Graduale - 昇階唱 Ⅱ
あのストリートミュージシャンの歌を聞いてから早1ヵ月。今日も俺は図書館帰りに歌を聴きながら読書をしていた。
あれからほぼ毎日、ストリートミュージシャンの少女は、同じ時間同じ場所で歌っていた。その度になんとなく足を止めて読書をしていたら、そのまま俺の習慣になってしまったのだ。
今日も少女は歌っている。
ギターで奏でる旋律と共に紡がれる切ない歌声。降る雪の様に静かに、そっと心に寄り添う様かのように優しく。歌声は鎮魂歌を紡ぐ。
時期が時期だからだろう。
プラント政府が地球連合に停戦を申し込んでからもうすぐ3ヵ月が経つ。2月のコペルニクスの悲劇を皮切りに始まった今回の戦争は、9月末のヤキン・ドゥーエの戦いを経て終結した。
停戦から早3ヵ月。そろそろ戦場となった場所付近での生存者捜索も打ち切られる時期だ。
生きて帰ってこれた人、死んで帰って来た人、帰ることすらできずに鉄の棺桶の中で真空の宇宙を漂い続けることになった人。
少女は歌う。
傷ついた人の心に寄り添い、帰らぬ人の安寧を祈る歌を。年の変わり目は人々にある種の区切りを齎すだろう。
3ヵ月――
そう、もう3ヵ月も経つのだ。
俺がプラントに来てから。
正確には2ヵ月と少し。
俺は停戦の少し後にプラントに渡たり、10月の中頃にディセンベル生活教練校に入校した。年が明ければ俺はディセンベル生活教練校を修了し、就職活動を開始しなければならない。
一定の期間、ディセンベル生活教練校の寮に住まい、プラント政府からの生活保護を受ける事ができるものの、その間に生計を建てる為にプラントでの職を探さなければならない。
それもまた当然のことなのだ。
大人になるのだから。
なぜならば、プラントの成人年齢は15歳。
数え年で年齢を計算するプラントだと、俺ももうすぐ15歳になる。日本の成人は20歳だったのでいまいち実感がない。
実感がないものの、現実は眼前にあり、逃れる事はできない。
俺を庇護してくれる存在はもういない。
就職活動、成人――
まだまだ先だと思っていたことが一気に押し寄せてくる。
去年の今頃なら、そんなこと、想像もしていなかっただろう。
クリスマスだ!サンタさんが来る!とはしゃぐマユを宥めながら、俺自身もプレゼントに何を買ってもらうか悩んでいた様な気がする。幼馴染と結託して、互いに欲しいものを打合せ実質2本のゲームを手に入れる、という従来の方法が使えなくなったから、如何にマユを誘導するか色々考えていたはずだ。
今思えば、とても幸せで贅沢な悩みだったのだと思う。
思考を手元の本に戻した。
《神は死んだ》
本の中ではそんな言葉が躍っていた。
神などとうの昔に死んでいる。
思わずそう本に反論していた。
はぁ、と溜め息を吐き、本を読み進める。
持ち出せる紙製の本も大分少なくなり、兎に角ページ数と難しそうだという理由でこの本を借りたのだが、全く理解出来ない。それにも拘らず、不思議と読み進めてしまうのは何故だろうか。
データが正しければ、この本は再構築戦争より更に前、少なくとも五百年以上前に書かれた本の筈だ。
しかし、何故か目が離せない。どうして、この本の作者はこんな言葉を文字にして残す程の境地に至ったのだろうか。その背景は、理由は、一体何なのだろうか。読み進めればそれが分かるのだろうか。
ページをめくる。
ページをめくる。
ページを――
?
俺は歌が止まった事に気づいた。
もうそんな時間か、と顔を上げる。
「!?」
思わず目を瞠った。目の前には人の顔。硬直する俺を見て、その人物は小首を傾げ、俺から離れる。
「ねぇ、アナタ。いつも私の歌を聞いてくれてる人、ですよね?」
かけられた言葉に俺は数回瞬くと、よくよく目の前にいる人物を観察した。
そこにいたのはいつもこの場所で歌を歌っているストリートミュージシャンの少女だった。
「え? あ、うん」
取り敢えず頷き、肯定しておく。俺の反応を見て、少女は嬉しそうに笑った。
「やっぱり! いつも私の歌を聞いてくれてありがとう! 私はミーア! ミーア・キャンベル! 歌手の卵よ! あなたは?」
ずいっと再び顔を覗きこまれ、俺はしどろもどろに応える。
「シン…シン・アスカ。ディセンベル生活教練校の生徒だ」
俺の言葉の何が琴線に触れたのかは分からないが、少女―ミーアは目を輝かせて捲し立ててきた。
「生活教練校ってことは、あなた、地上から来た人よね!? ねぇ、地上にはどんな歌があるの? どんな歌手がいて、何のジャンルの人気があるの? 何か歌を知っていたら教えてくれない? 私、もっといろんな歌を知って勉強したいの! あ! ところで、私の歌どうかな? 上手い? 下手? よく聞いていてくれてるから気になって――」
矢継ぎ早に繰り出される質問の数々に、俺は硬直する。すると、俺の反応をどうとったのか、ミーアはすまなさそうに眉を下げた。
「ご、ごめんなさい。私、地上から来た人と話すの初めてで、つい……」
そう肩を落とすミーアを安心させるように、俺は言った。
「気にしないで。ちょっと驚いただけだから。えーと…… うん。君の歌、だっけ?」
俺はミーアが一番気にしているだろう質問を拾ってみる。
どうやら当たったっていたらしく、ミーアはうんうんと頷いた。
その素直で直情的な様子に俺は笑みを零す。
「いい歌だと思うよ。癒し、とはちょっと違うな…… そっと寄り添って傍にいてくれる感じがする。俺は好きだよ」
ここ1ヵ月ミーアの歌を聴き続けた感想を述べる。
きちんとレッスンを積み、更に努力しているのだろう。ミーアが歌う歌のジャンルは幅広く、そのどの歌も高い実力に裏打ちされたものだった。自作であろう曲もなかなか良く、聞いていて安らぐ曲や元気づけられるような曲が多かった。
「聴いていて、心が落ち着く」
俺は素直に抱いた感想を言った。
少なくとも、悪い感想ではないはずなのに、俺が言葉を重ねる度にミーアの表情が暗くなっていく。肩を落とし、ふてくされたようにミーアは言った。
「そんな顔で褒められたって嬉しくないわ」
唇を尖らせ、ミーアは怒っているのか腕を組む。
「そんな顔?」
ミーアの言葉に俺は首を傾げる。
一応、俺は自分で言うのもなんだが、少し微笑みながら言ったつもりだった。小馬鹿にしたように見えたのだろうか?
「無表情よ。さっきから眉一つ動かさないし。淡々と褒められても嬉しくないわ」
「ああ……」
そのことか、と得心した。プラントに来てから他人と深く関わる事が殆どなかったために、すっかり失念していた。
「俺、病気らしいんだ」
ミーアが驚いた様に目を丸める。
その思い描いた通りのリアクションに俺は苦笑した。
「心のなんだけどね」
言葉と共に浮かべたつもりの微笑を、果たして俺の顔は形作っているだろうか。
***
オーブ軍に保護された後、避難船に乗せられ、俺は戦場となったオノゴロ島を離れた。
人でごった返す避難船の中を、俺はぼんやりと眺めていたような気がする。
トダカさんに声をかけられ、こちら側に引き戻された後の事は、正直、よく覚えていない。ただ目の前の光景を瞳に映していただけのような気がする。
誘導されるままに歩き、促されるままに乗船し、人波に乗せられ下船した。
多分、トダカさんが気にかけてくれていなければ、俺はあのまま野垂れ死んでた気がする。
戦闘が一段落した後、トダカさんに促され病院で診察を受け、色々な人に会った後に出された俺に対する結論はこうだった。
【諸々の身体機能に異常なし。ただし、精神的なショックのせいで表情を失っている】
表情筋に異常がないにも関わらず、どうやら俺は、笑ったり怒ったりといった表情を顔が作る事ができていないらしい。
家族を目の前で失った大きな感情の負荷を、心が処理しきれず、一定以上の感情を認識しない様にしている。しかも、認識のラインが著しく低い。枷がかけられた心の不安定さが、表情の欠落となって現れたのではないか。
そんな見解を示された。
特に感慨も抱かず、俺はその結果を受け入れた。
そう診断されたからにはそうなのだろう。俺は普通に笑ったり怒ったりしているつもりなのだけど。
そう言えば、余計に質が悪いと言われた。
でも、心を病んだ人間は俺だけだったわけじゃない。あの戦闘に巻き込まれ、家族を、友人を、失った人は沢山いて、心を病んだ人はその数だけいた。
病院にはそんな人がたくさん来ていた。
俺よりも大人なのに子供の様になってしまっていた人。俺と同じように表情を失っていた子供。聞こえない筈の砲撃音に怯え、唐突にパニックを起こす人。
俺なんて軽度な方だと思う。
よくある戦争がもたらす悲劇の一つ。表情をなくした程度がなんだというのだろう。父さんや母さん、マユは命を亡くしている。
《何も君だけが特別という訳ではない。よくある話しさ。》
そう俺に向かって言ったのは誰だったか。
避難施設の片隅。診察も終わり、日々をぼんやりとすごすだけだった俺に対し、その人は吐き捨てるように言った。
《そこでそうしてるのも君の勝手だろうけど、せっかく拾った命なんだから少しは足掻いてみたらどうだい? 今の君も、吐き気がする位に鬱陶しいよ》
果たしてその言葉は、俺に投げかけられた言葉だったのだろうか。今となっては、その真意を問う事は出来ない。
ただ、ぼんやりとした日々の中、その言葉だけが異様な色彩を放って俺の中に刻み込まれている。
よくある話し。
そう。
よくある話なのだ。
何もかもが。
***
「地上で、家族が、ね……」
一瞬の回想の後、そう言えばミーアは目に見えて慌てて、表情を暗くした。濁した言葉の意味がわかったのだろう。
かける言葉を探すミーアを、宥める様に俺は言った。
「よくある話さ。俺自身、さして不便に感じてないし、気にしてない」
だからミーアも気にしないで欲しい。そう言外に行ってみたものの、やっぱりミーアは気にしたらしい。
「ごめんなさい…その、つらいこと、思い出させちゃって…」
「いいよ。さっきも言ったけど、俺は気にしてないし。ところで、ミーアの歌だけど――」
謝ってくるミーアの言葉を遮り、強引に俺は話を転換する。ここまですれば、きっと乗ってくれるはずだ。
「え…? ええ、そうね。感想、もう一度聞かせてくれない?」
今度はミーアも気付いてくれたらしい。俺が話を変えたがっていることを。だから俺も会話を続ける。
「俺はミーアの歌が好きだよ。なんていうのかな… こう… 寄り添ってくれてる感じがする。心を癒すとかじゃなくて、ただ、傍にいてくれる感じ。…… 曖昧でごめん」
随分と抽象的な感想になってしまった。でも、それがミーアの歌から感じた事だった。
俺の感想に、ミーアは嬉しそうに笑った。
「本当!? 嬉しいわ! 私も人の心に寄り添いたいなって思いながら歌ってるの! きちんと伝わってるのね! 私の想い! ……私程度だと、ラクス様のような人の心を癒す歌なんて歌えないから、せめて寄り添いたいって思って…」
最初は嬉しそうにしていたのに、最後は何故か沈んだ様に、ミーアは肩を落とした。その原因は恐らく、俺の知らない名前のせいだろう。
「ラクス様?」
聞いた事のない名前だった。その人物は有名人なのだろうか?
「え!? 貴方、ラクス様を知らないの!?」
ミーアの反応からして余程の有名人なのだろう。
俺が頷くと、ミーアは少し思案気にしてから首を横に振った。
「そう…」
ミーアは少し俯いた。
「?」
俺は首を傾げた。どうかしたのだろうか。
「ミーア?」
名前を呼んでみる。"ラクス様"を知らない事がそんなにショックだったのだろうか。
ばっ、っとミーアは顔を上げる。
「!」
俺が驚いているのを尻目に、ミーアは振り返り自分の荷物が置いてある所に駆け寄ると、鞄の中身を漁る。そして何かを取り出すと、走って俺の所に戻り、あるモノを俺に差し出した。
「はい! コレ、あげるわ!」
差し出されたのは3枚のディスクだった。
唐突な展開に固まる俺に、ミーアは晴れやかに笑った。
「私の歌が入ったディスク! 実用、保存用、布教用の3枚あげるから、しっかり宣伝してね!」
そう言ったものの、なにか思う所があるのか、ミーアは不安げにしている。
ふと、俺はある事を疑問に思い、ミーアに尋ねた。
「それを受け取ったら、ミーアはもうここでは歌わないのか?」
それなら困る。ディスクでいつでもミーアの歌を聴けるようになるのもいいだろうけど、やっぱり直接聴いた方が良いに決まってる。
そう言ったのが意外だったのか、ミーアは目を丸めた。
「直接、もっと聴きたいの? 私の歌」
ディスクを受け取りながら、俺はミーアの言葉を肯定する。
「ああ」
ミーアは嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑った。
「歌うわ。ここで… もとから、もう暫くいるつもりだったし」
ふわりと下がった目尻。
浮かんだ優しい笑顔が、昔に山で見た、霞草に似ていると思った。
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