Graduale - 昇階唱 ⅩⅢ
次の日の放課後。
俺達はヨウランにラボへ案内してもらった。
何も持って行かないのも何だと思ったので、プラスチックのコップとジュースを持参する。だが、俺はヨウランの研究室に入った瞬間、それを後悔した。
立ち並ぶ沢山の機械の箱。
その一つ一つが恐らく量子コンピューターというものだろう。
それにしてもこの数―― ひい、ふう、みい…… やめた。多すぎる。
圧巻だった。
ヨウランのラボはそこそこの広さがあったが、その大半は量子コンピューターとそのサーバ、関連機器で占められていた。床はコードだらけだ。持ってきたジュースを零したら大惨事だろう。
コードを踏まない様に、ジュースが入った袋を落とさない様に、慎重に歩きながら、申し訳程度に設置されている休息スペースに辿り着く。
コップにジュースを注ぎ配り終えると、俺は周囲を見渡す。
広い。士官学校の学生に一人に与えられるような広さではない気がする。
「すっごいな、コレ。全部あの人工知能の本体?」
ヨウランが目をきらきらしながら周囲を見渡している。畑違いとはいえ理工科の人間として興味があるのだろう。
「ああ。と、言っても今は未使用領域の方が多いけどな。元は家庭用のパソコンで作ってたものだし」
これから、俺達と接して色々な経験を積むにつれて、使用領域が増えていくらしい。
目を閉じれば、暗闇の中に機器の低い稼働音が響いている。そうか、あの子はここで思考しているのか。
「とりあえず、それぞれ人工知能の名前を考えて来たと思うから言ってみようぜ」
そう言ってヴィーノはポケットからメモ帳を取り出した。
どれだけ考えてきたんだろう。俺は全く思いつかなかった。
「そもそも、男なのか女なのか、性別がわからないと名前も決めようがないじゃない」
ルナマリアの意見に、あっ、とみんなが気づく。そういえば聞いてなかった。
ヨウラン自然と視線が集まる。
激しく首を横に振り、ヨウランは性別も決まっていない事を肯定した。
隣のレイが軽く溜め息をついた。
「まずはそこからだな」
俺はテーブルの上に置いてあるノートパソコンを引き寄せて尋ねてみた。
「男の子と女の子、どっちがいい?」
まずは本人の意思確認からだろう。
ディスプレイには"……"しか表示されない。悩んでいるのだろうか。ん?
"人工知能には本来性別はありません。設定は皆さまにお任せします"
おお、凄い。
「本当にいいのか?」
"はい"
その返答をみんなに伝えるべく、俺は顔をあげた。
「本人は性別どっちでもいいって、さ?」
俺は首を傾げた。
レイ以外のみんなが微妙そうな顔で俺を見ている。
「そうか」
そう言うと、レイは考え込んだ。
「はいはーい! 私は女の子がいいと思いまーす!」
真っ先に気を取り直して意見を主張したのはメイリンだった。
「だって、その人工知能が女の子になれば、私とお姉ちゃんと人工知能で女の子が3人になって、男と数が釣り合うもの」
この班は6人中、俺、レイ、ヨウラン、ヴィーノの4人が男だ。女が二人だけだと肩身が狭い、のか? それにしては、言動が一番元気でマイペースなのはルナマリアやメイリンだと思うんだけど。それに一人増えた所で男女比は4:3。釣り合ってるのか? これは。
「いやいや、男だろ! こう、SF的な電子の世界に住む存在って大抵――…… あれ? 女だっけ? ああ、もう! 俺、男の名前しか考えてないし、男がいい!」
「何それ? 自分が考えた名前ムダにしたくないだけじゃない。私も女の子がいいわ。持ち歩くことになるならなおさら」
ヴィーノの主張はばっさりとルナマリアに切って捨てられる。ご愁傷様。でも、俺もその意見は微妙だと思う。
それにしても、"電子の世界に住む存在"、か…… 俺達がいた日本にそんなのがいた気がする。でも、あれは人工知能じゃなくてソフトウェアだ。"電子の歌姫"、"歌うプログラム"―― よく音楽のランキングとかでも見かけたけど、たしかあれも女の子だったはず。特徴的な見た目をしてたからよく覚えてる。俺にとって"電子の世界に住む存在"は"電子の歌姫"であり"彼女"―― つまり、女の子だ。
「俺も女の子かなぁ……」
「シン!?」
裏切る気か、と悲鳴の様な声をヴィーノが上げる。
「いや、だって、"電子の歌姫"だし」
「わけわかんねぇよ!」
裏切るとかそういう問題ではない。ただ単に、俺のイメージの問題だ。"パソコンの向こう側に住む存在"と言われれば、真っ先に日本で見た"彼女"が浮かぶ為、女の子の方が違和感はない。
一人納得して頷く俺の横で、レイもまた頷いていた。
「女性でも問題ないのではないだろう。昔から大がかりな機器類は女性に喩えられる事が多い」
「それは、船や戦艦の話だろ! こっちは人工知能! パソコン! この人工知能が女の子になったら、俺らが女の子を連れ歩く事になるんだぞ!?」
レイのどこかずれた返答に、ヴィーノが切実そうに反論する。孤立無縁な事に気づいたのだろう。
「それがどうかしたのか?」
心底不思議でならないといった感じのレイの返答に、ヴィーノはがっくりと机に突っ伏した。確かに、俺もヴィーノがどうしてそこまでこだわるのかよくわからない。
「別にいいじゃん。妹が出来たとでも思えば」
そんなヴィーノを冷ややかに見ながら、メイリンが言った。
それに対し、その言葉に俺は内心眉を顰めた。
心が、凍りつく。
妹は、ダメだ。絶対に。
あの人工知能に女の性別が割り振られようと、妹の立ち位置が割り振られることはない。
目を伏せる。
「いもうと」
ヨウランが小さく呟く様に反応した。
「そっか。妹か。うん。妹なら…… 俺の妹はライラだけだし…… うーん」
うんうん唸るヴィーノの言葉の中に、聞いた事のない名前が混じった。その前に会った単語から、"ライラ"という女の子が、ヴィーノの妹だと言う事が分かる。
「ヨウランは妹がいるのか?」
「うん。去年産まれたばかりでさ。かわいいんだ」
思わず尋ねてしまった俺に、ヨウランはにへらと笑いながら答えてくれた。
それが微笑ましくて羨ましくて。
「いいよな、妹。俺にもいるんだ」
ついつい口が滑ってしまう。
いるよ。いたよ。俺にも妹が。
日本でよくあった他愛のないやり取りを思い出す。昔の俺も、今のヨウラン見たいに笑っていただろうか。
「だろ!?」
ヨウランはがばりと顔を上げる。
その輝く顔が眩しくて、俺は少し水を差す事にした。
「でも、気をつけろよ。小さい頃はかわいいんだ。小さい頃は。でも、大きくなったら――……」
茶化す様に、明るく、脅かす様に。
そんな感じに、俺は言葉を紡げているだろうか。
「お、大きくなったら……?」
「"ママー、おにいちゃん、おべんきょうせずにご本よんでるよー"」
「いやぁぁ!! うちの子そんなのにならないから!! うちの子天使だから!!」
悲鳴を上げて、再び突っ伏したヴィーノを見て、俺は内心ざまぁみろと呟く。これぐらいなら許されるだろう。小さい子供とは須らく、天使であり悪魔なのだ。
俺とヴィーノのやりとりをにやにやしながら見ていたルナマリアは、隣にいる"妹"に問いかけた。
「メイリン・ホークさん。"妹"としての言葉をどうぞ」
「こんな気持ち悪いお兄ちゃんいらない」
メイリンがヴィーノを見る目は、まるでゴミを見る様なものだった。なんだか収拾がつかなくなっている。
「んー…… じゃあ、この人工知能は女の子でいいな?」
俺達の会話を見守っていたヨウランが、これまでの流れを纏める。
「ヨウランはそれでいいの?」
そう言えば、ルナマリアはあんまり意見を言っていなかったな。どちらでも良かったのだろうか。
「ああ。俺だとそれすら決められないからな。それに、まぁ、何度か父さんや母さんと話した事もあったし。家族が増えるなら、"次は女の子が良い"って」
ヨウランも女の子でいいらしい。
家族が増えるなら、か。ありふれた会話に見えるが、コーディネイターが子供を成し難い人間である事を考えれば、その重みが違ってくる。子供は望んで得られるものではないのは地上でも同じなのだが、プラントでは輪にかけて難しい。
もしかしたらプラントの子供の出来ない家庭の人達にとって、研究とか仕事とかが子供の代わりになっているのかもしれない。
保障されない次世代という名の未来の存在。その不安を掃う為に、不安そのものを原動力に、仕事に打ち込み、短期間で成果を出すのだ。
全て俺の憶測でしかないが、なんとなくあたらずしも遠からずな気がする。
不安、成果――
昨日のヴィーノの言葉を思い出す。
ならば、目の前にいるこの子も、ヨウランの不安から早められた時間が生み出したものなのだろうか。
暗くなった思考を振り払い、俺は話しかける。
「じゃあ、君は女の子だ。大丈夫かな?」
"わかりました"
"彼女"の了承に、俺はほっと胸を撫で下ろす。
「ようやく本題に入れるな」
どこか疲れた様なレイの声に、俺は苦笑した。
本当だ、ようやく本題に入れる。
*
エルザ、エレノア、カミーユ。
ティファ、マリオン、エレイン。
マチルダ、カノン、サキ。
沢山の名前候補がLe;fletに列挙され、流れていく。
「うーん…… どれもピンと来ないよなぁ……」
ヴィーノの呟きに俺も同意した。
取り敢えず女の子の名前を列挙してみようということになり、それぞれが思い浮かべる名前を手当たり次第に入れたのが悪かった。名前が氾濫しすぎて、逆に決めにくくなっている。
こめかみを押さえ、レイが呻くように言った。
「だいたいの方向性を決めよう…… 名前から受ける印象を定めると絞りやすい」
レイの手元にある小型端末を見れば、「子供の名付け方EX」という電子書籍の一部が表示されていた。
その言葉に、俺はふむ、と考え込んだ。どうしよう。漠然としすぎていて言葉にならない。
「俺は――…… 特に要望はないな」
名前をつけようと言いだしたのは俺だけど、何故か名前が思いつかなかった。無責任なのはわかっているけれど、どうしても思いつかないのだ。
こんな子になって欲しいとか、どんな在り方をして欲しいとか。"名は体を成す"というように、名前がどんなに重要なのはわかっている。わかっているけれどやはり、違和感を感じてしまう。
彼女は、ヨウランとそのお父さんが作った"家族"だ。大切なヨウランの家族の名付けに、部外者の俺が関わっていいのだろうか。そんな躊躇。
肝心の彼女はというと、性別が決まった後は、再びディスプレイに"……"を表示させて黙り込んでいる。
「私も同じく」
そう言えば、ルナマリアもあまり話し合いに参加していなかった事を思い出す。振り返って見れば、ルナマリア自身が候補にあげた名前は俺と同じくらいの5つ以下だった。何か思う所でもあるのだろうか。
「私はかわいいのがいいな」
「え? かっこいいのだろ?」
逆に率先して意見を言っているのはメイリンとヴィーノだろう。沢山名前の候補を出してくれるので、あーでもない、こーでもないと言い合える。
でも、候補が出過ぎて今の状態を招いてしまったとも言える。
レイはというと、言い出したのが俺にも関わらず、まとめ役をしてくれている。名前候補もいくか出していたが、メイリン達の候補に紛れてどれがそうだったかわからなくなってしまっている。結構可愛い名前だった気がする。
「俺から要望を出してもいいか?」
名前の方向性で事態が再び膠着しようとしていた時だった。
これまで俺達の会話を見守っていたヨウランが、静かに口を開いた。
思わず俺達は口を閉じ、ヨウランを見る。
彼女の家族であるヨウランの要望だ。聞き逃す訳にはいかない。
「神秘的なのがいい。こう…… 神様みたいな」
ヨウランが口にしたのは意外な要望だった。
地上育ちの俺が言いだすのならばいざ知らず、生まれも育ちもプラントのはずのヨウランの口から、どうして"神様"という、コーディネイターとは対極の位置に存在する非科学的な存在の口にするのだろうか。
「神様みたいなものってことは、地上の神話から名前を取るってことか?」
「ああ。ちょっと、思う所があって」
俺の問いに、ヨウランは曖昧に笑って答えた。多分、あまり言いたくないことなんだろう。
「ならば決まりだな。彼女を作ったヨウランが言うのだ。名前は地上の神話―― 女神の名からとる」
ヨウランの要望を聞いたレイが名前の方針を告げる。
彼女は"彼女"になったので、女の神様から名前をとることになるのは自然な流れだろう。
けれど、問題もある。
「でも、地上の神話なんて私達よく知らないわよ?」
そうなのだ。
ディセンベルの図書館に通っていた時の事を思い出す。
有名な文学や哲学の本は辛うじて紙の本であったものの、神話や民話、伝説といった類の本は全て電子書籍になっていた。帯出記録を見ても、頻繁に借りられた形跡はなかった。俺が借りる前の帯出日で新しかったのは、たしか、旧約と新約の聖書が1年以上前に借りられてた事だったような気がする。
「そうか? ザフトでもよく使ってる気がするけどなぁ」
ヴィーノの言葉に思わず頷く。
グングニール、ジェネシス辺りが有名だろう。全部ザフトの兵器の名前ばかりだけれど。でもまぁ、地球連合所属の兵器には負けるか。
ザフトは結構独自の名称を自軍の兵器につけるけど、連合は各国のお国柄を反映してか神話や伝説から兵器の名称をとっている所が多い。
「神話と言えば、定番はギリシャやローマだな。ケルト神話や北欧神話も比較的有名だ。日本神話もあるが――……」
レイもプラント育ちらしいのに神話に詳しいらしい。神話と問われてそれだけ出てくれば充分だろう。それだけ知っているのがあれば、きっと一つはヨウランが気に入る女神様の名前があるはずだ。
ただ――
「日本神話からとるのは絶対にやめてくれ。無駄に長くなるから」
嘘だ。そんなの建前だ。
自分の言った事に自嘲する。
天照大御神のアマテラス、木花咲耶姫のサクヤ、相応しい名前はいくらでもある。
けれど、兵器に神の名を与えるのはオーブ軍の特徴だ。
"日本が再構築戦争に巻き込まれるやいなや、早々に国を捨て余所様の土地に居座り国を立てた不義の輩"
"国を捨てたにも関わらず、未練がましく文字や神話を利用し、さも自らが正統という顔をする盗人共"
じいちゃんは、そうオーブの事を評していた。
あの頃の僕はその意味がよくわかっていなかった。
再構築戦争の唯中に生まれ育った世代が共有する価値観の一つなのだ、と父さんは言っていた。今はそんなこと誰も思っていないし、国としてつき会うことはできないけれど、みんなオーブと仲良くしたいと思ってる。そう言う父さんをじいちゃんは唾を飛ばして怒り、父さんは明後日の方向を見ながら聞き流していた。それを母さんは微笑ましげに笑い、僕と幼馴染はそんな二人のやり取りに首を傾げていた。
何があっても、オーブだけは絶対に頼るな。あいつ等は自分達の為ならば簡単に他人を裏切る。
何度も何度も、じいちゃんはそう言っていた。
あれほど忠告してくれていたにも関わらず、僕達はそれを守らなかった。
だから――
「―― ン。 ――シン」
名前を呼ばれて、俺は我に返る。
いけない。すっかり別の事を考えていた。
見れば、みんなが怪訝そうな顔をしている。
何せ俺が急に黙り込んでしまったのだ。気にもなるだろう。取り繕う様に俺は首を横に振り、なんでもない、と応える。
「神話の女神様から名前をとるんだろ? 心当たりはみんなあるのか?」
俺がそう尋ねると、ルナマリアは首を横に振った。
「地上の神話? の事は私達プラント育ちにはよくわからないわ」
「だな。いい感じの教えてくれないか?」
予想通りの返答に、俺は以前、日本やディセンベルの図書館などで読んだ神話の本の内容を思い出す。
「ローマ神話だと、ユノ、ミネルバ、ディアナ、ケレス辺りが有名かな?」
思い出そうとすると、逆に思い出しにくい。数が多すぎるのもダメなのは学習しているので、とりあえず有名処を言ってみる。
「そういえば、レイもなんか詳しそうだよな。なんか知ってる?」
先程、さらりといろいろな地域の神話を口にしていた。もしかしたらレイもいくつか知っているかもしれない。
話を振ると、ふむ、とレイも少し眉を寄せて考え込む。
「ルナ、ユースティティア、パルカ――…… きりがないぞ」
つらつらと出てきた女神の名前に、やっぱりレイは博識だなと感心する。
プラントの人間は地上の事なんてどうでもいいと思ってそうだ、という考えは地上育ちのコーディネイターである俺の偏見でしかないのだと、改めて気づかされる。ミーアも、レイも、沢山地上の事を知っている。二人が特別なだけかもしれないけど、プラントに地上の事を気にかけて知ろうとしてくれている人がいるという事そのものが嬉しい。
上機嫌で俺は、違う神話の女神の名前を口にする。
「ギリシャ神話は――…… あー…… ヘラ、アテナ、アフロディーテ……」
「アルテミス、デメテル、ヘスティア……」
ギリシャ神話は、神話というよりも、星座にまつわる話として小学校の頃に読んだ。でも、やっぱり、いざ女神の名前だけを思い出そうとすると難しい。
レイもこの感じだと、結構有名ではない女神様の名前を知っていそうだ。
「どっちもピンと来るものがないな」
「何かが違うのよね」
ヴィーノとルナマリアが首を傾げる。二人とも、自分の中にある違和感を表現しかねているようだ。
「次はケルト神話―― は、俺はあんまりよく知らないんだよな。クー・フーリンとかならゲームで知ってるんだけど男だし…… 誰か知ってるか? レイ」
ゲームの中と攻略本で読んだ、クー・フーリンのエピソードは凄くかっこいいと思った覚えがある。
約束を力に変えて戦う英雄。眠りの呪いにかかった国の人々を背に庇い、女王が率いる敵国の軍隊を相手に一人戦い続けた。誓った約束全てを策略により破らされ、力を失った所で自分自身が愛用した武器で殺された。それでも倒れて死ぬ事をよしとせず、柱に自分自身を括りつけて戦い続け、地に倒れることはなかったという。
本当にかっこいい。
それに彼の武器である魔槍ゲイボルグは足で投げる投槍であり、絶対に対象に当たったという。見習いたいものだ。
そんなことを思い出しながら隣のレイを見る。
「少し。エポナ、スカアハ、モリガン、メイヴ…… ダメだ。女神だとこれ以上は知らん」
やっぱりレイもあまり良く知らないようだ。
メイヴは確か女神でなくて女王だった気が。クー・フーリンが戦ったのもこの女王の国だった。
うん。ちょっと嫌だな…… ケルト神話から彼女の名前をとるのは。
「なんかかわいくない……」
メイリンの発言に俺は頷く。
ヨウランも微妙そうな顔をしてるし、ケルト神話からとるのはなしだ。
レイはみんなの反応を見て、小さく溜め息を吐いている。
「不評のようだな。次は…… 北欧神話か。代表的な女神は、フリッグ、フレイヤ、イドゥン、シフ」
つらつらとレイが女神の名前をあげてゆく。北欧神話は俺も結構知っている。負けじと俺はレイに続いた。
「シギュン、ラーン、ヘル、ノルン、スカジ、ナンナ」
「ん?」
俺が女神の名前を言っている時、ヨウランが声をあげた。
「どうした? ヨウラン」
ヴィーノの問いに、ヨウランは神妙に答える。
「今、なんか、ピンときた」
真剣な顔をするヨウランに、ルナマリアが尋ねる。
「えーと、どっちに?」
「シン」
きっぱりと言い切られ、みんなの視線が俺に向く。
取り敢えず、さっき言っていた女神様の名前をもう一度言ってみることにする。
「シギュン、ラーン、ヘル、ノルン、――」
「それだ!」
ヨウランが声を上げる。
「え? どれ?」
ちょっとびっくりしながら尋ねると、ヨウランは言った。
「"ノルン"」
見れば、先程までディスプレイに"……"を表示させているだけだった彼女が、その白い画面に文字を浮かばせている。
"ノルン"――
まるで、確かめるかのように。
「かわいい名前よね。ねぇ、どんな女神様なの?」
確かに、"ノルン"は可愛らしい名前に入るだろう。けれど、担う役割はかなり重要だったはずだ。
「えーと…… 女神というか、沢山いる運命を決める女神様達の総称だった気が……」
そう。神々すらも逆らえない運命を編むのが"ノルン"達の役目。
「運命の女神!? なんかかっこいいな!」
ヴィーノが目をか輝かせる。
「複数存在する同一の役割を担った女神達の総称、か―― ふさわしいのではないか」
「そう言われて見ればそうなのかな? 運命とかそういうのはよくわからないけど、要は沢山ある人の生の情報を総括する存在なんでしょ? ぴったりじゃない」
レイもルナマリアも異論はないようだ。
俺達はヨウランを見る。
「ヨウラン」
なんだかんだで、ヨウラン自身が彼女の名前を決めたな。
そんな事を考えながら、俺はヨウランに声をかける。
「呼んでやれよ、名前。お前の大切な家族なんだろ?」
俺は彼女のいるノートパソコンのディスプレイをヨウランに向ける。
直前に見た画面には、やっぱり"……"しかなかった。
じっと、ヨウランと彼女は向き合う。
どのくらい待っただろうか。
意を決したように、ヨウランは彼女を見た。
「……―― ノルン」
かすれた声で、ヨウランは彼女の名を紡ぐ。
そっと、邪魔にならない程度に、俺はディスプレイを盗み見る。
"……"
沈黙を現す記号。
しばしそれが現れた後、すっと消え、新たな文字が現れる。
"はい"
それは、見間違えようのない返事だった。
彼女は応えた。
ヨウランの呼びかけに。
驚いたように、ヨウランは目を見開く。
「ノルン」
そして、再び彼女の名前を紡ぐ。
"はい"
彼女もまた、文字の点滅を以って返事を返す。
「ノルン」
どこか泣きそうな声で、ヨウランは彼女の名を紡いだ。
苦しそうに、悲しそうに、ヨウランは呼びかける。
"はい、私は"ここ"にいますよ――…… 「ヨウラン"」
俺も、ヨウランも、見守っていたみんなも、息を呑んだ。
彼女は音にして呼んだのだ。
ヨウランの名前を。
声を出す事が出来る事は知っていた。でも、そんな設定はされていないはずである。ヨウランもそんなこと一言も言っていなかった。
ならば可能性は唯一つ。
彼女が、自発的に、自分の設定を変更したのだ。
自分自身で声を探し、自分自身で選び、自分自身の声を定めて、そして、ヨウランの名を呼んだのだ。
ヨウランはとうとうくしゃりと顔を歪めて、ノートパソコンに突っ伏した。
「ノルン、ノルン、ノルン、ノルン――…… とうさん」
嗚咽交じりに、ヨウランは彼女の名を呼ぶ。
そして、最後に発された言葉は、彼女を共に作った父親だった。
「"いいえ、私はノルンです。 ヨウラン"」
彼女が紡ぐ言葉は平坦なはずなのに、どこか優しい。ヨウランの名前を呼ぶ時は特に、それを感じる。
ヨウランも顔をあげ、ぐしゃぐしゃな顔で彼女を見た。
「わかってるよ、ノルン」
浮かべられた笑顔はきっと、心からのモノだろう。
そんな表情が浮かべられる事が、俺にはとても眩しく映る。
「はじめまして、ノルン。俺はヨウラン・ケント。君を作った駆け出しの技術者だ」
「"ええ。はじめまして、私はノルン。ハンス・ケント氏とヨウラン・ケント氏によって作られた人工知能です"」
そんな会話を二人は交わす。
今まさに、彼女―― ノルンは生まれたのだろう。
二人を見ながらそんな事を考える。
何かを生み出すという事はこんなにも時間がかかるものなのか。
性別を名前を決めるだけでこれなのだから、ゼロから"ノルン"を産み出したヨウランとそのお父さんは本当に凄いと思う。
二人の成果が成る瞬間に携われる事を嬉しく思う反面、責任も重く感じる。
名前のなかった人工知能――
今まさに"彼女"は生まれた。
人工知能の女の子として。
ただの人工知能としてならば既に生まれていたけれど、そこに在るだけのならば、"ノルン"でなくても良かったはずだ。
けれど、ヨウランとそのお父さんが作り、俺達が性別と名前を考え、ヨウランが"ノルン"と決めた人工知能は今、ここにいる"ノルン"だけなのだ。
そこに在っただけの存在に名を、魂を。
ならば、その誕生は祝福されなくては。
音を立てない様にコップにジュースを注ぎ、レイやヴィーノ、ルナマリアやメイリンに目配せする。
たどたどしく会話を交わしているヨウラン達を一瞬見やり、再び視線を戻す。
そっと静かに、俺はコップを掲げた。
他の4人も後に続く。
きっと、みんな思っている事は同じだろう。
"生まれ出でた魂に祝福あれ"
"彼等の歩む道先に幸いあれ"
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