北海道の熊──羆は本州に生息するツキノワグマとはモノが違う。 雄のツキノワグマが最大クラスで体長1.5m体重120kg程度まで成長するのに対して、雄の羆は最大クラスは体長2.4m体重400kg程度まで成長する。 もしもツキノワグマが口を利けたとして、羆と出会ったとしたら「化物だ」と言うだろう。 実際、羆は他の種類の熊と生息域が重なる場合は、他の熊を襲って喰らう。食物連鎖の最上位に位置する生物。 一方、熊と言う生き物は野生動物の多くがそうであるようにとても臆病である。獲物と認識している対象以外と遭遇し場合。示威行為として一度だけ攻撃を加えた後はその場を立ち去る傾向にある。 つまり、熊との遭遇において最初の攻撃さえ凌げれば生き残れる。 相手がツキノワグマなら自惚れでもなんでもなく、素手でも生きて、いや大怪我を負うことなく撃退する自信はある……当然怪我を負うのは前提だ。 だが羆は駄目だ。端から勝てる気がしない。最初の攻撃?それが致命的、一撃で死んでしまう。 今こうして実際に熊を目の前にして、死の予感をビンビンに感じているんだから間違い無い。 闇の向こうからその全貌を現した羆は、最大クラスとは言わないまでも体長は2mはあるだろう、かなりの大物だった。 車に乗り込んで逃げることを考えたが、襲われる前に車に逃げ込めて走り去ろうとしても羆は逃げるものを追う性質を持ち、しかも時速50kmで走ると言う。 あちらこちらに木々が立ち並ぶ夜のキャンプ場である。追いつかれる前に車に乗り込めたとしても十分に加速する前に車体後部に体当たりの一発は貰うだろう。 単にボディーが凹む程度なら問題は無いのだが、ガラスを割られた場合。場所によってはゾンビの侵入を許しかねなく、別のRV車に乗り換えることも検討しなければならなくなる。 文月さんにとってはお祖父さんの車だ。 それに、このまま逃げるなら多くの物資を置き去りにしなければならない。 特に生鮮品が入ったクーラーボックスの放棄は、明日のポークカレーを失うことであり、断じて許すわけにはいかない。 俺の闘争本能に火がついた。羆よお前がポークカレーの障害となるなら、俺はお前をクマカレーにして食ってやる!……膝の震えが止まらない。 と思ってはみたものの、文月さんのお祖父さんの猟銃や64式小銃。ボウガンなどの熊に対しても有効と思われる強力な武器は全て車の中。 今俺が手にする事の出来る範囲にある武器は、拳銃と64式小銃用の銃剣。大型ナイフと調理に使った包丁。そして愛用のメタルラックのポールだけである。 その内で包丁は論外として、銃剣やナイフは共に刃渡りが30cm以上あり、羆に対しても有効な攻撃手段となるだろうが、問題は俺がそれらで攻撃できる範囲は羆の攻撃範囲でもあるって事だ。その範囲にこちらから踏み込む気は全く無い。 残されたのは拳銃とポールだが、やはり拳銃は音のことを考えると最後まで使いたくない。「文月さん。子犬を連れて車に戻って。奴から目をそらさず走らずゆっくりね」「で、でも」「早く!文月さんや犬達を守りながらじゃ戦えない」「わかりました」 熊を睨んだまま頷くと、警戒心の欠片も無く未だまどろむ小犬たちを両手で抱きかかえ車へと歩く。 やはり彼女には打てば響くような賢さがある。現状で今、自分が何をすべきかを判断し行動できる良い女だ。 言うならばホラー映画で一番最後まで生き残るタイプ。俺はラスト前で死ぬタイプだろう。 車へと向かう文月さんとは反対方向へポールの端を地面に引き摺り音を立てながら歩く。その間、ずっと羆の目を見てそらさない。 車に乗り込もうとして一瞬目をそらした文月さんに、羆の注意が向かう。 それに気付いた俺は、ポールで思い切り地面を打ちつけた。「ごぅっ!」 突然鳴り響いた大きな金属音に羆の注意はこちらに向いた。 だが今の音をきっかけに奴の興奮が高まる。「ごぅごふぅ!」 獲物(文月さん)から縄張り争いの相手(俺)へと目標を変えて、ゆっくりとそして注意深く警戒しながらこちらへ迫る。 それに対して、俺が構えたのは170cmを越える金属製の棒一本。 ゾンビの弱点である脳組織を頭蓋骨ごと一撃で砕く重さと強度を持つが、羆相手にどれほどの効果があるか。 このメタルラックのポールのように、先端が尖っている訳でも刃がついている訳でもなく、鈍器として使用する棒状の武器の威力は、武器の重さと速度だけで決定するわけではない。 速度と重さから得る力を、インパクトの瞬間に対象にいかに伝え切るかが重要だ。 野球の軟式のボールを200km/hの速度でコンクリートの壁にぶつかっても壁を破壊することはない。 しかし軟式ボールと同じ大きさと同じ重さで作られた中空の硬い金属球を200km/hの速度でコンクリートの壁にぶつかれば、ぶつかった部分の壁表面を壊すだろう。 この違いは、軟式ボールと金属の硬さの違い。硬い金属に対して軟式ボールはぶつかった瞬間に変形することで、自らに与えられた力の全てをぶつかった相手に伝えることなく熱などとしてボール内部に吸収するためである。 人間の力で殴りつけた程度では極僅かな変形しか起こらない、硬い物質で出来た棒を振って物を打ち付けた時にも同じことが起こる。 例え棒自体が変形しなくても、インパクトの瞬間に生まれる反発力で弾かれ押し返される。この弾かれて押し返されるのが軟式ボールの変形と同じで力のロスになる。 剣道で竹刀を握る場合、左手が主で右手は添え物であり、単に素振りをするなら左手一本の力だけで出来なければならないと言われるが、基本は両手で握る。 試合で二刀流を使い、一見十分な打ち込みを見せても審判は簡単には旗を揚げないのは、二刀流を邪道とみなして意地悪している訳ではない。 肉を斬るだけでなく骨を断つためには、二本の腕を使い二点で反発力を押さえ込む必要があるため、それが出来ない片手で持つ二刀流の場合は、有効打としての判断基準を厳しくするのである。 しかし、メタルラックのポールを両手で打ち込んだところで、この大きな羆相手に十分な打撃を与えられるイメージが全く湧かない。 精々、羆を本気で怒らせるというイメージしか湧いてこない。 効果があるとするなら力の一点集中。つまり突きしかない。 だが突きという攻撃が一番の力を発揮するのはカウンター。剣だろうが槍だろうが突きという動作では得物に乗せることの出来る運動エネルギーは決して多くは無い。 棒状の物体に一番運動エネルギーを与えられる動作は何かというと全身を使った投擲である。 しかも、棒の両端を結ぶ線と力のベクトルを重ね合うように投げて相手に正面から当たれば、与えた運動エネルギーのほぼ全てがぶつかった場所に伝えられる素晴らしさ。 とはいえ、力を上手く乗せられなければ、羆の急所を正面から捕らえられなければ……ちなみに槍投げの経験など高校の体育の授業で2度ほど投げたっきりである。 ……とりえあえず、拳銃は何時でも抜けるように、ホルスターの上蓋のスナップを外す。 右手でポールの中心より少し後方を握り肩の上に担いで構えると、雄たけびを上げながら羆へと全力で走る。 俺の雄たけびに呼応するように、羆は後ろ足で立ち上がり前足を大きく広げ威嚇であり攻撃である構えを取る。 羆の目前で、右足──風呂上りに湿布を貼ってテーピングしなおしてもらった──が痛むのを無視して地面を蹴る。 身体を大きく開きながら、左足を羆への直線コースから足の幅一個分左にずらしながら前へと伸ばす。 そして左足が地面を踏み込んだ瞬間大地が震えるほどの衝撃が生まれる。 身体全体の突進力の全てを左脚一本で全て受け止める。 しかし全身を包む慣性の力は、左へと軸がズレた左足の制動により、左足を中心とした強い回転力を発生させた。 直進と言う無限の回転半径を持つ巨大な円運動に等しい状態からの急激な回転半径の減少は、俺の右半身に強力な円運動を生み出し、その力に乗せて羆の首もと目掛けてポールを投げ放った。 時速100kmを大きく越える速度で、わずか3mほどの距離を飛翔した重量2kg弱のポールは、自らに与えられた運動エネルギーの全てを、羆の顎の下20cmの場所にぶちまけた。 その威力は、適当に計算すると俺の腰のホルスターに収まっている拳銃の2倍以上…………あれ、意外に大した事無い? 勿論、その程度の威力では羆は死ぬはずが無い。だがダメージは与えられたようで喉元への一撃に対してクマはのけぞりひっくり返ると苦しそうな鳴き声をあげた。 問題は奴から戦意を奪えるか否か。ホルスターから拳銃を引き抜き、マガジンポウチから予備マガジンを取り出す。 使えないのと使いたくないとは話が別。逆に今使わないで何時使うのか? 全弾撃ち尽くしてでも、こいつを追い払い。さっさと荷物を片付けてこの場を引き払う。どのみち熊の出るこんな場所で一泊なんて出来るか。 こんな場所で温泉とか入ってた自分の馬鹿さ加減が腹が立つ。「ごぅごぅ」 低く喉を鳴らしながら体勢を立て直すと、頭を下げた低くい位置からこちらを伺うように見つめてくる。 視点が一定ではなく時折ぶれる。迷いかかえて自分より強いか否か測る目付き。ならば追い討ちをかけるのみ。「くぁらぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」 もう銃声がどうのとか言うレベルではない。大音声の一喝を加える。「ぐぉっ!」 羆は身を一瞬すくませると、頭を低く下げたまま後ずさりしながら退いてゆく。 10mほど距離をあけると、奴はこちらを一瞥してから後ろを向いて立ち去る。 ゆっくりとした足取り、気圧されて逃げ出したくせにまるで王者のような風格だ。 あまりの遅さに苛立つが追い討ちはしない。本気になって逆襲してくる可能性があるからだ。 やがて、奴の姿が闇の向こうに消えるのを確認すると、膝から力が抜けて地面に崩れ落ちた。「羆こえぇぇぇっ!」 そう叫ばずにはいられなかった。