しばらく時間が空いたので、文月さんに外に出ないかと声を掛ける。「あの、この子達は駄目ですか?」 三匹を腕に抱いた文月さんが、控えめながら一緒に降りたいと目で訴えてくる。「まだ首輪もリードも用意してないからね。こいつらが外で好き勝手に動いたら何処に行ったか分からなくなるよ」 俺の言葉に文月さんは血相を変えて子犬たちを素早く籠の中に入れた。「気持ちよい風ですね」 ゆっくりと深呼吸した後に文月さんが口にした言葉に黙って頷く。 湖上を渡る微風は、7月下旬としては涼しく心地好い空気を運んでくれる。 湖を見下ろすと、細波に陽光が反射してきらきらと輝いている。 この場から見える湖の姿は東西2km以上、南北200m程度のそれほど大きくは見えない。 だが、ここから国道273号線を北に向かいトンネルを抜けると、まるで似たような形でスケールを大きくしたようなもう一つの湖が現れたように見える。 これだけ大きければ、魚を獲ればそこそこの人数を食わせ続けることが出来るなどと、現実的なことに意識が向いてしまう。「北路さん」「えっ……ああ」「また考え事ですか?」 図星を突かれて苦笑いを浮かべる俺に、彼女は仕方がないなと苦笑いとも違う、困ったような笑みを浮かべる。 今の俺はおかしい、そんな彼女の表情一つに見惚れてしまう。 彼女のことを1人の女性として受け止める決意をして以来、時々心が浮つくのを抑えきれない。 まるで、思春期の少年の頃のように彼女に対して胸が高鳴る。 彼女の癖の無い長く艶やかな黒髪が俺を魅了してやまない。一体誰だ貞子みたいで怖いと言った馬鹿は?「そ、そんなにじっと見つめないでください……」「本当に綺麗な髪だよね」 髪の一房に指を絡めて梳きおろすと滑らかな手触りを残して指の間をするりと通り抜ける。この感触は子犬たち──柴犬の耳の手触りをも凌駕する。「か、髪には自信があります」「だよね。手入れも大変だろう。そうでもなければこんなに長くはしないだろうし」「違うんです……」「えっ、何が?」「私。両親が事故で死んでからずっと髪を伸ばしてるんです。小さい頃の事なので余り二人の記憶は残ってないんですが、私の髪をよく褒めてくれていたので……それで、髪が父や母との絆のような気がして、どうしても切れなかったんです」 どうして俺という人間は、こうも広げようの無い話題のネタばかり掘り当ててしまうのだろう?「あっ、気にしないでください。もう10年近くも前の話ですから、ちゃんと心の整理は出来てます」 俺の顔色を読んだのだろう。12歳も年下の女の子からフォローされてしまった。「でも……この髪とも、そろそろお別れですね」 自分の髪を一房持ち上げ、掌からさらさらと流れ落ちていく様子を寂しそうに見つめながら呟いた。「どうして?」「北路さんの言うとおり、やっぱり手入れが大変なんです。これからのことを考えたら……」「この綺麗な長い髪を守れないほど、俺は不甲斐ない男かい?」 確かに、我ながら色々と不甲斐ない部分を多分に持ち合わせているが、彼女からそう思われるのは男としての沽券に関わる。「確かに、これからは以前のような暮らしをすることは出来ないだろうけど、生きていくだけで精一杯で日々の生活に疲れ果てるなんて事はさせないよ」「北路さん」「どんなに困難があっても笑って乗り越えて──」「北路さん。北路さん!」 俺の台詞は泣きながらしがみ付いてくる文月さんに遮られた。 この状況を内心「よしっ!」と思ってしまった。俺も随分変わってしまったものだな。 約束の一時間が迫り移動を開始する。 今回はグラウンドへと直接繋がった入り口から入り、先ほど同じようにグラウンドの隅へとゾンビをおびき出してから玄関正面へ車を寄せた。 玄関のガラスドアの向こうには、先ほどの男性以外にも数人の姿が見えた。「結論は出ましたか?」 窓を開けながら声を掛ける。「ああ、彼らを……いや、ゾンビを排除して欲しい」 まだ納得し切れていないのだろうが、あえてゾンビと呼ぶことで気持ちを切り替えようとしているのだろう。「他の人たちも納得したのか?」「そうだ。だから学校周辺のゾンビの何とかしてもらえるか?」 40代半ばほどの小太りの男性が答える。「奴らを倒す方法は、首を刎ねるか首の骨を折るか頭を潰すしかない。今回はこの車で倒すから、車をぶつけて倒したところを前輪で頭をひき潰す方法を採ることなる。その後始末はそちらでしてもらうことになるが良いか?」「……ああ、分かった──」「ちょっと待て!何も殺すことは無いだろ。遠くに誘導するとか、どこかに閉じ込めるとか他に方法はあるだろ!」 まだ20前と思われる茶髪の男が会話に割り込んできたので答える。「俺達はここに来る前に一週間ほど富良野に居た。そこで体育館にゾンビを誘導して閉じ込める作戦に参加して仲間の犠牲者を出しながら1200体のゾンビを閉じ込めることに成功した」「ならそうすれば。ここにはそんなに沢山人は居ない。平日だったから観光客も少なかった──」「その後も駆除は進んで、ほぼ全てのゾンビが町の中から居なくなった翌日。馬鹿が暴れて閉鎖した体育館の玄関を破壊して1200体のゾンビが街中に溢れ出て、生き残っていた住人の半分以上が一夜にしてゾンビになった」「そ、そんな……」「ゾンビは倒す。その覚悟が無いなら、これから生き残り続けるのは無理だ」 若い男から視線をもどして尋ねる。「それでどうする?まだ意見はまとまってなかったようだが?」「いや、先ほどのは山本君の……彼の個人的な疑問だ。それに彼も君の話に納得しただろう。頼むゾンビの駆除をしてくれ」 そう言って頭を深く下げてきた。彼に続き他の人も頭を下げ、俺に食って掛かってきた山本君とやらも項垂れるように頭を下げた。「分かった。これから作業にかかる」 学校周辺のゾンビは1時間もかからずに駆除が終了した。 駆除した数は全部で27体。最初に確認した時より数が多いのはゾンビを引き寄せるために鳴らしたクラクションの音に、温泉街に居たゾンビの一部がこちらに寄ってきたのだろう。 小学校と温泉街は、国道273号線以外にも獣道というか、茂みを人が踏み分けて出来た近道があるが、温泉街から見るとこちらへは上りになっていて、更に途中で幅2-3m程の川が流れているようなので大量のゾンビが一気にやってくることは無いだろう。 最後に学校の周辺を一回りしてから玄関正面に車を停める。「文月さんは車の中に居て周囲の警戒を頼むよ」 そう言ってからもう一度窓の外を確認してから車を降りた。 すると玄関のドアが開き、一番最初に言葉を交わした50絡みの男性が中から出てきた。「私はこの学校の校長の佐々木と申します。協力に感謝します。ありがとうございました」 そう言って頭を深々と下げた。「私は北路です。あなた達が生き残るために覚悟してくれたことに、こちらから礼を言わせてもらいます」「私達が生き残る?」「はい。あなた達が生き残るということは、明日以降は自分達でゾンビと戦うということですよ。そうなればゾンビの数は確実に減ります」「私達が戦う?」「明日になればまた同じような数のゾンビがここの周辺にやってくるだけですよ。そして明日からはあなた達が自分の手でゾンビを倒さなければならない」「やはり、やってきますか?」「はい、クラクションの音に引き付けられてこちらに来たのでしょう。最初に確認した時よりも倒したゾンビの数が多くなりました」「そうですか」 突きつけられた現実に肩を落とす。「ですが、一体一体のゾンビは人間にとって脅威ではないことを理解して下さい」「脅威ではない?しかし、たった一日でこんな状況になってしまったんですよ。夏休み前の平日とあって少なかったとはいえ観光客を含めれば500人以上居たのに」「ゾンビに対する知識さえあれば安全に戦う方法があります」 俺はこの1週間で体験し身に着けたゾンビの知識と戦う方法を彼らに伝える。「ゾンビと化した人間には知能はほぼ残っていないので、昆虫などと同様に、こちらのアクションに対するリアクションがほぼ一定になるのが特徴です。したがってマニュアル化した作業が有効になります。チームを組んで数人で1体のゾンビに当たり常に安全のためのマージンを確保して手順を守って行動する。そして無理はしないで常に退路を確保し、安全が脅かされるなら速やかに撤退する。そして改めて、こちらの都合の良い状況を作り、そこに誘い込んで処理します」 更には話している間にやってきたゾンビを使って実際に倒すところも見せ、また彼らにも数体のゾンビを倒させた。「どうです。自信はつきましたか?」「これなら、少しずつでも倒していき、この町をゾンビから取り戻すことも出来るとは思いますが、まだ慣れませんね」 佐々木校長は杭うち用のハンマーでゾンビの頭を叩き潰した自分の両手をじっと見ながら答える。「慣れる必要はありません。嫌なものは嫌で良いんですよ。肝心なのは嫌だろうが必要なら実行するだけの覚悟。それだけですよ」 2時間ほどの説明とゾンビ相手の訓練が続き、27人の生存者の中で、対ゾンビの戦力となったのは男性を中心に11人。彼らは富良野で共に戦った仲間達と遜色ない戦力となったと思う。というよりも和田さん達や山中さん達はいきなり実戦投入だったからな…… その後、学校に備蓄してあった非常食で昼食をご馳走になった。「ぬかびら温泉郷はピーク時で3500人程度の来客を想定していますから、この小学校だけでも1000人以上が、災害時に2週間程度避難生活が出来るように物資が備蓄されているので当面の食料には困りません」 それは避難者が少なかったおかげだろうが、この人数では逆に出来ることが少なくなってしまう。「もう他には生存者は居ないんですか?」「分かりません。我々は一週間、ずっとここを出ていませんでしたから」「なら食事の後に、散歩に付き合ってもらえませんか?」「散歩ですか?」「ちょっと物騒な散歩ですけどね」 困惑気味の佐々木校長に俺はニヤリと笑みを浮かべて見せた。 文月さんのRV車と、佐々木校長をはじめとする教員の通勤用の車に分乗して国道273号線を道道85号線との合流ポイントまで戻り、そこから西へと150m程進む。 まだこの辺りはゾンビの数も少ない。「予定通り俺と文月さんが、この先でゾンビを引き付けるので、佐々木さん達はホテル内に取り残されてる人が居れば救助してください」 そう告げると、そこから350mほど先の郵便局がある一画をクラクションを鳴らし続けながら周回し始める。 10分間ほど続けると、ざっと見ただけで200体ほどのゾンビがこの一画に集まって来たため──ぱっと見でゾンビの数を判断出来るようにならざるを得なかった状況が憎い──危険を感じたので、場所を北へと移動しながら更にゾンビを誘引し続ける。 最終的には時間を稼ぐと約束した30分間を全て使い300体程度まで集めることに成功したが、これ以上はこちらが身動き取れなくなりそうなので、道ではなくホテルの敷地を抜けてゾンビの囲みを突破し佐々木校長たちの元へと向かった。 戻ってくると、そこには佐々木校長の車が1台だけ残っていた。「生存者はみつかりましたか?」 彼の車に横付けして窓越しに話しかける。「付近のホテルや宿に23人の従業員や宿泊客が残っていたので他の車で全員学校へと送ったところです」「まだ生存者はいそうですね」「ええ、でも救出を急がないと、十分な食料を確保できた人たちは良いのですが、そうでない人たちはかなり衰弱していました。多分飢えで亡くなった人たちも居たそうです」 宿の中にある程度の食料があったとしても、客室に閉じこもるしかなかった人間は一週間生き残るのは難しかっただろう。「救出作業はうまくいきましたか?」「幸い建物の中に残っているゾンビの数は多くなかったですし、移動時に周囲の確認さえ怠らなければ決して怖い相手では無かった。我々がもっと早く決断して立ち上がっていれば……」 沈痛な表情を浮かべる佐々木校長に掛ける慰めの言葉は見つからなかったのでとっさに話を逸らす。「救助作業で怪我をした人は出ませんでしたか?」「ええ、皆無事です」「それは良かった」 少し強引かとも思ったが、佐々木校長も感じたのだろう苦笑いを浮かべていた。