力を発揮した。

「それは大砲、大筒と呼ばれるものです。巨大な鉄の塊を、雷鳴と共に打ち出して、岩をも砕く恐ろしい武器なのです」
「大砲? 大筒だと? そのようなものがあるのか?」
「はい。遠く東の国で作られるその武器は、一度轟音を発したならば岩をも砕き、木でできた家や、あるいは扶桑の大船でさえ、一たまりもありません」

 まさしく神話の情景を謳うような孝治の語りに、エルマシトは息を呑んだ。

「あの大きな扶桑の商船でも、か」
「あれほどの大きさであっても、」

 孝治は一拍置く。エルマシトの目を見て理解の色を伺いながら話す技術はまさしく、ルゥシアへの物語で得た技術である。

「一たまりもありません――何故ならアトラスの戦舟は、鉄で覆われているからです」
「なに、鉄で!」

 装甲艦がこの世界にあるかなど、この時の孝治には全く関係が無かった。力強く肯定する。

「そうです! 東の国には大量の鉄を作り出す技術があり、そしてその大量の鉄で武装した船、あるいは石造りの家々を破壊するために、彼の国の大砲は、それほどの威力を持っているのです!」
「なんと……!」

 目を見開いて驚くエルマシトに、孝治は声を落ち着かせて語りかけた。

「そのような強力な船を持った国と、扶桑は戦うつもりなのです。なので今回の一件は、決して彼らの怠慢でも、値を吊り上げるための詐術でもありません」
「むむ……」

 唸るエルマシトに、孝治は一息入れた。
 横ではエルマシトと同じく、孝治の語りに引きこまれていたカルウシパとアルカシトが驚嘆したような顔をしている。孝治の知恵と知識の尋常ならざることは知っていても、この胆力は想定外だったのだろうか。
 しかし孝治は気を引き締めなおす。力技で扶桑の状況を納得させたはいいが、はっきり言って論理的な説明ではない。交易を再開する利は先立って説いたが、それだけで納得できるほど人の良い男ではなかろう。
 実際にエルマシトはしばし唸り声を上げてはいたが、少しして顔を上げると、孝治にこれを聞いた。

「……扶桑の状況は分かった。だが――それを知る貴様は何者だ?」
「月人、では御納得いきませんか」
「納得できるはずがない」
「おいおいエルマシト、お前も少しは人を信じる気持ちを取り戻したら――」
「カルウシパ殿は少し黙っていてください」

 アルカシトがカルウシパを黙らせて、孝治はエルマシトと真っ向睨み合った。
 まあ仕方あるまい、と事前に用意してあったカバーストーリーを述べる。

「我築地孝治は幼少より扶桑を出で、七海を渡り世界を放浪せし者。今まで述べた全ては、その放浪の中で見聞したものに御座います」
「ほう。その上で、扶桑の手の者ではないと?」
「如何にも。お疑いの程は分かりますが……」
「いいや」

 意外なことに、エルマシトはここであっさりと首を横に振った。

「あれほどの詠いを見せられては、貴様が扶桑の出身であろうと瑣末なことだ。それに貴様の目には嘘がなかった」
「疑いまくってたじゃねえか」
「カルウシパ殿。髭、剃りますよ」
「やめろ!?」

 外野が何か騒いでいたが、構っている暇はない。
 エルマシトは腰を下ろすと、落ち着いた声で言った。

「貴様は信用に値する。だが、貴様以外の扶桑の者は我らを蔑み、商人は勘定を誤魔化す輩だ。その上で聞いてみたい。この戦を口実にして、我々の商品を安く買い叩こうという魂胆で無いとは、どうして言い切れる?」
「それは……」

 孝治は内心焦った。正直な所、その意見を否定する理由はないのだ。値崩れした所を狙って買うのは投資の基本であって、そのこと自体を悪とする発想が孝治にはない。
 考えを纏めるため思わず逸らしそうになった目を、腹に力を込めてエルマシトの目に向けなおす。そうして数瞬考えて、孝治は返した。

「彼ら扶桑の商人に、海運奉行からの達しが出ているそうです」

 思い出したフレーズを口走る。午前中に聞き込みに行った扶桑商人が何気なく言っていた言葉だ。

「海運奉行?」
「はい」

 言ってしまってから、孝治はストーリーを構築する。エルマシトが不審に思わない程度の間、その数秒の間に。
 日本に居た頃には到底出来なかっただろうが――今の孝治は、例の能力によって思考が拡張されている。決して不可能な業ではなかった。

「彼ら扶桑の商人は、たしかに怪しげで強欲な連中ですが、しかし彼らにも怖いものはあります。それが『お上』です」
「む……たしかに、奴らは時折そういったことを口にするな」
「はい。まさしくその通りで、彼ら商人は『お上』に逆らえません。そして『お上』が商人にそこまで言うということ自体が、まさしく扶桑が本気だという証拠になります」
「ほう、どういうことだ?」

 身を乗り出して聞いてくるエルマシトに、孝治は当然と言わんばかりの態度で答えた。

「何故なら扶桑は交易立国、つまり交易によるモノの売り買いを重視する国だからです」

 もちろん完全にこれは、孝治の想像であった。とはいえ根拠の無い話ではないのだが。

「彼の国は元より商人に強い権限を与えています。彼ら扶桑の商人、船商人たちは危険な海を渡り、南の海で、この地で、様々な商品を集めてきます。彼らからの税金で潤っている扶桑という国は、余程の事が無い限り商人の商売の邪魔をしません」
「む……? どういうことだ?」
「ご説明いたします。このクゥルシペでは、扶桑の商人たちから港の使用料を受け取っていますね?」
「ああ。それが我ら部族累代の権利だ」
「それと同じやり方が、扶桑にもあるのです」

 ほう、とエルマシトは声を上げた。孝治は続ける。

「扶桑の商人は船でこの地を訪れますが、その船は扶桑に居る間、まさか陸に上げているわけではありません」
「それはそうだろうな」
「つまりこのクゥルシペと同じように、扶桑の港に泊めています。そして扶桑では、『お上』が港の管理権を持ち、その使用料を取っているのです」
「なるほど……」

 感心するエルマシトに、さらに駄目押しで孝治は続ける。

「そして扶桑では、商人は交易に行けば行くほど『お上』が儲かるようになっています。そう、たとえば……港の出入りの回数が多ければ多いほど、商人が支払う使用料が増えます」

 実際にそんな税制があるかは全く知ったことではないが、分かりやすく孝治はこう説明した。

「商品を安く買い叩き、鉄製品の値を吊り上げる。これだけならばたしかに商人たちの小細工かもしれません。しかしこの地を訪れる商人が減っているという事実は、扶桑という国が、実際にまずい状況に陥っていることを裏付けているのです」

 こう言葉を結び、孝治はエルマシトの顔を見る。これ以上この話題を続けるとなると、流石にボロが出そうだった。なにしろ口から出任せの連発である。いい加減逃げ出したくなってきた。
 その思いが通じたのかどうかは知らないが、

「そうか、つまり扶桑の人間に、我々への悪意は無いということだな?」
「左様に御座います。むしろ今回の扶桑の態度は、この地の人々にとっても決して忌むべき内容ではないはずです」
「ふむ? それはどうしてだ?」
「何故ならアトラスの船が荒らしまわっているのは、あくまで南海諸島――扶桑の人間から見れば、単なる交易の相手です。しかし彼らは戦うつもりだということです」
「商売相手が居なくなると困るから、か」
「はい、その通りです」

 正確に言えば『単なる交易の相手』では無く『植民地』なのだが、孝治はそれについては口を噤んだ。余計な不安を抱かせる理由はない。
 それに彼らが海洋交易を重視していることは、回船商人たちとの会話で強烈に感じていて、まんざら嘘というわけでもないのである。

「彼らは商売相手を簡単には見捨てない。それはたとえ商売が困難になっても、この地を訪れる扶桑の商人がいることで証明できます」
「……なるほど、たしかに彼らとて、売れる商品が少なくなれば利益は出せないか」
「ご賢察です」

 孝治は頭を下げた。これでエルマシトの扶桑への疑念は、大体解けたと考えていいだろう。後はアルカシトの仕事だ。外様である孝治に交易の再開云々を進言する権限はない。

「以上を持ちまして、扶桑の状況への奏上は完了とさせていただきます。また何か御座いましたらご用命ください」
「うむ。ご苦労だった」

 最後にもう一度平伏して、孝治は肩の力を抜いた。
 疲れた。本当に疲れた。異世界に来て権力者に諫言……ある意味異世界物の本懐かもしれないが、現実にやるとこうも緊張するものだったとは。
 毛皮の下でぐったりとした孝治。再度敷物と化した孝治を見下ろして、エルマシトは思い出したようにこう言った。

「ところで、タカハルとやら」
「はい、何に御座いましょうか」
「……その装束は、結局何の意味があったのだ」

 …………。

 孝治は身を起こした。
 エルマシトの意表を突いて『祝詞』の効果を高める為の奇体――そう、正直に答えても良かったのだが。

「カルウシパ殿の企みです」
「よし、カルウシパ。表に出ろ」
「おいおいエルマシト、今のお前は族長だぞ? 人前で乱闘なんぞ――」
「ならばここでやってやるわ!!」

 鞘ごと引き抜いた山刀をアルカシトに投げ渡して、エルマシトは立ち上がった。慌ててカルウシパも孝治に刀を投げ渡して立ち上がり迎え撃つ。
 開始されたおっさん二人の取っ組み合いに、献上品を持って孝治とアルカシトは隅の方へ退避する。孝治は毛皮を脱ぎ捨てて壁際に放り投げると、褌一丁でアルカシトに話し掛けた。

「これでいいな?」
「もちろんだよ。良い仕事をしてもらった」
「交易は再開されると思うか?」
「後は僕の仕事だね。まあ、父上の“ガス抜き”までお膳立てしてもらった以上、何とかしないわけにはいかない」

 ニコリと笑ってアルカシトは言った。柔和だが頼もしい笑みだと、共同戦線を潜り抜けた今、孝治は頷き返してみせる。

「頼んだぞ。それと、例の件だが」
「ああ、それは問題ないよ。父上もタカハルを気に入ったようだし」
「だといいんだがなあ。……とりあえず」

 孝治は深々と溜息を吐いた。

「服が着たい……」




















 そしてそれからしばらく経って。

「ただいまー、って、何やってるの!?」

 日も傾いた頃にエヘンヌーイの宿舎に帰ってきたルゥシアは、そこで繰り広げられていた光景に目を見開いた。

「おー、ルゥシアか。良く帰った良く帰った!」
「お邪魔してるよー、ルゥシアちゃん」
「そこで俺は言ってやったのさ、『掛けまくも……』ってなあ!」
「くそ、やめろテメエ! なんでオレの方に来るんだよ!」
「え!? なんで夕方にもならない内から酔っ払ってるの!?」

 ルゥシアの目に飛び込んできたのは、もう完全に出来上がった男達――カルウシパ、アルカシト、孝治にラカンシェ……はまだ飲んではいないようだったが、とにかく酷い騒ぎであった。
 慌てて駆け寄るルゥシアに、タカハルは軽く酒盃を掲げて見せた。

「いいだろルゥシア、米の酒だぞ! 米の酒だ!」
「あっはははは! タカハルに喜んでいただけたようでなにより! しかし強いねタカハル、流石に扶桑の人だけある」
「いいや違うぜアルカシト。こいつは月の人間だ!」
「おや、本当に月人だったのかい? 凄いなあ! 月なんてどうやっていくんだい?」
「あははははははははー!! そいつはな、アルカシト。さっきも話した大砲って奴だ」
「大砲?」
「そうさ大砲だ。でっかいでっかい馬鹿でっかい大砲をだな! こう月に向かって……ドカーンッ!!!」
「おお! ドカーンッ! で月に行けるとは!!」
「そうだ、ドカーンッ!!」
「「ドカーンッ!!!」」

 アルカシトのみならずカルウシパまで参加した『ドカーンッ』は、周りの迷惑を考えない大きさだった。
 ここはエヘンヌーイの宿場だが、周りには他の集落の宿舎もある。あまり酷い醜態を晒さないで欲しかった。
 慌ててルゥシアは止めに入る。

「ちょ、やめてよお父さん! タカハルも! あとなんでアルカシトまで一緒になって飲んでるの!?」
「いやいやそれはね、タカハルが見事にやってくれたからだよ!」

 意味が分からず、ルゥシアは頭を振った。
 アルカシトとはそれなりに交流もあるし、飲むとやたらに陽気になるのも知っていた。しかしなんでわざわざ、余所の集落の宿舎に来て、昼の内から飲んでいるのか。
 ほうほうの体で孝治から逃げ出したラカンシェが、ルゥシアにこう言った。

「なんでもタカハルがエルマシトに直談判して、扶桑との取引を再開させたらしいぜ! ……あと、オレは外に出てるからな!」
「あ! ラカンシェ!?」

 ルゥシアの横をすり抜けて飛び出したラカンシェの背中に、孝治がおいおいと声を掛ける。

「せっかく俺が戦利品として手に入れた酒だぞラカンシェ! 俺の酒が飲めないってのか!?」
「気分が悪くなるんだよ! 扶桑の透明酒なんか飲めるか!」

 律儀に入り口で振り返って言い捨てる。そのままさっさと姿を消したラカンシェに、孝治はぼやくように言った。

「せっかく俺が『初めて仕留めた獲物』だってのに、気が利かないな。まあ、酒造文化が無いこの土地の人間がアルコールに弱いのは、当然といえば当然だが……」
「嘆くな孝治! 俺は信じてたぜ、お前は出来る奴だってな!」

 ばしばしと孝治を叩いて、カルウシパは言う。

「俺たちは弓矢で鹿を狩るが、タカハルは言葉で酒を狩った! ルゥシアも来い! こいつは孝治の獲物だぞ!」
「えーと……」

 酒席に呼ばれてルゥシアは戸惑ったが、いつまでも立っているのも手持ち無沙汰で、とりあえず孝治の隣に座った。
 鮭の干物を齧りながら杯をガンガン空ける孝治に聞いてみる。

「何があったの?」
「さっきラカンシェが言ったとおりだ。エルマシトに会って、話して、それで酒をもらってきた」
「……ふーん」

 今一ピンと来ていない様子のルゥシアである。
 まあ、詳しい話は後日で良いだろうと、孝治は説明を放棄した。今は酔っているので、筋道立てて説明できない。元々あまり飲むほうではなかった孝治だが、半年以上ぶりになる日本酒の味にいささか酒量が増えている。
 酒造文化も稲作文化も無いこの土地では貴重な米の酒であるが、クゥルシペでは船の入港時に物納される慣例となっているらしく、蔵にはそれなりの量が残っていた。遠慮は要らない。

「……本当は刀が欲しかったんだがなあ」
「これから当分、鉄製品の輸入が滞ると進言したのはタカハルだろう?」
「いやまあそうなんだが、あれから考え直してみたんだよ。扶桑との交渉次第でなんとかならないかって」
「へえ?」

 アルカシトは目を光らせた。酔ってはいてもクゥルシペの渉外担当である。仕事の話は捨て置けない。
 対してカルウシパは呆れたように肩を竦めた。

「おいおいタカハル、随分と熱心じゃないか。せっかくの酒席だぞ?」
「……うーん、それもそうか。アルカシト、この話は明日だ」
「むむ。気になるところで切るね」
「俺も一晩考えを纏めさせてくれ。それに、まだまだ情報も足りないしなあ」

 そう言いながら杯に酒を注ぐ孝治。その手元を隣のルゥシアがじーっと見ている。
 好奇心旺盛な眼差しに、おや、と孝治は横を見た。

「飲みたいのか?」
「うーん……美味しいの?」
「味が良い物じゃないけどなあ」

 そう言って孝治はカルウシパを見た。自らも杯を空けていたカルウシパは、その視線になんでもないように返した。

「一杯くらいなら大丈夫だろ。せっかくのタカハルの戦利品だ、ルゥシアにも飲ませてみよう」
「じゃあ、飲んでみる!」
「……大丈夫かなあ」

 とはいえ、この土地の杯は掌にすっぽり入る大きさで、流石に子供でも急性アルコール中毒になることはあるまい。
 孝治は酒を注いだ杯をそのままルゥシアに渡す。おっかなびっくり受け取ったルゥシアは、軽く匂いを嗅いで顔を顰めた。

「……やっぱり変な匂いだよね」
「とりあえず舌先で舐めるようにしとけ」
「うん」

 舌先で酒の水面を突っついて、ルゥシアは感触を確かめていた。
 手持ち無沙汰になった孝治は、今後の打ち合わせでもとアルカシトに声を掛ける。

「エルマシトに改めて挨拶に行くのは、何時がいい?」
「明日か明後日には時間を取るよ。それと『海草』だっけ? その話も直接した方がきっと早い」
「天日干しに何日かかるか分からん。その間の仕事も用意してもらえるとありがたいんだが」
「タカハルは扶桑語が使えるから、仕事はいくらでもあるよ。なんならずっと居てくれてもいいくらいだ」
「え?」

 舌がひりひりするのか、酒の水面を睨んでいたルゥシアがこの会話に顔を上げた。

「タカハル、クゥルシペに残るの?」
「しばらくそのつもりだ。ちょっとやってみたいことがある」
「……ふーん」

 そう言ってルゥシアは杯をあおった。

「けほっ! の、けほっ、喉が熱いぃっ!」
「おいおいルゥシア、何やってるんだ。そんなにタカハルをアルカシトに取られるのが嫌なのか」
「そ、そんなこと無いよ!」

 ニヤニヤとカルウシパがルゥシアをからかう。膝を叩いてルゥシアは反論したが、アルコールの臭気にやられたのか微妙にふらふらしていた。
 我関せずと孝治は、取り戻した杯で飲みを続行する。余計な勘繰りをされるのは御免だった。




















 日が沈む頃には、方々から戻ってきたエヘンヌーイの住人達も珍しい米の酒で酔っ払い、宿舎の中はやんやの騒ぎとなっていた。
 主役のはずの孝治も、もはや武勇伝も語り疲れて、宴会の輪からは外れていた。なにしろ先行してハイペースで飲んでいたため、他の人間ほど体力が残っていないのである。
 とはいえカルウシパは元気に大声で冗談を飛ばしているので、これは単純に孝治の体力が劣っているのだろう。流石に狩猟民はタフだった。
 すでにアルカシトも帰ってしまい、ルゥシアも眠ってしまったため、落ち着いて話せる相手もいない。途中でこっそり戻ってきたラカンシェもすでに潰れている。あまりの弱さに孝治も驚愕していた。

「親爺殿、ちょっと風に当たってくる」
「ん? おう、遠くまで行くんじゃないぞ」
「分かってるよ」

 一応一言言ってから、孝治は宿舎を抜けた。もうすぐ七月とはいえ、酔っているからかはたまた単にこの土地が寒いのか、風はまだ涼しさを覚える温度だった。
 すでに太陽は山の稜線の陰に隠れて、恐らく地平線からも隠れてしまったのだろう。紺色に染まりつつある空を見上げれば、いくつもの星が瞬いていた。
 そういえば昔の人は、星を見上げて視力検査をしたそうだ……などという話を思い出し、孝治はしみじみ呟く。

「……眼鏡、掛けて無くてよかったなあ」

 幸いにして孝治の視力は0.8程度で、眼鏡もコンタクトも使っていなかった。狩猟民であるこの土地の人々に比べれば悪いかもしれないが、生活に不便を感じたことはない。
 それにこちらの世界に来てからは本もパソコンも触っていないため、多少視力が上がっている気もする。『眼筋に力を入れる』という所作を、孝治は習得しつつあった。

 全体的に五感が鋭くなっている気もするし、人間慣れれば慣れるもんだなあ……。

 現代日本では考え事をしながら歩いていても、よほど運が悪くない限りはなんともならない。しかし常に周囲を警戒する必要のあるこの世界に来て半年、日本では使っていなかった領域の能力が目覚めつつあった。
 それは例えば、雨雲を見て降りの強さを予測する能力だったり、体重を掛けても切れたり折れたりしない木や草を見分ける能力だったり、不安定な足場を探りながら歩く技術だったりする。
 日本では、意味のない能力だっただろう。ブラインドタッチや自動車の運転でも出来た方が遥かに役に立つ――しかし今や、その関係は逆なのである。

 社会が変われば、必要とされる能力も変わる。当たり前の話だな……。

 幸運なことに孝治は、最初からそのことを知っていた。必要な時に必要な行動をとれ。その教えは血肉となって孝治に息づいていたし、日本でならばそれなりに実践したこともある。
 『必要な技術を習得し、周囲の求めに応じて働く』。それが人間社会の大原則だ。それこそ仮に属する集団が反社会的なものであったとしても、そこでしか生きられないならそうすべきなのだろう。そう理解できる程度には、孝治はドライだった。

 ……だがまあ、希望は見えてきたかな。

 孝治は軽く歩を進めた。夜風が顔を撫でて目を細める。
 夜の海は酷く黒く、胸の内をざわつかせる。だがそれでも、それでも――――“アレ”よりは、マシだろう……。
 大丈夫だ、と強く念じる。

 “チート能力”も活躍の機会を得た。エルマシトとの繋がりも出来た。それに俺の能力は、異世界で生き抜くのに不足という事はない。

 それは孝治にとって清酒以上の、今日の最大の収穫だった。
 今まで現代知識に頼ろうとしていたのは、ひとえに自分の居場所を作るため、存在感を発揮するためだ。“主人公”は“主人公”らしく振舞う、それがこの半年の処世術だった。
 しかし今日の交渉で、現代の知識に頼らずとも、十分にこの世界で生きていける手ごたえを感じたのである。ならばもう、“テンプレート”に従う理由はなくなる――――



 ――――では、どうする?



「……もう、必要ないな」

 自分に言い聞かせるように、孝治は言葉を口に出した。
 『必要無い』――そう、必要ないのだ。“主人公”という自分の立場も、与えられた“チート”も、これ以上は意識すればするほどボロが出るだろう。

 ……“知るべきでないこと”は、忘れよう。

 人が生きていくために必要なことは、そう多くはない。『必要な時に必要な行動を』。ただそれだけでいいのだから。
 孝治は夜風に耳を澄ませた。人の気配はそこかしこから感じるが、しかし静かな良い夜だと感じる。なにしろこの島に来る前は東京に住んでいたわけで、それを思えばこの夜の暗さと静けさは、まさしく“隔世の感”があった。

 東京……いや、思い出すな。

 頭を振って、孝治は日本の記憶も振り払った。
 そもそも自分は死んだ身である。今この瞬間に役に立つ、『知識』だけ持っていればいい。『記憶』ももう、必要ない。
 拳を握り締めて、孝治は決然と前を向いた。頼るものの無かったこの世界で、ようやく、出来る事が見つけられそうなのである。悩んではいられなかった。

「なに、大丈夫だろうさ」

 自戒するように孝治は言う。そうだ、ようやく正しい意味で、異邦人としての能力を生かす機会を得たのだ。
 だからもう、引け目を感じることはない。己の出自と能力を、誰かのために役立てよう。

「今日の一件だってやりおおせた。だからきっと、俺はこの世界でも、誰かの為に生きていける」

 エルマシト相手の直談判。カルウシパ達からも褒められたあの諫言は……最初で最後の“主人公的活躍”だったかもしれない。あの時孝治を突き動かしたものの何割かは、間違いなく“主人公”としての自意識だった。そこを偽るつもりは全く無い。
 しかしこれからは、今日を生きることが精一杯のこの地で、ただ一人の人間として誠実に生きていこう。そう孝治は心構えを切り替える。
 余計な欲など要らないと、もう一度胸の中で唱える。『築地孝治はトラックに撥ねられて死んだ』のだ。ならば今もこうして、人の輪の中に居られることが、幸いでないはずが無い。

「ああ、そうさ。決して今は、“最悪”じゃあ、無い」

 そう、築地孝治は言い切った。
 この世界で生きていくという、決意を込めた一言だった。

















 ――――そうだな、『今は』最悪じゃあないな。
















 そう嘲笑ったのは、さて――――誰だろうか。
















後書き
 長期更新停止に焦って勢いで投下したら、速攻改訂する羽目になった件。


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