第43話 『聖杯は願いを叶え、セイバーとバーサーカーは雌雄を決する』 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 衛宮切嗣 とても長い夢を見ていた。無限の希望を抱いて、同じ数だけ絶望を味わって。それでも諦めきれない思いを抱き直した。 何が起こったのか僕は正確に思い出せていない。だけど、全て遠き理想郷(アヴァロン)が僕の中に入り込んだ瞬間、たくさんの事を思い出した。 僕は衛宮切嗣。 アイリスフィール・フォン・アインツベルンの夫。 セイバーのマスター。 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンの父。 聖杯戦争の参加者。 父、衛宮矩賢を殺し。シャーレイが死徒になるのを止められず。ナタリアも殺した―――。 魔術師殺しの衛宮切嗣。 「がっ!!」 僕が僕自身を自覚した瞬間、僕の身に起こってる事も少しだけ思い出す。 聖杯が僕の願いを叶えようとしている。ただ、その為の代償として僕の命を求めてる。どうしてそんな事になったのかは思い出せない。だけど判る、経過を飛ばして結果が僕の中にある。 アイリは命を引き替えに僕に聖杯を託してくれた、全て遠き理想郷(アヴァロン)も一緒に託してくれた。 僕は聖杯で人類を救済する。世界に恒久的な平和をもたらしてみせる。 僕はアイリを殺した。僕が聖杯を願ったから、アイリは消えた。命を賭けてまでアイリは僕に聖杯を渡してくれた。 だから、もしここで聖杯に僕の願いを叶えさせなかったら。何のためにアイリを犠牲にしたのか判らなくなる。僕の命ぐらい捧げなきゃいけない。 アイリの為にも、僕は聖杯で願いを叶えなきゃいけない。 聖杯を満たすサーヴァント達の魔力が黒い泥になって僕を侵食してる。 アイリから渡された全て遠き理想郷(アヴァロン)がその侵食を食い止めて治してる。 僕が壊される。 僕が治される。 何度も壊されて、その度に治される。 苦痛で意識が朦朧とする。考えが上手くまとまらない。だけど僕には判る。無限に繰り返される破壊と再生の先に僕の待ち望んでいたものが待ってるって。 それが聖杯に託した僕の願い。 聖杯が叶える僕の願望。 壊されていく度に、治されていく度に、僕の胸に黒い孔が少しずつ作られていく。 それは聖杯の作り出す門。聖杯はこの門を通る為の鍵。鍵が門を開け続けていれば、向こう側にある力をこちらに引き寄せられる。 その力を使って聖杯は僕の願いを叶える。 また僕が壊される。 また僕が治される。 その度に胸に刻まれた黒い孔が少しずつ大きくなる。 聖杯の力は肉体を侵し、血管を巡り、心臓に到達し、孔を広げる。 この孔が完全に開いた時、僕の肉体が聖杯に馴染んだ時、僕の命を聖杯が喰らった時。聖杯は僕の願いを叶える。 かつて僕が志して、僕だけじゃ決して成し得なかった行いを、人の手で及ばない規模で完遂する。 聖杯は人類を救うだろう。世界に恒久的な平和をもたらすだろう。もう二度と争いのない、誰も傷つくことのない、完成された理想郷が出来上がるだろう。 僕は聖杯の力で―――魔術師殺しの衛宮切嗣は―――争う全ての人間を殺し尽くして―――世界を平和にする。 もし衛宮切嗣が真に自分を取り戻していたならば、自分の体を侵食する聖杯が求め欲した願望機とは全く異なる性質の物だと一瞬で看破し、即座にその危険性を知って破壊する術を考えただろう。 けれど衛宮切嗣はそれをせず、むしろ肯定した。 衛宮切嗣は覚醒した時点で既に狂っていた。中途半端に自分を思い出してしまったが故に『彼』は狂っている自覚を持てなかったのだ。そして衛宮切嗣の願いを止める者はいなかった。 衛宮切嗣は全てを間違えたまま―――聖杯は『彼』の願いを形にした。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 言峰綺礼 聖杯と呼ばれた空間の中で私は開示された選択肢を十ほど見た。だが、その全てが『救い』であると同時に『破壊』でもあった。 当然だ。衛宮切嗣が求める『人類の救済』など、この世界のどこにも存在しない。 この世界に生きる人間の意思を根絶し、排斥し、争う原因たる心を排して初めて実現される願い。その過程に人類を抹殺する規模の『破壊』があるのは明々白々たる事実。 衛宮切嗣はケフカ・パラッツォが見せる『救い』を見せられ続け、世界を救う可能性を探し続け、永遠にも等しい時の中を放浪するつもりのようだが、私は早々に奴が見る選択肢の閲覧を放棄した。 奴が聖杯に託す願いを見るのを全て付き合ってやる必要はない。衛宮切嗣が現実を見ない限り、どんな『人類の救済』であろうとも、徒労に終わるのが目に見えている。 おそらくこの認識の違いが現実へと帰還した後の私と衛宮切嗣との差異となったのだろう。 現実の時間では一分にも満たない時間しか経っていなくても、私の感覚では最早一日近くが経過していると思ってしまう。衛宮切嗣はその数十倍、数百倍、あるいは数万倍か数兆倍の時間を精神だけで旅したに違いない。 過ごした時間の長さに比例して魂は摩耗した―――。 「あ・・・・・・あああ・・・ああああ、あ・・・」 聖杯の泥の中で目を覚まし、視界の中にある衛宮切嗣の無様な姿を見た瞬間。私は起こった事実をありのまま受け止めた。 肉体そのものに変化は無く。私の腹には銃で穿たれた穴は開いたまま、右腕は前腕が骨まで粉々に砕けて使い物にならない。聖杯の泥に触れる前と何も変わっていない。 足元を見ると地面に落とした筈の衛宮切嗣の娘の姿は無かった。 数センチほどの浅さしかない聖杯の泥だ、幼子と言えど体の全てが沈み込むような状況には陥らぬので、聖杯の中でケフカ・パラッツォが語った通りこの泥に呑まれてしまったのだろう。 衛宮切嗣はあの聖杯に娘の蘇生を願わなかった。 あるいは衛宮切嗣の娘―――アインツベルンの娘でもある、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンという名の娘にとって消滅はいっそ幸福であったのではないだろうか。 私の手で盾にされたのは紛れもない事実であるが、『父に撃ち殺された』『父に生存を望まれなかった』この事実は私との関連性をなくしても残る。特に後者は『言峰綺礼』という要素を排除して願えばそれだけで事足りた。 もしあの幼子が別の理由で生存し、この事実を知らされたらどうなるか? おそらく父である衛宮切嗣の今と同じように絶望に染まり、魂は摩耗し、生きる意思そのものを砕いて『生』を放棄したに違いない。 その顔を見れぬのは残念だ。 私は自分の状態を確認し、ありえたかもしれない『もし』を空想しながら、治癒魔術を行使する。まずは腹部の穴を塞ぐのを最優先とし、合わせて衛宮切嗣の様子もまた確認し続ける。 衛宮切嗣があの聖杯を望まぬとしても、破壊しよう等と考え行動に至ったならば、私は腹に穴が開いた状態でもそれを防がなければならない。 だが。意識はすり減り、魂は切り刻まれ、自分を見失った男が最初にとった行動はこの聖杯戦争の賞品となっている聖杯への執着。妻の体内に収められた聖杯を手に入れんとする妄執であった。 私の方を見向きもせず、私が斜め後ろから見ている事に全く注意を払わない。 あの男には判らぬのだろう。 我々が浴び、今は足元に広がる泥を生み出した聖杯とアインツベルンの女の中で眠り、魔力の有無によって目覚めようとしている聖杯が同種であるのだと。 魔術を知り、同じモノに喰われていた者ならば、誰であろうとも正しく『同じ物』だと認識できる。だが衛宮切嗣はそれを理解しない。 目覚めてあの女の姿を見た瞬間、私の中に生まれた得心をあの男は全く考えていない。一時でもあの男と私が同属であると思ってしまった過去を恥じる気持ちが今の私にはあった。 ケフカの言葉には何一つ嘘はなかった。奴が言った通り、私たちが呑まれたあれは紛れもなく『聖杯』であったのだ。 ケフカがどうやって聖杯を手に入れたのかは今も謎のままだが、間違いなくあの『聖杯』もアインツベルンの女の体内にある『聖杯』も、どちらも等しく聖杯だ。 令呪を授かったマスターが追い求めたものとまるで違っていたとしても。アーチャーに見限られた時臣氏の説明と違い過ぎていたとしても。万能の釜を模した魔術礼装などではないとしても。あの聖杯は冬木を舞台にした聖杯戦争の果てに作られる聖杯そのものだ。呑まれたからこそ私には判る。 衛宮切嗣がケフカの用意した聖杯を認めず、妻を犠牲にして手にする聖杯を求めるのならば、私は奴の行動を止めはしない。 どちらも同じモノだと理解しない愚か者を止めてやる義理は私には無く。何より衛宮切嗣が聖杯を開放するのならば、その果てに聖杯の中で見た破壊より強大な破壊がこの世に生まれるだろう。 それは私も望むところだ。 「聖・・・、は・・・い・・・」 倒れた状態で治療に専念し、衛宮切嗣が夢心地に妻の腹を見る様子を監視し続ける。横向きの体勢で少々見辛いが何が起こっているかを知るならばこれでも十分だ。 それにしても衛宮切嗣の無様な様子は見るに堪えない。 もし私が立ち、奴が地面に伏せた状態だったとすれば。敵の様子には常に注意を払い、横たわった状態であったとしても油断するような真似は決してしない。それが出来るのは敵を殺すか無力化させた後だ。 だが今の衛宮切嗣は銃を地面に落とし、隙だらけの姿を私の前に曝け出している。治癒魔術を使う前に攻撃していれば、難なく倒せてしまう隙だらけの姿。 愚かな・・・。 私は治療以上に衛宮切嗣と殺してしまいそうになる自分自身を強く自制しなければならなかった。 その間にも状況は動き、衛宮切嗣が求め、私もまた望む構図が次々に作られていく。 いっそ懐かしいとすら思える道化師の格好をしたケフカ・パラッツォはアインツベルンの女に魔力を注ぎ込んでゆく。アーチャーと真っ向からやりあえる魔術師の分身体は英霊以上の力を聖杯の器へと注ぎ込み、市街地の中で聖杯降臨の儀式を強制的に引き起こす。 悲鳴を上げる間もなく絶命する女。 現れる聖杯と見慣れぬ黄金の鞘。 その二つを手にする衛宮切嗣。 地面に広がる聖杯の泥と同じモノが聖杯から溢れ、衛宮切嗣に纏わりつく。 次々と巻き起こる異常に周囲の雑踏が時間を経るごとに膨らんでゆくのが聞くだけで判る。 冬木の夜は聖堂協会のスタッフの情報操作と現地の警察の勧告によって人通りの少ない場所に変貌していたが。目に見える形の異常ゆえに人は知ろうと集まってくる。 証拠隠滅には聖堂教会だけではなく魔術協会へも協力を要請し、下水を流れる工業廃水の化学反応によって発生した有毒ガスという建前で報道を眩ませ、周辺に集まった者たちとこの一帯の人間には有毒ガスから発生した毒性の幻覚作用の診断という名目で病院へ送り込む。もちろん病院には暗示と洗脳の技術を習得した魔術師と代行者を待機させ、目撃証言を握り潰してはどうだろうか―――。 父より引き継いだ監督役の責務を脳裏に描きながら、衛宮切嗣が聖杯の喰われ始めたのを確認する。ちょうど治癒魔術も一段落したので、私はようやく体を起こした。 最早、聖杯降臨の儀式は誰にも止められない所まで来たのだ。私一人が起き上がった所で大勢に影響はない。 周囲を取り囲む人垣の一部が私を見ている。だが、大多数の人間は異常を巻き起こし、事の発端となっている衛宮切嗣を見ている。 おそらく私を見ているのは一人か二人程度。その視線も私が無事だと判ればすぐに衛宮切嗣へと視線を戻す。 誰も気付かない。いつの間にか道化師の格好をしたケフカ・パラッツォが立ち上がった私の横に立っているなど―――。 飛び降りたか、転移したのか。いつの間にか屋上から道路まで移動し、大きな異常にまぎれた小さな異常を作り出している。 「おほほほ! あっちの僕ちんとは会えたようですね」 ケフカは私の横に並び立ち、同じように衛宮切嗣を見る。これまで何度も繰り返した観戦の構図を再び作り出したのだ。 敵までの距離はほんの数メートルだが、その近さと変わらぬ様子が私の中の危機感を呼び起こす。 衛宮切嗣の願いを聖杯はどのような形で叶えるのだ? それはケフカが戦いを見るのと同じ位に危険視しているのではないか? 危険の渦中にいる自分を意識し、私はケフカが手に持っている黄金の器を小さく指差す。それは衛宮切嗣が手にしているモノと全く同じ形をしている。 「『あれ』と『それ』は同じ物なのだな」 「判る? 見事だじょ」 「私は一度それに呑まれたのだぞ? あの男が事実を判ろうともしない愚か者だとは見抜けなかったが、これは理解できる」 「帰ってこれたのが尊敬に値するのだ。普通は触れただけで即死じゃあ、ヒッヒッヒ・・・」 そんな危険なモノを何のためらいも無く私に浴びせる気性。 こいつは確かに答えを得た私の同類かもしれないが、決して味方にはならない存在だと再確認する。 自分の欲望が満たされるのならば誰であろうともその手にかける。衛宮切嗣との戦いに没頭し過ぎた私にも非はあるが、ある意味でアーチャーよりも始末が悪い。 ならばどうする? これからどうなる? 衛宮切嗣がどんな形で聖杯に願い託したかは奴にしか判らぬが、これからの展開と行動は聖杯を知るケフカが情報の大部分を握っているのは間違いない。 こいつは聖杯の行く末を知っている。そしてわざわざこの場に現れたのは、私にも関連する何かが起ころうとしているからに違いない。それが私と敵対する事象ならば、分身体と言えども殺しておく必要がある。 右手でまだ僧衣の中に残る黒鍵の柄を掴み、三本までなら一瞬で刃を構成し投擲する準備を整えた。狙うはケフカ、あるいは衛宮切嗣。 「・・・・・・」 「すさまじい魔力を感じますよ。と――、とっても激しい魔力の波動なんだな」 私の攻撃の意思を読み取ったうえで無視しているのか、ケフカはこちらに視線を向けることなく衛宮切嗣を見つめたままそう言った。 冬木教会から連れ出されてから幾度となく合った場面、私の忌々しさを増長させる態度だ。 しかし語られた言葉が状況の一部分を映し出し、私が無視できないようになっているのも事実。ケフカが喋る言葉を私が聞き逃せないと知っているのならば、踊らされる私こそが道化ではないか。 いっそ全てをゼロに帰する為にこの分身体を殺しておくべきか? そう思いながらも、ケフカの語った言葉を吟味する私もいる。 足元に広がる聖杯の泥と、衛宮切嗣の右手に握られた聖杯から溢れる泥の禍々しさが強力過ぎて、私ではケフカがどの魔力について『激しい』と言っているのか判れない。 私はその思考を否定した。今の状況、この場所で動きがあるとすれば、それは衛宮切嗣をおいて他にはいない。 何かが起こる。それもケフカが警戒する程の何かが―――。 「シンジラレナーイ!!!」 奇妙な格好をして短くジャンプするケフカが気にならないと言えば嘘だ。けれど、私の目は離れた位置に立つ衛宮切嗣がこの世界に舞い戻ってから初めて見せる苦悶以外の動きを注視した。 掲げた右手には相変わらず妻を犠牲にして手に入れた冬木の聖杯が握られている。黄金の鞘が消えてなくなるまで左手はその鞘を握っていたが、今は何も持っていない。 無手の左手が動き、私とケフカが立つ場所とは全く別方向にまっすぐ伸ばす。 小指、薬指、中指の三本が内側に軽く曲がり、親指は中指の先について小さな輪を作った。そして人差し指は前を指差すように一本だけ伸びて、何かを引くように曲がる。 次の瞬間、銃声が鳴り響いた。 「え・・・?」 その呟きは衛宮切嗣が左手を伸ばしていた方向の人垣から発せられた声であった。何が起こっているか判らない戸惑いがありありと込められている。 そう呟くのも仕方がない。 衛宮切嗣の人差し指が曲がった瞬間、何も持っていなかった筈の左手に突如拳銃が発生したと理解できる一般人はいない。 短機関銃のキャリコM950。魔術礼装ではなく単なる拳銃の一種だが、衛宮切嗣の武装の一つ。それに酷似した黒い塊が衛宮切嗣の左手に現れ、銃身から黒い塊を撃ち出したのだ。 ずっと見続けている私ですら見逃してしまいそうな一瞬の出現であった。 弾丸に見えるそれは人垣を構成する一人に直撃する。 当たったのは脳天だ、あれでは助かりはしない。 「世、カい・・・を――」 この場にいる一般人は誰一人、何が起こったかを理解していない。 ただ硬直し、唖然とする。 衛宮切嗣の呟きなど聞いていない者ばかりだ。 目の前にいるのは伏していた怪我人でも病人でもない。そこに現れたのは等しく破壊をまき散らす『死』の化身。 平穏に慣れきって銃社会の危険性すら判らず。銃が日常的に出回っている状況にいる者ならば即座に逃げ出す状況でありながら、まだ放心状態を続けている。 まるで先ほど見た聖杯に心をすり減らされた衛宮切嗣の様な愚かさだ。私のように黒鍵の柄を取り出して刃を形成し、衛宮切嗣を危険と判断して備える者など誰もいない。 「ヘい和、に・・・」 聞こえた衛宮切嗣の呟きを打消し、また銃声が鳴り響く。僅かに動いた人差し指が引き金を引いたままでいると、今度は銃身から黒い塊が連続で撃ち出された。 衛宮切嗣が左手を横に流せば、弾丸に見える黒い塊は人垣を作る十数人の眉間を、肩を、腕を、腹を、心臓を、脳天を、口を、首を撃ち抜いてゆくゆく。 「あ・・・・・・」 知り合いだったのだろうか? 隣にいる男の頭蓋骨が粉砕されて地面に崩れ落ちる様子を見ていた女が呟く。 その呟きを打ち消すケフカの言葉が周囲に轟いた。 「逃げろ! 逃げろ! でないと、全員死ぬじょー!!」 ケフカの言葉は正しく合図となる。 「な、何なのあんた達!?」 「ひとごろしぃぃぃ!」 「逃げろ。逃げろ!!」 そこでようやく『銃を構える誰か』を危機と認識し、悲鳴を上げる者、一目散に逃げる者、腰を抜かす者、と―――。混乱が生まれた。 撃ち殺された。ここに居たら自分たちもまた同じ運命を辿ってしまう。背を向けて逃げる者たちからそんな言葉が聞こえてくるような素晴らしい光景だ。 この見事な様子を作り出す衛宮切嗣と聖杯に感謝する。 「固有時制御(タイム・アルター)・・・、二倍速(ダブルアクセル)!!」 衛宮切嗣が唄うように叫び呪文を唱え終えると、奴の姿は十数メートル先にまで一気に移動した。 我先に逃げ出した者の前に先回りして振り返る姿が見える。もちろん右手には黄金の杯を握りしめたままで、左手には銃を模した黒い塊を握りしめている。 ここでようやく私の見る方向と奴の見る方向がぶつかったのだが、やはり衛宮切嗣は私には見向きもしない。奴はもう私を敵と見ていない―――その確信が合ったからこそ私はあの男が呪文を唱えると認識した瞬間に何もしなかったのだが、死を振りまく行いへの感謝と全く相手にされない状況への苛立ちを同時に思う。 衛宮切嗣は銃に見える何かを構えて数発の黒く小さな塊を撃ち出す。それは突然目の前に現れた異方者に硬直する有象無象の脳天に吸い込まれ、また死を増やしていった。 振り返ったが為にようやく見えた異常―――。衛宮切嗣の胸に黒い孔が開いている。 直径は三十センチ弱。両腕と腹との間に僅かに残った部分が辛うじて四肢を繋ぎ止めているが、胸部は孔によって丸ごと抉られていた。 骨も肺も心臓すらも無い巨大な孔だ。まともな人間ならば生命活動を即座に停止させるほどの重症でありながら、奴は何事も無く動いている。それこそが『孔』が目に見える物理的な空洞とは大きく異なる証明でもあった。 奴が魔術を使う前に背後から見ていたが、背中に抜ける穴などなかった。 大きさを考えれば衛宮切嗣の向こう側を見るのも容易いが、孔の中に見えるのは冬木の景色ではなく全てを呑み込む闇。見続ければ吸い込まれてしまいそうな極限の黒がそこにある。 底抜けに深く重い闇を湛え続ける孔。全てを押し潰すかのような黒い太陽が衛宮切嗣の胸に輝いている。 あれこそが時臣氏が求めたもの。七体の英霊の魂を束ねて生贄とすることで穿つ『根源』へと至る孔。 円周部分に輝く黄金の光が孔の広がりを防ぎ、それ以上の拡張を防いでいるようだが、孔の奥から流れ出る黒い泥までは抑えきれていない。 孔の奥から現れた黒い塊は腕を伝って衛宮切嗣の左手に登る。途切れる事無く溢れ、それは奴が持つ銃の形をした何かへ吸い込まれていく。あれが弾丸の補充だとすれば、撃ち尽くした銃は装填しなければ次の弾丸を撃てない、と。そんな人間らしい思考が衛宮切嗣に残っているのかもしれない。 右手の聖杯から溢れる黒き泥が孔に繋がり、別種であり同種でもある黒き泥が左手を登る。もはや、奴が着るロングコートの上半分はその黒さを上回る究極の黒によって塗りつぶされていた。 喧騒の中、おそらく最も冷静に状況を客観視している私は隣に立つケフカに話しかける。 「あれが聖杯の答えだと言うのか?」 「衛宮切嗣が知る最も的確かつ効率の良い『世界の救い方』。右手が塞がって一番威力があるのを具現化してないし、全力の一割にも届いてないけどな。いいぞ、死ね、死ね、死ねー!!」 ケフカの言葉に後押しされた訳ではないだろうが、衛宮切嗣は私から距離を取り、更に遠くへと移動して死を広げていった。 明らかに身体強化の魔術とは別種の魔術。おそらく私と戦った時にも使っていた時間操作に類する魔術であろうが、肉体を鍛えていたとしても連続行使は死に直結する。 けれどあの男は何の躊躇いも無く魔術を使い、私から距離を取り―――死をばら撒いていく。それが面白く、そして不愉快でもあった。 最早、この場において私は奴の敵ですらなくなってしまっているのだから。 「それで? どうする、言峰綺礼」 「どう――とは?」 言葉の中に僅かな苛立ちが混じるのを止められない。半ば、ケフカの口から語られる言葉が何であるかを理解しつつ、私はあえて苛立ちと共に言葉にした。 思えばケフカが持つ聖杯の泥に触れ、聖杯の中にいた時からケフカが何をやろうとしているかを語られる以前に知っているような気がした。 衛宮切嗣が私に見向きもしなかった点もそうだと事が起こる以前に理解していたからに他ならない。だが、聖杯が私に何かしたのだとしてもその何かが私には理解できなかった。 理解と不可解。相反する思いが私の中に渦巻く。 「こっちの聖杯を使えばお前の望みは叶う。けれどその対価は大きいでしょう。知ると同時に死ぬ、これは確定ですよ」 何故この男が私の求めるモノを知っている? 鎌をかけた可能性を考えたが、そんな事では無いと私こそが理解している。ケフカ・パラッツォは嘘を言っていない、聖杯は間違いなく私の願いを―――『言峰綺礼』の魂を生み出し、このような形に作り上げた方程式を―――教えると確信する。 理由も無くいきなり答えにたどり着けてしまうのは、聖杯の中で意識が繋がった影響だろう。 ケフカが私を知る様に、私もまたケフカを知る。 「ひょっ、ひょっ、ひょっ。それでもボクちんの聖杯を使うかな?」 終始楽しげに話すこの男の問いかけに対し。もしこの場で断れば、こいつは生涯私に聖杯戦争によって降臨する聖杯を使わせないと確信する。それどころか嬉々として邪魔するであろう未来が共に容易に想像できる。 私は聖杯が万物の願いをかなえる願望機などではなく、『根源』にと至る為の魔術礼装であると知っている。だが、同時に触れたことでこの聖杯は使用者の願望は歪んだ形ではあるが叶えると理解した。 ケフカの言うとおり、私の求める知識を得れば代償として私は死ぬ。衛宮切嗣がそうであったように、人の脳では抱えきれない情報量で私の頭は破壊されて死に至る。 既にアインツベルンが用意した第四次聖杯戦争の『聖杯の器』は使われてしまい衛宮切嗣の手の中で聖杯として存在している。あれを奪ったところで得られる結果は同じだ。 ケフカの持つ聖杯も衛宮切嗣が持つ聖杯も諦め、別の方法を探す選択もあろう。 だが私は自らに課した。問い、探し、理解すると。 この命を費やすとしても―――。 「アサシンに命ずる」 気がつけば私は衛宮切嗣の事を意識から除外し、刃を形成した黒鍵を元の十字架への戻して、預託令呪の刻まれた腕を前に突き出していた。 監督役代理としての責務。聖杯戦争のマスター。生きる為には逃れられない今以降の食事。大小の違いはあっても、やり残したことは山のようにある。だが『善悪の定義を根底から揺るがす矛盾の解』はその全てを天秤の片方に乗せても釣り合わない。 私が求める『解』は命を費やしてでも得なければならない答えであり、他の何よりも優先させるべき事柄なのだ。 故に今この場で出来る心残りを減らし。命を賭けて手に入れる。 「ライダーのマスターを殺せ」 預託令呪の一画が輝き消耗される。これで唯一残ったアサシン―――少女の姿をしたアサシンは常に張り付いているライダーのマスター、ウェイバー・ベルベットを殺すために行動を起こすしかない。 令呪とはサーヴァントに対する絶対命令権。サーヴァントが持つ対魔力によってはその効力も半減し、あるいは抵抗すら叶うだろうが。あのアサシンに抗う術は無い。 アサシンの本性を現した瞬間に呆気なくライダーに殺されるか。それともライダーが殺すか。マスターが敵サーヴァントをその手にかけるか。 あのマスターはこれまで被害者と思って保護していた少女が敵だった事実に絶望するだろうか? 共感知覚の魔術でアサシンの様子を知ればどうなるかを見届けられるが、求める解の比べれば塵に等しい。目先の欲に囚われた瞬間、ケフカがこの場から脱する可能性とて大いにあり得た。 アサシンへの気がかりを即座に打消し、思考を聖杯へと向ける。 冬木の魔術儀式によってもたらされる聖杯とは、脱落したサーヴァントの魂を一時的に留めておく器であり、根源に通じる孔を開ける手段そのものだ。 だがおおよそあらゆる願いを叶えられるほどの魔力を満たす器である事実は覆しようがなく、願望機としての機能であれば六騎。時臣氏が求めたように、根源へと至る孔をあける為には七騎分のサーヴァントの魂が必要となる。 始まりの御三家ならば誰もが知っている事であり、私とて時臣氏からその事実は聞いている。 一度呑まれたからこそ理解できる。ケフカが持つ聖杯―――これには充分すぎるほどの魔力が満ちている。 事前に聖杯を出現させるために一度目、そして衛宮切嗣が持つ聖杯を降臨させるためにもう一度。つまりケフカ・パラッツォは聖杯戦争に招かれた全てのサーヴァントの魂の倍の貯蔵魔力を持っていることになる。 これが個人で成しえた技だとするならば、この男の魔術回路はいったい何本存在するのか? その疑問をも解き明かしたい衝動に駆られるが、アサシンの時と同じく切り捨てる。 「まだまだ令呪は残ってる。頑張っちゃってる英雄王さまに令呪は使わなくていいのかな? 必要なんじゃなーい?」 「必要ない。むしろ奴に『命じる』などと言おうものなら、私の身が危うい」 「そう? 今から死ぬんだから、それ位はいいと思うけどね。ホワッホッホッホ!」 ふと辺りを見渡せば、衛宮切嗣によって撃ち殺された死体の山が道路に点々と転がっていた。 私と衛宮切嗣の意識を呑み、あの男の娘も喰らった聖杯の泥の上に転がる死体。それを出発点として、衛宮切嗣が駆け出した方角に幾つも幾つも死体が並んでいる。 軽く数えるだけでも二十以上。衛宮切嗣は自分の視界に入った人間をことごとく殺しているようだ。あの男が向かった先と逆方向に逃げた者だけは生き延びたようだが、周囲から動く気配は消えている。 静寂に包まれた死の広がる場所。道路を血で紅く染める光景をもっと見たいと思い、衛宮切嗣が作り出す死がこの世界を包む様子も見届けたいと思ってしまう。 しかし私はその思いも振り切る。 聖杯は道徳の教えとはまるで真逆の歓喜を得た『言峰綺礼』の魂がこの世界に実在する意味を教える。私が考えるべきはその一事のみで構わない。 ケフカはゆっくりと体を動かし、私と相対した。 「この世界にお別れは済んだかい?」 「――ああ」 「これを使ったら死ぬ。でも願いは叶う。何だか、面白くないから、ここで辞めてさっさと切り上げましょうか?」 「その時は貴様を殺してその手に握られた聖杯を奪ってやろう」 そう返すと、ケフカは右手を上に伸ばし、左手を右わき腹に当て、右足を左足の膝に付けて両足で数字の『4』に似た形を作った。目と口を大きく開き、私を見る。 どうやら驚いた様子を判りやすく表したいらしいが、盛大に動いた手が聖杯を持ったままだったので、中身が零れないか不安を覚える。 だが妙な格好からすぐに両手足の位置を戻し。その合間に中身が零れる気配は全くなかった。どうやら杞憂だったようだ。 ケフカは聖杯を私に向けて突き出してきた。 「その歪な在り方に僕ちんが敬意を込めて贈り物を差し上げましょう」 見ると、聖杯の中には底が全く見えない黒い液体で満ちていた 不味そうだ―――。すぐ目の前に死が迫っていると理解しながら。私はそんなたわい無い事を考える。 「さあ、この聖杯より溢れるモノを飲もうではありませんか。その瞬間、お前は望むモノを手に入れるでしょう」 そう言って渡された聖杯の手触りは何の変哲もない金属製の杯と同じであった。 だがこの聖杯を構成するモノは見た目通りの黄金ではない。聖杯と同じ大きさの金ならば、もっと手の中にズシリと重みが返ってくる筈。聖杯の中を満たす黒き泥の邪悪な波動が見た目と全く異なる事実を私の心に直接訴えかけていた。 これだ、これこそ私が求めていたものだ・・・。 「さあ、さぁ。さあぁあぁあぁあぁあぁ!!!」 ケフカの声に呷られた訳ではない。ただ、躊躇う理由などもうどこにも見当たらなかったので、私は聖杯に口を付ける。 次の瞬間、黒い光が広がった。 細胞。 進化。地球。 ■■■。■■。 植物。動物。 ■■■。■■。 ■■。■■。 単細胞生物。多細胞生物。 海。■。光合成。 ■■■■。■。 ■■。■■■■。 ■■■■。■■■。 ■■■。■■■。 同属。仲間。食べ物。 海上。陸上。■■。地上。 変異。■■。 ■。■■■。■■。 ■■■。■■■。 鱗。ヒレ。砂。波。 ■■。 爪。牙。■■。 巨体。角。翼。 ■■■。■■。 ■■。■■■■。■■。 温暖。氷河。■■。山間。森林。 火、水、土、風。 ■■■■■■。■■■■■。 ■■■■。■■■■■■。 極小は極大へ―――。 砂漠。熱帯。■■。火山。 ■■■。■。 喜。怒。哀。楽。 ■■。 昆虫。■。怪物。 鳥類。茸。馬。 ■■■。■■■。 ■。■。■■。 毒蛇。双頭。雄牛。 ■■■■。■■■■。 ■■■■■。■■■■■。 過去は未来へ―――。 ■■。 知識は爆発し収斂する。 ■■■■。 ■■。 経験は膨張し収束する。 ■。 ■■。 ■。 ■■■。 ■。 ■■。 ■■。 ■■■。 ■。 ■■。 命は生まれ。消え。 育ち。亡くなる。 生きる。■■。死ぬ。 幸福。不幸。■■。 ■■■。■■。 ■■。 戦い。■。殺し合い。 ■■。■■■■。 ■■■■。■■■。 怒り。■。嘆き。 求めたモノ。■■。 ■。 ■。 ■■■。 失ったモノ。■■。 ■。 ■■■。 ■。 零れ落ちたモノ。■■。 ■■。 ■■。 ■。 手にしたモノ。■■。 ■■■。 ■■。 ■。 全てに意味■ある。 ■■■。 理解■果て無く広が■。 ■■。 一点は無限。■■。 全て■理由が■る。 ■■■。■。■。 認識■終わりなく膨張■る。 永遠■一瞬。 ■■■。■。 ■■。■■■。■■。 始まり■終わり■。 また始ま■。ま■終■る。 ■。■。■。 螺旋は続■。渦を巻■。 正当であ■邪道。 全■は肯定■れる。 ■■■。■■■。 ■■。■■。■■。 根源■■。 ■■■。 ■。 恒星。■■。星座。■■。惑星。 ■■。 ■■■。 孔。 ■■。 永遠の事象。■■。 ■■。 ■。一瞬の存在。 そこに■る。 星■超え■宇宙の理。 ■■■。 何もか■がこ■に在る。 ■■■。 ■。あ■。 ■■■■。 森羅万象を司る法―――。 言峰■礼の魂■作■った■■■■式。 ■ ■■ ■ ■ ■■■ そ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■■■ ■ れ ■■■ ■ ■ ■■ ■■■ ■ ■■■ ■が■ ■ ■ ■ ■ ■■■■ ■ ■■■ ■■ ■こ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■■■ ■■た ■■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ え ■■■ ■■ ■■ ■ ■■ ■ ■ ■■■■■■■■■■ か ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - セイバー 何度、吹き飛ばされたか判らない。何度、地面に叩き伏せられたのかも判らない。もはや、私にとって数など意味は無く、数えるという行為そのものが無意味になっていた。 想うのは私を殺さんと猛威を振るう彼の事だけだ。 反撃など出来る筈がない、挑む気すら起きない。絶望が私の胸を満たし、一片の戦意も残ってはいない。 それでも剣の英霊としてのこの身は致命傷の直撃を避けようと寸前で身を庇い続ける。それが私の命を生き長らえさせていた。 かつて龍の化身とまで讃えられた英雄はここにはいない。あるのは何もかも間違えた愚かな王の成れの果て。 何と無様な姿か。 「■■■■■■■■■■■■■■ッ!!」 鼓膜が破けたか、無毀なる湖光(アロンダイト)を持つ彼の口から放たれる言葉を聞き取れない。それともこの叫びが貴方の言葉なのか? 友よ――湖の騎士(サー・ランスロット)。これが貴方の本心なのか? 貴方は私を赦してなどいなかったのか? そんなにも運命に絶望していたのか? あの結末を受け入れてなどいなかったのか? あの悲運を、死してなお恨み。それをもたらした王と国を呪っていたのか? 違うと言ってほしい。他でもない貴方にだけは―――。 だが返事は無い。あるのは獣のごとき叫びと共に襲い掛かる黒き剣の嵐だけだ。そのランスロットの在り方そのものがまるで返答のように見えてしまう。 俺は貴様が憎い、お前の全てを呪う。そう全身で物語っている。 違うと言ってほしい。他でもない貴方の口からその言葉を聞かせてほしい。 けれど私の祈りは届かない。 あるのは休むことなく続く無毀なる湖光(アロンダイト)の猛攻のみ。そして聖剣の軋みが私の手に伝ってきた。 当然だ。かの剣は私の約束された勝利の剣(エクスカリバー)と対を成す至高の宝剣。一方的に攻撃を浴び続ければどちらが先に砕けるかなど考えるまでもない。 遂に終わりが近づいてきた。 軋む剣の隙間から伸びてきた彼の足に蹴り飛ばされ、私の体は後ろに吹き飛ばされて何かに当たって制止する。 起き上がる力は湧いてこない、気力そのものが私の中から消えている、体から力が抜けて地面に落ちる。もう次の一撃は防御すらできないだろう。 或いは、救いはここにしかないのかもしれない。 彼が私をそんなにも呪い、悔やみ、憎むのならば。その剣を受けて血を散らすのが、彼に償う術ではないだろうか? そうだ。他でもない性別を偽った私が正しくあろうとした事そのものが全ての間違いであった。ランスロットは何も間違えなかった、咎を受けるべきは女の身でありながら妻を娶った私こそだ。 世界を救う―――。 無毀なる湖光(アロンダイト)をこの身で受け止める覚悟を終えた瞬間。何の前触れも無く声が聞こえた。 ランスロットの声か? そう願いながら、頭のどこかで彼の声ではないと一瞬で答えを出してしまう。 彼は今も私を呪い、狂戦士として剣を振り上げながら叫び、私に向かっている。一秒すら必要とせず、あの剣が私を両断するだろう。 それで全ては終わる。 恒久的平和を――― また声がした。私の頭の中で声がする。 これは想い? 記憶? 願い? 心? 何かが流れ込み――声だと思っていたモノは全く別の何かだと知る。 何だ? これは何だ? 私の中に膨らんでゆくこれは何だ? 一瞬がまるで永遠のように感じる。荒れ狂う暴風のように迫る彼の姿が緩やかに―――止まっているとさえ思えるほど遅く感じた。黒き剣を私に振り下ろそうとするランスロットがそこにいる、見て判れる時間など無かった筈なのに判ってしまう。 力が溢れてくる。 全てを諦め、彼に償うと決めた体の底から力が湧いてくる。 一瞬よりも短い時間で何かが私に力を与える。 聖杯を、聖杯が、聖杯に、聖杯と、聖杯も、聖杯の、聖杯は、聖杯で、聖杯へ、聖杯よ―――聖杯、聖杯、聖杯、聖杯、聖杯、聖杯、聖杯、聖杯、聖杯、聖杯、聖杯、聖杯、聖杯、聖杯、聖杯。 何かが起こっている。 何かが私に力を与えている。 聞こえてくる声に一緒に力が流れ込んでくる。 腕が動く、足が動く、手は剣を握りしめ、足は甲冑ごと肉体を動かす。目はランスロットの姿を捉え、懐に飛び込む一瞬の隙を見極める。 まともであれば彼の剣が私を両断する方が早い。だが、今の私に起こっている事が続くのならば、全力の風王結界(インビジブル・エア)を背後に放出させ、その勢いで彼の速度を勝る。 軋む私の剣が砕かれる前に彼の鎧を貫ける―――。 待て。私は何をしている? 私はランスロットの剣を受け、彼に償うと決めたのではなかったのか? 何故、私は動いている? 何故、私は立ち上がっている? 何故、私は剣を構えている? 何故、私は『魔力放出』を使っている? 何故、戦おうとしている? 聖杯で―――殺せ。 私の背中を押すように、その言葉は頭の中の一番深いところに根付くいた。 まるで決して抗えぬ呪いだ。 私はこの声と言葉を聞いたことがある。そうだ、この言葉は、この声は、あの時、私にライダーのマスターを貫かせたのと同じだった。 切嗣!! 私はここにきてようやく頭の中に響く声が誰の言葉だったのかを思い知る。 それでも遅いとは感じなかった。時間の流れは更に緩やかになり、ランスロットの動きが止まって見えた。今の私にとって一瞬は永遠だ。 疑問を納得に置き換える時間が私にはある。ほんの一瞬の筈なのに、思考に費やす時間がある。 考えられてしまう。 だから、おかしさを思わずにはいられなかった。 マスターである切嗣が私に魔力供給を行うのは理解できる。だがサーヴァントを一瞬で回復させ、しかも失った筈の体力すら戻すほどの強烈な魔力供給などこれまで一度もなかった。 とっさのあの忌々しい令呪の強制力かと考えたが、他でもない体感している私自身が『これは違う』と結論を出す。 聞こえてきた声も言葉も同じだが、これは令呪とは異なる別の何かだ。 これは何だ? 僅かにランスロットが前に出て、その動きよりも更に早く私の体が動く。 私の中に流れ込んでくるモノは何だ? 剣が振り下ろされるよりも早く前に出て、約束された勝利の剣(エクスカリバー)を前に突き出す私がいる。 私に力を与え、剣を握らせ、攻撃させているこれは一体なんだ? 何なのだ? 万全の状況でランサーと戦った時ですらこれほどの速さは出せなかった。私の剣が、彼の心臓目がけて一直線に突き出される。 私の意思に反して、私を突き動かす。これは何だ? 何が私を操っている? 考えてしまう。一瞬すら無い筈なのに、考える時間が与えられてしまう。考えるのを止められない。私の動きも止まらない。 剣が―――。 「やめろッ!!」 叫んだ瞬間、止まっていた全ての時が動き出す。振り下ろされる彼の黒い剣を避ける勢いは止まらず、私が剣の軌道を変えようとする一瞬すら存在しない。 定められた行動をなぞる様に、私の剣はまっすぐに突き出された。 一瞬後、何もかもが止まった。 握り締めた剣の柄からランスロットの心臓の鼓動が伝わってくる。その鼓動が消えゆく気配もまた刃を通じて私の手に伝わってくる。 私の剣は黒い甲冑を深々と貫いていた。背中まで貫通した約束された勝利の剣(エクスカリバー)がランスロットの鎧を、体を、心臓を、私を殺す意思そのものを貫き砕いていた。 バーサーカーとなり猛威を振るっていたランスロットの動きが止まっている。私が斬ったせいで―――。 違う。そう叫びたいのに言葉が出てこない。 こんな決着など望んでいない、私は彼に裁かれるべきだった、償うべきだった。それなのに何故、私の手は剣を握りしめ彼を殺しているのだ? 数多の屍の踏み越えて尚、願望機の奇跡を欲するしかないと言うのか? こんな浅ましくも貪欲な思いが私の本性だというのか? 違う、違う違う違う違う違う。 切嗣が何かしたから私の力が蘇った。 こんな結末を私は望んでいない。止まらぬ涙は彼を斬ってしまった罪悪感ではない。切嗣がした何かに逆らえなかった私自身を殺したいほど恥じているのだ。 「それでも、私は――、聖杯を獲る・・・」 その筈なのに―――どうして私の口からこんな言葉が出てきてしまうのかが判らない。 私はそんな事は望んでいない。こんなにも見苦しく聖杯を求めてはいない、聖杯なんてどうでもいい、全てを間違えた王は完壁なる騎士にこそ斬られて終わるべきなのだ。 それなのに、どうして。 「そうでなければ・・・、そうしなければ・・・、友よ。私は何一つ、貴方に償えない・・・」 どうして私の口は聖杯の奇跡を求めようとする言葉を放ち続けるのだ。 「──困った御方だ。この期に及んでなお、そのような理由で剣を執るのですか」 「ランスロット・・・」 懐かしい声に導かれ、顔を上げれば、そこには穏やかな眼差しで私を見守る湖の騎士(サー・ランスロット)がいた。 彼こそが類まれなる人徳と無双の武練を兼ね備えた騎士。騎士道の峻厳なる峰に咲いた華。その姿と在り方は、同じ道を志す全ての者たちの宝であり目標でもある。 我が朋友(とも)が、ここにいる。 「ランス・・・、ロット・・・」 流れる涙のせいでうまく言葉が出てこない。 「・・・・・・ええ」 どうして彼が狂戦士の呪いから解放されたかなど考える余裕はなかった。ただまっすぐに、見上げればそこにある彼の姿から目が離せない。 言いたい事は沢山ある筈なのに、その顔を見ると何も喋れなくなってしまう。 こんな事を仕出かした私を許すような目を見ると、私は何も言えなくなってしまう。 「だが私も、こういう形でしか、想いを遂げられなかったのでしょう・・・」 ランスロットの目が動き、背中まで抜けている私の剣を慈しむように見つめた。 そして彼が苦笑した瞬間―――。 「なっ!?」 私の剣に光が集まっていくのを感じた。 ランスロットを貫く刃の外気に触れている部分、剣先と柄の近くの刃に光が集まっていく。考えるまでも無く、それが究極の斬撃を放つための光の集束だと察した。 何故だ? どうして私の剣が勝手に動き出す!? 真名を解放すらしていないのに、どうして光が集まってくる? 迷いと共にランスロットから剣に視線を動かす、そこで私は見た。 まるで彼の黒き鎧から『黒』を吸い出すように、剣の刀身が黒く染まっていく。それどころか集まっていく光は確かに光なのだが、夜の闇を切り取ったかのような黒く輝く光だった。 流れ落ちるランスロットの血が黒く染まってゆく剣に流れる。それは下に落ちるのではなく、刀身部分に円を描いて文様へと変わっていった。 白銀の籠手は剣から伝う黒さで染まり、剣で貫かれたランスロットの籠手のように鋭く尖ってゆく。 何だ? 何が起こっている? 驚きに同調するようにドクンッ! と一際大きな鼓動が体の中から鳴った。それを切っ掛けにして、またあの得体のしれない何かが私の中に蘇ってくる。 殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ。 殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ。 殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ。 切嗣の声が聞こえる。力が湧きあがる。 心臓を中心にして白銀の胸当てもまた籠手と同じように黒く染まっていくのが視界の隅に見えた。 それどころか剣に出来上がった紅い文様と同じように、血脈のような紅い印が鎧のあちこちに刻まれる。まるでランスロットの返り血だ。 切嗣―――私に何をした!? 頭の中に響く声に反論するよりも前に、黒く染まる剣に黒い極光が収束し終えてしまう。 暗き闇でありながら輝いてもいる二律背反。黄金に輝いていたかつての剣の姿は無い。 「王よ・・・」 呟くランスロットの声をかき消すように剣が震える。 本来は両手での渾身の振り抜きを行わなければ発動しない筈の究極の斬撃が剣から放たれようとしている。 止めろ。 違う。 停まれ。 これは違う。 止めろ、ヤメロ、やめろ、辞めろ。 「やめろおおおォォッ!!」 絶叫と共にランスロットを貫く剣を引き抜こうとした。引き抜けば剣で塞いでいた傷跡から大量の出血が溢れると判りながらも、剣から放たれようとしているモノこそが最も危険だと察知して抜こうとする。 たとえランスロットであろうとも、間近でこの力が直撃すれば跡形も無く消し飛んでしまう。万全ではない今は避ける術すら無い。 私が外さなければランスロットは本当に死んでしまう。言葉を交わす事も出来なくなってしまう。 私はランスロットに償わなければならない。彼と話し合えるかもしれないこの機を逃してはならない。私は彼と話さなければならない。 だから、止めろ、やめろ、ヤメロ。やめてくれ!! だが私の手がやったのはほんの僅かに剣を引いただけ。引き抜く前に・・・夜よりも深く、闇よりも暗く、けれど輝いている、黒き極光が空に向けて放たれる。 空を登る黒い竜。 夜空を引き裂く黒い矢。 何もかもを消し去る黒い炎。 頭二つ分小さい私が彼の心臓を貫く為、斜め上に伸ばして貫くしかなかった剣から黒い光は放たれてしまった。 「・・・・・・・・・」 私には音すら呑み込むそれを見送ることしか出来なかった。ただ彼が―――ランスロットが光に消し飛ばされる瞬間を見るしか出来なかった。 私の意思など関係なく光は放たれ、必死に止めようとした行いは何の効力も発揮せずに終わった。 剣の先にはもう誰もいない。私の目はしっかりと見てしまったのだ、目の前でランスロットが黒い光に呑まれて消滅していく瞬間を、見てしまったのだ。 何一つ残らない。彼の鎧も、彼の剣も、何もかもが光に喰いつくされ、消滅したのを見た。 私は剣を下に降ろしながらぼんやりと自分の姿を見る。 白銀の鎧に身を包んだ名高き騎士王はどこにもいなかった。彼が身に着けていた漆黒のフルプレートの色を引き継ぎ、黒に侵された騎士だった誰かがいた。 辛うじて下半身を守る甲冑の『垂れ』の部分はまだ銀色の光沢を残しているようだが、上半身の殆どは黒く染まり。特に剣に近い籠手と胸当ての部分は完全に別物に作り替えられている。 見えないので確かめる術は無いが、首元にまでこの『黒』が覆っている感触もある。 これでは私こそが狂戦士ではないか。 「・・・・・・・・・」 私は前を見れなかった。ランスロットがいた場所を見るのが恐ろしかった。何もないと見てしまえば、それをやったのが私だと強く考えてしまう。 だからランスロットの事を考えないように、私はこの事態を引き起こしたであろう切嗣の事を考えた。 私の身に起こっている異常は明らかに切嗣からの魔力供給によってもたらされた。令呪とは異なる何かが私の心を、体を、思いを、願いを、蝕んだ。 何のために? 切嗣は何のためにこんな事をした? 必死に答えを探し求める。 懸命に理由を追い求める。 「・・・・・・」 そうしなければ考えてしまう。 私を呪い、憎み、怨嗟の全てをぶつけてきたランスロットの事を―――。 忠勇のうちに散ったガウェインの事を―――。 使命に殉じたギャラハットの事を―――。 彼らはもしや、至らぬ王に仕えた事を後悔し、未練を残しながら果てたのではないか? あの『完璧なる騎士』と謳われたランスロットですら胸に絶望を抱えていた。他の誰もがそうではないと、何故言い切れる? もし私の王としての在り方が違っていたならば。彼らは救われたのではないだろうか? 私の罪を。私が負うべき罰を。私が背負った咎を。いくつも、いくつも、いくつも、いくつも考えてしまう。 「まだ、間に合う・・・・・・。聖杯が――、運命を覆す奇跡が・・・・」 気がつけば切嗣の事を考えようとしていた私は剣の切っ先を地面に置きながらそう呟いていた。 聖杯しかない。 彼らに報いるためにはこの手に聖杯を掴み、その奇跡をもって全てを償い精算するしかない。 バーサーカーに向けた言葉を円卓の騎士たちにも向ける。 そうでなければ。 「私は、何一つ・・・。貴方達に、償えない・・・」 「それ以外に手向けの言葉は無いの?」 私がすべき事を思い出すのと言葉が降ってくるのは全く同時だった。 ランスロットの声ではない。これは女性の声だ。 何の前触れもなく聞こえてきた声に導かれて私は顔を上げた。 今、ランスロットを消滅させておきながら、それでも剣の英霊としての振る舞いが私の警戒を呼び起こさせる。 聖杯をこの手にし、全てを償うまでは誰にも殺される訳にはいかない。そう思い直し、声のした方向を凝視しながら剣を構えた。 人の形に似た異形がそこにいた。 人に近いが桃色の燐光を全身から放ち、体のあちこちから体毛を生やした獣に見える。決して人ではない。 そもそも空に浮かぶなど、魔術に精通しているか一般人が抱える常識の外にある力を使わなければ、実現すら出来ないのだから。 円蔵山の上に浮かび、私の前に現れた怪物。 「・・・・・・何者、だ?」 「敵よ」 短く答えが戻ってきた。空高く浮かびながらも周囲の静けさもあって声は届く。隔たれた距離は遠く、剣の間合いには入っていない。 敵―――その言葉を頭の中で理解すると、また切嗣の声が聞こえてきた。 殺せ、と。 斬れ、と。 壊せ、と。 何度も『殺せ』と頭の中で声がする。 川の辺でライダーと戦った時に一度、そして今、ランスロットを消し飛ばす時にもう一度。短時間で既に二回、約束された勝利の剣(エクスカリバー)の斬撃を放っている。 貯蔵魔力は真名解放と共に激減し、本来であれば立っているのすら覚束ないほど疲労している筈。 だが切嗣の声が聞こえると、それに合わせてまた体の奥底から力が湧きあがってくる。魔力が急激に回復していくのが判る。 それほど間をおかず、あの黒き極光を放てる程の魔力が貯まるであろう未来が想像できてしまう。 だから、これは、何なのだ? マスターの魔力供給とは違う、これは、何だ? どこからやって来る? 「こう言えば満足? 私は間桐と協力関係にある貴女の敵よ・・・って――」 湧きあがる疑念は怪物の発した言葉によって掻き消えていく。 ランスロットの事も、聖杯の事も今は忘れる。忘れようとする。 奴は怪物だ。ランスロットとは全く違う、倒すべき敵だ。そう心の中に刻みつける。 そう思わなければ構えた剣すら落としてしまいそうだった。 「私たちを倒すんでしょう? 探してるんでしょう? 貴女はその為に――、大切な姫君を守り救うために私たちと戦おうとしてたんだから・・・」 「・・・・・・・・・」 その言葉が出てきた時、大事なことを今の今まで全く考えていなかった自分を思い出す。 そうだ―――。 私がランスロットと戦わなければならなかったのそもそもの原因はアイリスフィールを攫った何者かにある。 奴は言った。『この先にいる私の御仲間を』、と。その言葉を信じた訳ではないが、始まりの御三家の一つであり、倒すべき敵サーヴァントを従える間桐と遭遇したのは紛れもない事実。 ―――今になってようやくか? そもそもアイリスフィールを救うために間桐を探し出して戦おうとしたのではなかったのか? バーサーカーを倒さなければならない。その戦いを私に強いたのは奴だ。 奴こそが全ての元凶であり、私が真に倒すべき敵なのだ。 切嗣の令呪の縛りがあったとはいえ、一瞬すら無く奴は私の手からアイリスフィールを奪った。 あの不可解な動きは今でも鮮明に思い出せる。 ―――湖の騎士(サー・ランスロット)が現れたら彼に心を奪われて、守るべき姫君の事など全く考えなくなった。違うか? アイリスフィールを担いで逃亡を令呪で命じられたが、全方位への注意は怠っていなかった。 にも関わらず、奴は瞬間移動したかのようにどこからか現れ、一瞬すら無く、アイリスフィールだけを私から奪っていった。 私には全く攻撃せず。ただ『奪う』という結果だけを作り出したのだ。 事象そのものを作り替える超魔術。それとも、まさか奴は時を止め、その隙に接近と強奪と離脱の全てやってとでも言うのか? ―――それでも騎士か? それでも王か? アイリスフィールを守る誓いはどこに行った? 私は奴を倒し、アイリスフィールを倒さなければならない。 私は聖杯を手に入れ、全てを償って清算しなければならない。 たとえどんな敵が前に立ち塞がろうと、もう立ち止まるのは許されない。 怪物が相手ならば気兼ねする必要は欠片も無い。こいつを斬り、間桐を斬り、残る全てのサーヴァントを斬り、私は聖杯を掴む。 ―――そんな脆弱な意思の持ち主が名高き騎士王? 冗談を言うな、王の名乗りすらおこがましい。 今、成すべき事を考えながら、他人事のように頭の中に響く私自身への問いかけを聞く。 それは切嗣の声にも聞こえたが、私自身の声にも聞こえた。 私は改めて考える。敵を倒し、アイリスフィールを助け出し、聖杯を手に入れ、全てを償う。 そうでなければならない。 そうしなければならない。 「・・・・・・・・・」 私は無言のまま黒く染まった剣を構え、敵と戦う態勢を整え直す。敵を見据える視界の隅、そこに合って私の体を蝕んでゆく『黒』がほんの少し深まったように見えた。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 間桐雁夜 過ぎ去った時間を振り返れば短く、一般人の尺度で経った時間を考えれば『長い』と感じないと思う。 だが戦い続ける時間としては長すぎる。少なくとも、同じだけの時間を俺とゴゴが戦えば、三回は殺されて蘇らされて、四回目の『死』を体感するものかと必死で魔剣ラグナロクで攻撃に転じるだろう。 事実、ほんの数分の間に何度も殺された過去があるので、想像はしやすかった。 それがセイバーとバーサーカーの戦った時間。そして俺がひたすらバーサーカーに魔力を送り続けた時間でもある。 その間、ものまね士に戻ったゴゴは俺と桜ちゃんに話しかけてたんだが、これまで感じたことのない気持ち悪さに聞く余裕はなかった。 届く言葉は幾つかあったんだが、その言葉を起点にして考える余裕が俺には無かった。 ゴゴの力で強制的に治されるのはこの一年で慣れるしかなかったが、それは肉体の損傷に対する治療であって体の内側を燃やされる様な喰われる様な傷つけられる様な痛みとは、同じ『痛み』であっても次元が異なる。 これほど急激に魔力が失われ、桜ちゃんの力で補充され、そしてまた消耗するのは俺の人生の中で一度も無かった。 何度も死んでるせいでもう肉体の痛みには慣れが出てきたが、体の内側から見えない何かに喰われるような感触は慣れようがない。 吐き気を催す乗り物酔いと、強烈な立ち眩みと、頭が沸騰しそうな重い風邪と、動くのも億劫な胃痛と、横になった瞬間に気絶しそうな眠気と、弾けそうな激しい動悸と、他に何も聞こえなくなる喧しい耳鳴りと、空気を求めながら吸い込めない息切れと、手足を縛りつける麻痺。その他にも怪我とは異なる体の内側から発生する病気の数々を全て混ぜ合わせたような―――筆舌に尽くし難い感覚に、時として呻き声すら上げられなくなった。 体の内側から破裂して血反吐をまき散らす未来を何度も何度も想像した。胃の中身を胃液も含めて吐き出さなかったのが奇跡だ。 耐えられた理由は何か? それは桜ちゃんが魔力を渡してくれるからこそ、だ。桜ちゃんがいたから俺はバーサーカーに魔力を送り続けていられた。その上、桜ちゃんがいたから、一人の大人として歯を食いしばって最後まで耐えようと頑張れた。 時に長く、時に短く。今の俺にとっては永遠にも等しかった時間が唐突に終わる。 それが意味する事実。バーサーカーの消滅だ。 セイバーに負けて殺されて消えたか。 相打ちになって共に消えたか。 セイバーに勝って心残りがなくなって自害したか。 マスターとしてサーヴァントと感覚を共有すれば何が起こったか判るんだろうが、生憎、魔力を送るのに精一杯だった俺には確かめる余裕はなかった。 ただ、俺はセイバーが勝とうがバーサーカーが勝とうが、どっちでもいいと思ってる。バーサーカーのマスターとしてあいつには勝って欲しいと思っているのは確かなんだが、もう俺が勝敗を心配する段階は通り過ぎてる。 俺は桜ちゃんの力を借りなければマスターとしての態勢すら整えられない半人前以下の魔術師見習い。魔剣士と名乗れるほど技量も無いから、バーサーカーと一緒にセイバーを相手にすれば確実に足手まといになる。 マスターとしてバーサーカーに魔力を送るしか出来る事は無い。それが未熟な俺に出来る精一杯。 後はお前の好きにしろ、バーサーカー。それが令呪を使った時に感じた俺の嘘偽りのない気持ちだ。 贈る魔力と令呪の後押しであいつにはもう制限は無くなってる。決着をつけるのはバーサーカー自身、そこに俺の意思が入り込む余地は無い。 狂化の属性付加があったからバーサーカーになってしまった湖の騎士(サー・ランスロット)を思いながら、夢の中で見た、あいつの心残りが消えていればいいなと思った。 どんな結果であれ、もうバーサーカーはいない。それは覆しようのない事実。俺の手に一画だけ残った最後の令呪も時間が経てば消えてしまう。 俺自身、どんな結果でも受け入れられるように感情を排して観念していられるのに驚いている。 多分、極大の気持ち悪さを感じた後でこんなにも心穏やかでいられてたのは、遠坂の件で決着をついたせいだ。 俺にとっての聖杯戦争は聖杯を求める為の戦いじゃない。俺自身の心にケリをつけて桜ちゃんを幸せにするための一つの方法だ。 時臣と戦い。葵さんの気持ちを知り。桜ちゃんを守りたいと思った時。もう俺にとっての聖杯戦争は終わった。 だからだろうか? こんな風に戦場に身を置きながら、一歩引いた感覚で冷静に物事を考えられるようになれるのは―――。 バーサーカーが消えて俺はマスターとしての権利を失った。けれど、聖杯戦争そのものが終わった訳ではなく、むしろ戦況は時間が経つごとに激化していく。 戦力としてのバーサーカーはもうなく、俺自身が戦いにはせ参じたところでサーヴァントを相手にして勝てる訳がない。アサシンの一人を相手にして何とか勝てたが、あれは分化して弱体化してたからこその勝利であって、まともにやれば俺は絶対にサーバントには叶わない。 だけど桜ちゃんの為にも可及的速やかに聖杯戦争は終結させるべきだ。 その為にどうすればいいか? 俺に出来る事なんて何も無く、ゴゴに任せるしかない。 「・・・・・・・・・役に立てないな、俺は」 「雁夜おじさん?」 「ん、ああ・・・。何でもないよ、桜ちゃん。あっちの決着がついて、これ以上魔力をもらわなくてよくなったんだ」 遠坂時臣には何とか勝ったが、他の強大な敵を相手にすると途端に役立たずに変貌する。自分の圧倒的な力のなさに絶望していると、それを桜ちゃんに感づかれそうになる。 大人の矜持として子供に格好悪いところは見せられない。別の言葉でごまかすが、桜ちゃんに言った事も間違ってなかった。 もう桜ちゃんから魔力をもらわなくていいんだ。そう思うと、ほんの少しだけほほが緩むけど、握ったままの桜ちゃんの手は握りしめたままだった。 ほんの少し前までティナの手を握っていたもう片方の手を動かして、桜ちゃんの頭を撫でる。 「桜ちゃん・・・。俺とバーサーカーに協力してくれて、ありがとう」 突然、頭に伸ばされた手に桜ちゃんが身構えるように一瞬目をつむる。 マスターだった俺ですらバーサーカーと『相対』した回数は数えられる程度。もしかしたら召喚した当初の一度限りかもしれない。接点が限りなくゼロに近かったが、間違いなくあいつは俺に召喚された間桐の仲間だった。 そんなバーサーカーが消滅したことを桜ちゃんはどう感じてるんだろうか? 俺は桜ちゃんの頭を撫でながら不意にそんな事を考えた。 ゆっくりと見開かれる目を見つめ返しながら、サーヴァント敗退によってマスターがどうなるかに思考を移す。 これが始まりの御三家が作り出した本来の聖杯戦争だったなら、敗退したマスターは事態が収束するまで安全な場所に避難しておくのが通例だ。 だが、そもそもこういう場合に役目を発揮する筈の監督役は聖杯戦争が始まる前から遠坂と密約を交わして、謀略と策略にどっぷり身を浸して全く中立じゃない。加えて、聖堂教会が総力を結集したところで、ゴゴに勝てるとは思えない。 欠片とはいえゴゴの力を持つ敵がいるんだから、向こうが力任せに動けばこの冬木を更地にして住人全員皆殺しだって不可能じゃない。何しろ監督役どころか魔術師がどうこう出来る範囲の外にいるんだからな。 今、監督役や聖堂教会は当てになど出来る筈がない。当然、俺自身と接点なんて全くない魔術教会についても同様だ。 この冬木の中で、俺と桜ちゃんの味方だとはっきり言えるのはゴゴだけだ。もちろん変身しているゴゴも含めてなんだが―――。考える事は違っても、結論は結局そこに落ち着いてしまう。 ゴゴに助けてもらうしかない。 「二人の世界に入っとる所を悪いんじゃが。話を続けるゾイ」 すぐ近くから声がして、桜ちゃんから視線を外してそっちを見ると思考の渦中にいたゴゴが立っている。 ものまね士の姿を見た瞬間、俺の頭の中にこれまでゴゴが話してくれた内容が溢れ、混ざり、砕け、統合して、意味ある言葉になって理解へと繋がっていく。 令呪を使ってバーサーカーの好きにさせた後。何とか会話を出来てた時もあったが、それはバーサーカーがふっとばされて魔力消耗が抑えられてた時に限る。バーサーカーが戦ってる最中は会話する余裕なんてほとんどなく、ただ一方的にゴゴから聞かされる話を言葉として聞いてるだけだった。 聞こえた言葉は断片的だったが、一つ一つをまとめてその間を補完すれば意味ある言葉になってゆく。 このままだと冬木が滅ぶ―――。確か、その言葉から話は始まった。 ゴゴが話してくれた内容によると、今の冬木市には聖杯の器が二つ存在して、作られる聖杯もまた二つ存在する。 一つは言峰綺礼の願いを叶える為に費やされ、聖杯が持つ機能『願望機』の役目を持つ聖杯。 もう一つは別の用途である『悪』をばら撒く為の聖杯。そっちはセイバーのマスター、衛宮切嗣を依り代にして冬木の住人を殺戮して回ってるとか。 どっちの聖杯も敵の手にある。それはどうでもいいんだが、衛宮切嗣とか言うセイバーのマスターが冬木に死をまき散らしてるのは止めなければならないと思った。 最初に聞いた時はバーサーカーへの魔力供給で手いっぱいだったから驚く暇もなかったが、今、思い返してみると一般人にとって最悪の状況が起こってる。 聖杯戦争のマスターは誰もが魔術師であり、神秘は秘匿されるべきだと心の中に刻まれている。 今のセイバーのマスターにはその楔がない。タガが外れて『悪』として何でもかんでも好き放題にやってる。巻き込まれて殺される方にとってはとてつもなく迷惑な話だ。 ただ、どうしてそんな状態になったのか細かい部分はゴゴにも判らず、ケフカ・パラッツォが何やら暗躍して色々仕出かしたせいでこんな状況に陥ったらしい。さすがのゴゴでもケフカとなった後の自分の事までは理解しようがなかったようだ。 話はそれだけに終わらず、衛宮切嗣は自分のサーヴァントの持ち物であり、セイバーのもう一つの宝具『全て遠き理想郷(アヴァロン)』の体内に宿しているらしい。 その宝具は鞘であり、持ち主のあらゆる傷を癒して災いを退ける力を持つを言われている。 アーサー王伝説を知るに当たって魔術師マーリンが説いた鞘の重要性。剣と対をなし、時に剣を封じ、律するための力。そんなものを今の衛宮切嗣は持ってるのか。 聖杯から供給される無限の魔力。 鞘の宝具によって手に入れた死なぬ体。 人間の理性を失い、思考から解き放たれてひたすら死を振りまく『悪』。 ゴゴがよると、衛宮切嗣という男の更に厄介なの点は、冬木の至る所で行われている戦いのどこにも近づかないようにしている事だとか。 戦場へと近づけば、殺戮に邪魔が入ると直感的に理解しているらしく。どのマスターもサーヴァントもいない方角へと移動して、今は海の方に向けて進んでいるらしい。 しかも他のサーヴァントは衛宮切嗣を追える状況になく、唯一動けるのはここに集まってる俺達だけだと―――。 「とまあそんな訳じゃゾイ」 バーサーカーが戦っている間に聞かされた言葉、それに今聞かされた言葉が融合して状況理解に変化した。もう一つの聖杯を持つ言峰綺礼の事は気がかりだが、まず片づける問題は衛宮切嗣の方だ。 ここまで聞いて俺は察した。ゴゴは何かをして、衛宮切嗣を止めようとしている。その役目にはゴゴだけじゃなくて俺自身も入ってる。 そうでなければわざわざ悠長に説明する理由が見つからない。俺達を置いてたった一人で衛宮切嗣を倒しに行けばそれで終わる、むしろそっちの方が手っ取り早い。 説明するならするなりの理由がゴゴにはある。それが一年で俺が知ったものまね士ゴゴだ。 そう―――かつてゴゴは言った。 聖杯戦争を破壊する、と。 跡形も無く消し去ろう、と。 聞いた時はゴゴの力をほとんど知らなかったから驚くしかなかったが、今はゴゴならそれを出来ると確信している。 もし、その為に俺の力が必要だったら、バーサーカーのマスターですら無くなった間桐雁夜でしかない俺に協力出来る事があるのなら。俺は何を犠牲にしても協力しよう。 桜ちゃんの為に―――。桜ちゃんを守りたいと誓った俺自身の為に―――。バーサーカーが消えた今、それ位しか俺に出来る事は無い。 ゴゴ。お前は俺に何を求めてるんだ? 浮かんだ疑問と一緒に言葉が口から出てきた。 「それで? その先は何だ? 俺に言うことがあるんだろ?」 桜ちゃんに手助けてしてもらって魔力供給にかかりっきり。その時は全く出来なかった応対が出来るようになったが、失敗を隠すような気持ちで口調が少し荒くなる。 「俺に何をさせるつもりなんだ?」 「正確にはお主『達』じゃな」 「・・・・・・何? たち――?」 「そうじゃゾイ」 息も段々と落ち着いてきて、静まる思考がようやく現実に追い付いた。それでも、ゴゴが言った言葉を咄嗟に理解できない自分がいる。 お主達・・・。 今、ここで、そう言える相手は俺以外に一人しかいない。 「おい・・・。桜ちゃんに何をさせるつもりだ?」 気がつけば、俺の口はより荒さを超えて怒りすら含ませて喋っていた。 敵に問うような―――。俺自身の意識もそんな風にゴゴを敵と見定めながら喋っている気がする。 勝つとか負けるとかは度外視して。ただ、敵を見る目と敵へぶつける言葉でゴゴに相対した。 「今のワシはお主らに問うだけじゃ、やるか? やらぬか? 決めるのはお主ら自身じゃゾイ。どんな結果を選ぼうとワシは構わん」 「何のことだ? はっきり言え」 「ワシ等はワシ等の領分で『英霊』と決着をつける。だからお主等にはお主等で『人間』に決着をつけてもらいたい。そういう話じゃゾイ」 そしてゴゴは―――。 「衛宮切嗣は聖杯と宝具の力を味方に付けておる。ならば相手をするにもそれ相応の力が必要じゃ」 その問いかけを口にした。 「三闘神が二柱、『魔神』と『女神』――。雁夜が『魔神』を、桜ちゃんは『女神』の力を宿し、衛宮切嗣を倒してきてくれんかの?」 「・・・・・・・・・」 ゴゴの言葉は突拍子もない場合が多く、言われたことを理解するまでに時間を必要とする場合は数多くあった。 この世界とは違う別の世界から訪れたゴゴとずっとこの世界で生きてきた俺。その差異に加えて、魔術師の家系に生まれただけで限りなく一般人に近い俺と神そのものと言ってもいいゴゴとの感性があまりにも違い過ぎた。 すぐに返事を出来ないような事を言われ、その度に理解しようと努めてきた。おかげで、大抵の事には驚かなくなったし、俺自身の死すら受け止められるようになった。ただし、『死』についてはゴゴが蘇らせてくれるからこそなんだが。 唐突な言葉に放心して、理解する為に考えて、意味を理解して驚いて、自分を落ち着かせる。そんなサイクルを何度も何度も何度も繰り返してきて、ようやく慣れた。 それでも、今聞いた言葉はこれまで聞かされた言葉の中で最も俺を茫然とさせた。 言葉の意味は判る。ゴゴは聖杯戦争の決着をつける為に、自分の分身であり敵になったケフカを倒しに行き、そのついでに召喚された全てのサーヴァントを倒しに行く。だから、その間に俺達『人間』が同じ『人間』を相手にしろ。ゴゴはそう言ってる。 その部分はすぐ理解できたんだが、その前に語られた内容が理解できなかった。 俺が? 桜ちゃんが? 神の力を宿す? 「なぁに、魔石の力に触れ続けたお主等ならそう時間をおかずに慣れるじゃろう。ほんの少しの間、三闘神の力を借りて敵をやっつけてほしい。それだけじゃゾイ」 ゴゴが続けて言ってたが、俺は殆ど聞いていなかった。 三闘神の話はゴゴが間桐邸に住むようになってから少しして聞いたことがある。だからその人間の分を超えた力の大きさもよく判る。 三闘神を実際に見たことは無いが、魔石の力とゴゴ自身の力に接してれば嫌でも判る。 ゴゴの強大な力が手に入れば時臣を簡単に倒せるだろうと思った事はあった。ゴゴに鍛えてもらうのではなく、ゴゴの力を自分のモノにしたいと何度も願った。でも今はそんな事考えちゃいない。 力の規模が違いすぎて人間にはコントロール出来やしない。一年接しておきながら、今もゴゴの力の底が見えない。 太陽を肉眼で見たら目が焼ける。 漆黒の闇の中を人の目は見通せない。 絶対に理解できないと強制的に納得させられる力の持ち主。それがゴゴ、そして神と呼ばれていた存在だ。 考えて考えて考えて、いつものサイクルを通過して、ようやく俺の頭は落ち着きを取り戻す。流れた時間は短いが、フル回転した俺の頭は考え過ぎて熱が出そうだった。 「確か・・・、三闘神は互いに力を抑えあって自分たちを封印したんだったな」 「うむ。正しいゾイ」 「三柱のバランスが崩れたら、力が暴走するんだったな?」 「そのおかげで世界が一つ崩壊しかけたゾイ。ワシは眠りから目覚められて幸運じゃったがのう」 ゴゴが以前に聞いた話を繰り返すて、俺が思っていた通りの言葉を返してくる。 だから俺はこう言うしかない。 「そんな力をいきなり俺達に渡す? 厄介で面倒で大変ではた迷惑な事が起こるに決まってるだろうが!! 何、考えてるんだお前は!!」 「なぁに、お主等なら出来る。ワシが保証するゾイ」 堂々と、しかも心なし楽しげに言ってのけるゴゴからは嘘を言う気配は全く感じられず、本気でそう思ってるとしか見えない。 事実ゴゴはこれまで言った事についてはそれがどれだけ無理難題だろうと実現してきた。 俺一人だったら絶対に出来ない事。この世界の魔術師でも絶対に出来ない事。怪物であっても出来ない事。それらを口にして『やる』と一度言ったらそれを現実にさせてきた。 正真正銘の有言実行の体現者。それも、俺が知るものまね士ゴゴの一面だ。 そのゴゴが言ってるなら、本当に俺と桜ちゃんが神の力を宿すのも不可能じゃないんだろう。 「いや―――。それでもやっぱり駄目だ。やるなら俺一人でやる」 堂々と言っておきながら、間髪入れずに『無理だ!』と自分自身に返す言葉が頭の中で鳴り響く。 勢いづいて魔剣ラグナロクを引き抜こうとアジャスタケースに手を当てるが、人の目があるので引き抜きはしない。それに剣を抜いて今から衛宮切嗣を追ったところで、勝てる算段など全くないと俺自身が判ってる。 桜ちゃんのお蔭で疲労も魔力消耗も何とか抑えられて余力はあるが、俺が持つ全ての力を注ぎ込んでも、聖杯の力と宝具を使う人間に勝てるとは思えない。万に一つもないって言葉はこんな時に使うんだろう。 それでもゴゴの言葉に頷く訳にはいかなかった。何故なら、俺だけじゃなく、ゴゴは桜ちゃんも戦場へと送り出そうとしているからだ。 何だかこれまで接してきたゴゴらしからぬ決断だと思うが、絶対に許してはならない事象を否定するばかりでその疑問を考える余裕はない。 とにかく駄目だ。絶対に駄目だ。 その思いが先走る。冷静さがどこか遠くに飛んでいく。 駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ。 「わたし・・・、やる――」 「はぁっ!?」 だからその言葉が他の誰でもない桜ちゃんの口から出た時。俺はただただ驚きを口にする以外に何も出来なかった。 言葉を失って、開いた口は塞がらず、ぼんやりとただ桜ちゃんの方を見る。 「うむ。躊躇わず先に進むのは子供の特権じゃ。雁夜よりやる気がありよる、信じておったゾイ」 「・・・・・・やる」 俺の目と耳はどうかしたんだろうか? さっきまで俺に頭を撫でられて身構えていた筈の桜ちゃんはそこにはいなくて、俺に寄り添いながらもしっかりとゴゴの目を見上げて肯定する桜ちゃんがそこにいる。 ゴゴの言葉は聞こえているが聞こえてない。けれど桜ちゃんが小さく頷きながら呟いた声はしっかりと聞こえた。 やる、と。 そう言ったのを聞いた。聞こえた。確かにそう聞いた。 「ちょ、ちょ、ちょ。待て、ストップ、止まって。巻き戻し!!」 普段なら、こんな事は絶対に言わない。自分の事ながら、錯乱してるのがよく判る。 俺は深い深呼吸を一回して、それから桜ちゃんに向けて言う。 「あのー、桜ちゃん?」 「・・・はい」 「ゴゴの言った事をやるとどうなるか・・・判って――る?」 桜ちゃんは小さく頷いた。 「確実に暴走するだろう力を使って、死ぬかもしれない危険な場所に行くことになるんだよ? そこの所、判ってる?」 「ワシの見立てには間違いはない! お主ら二人なら『魔神』と『女神』に上手く同調するゾイ」 桜ちゃんがまた頷いた。 横から聞こえるゴゴの言葉はとりあえず無視する。 「もう一度言うけど死ぬかもしれないんだよ? 死ななくてもほぼ痛い目に合うんだよ?」 やっぱり頷いた。 「じゃあ、なんで『やる』なんて事になるの?」 間桐雁夜が被ってた筈の冷静さとか、体面とか、大人のプライドとか、心構えとか、我慢強さとか、貫録とか。そう言ったもろもろの類がすべて吹き飛んで言葉が幼くなってゆく。 これじゃあ俺の方が駄々をこねる子供じゃないか。そうやって自己分析できる余裕は戻っても、やっぱり桜ちゃんが、やる、と言い出した不可解さがまるで判らない。 「どうして・・・?」 口から出てくるのはただ答えを求める問いかけだ。 「だって・・・・・・」 「だって?」 「・・・だって。わたしも、いっしょに――、戦いたいって・・・。思ったから・・・・・・」 「――」 途切れ途切れに囁かれた言葉を聞いて、俺は絶句した。 「わたし、戦う・・・。雁夜おじさんと、いっしょに・・・」 無言のまま、桜ちゃんが言った内容を繰り返して、繰り返して、繰り返して、ようやく理解する。 一緒に戦う。 何度か繰り返して一言にまとめ終えたところで、俺は重要な事に気が付いた。 桜ちゃんが震えている。 戦いが怖くない筈がない。傷つくのが恐ろしくない筈がない。死ぬのは嫌に決まってる。桜ちゃんは小刻みに振動を繰り返して、体の奥底から湧き出る恐怖を懸命に抑えようとしているんだろう。 セイバーとバーサーカーの殺し合いが目の前で起こった時にも無かった桜ちゃんの震え。だけど、桜ちゃんの大きな目は体の震えとは裏腹に、まっすぐ俺を見つめていた。 同じ場所に居ながら、一方的に守られるのを由としない。自分にその手段があるなら、どれだけ危険だろうと行う。家族だから、仲間だから、守られたくて守りたいから、一緒に居たい。 もう置いて行かれたくない。もう離れたくない。だから―――戦う。桜ちゃんの目がそう言ってるように見えた。 その目を見て意思の硬さを感じ取ってしまった瞬間、俺の口から言葉が出る。 「・・・・・・・・・判った」 それは言った俺自身が最も驚いてる内容だった。 子供は大人が守らなきゃいけない。単純にそう思っても、俺は桜ちゃんの言葉を肯定するしかない。 遠坂の思惑に振り回され、間桐の欲望で地獄を見た桜ちゃん。そんな桜ちゃんが決めたことを俺が否定できる訳がない。 否定すれば、俺は遠坂時臣と間桐臓硯の同類に成り下がる。 説得できる時間があれば大人として言葉で説得できたかもしれないけど、今は力で押さえつける以外に桜ちゃんを諦めさせる方法が思いつけない。そんな事、絶対に、出来ない。 「一緒に――戦おう・・・。桜ちゃん・・・」 今の俺に許されるのは桜ちゃんの願いを叶える道を一緒に進むだけだ。 その結果、地獄に落ちるなら、むしろ望むところ。 「・・・・・・うん」 俺が承諾すると、桜ちゃんは少し間を置いてから、また小さく頷いた。 桜ちゃんを危険な目に合わせるのはほんの少しだけ―――、そう言った口で更に危険な場所に連れて行くのを了承するんだからな。我ながら主体性の無さに自分で自分を殺したくなる。 大人として失格だと思った。 認めてしまうなら最初から否定するなと思った。 時臣や葵さん、むしろ間桐臓硯よりも悪質だと思った。 それでも、これは俺が背負った間桐の罪であり業だ。俺の意思よりも大事なのは桜ちゃんの意思、それは変えてはいけない。 それが俺の罪滅ぼしだから・・・。 「さて、二人とも納得したようじゃし、所定の場所に送るとするかの」 桜ちゃんの震えが少し収まり、俺が嫌々ながらも納得し終えた頃。会話から弾き飛ばされていたゴゴの言葉が戻ってきた。 見れば手袋に覆われた左右の手をそれぞれ俺達に向けて、聞こえた声に合わせて考えれば、何か仕出かそうとしてるのが見ただけで判る。 「ゴゴッ!!」 「なんじゃ?」 俺は慌ててそれを止める。まだ聞きたい事は沢山あった。 「さっきも言ったけど三闘神の力は三方でバランスを取らないと暴走するんだよな?」 ゴゴは桜ちゃんの物真似をするように、小さく頷いて肯定する。 いや、さっきの桜ちゃんの動きを物真似してるんだろう。 「『魔神』は俺、桜ちゃんが『女神』だったら・・・。最後の『鬼神』はどうするんだ? お前がやるのか?」 「言ったじゃろう? ワシ等はワシ等の決着をつける、とな。『人間』の相手は同じ『人間』に任せるゾイ」 「最後の一人がいるって事か・・・」 ゴゴはもう一度小さく頷いた。 「お主等もよく・・・は知らんが、赤の他人という訳でもない男じゃ」 「誰だ?」 「蟲蔵でちと痛めつけた士郎じゃよ。あやつも僅かばかりでもワシの力を受けて『慣れ』が出ておる。『鬼神』と上手く・・・は無理でも共生できそうじゃな」 「あの子供がっ!?」 「名残惜しいがそろそろ時間じゃ。しっかりと役目を果たすゾイ」 「待っ――」 「デジョン」 会話の一部のようであり、決して言葉なんかではない呪文。ゴゴの魔法が唐突に放たれる。 ゴゴがこの世界へ来る時にも使った別次元への穴を開ける効果が発動し。待て、と言おうとした俺も、決心を固める桜ちゃんも、一緒にその中に呑みこまれた。 この先に『人間』の戦いが待ってる。俺は掴んだままだったから一緒に呑みこまれたアジャスタケースの重みを確かめた。