駐屯地を離れた俺は農道との合流地点で自転車を停めると警察無線で原警部に連絡を取る。『北路。やばいことになっちまった。電気の供給が止まっちまったぞ。どうぞ』 富良野市に停電が無い事を期待していた訳ではないが、万に一つの希望も打ち砕かれた。「そちらだけじゃなく上富良野も、それに中富良野も止まったみたいだ。どうぞ」『やはり、そうか……』 向こうも俺と同じ考えだったのだろう。予想通りの事実に原警部補の声色が沈む。『それで自衛隊の作戦はどうなった?どうぞ』「現在作戦実行中……というよりも作戦開始直後に停電が起こり作戦は失敗しつつある状態。早く撤退すれば良いのだが。どうぞ」『そいつはまずいな。こちらも混乱が酷い。一部の馬鹿どもが暴動を起こしてる。どうぞ』「暴動。なんだってそんな事が?……どうぞ」 こんな状況で暴動とは暢気な連中だ生き残る気はあるのか?『市民の1割弱がこの騒ぎで死んだ。多くの奴が家族や恋人・友人を失っている。それに今後への不安とでストレスが掛かった状態が続いた中での停電だ。タガが外れちまったんだよ。どうぞ』「それにしてもそんな事してる場合じゃないでしょう……それで文月さんはどうしていますか?どうぞ」 無事かどうかは心配しない。その程度には原警部補を信頼している。『まあ誰もが感情に理屈を優先させられる訳じゃない。それから嬢ちゃんは警察署の中に居るから安心しろ。どうぞ』「了解です。俺は暫くここで様子を見ます。どうぞ」『ちゃんと安全は確保できてるんだろうな?どうぞ』「ええ、国道237号線の上富良野よりの場所ですから、中富良野方向からは距離もあるのでゾンビが集まってくる可能性はほとんど無いですし、駐屯地から出てきたゾンビが迫って来ても、脇の農道に逃げられるから大丈夫です。どうぞ」『そうか、それなら夜が明けるまでは、こっちに戻ってこない方が良いだろう。こちらの暴動に巻き込まれる危険があるからな。どうぞ』「了解。引き続き駐屯地を監視する。どうぞ」 通信を終えて、展開している部隊の様子を少しでも把握しようと暗闇に向けて目を凝らす。 停電の後、車両──多分、82式指揮通信車が駐屯地に向けて照明を照らし続けているが、その明かりを目当てにゾンビたちが集っている様に思える。 はっきり見えている訳ではないが、82式指揮通信車を遠巻きにした周囲で線香花火のような小さな光──マズルフラッシュが爆ぜ続けている為だ。 82式指揮通信車を囮として部隊が撤退しているなら良かったのだが、彼らは作戦の続行──もしくは、駐屯地にゾンビを封じ込める為に死守を選択したのかもしれない。 だが気になる事が一つあった。82式指揮通信車が光を投げかける駐屯地側の闇の中にも少なからずマズルフラッシュを見た気がする。この距離で位置関係もハッキリせず見間違いの可能性もあるが…… 自衛隊員等は、既に水平発射による流れ弾の心配など忘れているように撃ちまくっている。やがてこちらにも流れ弾が飛んでくるだろう……などと思ってる傍から、数mはなれた左手のアスファルトの上で甲高い金属音が鳴る。 俺は慌てて道路脇の畑へと飛び込み、畑が道路より低くなっているので道路との段差を壁にして身を隠す。 銃声は中々鳴り止まない。これが収まるまでは危なくて頭を出すことも出来ない。 そうしていると、それまでのアスファルトや自分の頭を飛び越えて畑の土に着弾する音とは別な、カン!という何か硬い金属に着弾したような音が鳴り響き、続いてガシャンという何かが倒れる音が響く。 俺の自転車に銃弾が命中して壊れたと言う可能性に結びつくのに3秒ほどの時間を要した。「あぁぁっ!」 思わず悲鳴が口を突いて出て行く。 自転車が!自転車が!俺の愛車が!ガッデム!シット!サノバビッチ!!!と怒るほどの思い入れは無かったりする──大学時代に実家の母親から物置で場所塞ぎになってるからどうすると聞かれて、欲しいって人が居たらあげて良いよと言った位だ。 しかし大切な移動手段が、その有無が今後の生死に関わりかねない重要アイテムが失われた可能性が高いとなれば。そりゃあ悲鳴の一つも上げるだろう。 銃撃は五分ほど続き、そして突然止まった。 道路の端から慎重に頭を出して周囲を伺う。 倒れた自転車に取り付けられた二つのライトは生きていて、それぞれの向けられた方向に光を投げている。 ヘッドマウントライトで、倒れた自転車の状態を確認しようと道路へと這い上がろうと足を掛けた時、アスファルトをズリッズリッと引きずるような小さな音が右から聞こえてきた。 ここ数日ですっかり聞きなれてしまったゾンビが舗装された道路を移動する音。 音の響きからまだ、ゾンビとは距離があると判断した俺は右を振り返ることなく、路上へ身体を引き上げると自転車に駆け寄る。 そしてメタルラックのポールを引き抜い……「あれぇ?」間の抜けた声が唇の間から抜けていく。 俺の右手に握られているのは50cm程に短くなってしまったポール。 先程の銃弾は自転車本体ではなくコイツに命中していたのだ。「くそっ!」 手元のポールを左手に持ち変えると、右手で残ったポールを引き抜きゾンビを振り返えると、2本になったポールを両手に構える。 二刀流の心得など無いが得物を手の延長と考えた時に短い左で牽制して右で止めを刺す……そういえばゾンビが相手だと牽制もフェイントも大した意味無いよな。 収束されたスポットビームとは違い、ヘッドマウントライトは広角で投光する反面、周囲に反射する物がある室内と違い野外では5m以上先は急速に照らし出す力を失い、10mも先となると、人影が存在することを確認できてもそれが人間なのかゾンビなのか判断することは出来なくなる。 その光の先の闇の中からゾンビがゆっくりと姿を現した。 左半身をゾンビに対し前に構えて、肩と同じ高さまで左の肘を持ち上げ、肘と手首だけを使って短い方のポールをゾンビに投げつけた。 ポールは縦に回転しながら飛び、2回転と惜しくも1/4で禿げ上がったゾンビの頭に当りゴンと音を立てる。 立ち止まり俺から注意がそれたゾンビを無視し、360°身体の向きを変えながら周囲を確認する──少なくとも、光の届く範囲に他にゾンビの姿は見当たらない。 安全確認を終えると背後に接近してきたゾンビへ、振り返り様に横一閃した右手のメタルポールが、暗闇に赤い花を咲かせた。 慣れてしまえば、ゾンビ相手に一対一なら戦いではなく作業に過ぎない。 国道237号線沿いのこの一帯は、自衛隊がバリケードすら設置していない安全地帯のはずだった。 南富良野との間は農家が点在する程度で、しかも駐屯地への避難が終了しており、人間が居ないことでゾンビを引き付ける物が無くなり、距離が壁となり中富良野のゾンビはこちらには向かってこないと思っていた。 ならば俺の前に横たわるこのゾンビは何処から現れたのだろうか? 間違いなく国道237号線の南から接近してきた。何かの切欠がって南富良野から流れてきたはぐれゾンビじゃなければ、この辺一帯の住人の誰かが無人となる前にゾンビ化した事になるが、農家の家族の中に町に出てゾンビに襲われた者が居たのだろうか……それともゾンビから人への感染という手順を踏まず、突如として普通に生活をしていた人間がゾンビ化したのか? この事件は一つの感染源から広がったものでは無いのは間違いない。ゾンビから人への感染ではなく、直接人間がゾンビ化する現象が多くの場所で起きているはずだ。 謎の解決は俺の手には負いかねるが、それを忘れる訳にはいかない。 このふざけた自体を引き起こした犯人は、いつか報いを受けるべきだ。 倒れた自転車を起こすとハンドルに布ガムテープで固定したLEDライトを外すと、スポットビームで国道237号の南側と農道の先を照らしてゾンビが居ないのを確認する。 次いで国道237号線の北側と、駐屯地へとライトを向けて確認した──少なくともここを中心に40mの範囲にはゾンビの姿は無い。 その時、駐屯地南側で動きがあった。「今更かっ!」 82式指揮通信車が後退しゾンビを引き連れながらこちらの方角へバックで走ってくる。 この状態で周囲の隊員からの発砲が無いということは、彼らは反対側へ撤退を開始し、その間の囮として82式指揮通信車はゾンビを引きつけているのだろう。 しかし、停電直後に撤退を選択しなかった指揮官が、今になって撤退を選んだ理由を考えると眩暈がする。 部隊に大きな損害を出して、変えたくない考えを変えたと考えるべきなのだろう。 どの程度の被害が出たか分からないが、戦力の低下は決して少なくは無いだろう。 しかも光を失った人間に、夜の闇は味方することは無い。 明日以降に残った戦力でゾンビ殲滅が出来るくらいなら、何日も前にゾンビなど片付いてるはずだ。「……畜生っ!」 頭の中が絶望で真っ黒に染め上げられる。 単に対ゾンビの貴重な……いや、唯一の戦力が失われただけじゃない。 あの場には田中二等陸曹をはじめ、知ってる隊員たちだって居る。 たった2時間程前には多くの隊員と一緒に飯も食った。友人と呼べるほど親しくは無くても全くの他人じゃない。