テントに戻ると食事が用意されていた。所謂コンバット・レーション。自衛隊では戦闘糧食と呼ばれるものだ。 世界の軍隊の中で一番美味しいともいわれる自衛隊の戦闘糧食。 勿論、自衛隊が贅沢をしているわけではない。 世界を隔絶すると言うか、勝手に一人旅状態の日本のレトルト食品技術もあるが、他国のコンバット・レーションにおいて主食がクラッカーの類ばかりなのに対して、暖かい米が有りがたがられるのも一因である……とテレビか何かで聞いた事がある。 つまるところ所詮はレトルト食品なのである。 昔は缶詰が主流だったそうだが、現在はより軽量でゴミも少ないレトルト食品が主流になったそうだ。 パッケージや量はともかく中身は民生用と違いは無いそうで、はっきり言って、ここ最近の食事と何の違いも無い。 食べてみると美味い。美味いがそれ以上の何かを感じる事は無い。 こんな状況でもなければ物珍しさがスパイスとなっただろうが、そんな感性はとっくに磨耗していた。 量だけは満足できる食事が終わって一服と言いたところだが、俺には煙草を吸う習慣がないので、まったりとしたこの食後の無聊を慰める術は無い。 待っていてくれと言われたものの何時まで待てば良いのやら、テントの外には人の気配もあるので無線で原警部補と連絡を取ることも出来ない。 次第に、何もしない時間が流れることが不思議に思えてきた。「そうか、これが退屈だ……久しぶりの退屈だ」 旅に出て以来退屈を感じる暇も余裕が無かった自分に気付く。 手持ち無沙汰という状況は何度もあったが、退屈を感じるということは無かったのは、常に文月さんが傍に居たという事が大きかった。 その後、更に一時間以上放置されて、久しぶりの昼寝でもしてみるかと思っていると、突然テントの外が慌しくなった。」 叫び声とアスファルトを打ち鳴らす靴の音が錯綜する。 ただ事ではない様子に俺は椅子を蹴って立ち上がり、テントを出てテント脇に停められた自転車に駆け寄る。 そしてフレームにマジック・テープで固定されたメタルラックのポールを引き抜く、頼れる相棒を手にすると不安が少し軽くなった。「早く呼び戻せ!」「畜生っ!何もこんな時に!」「バリケード持たないぞっ!」 飛び交う怒号の中で、バリケードが破れそうという洒落にならない発言に、俺も交差点の先のバリケードへと向かう。 交差点で俺が見たのは、木製の土台に直径1mくらいの螺旋状の輪のように有刺鉄線を張り巡らせたバリケードの向こう側を埋め尽くすゾンビたちの群れだった。 ゾンビは有刺鉄線など物ともせずにバリケード全面に張り付くように押し寄せていて、その後方にどれほどのゾンビが控えているのかは確認できない。「民間人は下がれ!」 俺に気付いた隊員から鋭い怒声を浴びせかけれた直後、銃声が鳴り響く。 その銃声は機関銃の連続的な発射音ではなく、散発的に鳴り響いた。 有効なのは頭部のみな決して的が大きくは無いゾンビに、毎秒7-8発の連射で撃ってしまえば装弾数が30程度の弾倉では4秒程度で撃ち尽くしてしまう。(実際の64式7.62mm小銃の弾倉の装弾数は20発であり、フルオートで射撃した場合は2秒半で撃ちつくす。また現在ならあって当然の3点バースト機能は無い) 4人の隊員がバリケードの両脇に横付けされた2台の1BOXの上から、流れ弾が民家に飛び込むのを防ぐためにバリケードの傍にいるゾンビの頭部を撃っている。 流石に駐屯地周辺は避難が済んでいるだろうとに律儀なことだが効率が悪い。 バリケードが押し倒されないように補強の目的で横付けされている1BOXのルーフには、文月さんのお祖父さんのRV車のようにルーフキャリアが取り付けられているわけでもないので足元が不安定だった。 それでも隊員達は単発で1体1体狙いを付けて頭部を撃ち抜いていくが、押し寄せるゾンビの波に対して、十分な打撃力を与えているとは言え無い状況。 有刺鉄線も痛みを感じないゾンビに対して効果は発揮せず、木製の土台に有刺鉄線を張り巡らされただけのバリケードは、全身を有刺鉄線の棘でズタズタに引き裂かれ血塗れになりながらも全く意に介さないゾンビに、有刺鉄線の一部は土台から引きちぎられている。 有刺鉄線ありきのバリケードなので、このまま有刺鉄線を剥ぎ取られてしまえば、後はバラバラになった小さな土台を晒すのみ。万里の長城の西端よりも頼りにならない。(万里の長城の内、立派な城壁のようになっているのは全体の極一部で、重点的に守る必要がある場所以外は、馬が超えられない高さの石垣だったり、更に西に行くと羊などの家畜が飛び越えられない高さの石垣というレベル) 俺はテントまで走って戻ると、デイパックの中からホームセンターで調達した針金の束を取り出して駆け戻り、バリケードのこちら側。交差点の手前で道の両側に立つ電信柱の間に高さ20cm程で針金を渡し、力一杯に引いて張る。 針金は線径3.2mmで、一人歩きが出来るようになったばかりの子供のごとく、おぼつかない足取りのゾンビの足元をすくうには十分な強度を持っている。「おい!一旦下がれ、そのままじゃ逃げられなくなるぞ!」 準備が出来た俺は4人に声をかける。 バリケードは既に何時破られてもおかしくない状況だった。「民間人お前は逃げろ!ここはもう破られるぞ!」 先程、俺に怒声を浴びせた隊員──多分この留守番部隊の隊長なのだろう。小柄ながらごつごつした顔も肩幅が広い身体付きも四角形をイメージさせる体型の男……個人的に角ばって見えるので角田隊員と仇名を勝手につける──が怒鳴り返してくる。 彼らは1BOXの上で片膝立ちの姿勢でバリケード間近までに接近したゾンビでは無く、狙いやすい少し離れたゾンビを狙う。 その為、バリケードに取り付いたゾンビ達は何の妨害も受けずバリケードを少しずつ破壊している。既にバリケードが破られることを前提に、せめて死ぬ前に1体でも多くのゾンビを減らすことに目的を切り替えているようだ。 俺は交差点を突っ切りバリケードに接近すると、バリケード中央で突破を試みるゾンビの胸を有刺鉄線越しにポールで突くが、後ろか押し寄せる他のゾンビに押されて倒れる事は無い。 多少の時間稼ぎにはなるだろうが、それも気休め程度だ。「いいから下がれ!どうせ破られるのが分かってるなら死守の意味は無いだろ!」「だが1体でも多く減らしておけば──」「俺に考えがあるから力を貸せ!」 角田隊員の言葉を遮る。彼の考え方では駄目だ。大事なのはこの場で食い止めること。それ以外の選択肢は無い。「後ろを見てみろ。横断歩道の上だ」「……針金か?針金でどうする気だ?」「こいつ等には、張られた針金を視認する能力は無いし、あの高さの障害物跨いで歩く能力も無い」「つまりどういうことだ?」「アレがもう一つのバリケードになるから、そこまで下がれって言ってるんだよ!」「だが、ここを放棄すれば南東側に……」 この交差点にあるバリケードがあるのは北東・北西の2箇所で、針金を張って無い南東側が無防備になる事を危惧したのだろう。「こんな距離で銃を撃っていれば連中の注意は必ずこちらに向く。奴等が気を逸らすとしたら、応援が来た時だ」「……分かった」 頷いた角田隊員の命令に、残りの3人が1BOXの屋根から降り、張られた針金の向こうまで下がる。「民間人。お前も下がれ!」「先ずはあんたが降りろ!」 叫び返しながら、何の役にも立ってない鉄条網の上からゾンビの頭頂にポールを振り下ろす。「民間人より先に逃げられるか!」「分かった先ず降りろ。そうしたら俺が下がる。いいな?」「……分かった!」 そう言って角田隊員は、もう一発撃ってゾンビの頭を撃ちぬくと1BOXから飛び降りる。 彼が足をくじいたりせずに無事に降りたのを確認してから張られた針金の向こうまで後退する。 直後背後で鳴り響く銃声。流れ弾の被害を恐れてだろう水平発射を避けていた彼らが何故と驚き振り返ると、角田隊員が拳銃を構えゾンビの群れへと銃弾を浴びせかけていた。 威力も貫通力も劣る拳銃なら周囲への被害もないと判断したのだろう。「ところで拳銃って、将校用じゃないの?」 小説か何かの聞きかじりの知識で傍の隊員に話しかける。「この数年は市街地戦用の装備として、我々一般の隊員も訓練で使用しております」「へぇ……」 そんな会話をしていると、拳銃の弾倉の中身を撃ちつくした角田隊員がこちらへと退避してくる。 その後、1分と経たずにバリケードは有刺鉄線を剥ぎ取られ、有刺鉄線を支えるのが役目であった土台はバラバラにされ、その間を通ってゾンビがこちら側へ侵入してきた。「本当にこいつで大丈夫なんだろうな?」 低い位置に張られた針金を心許無げに見つめる角田隊員。「心配するとしたら、倒れたゾンビを撃つ時に間違って針金を撃って切ってしまうことくらいだな……ちょっと後ろの方にも針金張ってくる」 俺が針金を張り第二次防衛線を構築している間も隊員達は転倒したゾンビたちの頭部を次々と撃ち抜いてゆく。 おぼつかない足取りでフラフラと歩くゾンビの頭を車の屋根の上から撃つよりは、地面に倒れたゾンビの頭を立った姿勢で撃つ方が狙いが付けやすいようで、彼らはほとんど無駄弾を撃つことなく効率的にゾンビの頭を撃ち抜いていく。 第二次防衛線が完成した頃には、道を埋め尽くしていたゾンビの群れが目で数えられる程度にまで減り、頭を撃ち抜かれて晒される屍に、もはや針金と関係なく足を取られてゾンビが転倒するようになっていた……別に良いんだよ無駄になったって。 すると交差点の南東方向の道からエンジン音とタイヤがアスファルトを鳴らす音が響き、82式指揮通信車と3台の軍用トラックが姿を現す。 そして交差点手前で停車したトラックの荷台から次々と野戦服姿の自衛隊員が降り立ちバリケードに駆け寄って行った。「田中二曹!」 82式指揮通信車から降り立った佐藤1等陸曹が角田隊員に声をかける。「田中……意外に普通な名前だ」 2人の現状確認の会話を聞き流しながら、結局無駄になった針金を人目に付かない様にこっそりと一人片付けている。 作業中の俺の背後で銃声が何発か響いた後に、どうやらバリケードを襲撃してきたゾンビの群れは全滅したようだった。「まあ、なんだ……無駄になってよかったじゃないか」 角田隊員……もとい、田中2等陸曹が不器用な気遣いをみせつつ俺を慰めるが、その気遣いがむしろ俺を傷つける。