町外れの道脇の畑の中、周囲より10cmほど盛り上がった場所。この土の下に原警部補が眠っている。「私が北路さんの所へ行きたいと我儘を言ったから……原さんはあんなことに」 自分の事を責める文月さん。元はといえば俺が彼女を置いて町を出たせいだ。 しかも何の収穫も無かった。あのまま彼女の傍に居てあげれば良かった。そんな後悔ばかりつのるが、それを表に出している場合ではない。 互いの傷を舐め合うような情けない真似は出来ない。自分の感傷を押し殺し彼女の心を心配するのが俺の役目だ。「私を助けようとして……」「警部補は文月さんを助けたことを後悔なんてしてなかったはずだ。どんな状況で警部補がゾンビに噛まれることになったか知らないけど、もし同じ状況になったなら彼は何度でも同じように文月さんを助けるよ。何の迷いも無く。それを疑うことは彼を侮辱することだ」「……原さん。助けてくれた時。自分の怪我の事よりも、私の身体のことを心配して……無事だと分かると、良かったって笑って…………」「彼らしい……」 多分。警部補は文月さんを通して亡くなった娘さんを見ていたのだろう。 笑顔も浮かぶだろう。彼にとっては助けられなかった娘を助けられたに等しかったのだから。 だが、今はそれがとても切なく胸を締め付ける。 畑の脇に積み上げられていた廃材の山の中から、腐っていない状態の良い太い角材を取り出し、彼の名前『原 靖史』を刻み込み、それを墓標とした。「文月さん。警部補に最後にかけてあげる言葉はあるかい?もう此処へは戻ってこれないかもしれない」 俺は富良野市を離れるつもりだった。 生き残った人々が郊外へ脱出し空知川を盾にして安全を確保したといえども、食料事情や住居の問題は昨日まで想定していた状況より遙かに悪化している。 着の身着のまま市街地側から川向こうに避難した人間と、元々そこに住んでいる住民との間に確執が生まれるのは想像に難くない。 ましてや俺達は余所者。町の人たちと同様に扱ってもらえる保証は無い。 何より、俺は集団としての人間を信用する気になれなくなっている。 ルールやマナーとは、それを一人一人が守ることで社会の秩序が保たれ、結果として自分達の利になるから守られる。 しかし、全体の僅か1割の人間が積極的にルールやマナーを破るような振る舞いをすると、残りの9割の人間はルールやマナーを守ること利を得られなくなってしまう。 そうなると秩序はあっけなく崩壊する。社会は人間の自然状態である闘争状態へと姿を変えるだけ。 町は今や、その境界を越えつつある。いや既に一度越えてしまっている。現在落ち着きを取り戻しているとしても……「もう戻って来れないって、どういうことですか?」「俺は、この町を……富良野を離れるべきだと思う」「…………そうですか」 彼女の表情には驚きも疑問も無かった。彼女も察してはいたのだ──俺達が余所者であるという事実を。 この状況で文月さんを守る自信が無い。彼女が安心して暮らせる場所を確保出来るという確信をもてない。 もちろん、あっさりと立ち去れるほど富良野という町に思い入れが無いわけではない。この町を以前の様にとは言わないが、多くの人が人間らしく生きていける場所にするために原警部補たちと今までやって来た。 だがそれが全て無に還ってしまった。余所者だろうが受け入れられるための貢献が失われた。「この町を離れても、北路さんは一緒に居てくれるんですよね?」 俺が黙り込んだ事に、不安そうに文月さんが問いかけてくる。 そう言われて、彼女を置いてこの町を去るという考えが、全く無い自分に少し驚く。「……文月さんに嫌だといわれない限りはね」「じゃあ、絶対に嫌とは言いません。二人一緒なら何処へ行っても平気です」 そう答える彼女の笑顔に、自分が抜き差しなら無い状況に足を踏み入れたことを自覚する。 この町を離れるということは彼女と二人っきりで生活するということだ……まずいだろ流石に。 だが、どうするにも代案が無い。仕方が無いので笑って流した。 RV車を走らせて少し離れた軽トラを止めた場所に戻る。 後部の貨物スペースから、キャンプ用品などが入った樹脂製の大型コンテナケースを、軽トラの荷台から俺の自転車をRV車後部ハッチのリアラダーからルーフキャリアの上へと運び上げる。 ルーフキャリアといっても、スキー板などを載せるための屋根の上に数本のバーを渡した様な簡単なものではなく、ステンレス材をメッシュ状に組んだ床を、10cm程の立ち上がりのある枠が囲んでいて、広さも俺が二人並んで足を伸ばして寝転がれるスペースがある。 文月さんのお祖父さんは、アウトドアに趣味がとことん傾倒した人物のようで車には実用性重視で手が入っている。 ルーフキャリアの上でコンテナケースや自転車をゴムバンドで固定する作業の手を休めて、富良野市の市街地を振り返る。 一週間足らずとはいえ、生き残るために必死で戦い続けた時間を過ごした街。 保護した文月さんの未来を託すべき場所として決めた街。 だが、もうあの場所には人の営みは無い。ゾンビばかりが徘徊する死の街と化してしまった。 生死も分からない知り合い達。島本さん。矢上君。山中さん達。彼等は無事だろうか? そして山口巡査は持ち前の図太さで生き抜いているだろうから心配する気にもなれなかった。「文月さん。そろそろ出発するよ」 文月さんに一声掛けてから運転席に座るとドア・ポケットからロードマップを取り出す。 2000年度版と10年近く前の地図だが、良く使うルートに赤線が引かれていたり、新しい施設や道の書き込み、更に本人が実際に行った場所の簡単な説明が付箋で貼られていて、大事に使い込まれていることが分かる。 今時カーナビが付いていないのも納得な使い倒しっぷりだ。 地図を眺めていると、さすが北海道だけあって周囲から切り離された小さな集落が幾つか見つかる。 人口が100人程度で、しかも生存者が1人も残っていないような集落を見つけたら、ゾンビを駆除して生活の拠点とするつもりだ。 決して楽な作業じゃないし危険も伴うが、やってやれない事は無いと思う。 もしくは人里はなれた山中のキャンプ場。 このゾンビ騒動が始まった7月15日は、まだ学校が夏休みに入る前だった上に平日なので、当時キャンプ場には人が少なかったはずだからゾンビはいたとしても極僅か。 取りあえずはテントや車中で寝るとして、冬が到来する前までに狭くても良いから、中で火を使える程度の小屋を建てる必要があるが、ゾンビの駆除に比べれば危険は少ない。 そうして地図を眺めていると文月さんも車に乗り込んできた。「難しそうな顔をしてますが、どうかしましたか?」「何せ急に富良野を離れることを決めたから、まだはっきりとした目的地もきまってないからね。生存者が残っていない小さな集落のゾンビを駆除するか、人里離れた山中のキャンプ場を拠点にするかどうか……」「キャンプ場ですか?」「幸い。文月さんのお祖父さんは。人里はなれた山の中へ避難して生活することも想定して荷物を積み込んでいるみたいなんだ」「祖父がですか?確かによくキャンプに連れて行ってくれました。祖母がすこしは落ち着いて家ですごしてくれると良いんだけどと愚痴をこぼすくらい」 よくある事だが、お父さんが張り切って家族サービスをするのだが、家族にとっては、それに付き合うことがお父さんへの家族サービスになるという悲しい現象。「あ~そいうこともあるさ。それでね。山の中ならゾンビの心配はないし、飲み水を確保できる場所の近くに小屋を建てれば、今年の冬は越せるはずだ」「小屋ですか?」「この車に積んであるのは、かなり本格的な大型テントだけど流石に冬を越すのは無理だから、小さくても中で火を使うこと出来るような小屋が必要になるんだ。それから主食になる穀類を確保し……」「あの……山の中で長期間暮らせる小屋ですよね。心当たりがあります」「はい?」 思いがけない言葉に思考停止する。「祖父と祖父の友人たちで建てた山小屋があるんです」「はい?」「祖父の友人の1人が山林地主だとかで、使ってなかった土地に何年もかけて山小屋を建てたんです。2年前に完成して鹿狩りの時なんかにそこで寝泊りして猟に出かけていたみたいです。夏休みの禁猟の時期にはキャンプで連れて行ってもらったこともあります。山小屋といっても結構広くて暖炉もあるので火も使えますし、それに離れの小屋に五右衛門風呂もあるんですよ」 ……何そのいたせりつくせりの快適設備?「もしかしてお祖父さんは、そこに逃げ込もうとしてたんじゃないかな?そんな話は聞いてなかった?」 俺なら間違いなくそうするだろう。「すいません。そんな話は何も……でも祖母の治療をした後。そうするつもりだったのかもしれません」 お祖母さんの治療が第一で、それどころでは無かったのだろう。問題は場所だ。「場所はどこか憶えている?」「私あまり道を覚えるのは得意じゃなくて……ごめんなさい」 折角の情報が台無しになったと落ち込む彼女だが、まだ場所を探す手がかりは残っている。「大体の場所とか分かる?」「大雪湖の……大雪山の東側にある湖の南だったと思います……でもそれだけでは、結構分かりづらい場所ですし」 ロードマップの広域図から、大雪山周辺のページを開き、文月さんのお祖父さんの書き込みを探していくと目的の書き込みがすぐに見つかった。「いや十分だよ」 彼女に開いたページを見せる。 そこには、国道から赤ペンで線が延びていて、その先には三角形の下に四角形を配置した記号が書き込まれていた。 赤ペンの線が山道で、記号が小屋を示しているようだ。「多分、山道への入り口は分かりづらいと思うけど、近くまで行けば文月さんなら分かるかな?」「はい。分かると思います」 そう答える彼女の顔に笑顔が戻った。 軽トラはここに放置していくことに決めた。 もし誰かがここにたどり付いて車が必要な場合を考え、窓は全て閉めたがドアのロックは掛けずに鍵はキーシリンダーに挿したままにした。 多少の食料や水を置いていくかどうか迷ったが、それらが無駄になる可能性を無視して置いてゆくほど余裕がある訳では無いのであきらめる。 その代わりに上富良野と中富良野の間に点在する農家は、早い段階で上富良野の自衛隊駐屯地への避難が進められたために、住人も元住人のゾンビも居る可能性が低く、適当な農家で食料を調達するようにとメモを残した。