人は誰でも仮面を被って生きている。
笑顔の仮面の下で泣き、怒りの仮面の下でほくそ笑み、涙の仮面の下で舌を出す。
だがそれは、知性と理性を持つ人間が、己で作り上げた社会という名の牢獄を生きていくために必要な行為である。
ならば人を外れて夜を生きる、『吸血鬼』という存在は、脆弱な人間と違い常に素顔で居られるのだろうか?
その答えは――。
※
「予感はしていたのだ、長谷川千雨。お前は、どこかで関わってくるとな」
エヴァンジェリンが千雨を見上げて笑う。その傍らに立つ機械仕掛けの従者は、そんな主を尻目に、新たな敵に対しての警戒を怠らない。
そして、倒れた姿勢のまま千雨を見上げていた明日菜は、未だ驚愕の面持ちのままだ。
三者三様の視線を受けた千雨は、欄干を蹴ると、ふわりと宙を舞い、危なげなく着地した。
「エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル」
降り立った千雨は、エヴァンジェリンに静かに見つめて、告げる。
「もしお前が今言った事を実行に移すなら、私はお前殺してでも、それを止めなければならない」
「ほう……」
千雨の言葉に、エヴァンジェリンが心底嬉しそうな顔をする。
「千雨ちゃん、どうして……?」
明日菜が千雨に問う。その瞳には、疑念が渦巻いている。
「それは私も聞きたいな、長谷川よ。何故、今になってこいつらに味方する?」
二人の問い掛けに、千雨はしばしの沈黙の後、
「……この場所は、麻帆良は、そこにいる人間も含めて、思っていた以上に私にとって大切な場所だったらしい」
その答えを聞いた瞬間、エヴァンジェリンの表情が変わる。先程までの楽しげな表情から一転、まるで大切な物を取り上げられたかの様な、無くした物を相手が持っている事への嫉妬の様な、そんな様々な物が入り混じった、複雑な不機嫌顔になった。
そんなエヴァを横目に見つつ、今度は千雨が明日菜に尋ねる。
「神楽坂、先生は無事か?」
「えっ!?あっ、うん!気絶してるだけみたい」
「お前は、動けるか?」
「な、なんとかね……」
千雨の言葉に応えて、明日菜がぎこちない動きであるが立ち上がる。
それを見て、エヴァンジェリンと茶々丸は密かに驚愕する。
(あいつ、もう動けるのか……)
(通常ならば、あり得ません。回復が早すぎます)
主従揃って、明日菜の常識外れの回復力に呆れ混じりに感心をしていると、千雨が明日菜に命じる。
「なら、先生とついでに、そこのオコジョを連れて逃げろ」
「えっ!?」
明日菜が戸惑っな様な声を上げる。
「ち、千雨ちゃん一人置いていける訳ないじゃない!」
「気絶した子供と小動物、そして死に体の女が一人いた所で、足手纏いにしかならない」
明日菜の抗議を、千雨はバッサリと切って捨てた。
「うぅっ……。で、でも」
それでも尚も言い募ろうとする明日菜に、千雨は更に告げる。
「ネギ先生が心配じゃないのか?」
こう言えば退くだろうと思った千雨だが、明日菜は。
「千雨ちゃんも心配に決まってるじゃない!!」
千雨の思っても見なかった事を言った。
「……私の事はいい。行け」
「ち、千雨ちゃん……」
「行け」
その情動の感じられない言葉から、明日菜は何処か有無を言わせぬ物を感じ、顔を曇らせながらぎこちない動きでネギ(あとカモ)を抱き抱えた。
「すぐに、すぐに助けに来るから!」
そう言って、明日菜はゆっくりとその場から遠ざかっていった。
「マスター。ネギ先生達を追わなくてもいいのですか?」
茶々丸が己の主に進言するが、エヴァンジェリンは不敵に笑っただけだった。
「構わん。長谷川の言っていた通り、碌に動けもしないあいつらなど直ぐに捕らえられる。それよりも、今はこの女から目を離す方が恐ろしい。何をしてくるかわからんからな」
「……」
千雨は無言。その佇まいからは、何も感じられない。
幽鬼の様だと、エヴァンジェリンは思った。
「茶々丸、全力で行け。神楽坂明日菜と戦った時の様な手加減は一切いらん」
「よろしいのですか?」
「ああ」
「……了解しました」
主の命を受け、機械仕掛けの従者は千雨と向かい合った。
「絡繰。お前もマクダウェルの側だったのか」
「はい。マスターの従者を務めさせて頂いています。戦場で見えるのは初めてですね、長谷川さん」
千雨が淡々と尋ねれば、茶々丸も静かに返す。
「一つ聞きたいのだが、お前はロボットなのか?」
千雨の問いに茶々丸は頷く。
「正確に言えば、ガイノイドです。超鈴音と葉加瀬智美の二人の手により造られました」
「あいつらも仲間か……」
その呟きが聞こえていたのだろう、エヴァンジェリンが口を挟んだ。
「フン、仲間などと言うほど高尚なものではないさ。互いの目的のために一時的につるんでいるだけだ。特に超鈴音、奴は奴で何か別の事を考えている様だしな」
「そうか」
千雨は短くそう答えただけであった。色々ときな臭い事を聞いたが、今はそれよりも、目の前にいる敵を制さなければならない。
千雨はコートの懐から取り出した仮面を一枚、被る。
「出たな」
エヴァが笑う。
千雨が取りだした仮面は、人の髑髏に似ていた。目にあたる部分にぎょろりとした眼球がへばりつき、所々に細かい模様の様な物が刻まれている。
『モザイク仮面』
くぐもった声で千雨は告げる。
『メキシコより出土した謎のドクロ。部分的にモザイクを加工している事からこう呼ばれる』
茶々丸は、目の前にいる少女の行動が理解できず、困惑した。だが、主の命がある以上、自分は只敵を打ち倒すだけだと思い、自身のモードを戦闘機動へと切り替える。
体内の機械が唸りを上げ、茶々丸の両腕からは鋭利なブレードが2本飛び出す。
「参ります、長谷川さん」
一言告げて、弾かれるように飛び出す。その動きは明日菜と戦っていた時とは雲泥の違いであった。
対して千雨は棒立ち。ただ、仮面の虚ろな目を茶々丸へ向けただけである。
両者の距離が手を伸ばせば届く、と言う所まで来た時、突如として茶々丸の足ががくり止まり、その場に跪いた。
「なっ!?どうした、茶々丸!」
エヴァンジェリンが驚いたように従者に問いかけるが、茶々丸は答えない。それどころか、その人間並みに滑らかだった動きが、壊れたブリキの玩具の様なぎこちない物へと変わり、間接の各部がぎちぎちと嫌な音を立てている。
「ミ、ミミミ未知ノ、ウィルス・プロロロログラムノッ、シシシ侵入ヲヲヲ確ニン゛ッ!攻勢防壁ィィィィィィ、トトトトッパ?キキキ緊急ジタァァァァ発生ッ!?自閉モードニハャイイイリ!??!マス。……マ。、アスタァァァァ。申シ訳ッ」
ノイズ混じりの言葉の羅列の後、茶々丸は体の機能を停止させ、その場にがしゃりと倒れた。
エヴァンジェリンはそれを茫然と見ていたが、次の瞬間我に返って、千雨を睨みつけた。
「長谷川ぁ……!貴様、貴様茶々丸に何をした!?」
その問いに対して、千雨は何も答えない。だが、もし言った所で信じないだろう。仮面を媒介にして生み出した、思念でできたコンピューター・ウィルスによって茶々丸の電子頭脳を攻撃したなどと言う事は。
そしてエヴァンジェリンも目の前にある結果を認めざるを得なかった。
己の従者は手も足も出ずに倒され、相手は無傷。惨憺たる事実に臍を噛むエヴァンジェリンは、己自身が戦う覚悟を決める。
その時、そんなエヴァンジェリンの足元に小さな影が降り立った。
「お前は……」
「ヨー、ゴ主人。何カ、面白ェー事ニナッテンジャネーカ」
妙に甲高い声でエヴァンジェリンを見上げて言ったのは、ニ頭身ほどの小さな人形であった。
「チャチャゼロ。お前には他の人形達と周辺の警戒を命じた筈だが?」
エヴァンジェリンが少し不機嫌そうにそう言うと、チャチャゼロと呼ばれた人形は、妙に人間臭い仕草で肩を竦めた。
「誰モ来ネェーカラ、暇デ暇デショウガネェンダヨ。アノ気配隠蔽ト人払イノ護符ハイイ仕事シテルゼ」
「そうか……」
チャチャゼロの言葉に、エヴァンジェリンは件の護符の出所を思い出す。
それは、大手のオカルトサイトの通信販売で普通に売られていたのだ。勿論、まほネット――魔法使い専用の通信網ではなく、只のインターネットのサイトである(因みに出品者はT・Aのイニシャルを持つ現役陰陽師らしい)。
エヴァンジェリンの目から見ても本物にしか見えなかったそれを試しに購入し、今回の件に関しての他の魔法使いの介入を防ぐために使っててみたのだが、効果の方は抜群だったらしい。
「世の中も変わった物だな……。神秘の秘匿などくそ喰らえな物ばかりだ」
エヴァンジェリンがしみじみそう言うと、
「ババァ臭ェナ、マスター」
「やかましいわっ!」
人形の容赦ない突っ込みに、エヴァンジェリンは眉を吊り上げて怒った。
「マァ、ソレハ置イトイテ。末ノ妹ガヤラレタンダ、姉ノ出番ジャネェノカヨ、マスター」
さりげなく主の怒りを逸らしたチャチャゼロの言葉に、エヴァンジェリンは考え込む。
相手の力は未知数。相対するならば、もう少し向こうの力の底を知っておきたい、とエヴァンジェリンは思った。
「……良いだろう、チャチャゼロ。ただし、手加減は無用だ」
その言葉を聞いたチャチャゼロは歓声を上げる。
「ケケケケケッ!イイノカヨ、ゴ主人!?俺ハ遠慮ナンカシネェゾ?」
「ニ言はない。行け」
主に最終確認を取ったチャチャゼロが腰の装着されていたナイフを引き抜いて嬉しそうに振り回した。
『お前もマグダウェルの従者か?』
動き回る不気味な人形を見ても、千雨は変わらず無表情である。
「オオヨ。『闇ノ福音』ノ一番ノ従者、チャチャゼロ様ダ。マスターノオ許シガ出タカラナ、遠慮ナクヤラセテ貰ウゼ」
チャチャゼロは闘争意欲と殺戮意欲を剥き出しにして笑う。
『戦う事が、暴力が好きそうだな』
千雨の言葉にチャチャゼロは更に笑う。
「アア、好キダネ!俺ハソノ為ニ作ラレタンダ!マスターノ敵ヲ壊シ、蹴散ラシ、殺ス為ニヨォッ!ダカラ、オ前モ死ネ、小娘!」
『暴力の構図からは、誰も逃れられない。戦うために作られた存在であっても、いずれ弱者になる時が、来る』
千雨の言葉は静かに紡がれる。
「ソレガ今ダトデモ言ウノカヨ?ケケケッ、上等ダ!俺ヲ弱者ニ引キ摺リ下ロシテェンナラ、力尽クデヤッテミロヨォォォッ!!」
奇声を上げながらナイフを振りかざし飛び掛かってくるチャチャゼロ。それに対し、千雨の取った行動は素早かった。
今だ『モザイク仮面』に覆われていた顔をひと撫で。その瞬間、千雨の『顔』が変わる。
「変面の技、と言う奴か」
中国に伝わる大道芸の一つを間近に見たエヴァンジェリンが、その眼にもとまらない動きに少し感心する。
「ナンノツモリカ知ラネェガヨォ、ソノフザケタ仮面ゴトブッタギッテヤルゼェェェッ!!」
チャチャゼロは千雨の所作に構わず、振り上げたナイフを渾身の力を持って振り下ろす。大ぶりのナイフが千雨を切り裂くと思われた刹那、そのナイフは虚しく空を切った。
「チッ!避ケテンジャネェ……ッテ、アレ?」
振り返ったチャチャゼロは、自分が知らない場所に立っている事に気付いた。
赤茶けた大地に、所々に見える僅かな緑。
上空からは強い太陽の光が容赦なくこちらを見下ろしている。
「ド、何処ダヨ、ココ?」
チャチャゼロが周囲を見渡すが、千雨はおろか己の主たるエヴァンジェリンの姿も見えない。
その時、チャチャゼロは前方に複数の人影を見つけた。
「アア、ナンダテメェラ?妙ナ格好シヤガッテ」
そこに立っていたのは、浅黒い肌に簡素な獣の皮でできた様な服を素肌に着ただけの男達だった。牙や爪でできた装飾品を着け、手には木製の盾や、先端が石でできた槍などを持ち、顔には仮面を付けている。
『戦いを挑む者か?』
男達の一人が問いかける。
「何言ッテヤガンダ?ソレヨリモ、ココガ何処カ教エヤガレ」
チャチャゼロがそう言うが、男達はそれを丸で聞いていない様に更に言葉を続ける。
『このアフリカの勇猛で知られるゲレ族に戦いを挑むとは』
『我々は勝つまで絶対に戦いを止めない』
男達はそう言うなりチャチャゼロに襲い掛かって来た。
「ウワッ!?」
石槍の鋭い穂先を躱したチャチャゼロは思わず悲鳴を上げるが、すぐに頭を切り替え、反撃に転じる。
この男達が何者かは知らないが、自分の敵である事だけは確かなのだから。
「ケケケケケッ!ドーユーツモリカハ知ラネェケド、コノ『闇ノ福音』一番ノ従者、チャチャゼロ様ニ喧嘩売ッタンダ。只デ済ムト思ウナヨォォォッ!!」
※
「おい、チャチャゼロ!しっかりしろチャチャゼロ!!」
エヴァンジェリンは、奇怪な笑い声を上げながら、あらぬ虚空に向かってナイフを振り回すチャチャゼロに必死に呼びかけるが、チャチャゼロの耳にその声は届いてないようだった。
(またしても……!)
エヴァンジェリンはギリギリと歯ぎしりをした。一連の攻防は、あっさりと自分の従者達を無力化した目の前の少女の力の異様さを浮き彫りにしただけだった。
「やってくれるじゃないか、長谷川」
エヴァンジェリンはひきつった顔でそう言う。千雨は黙って被っていた粘土出来た朴訥とした仮面を外し、それを懐に収める。
最新と最古の従者達は無力化され、相手の能力も解らない。状況としてはこちらが不利だと、エヴァンジェリンは思う。
だが。
(それがどうした?生きる事にしがみついて600年。相手の手札が解らない、自分一人で戦わねばならない、そんな事など常にあった筈だ。今更何を恐れる事がある!)
自分は『闇の福音』。夜の女王にして最強の悪の魔法使いなのだから。
エヴァンジェリンは己を鼓舞し、千雨に鋭い視線を向ける。それを受ける千雨の瞳は、相も変わらず無情。なんの情動も浮かんではいない。
「……正直どこかでお前をまだ侮っていたのだと思う。妙な力を使っても、所詮は15の小娘、こちらが本気を出せば手も無くひねれる相手だとな」
「そうか」
「その認識を全て捨てる。全力で、全開で――お前と戦おう」
エヴァンジェリンの体から魔力が立ち上る。周囲の空間が歪んで見えるほどのその魔力は、正に真祖の吸血鬼に相応しい物であった。
そのエヴァンジェリンを前に、千雨は静かに新たに取り出した仮面を顔に装着する。。
「行くぞ!長谷川千雨!!」
咆えたエヴァンジェリンが千雨に向かって、飛ぶ。
長い夜の最後の一幕が、今幕を開ける。
【あとがき】
今回の話に登場した仮面の能力ついて軽く説明。
『モザイク仮面』:仮面を媒介にあらゆる電子機器にハッキング、クラッキングを行う事が出来る仮面。
『ゲレ族の仮面』:暴力に酔う者に、その終わらない連鎖の虚しさを幻影と言う形で知らしめる仮面。取り込まれた者は勝つ事も負ける事も出来ず、永遠に戦い続ける。
次回はついに決着。それでは、また次回。