「……え?」
ギュッ。
そう、無意識に振られる桜咲の白い翼を握る者がいた。
考え込んでいるうちに誰かが来た、誰かに翼を見られた。そう思った桜咲は顔を青ざめさせながらも急いで振り返る。
無意識に何時も肩からぶら下げている竹刀袋の口を解き、鞘を持ち。いつでも刀を抜ける状態で振り返った桜咲の視界、そこに、いたのは。
「長谷川……さん……!?」
ベットの上で上半身を起こし、翼を掴み、桜咲をじっと見つめる――千雨だった。
「は、長谷川さん! 目が覚めたんですか!?」
「あー……、なんだ、桜咲さんか。お前も関係者なのな。っつーかこの羽は何だ? 自前か?」
千雨は眠そうに目をコシコシと擦りながら、もう片方の手で桜咲の翼を掴んだままそう話す。
その様子を見た桜咲は言葉を発することが出来ず、竹刀袋を掴んでいた手を離してただただ呆然と千雨を見続けた。
ガチャリ、と。そう音を立てて床に落ちた竹刀袋を見て、呆けた様子で桜咲が自身を見つめていることに気付いた千雨。
「ん? ……なんだ、どこか変か?」
寝癖でもついてるか? そう言い眼鏡を外して手探りで自分の髪をチェックし始める。その様子におかしな所は無く、間違いなくはっきりと目が覚めている。
魔法関係者の落ち度によって過度のストレスを与えられ、それから逃れるために眠りについていた千雨が。その千雨が、起きた。
更に桜咲は先ほどまで想像していた千雨の苦悩が、ストレスが、眠りから目が醒める程度には解消されたと思い、それを喜び。徐々にその目が潤んでいき。
「とりあえず顔洗って……って、うお!?」
「長谷川さん! よかった、目が覚めて本当に良かった……!」
思わずといった体で千雨に抱きつく桜咲。そして抱きつかれた千雨は何も出来ず、だらりと腕を下げたまま困ったような表情だ。
数十秒そうしていたが、千雨へ抱きついたまま何気なく目を開けた桜咲の目に、いまだ眠り続けるシャークティが飛び込んでくる。
千雨の目が覚めれば、夢が終わればシャークティの目が覚める。そう聞いていた桜咲だが、シャークティが目を覚まさないことに気付きあわてて千雨から距離を取った。
「は、長谷川さん! シャークティ先生は?」
されるがままになっていた千雨だが、桜咲のその言葉を聴きシャークティへと向き直る。
そこには先ほどと何も変わらない、まるで彫像のようにピクリとも動かず眠るシャークティがいた。もちろん胸は微かに上下しているが。
それを見た千雨は何やら口元を動かすも、そこから発せられる音が誰かの耳へと入ることは無く。改めて桜咲へと向き直ると続けて言う。
「ほっときゃそのうち起きるだろ。」
そ、そうでしょうか? そう、刹那は困惑しながらも千雨の言葉を信用する。そして――
「……」
「……」
2人は見詰め合ったまま黙り込む。元々言葉数が多いわけじゃない2人、しかも共通の話題も無ければ、特に親しかったわけでも無く。これが1年や2年寝ていたのなら皆の話や心配の様子を話そうものだが、基本的に千雨の件は秘匿されてた。さらに約2日半という意外に短い時間で目を覚ましただけに、なかなか言葉が見つからない。
桜咲は先ほど抱きついてしまっているだけに、尚更2人の間には気まずい空気が流れ出す。
そして、とうとう桜咲は。
「が、学園長に連絡しますね!」
「え? あ、おう。」
顔を赤くして、翼を消して携帯電話を取り出し、千雨と対面している状況から逃げたのだった。
「学園長! 長谷川さんが目を覚ましました!」
『な、なんじゃと!? 直ぐに向かう!!』
一旦千雨の部屋から出て廊下で電話をする桜咲。
しかし、学園長に千雨が起きたことを話すと直ぐに今から向かうと言い通話を切られてしまった。
千雨の目が覚めたことはもちろん嬉しいが、しかし桜咲は何を話して良いか、また千雨がどこまで把握しているのかが判らず困惑するしかない。増してや翼まで見られていることが混乱に拍車をかける。学園長が来るまでは恐らく2-3分程度、それまで何を話そうかと混乱しきった頭で考えていた時、ふと視界の端で千雨が立ち上がり玄関へと向かってきているのに気がついた。
千雨の姿を一般生徒に見せてもよいか、そんな危惧を感じすかさず廊下を確認する桜咲。夜も遅いことが手伝いとりあえず廊下に人気は無く、生徒は居ないようだ。
そうして少しだけ安心し、再度千雨の方へと向き直った桜咲だが。
「あ、危ないですよ!?」
千雨はまるで暗闇を手探りで歩く人物のように、左手を壁につけ、右手を前に出して慎重に歩きながら、宙を掻きながら廊下へと向かっている。しかし千雨の部屋こそ電気がついていないが、廊下は十分に明るく光源が足りないようには感じない。
桜咲は首をかしげながらも、廊下から扉枠を通って部屋へと入り、千雨へと歩み寄った。
「うわ!? っと、こ、ここか。」
「長谷川さん……?」
千雨は桜咲が部屋へと入った瞬間、大げさなまでに驚いた。何かそこまで驚く要素が有っただろうかと桜咲が首をかしげていると、なんでもない、と言いベットへと戻っていく。
そして。
「なぁ、桜咲さん。ここは、麻帆良なんだよね?」
「え? あ、はい。夢じゃ、無いですよ。」
そういい、千雨へと笑いかける桜咲。
「そっか。やっと――来れたんだ。」
千雨はそう言うと、俯き、黙り込んで自分の手を見つめだした。
桜咲からはその表情をうかがい知る事は出来ず、声をかけることも憚られ。
2人はそのまま沈黙し、ただ時間だけが過ぎていった。
「長谷川君!!」
「はせへぷぁっ!?」
2分ほどした後、学園長より先にガンドルフィーニと、その肩に乗ったエヴァンジェリンが千雨の部屋へと到着した。
いや、千雨の部屋へと入ったのはガンドルフィーニのみで、その背が茶々丸より高いために何時もより高い位置にいたエヴァンジェリンは、扉枠に引っかかって廊下へと落とされていたが。
ガンドルフィーニは部屋へと入りベットに腰掛け座っている千雨を見た瞬間、廊下で転がっているエヴァンジェリンの様子等気にも留めず千雨の元へと走り寄りその手を取る。
「長谷川君! 目が覚めたのか!? もう大丈夫なのかい!?」
「え、え? えーっと、大丈夫、ですよ?」
突然知らない大人に手を取られ、名前を呼ばれ詰め寄られて困惑する千雨。しかしガンドルフィーニは千雨が間違いなく起きている事を確認すると、目を潤ませ破顔した。
良かった、良かったと千雨の手を取り上下に振るガンドルフィーニ。そして、その後ろからはエヴァンジェリンが忍び寄り。
「どけ!」
「うお、ちょ、うおおぉぉぉ!?」
エヴァンジェリンが腕を一振りすると、ガンドルフィーニの体が何かに縛られ引っ張られて宙に浮く。その体にはまるで亀の甲羅のように何かが食い込んでいる様子が見て取れた。
桜咲は不思議そうな顔でそれを見つめるが、しかしエヴァンジェリンはそれを一瞥すらせず、フンッと鼻を慣らして千雨の前へと立つ。
そして、千雨の目を見て緩やかに笑みを作る。
「随分な寝坊助じゃないか、ああ?」
「あー……マクダウェルさんか。お前にも世話になったな。」
そう一言会話した後、ん? と、エヴァンジェリンが何かに気付いたように視線を彷徨わせる。天井からぶら下がるガンドルフィーニは極力視界に入れないようにし、部屋の様子を端から端へと見渡す。眠り続けるシャークティ、部屋の隅に立つ桜咲、何も乗っていないデスク、空のクローゼット、部屋の隅の三脚。
それらを一通り見た後、再度千雨へと視線を合わせた。
「おい、茶々丸はどうした?」
「あー、絡繰さんならもう直ぐ来るんじゃないのか? 多分。」
シャークティも起きてないしな、きっと2人一緒に来るんだろう。そう続ける千雨。
しかし千雨が起きたならばシャークティも起き、物品も戻ってくるはず。そう考えていたエヴァンジェリンは納得がいかない様子で腕を組んで首をかしげていたが、そこへ新たな人物が千雨の部屋へと到着した。
「ガンドルフィーニ君……人の趣味はとやかく言わんが、ちょっと生徒の前で行う事じゃないんじゃないかの?」
「が、学園長!? 違います、これはこのエヴァンジェリンが!!」
ふぉふぉ、そうかそうか。そう言いガンドルフィーニの反論を聞き流す学園長。
そのまま千雨の部屋へと入ってきて、ベットへと歩み寄る。そして千雨の前へと到着すると、何も言わずにただ頭を下げた。
「学園長……?」
「すまんかった。全てはわしの責任じゃ。許してくれとは言わん、じゃが恨むならわしを恨んで欲しい。」
頭を下げたままそう言う学園長。千雨はそれを見て困ったような表情のまま何も言わず、エヴァンジェリンは鼻を鳴らして2人を見つめている。
許すとも許さないとも言わない千雨の心境を思い、桜咲とガンドルフィーニは居た堪れない思いで千雨を見つめる。もっともガンドルフィーニは宙に浮いたままだが。
そして、そのまま時間だけが過ぎていくかと思われたが、沈黙に耐え切れずかとうとう千雨が言葉を放つ。
「あ、いや、なんつーか……色々有って、悪いけどちょっと一人で考えさせてくんねーか?」
その後、シャークティが起きない事等はまた翌朝から詳しい調査をすると約束し、学園長、エヴァンジェリン、ガンドルフィーニの3人は学園寮を後にした。
出来れば今すぐにでも調査をしたい先生達だったが、千雨のストレスが原因の一端を担うと思われる以上、千雨の意向は最大限聞く努力をしなければならない、そう判断したためだ。
そして千雨が起きたために、桜咲も千雨の部屋へと張り付くのをやめて自身の部屋へと戻り、明日へ備えている。
「やれやれ、まだ調査せねばならんことはあるが、ひとまず安心じゃわい。総会は行わなくてもいいかの?」
「そ、総会を行うつもりだったのですか!?」
学園長のその言葉を聴き、ガンドルフィーニは驚きを露にする。何十年も麻帆良に居るわけではないが、それでも定例会以外のタイミングで総会を行う、という話を聞くのは初めてのことだった。
エヴァンジェリンは学園長の言葉を聴き、唖然とするガンドルフィーニをチラリと見た後に学園寮を振り返る。
3人が居る場所は寮の反対側のため、千雨の部屋に電気がついているか等といった様子は一切見て取れないが、それでも立ち止まり何かを見るかのように目を凝らす。他の2人はそんなエヴァンジェリンの様子に気付いて立ち止まる。
そして――
「……いや。そうでもなさそうだぞ?」
エヴァンジェリンは、再度学園寮へと歩き出した。
◆学園寮 千雨の部屋◆
再び千雨とシャークティのみとなった室内。千雨はベットへと座り窓の外をじっと見つめている。その目は遥か遠くを見つめ、どこか揺らめいていた。
寮の外からは何の音もせず、耳が痛くなる程の静寂が世界を支配している。空は晴れ、風は無く。動く存在も一切無い。
そんな、良く出来た作り物めいた世界を見つめていた千雨だが。ふと、思い出したかのように振り返り、シャークティを見る。
床に引かれた布団に眠るシャークティ。月光を浴び、微動だにせず、同じく作り物めいた美貌を湛えていて、修道服を着るその姿はひどく神秘的だ。
暫くシャークティを見つめていた千雨だが、やがて立ち上がり、シャークティへと歩み寄る。
そして仰向けになり眠るシャークティを跨ぐ様に立ち、シャークティへと圧し掛かる。
千雨は自らの両手をシャークティの首へと持って行き。優しく、優しく。繊細なガラス細工を掴むかのように、慎重にその首を持つ。褐色で細い首を両の親指と人差し指で囲み、腕を伸ばし、首を起点にして体重をかけ易いように膝立ちになり――
「ねぇ。やっぱり、できないよ……。」
そのまま、止まり。涙を流した。