その後三軒の農家を回って、リストの中の優先順位の高いものは全て抑えた俺たちだが、まだ目的地の山小屋のある上士幌町へは向かっていない。 ここを離れる前に上富良野の様子を確認するのと、ついでに一箇所道すがら確認したいことがあった。 道道851号線を右に曲がり農道に入ると緩やかな左カーブを曲がり、国道237号線に直角に交わる農道へと右折するした。「あっ!あそこを見てください」 フロントガラス越しに彼女の指差す先には、見覚えのある農家への入り口のある道路の右脇に小さな小犬の姿があった。 大きさから見て昨夜の犬ではない。 小犬が飛び出す危険性を考えて徐行しながら接近する。「可愛いですね。柴犬でしょうか?」 コロコロとした茶色の毛玉の様な小犬の姿に文月さんが喜ぶ。そういえば昨夜の犬も柴犬だった……あの犬の子だろうか? 小犬の手前10mほどの道路の左脇に車を停めて車を降りると、小犬はキャンキャンと庭の中に向かって吼えている様だった。 その様子にただならぬ事態を予感して、車を降りようとする文月さんに声をかける。「文月さん。車の中に戻って」 彼女が黙って頷き車の中に戻るのを確認してから、ルーフキャリアの上に手を伸ばす。 手探りする指先に硬い物が触れる。そいつを握り込むとルーフキャリアの上で太陽に照らされ続けた金属が掌にじりじりと焦がすような熱い刺激を伝える。 そのまま固定するゴムバンドの抵抗を無視して一気に引き抜いたのは長さ170cm超のメタルラックのポール。 昨夜銃撃で折られた相棒が完全復活を遂げたのだった……そんな大層な話ではない。 先程までの農家の家捜しツアーで大型メタルラックを発見し分解して4本確保してある。 重さと長さと丈夫さ。それにゾンビの頭蓋骨をより少ない力で叩き割る為の棒自体の細さを考慮すると、金属製であることが必須であり、丁度良さそうなものがこれしかなっただけで、別にメタルラックのポールに強い拘りがあるわけではない。 小犬の鳴き声は、どうやら一頭だけではないようで2、3匹の鳴き声が聞こえる気がする。 そして、小犬たちが吼える相手とは死者か生者か──ポールから右手を離して、腰のホルスターの蓋をとめるスナップを外しておく。 農家の入り口へと慎重に足を進めて庭の中を覗き込む。 農家の玄関扉は中から打ち壊されて地面に転がり、そのすぐ傍に赤い地溜まりと縫いぐるみの残骸のようなもの……違う昨夜の柴犬だ。あの犬の主人への想いが報われる事は無いと分かっていたが、こんな結果を迎えることになるなんて。 あの時、首輪から鎖を外すのではなくそのまま引き摺ってでも連れて行けば──そんな意味の無い仮定と後悔に胸が詰まる。 この農家の元住人。犬の元飼い主である3体のゾンビはこちらに背を向けて、犬小屋に群がっている。 道路脇に居る親と同じスタンダードな茶色が一匹と、気丈にゾンビのすぐ後ろで吼え続けている白毛が一匹。そして犬小屋の中に追い込まれた鳴き声だけが聞こえる姿の見えないもう一匹。計3匹の小犬がいるようだった。 素早く駆け寄り、振りかぶったポールを一番体格の良い熟年男性ゾンビの頭頂部へ叩きつけ、頭蓋骨の中にまでめり込んだ先端部分を素早く引き抜く。 ヌチャという不気味な音を無視して再び振りかぶったポールを、こちらを振り向こうとした二番目に体格の良い熟年女性のゾンビの右前頭部に叩き付けた。 ポールの先端が割れた頭蓋骨の隙間に引っかかり、引き抜こうとしてもポールにゾンビの頭が付いてくる。 そこに老婆のゾンビが這いつくばって俺の足元に襲いかかろうとしていたので、ポールから手を離してジャンプしてゾンビの手をかわすと、その背中に着地する。しかし老婆のやせ細った骨の脆さはゾンビになっても変わることなく、着地の衝撃でその背骨と肋骨をまとめてへし折ってしまいバランスを崩すと痛めていた右足首を更に酷く挫いて転倒した。「クソっ!」 地面に横たわる俺を目指して老婆のゾンビが肘で這いながら接近してくる。 背骨と肋骨を砕かれたというのに口から大量の血を吐きながら悪魔の様な形相で襲い掛かってくる。 咄嗟にそのまま地面を転がって距離を開けようとして背中に何かがぶつかる。「しまった!」 最初に倒した熟年男性のゾンビの死骸が俺の退避を塞いでいた。 身体を起こして、駄目だそれでは間に合わない。 その時、俺の目の前に小さな白い毛玉の様な子犬が俺とゾンビの間に割って入る。「キャンッ!キャン!キャン!」 果敢に吠え掛かり、ゾンビが掴みかかろうとすると右へ左へと避けて、ゾンビの気を引き続けてくれる。 その時間を無駄にせず、俺は立ち上がる右足を引き摺りながら熟年女性ゾンビに歩み寄りポールを拾い上げ、痛みを無視して右足でゾンビ頭部を抑えるとポールを引き抜く。「もういいぞ。離れろ!」 まるで俺の言葉が分かるかのように白い小犬が飛び退いた次の瞬間。振り下ろしたポールがゾンビの頭部を完全に破壊した。 命の恩人ならぬ恩犬を抱き上げて、頭を撫でる。「クゥン」 小さく鼻を鳴らす姿が実に愛くるしい。 ふかふかかつ、滑らかな手触りの耳朶を触ると、首を曲げて必死に俺の手を舐めようとする子犬に、これはお持ち帰りするしかないと思った。 柴犬は元々狩猟犬。主人に対して忠実で敵に対して高い攻撃性を示す。きちんと躾ければ山暮らしでは心強い味方となってくれるだろう。なんて打算はどうでも良いのであった。 子犬を地面に下ろすと、右腕で拳銃をホルスターから抜いて左手に持ち変える。 そして、左手で構えた銃を親犬へと向けたままメタルラックのポールを杖に近寄っていく。「……死んでる?」 前足は食い千切られ腹も食い破られて死んでいる──死んでいるとしか思えないのにゾンビ化していない。 犬はゾンビに噛まれてもゾンビにはならないのか? 見る限り、頭部や頚部には大きな損傷は無い。 目の前の状況に納得出来ない俺は、更に近づきポールの先端で親犬の身体を突っついてみるが反応は無い。 突然ゾンビ化して暴れても大丈夫なように、慎重に右手を伸ばして上顎と下顎を同時に掴み、左手で胴体の下に手を差し入れ、首を揺すってみると死後硬直のため硬く首の骨が折れているかどうかは分からなかった。 ゾンビ化の原因が何らかのウィルスによるものだとして、それが犬には感染しない。もしくは感染しても発症しないという事は十分にあり得る。 一方で、本当にこのゾンビ化という現象がウィルスの感染によるものなのか?そんな疑問も俺の中で大きくなっていく。 どうしたものだろう?この犬の遺体も運んで死後硬直が解けた段階で首の骨を調べて、骨折しているかどうか確認すべきだろうか?「クゥ~ン」 そんな事を考えていると白い小犬が親犬──下腹部を中心に大きく食い破られていて性別は不明だが多分母犬なのだろう──の傍で哀しげに鼻を鳴らす。「そうだな、お前の母さんに墓を作ってやらなきゃな」 犬にゾンビ化が起こるかどうかよりも、この母犬を弔ってやるべきだった。 拳銃をホルスターに戻し、小犬を左手で抱き上げる。その身体はまだ胴体が掌にスッポリ収まる位に小さい。 先程は機敏な動きでゾンビに立ち向かってくれた勇者だが、この軽さではやっと離乳食を始めたばかり位なのかもしれない。 そして、まだ母犬が母乳を出せてお乳を貰えたから、痩せ細っていた母犬に比べて小犬たちは元気なのかもしれない。「お前は昨日の夜は犬小屋の中で寝てたのか?」「キュ~ン」 首を傾げる様にして小さく鼻を鳴らす愛嬌たっぷりな姿に、思わず自分の顔に笑みが浮かぶのが分かる。 犬を抱いたままポールを杖にして、文月さんの待つRV車へと歩くと、後ろから「ワン!ワン!」と吼えながらもう一匹が現れる。 黒毛の小犬。犬小屋の中に追い込まれて鳴き声を上げていたのがこの子だろう。 道路に出ると、俺の様子に気付いた文月さんが車を降りてこちらへ駆け寄ってくる。「大丈夫ですか!」「大丈夫。噛まれてはいない足を挫いただけだよ」「大丈夫じゃありません。座ってください」「そんなに大騒ぎするような……」「座ってください!」「……はい」 彼女の剣幕に圧されてその場に腰を下ろす。 俺の手の中の小犬も先程ゾンビに立ち向かった勇敢さは何処へやら、股間に尻尾を巻いてすっかり怯えてしまった。 文月さんはアスファルトの上に投げ出した俺の右足のズボンをめくり上げ、スニーカーと靴下を素早く脱がせる。「かなり腫れています。それに肌に湿布を貼ってあった跡があります……どういうことですか?」 文月さんの目が怖い。出会ったばかりの頃の前髪を振り乱した貞子状態の時に、この目で睨まれたら心臓麻痺であの世行きだったかもしれないくらい怖い。「昨晩。自転車で転んで……」「どうして言ってくれないんです?私はそんなに頼りになりませんか?」「……ごめんなさい」 素直に謝った。一回りも年下の女の子に叱られて何も言い返せなかったのは、決して怖かったからじゃない。 彼女に心配をかけたことを心から申し訳なく思ったからだ……ということにしておいて貰いたい。「自分は無茶ばかりするのに……私に向ける半分でも自分の事を大切にしてください」「……はい」 文月さんに湿布とテーピングで治療してもらうと、文月さんに母犬を埋めるために穴掘りを頼んで、自分はポールを杖代わりにして壊れた玄関から農家の中へと入ろうとした。「止めてください。まだ中にゾンビが居るかもしれません」「多分大丈夫だよ……いやいや、違うちゃんと根拠はあるんだよ。ほら表札を見て三人分しか名前が無いでしょ」 また凄い目で睨まれた俺は必死に弁解する。 俺が指差した先の表札には、家主と思われる男性の名前と2人の女性の名前が記されていた。「そうですね」 納得して貰えたようで良かった。本当に良かった。 玄関の中へと入ると、先ず耳を澄ませて中の気配を探る。 目を瞑り呼吸を止めて、ただ音だけに集中する──自分の心臓の音と、背後から聞こえてくる小犬たちの鳴き声しか聞こえない。 次いで、壁に寄りかかりポールで壁を左右二度ずつ強く叩いて、再び音に集中する──ゾンビの気配は無かった。 ホルスターから拳銃を抜いて左手で構えて、右手でポールを突きながら内部へ進入する。 家の中なら発砲しても、それほど大きな音は外には響かないだろうから、ゾンビが居た場合は躊躇わず撃つつもりだ。「ワンっ!」 俺の後を白い小犬がついて来る。他の二匹は文月さんに懐いたのだが、こいつだけは俺に懐いたというか文月さんに怯えてる? 玄関から一直線に伸びる廊下の突き当たりの部屋は居間だったが、中はゾンビと化した住人たちに荒らされて酷い有様だった。 右手の奥に和室の部屋があり、開いた襖の向こうに覗く壁には赤黒い飛び散った血の跡が生々しく残っていた。 左手には食卓があり、ダイニングスペースのようだがキッチンがない。 部屋にあったありとあらゆる物が散乱する床に注意しながら中に踏み込むと左手奥の左側の壁に扉があり、開けてみるとそこがキッチンだった。 キッチンはドアが閉まっていたためかゾンビに荒らされた様子は無い。 中をぐるりと見渡すと、冷蔵庫横にドッグフードの大袋が見つかった。 ドライタイプの4.5kg入りが8部入り程度で残っていたので、当面の小犬の餌には十分だろう。 袋の中から少しドッグフードを取って、小犬の前に置いてみる。「クゥ~ン」 しかし小犬は目の前に置かれた餌を口にしようとはせずに、何これ?と言わんばかりにこちらを見上げて尻尾を振る。「お前まだ離乳してないのか?」 犬に聞いても仕方無いのについ口を突いて出てしまう。 困った。牛乳は成犬ならともかく小犬に与えれば下手すれば下痢で体調を崩して命に関わる。 脱脂粉乳を水で溶いたものならまだマシらしいが、余りお勧めできない。 一通りキッチン内を探してみたがやはり子犬用のミルクは見つからない。母犬が居て問題なく母乳を与えられるなら必要が無いから当たり前ともいえる。 念のため冷蔵庫の中をあたってみるが、まだ薄っすらと冷気の残る庫内には小犬が食べられそうなものは見つからない。 ついでに冷凍庫の中を確認すると、半解凍状態のご飯の入ったレンジパックを発見。「そういえば子犬の離乳食におかゆを与えるって聞いたことが……」 鍋に水──は、水道が使えないので、冷凍庫の中のアイスボックスに半分解けかけて溜まっている氷水を入れて、ガスレンジで火に掛ける。 北海道は都市ガスよりプロパンガスが大半を占めるので問題なく火は着いた。IHヒーターだったらこうはいかない。 そこにレンジバックから鍋の中にご飯を流し入れ、ドライタイプのドッグフードをご飯の三割程度入れて蓋をして煮込む。「クゥ~ンクゥ~ン」 たちまち部屋中に広がる食べ物の匂いに、小犬は切なそうに鼻を鳴らす。 小犬たちのご飯の目処が立ったので、ついでに自分たち人間用の食べ物を漁る。 壁のハンガーに束ねて掛けてある使用済みの買い物袋を抜き取り、冷蔵庫の中のハム・ベーコン・チーズなどの常温でも数日は持つであろう保存食の類を頂いて袋に詰める。 更に食品棚からは調味料や穀類・缶詰類。ついでに犬用の缶詰も発見し全て袋詰めしていく。 鍋に火を弱火で掛けたまま玄関まで何度か往復し、袋詰めした全てを運び終える頃には鍋の中身が完成していた。 しかし、出来立ての熱々を与えるわけには行かない。 餌が欲しくて欲しくてたまらないのだろう。興奮状態で俺の周りでジャンプし続ける。 仕方ないので冷凍庫の中の半解凍状態の食材を流しのシンクに放り込み、それらで鍋を包むようにし、菜ばしで中を掻き回し息を吹きかけ熱を冷ますが、糊状になったご飯が子犬の口に入っても大丈夫な温度に下がるには5分ほどの時間を要した。 文月さんの膝の上でポンポンに膨らませたお腹を見せて眠る小犬たち──白い小犬も、機嫌が直った文月さんにはちゃっかり甘えていた。「これから、この子達は……」 茶毛の子犬の喉を人差し指でくすぐりながら、上目遣いで見つめてくる瞳には『飼いたい!お願い!』という文字が浮かんでいるかのようだった。「連れて行くよ。この子達は単に可愛いだけじゃなく頼りになると思うから」 勿論、俺に反対する理由など何処にも無い。「じゃあ名前も考えないといけませんね。私犬を飼うのって初めてなんです」 余程飼える事が嬉しいのだろう。ニコニコと歳相応の女の子らしい無邪気な笑顔を浮かべている。「茶色い毛のこの子は女の子だからココアにしましょう」「いいね」 確かに茶色だが、ココアというよりはむしろ紅茶色。もっと正確に言うならほうじ茶とかの色だとは思ったが、彼女の女の子らしいセンスを尊重したのと、ココアなら呼びやすいし悪くは無いと思ったので頷いた。「この白い子は男の子だからマシュマロかな」「……えっ?」 男の子だからマシュマロ?全く意味が分からん。しかもマシュマロじゃ呼びづらそうだ。「そして最後に、この黒い子は女の子なので……」 俺が上げた疑問の声は無視された。 一見、俺にも意見を求めているようでいて、実際は犬を飼える事に舞い上がっていて自分の世界に入り込んでいるのだろう。「…………ゴマ団子?」 意味わかんねえぇぇぇっ!胸の内で大絶叫する。 マシュマロ以上に意味不明だ。彼女の中では団子は女の子なのか? わからん。14歳の女の子が何を考えているのかは、26歳のお兄さん……いやもうおっさんで良い。これだけジェネレーションギャップを感じさせられた以上はおっさんで結構……にはさっぱり分からん。