『京都府神社庁』
日本全国八万余の神社が結集し、設立した宗教法人『神社本庁』の京都支部である。たかが支部と言っても、古都・京都の一千五百超の神社を包括宗教法人として従え、京都支部の更に支部として、府内十九区に二十一箇所の拠点を持つ組織だ。
しかし京都府西京区の松尾駅から二百メートル程離れた松尾大社までの道すがら、その途中に堂々と建つ一風変わった様相の建物が、それ程のものとは思えまい。白い壁に青い斜の屋根の二階建ての建物で、一風、旅館とも公民館とも、神社・仏閣関係の記念館とも見えなくもない。
都内の各省庁舎と較べれば規模は格段に落ちるものの、曲がりなりにも庁舎と名の付く建物の小会議室の一室で、倉橋和泉は分不相応な自身の身分に、居心地の悪さを感じていた。
先日の近衛近右衛門のような、常識や良識や順法の意識が欠落した人の皮を被った『ナニカ』が相手ではない。既に二度面会し、まともな認識力を持つ人物だと判明している。何がしかの決済を迫られる面会でもない。
それでも少々腰が引けてしまうのは、相手の立場故だろう。
「さて……」
そう切り出し、気圧されがちな和泉の意識を浮上させたのは、当の悩みの人物だった。伸ばした黒髪に褐色の肌の、二十代後半とも四十代前半とも取れる年齢不詳な美丈夫だ。礼服を思わせる漆黒のスーツに、緑茶の入った湯呑を口にする様はなかなか様になっている。
「日本との文化交流の一環として、神道について学びたい」
そのような名目でトルコ共和国から訪れたのが、イスタンブル大学で客員講師の肩書きを持つ、デュナミスと自己紹介した目の前の男だ。
「……今週中に面白いイベントが起きると聞いたのだが、それは例の協会と関係があるのかな?」
直截に尋ねてくる男に、和泉は回答に窮した。ちらと視線を横に向け、同席する神社庁の参事に目で助けを求めるも、当人も関心があるのか助け船は出してもらえない。
「……関係あると言えばありますし、無関係と言えば無関係かと……」
結局、どちらともつかない言葉で場を濁してしまう。
男の言う「例の協会」とは、『宗教法人関西呪術協会』の事だ。京都にある神道関係の宗教法人の一つで、京都を含む近畿地方と、大阪府など関西地方の神社と関係を持つ広範な組織である。とは言っても、関係ある全神社を含め、京都府神社庁の傘下神社の総数に遠く及ばない規模だ。
「そういう煮え切らない態度を取らなくても良いと思うがね?」
男は緑茶を一口含むと、湯呑を受け皿に置いた。
「いえ。公務に関しますから」
警察官として知り得た情報は、退職した後も守秘義務がある。
そう指摘すると、男はふむと唸って納得したようだった。公務に関係する出来事があるとの答えが、求めていた回答だったのかもしれない。
「となると、こちらからの内部告発をそれなりに有効利用してもらえた。そう見ても良いか」
「……ノーコメントです」
タヌキとキツネの化かし合いのようなやり取りに、和泉はこの場にいるのが自分一人なのを心底悔いていた。この手の会話は上司の霧香が専門で、自分はこの場面では無口で通す気楽な立場のはずだ。麻帆良学園の学園長のように、一言毎に不快感を醸し出される会話でないのが幸いか。
「そもそも今週何かあるという話、どこから出てきたのですか」
「忘れてもらっては困る。『英雄の息子』が親書を協会に届けると言う話は、こちらからの情報だ」
即答するデュナミスに、紹介だけで面談には一度も出席していない白髪の少年を、和泉は思い出した。男と同様、トルコから短期留学しているフェイトと言う名の学生だ。さすがに大人の会話に子供を入れる訳にもいかないので、十分な面識が持てていないのは仕方がない。
その少年がどういう経緯か、研修生として『関西呪術協会』に加入しているそうだ。協会の内部事情が筒抜けなのは、特に諜報活動をしている訳ではなく、子供の研修生の前でも普通に会話され、緘口令すら敷かれていないかららしい。あくまでデュナミスの説明であり、真偽の確認はしていない。
「そう言えば、そうでしたね……」
この時点で、男と少年が魔法使いだと容易に察せる。
神道の勉強なら神社庁が本道だし、専門の教育機関として神社本庁が指定する学校法人の『國學院(こくがくいん)』も日本に八校ある。勉学のための選択肢としてはこちらが順当だ。本道から外れた感が強く、名前負けしている『関西呪術協会』に、好き好んで勉学のために加入しようとするのは、近衛近右衛門からの情報を真に受け、西日本の最大勢力と誤認した魔法使い程度のものだ。
「そういう事だ」
デュナミスは頷くと、置いたばかりの湯呑を手に取った。口には付けず、少し手の中で弄ぶ。
『完全なる世界(コズモエンテレケイア)』
魔法使いの世界における二十年前の戦争を、裏で操っていたとされる組織の名前だ。その幹部の一人が、緑茶に変な感慨を抱いているこのデュナミスの正体である……らしい。仮に『魔法使いの国』なる所での凶悪なテロリストで指名手配されていようと、日本国内で指名手配されていない相手を逮捕する根拠や謂れはない。
「そのイベントに参加できないのは残念だ。せめて『立派な魔法使い(マギステル・マギ)』共が慌てふためく様を、特等席から眺めるぐらいしたいものだ」
イベントが京都府警察署による麻帆良学園の生徒の保護なのか、その後に控えている『計画』を指しているのか、和泉に判断は付けられなかった。
いずれにしても、返す言葉は決まっている。
「これは我々警察の仕事ですから、部外者の立ち入りはお断りします。以前にもそうお伝えしたはずですが?」
口調に棘があるのは仕方あるまい。自分達警察官が、ともすれば生死に関わるかもしれない捕り物を『イベント』扱いされて、気分を害さずにいるのは難しい。
「ああ。気を悪くしたら済まない。そのつもりはなかった」
和泉の不快感を読み取ったのだろう、デュナミスは謝罪の言葉を口にすると、視線を緑茶に向けた。
「……実際にこちらに来なければ知りようもなかった事だったな。この緑茶にしてもそうだし、神社本庁も然り、コーテンコーキュージョー、と言ったか? それもあるし、な」
「皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ)です」
和泉が訂正に口を開きかけたところで、神社庁の参事が口を挟んだ。恰幅の良い中年の男で、神道の組織だから袴姿で同席している……という事はなく、仕立ての良さそうな濃灰色のスーツ姿だ。
「明治十五……失礼、グレゴリオ暦一八八二年に、神道の研究と後進の育成のために、皇典講究所は設立されました。そして一九四五年に他の神道関係の機関と合併し、今の神社庁の基礎ともなった訳ですが……」
神社庁の基となったのは、『皇典講究所』の他、『大日本神祇会(だいにほんじんぎかい)』『神宮奉斎会(じんぐうほうさいかい)』の三会だ。
ここぞとばかりに歴史を開陳し始めた参事に、和泉は心持ち眉をひそめ、話を振ったデュナミスに、小さく恨みがましい目を向けた。
「当時の明治政府の迷走ぶりの凄まじさは、富国強兵の名目の元、西洋文化の行きすぎた受け入れで、廃仏毀釈運動が盛んになってしまった史実まであります」
その混乱期にあって、飛鳥時代の七世紀に設置され、陰ひなたに日本を支えていた『陰陽寮』は、明治三年の一八七〇年に廃止されている。西洋文化の取り込みに反対する勢力の筆頭と見なされた事、臣下でありながら皇族の儀式に口出しをする等、天皇親政の弊害であった事など、理由は幾つかある。
「麻帆良を拠点とする魔法使い、いわゆる西洋魔法使いが地盤を築けたのは、政府と陰陽寮の不和も大きかったのでしょう」
陰陽寮と術師の政治からの排斥による戦力低下の補充に、西洋魔法使いの力を当てにしていたのもあろう。実際のところ、魔法使いは魔法使いのルールで動き、新政府の期待通りの働きをしなかった。それが明治・大正・昭和・平成と一世紀を経て、今なお陰陽術師と魔法使いの折り合いの悪い理由の一旦となっているのは、否定のしようがない。
反面、天皇を頂点とする新政府の示しとして、神道は重用される事になるも、順風満帆とは言い難い迷走ぶりを発揮している。
『陰陽寮』廃止の翌年には、神祇の祭祀と行政を執り行う『神祇省(じんぎしょう)』が設立され、僅か半年後に『教部省(きょうぶしょう)』に改称、六年後に廃止の有様だ。この『教部省』では、布教と退魔の実働部隊として『教導職』を抱えていたものの、元々が無給無官の官吏だった事もあり、『教部省』が廃止されてから五年後に撤廃され、政府の手元に残っていた僅かな陰陽師を、引き留める手立てもないまま在野に下らせる結果となっている。
設立・改称・異動・解体・廃止・再び設立と繰り返した結果、今後の身の振り方に危機感を抱いた宗教人や陰陽師が、政府とは無関係の組織を設立し、自己の保全を目指したのは、自然な成り行きである。結果として、自称「正当な流れを汲む」組織が乱立したのも、また当然と言えよう。
「その中でも顕著だったのが、当時は学問だった陰陽道に宗教の皮を被せ、神道の一系統に見せかけた方法でしょうか。昨今のフィクションで登場する陰陽師が、このイメージに近いですね」
『関西呪術協会』の元となった組織もこの時に発足したようですと、参事はお茶で喉を潤しつつ付け加えた。
そんな市井に流れた、あるいは以前から市井の陰陽師らの取り締りに、『天社禁止令』が発せられかけたのは、『教部省』の廃止された翌年の一八七二年の事だ。これにより、『教導職』にない術師による陰陽道の流布は、表向き完全に封じられた。
そこを掬い上げたのが、当初の見込みほどに成果を上げられずに廃止された『教部省』に代わり、内務省に設置された『社寺局』である。神社・寺院・天理教等この時期に発足した新宗教も含めた全ての宗教関係の行政を司ったこの部署は、神職の養成を目的に民間に『皇典講究所』を設立すると、有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみや・たかひとしんのう)を初代総帥に据え、その威光を借りて市井の術師、陰陽師の窓口としたのだ。
『陰陽寮』廃止から、実に十二年が経過しての事だ。
「以来、総帥を皇族の御系類、または元皇族が勤められるのは、『神社本庁』となってからも変わっていません。事実、現在の総帥は陛下の御妹様が勤めておられます」
一般公開用の神社庁のパンフレットを持ち出し、一般『非』公開の情報も織り交ぜて延々と語る参事も、さすがにここで一息ついた。
その隙を、己の失策を痛感したデュナミスが突いた。
「あー、済まない。神社庁の詳しい来歴については今度にして、今は例の団体について、確認したいのだが」
話の腰を折られたにも関わらず、参事は気を悪くした風も見せず、湯呑みに残った緑茶を飲み干した。
「『関西呪術協会』ですか……。現状なら、そちらの方が詳しいのではないですか?」
競合団体の言葉では、仮に友好的な表現で語ったとしても、何がしかのバイアスが混じるかもしれない。そういう響きが口調には含まれていた。
「いや。こちらの内部告発から、神社庁がどう対応するのか、教えられる範囲で教えてほしい」
麻帆良学園の魔法使い組織『関東魔法協会』が、日本の東西の融和を目的にネギ少年を特使に仕立て、親書を『関西呪術協会』に届ける。これはフェイト少年から伝えられた報だ。
デュナミスが軽く頭を左右に振って参事の懸念を否定すると、参事も頭を横に振った。
「……何もしません」
「何も?」
回答が意外だったのか、オウム返しに聞き返すデュナミスだ。
「やくざや暴力団や魔法使いじゃあるまいし、よその団体のやる事が気に入らないからと、暴力沙汰を起こしてどうするんですか」
さり気なく魔法使いへの隔意を滲ませた参事に、デュナミスは一瞬言葉を詰まらせると、和泉へと視線を向けた。
「警察は民事不介入が原則です。民間の一宗教団体がどこの組織に身売りしようが吸収されようが、警察の関与する話ではありません」
和泉の返答も冷ややかなものだ。
デュナミスの反応から、言外に隠されたメッセージを受け取れなかったのだとの想像は容易く、参事は一呼吸置いてから補足した。
「まあ、違法行為しているのを見かけたら通報しますけれど、取り締まるのは警察の仕事ですしね」
これで意図は伝わったのか、デュナミスは成る程と頷いた。
神社庁が動かなくとも、交流のある組織や個人が、『関西呪術協会』をそれとなく観察しているという意味だ。何事か異常が起きれば、すぐさま警察に連絡を入れる手筈になっているのだろう。
「通報や令状があればともかく、子供がお使いで運ぶ手紙程度で、警察が保護のために動く事はありません。それに私が所属するのは警視庁です」
二人の視線が向けられると、和泉は少し口早に先程の言葉を繰り返した。
そうは言っても、土地勘のない異国の京都で、行った事もない場所、会った事もない人物へ手紙を届けるお使い。九歳の子供に課すハードルとしては少々高すぎる。
そのような歳の子供が、大人の同伴なく街中をふらふらしていれば、外国人と言うのもあり、迷子か家出と判断されて警察官か補導員に保護されるだろう。されない方が京都府としては問題だ。
事実、ネギ少年らの保護は二十六日を予定していても、それまでに問題行動が見られれば、即時対応する手筈になっている。迷子で街中をさ迷うのも、その可能性の一つだ。
「『関西呪術協会』が麻帆良の軍門に下れば、そちらとしても困った事になるのではないか?」
融和とはあくまで名目で、その本質は『関西呪術協会』を『関東魔法協会』の傘下に収める身売りである。
これがデュナミスや霧香、神社庁の共通した見解だ。
さりとて、たかが一団体を吸収合併したところで、他の団体や組織への強制力が得られるはずもない。ましてや『神社本庁』の規模を前にすれば、『関西呪術協会』など吹けば飛んでしまう一族組織でしかない。
そんな組織に期待されているのは、当然ながら組織力ではなく、『関西』と冠した名にある。日本を知らない魔法使い達には、西が東に屈したと、『関東魔法協会』が日本を獲ったと、映るだろう。デュナミスとフェイトが来日し、『神社本庁』や他の組織の存在を知るまで、誤解した危機感を抱いたように。
「関西呪術協会と、ネギ・スプリングフィールドの将来の脅威度の調査」
これがデュナミス達の来日した理由だ。
とは言え、蓋を開けて見れば『関西呪術協会』の規模は脅威とならず、ネギ少年に関しても、警察に保護されず無事に協会に辿り着けるかどうか怪しいものだ。
全ては『英雄の息子』のネギ少年に次代の英雄として箔を付けさせるため。
否、次代の英雄を見出し、抜擢し、導いた偉人として、またネギ少年のもたらす利益を己の功績とし、近衛近右衛門自らの経歴を飾り、さん然と輝かせるため。
そうでもなければ、いかに『関東魔法協会』が近衛近右衛門の私兵団で、『関西呪術協会』が生家だとしても、こうも固執する理由がない。
「まあ、あちらの内部は目茶目茶になるでしょうね。いえ、今でも組織をまとめ切れずに脱会者が相次いでいますか」
京都府における神社の総数は一千八百を少し下回る。その内の一千五百社と少々が『京都府神社庁』の傘下で、九十社弱が『神社本教』、どちらにも属さない五十程の神社は、単立の宗教法人として存在している。
『関西呪術協会』は名前の通り、単立の神社を多数取りまとめている『協会』に過ぎず、神社庁のように被包括宗教法人として傘下に収めている訳でもない。今回の件で、協会の方針に同意できずに脱会する神社や陰陽師らの数は加速している。
ましてや、いかに一族組織の規模であれ法人格を有している以上、役員会というものは存在する。その役員会において、協会の方針として関東との講和の拒否を明言しているのに対し、協会長が独断で組織を身売り――最低でも組織の方針変更――を決めているのだから、特別背任を問われる行為だ。組織内が荒れるのは想像に難くない。
「それでは、こちらから提供した情報の価値が……」
「それはそれで、有効に活用させてもらっていますよ。……多分、警察が」
やや呆然とした感のデュナミスに同情したか、参事は慌て気味に最後の一言を付け足すと、こちらも視線を和泉に投げかけてきた。
「……ですから、私の所属は警視庁です。京都府警が今後どう動くか知りませんし、知っていても教えられません」
すげなく和泉は返し、温くなった緑茶を一口すすった。
無論、二十六日に予定されている保護計画が特殊資料整理室の立案なだけに、京都府本部警察署で行う一部修正を除けば、大まかな流れは把握している。
それによれば、資料室の出番は霧香の解説で終わり、後は二人の少年少女が無事保護されるのを確認するだけだ。その時の主役は京都府警で、資料室に出張る機会はない。かろうじて、麻帆良で和泉達四人を襲撃した辻斬りが修学旅行に紛れていれば、彼女の身柄の確保も加わると言うところか。
「それはそうと、検察の知り合いからの話ですが……」
一、二分の間、和泉が口を開くのを待っていた参事だが、待っても無駄と判断したのか、新しい話題を振った。
「……二十年前、ある事件が例の協会絡みでありましてね。この最近になり、ようやく日の目を迎えられそうだと……」
この場で持ち出すからには、千草の両親が死亡した魔法世界での戦争の事だろう。
デュナミスもそちらへ興味が移ったのか、姿勢を変えて身を乗り出した。
「良いのですか、検察の話を持ち出して?」
検察もそれなりに動いているのは、上司の行動範囲から和泉も予想していた。さすがに所属が異なるため詳細は把握していないし、守秘義務が絡み霧香からも説明を受けていない。その話が神社庁の片隅で語られて良いものなのかと、一応釘は刺しておく。
「ああ。心配には及びません。二〇〇三年の現時点では、公訴時効が成立している事件ですから。ただ、今回の例の少年がお使いで届けに来る手紙、あれ次第で、時効が無効になる可能性が出てきましたから、それで」
参事の説明に和泉は眉根を寄せた。
『関西呪術協会』の会長、近衛詠春(このえ・えいしゅん)と麻帆良学園の近衛近右衛門とは、名字からも伺えるように、義理ながら親子関係にある。『関東魔法協会』の魔法使いが検挙されれば、『関西呪術協会』にも関連組織の疑いで捜査の手が伸びる可能性は、決して低くはない。
そこに当時の被害者や遺族から提供される証拠、そして現場から押収される証拠が加われば、事件は継続中となり、時効の無効化も狙えるかもしれない。
そういう流れを期待しているのだろう。
ただし大きな誤解もある。
公訴時効の成立した事件の捜査の再開は、新たな証拠が出てきたとしても、まず期待できないのが実情だ。警察官になって五年前後の経験と知識になる和泉でも、捜査の再開された時効切れ事件は寡聞にして耳にした事がない。
「仮に今回が無駄になったとしても、再来年、二〇〇五年一月から改正される公訴時効延長の利用も検討しているようです」
二〇〇三年現在、殺人罪や外患罪など死刑に当たる罪の公訴時効は十五年だ。二十年前の『関西呪術協会』の陰陽師が多数死傷した事件は、参事が述べたように時効が成立してしまっている。
二〇〇五年を目処に改正が検討されている内容では、時効は二十五年に延長となる予定だ。これにより二年後の二〇〇五年には事件から二十二年、ぎりぎり時効の範囲内に収まる。
以前に煮え湯を飲まされた遺族らが奮起するのも頷けよう。
「勿論、一度時効になった事件が、時効延長が理由で再開されないのは十分承知しています」
参事が誤解していると言うのは、和泉の思い込みだったようだ。
刑法の解釈によっては、時効延長の法律改正で、時効となった事件も再捜査の対象にできる可能性はある。あくまで可能性の話であり、和泉の知る範囲で前例のない事を鑑みるに、実現の機会は極めて低いものではあるが。
「だからこそ、警察の人達には色々と期待しているのですよ、こちらは」
神社庁としてか個人としてかの明言をしなくとも、参事の瞳の奥に燻る暗い陰りは見誤るべくもない。
「ほう、迂闊に動けば即逮捕、動かなくても時間の問題。二段構えの備えか。これは期待できそうだな」
面白そうだと言いたげに、デュナミスは喉の奥で笑いを漏らした。
「……何度も言いますけれど、私の所属は警視庁です。京都での出来事には関与できませんし、何か計画があるとしても関知するところではありません。まして、部外者に口外する事も出来ません」
四度目の説明を繰り返しながら、中途半端な期待を抱かせた検察に、和泉は内心で恨み事を呟いた。
二十年前の千草の両親が死亡した事件は、経緯はともかく、国外で発生した事件だ。しかも日本と公式な国交がなく、紛争地帯どころか戦場となっていた国での話である。
協会からの命令とは言え、当然拒否権はあっただろうし、危険を知らずに向かったとも考えられない。あくまで自己責任であり、恨み辛みを並べ立てるのであれば、その対象は自分達に向けるか、せいぜい許容されるのは戦争を行っていた国に対してだろう。魔法使い全体や協会への反発は、それこそ逆恨みの領域だ。
千草に面と向かって言えない和泉の本音に近い部分である。
人道的な意味では協会も責任があるにしても、刑事的な意味で事件として取り上げる事は叶わない。それは二十年前も現在も、二〇〇五年の法律改正があっても変わらない。髪の毛一筋程の可能性として、時効の成立した事件の再捜査ができるようになっても、そもそも日本の法律で手出しできる懸案ですらないのだ。
「……頭の痛い話ですね……」
二十年前の事件を俎上に載せるのは、おそらく不可能に近いだろう。
この推測が正しい場合、期待に胸を膨らませる参事の失望が見えてしまうだけに、聞かなくても良い話を聞いてしまったと、和泉は密かに後悔した。
◎参考資料◎
・あおたけ掲示板『京都府神社界の動向 ~神社本庁と神社本教~』2005年7月15日
・京都府神社庁『京都府神社庁とは』
・神社本庁
・総務省法令データ提供システム『宗教法人法』
・西野神社 社務日誌『神社庁』2006年6月25日
・西野神社 社務日誌『神社本庁』2005年10月18日
・西野神社 社務日誌『神社本庁以外の神社神道の包括団体』2006年6月25日
・森本昭夫『公訴時効の見直しについての遡及適用~「逃げ得を許さない」ための異例の策~』立法と調査、2010年6月No.305
・Wikipedia『足利事件』
・Wikipedia『陰陽師』
・Wikipedia『陰陽寮』
・Wikipedia『教導職』
・Wikipedia『教部省』
・Wikipedia『公訴時効』
・Wikipedia『皇典講究所』
・Wikipedia『國學院』
・Wikipedia『社寺局』
・Wikipedia『神祇省』
・Wikipedia『神社本教』
・Wikipedia『単立』