「……おはようございます」 フロントガラスから差し込む朝日のまぶしさに目を覚ました私は、助手席のシートで目を擦りながら運転席にいる北路さんに声をかけ…………たけど返事がありません。 今日はまだぐっすりと寝ているのでしょうか?「北路さん?」 いつもと違う様子に運転席を振り返えると、そこには居る筈の北路さんの姿が見あたらない。 どうしたのだろう?大抵は私の方が先に起きていますが、彼の方が先に起きても私に声も掛けずに車を降りるなんて事は無かったのに。 急に不安を感じて、手早く前髪を髪留めで左右にまとめて垂らすと、後ろ髪をポニーテールにまとめる暇さえも惜しんで車を降りた。「自転車が無い?」 北路さんの愛車。此処に着てからずっと定位置だった警察署の駐車場の隅に置かれていた少し古びた感じのするスポーツタイプの自転車が無くなっていた。 慌てて車に戻ると後部ドアを開けて中に入り車内を調べる。だけど彼の荷物は何処を探しても見当たらない。 もう二度と戻らないとばかりに何もない。ダッシュボードの上に置き忘れてしまったかのように双眼鏡が残されていただけ。 単に車を離れたのではない。荷物を持ってここから……多分、町から出て行ったのだろうと気付いた途端、目の前が真っ暗になり、そのままシートに顔を埋めていた。「どうして……」 喉の奥に何かが詰まったような声が口から零れる。 気付くとこぼれた涙がシートを濡らしていた。 置いて行かれてしまった。北路さんが私を置いて行ってしまった。 ただその事実だけがグルグルと頭の中でまわり続ける。 私が北路さんと出会ったのは5日前の朝。 まだたったの5日前。あの悪夢のような一日。一夜にして地獄となってしまった住み慣れた岩見沢の町から祖父母と三人で逃げ出した朝に出会った。 突如、助手席の祖母が牙を剥き祖父に襲い掛かる。怪我を負った祖父は車を停めると「生きてくれ」と言い残し、まるで町の人たちと同じ様に人が違ってしまった祖母を誘い出して車を降りていった………… 襲い掛かる絶望感に、私は祖父の最後の言葉、私に託した願いすら投げ出して、生きることを諦めかけたその時に彼は現れた。 彼が現れなければ車を運転することも出来ない私は、あの場に一人取り残されて人ではなくなってしまった祖父母の姿に正気を失い、そして今生きている事はなかったはず。 そんな私にとって命の恩人である彼に、私は最初から心を開いてはいなかった。 彼が名前を名乗って「よろしく」と差し出した手を握ることが出来なかった。 彼の大きな身体から発せられる威圧感は車内を息苦しくし、更に見知らぬ男性であることが恐ろしさすら覚えた。 私に悲しむ時間すら与えずに次々と、思い出したくないことを尋ねる彼を、何て冷たい人だろうとも思った。 でも時折、彼が深く考え込む様子を見て、私は悲しんでいるのは自分だけではない事にやっと気付く。 彼の故郷の札幌も岩見沢と同じようになっているのなら、彼の家族や親しい人たちは……そう考えると自分の事しか考えて居なかった自分が恥ずかしく、彼に申し訳なかった。 辛い現実を突きつける様なことを言ったのは私に現実を直視させるため。 優先順位という言葉を出して、生き残るためには何よりも自分を優先させろと私に言いながら、彼は自分自身を最優先にはしていなかった。 1人でも多くの人を救うために必要な情報を手に入れるためゾンビを相手に危険を冒すことも辞さなかった。 多くの人が自分が生き残る意味を自分の中に見出すしかない様な状況下で、守ってくれる人が居る。 おぼろ気な記憶の中にしか残っていない父と母。そして祖父と祖母の家族以外の誰かに守られているという感覚が心地よかった。 失った家族の代わりを彼に求めているのでは?そんな後ろめたさと共に、私は彼へ強く好意を抱かずには居られなかった。 彼の判断力に行動力。そして強さが、私の中の女としての本能を強く呼び覚ます。 自分の中にこんな激しい感情が眠っていたなんて考えたことも無かった。 強く誰か求める想い。祖父母に感じていた優しさに包まれるような暖かい感情とは全く別な熱い気持ち。 私は彼を愛している。 彼が隣にいるだけで胸がドキドキと高鳴る。(第4話参照) 彼が愛おしい。彼の無骨な男臭い作りの顔が、その中で可愛さすら感じられる愛嬌のある目が、厚みのある胸板が、広い背中が、全てが愛おしい。 町を友達を祖父母を、失われてしまった全てを埋めるように、彼の存在が私の心の中でどんどん大きくなっていく。 私は彼に狂ってしまっているのかもしれない。 それなのに彼は私の元を去ってしまった。私を置いていなくなってしまった。 身体が震え出す。手が膝が、全身が震えるのを止められない。止める必要すら感じられない。 もう何も無い。私には何も無い。生きてる意味すら感じられない。このまま何も感じない石になってしまいたい。 気付くと私は後部座席のシートに倒れこんでいた。 心の傷は、どんなに痛みを与えても死ぬほど辛くても、死なせてはくれない。 ドア叩く音がする……そういえば、私はこの音に目覚めさせられた気がする。「原さん……?」 窓の外でドアを開けろと手振りで指示する彼に、私はドアを開けた。「嬢ちゃん……一体どうしたんだ?」 原警部補が何を言いたいのかは分かっている。 でも泣き腫らした目を取り繕ったりする気は全く起きない。「……北路さんが居ないんです」「き、北路?」 突然、何の根拠も無いというのに、彼が北路さんについての何かを隠していると分かってしまった。 自然と私の両腕が伸びて、彼のくたびれた背広の襟を掴む。「何処?」「ど、何処って?」「北路さんは何処に居るの?」 下襟の生地が、私の指の間からミシミシと悲鳴を上げる。「教えて下さい。彼が今何処に居るのか」「わ、分かった教えるから手離せって」「北路は今、上富良野に向かっている。自衛隊と接触したいってな」「自衛隊……そういえば。上富良野の駐屯地にいずれ行くって行ってました」「だから……ちょ、ちょっと待て何処へ行く」 デイパックを背負い車を降りた私を原警部補が呼び止める。 何処へ?愚問です。「上富良野に行きます」 それも走っていきます。全力疾走です。 耳の奥で轟々と何かがうなりを上げる。アドレナリンが頭の中から零れ落ちそうです。「まずいって。今嬢ちゃんが上富良野に行くのは色々まずいんだって」「でも行きます!」「あ、あのな。今行くと北路の奴に迷惑が掛かるぞ。それに用事が済んだら戻ってくるんだから」「も、戻ってくるんですか?」「当たり前だ。アイツが嬢ちゃんを置いていくはずが無いだろ」「本当ですか?」「本当だ」 じっと彼の目を見る。「本当だ。嘘じゃない!……そ、それにアイツが上富良野に行ったのだって……」「行ったのだって……何ですか?」「嬢ちゃんを守りたいからだって………………言ってたような、言ってなかったような」「私を守りたい……」 余り耳に心地よい言葉に、その後何か言ってたような気がしたけど、まるで耳に入りません。「この町を嬢ちゃんが安心して暮らせる様にって頑張ってる………………んだよな多分」「北路さん。私のために……」 そう呟くだけで、ドクドクとエンドフィンが耳から流れ出しそうなほどの多幸感が押し寄せてきて、私の意識は白く焼け付いてしまった。「北路……すまない。なんつうかすまない」 原警部補が何かを言ってるような気がしたけど、今の私にはどうでも良いことだった。 ゾックと北路の背筋に走った悪寒。彼にはそれが何か良くない事を知らせのような気がした。