連なる丘とブドウのカントリーサインを超えて芦別市から富良野市に入ってすぐに山道は終わり左右を塞ぐ山が切れて景色が開ける。「これからどうします?」「とりあえず、君のお祖父さんの予定と同じく富良野に行ってみる。北海道でも国道12号線沿いの札幌-旭川間のように人口の多い町続きなら、ゾンビは人から人へと感染を広げることが出来るけど、それ以外の地区なら人の少なさと町と町の距離の長さが感染を食い止めてくれる可能性が高いはず。それに富良野市の北にある上富良野町には自衛隊の駐屯地も有るし、彼等が組織として機能していたらゾンビがいたとしても排除は難しくないと思うよ」 彼女を文月さんを安心させるためにずいぶんと希望的な言葉を口にしたところで、道道135号線が国道38号線と合流する交差点へさしかかる。 久しぶりに目にする信号機で赤信号に引っかかると右ウィンカーを出して停車する。 その時文月さんが声を上げた。「あれは……」 彼女の指差す先では幾筋かの黒い煙が上がっている。 火事だろう。それも何件もの火事が起きている起きている。 煙の方向は、にこれから目指す富良野市の中心街であることは疑いようも無い。 先ほど口にしたばかりの希望的発言が、舌の根乾かぬ内に覆された俺はタイミングの悪さに軽い眩暈を覚えた。 信号が青になっても停車したまま警察に電話をかけようと携帯を取り出してみるがアンテナは一本も立ってない。 やはり山間部の電波状態の問題じゃなく基地局かどこかで問題が発生しているのだろう。「文月さん。富良野が今どうなってるのかは分からない」 高まった希望を見事に裏切られた文月さんは肩を落としたまま頷く。「それでも行ってみようと思うんだが良いかい?」「……どうしてですか?」「生存者がいるなら少しでも話を聞きいて状況を知りたい。今の状態じゃ次に何処に行けば良いかも判断できない。今後何をすべきかの指針となる情報が欲しい」「わかりました」 力ない彼女の返事に頷くと再び赤に変わってしまった信号を無視して車を走らせた。 この状況で警察が取り締まってくれるなら抱きしめてキスしてやる。 車内の空気の重さに居心地が悪さを覚えていると、左手を流れる空知川に掛かる橋の上に一体のゾンビの姿を発見する。 速度を落として、周囲に他のゾンビの姿が無いかを確認しつつ車を路肩へと寄せてゆく。 橋へと続く道は車両通行止めとなっており、その旨を記したトタン製の大きな看板と共に進入禁止を示す樹脂製のバリケードが設置されており、俺はちょうどその看板の前に車を停めた。「悪いけど、ちょっとここで待っててくれるかな?」 停車に気付き例のホラーな視線をこちらに向けてくる文月さんに対して、指で助手席側の窓の外に見えるゾンビを指し示す。「あっ……やっぱりここにも居るんですね」 僅かに残った期待をも打ち砕く現実に彼女の顔色が更に曇る。「多分、この後沢山のゾンビがいる場所を通らなければならなくなる。だからその前に奴らの事を少しでも知っておきたい」「で、でも危ないですよ」「確かに危ないけど、もっと危ない状況で何の情報も無いよりは良いよ。幸い近くにはアイツの他には居ないようだ」「はい……でも」 まだ言いよどむ彼女を無視してドアを開ける。「とりあえず窓やドアは絶対に開けては駄目。ついでに周囲に他にゾンビが現れないか警戒して欲しい。何かあったらクラクションを鳴らせばすぐに戻るから、その時は鍵を開けて」 そう言ってキーを挿したまま車を降りるとドアを閉める。窓越しに文月さんがまだ何か言いたげだったが無視してロックを掛けるように指示し、ロックの掛かる音を確認してから車を離れた。 バリケードの脇を抜けると、道は30mほど先で空知川に掛かる橋になっており、橋を渡ってすぐのこちら側に一体のゾンビが居た。30代から40代掛けての作業着姿の男のゾンビ。身長は170cmほどで、そこを噛まれたのがゾンビになった原因だろう作業着の右の肩口が破れて無残な傷を晒し、作業服の肩から胸に掛けてが流れた血で赤く染まっている。 ヤツは俺の接近に気付いたようでゆっくりと近づいて来ている。 ゾンビが歩く姿を見るのは文月さんのお祖母さんとこいつの二度目だが、彼女より若く体格の良いにも関わらず、歩く速さに違いを感じられない。これがゾンビ全般の移動速度である可能性を留意する。 俺は音を立てないようにゆっくり左右に横移動すると、ゾンビも俺の動きに合わせて進行方向を修正する。 やはり視力で俺を捉えている様だ。もしかすると赤外線とか謎の感覚器官が生まれているのかもしれないが今はこの際どうでも良い。 足元から手ごろな小石をいくつか拾い上げて、奴の傍のトタン製の看板に投げつける。 一投目は外れて二投目が的をとらえると看板はパーンと大きな音を響かせる。 するとゾンビはいきなり方向を変えて看板に襲い掛かる。両手で看板を掴み何度か噛みつきを試みるが10数秒ほどで何かに気付いたかの様に諦めると、再びこちら向かって歩き始めた。 また同じ看板に石を投げつける。再び看板が大きな音を立てると同じように看板に襲い掛かる。やはり頭は悪い。 ヤツが看板に噛み付いている隙に左手の茂みに身を隠す。 茂みの影から様子を伺っていると多少の学習能力はあるのか先程よりは早く看板に見切りをつけ、俺が先程まで居た場所の方向を振り返る。 俺の存在は頭に残っているようだ。つまり最低でも二つの目標を同時に認識して優先度の高い方に攻撃を行うと思われる。 ゾンビは見失った俺の姿を探すように周囲を見渡すが、1分も経たずに俺のことは諦めるか忘れるかしたようだ。 俺は茂みに隠れながら先程より大きな石をいくつか拾い上げると、先ほどの看板付近の草むらめがけて、高く放物線を描くように位置とタイミングを散らして3個投げ込んだ。 一つ目の石の落下音に反応してゾンビがそちらへ身体を向けるが、すぐに次の石が落下して別の場所で音を立てる。それに反応して再び身体の向きを変える。 そして三つ目の石が別の場所に落ちて音を立てると、ゾンビは三つ目の石の落下地点の近くに向かい草むらの中を覗き込むような仕草を見せた。 しばらくすると諦めたのか二つ目の石の落下点へ向かうと、そこでも草むらを覗き込むが、またしばらくして諦めたのか二つ目の石の落下点から離れた。 しかし、ゾンビは一つ目の落下点に向かうことなく、かといって俺の姿を探す素振りも見せず所在無さ気にゆっくりと辺りを歩き始める。 俺は茂みに隠れながら思わずガッツポーズを決める。 たった一つのサンプルだから過剰な信用はすべきではないが、少なくともあの個体は、二つまでの目標を認識し憶える能力はあるが、三つ目以降は記憶からはじき出されるようだ。 今度は奴の視線がこちらから外れた一瞬のタイミングを見て、まず茂みから頭だけを出してみる。 視線がこちらに戻ってきても、奴は俺に反応しない。再び視線が外れるタイミングで今度は上半身の胸から上を晒すが、やはり再びこちらを見ても奴は俺に気付かなかった。 今度は茂みの横に出て全身を晒してみる。すると奴は俺に反応を示しこちらに歩いてくる。 つまり、ゾンビは人間の形を見極めて襲う対象と認識しているという事。そして何かに遮られた人間の身体の一部だけでは人間だと認識できないという事だ。 また、茂みに遮られた体の形を認識できなかったことから特殊な感覚器官を備えているという訳でもなさそうだ。 ダンボールなんかで身体を隠していればゾンビに発見されない可能性は高い。 一度、車の近くまで戻り、バリケードの三角コーンの間に渡された黄色と黒のねじり縞模様の樹脂のバーを取り外して手に取る。 120cmほどの棒を右脇で槍を持つように構えると、そのままゾンビの方へ戻り、奴の正面に立つ。 元人間であったもの、今人間でない化け物。胸に湧き上がる嫌悪感と恐怖心を抑え込むと、奴の胸元目指して鋭く突きを送り込む。 鈍い衝撃を手元に残してゾンビは受身も取らずに仰向けにひっくり返る。これといって特別不自然な感触や抵抗は感じられない。多分生きてる人間を同様に突いても同じ感触がするだけだと思った。 次に立ち上がろうとするゾンビに対して棒を差し出してみる。ヤツが棒を掴むと物凄い力で奪い取られてしまう。 両腕の握力が共に80kg前後ある俺が、力比べで一瞬たりとも抵抗出来なかった。まさに化け物級の怪力。 文月さん話の中のトレーラーの運転手の腕が引きちぎられていたというのは、この力故のことだろう。 ならば、その力が腕力限定とは思えない。 脚力・背筋・腹筋などの全てが人外の力を持ってるということであり、あの壊れたロボットのような歩き方も脳の働きの低下でバランスが取れないだけで──もっとも、脳が生前と同じ理屈で働いてると仮定しての話だが──条件がそろい脚の力が発揮できるなら、撃ち出された弾丸の様に飛びついてくる可能性もあるのだろう。 ならば頑丈なバリケードを作っても、ゾンビが前傾姿勢をとって押し込んで来れば、たった一体のゾンビによって破壊されてしまう可能性がある。 ゾンビに前傾姿勢で物を押したり走り出す運動能力やバランス感覚が残っていないことを祈るだけだ。 ゾンビは俺から奪い取ったバーをしばらくの間、両手で動かしたりじっと見つめたりと興味を示していたが、やがて手を離すとゆっくりと立ち上がる。 棒状の物を武器として使うと言う知能は残ってないようで、ほっと胸をなでおろしつつゾンビを正面に置きながら俺は車道から歩道へと立ち位置を移動する。 ゾンビは俺を追ってくるが、車道と歩道の間の縁石の段差につまづくとそのまま転倒した。 これが最後の実験。文月さんのお祖母さんのソンビがお祖父さんの遺体に足を取られて転倒する様子が頭を離れず、どうしても確認したかったのだ。 ゾンビが倒れている間に反対側の歩道に移動すると、手を叩いてゾンビを呼び込む。 するとゾンビは寄ってくるが、再び縁石を越えられずに足を取られて転倒する。 これを5回繰り返して、ゾンビには縁石程度の段差を超えられないと結論付けた。 ならば電柱などを利用して20cm程度の高さに紐やワイヤーを張っておくだけで連中の移動は著しく制限出来る。 階段は歩いては上れないだろう。また這って上ろうにも連中の運動能力では階段の斜面を上れない可能性もある。 満足の良く結果と、新しい思いつきにニヤリと自然に笑みがこぼれる。 全ての実験を終えた俺は最後の後始末に取り掛かる。 起き上がろうともがくゾンビの手前でジャンプし全体重を乗せて奴の首の上に着地する。それと同時に足の裏で生まれた首の骨が砕ける感触に思わず小さな悲鳴が口を突いて出てしまう。 動く死体から、動かない死体へと自らのあり方を変えた実験の協力者を振り返ることも無く、文月さんの待つRV車へと向かう。 別に格好をつけて振り返らなかったわけじゃない。見るのが怖かっただけだ。 車のドアをノックする。戻ってきた俺を呆然と見ていた文月さんは、ノックの音に我に返ると慌ててドアのロックを解除した。 車に乗り込むと後部座席のデイパックの中からメモ帳を取り出して、文月さんの話やゾンビ化した彼女の祖父母の事、そして先ほどのゾンビでの実験から得た情報をまとめて書き込んでいく。 途中はなしかけてくる文月さんに「少し時間が掛かるから、その間髪でも整えてくれるとありがたい。いい加減怖いから」と今まで言わずにいた本音を漏らす。「髪……怖い?」 俺の言葉に怪訝そうな声を出すと助手席のサンバイザーを降ろして、そこに付いている鏡を覗き込む。「あっ!」 自分の姿に驚いて小さな悲鳴を上げる。「こんな髪で今まで居たの?」という恥ずかしさか、それとも自分で自分の姿に恐怖したのか分からないが、彼女は慌てて後部座席に移動すると背もたれ越しに貨物スペースの荷物を漁りだす。 そんな彼女を他所に、俺は自分の知りうる限りの情報を、時系列と項目ごとにまとめ10分間程度かけて書き記した。 一度目を通して書き忘れや間違いが無いのを確認していると後部座席から文月さんが戻ってくる。 髪型はポニーテールになっており、垂れ下がり顔を隠していた前髪はヘアピンで止められ額の左右からサイドへと流れ落ち額を露にしていた。 そして前髪の隙間から時々見えていた時にはギョロリと言う感じの恐ろしげな印象だった目は、不思議なことに大きなパッチリ目という好印象に変わっていた。 美少女と言って良いレベルだろう。俺が中学生の頃に新学期を迎えた新しいクラスに彼女レベルの女子が居たらテンションが上がていただろう。「どうですか?」「それなら怖くないよ」 デリカシーの無い言葉を浴びせた俺に対し、次の瞬間彼女が見せた表情は……名状し難き恐ろしいものだった。 まあ、そんな表情を見せてくれる程度には心に余裕が出来て、俺に気を許してくれたということだろう。「これ以外に気付いた点や、俺にまだ話してない必要ありそうな話があれば教えて欲しい」 先程まとめたメモを差し出す。 受け取った文月さんは真剣な様子でメモに目を通していく。「これで大体良いと思います。でも家から出る時もゾンビたちは車に軽く当たるだけで倒れて、強く押し返すという様な事も急に飛び掛ってくるとかはありませんでした」「そうか。なら助かるな」 それが本当なら、ある程度の強度を持ったバリケードはゾンビに破壊できないということだ、人間なら数の利を生かし力の向きとタイミングを合わせて押すということが出来るが、極端に知能が低下しているゾンビには力を合わせて押すということは出来ない。 もっとも余程連中の興味を示すモノを目の前にぶら下げて、奴らのタイミングが合う様に太鼓でも叩いてやれば話は別なのかもしれない。 それともう一つ、連中と戦わねばならない状況になったとしても、勢い良く飛びつかれる心配が無いなら、1対1である限り冷静に対処すれば大丈夫なはずだ。「じゃあこのメモの内容に、今言ったことを書き加えたものを書き写して持っていて欲しいんだけど、ノートか紙はあるかな?」「持ってますが、写しは必要ですか?内容は大体ですが頭に入ってますよ」「誰かに俺たちが持ってる情報を伝えたい時、口頭で伝える時間が無い場合はこのメモを渡すだけで済むだろ。それに口頭だと間違って伝わったり忘れられたりもする。後で確認できるという点でもメモに残しておくんだよ」 メモを残すのは社会人としての常識……無職だけど。「それに何かの理由でメモを無くした時のためにも予備は有った方が良い」「わかりました」「それに……いや何でもない」 俺が言い淀み誤魔化した言葉は「俺達が死んだら頭の中の情報は消えるが、紙に書いた情報は残り誰かの役に立つかもしれない」だが少なくとも今、言うべき言葉ではない。「まあ、いいから早く書き写しちゃって」 強引に促す俺に不思議そうに小さく首を横に傾げると、筆記用具とノートを探しに後部座席へと移動していった。