玄関扉を開けた3人が階段前の防火扉に向かって走ってくる。「生きた心地しねえよ!」 1着の島本さんが叫びながらくぐり戸を通り、そのまま階段を駆け上がっていく。次に矢上君。そしてやはり最後に原警部補の順だった。「原さんダイエットしましょうよ」「うるせえよ!」「じゃあ、歳のせいですか?」「黙れ!」 からかう和田さんに原警部補が怒鳴り返し、更に矢上君が混ぜ返す。 俺はドアストッパーを外してくぐり戸を閉めた。そして階段を登り、2階の防火壁のくぐり戸を通り抜ける時。1階の防火壁にゾンビの群れが押し寄せたのだろうドーンと大きな音を立てた。 奴らは逃げる原警部補たちの姿も、最後にくぐり戸を閉める俺の姿も見ている。この建物に突入したゾンビの第一陣の現在の目標は間違い無く俺達自身だ。 2階のくぐり戸を閉めても、1階から防火壁を叩くような音が不気味に響き続ける。緊張感に思わずゴクリと喉が鳴る。 スピーカーから鳴り響く、女の子が明るい声で歌うアニメソングが緊張感をぶち壊している様でいて、不気味さを醸し出してもいた。「何だってこんな曲を、あの馬鹿がっ!」 この全館放送の音源の持ち主に原警部補が怒りを募らせているが、今回の場合は山口巡査にはあまり罪は無いと思う。 ロケット花火や手持ちタイプの打ち上げ系の花火が、和田さんたちによって点火され、窓から次々と打ち上げられていく。 窓は1階のアリーナへとスタンドと吹き抜けを通して光を落とし込むために壁の高い場所に設置されていて、和田さんたちはバランスの悪い脚立の上で作業を続け、時折火の粉を顔に被っては悲鳴を上げる。特に矢上君が。 彼らの脚立の足元には、これでもかと大量の花火が積み上げられていて、全てを使い果たすには大変な苦労を伴うだろう。 目の前に四つの大鍋でお湯が沸かされているが、流石に簡単に沸く様子は無い。 俺は別のガスコンロを使ってフライパンに火をかけて油を引く、十分に温まった所にチューブに入ったおろしニンニクをギュッと一絞り、するとニンニクが激しく油跳ねを起こしながら強い臭いを放ち始める。 そこに醤油を一回し流し込めば、匂いだけでご飯が食べられそうな香りが部屋中に広がる。「飯食いてぇぇぇぇっ!」 背後から島本さん悲鳴が上がる。 朝飯にカレーと昼にラーメンを食い、今日この中で一番食事に恵まれている俺でもそう思うくらいなので、他の人たち、特に島本さんはこれから生殺しで地獄を味わうことになるのだ。 俺の横では文月さんが、味噌に砂糖を合わせた物をフライパンの上で、木べら使って伸ばしながら焼き、これまたご飯が欲しくなる香りを上げる。 更にその横では、原警部補が網でスルメいかを焼いていた。今度は酒飲みたくなる。「ちくしょぉぉぉぉぉっ!」 背後では島本さんが身を捩じらせながら花火を打ち上げている。 その甲斐あってゾンビたちが一階のアリーナに続々と集まり出す。 大鍋のお湯が沸くと、カレールウのブロックを投入して、ついでにチューブのおろしニンニクもたっぷり絞り込む。 たちまち部屋中にカレーとニンニクの刺激的な香りが広がり、その臭いを吹き抜けから1階アリーナへと送り込むために4台のサーキュレータを動かす。 するとゾンビは匂いに誘われてアリーナに押しかけ、すぐにその数は100を軽く超えた。背後で「カレー食わせろぉぉぉぉぉっ!」と叫ぶ島本さんの声も100ホーンを軽く超えていただろう。 そんな作業が2時間ほど続くと、1階のアリーナ部分は集まってきたゾンビで隙間無く埋まってしまう。 和田さんら3人は既に花火を打ち上げるのを止めて、撤収の準備に入っている。 まだ鍋のカレーと調味料が残っている俺たちは作業を続行する。 埋め尽くすゾンビに上からカレーを柄杓でかけると、カレー塗れになったゾンビに周囲のゾンビが群がる。 押し合いバランスを崩して転倒したゾンビの上を狙って、カレーを撒き散らすと、別のゾンビが次々と折り重なり山となるが、ゾンビが重なり合って空いたスペースはすぐ押し寄せるゾンビに埋め尽くされた。「そろそろ限界じゃあないですか?」 原警部補に声をかける。「……中に入ったゾンビは1150を超えたって話だが、外に集まってるゾンビもまだ多いそうだ。もっと中にゾンビをおびき寄せろって言ってやがる」 無線で連絡を取りながら原警部補が答える。「もっと?、まだ入るんですか?」 そう俺が聞き返した瞬間。二階の防火壁のあたりでドーンと音が鳴る。「まさか?」 抱えていたカレーの大鍋と柄杓を一階アリーナへと放り投げる。 鍋がゾンビにぶつかった鈍い金属音に続き「おぅぅぅぅぅおおおおっ!」とゾンビたちの一際興奮した呻き声が背後で上がる。 部屋を出て防火壁に駆け寄ると、壁の向こうからは連続的に何かがぶつかる音と聞きなれたゾンビの呻き声がする。「駄目です!一階の防火壁が突破されました!」 そう叫ぶと、奥にあるもう一つの階段を塞ぐ防火壁へと向かうが、こちらは防火壁の向こうにゾンビたちがいる気配は無い。 防火壁自体が破壊されたとは思えない。多分限界を超えて大量にゾンビが詰め掛けたことで何かの拍子にくぐり戸の取っ手に被せた板が剥がされて、更に偶然ノブが回されたのだろう。「こっちは階段は大丈夫です!」 もう一箇所の階段は大丈夫なようだが、そちらも何時破られるかわからない。 そして何より問題なのは2階の防火壁のくぐり戸のノブには蓋をしていない。「和田さん。島本さん。残ったカレーをこちら持ってきて!矢上君はメタルラックの棒を!」 二人が持ってきたカレーを廊下にぶちまけると、廊下と観客室を繋ぐ両開きの扉の取っ手にメタルラックのポールを2本差し込んで閂がわりにする。「これで逃げる時間が稼げれば良いんですけど」 そう言いながら、無線で連絡を取っている原警部補のもとに向かう。「どうでした?」「撤収作業に入る……すぐに山口がマイクロバスで入り口を閉鎖するそうだ」「マイクロバスに乗ってるのって山口巡査だったんですか?」 作戦を聞いて、我々以上に危険を伴う役目だと思っていたが、そんな危険な役を彼がとは──俺は彼を見くびっていた。 マイクロバスに乗り込む俺達を見送りに来た時、何か様子がおかしかったのは、与えられた任務への緊張感だったのだろう。アニメソングが入った携帯プレイヤーを原警部補に取り上げられたためじゃないはずだ。多分。「奴が乗ってる。入り口を閉鎖した後周囲のパトカーがサイレンを鳴らしてセンター周辺のゾンビをここから遠ざけて、その隙にはしご車が駐車場に突入して俺達を回収する」「山口巡査の脱出はどうするんです?」「可能なら俺たちと合流。無理なら──」 突然、窓の外からパトカーのサイレンが一斉に鳴り響く。山口巡査がセンターの玄関を封鎖したのだろう。「急げ、撤収準備だ!」 原警部補の指示に、俺と文月さんは7台のカセットコンロの回収を始める。 火を消して燃料カセットを取り出す。振ってみるとどれもほとんど空だったので本体だけを布製の袋にしまう。 調理に使った鍋やフライパンも当然放置。逃げるのに強い臭いを放つ物は持っていけない。 ただし残った調味料関係は全て回収した。「北路さんサーキュレーターはどうします?」「あっ?回収するよ。ありがとう」 文月さんの指摘にサーキュレーターの事を思い出す。 礼を言うと彼女は、こんな状況だというのを忘れてしまう様な嬉しそうな笑顔を浮かべる。 その時、廊下の向こうで一際大きな音が響く。ついにゾンビが二階の防火壁を突破したようだ。 やはり2階のくぐり扉のノブにも板を被せておくべきだったが今更後悔しても遅い。「はしご車を頼む。急いでくれ!」 無線で必死に指示を出す原警部補の声が響く。 6本のメタルラックのポールの内、自分の分と文月さんが使ってないので余っている1本を手にして扉へと向かう俺を文月さんが止める。「私も手伝います」 強い覚悟を秘めた目で俺を真っ直ぐ見つめてくるが、今回ばかりは自分の考えを曲げるつもりなど毛頭無い。「文月さんは最初に脱出して貰う」「嫌です」「これは俺が生き延びるためだ。もし連中がこの部屋になだれ込んで来たら自分だけならともかく文月さんを守りながらじゃ生き残るのは難しい」「でも……私は」 俺の言うことを理解はしてるんだろうが納得はしてない様子だ。 真面目で芯が強い。これは文月さんの美点でもあるが裏を返せば頑固者だ。 ここでしっかり説得しておかないと後で何かやらかす可能性が高い。 突き放すような言い方から路線変更してアプローチを試みる。「前にも言ったけど、君の身の安全は俺に責任があると思っている。だから俺が先に死んで君を守れなくなるような無責任な真似はしない」 責任感があろうが何を約束しようが、それで死なないなら自殺以外で死ぬ奴は居ないだろうと思いつつも真顔で嘘を吐く。 無理や無茶をすれば死ぬ時は死ぬ。そしてこの場に居ること自体が無理で無茶だ。何か一つ間違えれば命にかかわるのは分かっていたこと。「そのためにも文月さん。先に脱出して欲しい」「……はい。先に行って待ってます」 納得してくれたようだが、何か彼女の様子が……あれ?「じゃあ行くか」 背後から声を掛けられて振り返ると、ポールを手にした和田さんが立っていた。「良いんですか?」「良いも悪いも、あんな話をされて、年下のお前だけに格好付けさせる訳にはいかないだろ。『先に死んで君を守れなくなるような無責任な真似はしない』か、俺が女なら惚れるね」 そう言ってニヤリと笑みを浮かべるが、その顔には血の気が無くポールを持つ手は震えている。多分俺もそうなのだろう……違った意味で。 扉付近で廊下の様子を伺うと、どうやら廊下に撒いたカレーにゾンビたちの興味は集中しているようだ。 背後でエンジン音が聞こえる。「はしご車が着たぞ!助かった!」 はしゃぐ様な矢上君の大声に俺と和田さんは同時に顔を顰めた。「あの馬鹿が」 和田さんが吐き捨てると同時にドンという衝撃が扉に走る。そして扉は外から強い力で押し込まれ閂が刺さった取っ手が軋む。 ゾンビの興味がこちら側に向いていしまったのである。 何せこの部屋は1階部分と吹き抜けで繋がっているため、むしろ色々とぶちまけた物の臭いは1階よりも強く篭っている。 一度興味が向けられれば、機密性の低い両開きの扉から漏れる臭いにゾンビが押し寄せるのは必然だった。 扉の取っ手の隙間で踊る閂代わりのポールが外れないように和田さんと2人で左右から抑えつつ、背中でそれぞれの扉を支える。 しかし、二度三度と繰り返される毎に、ゾンビの数が増えるのだろう背中を圧す力は強くなっていく。「ポールはともかく、取っ手が持ちそうもありませんね」「何とかするしかないだろ」 俺の弱気を、あっさり一蹴する和田さん。全くだと同意するしかない。「北路さん!」 振り返ると、はしご車のバケットに乗り込んだ文月さんと矢上君が荷物と一緒に降りてゆくのが見えたので手を振った。「北路さん……か、和田さんは無いんだな」 名前を呼ばれなかった和田さんが俺をからかう。「可愛い娘だね。お前はどうなんだ?」「子供ですよ。俺とじゃ一回りも違う」「可愛いってのは否定しないんだな」「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」「じゃあ、後でじっくり聞かせてもらうさ」 そう冗談交じりに話しながら、既に背中に掛かる圧力は限界に達し取っ手はネジが緩み今にも壊れそうだった。「和田!北路!次はお前たちだぞ!」 そう叫びながら原警部補と島本さんが乗ったバケットで降りて行くと同時に、扉の取っ手が音を立てて外れた。 俺は勢いよく開いた扉に跳ね飛ばされて床に固定された座席に背中を強打する。 一瞬息がつまり咳き込む俺の目に、扉の向こうから雪崩れ込んでくるゾンビたちの姿が映る。 和田さんの姿が雪崩れ込んできたゾンビの壁に遮られて見えない。「和田さん!」 背中の痛みを堪えて立ち上がり、ゾンビ達の向こう側に居る和田さんに声を掛ける。「逃げろ北路!」 俺の呼ぶ声に和田さんの叫ぶ声が返ってきた。「無事ですか?」「……無事だ!」 その言葉に安心し俺は窓の方を一瞬見やる。しかしバケットはまだ戻ってこない。 座席を盾にするように位置取りし、ポールを構えるがゾンビの数は多い。 迫ってくる一匹のゾンビの顔面に、ビリヤードのマッセを水平した様に目線より高い位置の構えからポールを送り出すと、その先端がゾンビの右目を捉える。 しかし、ゾンビは激しく暴れるだけでその動きを止めない。 右手の握りを持ち替えて思いっきり下に引きおろすと、左手を支点に跳ね上った先端がゾンビの脳を捕らえたのか、一度ビックンと大きく痙攣させると力尽きて床へ沈み込む。 しかし、それはたった一体の事。俺の目の前はゾンビに埋め尽くされていた。「これは駄目かな」 目前に迫る避けられない死を覚悟した時、座席最前列の中央から和田さんの声が上がる。「こっちだ化物ども!」 何処から取り出したのか床置きタイプの小型打ち上げ花火に次々と火を着けて、それをゾンビに向かって投げつけながら最前列を奥へと逃げるが、その歩みは遅く右足を引きずっていた。「逃げろ!北路!俺は足をくじいてもう無理だ。お前だけでも逃げろ!」 俺を取り囲む様に動いていたゾンビは和田さんの投げた花火の音と光へと引き寄せられて行く。 だが和田さんは追い詰められていた。周囲で花火が燃えてるとはいえ、それに火をつけて投げている彼へと少なくないゾンビが向かっている。 和田さんはゾンビ達に追われながら脱出する窓とは反対の吹き抜けの方へと進む。俺を逃がすために反対側にゾンビをおびき寄せているのだ。 そして足を引きずっていた和田さんがついにバランスを崩して転倒した。「和田さん!」「馬鹿野郎!声を出すな!」 思わず声を上げた俺を怒鳴りつけると手にしていた花火をゾンビに投げつけるが、その直後1体のゾンビが和田さん腕を掴んだ。「皆に伝えてくれ!生きろと。生きて必ず町を俺達の世界を取り戻せって!」 俺は声を出さずに黙って頷く。それを見て和田さんは満足そうに笑みを浮かべた。 次の瞬間ゾンビたちは一斉に和田さんに襲い掛かる。 彼は最後まで助けを呼ぶ声は上げなかった。ただ最後に「彼女を守れよ!」と一言残して彼はゾンビの群れの中に消え、真っ赤な血飛沫が吹き上がった。