スポーツセンターの周辺にゾンビの姿は少なかった。 現在、市街地から離れた南東部の畑にゾンビ埋め立て用の大掛かりな穴を掘る工事が進んでおり、同時に市街地のゾンビを少しずつそちらへと誘導している為らしい。 昨日の午前中でゾンビの爆発的増大は収まっており、その時点での街中を彷徨うゾンビの数は最大で2000体強と推測されていた。 先日の1200体と今回の穴埋め目標の500体。そして既に駆除されたゾンビの数を合わせると、残りのゾンビの数は100-200体程度となる。 明日の穴埋め作業が終われば数日以内に街中からのゾンビ駆除は終了するはずだ。後は民家内部に存在するゾンビの駆除となる。 だからこそスポーツセンターの外回りの強化は至急必要だ。現在、避難所や自宅に待機している市民が自由に外を歩けるようになった時に何が起こるか。 馬鹿な話だが、現実を受け入れられない人間は家族を返せとセンターの封鎖を解こうとする可能性だってある。 ゾンビを倒すということは、対等な戦いではなく単なる作業であるべきだ。 1対1ならゾンビ相手に遅れをとる事は無い。 注意すべきは奴らの強力な腕力のみ、それ以外は人間が全ての面で上回る。 近づいて来たゾンビの背後に素早く回り込み──素早く動かなくても十分に背後は取れる──後ろから突き飛ばしうつ伏せに倒れたゾンビの首を体重をかけて踏み抜く。 運悪く仰向けに倒れたならゾンビが立ち上がるのを待ち、再びトライするだけの完全な作業。ゾンビにこちらを取り囲むだけの数がなければ、怖いのは己の油断だけ。 それでもなお安全に作業を行うために、俺達は3人ずつのゾンビ駆除チーム作った。 山中さんが手配してくれた12人と俺と島本さん矢上君の15人で5チームを作り、文月さん山中さん原警部補の3人にはRV車を3台周囲に配置しルーフ上から周囲の監視してもらった。 周辺のゾンビの駆除が終わると、守るべき範囲の決定とその周囲へのバリケードの設置──と言ってもゾンビの足元をすくう為の高さ30cmにロープを巡らせるだけだが、それを3重に張り巡らせることでゾンビはロープに引っかかる度に転倒し、接近するのに時間を掛けるだけでなく駆除チームにとっては転倒したゾンビの方が処理が楽であった。 バリケードの設置が終了し工務店チームが作業に入ると、俺達は比較的手が空くようになる。 車を1台増やし4台体制にして監視を厚くする一方で、肉体的以上に精神的にキツイ駆除チームを4チームに減らし2チーム毎の1時間交代制にした。 ゾンビの数が少なくなったから出来た事だが、もしも全チームであたらなければならない状況なら計画の変更が必要だった。 午後5時過ぎ、2回目の休憩に入った俺がセンターの傍に戻ると地震対策などでコンクリート構造体の強化などに使われる炭素繊維シートを外壁に貼り付ける作業が行われていた。 その時、突然風向きが変わり風下に入ってしまった俺は接着剤を溶かすための溶剤の揮発成分を吸い込み激しく咳き込むと酩酊感が襲ってきて、その場に倒れてしまった。「おいっ!大丈夫か北路!」 俺の両肩を掴んで身体を揺り動かす強い力に目を覚ますと眼前に原警部補の顔があった。「……顔、怖いから、近づけないでください」 軽い酩酊状態にある頭でぼんやりとしていたために、つい本音を漏らすと、次の瞬間後頭部に激痛が走る。原警部補が抱き起こしていた手を離したのだ。「で、お前いったいどうしたんだ?」 頭を抑えながら上半身を起こす俺に、真剣な表情で尋ねてくる。「どうしたと言われても、立ちくらみを起こして倒れたとしか……」「持病か何かか?」「疲れが溜まってたんですよ。昨晩はよく眠れなかったし、その前も朝早くに家を出て深夜まで自転車で走り通しの上に道端でテント泊だったから」「……そうか、すまない。無理させちまって」「やめてくださいよ。どうせこの作業が終わるまでは皆で無理しなきゃいけないんだし」 深々と頭を下げる原警部補に居心地の悪さを覚えて、俺は笑って見せた。 富良野スポーツセンターの作業は3日にわたり続けられた。 玄関部分は、まず入り口を塞ぐマイクロバスとガラス戸の間に鉄骨を差し込み、外壁にアンカーボルトを打ち込んで固定していく作業を繰り返し十分すぎる強度で仮固定を済ました上で、マイクロバスを移動させ、玄関上部に張り出した雨除けとコンクリート製の土台に金属製のガイドレールを固定し、そこへ重機で板金を差込みガイドレールへボルトで固定し封鎖した。これでたとえ玄関ガラスが割れても厚さ20mmの鉄の板がゾンビの脱出を阻むだろう。 内側から合板で塞いだだけだった窓には、玄関同様20mmの厚さの板金をボルトで固定。 外壁は炭素繊維シートを基礎のみならず外壁まで接着剤で固定し地震対策も整えた。 最後に固定に使った各ボルトを溶接したので、例え一部の市民が暴走しても重機でも持ち出さない限り中のゾンビを開放することは出来なくなった。 そして、作業中に50体以上のゾンビを撃退したが、俺達は1人の犠牲者も出すことなく無事に全作業が終了した。 また、この3日の間に郊外でのゾンビ埋め立て作戦も成功し、富良野市全域におけるゾンビの駆除はほぼ終了。まだ市街地に限定だが安全宣言が出された。 市街地の安全が確認されると富良野高校と警察署周辺一角のバリケードは解体されて、今後のゾンビ対策の主導は警察から市役所・市議会へと移行してゆく。 人々が笑顔で避難所から各々の家に戻っていく中、俺と文月さんには戻る家はなかった。 作業を終えた俺は原警部補に誘われ、警察署内で彼と共に5日ぶりのシャワーを浴びる。 当然、文月さんは別室の女子シャワー室を使っており、久々に傍に彼女が居ないという状況だった。「原さん。文月さんの事を頼めますか?」 この機会に、隣でシャワーを浴びる原警部補にいきなり核心を切り出す。「頼むって……それは良いんだが、お前はどうする気なんだ?」「明日にでも上富良野の駐屯地に行ってみようと思います」「自衛隊か」「いずれにしろ、彼らとの接触はこの町にとっても必要でしょう」 俺の提案に彼は頷く。「だがよ。向こうの状況も分からない。それに俺ら警察には連中と交渉する権限はないぞ」 富良野市としての体制が復活した現在。富良野市の今後を左右しかけない自衛隊との接触を、北海道所管の富良野警察が独自に行うわけには行かない。「俺は札幌から自転車旅行でやってきたただの民間人。安全を求めて自衛隊に接触するのに何の問題がありますか?」「自転車旅行って、自転車で上富良野まで行く気か?」「国道を使わず道道を抜ければゾンビの群れと出くわす危険は少ないですよ」 片側一斜線の道路だが、冬季には除雪した雪が溜まるスペースを考えた広い道幅があり、本州の下手な国道よりも立派だが周囲は農場ばかりで、人口が少なく仮に全ての住人がゾンビ化していても数的脅威に晒されない。「だがな……」「俺は自転車旅行中に騒動に巻き込まれて自衛隊機地に保護を求めるだけ──安心してください。俺は富良野市には立ち寄ってません。桂沢湖でキャンプ中に状況に気付き、岩見沢方面の状況を知って東に向かって避難し、上富良野を目指したという設定です。だから、この町の情報は向こうに一切伝えませんよ」「向こうの情報は手に入れるが、こちらの情報は伝えないって事か」「警察無線を貸してもらえればリアルタイムで情報を流せますよ」「そいつはありがたいが……」「明日の朝に発ちます。文月さんには警部補から伝えてもらえないでしょうか?」 原警部補の言葉を遮り決定事項として自分の意思を伝える。ついでに面倒事も押し付けた。「ちょっと待て、嬢ちゃんに何も言わずに出て行く気か?」「文月さんのこと頼みましたよね?」 彼には色々と含むところがあったので、してやったりと顔の右側だけで笑ってみせる。「この後俺が嬢ちゃんに、このことを伝えたらどうする気だ?」「警部補が?まさか」 彼の下手糞なはったりを鼻で笑う。「分かってるでしょ。今回は文月さんを連れて行くわけにはいかない事くらい」 原警部補も文月さんが俺に着いて行くのは反対なのは明白。その彼が文月さんに話すはずがない。「おいっ本気だぞ!」「よろしく警部補」 そう言ってお先にシャワー室を後にした。「北路さん!」 シャワー室を出て着替え終えた俺が、待合室で明日の事を考えていると、入り口の向こう文月さんが現れる。 ジーンズとスウェットを着替え、今は膝丈のプリーツ入りのスカートとVネックのプリントTシャツ。その上に花のプリントが入った丈の短いボレロシャツ。全体的に白を基調とし、上品にまとまっていて、可憐という言葉が頭に浮かぶ。 俺を見つけただけで嬉しそうに笑顔を向けてくる彼女に、湧き上がる罪悪感が心臓を締め上げてくる。「お待たせしました……」 ベンチに座る俺の前に立つと、はにかみながら何か期待するような目を向けてくる。 彼女が何を期待しているのか分からないほど鈍感ではないが、色んな意味で下手なことは言えない。 期待に沿わない言葉も、その気もないのに期待に沿いすぎた言葉も駄目だ。 前者が「(どうでも)良いんじゃない?」なら、後者は「可愛いね」だろう。 この場合は「似合っているよ」か、今まで服装とのギャップを考えて「見違えたよ」くらいが正解な気がする。 ここはやはり無難に……「似あ……」「ああっ、文月ちゃん着替えたんだ!可愛いね!うん。凄く可愛い!」 山口巡査が乱入してきた。「あ、ありがとうございます」 彼の高すぎるテンションに文月さんは困り顔と笑顔の間で返事を返しつつ、こちらに向ける期待を込めた視線は外さない。 彼女はまだ俺の言葉を待っている──だが彼の乱入のおかげで状況が変わった。 ハードルが上がってしまっている。今では「可愛い」が彼女にかけるべき基準ラインであり、今更「似合ってるよ」では駄目なのだ。 俺を真っ直ぐに見つめる彼女の瞳が、早く答えろと俺に無言のプレッシャーを送り続けている様に感じられる。「……可愛いよ」 悩んだ末に搾り出した言葉が俺の口から出た瞬間。文月さんの顔に笑顔がはじけた。「北路さん。何見惚れてるんです?」 山口巡査が彼女の笑顔に目を奪われた俺のわき腹に肘を入れてくる──かなり本気で抉ってきやがる。「いや別に」 そう言いながら彼の足の先をプレート入りの安全靴の底で踏みにじる。 もし俺が戻って来れなかったら、こいつが彼女に猛然とアタックをかけるのだろうと思うと無性に腹が立ってきた。