文月さんがメモを写し取るのを待ってから、再び国道38号線を南へと向かう。 車を走らせること1km少し。JR根室本線の線路の上を跨ぐ陸橋の頂上に差し掛かったところで、前方に道を塞ぐ人だかりの山を発見する。 目を凝らすと人々は歩道だけじゃなく車道にまで溢れている。「まずいな」 車を路肩に止めながら、ゾンビの群れが路上に溢れているという最悪の事態が頭に浮かぶ。 助手席でノートに書き写したメモの内容を確認していた文月さんだが、車が停まったことに気付いてノートを閉じて、不安そうにこちらを見る。 俺は後部座席の自分の荷物に手を伸ばしながら「前を」とだけ返事をする。数秒後、彼女が唾を飲み込む音がやけにはっきりと車内に響いた。 デイパックのサイドネットから取り出した双眼鏡を覗き込む。 多少年季の入った手のひらサイズのコンパクトモデルで8-25倍ズームが可能。最近のモデルなら同じタイプのコンパクトズーム双眼鏡でも100倍ズーム以上のモデルが普通になっているが、そのコンパクトなフレーム故に対眼レンズと対物レンズの距離が狭く、感覚的に見たい場所を視野に捉えるのが難しい。 使い方は、まず最小倍率で目標を捉えてから倍率を上げて観察するのだが、俺はこの双眼鏡を買った当初、最小倍率の8倍でも慣れるまでは目標を視野に捕らえるのに苦労した。 それなのに最近のモデルでは最小倍率でさえ20-25倍くらい。一体誰が使いこなせるんだろうか?それとも単に俺が双眼鏡に向いてないのだろうか?……双眼鏡に向いてないって何?「ゾンビじゃない。人間だな」 俺と同じく、道を埋め尽くすゾンビを想像し顔を強張らせていた文月さんが、俺の言葉にほっとして表情を緩める。 俺はシートベルトを締めながら双眼鏡を彼女に渡す。「何体かのゾンビがいて人々を追い回してるって感じだ。しかしどこかで見たことの有るような……あっ先にシートベルト締めてね」 その様子に見覚えがあったのだが、とっさに思い出すことが出来ない。諦めると双眼鏡を覗こうとする彼女に一言注意をし車を発進させる。「どうするんですか?」 次第に迫ってくる人だかりに対し、スピードを落とす素振りの無い俺に不安げに尋ねてくる。「ちょっと車を汚すけど良いかい?」「えっ?」 いきなり何をとばかりに気の抜けた返事が返ってくるが、別に彼女の許可を貰いたかったわけではない形式的な挨拶というやつだ。「というか、汚すよごめんね」「はい?」「あれだけの人が居るんだ。実際に目の前でゾンビを倒して見せれば、逃げるだけじゃなく戦うという意識も生まれると思うんだよ」 そう言うと、一旦ブレーキを踏んでスピードを落とすものの、クラクションを鳴らしながら人々が溢れかえる道に突っ込んでいく。「えっ!えっ!待って!待ってください!」 しかし、俺には待つつもりなど全く無い。待ったら止められるのは目に見えている。こういうのはノリでやるものだ。 クラクションを鳴らし突っ込んでくるRV車に──といっても10km/hにも満たない速度だが──人々はゾンビのことも忘れ、慌てて左へ右へと逃げて道を空ける。「車が突っ込んできて逃げるのは人間。逃げないのはゾンビ。寄って来るのは良く訓練されたゾンビだ!」 馬鹿なことを叫んで無理矢理テンションを上げる。これからやろうと思ってることのおぞましさを考えれば、こうでもしないとやってられない。「いっやぁぁぁあ!変なこと言い始めたぁぁぁっ!」 助手席で上がる悲鳴を無視しながら、道の真ん中に取り残され立ち尽くす一体のゾンビに狙いをつけるとハンドルを微調整し直撃コースに車を乗せる。 流石に今の勢いで衝突すると、今時めずらしい「これぞRV」といわんばかりな金属製グリルガードを装備したこの車と言えども故障の危険があるので、直前でブレーキを掛け、更に速度を落としてからゾンビにグリルガードを当てる。 衝突時の速度は5km/hにも満たなかっただろうが、それでも2tを超える車との衝撃にゾンビは吹っ飛び5mほど地面を転がった。 倒れこんだゾンビの頭に右前輪が乗るように再びハンドルを微調整する。 直後、右前輪が大きく硬い何かを踏んだ感触に合わせてフルブレーキ。2tを超える車重が慣性のエネルギーと共に右フロントに集中しサスペンションはフルボトム。 フロントガラスの向こうの景色は一瞬空が広がり、次の瞬間大きく沈み込んで黒いアスファルトが視界を埋める。 それと同時に卵──イメージするなら恐竜の卵でも踏み潰したような音が聞こえて車は停まった。「い……い、い、今のはぁ」 血色が完全に抜け落ちた顔をこちらに向けて、疑い様の無い事実をあえて確認をしてくる文月さんにサービス精神たっぷりで答える。「倒れたゾンビの頭を前輪で踏み、ブレーキを掛けて前輪に荷重を移すと……」「いっやぁぁぁあぁぁぁぁぁっ!詳しく聞きたくない!」 耳を劈くような悲鳴が俺の説明を遮る。キーンと鳴る耳の奥の痺れに顔を顰める。 俺は片手で左耳を塞ぐと明るく突き放すように言い放った。「じゃあ、次行くよ」「もういやぁぁぁぁぁぁぁっ!」 予想通りまた悲鳴を上げたが、今度はちゃんと耳を塞いであるので無視しアクセルを踏み込む。 クラクションを盛大に鳴らし、逃げ惑う人々の陰から現れたゾンビを跳ね飛ばす。そして再び何とも言えない音をタイヤとアスファルトの間で響かせるのであった。 俺は全く気にしない。気にしたら負けだから。「もう嫌……もう嫌……もう嫌……もう嫌……」 力なく項垂れて、壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返し続ける文月さんに一言声を掛けて車を降りる。「他のゾンビも始末してくる。中からロックを掛けて窓も開けては駄目だよ。誰かに何を言われてものね」「もう嫌……もう嫌……えっ!ちょっとま……」 最後まで聞くことなくドアを閉めると周囲を見渡す。 逃げ惑う人々の流れの逆にたどると、そこにゾンビが居た。 素早くゾンビの背後に回り込むが、ヤツは前方を逃げる人々を追うのに夢中で全くこちらに気付く様子は無い。 ゾンビは身長180cmを超える俺から見ても5cm以上は高く、また体格もガッチリとしている。 生前は羆は無理でもツキノワグマくらいなら絞め殺していそうな巨漢だ。 ゾンビとなって怪物的な力を手に入れた彼の腕にかかれば俺の手足など一瞬で握りつぶされ、引きちぎられてしまうだろう。 正面から戦うなんて気はさらさら無い。逃げ惑う人々を追ってよたよたと巨体を揺らしながら追い続けるゾンビへ、背後からの一撃で決めるべく走って残りの距離を詰めると右足を踏み切って内から外側へ脚を振り上げる。 次いで左足が右足を追いかけるように地面を蹴って踏み切ると同時に右足を振り下ろすと反動で高く跳ね上り加速も加わった左足の足刀が、全体重を乗せてゾンビの左首筋に叩きまれる。 次の瞬間、ゾンビの首がありえない方向に折れ曲がると巨体は棒倒しで地面に叩き付けられた。 旋風脚と呼ばれる蹴り技だ。派手で華麗だが大振りすぎて人間相手には実用性が微妙な技。中学生の頃に映画で見て、その格好良さに必死に練習して身につけたものの、実際に役立ったのは今が始めてだった……長かったな。一生役に立つことなんて無いと思ってたよ。 再び周囲を見渡す、塊となって逃げる人々の群れの動きを逆にたどることでゾンビの位置を探すのだが、その時ふと思い出した。「サーディンラン……」 先程、どこかで見たことがあると感じたのは、人々が塊となって逃げる姿が、捕食者から身を守るために塊となったイワシの群の事だと気付いた。 思い出しても何の意味も無かったと思いつつ、目に付いたゾンビを先ほどと同じ要領で計4体次々と始末した段階で、人間とゾンビが織り成すサーディンランは収束に向かっていた。 人々の注目が、自分に向いている状況を利用して話を進める。「皆さん何が起こっているか分かっていないと思いますが、私にも何が起こっているのかさっぱり分かりません。ただ、死んだ人間が蘇り生きている人間に襲い掛かるという、映画のようなありえない事が現実に起こっているようです──」 俺の言葉に人々からはざわめきが起こる。 彼らも異常な事態が発生していることは理解していただろうが、彼らが知りたい・知らせて欲しいと思っていたのは、これで異常事態は終了で後はいつも通りの日常に戻りますよと言う安心できる話であって、死んだ人間が蘇るなんて言うふざけた事態が起きているという話などは聞きたくなかようだ。 目の前で起こている現実と俺の説明の摺り合わせをしているのだろうか真剣に話を聞いているのが1割。 半分がショックで自失呆然。残りは俺の言葉を否定するだけじゃなく、まるでこんな状況を引き起こした元凶が俺であるかのように敵意すら向けてきている。「──信じるも信じないも自由だが、岩見沢市内は既に連中に飲み込まれ、国道12号線沿いの他の町も多分同じ状況。連中に掌を噛まれた人が二時間ほどで連中と同じ状態になり、噛み殺された人は一分やそこらで蘇り連中と同じ状態になった。倒すには首の骨を折るか頭を破壊すること。ヤツラは頭は良くないのでオトリと攻撃役に分かれて背後から頭や首を攻撃すれば、今俺がやって見せた様に簡単に倒せる。更に連中は縁石程度の段差でもつまづいて転倒するので、段差を利用したり足元にロープを張るなどして倒れたところを攻撃するのも効果的。ただし腕の力が凄く強いので掴まれたらお仕舞いだと思ってほしい」 ゾンビ自体はそんなに脅威ではない、この中の1割の人間が俺の言葉に耳を傾け冷静に戦えば100や200のゾンビは簡単に撃退できると思う。 しかし──「出鱈目を言うな!」 嫌な予想通りに人込みの中から怒号が飛び出す。「嘘つきが!」「人殺し!」「この騒ぎはお前がやったんだろう!」 一度始まった罵倒の声は次第に大きくなっていく。 既にゾンビに噛まれたのだろう負傷者達にいたっては死刑宣告にも等しい俺の発言に憎悪の目を向けてくる。その家族達も同様だ。 人格者と呼ばれるには程遠い性格の持ち主としては罵倒を10倍にして返してやりたいところだが、ここは何とか我慢をする。「幸い川のこちら側にはゾンビは大量発生していないようだから、近くの橋を全て閉鎖できれば当面の被害は食い止められる。それと噛まれて怪我をした人たちの隔離をしてください。後2時間もすれば俺が言った事が出鱈目かどうかハッキリするでしょう。以上です」 そう言い残すとRV車に乗り込む。 背後で「逃がすな捕まえろ」など不穏当な発言まで飛び出し始め、群集心理で暴動が起きかねないレベルにまで連中の脳みそは沸騰し始めている。「あれで良かったんですか?」 運転席に戻ると文月さんが不安な様子で話しかけてくる。「もう少し何とか出来ると思ってたんだけどね。想像以上の聞く耳の持たなさにびっくりだよ」 出来るだけ明るく言ってはみたが、この結果にはかなり落ち込んでいる。「でも俺の言葉に耳を傾けてくれた人たちも居たし、何もしないで素通りするよりは良かったでしょ」 出来ることはやったが、それでも彼等を心配する文月さんに後は彼等次第と言い含めると車を発進させる。「無事に生き延びられると良いですね」 彼女のささやかな願いに対して、先程の連中からの罵倒に怒りが燻っていた俺は「そうだね。無事に生き延びられれば良いね……何人かでも」と本音をぶちまけそうになるのを何とか我慢できた。