2話
翌日からリュカは村の探索に精を出すことにした。時には一人で、時にはビアンカと二人で――時々ビアンカが遊びに誘いに来るのだ。
探索といっても特に何があるわけでもなく、木に登ってみたり川に飛び込んでみたりと、遊びに移行していくのが常だった。探索自体が遊びだという説もある。
川の水は凍るように冷たく、川に浸かったまま全身が硬直してしまったこともあった。リュカを助け出そうと、ビアンカが川岸から手を差し伸べてくれたのだが、その手を握って引き上げられるどころか逆に引きずり込んでしまったときのビアンカの怒りは相当のものだった。あれほどこっぴどく怒られたのは生まれてはじめてだとリュカは確信していた。
村を隅々まで見回ってわかったことは、本当にこの村は素朴なのだということだった。それはリュカにとっては面白みのない事実だったが、決してこの村が気に入らなかったというわけではない。自分の住処としては上々だ。
村を知り尽くしてしまったリュカの興味は、もはや洞窟にしか向けられていなかった。山にぽっかりと開いた、川の流れ出している洞窟だ。村の隅っこに位置するその洞窟は、リュカに不思議な魅力を感じさせるものだった。どんなに晴れ渡った日でも、その洞窟は深い闇を抱えていた。奈落の底を覗き込んだような、その闇に吸い込まれてしまいそうな感覚がリュカを襲うほどだった。好物を最後まで残しておくように、最後まで取っておいた洞窟の探索に取り掛かる時がきた。
洞窟から川が流れてきていると言ったが、洞窟の幅一杯に川が流れているわけではない。川は洞窟の中央部を流れており、両脇は小道になっている。つまり、そこから中に入っていけるということだ。杖をかたく握りしめ、リュカは洞窟へと向かった。
洞窟へは、川を挟んで二本の道がのびているというのは、前述したとおりだ。右側の道は、途中で一軒の家に遮られ、その家の中を通らないと先へは進めないようになっていた。その家は一人の老人の家であり、その老人はサンタローズの村長だった。パパスと仲が良いらしく、パパスにあの家に立ち入ることを許していることも、パパスがあの家を通ってその先の洞窟へ毎朝のように向かっていることも、それから夕方まで洞窟の中から出てこないことも、リュカは知っていた。
少し前に、村長にここを通してもらおうと頼みに行ったことがあったのだが、通してはもらえなかった。
「坊やは良い子じゃな? ならばお父さんの邪魔をしてはいかんぞ」
そう優しく諭されてはどうしようもなかった。別に父の邪魔をしようとしたわけではなかったのだが、自分が今のところ父の足手まといにしかなれないことも理解していたため、それ以上頼み込むことはしなかった。代わりにとでも言うように、お菓子を食べさせてくれて以来、村長のことが少し好きになった。
そんな経緯があるため、リュカは迷わず左側の道をゆくことにした。右手に川、左手に森があり、両者に挟まれた小道となっている。
少し進むと、洞窟の入り口まで辿り着いた。洞窟は近くで見ると、想像以上に大きく口を開けていた。
川幅は広く、向こう岸に渡ることは不可能のように思えた。泳げば渡れるかもしれないが、川のなかを泳ぐ何者かの影を見つけてからは、そんな気にはなれなかった。
しばらくの間、リュカは黙って佇んでいた。そういえば、一人でこういうところに入っていったことはなかったな、リュカはふと思った。魔物がいるようなところへ行くときは、いつだって父が一緒だった。今回は一人だ。そう思うと、怖いようなわくわくするような、妙な気分だった。洞窟を制覇することが、独り立ちのためには避けては通れない儀式であるかのような、不思議な錯覚に捕らわれていた。最初は単なる好奇心だったのだが、今は洞窟探索がリュカの中ではとても重大なことになっていた。
意を決して洞窟へと足を踏み入れた。
内部はそれほど暗くはなかった。地面、壁、天井問わずまばらに生えている草が淡い光を放っており、洞窟内を優しく照らしている。しかし、それでも薄暗く、また洞窟内部は外よりも肌寒かった。リュカは少し緊張した。
洞窟は、ゴツゴツとした岩壁が道をいくつかに分岐させていて、ちょっとした迷路のようになっている。
川を挟んだ右側の道は、すぐに途切れていた。川幅が増し、道が飲み込まれていたからだ。その黒い水面に草の発する光が反射し、キラキラときらめいている。途切れているのは右側の道だけで、こちらの道には何の支障もない。
ゆっくりと流れる水の音が、リュカには怪物の蠢くような音に感じられ、不気味だった。ここより不気味なところなんて、今までに数え切れないほど経験しているはずなのだが、その経験はたいして役に立たないようだ。当然と言えば当然かもしれない。今まではただ父について行けばよかったし、何かあっても父が必ず助けてくれていた。父の庇護の下にあっただけなのだ。父の大きさをあらためて感じたリュカであった。
まっすぐ進んでいくと、やがて曲がり角に突き当たった。道は左へと曲がり、右側には相変わらず川がある。ふと目をやると、川の真ん中には小島があるのが見えた。その小島には木でできた小舟が乗り上げている。あの小舟に乗って父は小島までいったのだろう。そして、小島の中央にある階段を下りていったのだろう。この洞窟には、ふとしたところに人工的な匂いがする。
道は小島とは真逆の方向に続いていた。その道の先には下り坂があるのがかすかに見える。父とは全く違う道を行くことが、なぜか自分を一人前にしてくれるような気がした。そう思うと、だんだん気力が湧いてきた。リュカは口元を引き締め、小島に背を向け、まっすぐに歩き出した。
下り坂を下りると、T字に道が分かれている。どちらかが行き止まりになっているのかどうかは、この時点では判断がつかなかった。
しかし、それよりも問題なのは、あちこちに魔物の姿が見えることだ。見つからないよう息を潜める。
左のほうが魔物の数が見た感じ多かった。それだけの理由で、とりあえず右に行ってみることにした。しばらく進むと、また左右に道が分かれている。
「ピキー!」
どちらへ進もうか迷っているそのとき、妙な鳴き声とともに横から青い小さな魔物――スライムが飛び出してきた。雫のような外見で、魔物と呼ぶには少々かわいらしい。そのまま突っ込んできたスライムを機敏な動きで避けると、すばやく辺りを見回した。スライムは離れたところにうまいこと着地している。
危なかった、リュカは背筋に冷や汗が一筋流れるのを感じた。スライムの接近に気づいていなかったのだ。気が抜けていたのだろうか。そんなつもりは無かったのだが、見つかってしまったものは仕方が無い。
それにしてもマズイことになった。折角コソコソと隠れながら移動していたというのに、この騒ぎで台無しになってしまうかもしれない。スライム程度ならどうにでもできる自信はある――スライムは最弱の魔物として有名なのだ――が、他の魔物まで引き寄せられてきたら、たまったものではない。
再び突進してきたスライムを、杖で迎撃する。思いのほか勢いがあり少しよろけたが、体勢を立て直す必要も無い程度のものだ。弾き飛ばされ、ふらついているスライムに止めを刺そうとリュカは突進するが、そのとき足元から何かが突き出してきた。
「うっ!」
全力疾走しているところに足を払われたような形になり、リュカは素っ転ぶ。実際は足を払われたどころのレベルではない。すねの辺りがパックリと割れている。反射的にリュカは傷口を押さえた。
何が起こったのかと目を向けると、地面からせみもぐらが顔を出していた――見た目はセミに近く、モグラのように地面に穴を掘って移動する魔物だ。前足は鎌のようになっており、恐らくあれに足を刈られたのだろう。
地面に転がっているところにスライムが突っ込んできた。杖で咄嗟に防御するも、衝撃をモロに受け、突き飛ばされた。
とにかく早く立ち上がらないと。ゴロゴロ転がりながら、リュカは命の危険を噛みしめていた。しかし、泣き言を言っている場合ではない。転がっていては話にならない。痛みを堪えてすばやく立ち上がると、既に足元に顔を出していたせみもぐらに、体重を乗せて杖を思い切り振り下ろした。重い手ごたえが伝わってくる。
断末魔の叫びだったのだろうか、耳障りな奇声を発して、せみもぐらはグニャリと身体を折った。生死を確認している場合ではない。この隙にスライムが目前に迫っていた。防御が間に合わず、腹に一撃もらう。再び吹っ飛ばされるが、目線はまっすぐスライムに向けている。どうやらスライムは攻撃の際、直線的な動きしかできないらしいことが、今までの戦いでわかった。それならばよく動きを見てさえいれば、杖で叩き落すことができる。
そのチャンスはすぐにやってきた。スライムが凄いスピードで突っ込んでくる。リュカはしっかりと杖を構えた。そして、自分の攻撃範囲に入ったスライムを渾身の力を込めて叩き落とした。
湿った音をたてて、スライムの身体が崩れた。
ようやく初戦が終わった。ペタンと地面に座り込んだ。荒い息遣い。心臓が胸から飛び出してきそうだった。こんなに疲れた戦闘は初めてだとリュカは思った。地面の冷たさが尻から伝わってくる。
しかし、ホッとしている場合ではない。騒ぎを聞きつけたドラキー――蝙蝠のような魔物だ――が、興味深げにこちらを眺めているのが見えたからだ。いつ襲い掛かってきてもおかしくはない。
「キキキキキッ」
何がおかしいのか、笑っている。
リュカは急いで薬草ですねの傷を治療することにした。痛みでもう立てなかったのだ。すねからは血がだらだらと流れていることに今さら気付いた。こんなこともあろうかと、薬草を何枚か持ってきておいたのは英断だった。
腰にベルト代わりに巻いている縄にぶら下げた小さな袋を開け、薬草を一枚取り出す。掌で荒くグチャグチャにすり潰し、出てきた臭い汁をすねの傷に塗り付ける。すると、さっきまで血がだらだら流れていた傷口がみるみる塞がっていく。痛みもほとんど引いた。
もう薬草をバカにするのはやめよう、リュカは思った。今まではパパスの回復魔法があったため、薬草なんて邪魔でしかなかったのだ。
ドラキーが襲ってこなかったことに感謝しつつ、リュカは先に進むことにした。相変わらず聞こえるドラキーの笑い声は無視した。戦闘をしながらだいぶ移動してしまったが、現在地はある程度把握しているつもりだ。さっきの分かれ道を右に進んだところである。そのまま進んでいくと、道は左にカーブを描きはじめた。道なりに進むと、大きな穴が地面にぽっかりと開いているのが見える。穴の前には立て札が立てられていた。何か文字が書かれているが、リュカには文字が読めなかった。
勉強するの忘れてた、リュカは思い出した。以前ビアンカに本を読んでもらったときに、文字の勉強をしようと心に誓ったはずなのに、すっかり忘れていた。何と書いてあるのか気になってしょうがない。
今度サンチョに教えてもらおう。仕方ないので立て札のことは忘れ、穴に落ちないように気をつけながら先へ進むことにした。慎重に穴の横を通り過ぎようとしたまさにそのとき――
「キーッ!」
――さっきのドラキーだろうか、急降下してきた。咄嗟に身をかわすが、バランスを崩し穴へ落ちそうになった。奈落が口を開けて待っている。あわてて立て札にしがみつくことで、どうにか耐える。心拍数が急上昇した。
勢いよく顔を上げる。
ドラキーが空中で旋回し、こちらへ再び降下してくるのが見えた。左手で立て札をつかみつつ、右手の杖で横薙ぎにドラキーを殴りつけた。見事に命中したものの、リュカにも衝撃が伝わりバランスを崩す。穴はただそこにあるだけで不思議と引力を感じさせた。引きずり込まれてしまいそうな錯覚がリュカを襲う。
ここで戦うのは不味い。攻撃を当てることができても、こちらが穴に落ちてしまっては元も子もない。とにかくここから離れなければ。そう考えたリュカは、慎重さを捨て走って先へ進むが、腹を立てたドラキーはさきほど以上の速さで襲い掛かってきた。
「ギーーッ!!」
荒々しい声を上げ、突っ込んでくる。リュカは迎撃しようとするも、予想以上の速さに杖は空を切った。リュカは突き飛ばされ尻餅をついたが、運よく穴に落ちずに済んだ。しかし、まだ安心はできない。リュカはすばやく立ち上がりこの場を離れようとするが、ドラキーはそれを許さない。縦横無尽に飛び回り、執拗にリュカを穴に落とそうとしてくる。そんな知能があるとは驚きだった。必死に踏ん張り、身を固める。
そうこうしているうちに、ドラキーの叫びを聞きつけたのか、もう一匹ドラキーが現れた。
「キキキキキッ」
最悪だ、リュカは思わず舌打ちした。
二匹のドラキーの怒濤の攻撃にリュカは防戦一方にならざるを得なかった。右から来るほうに気を取られると、左からの攻撃を。顔を狙ってくるほうに気を取られると、腹への攻撃を。同時に、足下にも注意を払わなければならない。
いくら防御していても、穴へ落ちるまでの時間を引き延ばすことにしかならない。とは言え、ここで戦うなど論外だ。リュカは一か八か、頭を抱えて強行突破することにした。とにかく穴から離れればどうにかなると信じることにした。姿勢を低くして、両手で頭を抱え、全速力で走った。
「――え?」
おもわず間抜けな声が零れた。突然足が動かなくなったのだ。慌てて足元に目を向けると、地面から突き出た鎌のようなものが自分の右足の甲を突き刺し、地面に縫いつけているのが見えた。
激痛を認識し、思わず悲鳴を上げる。鎌が足から抜かれた。血が溢れる。
血に染まった鎌をどこか得意気に掲げているせみもぐらと、目が合った。ぞくりとリュカを言い知れぬ感覚が襲った。相手は自分を殺す気なのだ。そんなわかりきったことを、今さらながら思い知らされたような気がした。
「キキキキキッ」
腹への衝撃。気付けばリュカの身体は宙に放り出されていた。
ドラキーとせみもぐらの連携プレーだったのか、それともただの偶然が重なったのかはリュカにはわからなかったが、自分にとってこれ以上無いほどの最悪な結果をもたらしたのだということはわかった。
落ちていく。どこまでも暗い闇の中へ。光の届かぬ穴の底へ。金属音のようなドラキーの笑い声が洞窟内に木霊した。