中富良野南中小学校。 再びここに戻ってきたのは、一夜を明かす場所として、ここ以外に安全と思える場所が存在しないからだ。 富良野市の暴動がどうなったのかはわからない。無線で連絡は入れてみたが『取り込み中だ。嬢ちゃんの事は心配するな。何かあったらこっちから連絡する』とだけ原警部補は口早に告げると無線を切ってしまった。 彼のことだから本当に文月さんに危険が迫っていれば、何が何でも戻って来いと言っただろう。 そう確信があったので、俺は夜が明けるまで此処に留まる事にした。 校舎玄関には鍵が掛かっていた。つまり今朝の脱出時に施錠したので校舎内部にはゾンビは居ないという事だ。 しかし肝心の鍵は当然手元には無い。 軽トラのシートは狭く、リクライニングも申し訳程度しか出来ないので居住性は最悪だ。 それに車高は俺の身長よりも若干低く、窓は大半の成人男性にとって覗き込むにはちょうど良い高さなので、寝込みを襲われることも考えると車内泊は避けたい。「登るか……」 ライトに照らし出された玄関ポーチの庇の部分を見上げる。 軽トラの荷台に上ると、デイパックからロールマットと寝袋を外し、取り出したウェストポーチを肩に掛ける。 折れてしまいそうな位に細い月影と星々が瞬く夜空にはそれらを遮る雲は見えない──雨の心配は要らない。 荷台から運転席の屋根へと登り、クッションと寝袋を庇の上へと投げ上げ、次いで庇の縁に手を掛けると「よいしょ」と掛け声を上げて自分の身体を引き上げる……20代も半ば過ぎはつい掛け声が出てしまうお年頃である。 庇の上から二階の教室へと入ることは簡単に出来そうだったがやめておく。 もしゾンビがここにたどり着くとしたら、校舎内を通るルート以外無いのでここの方が安全だ。 庇には校舎に向かって左奥に排水溝があり、全体的にそちらに向かって傾斜しているので、排水溝へ足が向くように袋から取り出したロールマット広げて床に敷く。 現在時刻は22:20で寝るには早い時刻だった。しかも今日は暇を持て余して何度か1時間単位で昼寝をしているので眠れる気がしないが他にやることも無い。 とりあえず携帯電話の目覚まし機能を5:00にセットする。 近くに多くのゾンビの死骸が転がっているので、蚊を媒介しての感染の恐れを考えて念入りに虫除けスプレーを身体に吹き付ける。 蚊は死体から血を吸わないと言われているが、ゾンビの死骸を人間の死体と一緒にして良いのかは分からない。連中は死後硬直があるのかさえも不明な謎の存在だ。 とりあえずゾンビの死後硬直に関しては明日の朝、ついでに確認しておこうと心に決めて、寝袋に入りマットの上に寝転がると意外に早く眠気が襲ってきた。 今日は色々多くのことが起こり、身体以上に精神的に疲れが溜まっていたんだろう。本当に色々と…… 鳥たちの囀りに目が覚める。 テントの生地一枚さえも遮ることの無いダイレクトに耳に飛び込んでくる鳥の囀りは、甲高くかなり耳に障る。 しかも正面から来る音と校舎の壁に当たった反響音とのサラウンドでやかましい。 時間を確認すると、目覚ましが鳴るにはまだ十数分ほど時間が残っている。 寝袋から出て庇の上から周囲を見渡すがゾンビは一匹も見つからなかった。 昨日ここに救助にきた原警部補たちが帰りがけに駆除してしまったのかもしれない。 寝袋とロールマットをそれぞれ収納袋に収めて、庇の縁から軽トラの荷台の上に投げ落とす。 続いて自分も降りようと縁に手を掛けたところで嫌な気配に気付く……ゾンビだ。 俺からみて死角である、この庇の下の玄関ポーチに潜んでいたのだろう。 奴はトラックの荷台の後ろに立って、先に落とした寝袋やマットに手を伸ばそうとしている。「まずいな」 悠長に庇の縁に捕まってトラックの運転席の屋根に降りていたら襲われる可能性がある。 普段なら飛び降りても何とかなりそうな高さではあるが、今は足を挫いており無理は出来ない。 デイパックの中の針金の束があれば上から首に引っ掛けて吊るしてやるのだが、今の手元にある荷物は、携帯電話とウェストポーチに入った医療品とサプリメントに電池と10徳ナイフ。ベルトに取り付けた銃と銃剣とマガジンポウチにL字ライト。そして無線機のみ。 無線で警部補に助けを求めたら、確実に面倒くさそうな声で自分で何とかしろと言われる。 それに昨晩は暴動騒ぎで寝てる場合じゃなかっただろうと思うと、ますます呼び出しづらい。 この状況をどう打開するか頭をひねっているとあることに気付く。校舎に入って階段で降りれば良くないか?と。 窓を確認してみるが全て鍵はかかっていた。 仕方が無いのでガラスを割って入ろうかと思ったが、一箇所だけクレセント鍵のつまみが最後までしっかりとはまってない窓があった。 その窓の戸車の高さ調整ネジを10徳ナイフのドライバーで回して戸車の高さを下げる。 すると窓枠に対して上下に余裕が生まれたので、それを利用して窓を時計回りに動かすように揺すると1分間ほどでクレセント鍵は外れる。 音を立てないように静かに窓を開けて様子を伺う。中にゾンビの居る様子は無い。 教室内に忍び込むと掃除道具入れからモップを取り出し、10徳ナイフのドライバーでネジを回してモップの先端の部分を取り外す。 モップの柄はリーチは有るが丈夫さには欠け、ゾンビの頭を殴れば壊れるのは間違いなく柄の方だろう。しかし使い道さえ間違えなければ有効な武器になる筈だった。 他にも何か使えそうな道具を探しても良かったのだが、ぐずぐずしていてゾンビにデイパックや寝袋・ロールマットを引き裂かれるかもしれない。 持ち出すのはモップだけにして教室を出て一階へと降りる。 一階の玄関にたどり着くと、ガラス製の玄関扉越しに、ゾンビがまだトラックの後ろで荷台に手を伸ばしてるのが見えた。 俺は加減しつつ拳で玄関扉を叩き、ゾンビの注意がこちらに向くまで扉を叩き続ける。 ガラスドア越しに、ゾンビがこちらに近寄ってくるのを確認すると、踵を返して校舎南端の教室へと移動し、音を立てないように静かに窓を開けると、窓から身を乗り出し窓枠から地面までの高さを確認する。 150cm位はあるだろう、これなら窓が開いていようがゾンビが中に侵入することは出来ないだろう。 窓の下の花壇の土にモップの柄を軽く突き刺して支えとし、窓枠の縁に手をかけると挫いた右足首を庇いつつ慎重に外へ出る。 ゾンビはまだこちらに気付いていない。モップの柄を地面から引き抜くと窓を閉めておく。 杖代わりでもあるモップの柄で、わざと強くアスファルトの地面を突いて音を鳴らしながら玄関へと向かって歩く。 コーン。コーンとモップの柄が鳴らす音にゾンビは俺の存在に気付いて、ゆっくりと一歩一歩上体を揺らしながら歩いてくる。 今まで見たゾンビの中では一番最年長の男性ゾンビで汚れた寝巻き姿だった。 もしかしたら寝たきりだったのかもしれないが、歩けるようになって良かったね何て思いもしなければ、敬老精神を呼び覚まされたりもしない。こいつはゾンビでそれ以上でもそれ以下でもない。 生者がゾンビに対して払うべき敬意とは速やかに真の死を与えることだけだと思う。 ゾンビの急所である頭部を、先が尖っていないモップの柄で突いたところで頭蓋骨を貫通することは出来ない。だから狙うべきはだらしなく開かれた口。 剣道のように両手で突き出すのではなく、ビリヤードのキュー捌きのように指で輪を作った左手をガイドにして右手のみで得物を送り出す。威力よりも狙い重視の突きは、前へと突き出されたゾンビの左右の腕の間を抜けて伸び狙い違わずその口へと飛び込み、喉の奥の柔らかな肉を貫いた。 軽トラの荷台に登って荷物の確認すると幸いゾンビによって壊された物は無かった。 寝袋とロールマットをデイパックに固定して荷台を降りる。 そこで、昨夜寝る前に思いついたゾンビ化した肉体が死後硬直を起こすかを確認してみることにした。 昨日ここでゾンビを倒してからまる1日近い時間が過ぎている。 死後硬直が起こるには十分でありつつも死後硬直が解けるにはまだ暫く掛かる時間帯。 玄関から正面の堀へと向かう。縁に立って下を覗き込むとすぐに、昨日倒して此処に落としたゾンビの死骸を目隠しに被せて雑草の下に見つける事が出来た。 とりあえずモップの柄で腹の辺りを突っついてみると硬い感触が手に伝わる。 モップの柄で堀の底を突き、中に水が無いのを確認してから下に降りる。 そして手近な一体のゾンビの足を掴んで持ち上げてみると硬い。関節が硬い。足首も膝も股関節もカッチカチに固まっていた。 死後硬直が起きている。つまりゾンビは生きている人間と同じく筋肉を利用して行動していたという訳だ。 そうでなければ、ゾンビとしての活動を止めた後で死後硬直が起こるはずが無い。「どうやって筋肉を動かしているんだ?」 考えたら負けだと思いながらもつい考えてしまう疑問。 ゾンビの中には致死量を遙かに越える出血をした個体が存在する。文月さんのお祖父さんをはじめとして、首を──頚動脈を食いちぎられた犠牲者がそれにあたる。 脳を破壊。もしくは首を折れば活動を停止するということは、脳や神経が生きている可能性が高く、更に筋肉組織も生きている時と同様に活動しているならば、脳の命令が神経を通して伝わり筋肉が動くという生きている人間と同じということになる。 だが筋肉を動かし続ける為のエネルギーは血液によって運ばれる。 心臓をはじめ内臓器官が生きていれば、何も食事をしなくても数日間程度なら活動できるエネルギーを血液を通して筋肉に供給できるだろう。しかしゾンビは大量の血液を失っても平気で動き続けている。 いっそのこと筋肉ではなく、得体の知れない別の何かの力で動いてくれた方が遙かにマシだ。 それならば、不思議なこともあるもんだと思考停止させることも出来る。だがゾンビは中途半端にも筋肉を使って行動している。 ゾンビは人類が有史以来築き上げてきた英知の結晶である科学では計り知れないオカルト的な何かだ。しかも中途半端な似非科学系オカルト。 こいつ等には理屈が通用しない。だから何も栄養を摂取せずとも活動を続ける可能性がある。今後何年、何十年でも……そう思うと軽く眩暈がする。 ゾンビが人間に噛み付くという行為は、栄養を摂取するためではなく、同族を増やすための生殖行為に近いのではないだろうか? ゾンビになることも出来ないくらい徹底的に食い尽くされた死体は一度も見たことが無い。 時刻は5:10を過ぎ。まだ朝というよりは早朝だが、とうに日は昇り暴動も収まるか最低限下火にはなっているはずだ。 軽トラに乗り込みエンジンをかける。シフトノブをRレンジに放り込みアクセルを踏み込む。 シートの下から響くエンジン音と、バックで走行しながら引っ張られる感じがこいつがMR車であること思い出させてくれる。 何となくMRという言葉の持つスポーティーなイメージが損なわれる気がした。 小学校の敷地を出て、5分ほど走っただろうか手前に富良野橋が見えてくる。「……うん?」 富良野橋を一台の車が渡ってくる。 見憶えのあるRV車。 最近のRV車とは名ばかりの、軟弱な車高が高いだけのステーションワゴン車のようなスタイルではなく無骨に角張ったデザイン。 そこらの樹脂製のバンパーとは一線を画す、大きく突き出した金属製のバンパーに大げさな逆Uの字のグリルガード。 オフロードを走る為に作られた男の玩具。どう見ても文月さんのRV車である。 路肩に停め車を降りてRV車を待つ。 誰が運転しているのか分からない。最悪暴徒がRV車を盗んだ可能性もある。 腰のホルスターの蓋を開けて何時でも抜けるようにしておくが、その必要は無かった。 次第に近づいてくるRV車のフロントガラスの向こうには、原警部補と文月さんの顔が見える。 たった一日振りだというのに2人の顔が酷く懐かしく思える。 俺は待ちきれなくなってこちらからRV車に走り寄ってしまった……しかも恥ずかしいことに手まで振って。 文月さんが俺よりも大きく手を振っていたことが唯一の救いだ。