手を振る俺に、一見文月さんが窓から手を出し振り返してくれてるようだが、次第に近づくに連れ違和感を覚える。 再会を喜んでくれているにしては、その手の振り方が必死すぎる。 更に近づき、フロントガラス越しに映る彼女の表情に嫌な予感が背中を走り抜ける。 路肩に停められたRV車の助手席の窓に駆け寄る。「何かあったのかっ!」「原さんが、原さんが……」「警部補が?……どうしたんですか!」 奥の運転席に座る原警部補に呼びかける。「よう北路ぃ……噛まれちまった」 そう言って彼は血に汚れた包帯が巻かれた右腕を掲げて見せた。 その瞬間俺の中の時間が凍りつく。窓枠を掴んだ右手が動かない。言葉が出ない。呼吸すら忘れてしまった。「どじ踏んだもんだよ……」 脂汗の浮き出た真っ青な顔で、彼は自嘲気に鼻で笑って見せた。「それからすまねぇ。町を守れなかった」 彼の口から出た衝撃的な言葉によって俺の止まっていた時間が動き出す。「町を……守れなかった?」「ああ、暴動を起こした馬鹿の一部が略奪の為にスーパーを襲って警備の人間を殺しやがった。暴動の無理な鎮圧には消極的だった上の連中も、流石に見過ごすことも出来なくなって逮捕に動いた。車で北に逃げようとしたんだろうが国道も道道も閉鎖していたからな、追跡されて逃げ場をなくして最後にはスポーツ公園に逃げ込もうとして……」「まさか?」「そのまさかさ。無理に車両止めを避けようとして、コントロールが利かなくなったんだろ。そのままスポーツセンターに突っ込み封鎖した玄関を破壊して爆発炎上だ」「…………」 言葉が出てこない。怒りすら沸いてこない。呆然と開いたまま塞がらない口から魂が抜けていきそうだ。「1200体のゾンビが停電中の暗闇の中。しかも町中で数千人の暴徒が無秩序に暴れまくってる中に現れたんだ。パニックがパニックを呼び……俺たち警察は何の手も打てなかった。全く面目ねぇ」「……いや。警察や警部補のせいじゃないですよ」 それは端から、富良野警察署の人員だけで何とかなるレベルの問題じゃない。「……ところで今の町の様子は?」 頭の切り替えて現状の把握でもしなければ、どうにかなってしまいそうだった。「空知川の西側と南側に出来る限りの市民を避難させて橋を閉鎖したが、向こうの正確な人数は分からない。ゾンビの数は……前回の2000どころじゃないだろう」「大まかな数字で構いませんよ」「5000。いや6000より少ないって事は無いだろう」「そりゃあ……」 どうにもならないと言いかけて言葉を飲み込む。通りすがりの旅人である俺とは違いあの町は彼のホームだ。 特に今は、間もなく死を迎える事を避けられない原警部補の前で、余計な軽口は叩きたくなかった。「向こうに合流するなら、北側に回りこんで上流の橋を渡らないと駄目だ。街中はこいつでも抜けられないぞ」「分かりました」「後は……そうだな。後は嬢ちゃんに聞け。此処に来るまで車の中で説明してある」 突然。原警部補の口調が変わった。「北路。頼みがある」「……頼み?」 半ば……いや、彼が何を言おうとしているのかはっきり分かる。それでも動揺は抑えきれず鸚鵡返しに答えてしまった。「噛まれてからとっくに一時間以上経つ、後一時間も掛からずに連中の仲間になってしまうだろう……このままじゃな。自分で始末はつけるつもりだが骸は晒したくない。墓穴を掘るのを手伝ってくれ」「……分かりました」 今更、気休めも慰めも何の意味が無いことが分かっているだけに、その言葉にただ頷くしか出来なかった。 傍で文月さんの漏らした嗚咽がやけに強く耳に響いた。 道の脇の畑の土を文月さんと一緒に掘り返す。「おい、自分の墓穴だ。俺にもやらせろよ」 もう立っているのでさえ辛いだろうに、気丈に振舞う原警部補。「いいからそこに座って。座って何でも良いから自分の事を話していてください」「俺の話?」「昔話でも何でも良いですよ……」「……わたし。絶対に、絶対に忘れません」 文月さんの頬を涙が伝う。それでも彼女は手を休めず必死に穴を掘り続ける。「そうか……」 原警部補の語る昔話を聞きながら、俺達は作業を続けた。 彼の少年時代。両親や兄弟・友人との出来事。 進学と就職。警察学校時代の仲間との馬鹿騒ぎの話。 そして昔話は、彼が家庭を持つ件に差し掛かった。 普通のありきたりで幸せそうな家庭の様子が語られ、家族にはもう一人女の子が増えていた。 やがて俺達の作業が終わりに近づく頃には、家族の物語も終わりを迎えようとしていた。運命の日──7月15日へと。そして最愛の家族の死。「家族を失い。頭が真っ白になって目の前の仕事に逃げ込んで、俺も死に場所を探していたのかもしれない……」「!」「そんな時だよ。お前と嬢ちゃんに会ったのは。何処かあぶなっかしい足元の浮ついた若造と、娘と同じ年頃の女の子が現れて……くっくっく」 何かを思い出すように含み笑いを漏らす。だがその笑うという動作に彼は苦しそうに身をよじる。 文月さんが駆け寄るのを彼は手を上げて制止する。「北路。お前のせいだ。お前のせいで女房や娘を待たせることになっちまったんだ……だからお前は責任を持って嬢ちゃんを守れ。最後までな」 やけに力を入れて最後までを強調したのが引っかかるが、俺は黙って頷いた。「それから嬢ちゃん。例のあの事は忘れるなよ」「は、はい。必ず」 あの事が何か分からないが、顔を赤らめる文月さんに嫌な予感がした。「警部補。何か話が繋がってないような」「分からんか?……分からんならそれで良い。だが俺はお前との約束を果たした。次はお前の番だ……嬢ちゃんをよろしく頼むぞ」 俺が上富良野の自衛隊駐屯地に行く前に彼に、文月さんの事を頼んだ事を言っているのだろう。 差し出されたゾンビに噛まれて怪我をした右腕の手を握り締める。 彼も力一杯握り締めてきた──死に逝く者との誓いの証としての握手。「なあ……そろそろ……限界みたいだ」 彼の顔色は既に土色に染まり、脂汗が顔中に浮かび流れていた。「嬢ちゃん……北路をよろしくな。こいつは、こいつなりに……色々抱え込んじまった男だ。情けなさも弱さも……もろさも持っている。嬢ちゃんを守れるのがこいつなら、こいつを生かすのは嬢ちゃんだ……しっかりやれよ」「原さん……うっうぅぅ」「寄るな!……もう、いつゾンビになっちまうかわからない……」 原警部補は最後の力を振り絞ると立ち上がる。そしてゆっくりと立ち上がり自分の墓穴へと向かって歩き出した。 一歩一歩足を進めながら背広の胸元へ手を入れると、ショルダーホルスターから回転式拳銃ニューナンブを引き抜く。「お前の手は汚させない……手間をかけさせるが、俺が死んだら土をかけてくれ」 右頬だけを吊り上げて痛々しいまでの笑顔を浮かべる。「警部補を人間として送り出すのを手を汚すだなんて思わないですよ……」 この手に未だ残る小林君の首を折ったあの感触。それを手を汚しただなんて思うものか。「北路……まさかお前?」「向こうで知り合った自衛官を……」「そうか。だが俺は警察官だ。お前にそんな真似をさせる訳にはいかない……自分の命くらい自分でケリをつけるさ……最後の瞬間まで警察官でいたいんだ……見栄張らせろよ」 そう言って自ら墓穴に足を踏み入れる。「北路。嬢ちゃん……生きろよ。最後の最後まであきらめずに生きて、生き抜いてくれ……頼む。頼んだぞ」 原口警部補は拳銃のシリンダーを開放し、中の銃弾を確認してフレームに納める。「原さん……私……ごめんなさい……私のせいで……」「俺は……警察官として嬢ちゃんの役に立てたかい?」「はい……それ以上の事を原さんは私に……」「だったら、謝ることなんて無い……ありがとうって言ってくれるか?……警察官になって……初めて人の役に立てて……ありがとうお巡りさんって言われた……思えば、それが俺の警察官としての……原点だったんだ……」「原さん……ありがとう……ありがとうお巡りさん」「……どういたしまして。お嬢さん」 原警部補は嬉しそうに。心の底から嬉しそうに笑った。 目を細めて厳つい顔を崩し、苦痛をも忘れたように自然な笑顔を浮かべた。 俺も何か言おうと口をひらきかけると……「北路……お前は止めとけ。折角の想い出が穢される」 そう言って今度は人の悪そうな笑みを浮かべる。えらい差別だ。「お前たちに会えてよかった……じゃあな」 拳銃の撃鉄を引き上げて引き金に指を乗せると、銃口を自分のこめかみに押し当てる。 俺は文月さんの頭を両手で抱きかかえて身体ごと後ろを向かせる。 数秒後。鳴り響く銃声が耳を打つ。遅れて柔らかな畑の土の上に倒れる音。俺の腕の中で上がる文月さんの悲痛な叫び。そして俺の口からも低い呻き声が勝手に漏れていた。 原警部補の死に、俺は泣きじゃくる文月さんをただ抱きしめ続ける事しか出来なかった。