富良野へと車を走らせながら車載ラジオを操作するが、先程の自分の携帯電話のラジオと同じくノイズを吐き出すだけだ。 明らかにおかしい。先ほどのゾンビだけじゃない何かが起きている気がする。 助手席の少女がようやく泣き止んだようなので声を掛けてみる。少なくとも彼女は俺が知らない何かを知っているはずだ。「俺の名前は北路圭太(きたみちけいた)。君は?」「……文月、文月蓮(ふづきれん)です」 声を掛けられて驚き、そして怯えたように彼女は名乗る。「ふづき……ああ、ふみづきとも読む七月の文月かい?」「……はい」 全く会話が膨らまない。「じゃあ文月さん。これからよろしく」「よ、よろしくお願いします……北路さん」 一応、握手の為に右手を差し出したのだが、彼女はおずおずと震える手を伸ばそうとしたが、あと少しというところで引っ込めてしまう。 行き場の無くなった気まずい右手を、乾いた笑みと共にハンドルに戻す。そしてぎこちない雰囲気のままに自己紹介を続ける。 文月さんは中学2年生で、両親を事故で早くに亡くし5歳の頃から祖父母の家で育てられた。祖父母以外には頼れる親類も居ないようで、この騒ぎが収まったとしても、決してめでたしめでたしとはいかない身の上だった。 容姿は癖の無い真っ直ぐで深い色合いの黒髪を長く腰の辺り位まで伸ばしているのが特徴だが、それを好印象と捉えるのは今は無理な話だ。 朝起きてから櫛も入れてないだろう髪は乱れ、ちょっと重めなボリュームと相まって、テレビ画面から這い出てくる迷惑女が有名なホラー映画を髣髴する。 更に垂れ下がる髪に顔は隠されていて、時折前髪の間から片目が覗くのだが、それがより強く這い出し女を思わせて怖い。 14歳の小娘に何を怯えると言われるかもしれないが、凄い雰囲気が出ている。 身長に関しては座席に座っていて良く分からないが大柄でも小柄でも無いようだ。 体型も大き目の淡い黄色のフード付きのトレーナーで良く分からないが、ジーンズに包まれた長いスリムな脚のラインから痩せ型でスタイルは良いと判断した。 しかし年齢からしてもおっぱい星人である自分にとっては光年とかパーセク単位で守備範囲外だった。「何が起きたのか教えてもらえるかい?」 まだ打ち解けたと言える状況では無いが情報を手に入れる必要があり、彼女にとってはまだ辛いだろう核心に迫る質問を投げかけた。 彼女は俺の言葉に一瞬息を呑み、そして躊躇いがちに口を開く。「はい。それは私が目を覚ました時……とても大きな音と振動に目が覚めて……開けていた窓の外を見ると……」 途切れ途切れに口にする彼女の話をまとめると、早朝大きな物音と振動に目を覚まし、窓から外を見ると国道12号線で大型のトレーラーが道を塞ぐように横転していた。 事故現場には大勢の人が集まってトレーラーを囲んでいる。 最初は事故自体を心配して見ていたのだが、そこで彼女はおかしなことに気付く。 彼女が目を覚ます原因となる大きな音と振動が事故によるものだとするなら事故発生からはまだ1分も過ぎていない。 すると集まっている人々は事故発生以前に現場、またはその周辺に居たことになる。もしかして彼らが何かをして事故をひき起こしたのではないか? そんな自分の思いつきに怯えていると、運転席側を下にして横転しているトレーラーヘッドのフロントガラスが割れて出来た隙間から、中に人が入って行くのが見えた。 ちゃんと運転手を救助するのだから、やっぱりこれは普通の交通事故なのだと思い直そうとした時。男性の断末魔の悲鳴と共に網目状に細かくヒビの入ったフロントガラスが紅く染まる。 そして運転席からゆっくりと全身を何かで赤く染めた男が現れ、その手には白っぽい折れ曲がった棒状の何かが握られていた。 彼女が目を凝らし見つめると棒の先端部分に人間の掌のような形があり、棒が人間の腕だと理解した彼女は大きな悲鳴を上げ、そのまま意識を失う。 その後、自分の名を呼ぶ声に目を覚ますと祖父に抱きかかえられてる自分に気付く。 何があったのか尋ねる祖父に、上手く言葉が出てこない彼女は窓の外を指差す。 窓の外を見て顔色を変えた祖父は、彼女に着替えと貴重品・現金。それに保存食を中心に食料をまとめて車に積み込むように指示を出す。 その意図が理解できない彼女が理由を問うと、様子のおかしい連中が町中に溢れて、その一部がこちらに集まってきていると答えた。 そして彼女は自分が上げた悲鳴がゾンビを呼び寄せたのだと気付く。 手早く着替えて自分の荷物を整えた彼女の耳に一階の玄関から祖母の悲鳴が届く。 駆けつけた彼女が見たのは、血まみれの左手を押さえて痛みに呻く祖母の姿。左手の小指の付け根付近の肉が幅3cmほどに渡って噛み千切られていた。 ドアチェーンだけで辛うじて閉まっている玄関扉の隙間から聞こえる不気味な呻き声気付き、そちらを見ると扉の隙間から覗く先には様子がおかしい人々の姿。 彼女は急いで祖母を抱き起こすと、家に併設された車庫へと玄関脇のドアから入り、車の助手席に祖母を座らせる。 そして一旦家に戻り救急箱をとってくると、祖母の傷口を消毒してガーゼで傷口を押さえ上から包帯で固定する。混乱し不安な様子の祖母に傷口を心臓より高くして待っている様にと諭して家に戻る。 何度か家と車庫を往復し、自分や祖母の着替えと貴重品。乾物や缶詰・レトルトを中心とした食品。更に車庫に置いてあるキャンプ用品を後部の荷台スペースに積み込む。 自分の準備を終えて現れた祖父が最後の荷物を積み込み運転席に乗り込むと、車のエンジンをかけリモコンで車庫のシャッターを上げる。 シャッターが上がると同時に何体ものゾンビが車庫に入り込んでくるが、大型RV車はものともせず押し退けながら発進し路地へと出る。 そんなに広くない路地はゾンビで溢れていたが、RV車はものともせず何体ものゾンビをゆっくりとした速度で押し退け、倒れたゾンビを乗り越えながら国道12号線まで出る。 札幌方向は横転したトレーラーが完全に道を塞いでいて通れそうもなく、また距離もあるので、大きい市立病院と労災病院がある美唄市を目指すが、三笠市に入っても国道12号線上に溢れるゾンビの数が減る様子は無く、それどころか直線道路としては日本一の長さを誇る(29.2km)道は何処までもゾンビに埋め尽くされていた。 そこで美唄市行きを諦め富良野へ向かうことにして、昨日俺が通ったのと同じ道を使ってここまで来たとのことだったとの事だった。 泣きながらも一生懸命に話す彼女の言葉が本当なら完璧にゾンビ映画なんかでお約束通りな展開だ。 たった一夜にして、今までの俺が認識してきた現実と言う奴は、どこか遠くへと旅立ってしまったようだ。「君のお祖母さんがあんな風になるまでは、どんな経過だったんだい?」「……祖母は、最初傷口の痛みを訴え続けていましたが、家を出て一時間ほどで酷い熱を出してうわ言を口にするようになりました。その後1時間ほどで熱は下がり呼吸も落ち着いてそのまま眠りについたのですが、いきなり暴れ始めて。祖父の肩と太股に噛み付きました……と、とても正気な様子ではなく、目が真っ赤でまるで町の人たちのようで……」 俺は彼女の言葉を遮ると罪悪感から出来るだけ優しく声を掛けて慰めた。自分でも偽善だと内心笑う。 こうなることが分かっていて聞いたのだ。分かっていても知りたかったんだ。 しかし世界はどうなってしまうのだろう? この騒ぎが彼女が見た範囲だけで起きてるとは思えない。たぶん札幌も、そして俺の両親も…… 今分かっているのは、噛まれた場合は死ぬ様な大怪我でなくても2時間半程度で映画のゾンビのようになってしまい、噛み殺された場合は僅かな時間でゾンビ化してしまうという事。 何故だろう。ゾンビ化の原因は分からないが、ゾンビ化するのに対象が生きてると拙い理由でもあるのだろうか? 文月さんのお祖父さんは、死後3分間も経たずにゾンビ化した。多分ゾンビ化したお祖母さんに襲われたのは俺がこの車を目撃する直前くらいだろう。 最初に噛まれてからゾンビ化するまでの時間は5分を超えたかどうか位だ。 死んだことによってゾンビ化の過程が加速したとしか思えない。 大体ゾンビ化とは何だ?文月さんのお祖父さんは大量出血による失血死だろう。ゾンビが人間だったの頃の器官や組織を用いて動いているとするなら失血死するほど血液を失って動けるのだろうか? 多分ごく短時間なら動けるだろうが、それにしても数分間だろう。長期にわたって動き続けることはありえない。 なら文月さんのお祖父さんは俺が手を下さなくても暫くすればただの死体に戻ったのだろうか? そんな事を考えていると、左の肘を軽く引っ張られる。「ん、どうかした?」「これから一体どうなるのでしょうか?」 例え不安から出た言葉だったとしても構わない。これからのことを少しでも考えてくれるのは良い兆候だと思う。「富良野に着いた後のことなら、先ずは警察に行くよ。警察ならある程度の情報は持っているだろうけど、実際に自分の目で見た文月さんの話はぜひとも知りたいだろうし」「あっいえ。私のことではなく社会全体というか……」「ああ、そういうことか……」 さっきまで泣いていた筈なのに、何だろうしっかりしているというか、しっかりし過ぎている気がする。「この事態に政府がしっかり対応して警察や自衛隊が短期間に事態を収束させるというなら、1年も経たずに前とあまり変わらない社会に戻ると思うよ。もちろん多くの犠牲者が出たから、色んな問題が後を引くだろうけど社会の根幹は変わらないだおうね」 言葉に出さないが、一番の問題は文月さんの様に身寄りを亡くした子供達だろう。「そして文月さんが不安に思ってることは、この事態が長く続く、もしくは収束しない場合だね」 そして俺が予想しているのもこちらのケースだ。「はい。こんな状況がずっと続くなら──」「どうやって生き延びるかだね」「はい」「正直なところ俺には分からない。何かを考えるにも判断するにも情報が少なすぎるから」「情報……ですか?」「情報だね。これから1人1人が自力で長期間生き延びなければならないなら、今出来ることは役に立つ情報を多くの人間と共有すること生き延びる武器となると俺は思ってる。だから悪いとは思ったけど君にとって辛いことも尋ねたんだ。ごめんね」「いえ全然構いません。どんなことでも聞いてください」 ……話しながら泣いてた人間が言う台詞ではない。 どうやら彼女は我慢して無理してしまうタイプのようだ。警察まで送り届けるまでの短い間とはいえ注意すべきだろう。「それに1人でも多くの救える命を守れたなら1体のゾンビを減らすということであり、結局は自分を救うことになる」「はい」 小さく頷く文月さんを横目で見ながら自分でもらしくない事を言っている思う。「ところで三笠中心の市街地の様子はどうだった?やはりゾンビは多かったかい?」 俺の質問に文月さんは「いいえ」と首を横に振る。「居ないという訳では無かったですけど、国道12号線沿いに比べたら本当に少ない数しか居ませんでした」 国道12号線沿いにゾンビが蔓延してるならば、札幌も旭川も既にゾンビに飲み込まれている可能性が高い。 三笠の中心部にゾンビが多くないというのは人の少なさがゾンビの感染を遅らせていて、逆に人の多い場所ではゾンビの感染は爆発的に拡大すると考えられる。 ならば富良野を目指すのは正解だ。「俺も昨日の朝には岩見沢に居たんだけど、その時には何も異変は感じられなかった。文月さんは昨日、町の様子に何か異常は感じられなかったかい?」 俺の質問に文月さんは暫く考え込むと、一つ一つを記憶を掘り起こすように答え始める。「登校時も、学校にいる時には何も無かったと思います。夕方には家に帰りましたが、特に何も気付くようなことはありませんでした」「ニュースとかで、変な事件とかなかったかい?直接この件に関わるようなことじゃなくても良いんだけど」 俺は昨日は一日中自転車を漕いでいたため、何も情報は持っておらず全て文月さん頼りだ。「いいえ。ニュースでも思い当たるような事は何も。ただ」「ただ?」「夜遅く、午前1時過ぎくらいに外で何か怒鳴り合うような声が聞こえて目が覚めました。一箇所じゃなく街のあちらこちらから大声が何度も聞こえて、もしかしたらそれが……」 彼女の言葉に俺も頷く。多分その通りなのだろう。たった夜中の数時間で感染が広がったのだろう。 はっきり言って俺だって信じられない。ゾンビ映画で一晩で町中がゾンビで溢れかえるなんて始まり方をしたら、間違いなく突っ込みを入れる。 言っては悪いが北海道の田舎町に過ぎない岩見沢。平日の夜中に出歩く者もそんなに多くは無いのに、ゾンビが人を噛むなんて方法でそんなに早く感染が広がるはずが無い。 家の中に居たなら、感染した家族が帰宅してゾンビ化したのでなければ彼女の家のように朝まで何事も無く過ごしたはずだ。 大量のゾンビの出現。季節外れのサンタクロースが良い子のいる家に、一軒ずつ病原体をばら撒いて回ったとでも言うのだろうか? 馬鹿馬鹿しい方向に思考が逸れだしたので考えを中断する。すると助手席からこちらをじっと見つめる視線に気付く。 前髪の間から覗く、ちょっとホラーな彼女の視線に圧迫感を覚えつつ、少し迷った末に今考えていたことについて話した。「そんなこと考えてる場合じゃないというのに馬鹿みたいだろ。昔から考えすぎというか、余計なことばかり考えてしまう」「でも、原因について考える事も必要だと思います」「必要かもしれないが、今やらなければならない事ではないんだ。今は考えることも行動することも常に優先順位をつけて、何を優先して何を後に回すか、何を取って何を捨てるのかを予め決めておく必要がある。世界が昨日までのままならその辺いい加減でも良かった。でも今日からは違うんだ」「優先順位って一体何を……」「簡単だ。君は自分が生き残る事を一番に考えれば良い。これからどうやって生きていくかを考える。他人を救うのは自分の安全が確保されている場合だけだ」「でも、さっきは一人でも多くを救う事が大事だって……」「救える命と言っただろ。君が自分の命を危険に晒す必要がある場合は救える命とはいえない」「それでも助けを求めている人が居たら……」「自分に危険があるなら見捨ててくれ。人の命の重さに違いが無いというなら、まずは君自身が助かれば良い」「そんなこと」「利己的だと思うかい?でも誰かを助けるために死んだ君はゾンビとなって蘇る。君が自分の命を危険に晒すという事は廻りまわって誰か他の人を危険に晒すというのと同じだ。だから何よりも大切なことは死なないこと。現状において死はゼロではなくマイナスなんだよ」「分かります……分かりますけど」 理屈は分かるが感情的に納得できないのだろう。まあ無理も無い。そんな考えが出来る俺の方が人間として壊れているんだから。「頭で分かってるだけでも良いさ。でも一つの可能性を想像して欲しい。誰かを助けるためにゾンビとなってしまった自分を。何人もの人間を襲ってゾンビにしてしまう自分を。自分が生み出したゾンビたちが更に多くの人々を襲い被害者を増やしていく最悪の可能性を想像だけはしておいてくれ」 俺の言葉に衝撃を受けたのかしばし黙り込む。そして何度も首を横に振りながら搾り出すように言葉を吐く。「もう……この後どんな酷い目にあっても、生きるのを諦めるなんて贅沢は私たちには許されないんですね」 俺はただ「そうだ」と答えた。 だがもう一つ別の答えがある。自分の死がマイナスであるなら、そのマイナスを打ち消してプラスになる状況を作って死ねば良い。 プラスが大きければ英雄的な死という奴だ。英雄ね。