長谷川千雨には誰にも言っていない秘密がある。
それは千雨が『生まれる前から』抱えていた事情。
よく覚えていないが、千雨ではない誰かだった記憶。
新学期初日、中学三年生になった長谷川千雨は、友人の宮崎のどかと二人で暗くなった桜通りを歩いていた。
好みのジャンルは違うが、二人とも本が好きなので、話は自然と本の話題になる。
「――っていう著者の本はあんまり信用できなくてなー」
「あれ? この前分かりやすいって言ってなかった?」
「んー、理解できてくると内容が初心者向けに偏りすぎてるという事が……」
千雨が言葉を切ったその時、一際強い風が吹いて、のどかがビクッと体を固くした。
「どうした?」
「う、ちょっと学校で聞いた噂のことが……」
桜通りの吸血鬼。満月の夜に出てくるという化け物の噂。
「いや、のどか。吸血鬼なんていないから――」
千雨は気の弱い友人に“嘘”をついて安心させようとした時。
「25番長谷川千雨に、27番宮崎のどかか……」
第三者の声にバッと振り返る。
「悪いが、少しだけその血を分けてもらうよ」
黒い布を身にまとった、怪しい人物が、そこに立っていた。
「……なんだテメー?」
「言う必要性があるとは思えないな」
不審者の口元がわずかに見えた。その口の端は、こちらをあざ笑うかのように吊り上っていて、
「どうせこのことは忘れてしまうのだからな!」
そう言い放った不審者は、勢いよく千雨に飛び掛かってきた。
不審者に押し倒され、身動きができなくなった千雨を見て、のどかが叫ぶ。
「ちさめ!」
「のどか! 警察に、いやにげろっ!」
千雨の言葉を聞いて、急いで携帯電話を取り出そうとしたのどか。しかしその手が、急に不自然に上げられた。
「あうっ」
「のどかっ!」
「警察は面倒だからな、大人しくしていてもらおう」
千雨の目には、不審者の手からキラキラしたものが伸びているのが見えた。おそらく糸か何かがのどかの手を縛り上げたのだろう。
「さて、少し痛いかもしれないが、まあ我慢してくれ」
「放せ! このヤロウ!」
千雨は必死に抵抗するが、押さえるのがうまいのか、胴の上の小柄な不審者はびくともしない。
せめて一発ぐらいブチ込む力があれば。
そう思う千雨に不審者の顔が近づいてきて、ようやく見えた不審者の素顔に千雨は驚愕する。
「なあに、死にはしないさ」
そういって、不審者――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの小さな牙が千雨の首筋に突き立てられた。
ドクン。
千雨は、エヴァンジェリンの牙から何かが自分の体に入り込むのを感じた。
「ひぐっ!?」
急にエヴァンジェリンが妙な声を上げて千雨の首筋から離れた。
「痛た……なんだ? 急に血が冷たく……?」
千雨の血が勢いよく全身をめぐりだす。それなのに体温はちっとも上がらない。それどころか冷たくなっていくようだ。
だが、これが正常。冷えていく千雨の頭が、魂の記憶がそう語っていた。
そうだ、私は――。
「コラーッ!! 僕の生徒に何するんですかーっ!」
そこへやってきたのは、担任の子供先生、ネギ・スプリングフィールド。
彼の手から何かが放たれる。
それは、千雨が千雨でなかった時の記憶を強く呼び起こした。
記憶は完全ではない。しかし、重要なことは思い出した。
『あたい』は氷の妖精『チルノ』だ。