Graduale - 昇階唱 ⅩⅤ
「こ、これは……!」
手の中にあるずしりとした重さに、思わず俺は感嘆の言葉をこぼした。
丁寧にラッピングされたトレーの中におわすは、俺が焦がれてやまない牛肉様。いつも買ってるような安物とは比べ物にならない位、適度な厚みと大きさを持った肉の塊。
ラベルにはしっかりとタカマガハラ産と印字され、ラップにはデフォルメされた白い犬のシールがはられている。どこかとぼけた表情をした愛嬌のあるその犬の名はアマ公。タカマガハラにある日本の企業ミズホのマスコットキャラクターだ。
かつていた日本自治区では見慣れたもの。見慣れすぎて意識すらしなくなっていた。だからこそなのだろう。こうしてプラントに来てそのとぼけた姿を見ると、どうしようもない想いが胸に湧き上がる。
その想いを振り払う様に、俺は深く、深く息を吐いた。
「どうしたんだ、シン」
ひょっこりと、ヴィーノが後ろから俺の手元を覗く。恐らく、パックを持ったまま固まって少しも動かない俺を不審に思ったのだろう。
「うわっ! たっけぇ!」
客があまり多くない店内に素っ頓狂にあがるその声はしっかりと響いた。僅かながらも周囲にいる人々が何事かと俺達の方を見てくる。
慌てて俺はヴィーノと一緒に頭を下げた。
俺達は今、プラント政府の認可を得た私営の生鮮食料品店に来ている。
「うわ、ナニコレ。いつもうちで選んでるお肉の倍以上じゃない」
いつの間にか傍に来ていたルナマリアも、俺が持つ牛肉のパックを見てそう言った。
確かに、今俺が手に持つ牛肉は高い。普段の俺なら絶対に買わない。そんな値段だ。
「やっぱそうだよなぁ……」
ルナマリアの言葉にヴィーノが同意し頷いている。
二人に挟まれた俺はというと、なんとも言えない気持ちになり、パックをそっと棚に戻した。
「あれ? いいのか、シン」
不思議そうなヴィーノの言葉に、俺は頷いた。
「せっかくだし、みんなと楽しめるものを買おうと思ってさ」
そう言って俺が手を伸ばしたのは、同じタカマガハラ産でも先程持っていたものよりも安価で量がある方の牛肉パックだ。ぽいぽいといくつか籠に入れる。
「それにしても沢山あるわね…… えーと…… ミソ? ナットー? ショーユ?」
「そういえば、最近は色々な国のプラント産の食べ物見る様になったよなぁ」
興味深げにルナマリアが籠を覗き込んでいる。その横でヴィーノがデュランダル議長様様と頷いている。
「ヴィーノも自炊してるのか?」
口ぶりからして、頻繁に生鮮食品店に出入りしている感じがする。どうなのだろうか。
「いんや。 母さんからのメールの中にさ、配給カタログの中に並ぶ食品の産地がユ二ウス市以外が多くなっていいのやら悪いのやらって感じのがあってさ」
やっぱ、国産がいいし、とヴィーノは肩を竦めた。
その気持ちは確かに俺も良く分かる。
今はプラントに住んでいるけれど、やっぱり俺にとって生まれ育った場所は日本で、時たまどうしようもなく恋しくなるのだ。
食事に関しては特に。特に。
プラントとタカマガハラの関係が良好になってくれて本当によかったと思う。数は少ないけれどこうして、時々日本の食品が店に並ぶようになってくれたのは嬉しい。
「ねぇ、シン。このカツオブシって何? どんな料理に使うの?」
籠の中身を見聞していたルナマリアが、鰹節片手に尋ねて来る。
「ルナって料理するのか?」
俺の素朴な疑問は、足を思いっきり踏みつけられることにより黙殺された。
*
宇宙空間に在るプラントでは、大地の産物であるものの、ありとあらゆるものの入手が困難だ。
いや、水や空気はともかく、穀類を筆頭とした農産物は生産しようと思えば生産できる。なにせ、「プラントで作れないものはない」らしいのだから。
しかし、現在国家として独立しているプラント群は主に、大西洋連邦所属国が出資して作ったプラントだ。このプラント群は近年に至るまで穀類の生産を禁じられ、食料品―― 特に穀類の入手を地上からの輸入で100%賄っていた歴史的背景を持つ。
進化した人類といえども、飢えには耐えられない。いつの時代でも兵糧攻めは有効なのだ。この食料品の生産禁止に対する不満が、現在のプラント独立への原動力となっていったは確かだろう。
C.E.69年。時のプラント最高評議会議長シーゲル・クラインは、ユ二ウス市のプラント四基を食料生産用に改装した。その内の一基、ユ二ウスセブンは、翌年の血のバレンタインの悲劇の舞台となる。
C.E.72年現在、正常に稼働しているプラントの食料生産用コロニーはユ二ウスエイトからテンまでの三基。その三基だけでは、とうていプラントの全人口を賄えるだけの生産量は望めない。
元より、国家プラントを形成するプラントは、食料生産用に作られたプラントではない。
大西洋連邦が主になり作らせたプラントは、宇宙空間での工業製品の研究・生産及びエネルギー生産に特化したプラントだった。備え付けられた設備や機能もその方面に特化している。それを無理に食料生産用に改装して使っているのだから、その生産能力はお世辞にも高いとは言えない。
加えて、宇宙空間に在るプラントは、大西洋連邦が出資して作ったプラント―― 国家プラントだけではない。他の国々が出資し作ったプラントも存在し、当然その中には、食料生産に特化したプラントも存在する。
その代表例がタカマガハラ―― 東アジア共和国日本自治区が単独で出資し、建設した食料生産に特化した多目的コロニー群だ。
再構築戦争末期―― 中華、ユーラシアからの侵攻に応じる形で参戦し、これらの軍を大陸側に押し返した日本は双方に対し優位な立場で終戦を迎えた。
国境の再構築の波に呑まれ、東アジア共和国の一部として括らることにこそなったが、終戦時に優位な立場に立っていたおかげで、ほぼ独立国と変わらない高度な自治権と、中華、ユーラシア双方に対し、膨大な金額になる賠償金の請求権を得た。この様な形で自治権を得た国は僅かながらも存在している。
大西洋連邦に所属するイギリス高度自治特区が良い例だろう。かの特区もまた、自身のプラントを所有している。"アルビオン"と称されるそのプラントは、大西洋連邦所属国のプラントでありながら、国家プラントに所属しない特殊な立場にあるプラントだ。
まぁ、昔からあの国は"栄誉ある孤立"を選ぶ傾向にある国だから、当然と言えば当然の帰結なのかもしれない。むしろ、大西洋連邦所属に合意したことの方が驚きだと、地上の学校の先生は言っていた。
イギリス特区もたしか、侵攻してきた国から多額の賠償金を得ていたはずだ。どのくらいの金額かは聞き及んでいないが、日本自治区が受け取ることになる賠償金よりも更に上だったとは習っている。
まぁ、それでも日本自治区が得ることになった賠償金は、向こう1世紀経っても払い切れる様な金額ではないものだったらしい。
日本自治区はその請求権の放棄と引き換えに、本国中華に独自のコロニーを作ることを承認させた。一部支払われていたものに対しては、後々コロニーで生産される事になるであろう食料品を優先的に輸出することで折り合いをつけみたいだ。
それだけ、日本自治区にとって宇宙に食料生産の場を得る事は重要だった。
ただでさえ国土が狭いのに、その国土の約70%は険しい山岳地帯。更に、約67%は森林である。大規模な農業活動ができず、その食料自給率は戦前から危ういモノであった。しかし、国土はそう簡単に増やす事は出来ない。
宇宙空間という新天地に希望を見出し、日本は食料生産に特化したコロニーを得た。
プラントではなくコロニーと称されるのは、その形状が旧式のボトルを横倒しにしたような形をしているからだろう。
農産は勿論、水産、畜産、その他農業に関する研究など、目的別に様々な環境を再現した小さなコロニー群と全ての中心となる都市型コロニー。さながらそれは、小さな魚の群れを連れて星の海を悠々と泳ぐクジラのように地球からは見える。
そしてタカマガハラは10年の歳月をかけて、"宇宙の食料庫"に昇りつめた。
生産量、種類、品質、どれをとっても、タカマガハラを上回る食料生産プラントはないだろう。タカマガハラで生産された食料品は、地上の日本自治区、中華は勿論、他国のプラントにも輸出されている。勿論、タカマガハラも他プラントから輸入しているものは数多くもある。
このプラント間で行われる貿易に参加できなかったのが、現在の国家プラントにあたるプラント群だ。
タカマガハラで生産された食料品の本格的な輸出開始はC.E.53年。その頃にはザフトの前身にあたる黄道同盟は設立され、活動を行っていた。
理事国側の意向を受け、タカマガハラを含めた食料生産コロニーを所有する国々は大西洋連邦所有のプラントに対する食料品の輸出を自粛・制限した。理事国側から要請があれば行われる程度。裏でこっそり取引していても微々たるもの。
一種の経済制裁が、国家プラントに対し、暗黙の内に執り行われていた。
当然、技術交流などもっての他。国家プラントの食料生産技術は、他プラントでの技術革新などに取り残される形で放置され、現在に至っていた。
その状況を打破しようとしているのが、現プラント最高評議会議長ギルバート・デュランダルだ。
国家プラントが承認されると同時に選任されたデュランダル議長は、まず宇宙空間に浮かぶ他プラント群に対し友好を呼び掛けた。
二の足を踏むプラントが多くあった中、一番最初に名乗りを上げたのが意外な事に、イギリス特区のプラント"アルビオン"だった。このアルビオンと友好関係にあったタカマガハラがその後に続き、現在、プラントとの間で輸出入、技術交流の為の調整が重ねられているらしい。
そう言えば、農業用―― 食料生産用に転用されることになった建設途中のプラントも、食料生産技術先進コロニーであるタカマガハラの意見を取り入れる為に作業が一時中断しているとかなんとか。
そんなニュースを最近見かけた気がする。
*
「シン」
名前を呼ばれて振り返れば、そこにはレイがいた。
が、手の中に在るものを認識して思わず固まる。
「これらも買って良いだろうか……?」
どこか探る様に見て来る瞳には見覚えがあった。
マユが母さんにおねだりする時の目だ。
ねるねるハイパー 暴君ハバネロ~激辛からの挑戦状リターン~ じゃがポテトetc...
見覚えのあるお菓子がレイの手の中には収まっている。
「え、えーと……」
「うわぁ! なんだそれ!?」
返答に窮する俺を放って、ヴィーノがレイに駆け寄る。
「どれもこれも見た事無いやつばっかだ!! なぁ、これどこにあったんだ?」
「あちらだ」
思わずルナマリアと一緒にレイが指差した方を見てしまう。
そこには、"ジャパニーズスナックフェア"という文字が電子広告の上で躍っていた。
前々からこっそり思っていたけど、サンドイッチのツナ強奪事件といい、レイの味覚は意外に子供っぽい。見た目が良くて雰囲気も大人びているから、時折見せる子供っぽい部分がよけいに幼く見える気がする。
でも、とレイと一緒に日本のお菓子を手にとってはしゃいでいるヴィーノを見る。同じ行動をしている筈なのに、ヴィーノからはあまり違和感を感じない。
なんだか世の理不尽を垣間見た気分だ。
「どうしたんだ?」
動かない俺とルナマリアを不審に思ったのか、ヨウランが声をかけてきた。その手に持つ籠の中には、いくつかの食材と栄養補給用のゼリーが入っている。
思わず俺がそれらを凝視していると、ヨウランは苦笑した。
「ラボの冷蔵庫が空になっててさ」
あそこには簡単なキッチンも備え付けられてるんだ。そう笑って、ヨウランは近くに置いてあったインスタントコーヒーの瓶を手に取って籠に入れている。
「それで、あいつら何してんの?」
ヨウランもまた、俺とルナマリアが先程まで見ていた方に視線を向けた。そこには、真剣にお菓子を選んでいるレイとヴィーノの姿がある。
「ジャパニーズスナック…… 増えたよなぁ、最近。ああいうの」
どこか複雑そうに、ヨウランは言った。
「他の国のプラントと交流する様になったとはいえ、やっぱり複雑よね。"アルビオン"と"タカマガハラ"だったかしら。去年の今頃なら考えられない光景だわ」
ヨウランとルナマリアの会話を、俺は黙って聞いた。
二人の複雑な気持ちを、俺はよく理解出来ない。
少し目を伏せて手元を見れば、籠の中に入った、懐かし日本の食料品が目に入る。
今まで出来なかった事が出来るようになって、他の世界とも言うべき他国所属のプラントと交流ができるようになったことは良い事なんだろう。
単純に俺はそう思っていたけれど、二人の顔を見ているとそんなに簡単なことではないのだと突き付けられるような気がする。何がどう簡単でなくて複雑なのか、理解する事はおろか、感じることすら俺にはできない。
小さく息を吐き、努めて明るく、俺は言った。
「そう言えば、メイリンはどうしたんだ?」
先程からメイリンの姿が見えない事が気にかかっていた。
店内に入って暫くはみんなで回っていたのだが、少しするとめいめい気になる所へ散っていった。
俺は生鮮食品をメインに見ていたけど、その途中、それぞれ気になる所で足を止めているみんなの姿を見た。
レイは店内全体を見て来る、と言っていた言葉通り、店内のあちこちで見かけた。ヨウランと飲み物のスペースへ行くと言っていたし、ヴィーノはお菓子コーナーに突撃していた。ルナマリアは俺と一緒に生鮮食品を見て回っていた。
確かメイリンは、ヨウランと一緒に飲み物を見て来ると言っていたはずだ。
「あぁ、メイリンなら暫く一緒にいたけど、すぐに"飽きた"とか言って、ほら、来る時に見ただろ? 近くのカフェで席とって待ってるって」
「あー…… あの子、料理あんまり得意じゃないしね」
ヨウランの言葉にルナマリアが納得した様に頷き、お菓子なら得意なんだけど、と付け加える。
この生鮮食料品店に来る途中に見かけた喫茶店の事を思い出す。
少し離れた所にあるそのカフェは、ノルンの情報によるとアルビオン式アフタヌーンティーフェアなるものをやっているらしい。メイリンがしきりに行きたがっていたので、買い物を済ませた後に行こうと約束してはいたが……
まぁ、見かけた時点でお客さんも多かったし、席を待つ時間を考えればメイリンの行動も合理的なのだろう。
「で? どうする? あいつらそろそろ止めないと、全種類買い占めそうな勢いだぜ」
指差された方を見れば、せっせとお菓子で籠を溢れ返させているレイとヴィーノの姿があった。
レイの思わぬ姿に戦慄する俺とヨウランの横で、ルナマリアが深々と溜め息をついた。そして眉を寄せ、きりりと顔を上げると二人に向かって声をかける。
「こらー! お菓子は3こまでよー!!」
思わず噴き出してしまった俺とヨウランは何も悪くない。
*
生鮮食料品店での事の顛末が語られると、メイリンは思いっきり眉を顰めた。
「なんか子供っぽい……」
ぽつりと呟き、残念そうにレイとヴィーノを見て溜め息を吐いている。
俺はうんうんと頷きたかったが、隣にいるレイが"子供っぽい"という言葉に地味にショックを受けていたので控えておいた。
他人の事は言えない。俺だって郷愁に駆られて、ねるねるハイパーメロン味をこっそりレイ達の籠に紛れ込ませたのだから。買い物の会計が、賭けの関係でレイ持ちだったからこそできたことである。
「それにしても、6人分の席なんてよくとれたな」
そう言って俺は周囲を見る。
テーブル3つを合わせた俺達の席は、丁度店の奥まった位置にあたる。そこそこ人がいるカフェであるにも関わらず、店員以外が訪れる事は少ないだろう。
「ここなら、ノルンも会話させて大丈夫そうだな」
俺は連れて来ていたノルンの端末をテーブルの上に出す。
ずっとせまいポケットに入れっぱなしでごめんな、と謝ってその画面を撫でる。ディスプレイがちかちかと明滅し、"シンは変わり者です……"という返答が、普段よりもボリュームを落とした声で返される。
「なんて言うか…… シンを見てると、世界って色々あるんだな、って思うわ、俺」
ヴィーノの言葉に、ヨウランが同意するかのように頷いている。
「昔、"SELENEの帰還"の記事をネットで読んだ事があるんだ。よく分からない内容だったから、半信半疑で嘘だと思ってたけど…… シンを見てると本当の事なんだろうなって思う」
SELENE――
そう言われてもパッと思い当たるものがない。でも、聞き覚えはある。なんだったけ?
「"SELENEの帰還"って?」
ルナマリアも知らないようで、ヨウランに尋ねている。
「月への商業宇宙旅行が認可された頃に起こった出来事だ」
でも、答えたのはヨウランではなくレイだった。
「東アジア共和国日本自治区の宇宙開発機関と民間企業が合同で企画した、再構築戦争前に月に廃棄された人工衛星の残骸を回収しに行くというよくわからないツアーだ」
相変わらずレイの説明は端的でわかりやすい。おかげで、SELENEが何を指しているか思い出すことができた。
"かぐや"のことだ。
たしか、当時の国営放送局の依頼で、ハイビジョンカメラを搭載した月探査機で、正式名称がSELENE、愛称が"かぐや"。"かぐや"の印象の方が強かったから、SELENEと言われても、すぐには思い浮かばなかった。
俺が一人で納得している横で、どこか呆れと困惑が混じった声をあげた。
「わざわざ月にゴミを回収しに行くの? 当時の宇宙旅行ってかなりの金額だったんでしょ? それなのにゴミ回収?」
「ボランティアか何かか?」
ヴィーノもメイリンと同じ見解らしい。
ゴミ回収とはなんだ。ゴミ回収とは。
俺は憮然と答えた。
「かぐや姫を迎えに行っただけだ。それに、かぐやだけじゃない。ひてんだって連れて帰ったんだ」
かぐやより先に月へ帰った工学実験衛星MUSES―― 愛称ひてん。ひてんは飛天のことであり、空に住み、舞いが得意な天女のことだ。
商業宇宙旅行が認可された時、まっさきに日本で企画されたのが月に帰った衛星達を連れて帰ることだった。
その代表格と言えるのが、"ひてん"と"かぐや"だ。彼女達は無事に地上へ帰り、今も日本自治区の宇宙開発機関の施設にいる。
「カグヤヒメ? ヒテン?」
ヴィーノはよくわからないらしく、俺の言った言葉を拾って問いかけて来る。よくわからないのは他のみんなも同様で、5人の視線が俺に注がれている。
「えーと……」
流石に返答に窮し、俺は言葉を探す。
とりあえず、かぐやとひてんの愛称の由来になった民話のことから、みんなに話す事にした。
*
ひてんの由来となった、飛天の意味と、かぐやの由来となったかぐや姫の物語について一通り説明し終えると、俺は一息吐いた。
見回せば案の定、みんな微妙な顔をしている。
「うーん。MUSESとSELENEの愛称が、民話にちなんだものなのはわかったけど……」
ルナマリアなんかは、眉を顰め、しきりに首を傾げている。
納得できないのだろう。よくわからないと顔に書いてある。
「愛称は愛称だろ? 物語の登場人物が実在してるわけでもないのに、なんでそこまでこだわるんだ?」
ヴィーノも不思議そうな顔をしている。
どう言えば伝わるだろうか。
「んー…… 少なくとも、日本に住む人達にとって、月って特別な場所なんだ。その月に纏わる民話の中で、一番有名なのがかぐや姫で、月を探査する人工衛星なら、やっぱり"かぐや"だろう、って当時の人達は思ったんじゃないかな。ひてんにしてもそう。空を舞う衛星なら、空を舞う天女って」
一種の連想ゲームだ。舞う様な軌道を取るから、月を調べるから。一番多くの人に知られ、愛され親しまれる名前。それが、ひてんやかぐやだったのだろう。
「あと、廃棄って言葉も少し嫌だな。確かに、廃棄なのは事実なんだろうけど、そんな言葉で表したら寂しいだろ」
それに加えて、気になる点も訂正しておく。廃棄されたのは事実だけれど、そう言ってしまうとあまりにも情緒がなく味気ない。
彼女達衛星は、その命が終わる間際まで、貴重なデータを送り続け、そのデータが巡り巡って現在の宇宙開発の礎となっているのだ。それは尊ぶべきことであり、感謝しなければいけないことだ。
「飛天―― 天女は人の手で羽衣を返される事で天に帰り、かぐや姫は、人の手で育てられて、月に帰っていく。ひてんもかぐやもそれは同じで、人の手で育てられて、人の為に一生懸命頑張って、最期は人の手で月面へ―― いや、月に帰って行ったんだ。地上にいる親しい人を置き去りにして。月に自由に行ける様になったんだから迎えに行きたいって思うのは、自然な流れだと思うけど」
多少解釈に無茶があるのは承知で俺は言った。
人類の為にがんばってくれた彼女達を、もう一度故郷に戻してあげたいと思うのは当然のことだ。
だってそうだろう?帰ることすらできず、流れ星になった探査機や、人知れず燃え尽きた衛星は数え切れない程ある。
それは、人の心を満足させるだけの行為なのかもしれないけど、それでもそうせずにはいられないのだ。そういうものなのだと思う。
「どこらへんが自然なのかさっぱり。私にはゴミ回収にしか見えないわ」
俺の苦しい説明も、メイリンにばっさり切り捨てられる。
上手く伝わらないのはやはり、俺の言葉が拙いからだろうか。ミーアならこの辺りで理解を―― そうか。ミーアは地上から来たナチュラルに育てられていたのだ。プラントの普通の人とは少し感性が違うのかもしれない。
「同じ機械としてどうなの?ノルン」
ルナマリアが黙って聞いていたノルンに話しかける。
ノルンは少しの間、思考するかのように画面をちかちかと光らせる。
「"……私にもさっぱり"」
なんとも言えない返答に俺はがっくりと肩を落とした。
「ただ単に、俺達はひてんとかぐやを故郷に帰らせてあげたかったんだよ」
そう俺が言おうと、ノルンはどこか慌てた様にいつもより早い口調で喋った。
「"そこまで必要とされるとは…… しかし、本来の与えられた役目も果たさず陳列されるのは、役目を持つ同じ機械として―― 該当言語検索中」
おお。ノルンが自分の思考に合う言葉を探している。これは珍しい。なんだろう? 役目をもつ機械として―― なんだろう?
わくわくしながら俺はノルンを見つめる。
「"検索結果―― "不本意"?"」
思わず机に伏した俺は悪くない。
不本意か…… そうか、不本意なのか。
いや、確かに実験や探査の為に作られた機械が、役目を果たしたから休んでいいよと言われて、休みたがるものなのだろうか。最期までお役目全うします、とでも言うのかもしれない。
確か、役目を十分に果たして、地球の大気圏で燃え尽きた探査機や衛星があったはずだ。有名なのだと、小惑星探査機のはやぶさと地球観測衛星のだいち、だったけ?
「"あくまで、私がそのような立場になったらの仮定です。実際にひてんやかぐやがどう思っているのか、誰にもわかりません。彼女達は私のような人工知能を持っていないので、論ずること自体が不毛です"」
フォローになっているのかなっていないのか。いや、でもきっと、ノルンなりに気を使ってくれているのだ。多分。
「とりあえず、ありがとう…… ノルン」
俺はノルンの液晶をぐりぐりと撫でた。少し力を強めにしているのはちょっとした意趣返し。
"過負荷は本体の寿命を縮めます"という抗議の言葉が返ってきて、思わず笑った。
「よくわかんねー……」
「えぇー……」
俺は身を起こし、ヴィーノを見る。そこには心底よくわからないといった感じで首を傾げるヴィーノの姿があった。その隣のメイリンも、あきれたように言った。
「だって、機械は機械じゃない。寂しいとか悲しいとか、感じるわけないのに故郷に帰らせてあげたいとかわけわかんない」
ぐさりと言葉の刃が突き刺さる。
恐らく、それがプラントでの一般的な見解なのだろう。でも何も、ノルンの前でそんなことを言わなくてもいいじゃないか、メイリン。
「これがまだノルンみたいな人工知能なら、分からないでもないけど……」
そう言って、ルナマリアはノルンを見た。
確かに、言葉を交わすことが出来れば想い入れも、物言わぬ機械に対するものよりも強くなるだろう。
「そこにあると思えばあるんだよ。無機物にだって魂や心が」
そう。存在すると思えば、存在すると信じることが出来れば、存在するのだ。魂も。心も。それに人間とか動物とか機械とか、関係ないのだと俺は思う。
そう言うと、今まで黙って聞いていたレイがふむと頷いた。
「受け入れがたいが…… まぁ、感じ入るモノはあるな」
「え!? 俺は全然!」
信じられないといった感じで、ヴィーノがレイを見る。
レイの方はいたってまじめに、俺の言葉に同意してくれた。出会ったばかりの頃のレイなら、同意してくれなかった気がする。
そう思えばレイはレイで、大概俺に毒されている。差し詰め、俺に毒され組2号だろうか。1号は勿論ミーアだ。
「"ヨウラン。同室になる人間は思考が似たものになる傾向があるのですか?"」
「いや…… そんなことはないはずだぞ」
俺がレイの同意に感動している横で、ヨウランとノルンがそんな会話を交わす。
それがおかしくて、俺は笑った―― ちゃんと笑えているかどうかは別だけど。
*
「ってゆーか、シン。あんたそんな大昔のこと良く知ってるわね」
そんな今更な事をルナマリアが尋ねてきた。
確かに、ひてんもかぐやが活躍した時代は、再構築戦争前よりもずっと前―― 大昔の話だ。
「日本自治区のテレビ番組で、ひてんやかぐやは勿論、"タカマガハラ"建設秘話とか最近のだと火星の近くにある深宇宙探査用小型コロニーの"宙ノ鳥島(そらのとりしま)"とかの特番がよくあったし。それに、小さい頃はプラネタリウムとかにもよく行ってたから、そこで上映されているのを見たんだ」
そう。幼い頃の俺にとって、夜空こそが"空"だった。
星の海に浮かぶ星座を見つけるのが得意で、星座盤も見ずに星座を見つけられるようになって久しい。
それに、まだマユが生まれていなかった頃、俺に出来た唯一の遠出がプラネタリウムに行ったことだった。もう十年近く前の話なのに、あの時、父さんと母さんと見上げた映写機が作り出す夜空は、今でも鮮明に覚えている。
その情景を思い出し、俺は視線を宙に彷徨わせる。
「"タカマガハラ"―― 日本…… 地上の人間って、みんなシンみたいなのかな?」
「シンのような者ばかりならば、戦争は起きていないだろう」
レイとヴィーノによる会話が耳に入ってくる。
俺が口を挟もうとした瞬間――
「お待たせしました。ご注文の品です」
頼んでいたものがやってきて、その話題そのものが流された。
残念だと思った反面、少しほっとした。
*
次々に、テーブルには注文した品が並んでゆく。
メイリンとルナマリアの所はなかなか凄い。なんだかよくわからない食器置き? のようなものまで来ている。
俺とヨウラン、ヴィーノは呆然と整えられてゆく二人のアルビオン式アフタヌーンティーの様子を見守った。レイはさして気にする事なく、自分の注文を待っている。恐らく慣れているのだろう。そんな感じがする。
二人のアルビオン式アフタヌーンティーの形が整え終えられる頃に、俺の注文も来た。ワッフルである。
食べようとフォークとナイフに手を伸ばした時、俺はある事に気づいて戦慄した。
俺は今回が、プラントでの初外食になるということを。
昨年からプラントにはいるが、今日来た様なオシャレな感じのカフェに入ったのは初めてである。プラントもどこぞの国と同じで、お茶菓子にだけは定評がある。いや、あって欲しい。そう願いながら、俺はワッフルを切って、フォークで口に運んだ。
あ。よかった……
ふつうに美味しい……
心の中で盛大に安堵の息を吐きながら、俺はみんなの会話に耳を傾けた。
「で? どう? メイリン。念願のアルビオン式アフタヌーンティーは」
「うーん…… 確かに美味しいんだけど、よくよく考えれば比較対象がないのよね。だから、これが本当のアルビオン式アフタヌーンティーかもわからないって、今気づいた……」
俺の正面で、メイリンとルナマリアがそんな会話を交わしていた。
なるほどと思い、俺は思わず口を挟んだ。
「確かに、文化って生まれた所以外の所に行くと、微妙に形が変わるもんな」
俺の言葉に、興味が惹かれたのか、ルナマリアが俺の方を見て来る。
「そういうものなの?」
「ああ。食べ物の場合だと、やっぱりその土地の人が好きな傾向の味に変わったりするらしい」
まぁ、それも行き過ぎると"魔改造"と呼ばれる代物に変貌する。どこの国にも一つや二つはある、他国の美味しいモノ自国風アレンジのことである。
「へぇ……」
そう言って、ルナマリアは自分の紅茶を一口含む。好む類の味わいだったらしく、ふんわりとルナマリアは笑った。
なんとなく、先程の生鮮食料品店でルナマリアと交わした会話を思い起こす。
しきりに食材の事を聞いて来ていたし、恐らく、ルナマリアが料理好きなのだろう。俺のレパートリーもそう多くはないけれど、今度、いくつかのレシピを紹介してみるのもいいかもしれない。
そう思いながら、俺は目線を少しルナマリアから逸らした。
メイリンが、じっと俺の手元のワッフルを見ている。
「ねぇ、シン、そのワッフルにかかってるのってなに?」
「ん? タカマガハラ産の蓮華の蜂蜜。美味しいよ」
俺の言葉に、メイリンが今度来る時は頼んでみようかな、と言った。
それを聞いて、ふと、マユにしてやったように、ワッフルを少し切り分けてわげようかと一瞬思った。だが、俺はすぐさまそれはダメだろうと打ち消した。
マユは妹だけれど、メイリンは女の子だ。色々と憚りがある。
「へぇ…… そういえば、宇宙で養蜂をやってるのはタカマガハラだけだって聞いたな」
ちょっとわけてくれ、とヴィーノがレイの横から顔を出す。
ワッフルを一口サイズに切って皿を差し出すと、ひょいとヴィーノは自分のフォークでそれを口に運んだ。
「んー…… 甘い。けど、なんかまろやか?舌触りが良い??」
香りもなかなか、とヴィーノは再び俺の皿にフォークを伸ばした。ぺしりと、レイにその手がはたかれると、肩を竦めて自分の皿にフォークを戻した。
「なぁ、やっぱり、プラントで虫とか飼うのはいけないことなのか?」
せっかくなので、以前から疑問に思っていた事を尋ねてみる事にした。
ペットロボショップは見かけても、ペットショップは見かけない理由。それはやはり、人の制御が利かない昆虫や動物を飼うことがプラントでは難しいからなのだろうか。
「ああ。虫とか小動物とかは、病原菌を仲介したりする可能性があるから、余程のことがない限り、プラントには持ち込ませないんだ」
ワッフルのお礼代わりのつもりなのか、ヴィーノが俺の疑問に答える。そしてそれを補足するように、ヨウランが付け加えた。
「最新鋭とはいえ、まだまだ未発達な部分が多いからな。確か、どこかのコロニーがバイオハザードを起こして全滅したとかの話もあるし」
バイオハザードで全滅――
確か、教練校で受けた近代史か何かの授業で聞いた気がする。遺伝子とか、コーディネイトの最先端を走っていたけれど、ほんの些細なきっかけで起こったバイオハザードで放棄せざる得なくなったとか……
確か、"メンデル"だっけ。
あれ以来、色々と検疫が厳しくなったらしい。
「タカマガハラの人達も、よく養蜂なんて宇宙でする気になったよな。感心するぜ。…… まぁ、あそこは元からぶっ飛んだ逸話が多いけど」
"SELENEの帰還"しかり、養蜂しかり、挙句の果てには"実験プラントを観光資源化"するし、とそこまで言ってヨウランはコーヒーを口に吹くんだ。
ヨウランの言う"実験プラントを観光資源化"とは恐らく、一つの小型のコロニーを地上の海の再現の為に使った"宙之海"のことだろう。海産物の養殖の為に作られたらしいが、一部はリゾートとして解放されていると聞いている。
どれもこれも、別段特異な事と思えないのは、やはり俺が地上育ちだからだろうか。
そういえば、旅行の話とか観光の話とか、あまり聞いた事がない。
いや、地上の俺からすれば一つの市を移動するだけで宇宙旅行だ。でも、プラントの人から見るとどうなんだろう。旅行にはならない気がする。
宇宙で観光――
うーん…… 地上から宇宙へは観光になるだろう。だから勿論、プラントから地上へも充分に旅行になるはずだ。ああ、でも、コーディネイターにとって地上は安全じゃない。なら、プラントの人達は観光でどこかに旅行に出かけたりする事はないのだろうか。
謎だ。
ぐるぐると考えてしまい、いっその事を尋ねようかと俺は口を開こうとした。
だがそれよりも先に、ルナマリアが複雑そうな言葉を漏らした。
「でも、なんていうか、最近は他の国に所属してるプラントの状況もわかるようになって複雑というかなんというか……」
はぁ、と重い溜め息と共に呟かれる言葉に乗る色は覚えのある色だ。生鮮食料品店で見た複雑な色。
「情報が一般に沢山出回るようになったけど、沢山ありすぎて逆に困惑するというか…… 取捨選択が大変」
プラントが一つの国として認められたが故の変化。
これまで封鎖されてきた情報が民間にも降りて来るようになり、町は交流を持つ様になった他国所属のプラントの情報で彩られている。
生鮮食料品店やこのカフェのフェアはその一例にすぎない。
国として独立しているとはいえ、同じ宇宙に居を構える同胞であることには変わりないのだ。きっと、地上にいるコーディネイターよりも親しみは感じやすいだろう。
しかしそれ以上に感じてしまうものもあるようだ。
「このプラント以上にいい場所はないと思っていたのが、意外にそうではなかったり――…… 認めたくはないけどさ」
ルナマリアの言葉に真っ先に同意したのはヴィーノだった。
「ユーラシア連邦所属のドイツのプラント"プロイセン"だって、実はエネルギー技術が凄いとか……」
「それを言うなら、同じユーラシア連邦所属でも、フランスのプラント"ガリア"はタカマガハラに次いで農業が凄いらしいし」
「アルビオンは目だってなにかがあるわけじゃないけど、なんだかんだで自給自足は成立させてるし」
「タカマガハラに至っては、別の意味で論外だ。食糧生産に特化しているだけあって、生産される農作物や酪農製品は総じて質が高い。魚などの養殖関連も、俺達のプラントで養殖している魚以外に、マグロなどの回遊魚の生産に成功している。あまつ、保養施設も兼ねた高度環境再現コロニー"宙之海"では、サンゴ礁の養殖・産卵・繁殖まで成功し、他コロニーに対し観光資源になっていると聞く。俺達のプラントが、僅かな種類しか魚を養殖出来ていないにも関わらず、だ」
ヨウラン、メイリン、ヴィーノ、レイが口々に他国所属のプラントの特徴をあげる。
情報が入ってくるが故にしたくなる自国のプラントと他国のプラントの比較。
そうして知るのはきっと、それまでの自分の見識の狭さだろう。
世界は広く、大きい。どうしようもないくらいに。何が一番とか、どこが一番いいとか、どうでもよくなる。
日本、オーブ、プラント。
地上と宇宙。
それが、それぞれを渡り歩いた俺が感じたことだ。
新しい地で触れる、新しい文化、習慣。
みんなも今、俺がそれらに初めて接した時に感じた驚きに近い事を感じているのだろうか。
「そういうの見てると、私達のプラントでの食糧生産って、まだまだ始まったばかりなんだな、って思うわ」
ルナマリアはそう言って紅茶を口に含む。
微笑みはない。どこか、苦さを感じている表情だ。
「近所のおじさん達が言ってたっけ。今じゃ考えられないけど、タカマガハラの野菜なんて安物の代名詞だったらしいぜ。水栽培式野菜工場産の野菜とか、って笑ってたらしい。でも、いつの間にか土で野菜を生産するようになって、気づけば抜かれてたとか」
「つくづく、プラントが経済制裁を受けていた20年間って重いんだなって思うわ」
ヴィーノはくるくるとフォークを回しながらぼやき、メイリンはカツンと音を立てて茶菓子を切り分ける。
「空白の20年、か。あのおかげで、プラントの食糧生産技術は他プラントより大きく遅れをとったのだろうな」
「父さん生きてたら喜んで長期研修に出てただろうなぁ…… 出荷管理システムからして大きく異なるから勉強になるって」
レイは重々しく口を開き、ヨウランは遠い目をしながらナプキンで手を拭いた。
「国として認められて嬉しいけど、こう…… 他のプラントの話に接してるとへこむこともあるよなぁ」
沈黙――
ヴィーノの言葉は果たして、ヴィーノだけが抱える思いなのだろうか。
俺は何も言うことができず、口を閉ざす。
視線をルナマリアの後ろ―― ガラス越しに見える大通りに向ける。
翻る広とりどりの旗、電子広告。休日を楽しむ人々の笑顔が見える。
プラントへの経済制裁は、タカマガハラ産の食料輸出開始よりも早く始まっている。
俺たちが生まれる前から続いていた経済制裁は、今年のユニウス条約締結と共に解除され、触れることの難しかった情報に手が届くようになった。
みんな―― プラントに住む誰もが不安なのだろう。
ナチュラルとコーディネイターは不仲であり、ナチュラルはコーディネイターを世界から排除しようとしている。
人心の統一を兼ねて取り上げられた過激なブルーコスモスの主張ばかり見てきたプラントの人たちにとって、地上と宇宙、ナチュラルとコーディネイター、互いに折り合いをつけながら上手く回っている他国プラントの様子は将に、晴天の霹靂とも言うべき代物なのかもしれない。
そう考えてしまうと、同じ光景でも感じるものが変わってくる。
行き交う人々の浮き足立った気配。
それはどこか、空虚で空回りしている様にも見えてくる。
浮ついた心。
揺らぐアイデンティティ。
覚えのある空気。
それはまるであたかも、嵐の前の静けさのように。
人の心が壊れていく予兆にも見えた。
コーディネイターも人であることには変わらない。
今こそきっとプラントには、絶対の精神的支柱が必要なのだろう。
神を殺し、宗教を否定した人々が縋る心の支えは一体、どんな姿をしているのだろうか。
そうして少し視線をずらせば、考え込むヨウランやメイリン、ルナマリアの姿が視界を掠める。
再び視線を戻せば、今度は窓ガラスにうっすらと映る俺の無表情が見えた。
自覚がない無表情だけれど、今はそれに感謝したい。表情があれば俺はきっと、凄い冷めた目でみんなを見ているのだろう。
地上で生まれ育った俺は、どう足掻いてもプラントで生まれ育ったみんなの複雑な心を完全に理解することはできない。それは仕方のないことだけれど、寂しさと、せいぜい思い悩めばいいという嘲笑めいた昏い想いが鎌首をもたげる。
だってそうだろう。
俺がプラントに来る原因は連合のオーブ侵攻だけれど、僕達がオーブに行く遠因になったのは、プラントによって引き起こされたエイプリルフール・クライシスだ。
それまで信じていた世界が壊れる瞬間を知っている。
多少生まれは違えど、人であることは変わりないと、信じていた人達が実はそうではなかったのだ突きつけられた瞬間を覚えている。
日常は壊れ、常識は反転し、周囲から悪意を向けられる恐怖を知っている。
それの恐怖はどんなに言葉に尽くしても、きっとプラントのコーディネイターには理解してもらえないだろう。俺が今のプラントのコーディネイターの苦悩を理解できないように、プラントのコーディネイターは僕達地上のコーディネイターの苦悩を理解できないのだ。
幼馴染がいてくれてよかったと思う。アイツがいてくれたおかげで、少なくとも僕は、ナチュラルを憎まなくてすんだのだから。
重苦しい沈黙もあって、俺もまた鬱々と考えてしまう。
レイたちみんなは友達なのに、プラントのコーディネイターと一括りにまとめてしまう自分がどうしようもなく嫌になった。俺だって今や、プラントのコーディネイターの一人だというのに。
「そうね…… でも、へこまされたまま黙ってるなんて私は嫌よ。受けた屈辱は倍にして返してやるわ!」
溌剌とした声が耳に入る。
ルナマリアだ。
その明るい雰囲気に、俺の暗い淀んだ思考が正常に引き戻される。それは他のみんなも同じだったらしい。
「いやいや、軍人が倍返ししたらだめだろ」
ヴィーノはすぐに笑って、ルナマリアの発言にちゃちゃを入れる。
「確かにへこむけど、俺の場合はどうやったら追い越せるか考えるかな。モビルスーツ関連とか、コンピューターなんかの演算機関連の技術はうちが上だし」
「当然、遺伝子関連の技術もな」
ヨウランとレイも重い空気を払拭するかのように、明るい話題を提供する。
「デュランダル議長が遺伝子関連の学者だったんだったんだよな。何か考えてるのかな」
俺がポツリと呟けば、レイが大きく頷いた。
「ああ。遺伝子関連の技術は昨今、コーディネイト技術ばかりに目を向けられがちだが、病原菌などの遺伝子の解析により、特効薬を作る技術も勿論存在する」
「あ。見た、そのニュース。それ専用の研究コロニーを作るか作らないか、議会に議題が上ってるって」
最近見たばかりのニュースの中でも印象に残っていたから覚えている。
つまり、"メンデル"の再建をしようとしているわけだ。
そう何も、コーディネイトだけが遺伝子を用いた技術ではない。病気の解析、特効薬の開発もまたその本分なのだ。
むしろ、僕達アスカの家にとっては、そちらの方が馴染みが深い。
遺伝性の病気を患ってきたアスカの家の人間の寿命は常に、科学技術の発展と共に伸びてきたのだ。そして、コーディネイト技術の確立により、その苦難に終止符は打たれた。
悪いところばかりに目が行きがちだが、コーディネイト技術は遺伝性の病気に苦しむ人々に、確かな福音をもたらしたのだ。
「ないものねだりはいくらでもできる。今、もてる技術を利用し、どれだけ差をつけることができるかが問題ってことね」
メイリンが頷き、他に何かあるかな、と考え始める。
「あー…… でも、コロニーなんて一朝一夕で出来るものでもないしなぁ……」
ヴィーノが肩を落とす。
けれど、俺は今朝読んだニュースを思い出す。
「その為に、アーモリーのイレブンからのコロニー建設が止まってるんじゃないのか?」
食糧生産用に転用が決まり、工事が止まっているアーモリーのイレブンからトゥエルブのプラント郡。
本来、プラントは10基で一市だからきっと、農業生産を主とする市が新設されることになるのだろう。その中の1基に、植物の品種改良や病気の遺伝子解析を研究するプラントがあってもおかしくはないだろう。
「そうかもしれんな。もとよりあそこのプラント郡は工業用に建設される予定だったプラントだ。勝手が分からぬ農業用に転換するよりも、よく知った研究用に転換する方が有意義なのかもしれんな」
レイも同意してくれた。
明るい展望の数々に、先程までの鬱々とした空気が一気に和やかになる。
そんな中、ルナマリアが軽く溜息を吐いた。
「なんていうか、あんまり華やかでない会話ばかりしてるわよね…… 私達……」
「軍人らしいといえば、軍人らしいけど」
俺がルナマリアの呟きにそう返せば、メイリンがだんっと机を叩く。
「いや! ファッションとか、アクセサリーとか、もっと色々な会話がしたい!!」
「ルナならともかく、俺達にそんなこと求められても……」
なぁ、と同意を求めて、俺はレイやヨウラン、ヴィーノを見る。
三人はうんうんと頷いている。それを見て、メイリンはがっくりと肩を落とした。
「だってこんな会話、入学式から暫くしてのレイやシンみたいで……」
「あー…… あれは確かに……」
ヨウランが遠い目をして、あれは近寄り難かったと呟く。
「お前達の周りだ、空気が違ったからなぁ……」
ヴィーノの言葉に、メイリンとルナマリアが頷いている。
「え? 俺達、そんなに目立ってたのか?」
そう言うと、3人には溜息を吐かれた。
俺とレイは顔を見合わせて、首を傾げるのだった。
*
夕暮れ時。
カフェですっかり話し込んでしまった俺たちは、帰り道を急いでいた。
先行くメイリンとルナマリアは、楽しそうに何か会話を交わしている。
「おい、そんなに買って大丈夫なのか?」
俺とレイが両の手に持つ袋を見て、ヴィーノが尋ねてくる。
「ああ。俺もレイも結構食べるし、これぐらいだと1週間足りるか足りないかぐらいだな。それに今回は――」
それに大丈夫と返し、俺は傍にいるレイとヨウランとヴィーノにだけ聞こえるように声量を落として話しかける。
「この後、俺の部屋でご飯食べないか?」
その意味を察して、ヨウランがにやりと笑う。
「どうせなら、広い部屋でやろうぜ。俺のラボとか」
研究協力の為といえば、俺たちもヨウランのラボで寝泊りしてもいいらしい。頻繁には使えない手段だけど、と言われるも、堂々と部屋を空ける許可があるのはありがたい。
「せっかくだから、明日の講義に支障が出ない程度にお酒でも呑まないか?」
ヴィーノの提案に、俺達三人は当然といった具合に頷く。
レイの顔には多少の戸惑いはあるものの、やはり酒盛りには心惹かれるらしい。こっそりと、レイが自分のノルンに話しかける。
「ノルン。学校の近くで酒類を売ってるところは?」
恐らく、学校に一旦帰ってからお酒は買出しに行くのだろう。今買うより、その方が無難だから当然だ。
「"あるにはありますが……"」
ノルンが何故か言葉を濁す。
俺は首を傾げてノルンの名前を呼んだ。
三人が三人とも、視線をレイのノルンに向けていたのが仇になったらしい。
余所見のせいで、俺は誰かにぶつかってしまった。
「すみま――…… あ。」
顔を正面に戻せば、そこには腕を組んで仁王立ちしたルナマリアの姿があった。
「る、ルナマリア…… さん……?」
ルナマリアの表情は明らかな怒りを表している。その後ろでメイリンが、やれやれといった具合に肩を竦めて首を振っている。
「ちょっと! どうして私達だけ仲間はずれなのよ!」
「いや、だって……」
俺の部屋にしろ、ヨウランのラボにしろ、男の部屋であることに変わりはない。そのことをルナマリアはわかっているのだろうか。
「い・い・か・ら! 参加させなさい!!」
「「「了解っ!!」」」
思わず三人揃って姿勢を正す。
それに溜飲を下ろしたのだろう。
「ノルン!!」
ルナマリアがノルンの名を呼んだ。
「"は、はい!!"」
ぴしゃりと名前を呼ばれ、ノルンもまたどこか緊張したような返事を返す。
「お酒を売ってるところの位置情報!」
「"わかりました!!"」
なぜだろう。
俺には同い年くらいの女の子が敬礼する姿が見えた。
そしてその夜――
ヨウランの研究室はカオスな状況に変貌していた。
缶ビール1本でオチたヴィーノ。
ノルンとひたすらかみ合わない会話を交わすヨウラン。
メイリンはひたすら無言でお酒の缶や瓶を空け続け、横にいるルナマリアもどこかぼんやりとして、頭をうつらうつらさせている。
レイに至っては、壁に向かって説教しはじめる始末。しかも相手は俺。
コレはいち早く意識を飛ばした方が勝ちだろうと、俺は度数の高い酒を一気に煽った。
くらりと感じる酩酊感。体が熱くなり、思考がふわふわし始める。
そしてブラックアウト――
後は野となれ山となれ。
翌日。
ノルンが起床を告げるアラームを鳴らしているのをどこか遠くで聞いた気がした。
布団も持ち込んでいないから寒いと思ったが、存外に暖かい。誰かが布でも引っ張り出してかけてくれたのだろうか。
うっすらと目を開くと、布団の色であろう鮮やかな色合いが目に入る。どこか見覚えがあるなと思いながら、俺は腕の中の布団を抱きしめた。
「っ!」
星が目の前に飛び散る。
痛い。
何が起こったのかと目を開ければ、傍には瞳をつり上げたルナマリアが座っていた。
酔いが残っているのか、頬が赤く瞳は潤んでいる。
「るな……?」
寝ぼけた頭で名前を呼ぼうとしたのが気に入らなかったのか、ルナマリアは近くにあった缶を手当たりしだい拾って投げつけてくる。
何か言っているようだが、置きぬけのとぼけた頭なせいか上手く認識できない。
俺も酔いが残っているのか、頭がずきずき痛む。それも相俟って、遠慮なくぼこぼこ投げつけられる缶が地味に頭に響く。
ぼんやりした思考の中、昔、癇癪を起こしたマユがこんな感じだったことを思い出す。
思わず俺は体を起こして、なだめるようにルナマリアの頭を撫でた。
余計に酷くなった。
その騒ぎに他のみんなも目を醒ます。
メイリンがルナマリアをなだめ、俺達男性陣は一様に首を傾げる。
何かあったのだろうか。
結局、その日一日中、ルナマリアの機嫌は悪かった。
そういえば、俺が見た布団はなんだったのだろうか。
ヨウランは布団なんてなかったって言ってたし。
俺はあの時見た布団を思い起こす。
目に入った色彩――
鮮やかで温かみのある赤――
一体、なんだったのだろうか。
next