第42話 『英霊達はあちこちで戦い、衛宮切嗣は現実に帰還する』 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 間桐雁夜 目に見える風が球体になって、あっという間にセイバーとバーサーカーを吹き飛ばした。けれど、バーサーカーが敵意むき出しでセイバーに斬りかかろうとしているのは今も変わってないらしく、遠ざかる間にもどんどん俺から魔力を吸い上げて戦う力に変換してる。 「うっ・・・」 僅かでも気を抜けば気絶してしまいそうな強烈な消耗が俺の体を蝕む。体の内側を直接刻まれてるような強烈な喪失感。それでも懸命に耐え続け、握りしめた桜ちゃんの腕から魔力をもらってバーサーカーに渡していく。 セイバーとバーサーカーが俺の目じゃ見えないぐらい遠くに吹き飛ばされたのを確認した後。俺は周りはちらほらと人影があるのに気が付いた。 昼間に比べれば格段に数は少なく、道路を走る車も見える範囲にあるのは十台以下。昼の冬木とは全く違う姿で、無人だった戦場はもう無い。 どんな理由でこうなったか俺には判らない。それでも、結界は解除され、元の冬木市に戻ってきた。それは理解できる。 道を歩く人が苦しそうに呻く俺に目を向けるが、そばにいるティナとストラゴスを見て『知り合いがいるなら大丈夫だろう』とでも言わんばかりに足早に去っていった。市民に警戒を呼び掛ける今の冬木の状況を考えれば、少しでも変なことには関わり合いになりたくないのだろう。 もしかしたら俺の右手にある魔剣ラグナロクを見て近づきたくないだけなのかもしれない。俺は体の中に蠢く痛みを堪えながら、何とかアジャスタケースに抜身の剣を戻した。 「ストラゴス・・・。ここは任せてもいい?」 「任せるゾイ、お主は奴らを追うんじゃ」 歩道脇で倒れこんだ俺のそばでそんな会話が聞こえる。 頭を動かすのも億劫になりそうな状況だ。それでも何とか体を動かして、並び立つ二人を見る。 「どう・・・する、気だ・・・・・・」 「もちろんあの二人を追いかけるの。ストラゴスが山の近くまで飛ばしたけど人が居ない訳じゃないから、バトルフィールドをあっちでも張り直さないと――」 いきなり説明もなくサーヴァント二人を吹っ飛ばした時は何をしてるのか判らなかったが、ようやく『街中で英霊達が戦う時の危険』が俺の頭の中に舞い降りてくる。 普通だったら真っ先に考え付く筈の危険なんだが、バーサーカーに魔力を吸われ続けて思考が疎かになってるらしい。 気を引き締めろ。そう自分に言い聞かせるが、失われていく魔力と一緒に虚脱感は増すばかり。会話をする気力すら萎えていく。 「それじゃあ・・・、行くわ」 制止する言葉すら思いつけず、ティナがそう言い放つのを止められもしない。 まだ危ない目に合うかもしれないのを了承してくれたが、俺に魔力を渡してくれるのに忙しく、元々戦いそのものに熱心じゃない桜ちゃんが言葉を挟める筈もなかった。 事態は俺たち二人を置き去りにして進んでいく。 夜の中だからこそ余計に目立つ桃色の光がティナが包む。いや、ティナ自身が発光しているんだと遅れて気付いた瞬間、ティナ・ブランフォードが変わった。 「トランス」 ティナの口から放たれた小さな呟きを切っ掛けにして発光はさらに強くなる。けれど一瞬後には収まってカメラのフラッシュを思わせた。 何があった? これまでゴゴは俺に何度も何度も何度も世界の常識を破る事柄を見せてきて、その中に冗談や洒落の類はなかった。 ゴゴが何かするなら、それは確実に『何か』の結果に繋がる。その多くが修行中の俺を殺す攻撃になったのを俺自身がよく知ってる。 朦朧としかける意識の中で『間桐雁夜』の生存本能とでも言うべき何かが起こった事実を凝視させた。 そこには『何か』がいた。 頭の天辺から足の爪先までにきめ細かい体毛が生えて、その毛が淡い桃色の光を放つ『何か』、着ていた筈の服は無くなり体と同じ色の髪の毛は増えて腰まで伸びている『何か』。耳は尖って大きくなり、両手足はネコ科の動物のように変形した『何か』。 まるで桃色の獣のような―――ティナだった『何か』がそこにいた。 「・・・・・・」 何が起こった? 目の前にある現実に理解が追い付かない。 全てを見た筈なのに、頭がそれを理解しようとするのを拒む。 判っているのに判らない。判ろうとしない。これは誰だ? と頭の中で声がする。 知っている。判ってる。何もかもが俺の目の前で行われて、それが誰かなんてずっと理解し続けてる。 ゴゴでありティナ、これはティナ・ブランフォード当人だ。そう判っているのに俺はこれが現実の出来事だと思えず、ただ茫然とし続けた。 一秒か五秒か十秒か、もっと長くか。目の前に立ってる桃色の光を放ち続ける『何か』を見つめ続ける以上の事が出来なかった。 「・・・・・・」 戦場で呆けるのが危険だなんてゴゴと修行し始めてから即座に思い知った筈なのに、頭の中はごちゃごちゃで何だ何だかよく判らない。 そんな俺の意識を現実に置き続けていたのは、俺の手を握り続けてる桜ちゃんだ。 そうじゃない―――いつの間にか桜ちゃんは手だけじゃなくて全身で俺にしがみついてた。両手が俺のパーカーを強く握りしめて、桜ちゃんの少し高めの体温が体の横半分に伝わってくる。 だから余計に判る。 桜ちゃんが震えてる。 怯えてる。 怖がってる。 俺と同じようにティナの変貌を見上げて、異形の怪物を見るような目をしている。 「そう・・・・・・」 短いながらもしっかりと呟いたのはティナだった。全く別の姿をしているのに、聞こえる声は何も変わらない。 同じ声が聞こえた瞬間、俺の視界の中にはほとんど変わっていない物もあるのに気が付いた。ティナの顔だ。耳の長さと皮膚の色、髪の毛はとんでもなく多くなったが、間違いなく人の顔がそこにある。 目がある、鼻がある、口がある。 少し細められた目が俺たちを見てる。その顔が今にも泣きだしそうに見えたのは俺の勘違いじゃない。 悲しんでる。 落ち込んでる。 ゴゴが姿を変えるなんてずっと前から知ってた筈なのに、その変化があまりにも唐突すぎたから理解より前に忌避が出た。その『他人から嫌われる自分』をティナが受け入れてる。そう見えた―――。 俺が。俺と桜ちゃんが。怖がったように見せた俺達が。ティナを哀しませた。 「行くわ」 絶対にやったらいけない事をやってしまった。そこでようやく俺達がしてしまった間違いが判ったが、何もかもが遅すぎた。 ティナがもう一度同じ言葉を繰り返し終えた瞬間、ほんの少し足を曲げて屈むのが見えた。 その僅かな動きが跳躍の為の溜めなんだと気付くよりも前にティナは空に舞い上がる。 「うおっ!?」 ティナが『跳ぶ』ではなく空を『飛ぶ』。飛び上がった衝撃で爆風が発生して、すぐ近くにいた俺達を強く押しのける。 咄嗟に俺にしがみついてる桜ちゃんの頭を抱きしめた。 ただ、俺の視線はしっかりとティナだけを見つめ続けて―――悲しそうな顔をしながら飛び上がる様子も、桃色の光を残しながら遥か上空に舞い上がる様子も、夜の闇に消えてく様子も、何もかもを見ていた。 そうじゃない。見送るしか出来なかった。 変わってしまったティナに一言も声をかけられず、目の前で起こった変化についていけず、怯える桜ちゃんがすぐ傍にいたからそっちを優先させた。 俺は見るだけで何もしなかった。 「どうやら誰にも見られんかったようじゃゾイ。運の良いことじゃ」 聞こえてきた声はティナの隣に立っていたストラゴスの声だった。その声に導かれた訳じゃないが、夜空を見上げても、そこにティナはいない。 飛び去ってどこかに行ってしまった。それをいつまでも見るのが嫌で、俺は視線を上から下に戻す。 するとゴゴがそこに立っていた。 「・・・・・・え?」 二足歩行で紫色の牛を模した着ぐるみを着ていた筈のストラゴス・マゴスの姿は無く、一年間ずっと見続けてきたものまね士の格好をするゴゴがそこにいた。 いつ変わった? いつバーサーカーの宝具『己が栄光の為でなく(フォー・サムワンズ・グロウリー)』を解除した? 違う、そうじゃない。ストラゴス・マゴスの姿からものまね士ゴゴに変わったのになら、その瞬間が合った筈。俺はどうしてそれに気付けなかった? 俺はいったいどれだけ呆けていた? そうやって何度も何度も唖然したから、俺は間違えて何も出来なかった。唖然とするならいつでも出来る、思考に囚われて動きを止めた瞬間に敵は俺の命をとる。それは俺の中に刻まれた真実だ。 戦場で気を抜くな。今の冬木は戦場だ、たとえ結界が解除されて一般人が沢山いる世界に戻ってきたとしても、ここは紛れもなく敵がいる戦場だ。 ティナは変わり飛んで行った。 ストラゴスは消えた。 桜ちゃんがいる。 ゴゴが外に出る時に使っているストラゴスの口調と色素性乾皮症を患った間桐臓硯を見せかけるための姿でここにいる。 この構図は宝具『己が栄光の為でなく(フォー・サムワンズ・グロウリー)』を物真似する前に作られた俺たちの日常だ。 過去を取り込め。今を認めろ。先を見ろ。そして動き出せ―――、間桐雁夜。 「・・・・・・・・・どうしてあいつ等を吹っ飛ばしたんだ?」 「ここで戦えば神秘の秘匿が崩れる危険があるゾイ。一般人を巻き込むのはお主も本意ではなかろう?」 言われて周囲を見渡せば、何の変哲もない冬木の景色がそこに広がってた。歩道には僅かばかりの人、車道には昼と比較すれば圧倒的に少ない車が通り、並びビルには僅かに明かりが灯ってる。 ほんの少し前までこことは同じで違う場所でセイバーとバーサーカーが殺し合いをしてたとは思えないほど静かな景色だった。 ティナの変身を切っ掛けにして、どうして結界が解除されたとか聞きたい事が山ほど出来たが、俺が今するべき事をゴゴへの質問攻めじゃない。 俺がやらなきゃいけない事をやる為に必要なことだけに絞って話す。 「バーサーカーの事はティナに任せていいんだな」 「ワシ等に出来るのは邪魔が入らぬよう場所を作り出すだけじゃ。決着はバーサーカー自身がつける問題じゃゾイ。勝つかもしれんし、負けるかもしれん」 ゴゴに改めて言われてバーサーカーとセイバーの戦いに関してはもう俺が手出しできないのだと再認識する。 他の誰でもない、俺がバーサーカーのそう命じたから。 ある意味で令呪に縛られた今のバーサーカーは奴自身の剣で望む通りに戦う。そこに俺の意思が入り込む余地はない、セイバーと決着をつけるために全てはバーサーカーの意思に、湖の騎士(サー・ランスロット)へと委ねた。 ゴゴが場所を作り、俺は魔力を送る。その魔力も桜ちゃんから譲られてるから余計に『間桐雁夜』は入り込めない。 「・・・アスピル」 また魔力が消えていく感触で眩暈がしたので、全身でしがみついたままの桜ちゃんに魔力吸収の魔法をかける。 俺なんかが溜めこめる小さな小さな魔力炉を瞬間的に満タンにする桜ちゃんの莫大な魔力。桜ちゃんが聖杯戦争のマスターになれば魔力供給に関しては敵はいないんじゃないかと思う。 左手で桜ちゃんの頭を抱き寄せ、右手には魔剣ラグナロクを握りしめた戦場にいる自分を強く意識する。 あっちはバーサーカー自身とティナに任せよう。そう思った。 そうしたらゴゴが言ってきた。 「雁夜、バーサーカーに魔力を送りながらで苦しいのは判るゾイ。桜ちゃんが多分危ない目に合うのは心苦しいのじゃが、二人とも手を貸してくれんか? ちと厄介な事が起こりそうじゃゾイ」 「――厄介な事?」 桜ちゃんが危険な目に合う。聞き捨てならない言葉が聞こえてきたが、ゴゴが『厄介な事態』と言う時は俺なんかじゃ事態を納められないとんでもない状況になってる場合がある。 ケフカ・パラッツォが降臨した時のように―――。 ゴゴが敵になった場合かそれ以上に面倒な事態が起こってるんだろうと考え、ゴゴの言葉を待った。 「衛宮切嗣に張り付けたミシディアうさぎから嫌な情報が送られてきおった。このままだと冬木が滅ぶゾイ」 その言葉をゴゴから聞いた後。俺はバーサーカーのマスターではなく間桐雁夜という一人の人間として桜ちゃんと一緒にある選択をする事になる。 「がっ!!」 でもその前に―――バーサーカーがセイバーとの戦いを再開したようで、今まで以上に強烈な衝撃が俺の体を喰らっていく。気絶してしまいそうな巨大な魔力消費。 俺は語る言葉を失った。会話への気力も失った。ただ気を失わないように自分を保ち続けるしか出来なくなった。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - ゴゴ 柳洞寺が立つ円蔵山。ここは聖杯戦争の参加者で事情を知る者にとって、柳洞寺の真下にある地下大空洞に設置された大聖杯の近く。そう考えた方がいいかもしれない。 その麓にセイバーとバーサーカーの戦場は移されようとしている。 トランス状態で全く別のモノ―――人と幻獣のハーフと呼ぶに相応しい姿に変化したティナは空を飛ばされる二人の騎士を追いかけて、冬木の街中から一息でここまで移動した。 先に『鼻息』で飛ばされたセイバーとバーサーカーとの間に時間差が合ったにも関わらず、ほぼ同じタイミングでたどり着けるほど高速で、主に戦闘機などに発生する超音速飛行の衝撃波、通称『ソニックブーム』を巻き起こしかねない速さだった。 肉眼でティナの移動を目視できた者はおらず。見ていた者がいたとしても、超高速で空を飛ぶそれが人の形をした生物だと確認できない。 人の肉体を持ちながら、人では決して行えない出来事を易々と行う。これがティナの持つ幻獣の力だ。 かつて氷漬けの幻獣『ヴァリガルマンダ』と共鳴し、ゾゾの町に隠匿していた幻獣『ラムウ』の呼びかけに応じた時のように―――。 けれど、桃色の燐光を放ちながら人に似た別のモノに変わってしまったティナの胸中は『やっぱり・・・』と落胆に支配されていた。空を飛ぶ解放感も、人の技を超えた達成感も全く無い。あるのは自分の姿がどうあっても人にとっては嫌われる対象であるという自責の念だけだ。 間桐邸で雁夜と桜ちゃんと一年過ごしたのはあくまでゴゴであり、ティナの姿で接したのはほんの数日間。 あるいは雁夜と桜ちゃんに話す機会があり、もう少し長く接していれば二人もまたモブリズの村に生き残った子供たちのように、ティナを『ママ』と呼んだあの子たちの様に分かり合えたかもしれないが、状況がそれを許さない。 今は分かり合える時間が無い。話し合える時間がない。二人の英霊達の戦いが作り出す周囲への被害を食い止めるべき時なのだ。 打ち所が悪ければ着地どころか落下の衝撃で体中の骨が砕け散ってもおかしくないのだが、ストラゴスが使った『鼻息』で吹き飛ばされた二人は剣の英霊と狂戦士の名に恥じぬ見事な健脚を発揮して、ティナよりも先に難なく地面に着地した。 その二人の上空数十メートル上でティナは言う。 「バトルフィールド、展開・・・」 ティナの胸の中に巣くう寂しさを悟ってくれる者はおらず、小さく呟いた言葉を聞く者もいない。 いるのは人気のない夜の円蔵山の麓で改めて戦いを再開した二人の英霊だけ。 ただしセイバーしか見えてないバーサーカーと、同じくバーサーカーしか見えてないセイバーは遥か頭上から見下ろすティナの異形など目に入って無かった。 周囲の景観は変化していなくても、バトルフィールドが展開されれば無機物が一切破壊できなくなる。セイバーの約束された勝利の剣(エクスカリバー)でも、バーサーカーの無毀なる湖光(アロンダイト)でも、足元の道路は言うに及ばず、周囲に生えた木々どころか草木すら斬れていない。 明らかな異常が周辺に起こってるのは明白でありながら、その異常よりも彼らにとっては目の前にいる存在の方が重要のようだ。 着地と同時に他には目もくれずに無毀なる湖光(アロンダイト)で斬りかかるバーサーカー。 「何故・・・」 何とか約束された勝利の剣(エクスカリバー)を横に構えて脳天への直撃を回避するセイバーだったが。弱弱しく呟くセイバーは割れた兜の中から現れた湖の騎士(サー・ランスロット)の顔しか見ていなかった。 やはりどちらもティナの事も、自分たちを取り巻く結界の事も全く見ていない。それがティナにとってはありがたく、また寂しくもあるのだった。 令呪の後押しがあってもまだ『狂化』の属性付加から抜け出せていない狂戦士が叫びながら剣をふるう。 「アァァァァァァァァァァァ!!」 セイバーの名を呼ぼうとしているのか、それともただの雄叫びなのか。 無毀なる湖光(アロンダイト)がセイバーの構えた約束された勝利の剣(エクスカリバー)を打ち据えるごとに、黒に近い紫色の燐光が火花のように散る。 元々は端正な顔立ちだったであろう表情を憤怒一色に染め。鋭い歯を剥き出しにして暴れまわる姿はバーサーカーの名にふさわしい有様だった。 剣術というよりもむしろ力任せに振るわれる剣がセイバーの剣とぶつかり合い、ガキン、ガキン、と甲高い音を鳴らす。 セイバーはバーサーカーが持つどのクラスよりも強力な剛腕が繰り出す一撃によって剣を受けるのではなく剣ごと後ろに吹き飛ばされている。 しかし、体勢を立て直しながらも、そこから反撃に出ようとはしない。 剣は何とか構えているが、ただ兜の中から現れたランスロットの顔を見つめるだけに終わり、攻撃には転じなかった。 「ランスロット!!」 剣の英霊が選んだのは攻撃ではなく言葉だった。 けれど、名を呼んだ程度でバーサーカーは止まらない。全身で憎しみに表し続けるランスロットが止まる筈がない。 むしろ『その名で呼ぶな!』とでも言わんばかりに攻撃の勢いを更に増し。今まで以上に無毀なる湖光(アロンダイト)でセイバーを構えた剣ごと後ろに吹き飛ばす。 振り抜かれた剣が起こす刃風が草木を強く揺らしていた。 剣は構えていてもセイバーからは戦う意思を感じられない。自分を殺しに来る敵を前にして、間違いなく戦場にいながら戦おうとせず、それどころか呆けて見える表情は目の前に立つランスロットとそれ以外の事ばかりを考えているように見える。 バーサーカーの一撃は確かに強力であるのだが、その分だけ荒く大降りになって隙も大きくなる。剣の英霊ならば、その隙を十分につける筈なのだが、セイバーは攻撃に出ない。 心ここにあらず。今のセイバーはそう呼ぶに相応しく、どうしようもなく戦いを貶めていた。 アインツベルの森で行われた聖杯問答の時のライダーの言葉でも思い出しているのだろうか? 「ランスロット・・・。そうまでして――、私を恨むのか・・・」 それともセイバーとバーサーカーの生前。つまりはランスロットがアーサー王の妻を愛してしまい、その不貞によって円卓の調和を乱して、国を滅ぼすに至る戦端をを開いてしまった過去を、『完壁なる騎士』と呼ばれた男が『裏切りの騎士』と嘲りを込めて呼ばれた過去を思い出しているのだろうか? ティナの原形であるゴゴは聖杯戦争において雁夜がサーヴァント召喚を行えるようになる以前から、この世界の英霊が持つ宝具に強く関心を抱いていた。 宝具とは人間の幻想を骨子に創り上げられた武装。英霊が生前に築き上げた伝説の象徴であり、物質化した奇跡でもある。 けれどゴゴは宝具を物真似の精度を高める為の手段として考えた。 だからこそ他人に変身できる能力を持つ英霊を探し求め、ランスロットの持つ宝具『己が栄光の為でなく(フォー・サムワンズ・グロウリー)』へとたどり着いたのだ。 一年という限られた時間の中で、この世界の英霊にまつわる逸話を幾つも幾つも幾つも幾つも読み解いた。同時に間桐臓硯として行動し、英霊にまつわる逸話の中に該当するであろう強い繋がりを持つ触媒を探し続けた。 故にゴゴは湖の騎士(サー・ランスロット)が積み上げてきた物語と、そこから生まれる感情にある程度の予測をつけられるようになったのだ。 バーサーカーが歴史に刻んだ物語。いや、湖の騎士(サー・ランスロット)が歴史に刻んだ物語では、彼は武勇に優れ、忠節に厚く、立ち振る舞いは優雅にして流麗。騎士道の華を体現する者であった。 誰もがその姿に羨望を抱き、そして称賛する。それこそが騎士ランスロットの誉れであり、呪いだ。 乱世に荒れ果てた国を救うために求められた理想の王。その王の傍らには気高く貞淑な后。そんな『完璧な王』に仕える『完壁なる騎士』それこそがランスロットに望まれたモノであり、民衆から託されモノであり、ランスロットに許された一つ限りの生き様だ。 ゴゴの予想でしかないが、ランスロット自身がその生き方を望んだからこそ、紛れも無くそう歴史に刻まれたのだろう。だが、それ以外の生き方もまた心のどこかで望んでいたのではないだろうか? だからこそ彼は―――ランスロットはセイバーの妻である王妃グィネヴィアを愛してしまった。 そして王妃もまたランスロットを愛し、歴史は一気に『裏切りの騎士』と『王妃の不義』へと動いてしまう。 刻まれた歴史の中にセイバーことアーサー王の失墜を目論む謀略があったとしても、それは紛れもなく起こった事実であり、ランスロットが愛した女を救いたいと思ったのも間違いなく合った事なのだ。 けれど、ランスロットは騎士であり、『裏切りの騎士』と罵られようとも、間違いなく『完璧なる騎士』でもあった。 だからこそランスロットは恋敵であり、愛する女に苦難の道を歩ませた元凶である王に対し、怨嗟も悔恨も苦悩すらも口にしなかった。全ては王が性別を偽ったからこそ始まった悲劇であると知りながら、『完璧なる騎士』は―――誰よりも勇敢であり、誰よりも高貴であり、苦難の時代を切り拓いた王に対し、完璧な騎士だったからこそ犯意を抱かなかった。 ランスロットは自らが貶められたとしても、どこまでも正しき王を恨まず、そして憎まなかった。 いや―――恨めず、憎めず、ただ自分の中に押し込めるしか許されなかった。 英霊と言えども人であり、アーサー王が自分の国を滅ぼしたのを悔いたように、ランスロットもまた決して語られぬ無念を抱え、そして愛した女に与えてしまった永遠の慟哭に己を攻め続けたに違いない。 ランスロットは迷い、嘆き、そして誰にも知られずに心の中だけでアーサー王を憎んだのだろう。それを決して表には出さず、ただただ『完璧なる騎士』であり続けた。 それは歴史に刻まれなかったランスロットの心であり、初戦はゴゴの予測に過ぎない。 けれど雁夜にバーサーカーとして召喚された湖の騎士(サー・ランスロット)の姿そのものが、ゴゴの予測が間違っていなかったことを裏付けている。 ランスロットはアーサー王を憎んだ。 バーサーカーはセイバーを呪った。 ゴゴがランスロットの宝具を求め、雁夜を聖杯戦争で生き残らせるためにバーサーカークラスでの召喚を行ったが、ランスロット自身がそう望まなければそもそも召喚それ自体が成功しない。触媒は合って召喚がしやすいとしても、応じるのはあくまでランスロットなのだから。 もしランスロットが騎士でなかったなら。正しき王を貶められない騎士でなかったなら。愛する女を救いたいと願うただ一人の男だったなら。『完璧なる騎士』の生き方を捨て、憎悪に身を委ねられたなら―――。この思いが合ったからこそ湖の騎士(サー・ランスロット)は狂戦士となった。ゴゴはそう予測する。 「ウァァァァァァァァァァァァ!!!」 下段から掬い上げるように振るわれたバーサーカーの剣が防御のために地面に突き立てられた剣ごとセイバーを吹き飛ばす。もちろん突き立てた剣は地面に傷一つ付けていないが、その異常を気にする英霊二人ではない。 戦う意思を無くしてしまったのが原因か、ストラゴスの『鼻息』で吹き飛ばされた時はちゃんと着地していたにも関わらず、セイバーはろくに受け身もとれずに麓に生えた木の一本の激突した。 「うあっ――」 衝撃で木々がへし折れればダメージは多少軽減されたかもしれないが。バトルフィールド内では揺れても決して折れない木は鋼鉄に叩き付けられたのとそう変わりはしない。 喉が裂けたか。肺の中から空気を絞り出されるのと一緒に、セイバーの口から僅かに鮮血が舞う。そのままぶつかった木に体重を預け、崩れ落ちそうな体を何とか支えながら荒い呼吸を繰り返す。 頑強なサーヴァントの肉体を考えれば痛みは軽いはず。それでもセイバーが疲労困憊に見えるのは、肉体的な痛みではなく精神的な痛みを負って、体よりも先に心が屈しそうになっているからだろう。 戦う意思を持たない者がいつまでも戦場に居られる訳がない。むしろ五体満足でまだ戦場に居られるのが驚きだ。 追い打ちをかけるべく、荒々しい呼気を打ち消すバーサーカーの雄叫びが鳴り響き、吹き飛ばされたセイバー目がけて突進する。 狙いはセイバーの頭部。 風を裂いて駆ける速度はバーサーカーの体を巨大な砲弾へと変え、当たればただでは済まない威力を作り出した。 何もしなければバーサーカーが握りしめた漆黒の剣がセイバーの頭を砕き。そして止まらぬ勢いの体当たりが残った体をぐしゃぐしゃに押しつぶしたであろう。 けれどセイバーは無毀なる湖光(アロンダイト)が当たる直前、自らが持つ剣をふるって僅かに軌道をそらして直撃を免れた。バーサーカーの剣はセイバーが体重を預けていた木に当たって、バーサーカーの体ごと強引に止めさせられる。 これがもしバトルフィールド内ではなく、セイバーの後ろにある木がただの樹木だったなら、セイバーの聖剣と対をなす人が精霊から委ねられた至高の宝剣『無毀なる湖光(アロンダイト)』は勢いを殺さずに木を粉砕して、セイバーへと体当たりを喰らわせただろう。 だがそうはならない。無機物を破壊不能な物体へと置き換えてしまう結界はバーサーカーの全力疾走の勢いに乗った剣ですら止めてしまった。 木に剣を突き立てた状態で出来上がった空白の時。セイバーがここで攻撃に転じたならば、呆気なく勝敗がついたかもしれない時間に、やはりセイバーは自ら攻撃しようとはせず。それどころかバーサーカーが剣を退いてもう一度行われる掬い上げの様な一撃を待ってすらいた。 また別の場所へと飛ばされるセイバーの様子を上空から見つめながら。ティナは不意にバーサーカーの剣を止めた木の一本へと視線を移した。 よく見なければ判らないのだが、無毀なる湖光(アロンダイト)がぶつかった個所が全体の三分の一ほど抉れている。 絶対に破壊できない筈の無機物がバーサーカーの剣によって破壊された事実。全壊とまではいかないが、間違いなく壊された結果がここにある。 「・・・・・・・・・」 受け身になって戦おうとしないセイバーと、一方的に攻撃を続けるバーサーカーの状態に視線を戻しながら、ティナはものまね士ゴゴとしての意識で木が抉れた結果を考える。 バトルフィールドと言えど、この世界の魔術で壊されてしまう場合がある。と。 アーチャーの天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)が二重の固有結界を破壊したように、ある一定以上の威力ならばバトルフィールドを張り巡らせたとしても壊れてしまう。そう認めるしかなかった。 これまでバトルフィールド内で周囲の物体が全く破壊されずに原形を留めていたのは、バトルフィールドを攻撃しているのはあくまで戦いの余波だったからだろう。それが今回はセイバーに叩き付ける全力の一撃が木に集中した。 セイバーの剣で威力は削がれても、これまでの中で最も強い剣の一撃がバトルフィールドの一部を破壊したようだ。 ただし、天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)が広範囲に威力を発揮する対界宝具でありながら、無毀なる湖光(アロンダイト)はランクの高さこそ他の宝具よりも一歩抜きんでた宝具だが、それでも剣であり対人宝具なのに変わりはない。 渾身の一撃でバトルフィールドに穴は開けられても、全体を崩すのは不可能だ。そう推察する。 ティナは起こった結果から事実を受け止め終えて、二人の様子を見つめ続ける。 途中から気付いていた事なのだが。今のセイバーとバーサーカーが純粋の剣の技量のみで戦った場合、おそらく敗北するのはバーサーカーだ。 バーサーカーは間違いなくセイバーを殺そうとしているのだが、周囲から見ていると『殺す』ではなく、どちらかと言えば『痛めつける』に主体を置いた戦い方をしているような気がしてならない。 今のバーサーカーは雁夜の令呪によって『お前が望む通りに戦え』と命じられている状態だ。もしバーサーカーが望むのがセイバーの死ではなく、セイバーを苦しめる今の状況そのものだとしたら、殺す戦い方をしていない事になる。 あるいはバーサーカーの戦いは円卓の騎士を二分してしまった後ろめたさやセイバーへの思い、アーサー王という光がいる限り決して闇の中を進むのを逃れられない―――そう言ったやりきれない思いの発露なのかもしれない。思いの丈をセイバーにぶつける事こそがバーサーカーの『望み通りの戦い』なのかもしれない。 そしてセイバーだが。こちらに戦う意思が見られないのは、戦場が移る以前から判っていた事だ。辛うじて急所への直撃を避けるために剣をふるって防戦に徹しているが、攻撃する意思がなければ勝利は掴めない。 生前の湖の騎士(サー・ランスロット)の剣の腕前はアーサー王よりも上と語り継がれている。その上、真の剣が姿を現して技の冴えと威力は聖杯戦争が始まって以来、最高潮に達している。 けれど今の彼はバーサーカーなのだ。 令呪の強制と狂戦士の呪縛に囚われた状況がバーサーカーの剣を荒くしている。セイバーの腕前があれば本来のランスロットならば見せなかったであろう隙を突いて、約束された勝利の剣(エクスカリバー)で斬るのも不可能ではない。そう見える瞬間が幾つもある。 もちろんそれらはティナの想像でしかなく、本当の事はバーサーカーとセイバーにしか判らない。観戦する立場からは判らず、当事者にしか判らない戦いの流れは確実にあるのだから。 もしかしたら他の誰でもないセイバー自身が『ランスロットには勝てない』とサーヴァントとして召喚される以前から諦めている可能性もあった。 聖杯戦争に招かれたサーヴァントクラス。 戦う理由。 マスターからの魔力供給。 戦いへの意思。 令呪。 敵へ抱く思い。 宝具。 生前とは大きく異なってしまった二人の状況が『今』を生み出し、奇妙な拮抗を作り出していた。 バーサーカーがセイバーを一方的に痛めつける状況が続けば、いつかはバーサーカーがセイバーを殺して終わるようは見える。けれど、何かのきっかけでセイバーが攻撃に転ずれば、まだまだ勝敗はどうなるか判らない。 ティナはその『何か』が起こるかもしれない予感を胸に抱きながら、ずっとずっと二人を見続けた。 前後左右を見渡しても砂漠しかない空間の中で繰り広げられる戦いは、セイバーとバーサーカーの戦いと同様に、奇妙な拮抗状態を作り出していた。 雑兵が相手ならば一騎当千の猛者であるランサーをはじめとして、強化された暗殺者のサーヴァント達ならば十分に相手が出来ただろう。けれど相手は王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)によって呼び出された英霊達なのだ。 ケフカが再召喚する時に用いた『狂化』の属性。全パラメーターを一ランクアップさせるが、代償として理性の大半を奪われる。この諸刃の剣によってサーヴァント達は確かに同じ響きで別の意味の『強化』をしたが、数で勝るのはやはりライダー達だ。 一人一人が多少強くなったとしても、圧倒的な数の差を覆すほどではない。 黒き英霊として再召喚されたサーヴァント軍団。今ではケフカの手足となって敵を攻撃する彼らの総数は二十にも満たない。キャスターが螺湮城教本(プレラーティーズ・スペルブック)で海魔を召喚し、肉の壁として自分の身を守ったりもして数を増やしているが、王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)の数を勝るほどではない。 多人数を相手にするのに有効なセイバーの『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』、アーチャーの『王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)』や『天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)』。あるいはキャスターが『螺湮城教本(プレラーティーズ・スペルブック)』で再び巨大海魔を呼び寄せる時間があれば数の差は埋まったかもしれないが、そんな宝具も無く、眼前にいる敵の援軍召喚など待ってやる義理はライダー達には無い。 それでも戦場は拮抗していた。 向こうが召喚した幻獣『ギルガメッシュ』がアーチャーこと英雄王ギルガメッシュを背負って裏切ったりした異常事態があったが、ケフカが新たに呼び出した伝説の八竜が―――この世界では幻想種の頂点に立つ八匹の竜種が数の差を埋めているのだ。 そしてある意味でこれが拮抗を作り出す最も大きな理由かもしれないが、即死させかねない強力な一撃すら癒してしまう回復役が両陣営にいる。 英霊同士に竜が関わり合ったとしても戦いはどちらかが倒されるまで終わらない、その基本原理は全く変わっていない。その終わりに到達するまでの状況を何度も何度も何度も何度も巻き戻してしまうのが回復魔法だ。 ゴゴにとっては信じ難い事なのだが、向こうで回復魔法を使っているのは空高く舞い上がって戦場を見下ろすケフカ・パラッツォその人だったりする。 少なくともゴゴが知る『ケフカ・パラッツォ』は誰かを癒したりするのに自分の労力を使おうとはしない。むしろ傷つく者がいたら、それが味方サイドであろうとも回復などせず、見殺しにする類の人間だ。 それなのにケフカは自分が呼び出した黒き英霊達に回復魔法を使い、そして伝説の八竜たちにも回復を施している。さすがに裏切った幻獣『ギルガメッシュ』まで回復させたりはしていないようだが、回復魔法を使う時点でもかなり異例な事態である。 カイエン、マッシュの両名は地上で戦い。リルムは竜種であり呼び出した幻獣でもある『バハムート』の背に乗って戦いの場を空に移した。 残るロックとセリスの二人は戦場から一歩引いた位置で状況を見守り、この二人が戦場に居る全ての仲間たち―――ライダーが招き寄せた英霊達の回復役を務めている。 ライダーが号令を発した開戦当初はライダーが立つ最前線の一歩手前にいたロックとセリスだが、後ろにいた王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)が進軍してしまったので、今では最後尾にいる。 ロックは紫色の鳥の姿をした幻獣『ケーツハリー』に跨って空から様子を見て、セリスは背後にヒンドゥー教の女神と同じ名前を持つ『ラクシュミ』を呼び寄せた状態で地上から様子を見た。 ゴゴの意識は主にその二人を通して戦場を見つめ、異常な行動を続けるケフカも一緒に見続ける。 「必殺剣――舞!」 「爆裂拳」 カイエンが斬魔剣を片手に長い体の持ち主のブルードラゴンに四連撃を叩き込み、マッシュは首長竜に似たイエロードラゴンの胴体に防御力無視の拳を叩き込む。 二匹の竜が痛みに耐えかねて叫び声をあげると、それに合わせて王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)の兵が槍で突き、投擲し、剣を振るい、追撃をかけた。 少し離れた場所では全く同じ形であり違いは色だけのレッドドラゴンとホーリードラゴンがいて、二匹の竜が短く息を吸い込む。一瞬後、二匹の竜の口の中にオレンジ色の輝きが生まれた。 それは魔石の中央にある六芒星の輝きと同じで、魔法を使った場合に現れる術者の波動に酷似していた。遅れて、声なき声が竜の口から魔法となって紡がれる。 『フレア』。 『ホーリー』。 レッドドラゴンの近くにいた兵の周囲から紅く輝く光が集まって、避ける間もなく全身を焼き尽くす。 天から純白の光球が三つ降り注ぎ、ホワイトドラゴンのそばにいた兵に衝突すると、白い爆発となって兵を吹き飛ばす。 溶け込める闇のない砂漠の中で、更に黒さを増した暗殺者は乱戦となった隙間を縫って各所に散らばっていた。 竜を相手に忙しい敵の背後へと回りこみ、少し離れた位置から両手にそれぞれ持った黒塗りの投擲剣『ダーク』を投げつける。 真正面からの戦いならば王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)が圧倒的に優位だが、背後から忍び寄る暗殺ならばアサシンこそが真価を発揮する。敵を強力に引き付ける竜が八匹もいるからこそ、アサシンは敵の背後を突く。 目の前に竜に対するのが忙しく、首の後ろを投擲剣で貫かれる英霊が何人も出来上がった。 真正面から突き出された槍を掻い潜って体当たりを仕掛ける暗殺者らしからぬアサシンもいる。黒塗りの投擲剣で真っ向から立ち向かったはいいが、力任せに斬られて地に伏すアサシンもいる。 巨大な竜の手が動き、羽虫を払うような動きで英霊を吹き飛ばす光景があった。かと思えば、英霊の一人が竜の体を駆け上がり、眉間に剣を突き立てる光景もあった。 長い黒髪と黒色の装束で身を固めた男性は剣を構えてランサーと対峙していた。どちらかと言えば武官よりも文官に見える男が『破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)』と『必滅の黄薔薇(ゲイ・ボウ)』を持つランサーを相手に戦えば瞬殺される。 傍から見ればそう見えてしまう。 けれど男の剣は敵を倒すためではなく、戦いを長引かせてランサーを足止めさせる事に特化しており、柳の木のようにゆらゆらと揺れ動いて威力と速度が大幅に跳ね上がったランサーの剛の槍を柔の剣で受け流していた。 もしランサーが黒き英霊として召喚される前の戦い方をすれば、柔らかな剣で対応したとしても貫き殺したかもしれないが、狂戦士のようになってしまったランサーからは舞うような槍遣いが消えている。 だから男は槍に貫かれることなく、何度も剣で槍をいなせていた。 いつかはランサーの槍が男を貫くとしても、それまでは敵をここに引きとめて味方の負担を少しでも減らそうとしている。 別の場所ではキャスターを取り囲む十数人の近衛兵団の姿が合った。 彼らは円を描いて四方からキャスターを取り囲んで決して逃げられない状況を作っているのだが、キャスターはキャスターで呼び出した海魔を壁にして自分の周りを埋め尽くしていた。 海魔一匹一匹にそれほどの力は無く、しかも怪物とはいえ海の生物にとって水気がない砂漠では弱体化してしまう。 それでも海魔が倒される毎に出来上がった紫色の血の海を媒介にして、キャスターは螺湮城教本(プレラーティーズ・スペルブック)の力で新たに同族を召喚し続ける。 時間稼ぎをするのはどこも同じなのか、それとも圧倒的不利な状況にありながら自分を倒し切れていないライダーの近衛兵団の力を嘲笑っているのか。 英霊が取り囲む怪物の円。死んでは蘇り、死んでは蘇り、キャスターを守る肉の壁としてそこに在り続ける。冬木の未遠川で召喚された巨大海魔とは別の意味で厄介な状況が出来上がっていた。 「針千本!!」 『重力50』。 幻獣『ギルガメッシュ』は突き出した左手から千本の針を撃ち出して、全員にかかっている浮遊魔法の効果を打ち消す技を使うアースドラゴンに針を全て叩き込んでいく。 「――からのエクスカリバー。おりゃぁぁぁぁぁぁっ!!」 目に当たった一部の針に顔を背けたのを好機と見て、左手に持つ剣を思いっきり振りかぶりながら跳躍。ティラノサウルスを思わせるアースドラゴンの頭を斬りつけた。 そして、コン、と軽い音が鳴り。斬るどころかめり込みもせず表皮で剣が止まる。 「これは最強の剣じゃないのか? まさか、エクスカリパー!?」 エクスカリバーとエクスカリパーの取り違え。どうしようもない失敗に気付くが、それは敵の眼前で剣を斬り付ける体勢で止まる隙だらけの格好を曝け出す以上の効果は発揮していない。 全く痛みのない状況に斬りつけられたアースドラゴンも驚きながら、今度はこちらが好機と見てようで巨大な頭部を横に振るう。 空を跳んでしまった幻獣『ギルガメッシュ』に避ける術は無く。横から振り抜かれた頭をもろに喰らった。 「あーれー!!」 何とか攻撃を体の正面で受け、吹っ飛ばされながらも足から着地して、まだ気絶している英雄王ギルガメッシュを背負い続ける幻獣『ギルガメッシュ』。 彼はエクスカリパーを鞘に戻し、今度こそ本物のエクスカリバーを抜いて、再び戦場へと駆けだしていく。 リルムは幻獣『バハムート』の背に跨って空を飛び、ライダーもまたウェイバーと一緒に神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)で空を駆ける。 共に狙いはケフカ・パラッツォなのだが、守護するようにケフカの周りにはストームドラゴンが飛び回り、近づこうとすれば風属性の攻撃『大旋風』や『エアロガ』が飛んでくる。風を抜けて接近すれば、三倍強化物理攻撃の『イカロスウィング』を繰り出してきて、強靭な翼が近づく者を地上へと叩き落とす。 ウェイバーは幻獣『アレクサンダー』を召喚し続け、二度も聖なる審判を打たせた。つまりその分だけ魔力消耗が激しく、今はもう手にした魔石から城によく似た幻獣を呼び出してはいない。 戦いをライダーに任せ傍観しながら、死なないように御者台の上で踏ん張っていた。 幻獣『バハムート』が放つ竜の咆哮―――メガフレアならばストームドラゴンとケフカを同時に攻撃できるが、ストームドラゴンの風は強力で、爆風そのものを逸らすほどの力を有している。加えて、とある事情によりリルムはケフカを攻めきれないでいた。 剣が光る。 炎が焼く。 槍が飛ぶ。 毒が侵す。 矢が貫く。 水が襲う。 斧が壊す。 大地が揺れる。 戦場では数々の戦いが繰り広げられる。 アサシンの剣で後ろから首を貫かれた者がいた。 アサシンを斬り殺す者がいた。 傷つけばゴゴが治し、ケフカも治す。 巨大な竜の足に押し潰される者がいた。幻獣『ギルガメッシュ』と同じように尾で弾き飛ばされる者がいた。 竜の攻撃を避けて一矢報いる者がいた。振り抜かれた尾を斬り飛ばす者がいた。 死にかければゴゴが癒し、ケフカも癒す。 当たった者を凍結させる竜のブレス『フリジングダスト』によって凍らされる者がいた。 一番小柄だからと他の竜よりも兵たちに狙われるフリーズドラゴンがいた。 勝つためにゴゴとケフカは一時の味方を戦わせ続ける。 位置を変え、技を変え、敵を変え、戦いは終わることなく続いてゆく。 この砂漠の結界を保持する王の臣下達は消える事無く戦い続ける。 ロックとセリスの視点から様子を見ていたゴゴは、ライダー自身の強さもそうだが、王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)の連携の上手さに度々目を奪われた。 大きさでは人を軽く上回る竜。それが八匹もいて、各々が別々の攻撃方法を使い、大きさもまばら。同じ『竜種』で括れても戦い方は竜の数だけある。―――にも関わらず、ライダーが呼び出した英霊達は即座に自分たちがどの竜を相手にするかを選択し、勝利するために戦う相手を選び抜いた。 八匹の竜がほぼ同じ場所に固まっているので、状況によって相手が変わる場合は多いが、彼らは常に連携して竜と戦っていた。 誰も彼もが好き勝手に戦っているように見えて、遠くから見れば王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)そのものが一つの生き物のように動いて数多の戦術を展開しているのがよく判る。 時折、合図も飛んだ。 「弓兵隊、一斉射!」 「第二投擲隊、退避!」 敵からの攻撃を盾で防ぐ者。 一歩引いて槍を投擲する者。 隙をついて剣で斬り付ける者。 常にその役目に準ずるのではなく、場合によっては攻守を入れ替えるなど当たり前に行う。 ゴゴもアサシンの宝具『妄想幻像(ザバーニーヤ)』によって数を増やし、似たような事は出来るだろう。けれどそれは誰も彼もが同じものまね士ゴゴの意識によって統括される同一の存在だからこそ可能な技術であり、他人同士が声を掛け合いながら多くの戦術を用いて戦い続けるのとは訳が違う。 ライダーの号令が合って戦い方を変えるならばまだ判るが、ライダーは開戦の号令こそ出したものの、それ以上の命令は下していない。合図を出す者も常に変わり、役目をくるくる回していたりする。 一人一人が一騎当千の英霊であるのも紛れもない事実だが、おそらくこの連携の上手さこそが世界の半分を征服した王の軍団の強みなのだろう。 これこそが宝具にまで昇華した征服王イスカンダルへの忠義と絆の証。 ゴゴは最初に宝具『王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)』を見たときは物真似しきれないと思い、完敗を意識した。そして今、再び観察できる機会に恵まれ、畏敬の念は以前よりも更に膨らんでゆく。 いっそ感動すら覚えながら状況を見続けるゴゴだが、『王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)』とは別のモノにも大きく意識を裂いていた。 ゴゴは思う。空に浮かぶケフカ・パラッツォを見ながら思う。かつてゴゴが戦った六枚の羽根を抱いた天使にも悪魔にも見える、人であって人ではなくなってしまった者を見て思う。 強すぎないか? と。 確かにケフカ・パラッツォは強大な敵であり、元になっているゴゴも自分自身だからこそ大きな力を行使できる事は知っている。物真似して得た聖杯の力を融合させて、歯止めがないからケフカはある意味でゴゴ以上の事を易々とやってのけられる。 けれどケフカの力の元になっているゴゴの力は確かに強力なのだが、ケフカ自身は数あるゴゴの力のほんの一部分にすぎない。総力から換算すれば多く見ても一割程度だ。 ゴゴとて本気を出せば星一つ位は簡単に破壊できる力の持ち主なので、全力全壊がどれほどの効果を発揮するかは未知の領域だ。一割以下でもそれはそれで強力な力となるのだが、今のケフカから感じる力はゴゴが持つ力の一割程度とは思えない。 ものまね士ゴゴの力、聖杯の中にいた悪の塊である『この世全ての悪(アンリマユ)』の力、元々物真似した技術とこの世界で獲得した技術。それらを統合できたとしても、今のケフカの力はあまりにも膨大だ。 そもそもここではなく別の場所にいるケフカ―――言峰綺礼に同行して、かつてのゴゴと同じように状況をかき回しているケフカは単なる分身体に過ぎない筈なのだが、まるで本物かそれ以上の力を行使している。 ミシディアうさぎの目を通しての監視なので直接その力を肌で感じた訳ではないが、力の強弱ならば見ただけでも判る。 ここにいるケフカが力が送り込んでいるとしても強すぎる。限られている筈の力が枯渇する気配がまるでない。 それだけ聖杯の力がゴゴの考える以上に強力だったのか。それともゴゴが知らない何かがケフカの力を増幅させているのか。 戦いながらもその正体を探るためにどうしても攻撃の手が緩んでしまうが、気になって仕方がない。 リルムの攻撃の手が最大まで引き上げられないのも、攻撃よりも観察に意識が向いてしまうのも、強力過ぎるケフカのおかしさが理由だ。 けれど、この違和感の正体を突き止める事こそが戦いの終局に向かうとも思えるので、ゴゴは攻撃ではなく観察を強化させてしまう。それはゴゴがものまね士である限り、決して逃れられない定めでもあった。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - ケフカ・パラッツォ 幻獣『ギルガメッシュ』の反乱。少々予想外の事態が起こったのは嘆かわしくも苛々するが、戦いが始まってしまえばそんな些細なことはどうでもよい。 反乱程度がどうでもよくなる面白さが戦場には転がっているからだ。 「ケアルガ、アレイズ――。ホワイトウィンドォォォォォォ!!」 本物のケフカ・パラッツォには回復魔法と蘇生魔法が使えなかったとしても、この『ケフカ・パラッツォ』には出来る。 本物よりも魔法の力に傾倒し、本物よりも三闘神の力を使いこなす。この世界の魔術を吸収し、聖杯とその中にいた悪の力すらも手に入れた。『物真似した成果』という制限すら外して何もかもを使いこなす。 誰よりも高く舞い、空から戦場を見下ろして仲間にも使い魔にもなりきれない者どもを働かせる。 死ぬまで戦え。 蘇って戦え。 死んでも戦え。 何度でも、何度でも、何度でも、戦い続けろ。 そして死ね。 仮に再召喚したサーヴァントを殺せたとしても、聖杯の器に喰われる前の魂ならば再々召喚できてしまう。 蘇ってまた戦え。 何度も何度も何度も何度も、殺して、戦って、殺されて、死ね。 敵が蘇れば何度でも殺す。 弄って、殺す。壊して、殺す。焼いて、殺す。潰して、殺す。凍らせて、殺す。 何度も何度も何度も殺してあげよう。 癒されてしまうのが―――生き返るのが―――死ねないのが―――。嫌になるほど破壊し尽くしてやろう。 ケフカは思う。ここは天国だ、とてもとても素晴らしい地獄という名の天国だ、と。 この戦場には『死』という終わりがない。 何度でも何度でも、死んで殺されて亡くなって殺して。その度に蘇る。 もし本物のケフカ・パラッツォならば、終わりのない繰り返しにつまらなさを感じたかもしれないが。この『ケフカ・パラッツォ』はこの終わりなき殺し合いに楽しさを見出している。幻獣『ギルガメッシュ』が敵に回って、こちらを攻撃するのがどうでもいいと思えるほどに―――。 「ホワッ、ホッホッホ!」 三対六枚の羽根で空を舞いながら、ケフカは笑う。生と死の終わりなき螺旋渦巻く戦場を見ながら笑う。 何度も何度も繰り返される破壊を見ながら―――笑い声を響かせた。 バトルフィールドと『踊り』で構築された固有結界が解除され、街は元の冬木市の様子を取り戻す。 聖杯の器を体内に宿した女が隣で叫ぶ。ビルの屋上から見下ろす先にはばら撒かれた聖杯の泥を中心に地面に伏す人影がいくつも見える。 その中には衛宮切嗣と言峰綺礼だけではなく、たまたま固有結界が解除された時にこの場に居合わせてしまった一般人の姿もあった。しかし、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンの姿は無く、聖杯の泥の呑まれて融合してしまったままのようだ。 ビルの屋上から響く悲鳴と地面に倒れる人々。夜の中に現れた非日常に道をゆく人々は足を止め、道路をゆく自動車はハザードランプを点滅させて停車していく。何が起こったかを正確に理解しているのはケフカただ一人。 それ以外の者たちは何かが起こっていると知りながら、その『何か』にたどり着けず右往左往する。 騒動の中心にある黒い泥が死を呼び込んでいた。その周りを人の形をした虫共がうろついてる。小さな破壊ながら、それはとても面白い見世物だ。 「ホワッ、ホッホッホ!」 アインツベルンの女が泣き叫ぶ隣で思わず笑いが漏れた。おかげで下にいる奴らが何人かこっちを見ていたが、そんな事はどうでもいい。 大事なのは聖杯の泥をかぶってケフカの聖杯に取り込まれた衛宮切嗣が戻ってきたことだ。 「う・・・・・・」 聖杯の泥に接触した瞬間に気絶して倒れた衛宮切嗣。彼は右手にトンプソン・コンテンダーを握りしめたまま、左手を地面について強引に体を起こし始めた。 聖杯の泥が広がった地面からゆっくりと起き上がるが、焦点の合わない虚ろな目でのろのろと動く様は幽鬼かゾンビを思わせる。 当然だ、聖杯の泥―――ケフカ・パラッツォの聖杯に触れ、それを使おうと少しでも考えた者が触れる前と後で同じで居られる筈はない。 現実には一分にも満たない時間。まだまだ大勢が集まるには少ない時間だが、僅かばかりの人垣ができるには十分すぎる時間ではある。 その中に声をかける者がいても不思議はない。 「あんた・・・、大丈夫か?」 ただし、起き上がる衛宮切嗣に近づこうとする者はいない。 誰も彼もが遠巻きに見るばかり。衛宮切嗣が銃を持っているのも近づけない理由だろうが、最たる理由は足元にある黒い水から感じる得体のしれないおぞましさに違いない。 触れればただじゃすまない、判らずとも見ただけで感覚が訴えるのだろう。黒い泥が作る水たまりの中にはまだ倒れている者がいながらも、駆け寄って起き上がらせようとする者もまた一人もいなかった。 「ぅ・・・ぁ・・・」 見守られるだけの中、衛宮切嗣はゆっくりと起き上がり、周囲からかけられる声に全く応じず天を仰ぐ。 衛宮切嗣の正義―――。確かに衛宮切嗣がこれまで行ってきた悪を殺すやり方は手っ取り早い手段ではあるが、同時に安易な手段でもある。 誰かを救うために敵を殺す。殺人を犯す。 他の誰でもなくその方法をやり続けて一つの世界の敵を殺したゴゴだからこそ、その本質が誰一人として救ってないのだと知っている。殺された本人ではないが、その紛い物でも知れることはある。 殺人こそが衛宮切嗣にとって最も確かな正義だったかもしれないが、悪を消すだけでは救済とは呼べない。 間桐に囚われた遠坂桜が間桐臓硯を殺しただけで終わらなかったように―――。 衛宮切嗣が求めた聖杯なら彼が求めた奇跡を叶えただろう。だがおそらく衛宮切嗣はそれを認識できないに違いない。何故なら彼自身が『救済』が何であるかを知らないからだ。 苦しい事や悲しい事に蓋をして見ないふりをしても救済にはたどり着けない。それは優しさや愛しさと紙一重に存在し、時に同じモノへと変わる。どちらか一方だけで救済など成り立つ筈はない。 安易な手段で結果を重視し、過程を理解しなくなった男は知らないことが多すぎた。 衛宮切嗣が妥協する男だったならば、聖杯に願いを託した時点で全ては終わったかもしれないが。衛宮切嗣は決して妥協出来ない存在だ。 そうでなければ、安易な手段だったとしても、殺人を生業にして正義を行い続けるなど出来はしない。妥協出来ないからこそ、衛宮切嗣は悪を殺して殺して殺し続けた。 ケフカ・パラッツォの聖杯はそれを教えただろう。この場にいるケフカではなく、聖杯の中にいるケフカはそれを教えただろう。衛宮切嗣が願う人類の救済は衛宮切嗣自身が知らないのだから決して叶わない、と。 例えば、北極に近いとある国で辺り一面が雪の生活をしながら雪合戦に楽しむ子供がいるとする。衛宮切嗣はそれが誰なのかを知らない。 世界最大の河川アマゾン川の支流近くで生活する者がいて、河に住む獰猛な生き物と日々格闘しながらもその行為自体を楽しんでいたとする。衛宮切嗣はそれが誰か知らない。 赤道近くのある島国でそれなりに裕福な暮らしをしている者がいるが、あまりの暑さにこの世界の暑さそのものを呪っているとしよう。衛宮切嗣はそれも知らない。 衛宮切嗣は数多くの戦場を渡り歩いてこの世界が地獄そのものだと理解してしまったようだが、この世界に生きる全ての人間の総数から考えれば遭遇できた人数など一割どころか一パーセントにも到達していない。 衛宮切嗣は自分一人が体感した事実のみで世界全てを知った気になっているだけなのだ。 世界は広く、一人の人間が知れない事は数多く、生存するだけなら数百年は生きられるだろう死徒でも世界全てを知る者はおそらくいない。誰がが死に、誰かが生まれ、世界は常に流動し続け一度たりとも同じ形を作らない。 世界の半分を征服したライダーこと征服王イスカンダルとて、世界の半分を『征服』したと豪語しても『理解』したとは言わないだろう。 吸血種の中でも特異な存在の真祖あるいは神霊の類ならば世界の全てを知っているモノがいるかもしれないが、それはもう人の領域ではない。 一人の人間が全ての人間を救うなど決して叶わない夢物語なのだ。何が起これば全ての人類が救済され、争乱が終結するのかを人は理解できない、理解するためにはあまりにもこの世界に人が多すぎる。 衛宮切嗣はそれを奇跡の聖杯に託したのかもしれないが、世界の形そのものを―――人が作り出す世界を理解していなかったのは致命的な失敗だ。衛宮切嗣は救おうとした『世界』を知らない。 もしかしたら理解したくなかったから目を反らしていただけかもしれない。 その結果がこれだ―――。 「う・・・ぁ・・・・・・あ・・・・・・」 もう喋る言葉すら失ったか。衛宮切嗣は虚ろな目を空に向けたまま、何かを求めるように銃を持たぬ左手を伸ばした。 現実の時間が経過したのはほんの僅か。けれど衛宮切嗣が体感した聖杯の中の時間はその数万倍、数兆倍、無限にも等しい時を旅した筈。 人の精神が耐えられる時間ではない。 そして現実に戻ってきた事実そのものが『冬木の聖杯』と似て非なる物真似した結果の『ケフカの聖杯』を使わなかったのを物語っている。 ケフカの予想通り、衛宮切嗣は可能性として用意された数多の選択をどれも選ばなかった。衛宮切嗣自身が理解できないモノを何一つ選べなかった。 聖杯にイリヤスフィール・フォン・アインツベルンの復活を願わなかったことを喜びながら、ケフカは衛宮切嗣の挙動を注視する。すると、不意に彼の視線がこちらに向き伸ばしたままの左手どころか銃を持ったまま右手もこちらに向けた。 手を伸ばしても届かないと判ってすらいないようで、掲げた両手をゆらゆらと動かす。そして目は妻のアイリスフィールを―――正確にはその腹部を見つめた。 「・・・・・・せ・・・い、は・・・・・・い」 衛宮切嗣は呻き声にも聞こえる単語を口にした。 今の衛宮切嗣を見て正気だと思える人間は一人もいない。 麻薬中毒者。認知症患者が行う徘徊。妄執に囚われた狂人。 聖杯の泥を被って何が起こったかを知るケフカは今の切嗣が何を求めているかを予想し、言葉によって補填した。 冬木の聖杯だ。物真似で得たケフカの聖杯ではなく、聖杯戦争の勝者に与えられる聖杯を欲しているのだ。あの男は―――。 その元になっている聖杯の器が妻の体内に封印されている事は覚えているのだろう。 ただし、当人の足元には戦っていた言峰綺礼がいて、ついでに妻のすぐ隣に敵がいる事は綺麗に忘れたらしい。 ただ妻の体内にある聖杯の器だけを見つめている。 「つまらん。全てはいずれ壊れゆくと知りながら、まだ聖杯に望みを託すのですか? それが心に残った最後の希望ですか? こんな壊れ方じゃ、ぼくちん、すこーしがっかりだね」 話しながら、あるいはもしかしたら外的要因か別の理由、例えば数年単位の永い眠りにつけば、衛宮切嗣の中で記憶の整理が出来るのではないかと考えた。 何しろ彼は途方もない時間が経過したと思っているかもしれないが。ケフカの聖杯がそう錯覚させているに過ぎない。 人が一度に受け止めきれない多くの情報を一気に流し込まれたが故に、冬木の聖杯しか覚えていないようだが。実際に流れた時間はごく僅かであり、聖杯の中で得た数ある選択肢も他の選択を迫られた時にはもう忘れてしまった場合もあっただろう。 人は忘れる生き物だ。 聖杯の泥に呑まれ、途方もない選択を見せつけられた事実そのものを衛宮切嗣が忘れれば、今の状態を脱して現実に戻ってこれる可能性はある。 だが正気に戻る等とつまらない結果は見たくない。それはケフカの本心だ。よって聞こえているのか聞いていないのか定かではない衛宮切嗣に向け、ケフカは淡々と言う。 きっとケフカの聖杯の中でも同じように語りかけたであろうと思いながら。 「けれど、それほどまでに聖杯を求めるのならば、心優しい私は考えてやらんでもありません」 ケフカの近くには衛宮切嗣が見続ける妻のアイリスフィールがいて、彼女は屋上から身を乗り出しており、後ろから小突けばそのまま地上へと落下しそうな格好だ。 アイリスフィールは悲鳴を上げながらもしっかりと衛宮切嗣を中心にして聖杯の泥も一緒に見ている。状況のおかしさを除けば夫婦同士が見つめ合う光景と言えなくもない。 ケフカはそんなアイリスフィールの肩に手を伸ばして置いた。 「奥さんの命と引き換えだ」 ケフカの聖杯に娘の復活を願わなかったのは衛宮切嗣だ。 ケフカの聖杯を選ばず、妻が死ぬと知りながら、それでも冬木の聖杯を望んだのも衛宮切嗣だ。 ケフカの聖杯を偽物と思い込み、冬木の聖杯がどんな状態にあるか知ろうとしなかったのもやっぱり衛宮切嗣だ。 その願いが衛宮切嗣の選んだ結論なのだから―――叶えるのは紛れもなく善意となる。 冬木の聖杯がこの世全ての悪(アンリマユ)によって汚染され、場合によってはケフカの聖杯よりもっと酷い結果になると知りながら、ケフカはアイリスフィールの肩に当てた手から魔力を送ってゆく。 聖杯の器に膨大な魔力を流し込む方法はすでに知っていたので、間に『アイリスフィール・フォン・アインツベルン』があっても難しくはなかった。 さあ目覚めろ。物真似ではない、真の『この世全ての悪(アンリマユ)』よ―――。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - ???? 『彼』は自分が誰なのかを思い出せない。そして自分が置かれている状況が何であるかも全く判っていない。 今はいつなのか? どうしてここにいるのか? 何をしていたのか? 自分は誰なのか? 何をやろうとしていたのか? 過去は無く、現在も無く、未来も無い。 何もかもが空白であり、人ならば誰でも持っているであろう『自分』が今の『彼』には無い。主観は無く、自らを客観視できない。 けれど死んでいる訳ではない。 『彼』は間違いなく動いており、呼吸をして、筋肉を動かし、寝転んだ状態から起き上がった。 その動きは非常に鈍重だったが、間違いなく人のそれであり。傍から見る限りでは『彼』の中に『自分』が無い等とは思えない光景である。 ただし『彼』は気付いていない。『自分』が無いからこそ自分の体がどんなひどい状況に陥っているか考えようともしない。 体を構成するあちこちの骨にひびが入り、左肩は特に酷く砕け、内出血は全身で起こって、筋肉は無事な部分を探す方が難しいほどにボロボロ。生きていたとしてもまともに立ち上がる事は殆ど不可能で、今この瞬間にも『彼』の肉体を支える二本の足が折れ曲がってしまい、地面に倒れこんでも不思議はない。 『彼』が使う魔術を行使し過ぎたのと、敵との戦いによってこうなってしまったのだが。『彼』はそのことも思い出さない。 『彼』の中では何かを思い出そうとする意思すら湧いてこない。 意思なき人形。茫然自失、虚脱状態。何も思えず、思い浮かべられず、ずっと我を忘れたままだ。 繰り返すが今の『彼』の中には『自分』がない。自分の名前も、経歴も、過去も、何者であるかも、全く思い出せない。 しかし『彼』の心の中に何も無いかと問えば。そんな事は無い、と答えが返ってくる。今の、『彼』がそう応じるのは不可能だが、『彼』の中に『自分』は無くともそれ以外の『何か』はあった。それは間違いなかった。 それは『彼』にとって自分よりも大事な事であり、『彼』が自分自身を見失っても『彼』の中に残り続けていた大切なモノだ。 『彼』は忘れていない。『彼』は覚えている。『彼』の中からそれは決して消えないから。 セ界をカイヘンすル。 だからこそ、『彼』の中から言葉が生まれたのは―――その言葉を思い出したのは必然であった。 言葉そのものを覚えていた訳ではない。言葉は『彼』の中に合って決して消えずに残り続けていたモノから派生した思いそのものだ。 『彼』の中に残ったモノは核となり、その周囲を渦巻く決意の表れは言葉となる。 その言葉が彼の中に生まれ、意味ある単語に変わっていった。 人のタマシイヲ変カクすル。 『彼』は自分の中に残っていたモノが何であるかを正確には理解していなかった。けれども、自分の中に確かに『何か』が残っている事だけは理解していた。 それを語る言葉は無い。 それが何なのか答える思考もない。 あるのはただ思いだけだ。 タトエ、コの世ノスベテの悪を担おウトモ。 起こっている事象を説明するなら単なる連想だ。『彼』自身、どうしてそれを思い出したかなど確たる理由は無い。 『彼』が自らそう念じた訳ではない。思い出そうとした訳でもない。他にも連想することは山ほどあるが、たまたまその言葉が『彼』の中に浮かんだに過ぎない。そもそも『彼』は核になった『何か』が何であるかすらまだ判っていないのだから。 けれど何の前触れもなく蘇ってしまったその言葉は自分自身すら見失った『彼』にとって天啓にも等しい言葉だった。 相変わらず自分の事は欠片も思い出せないので、『彼』は自分の中に残っていたモノが何なのか判っていない。だからこそ、何も無くなってしまった自分の中に蘇った言葉に強く惹かれてしまった。 まるで雛鳥が初めて見る動くモノに付いて行ってしまう刷り込みのように―――。 『彼』はその言葉を何度も何度も繰り返す。 自分の中に残ったモノが何であるかを確かめる為、大切なモノが何だったのかを思い出すために何度も何度も繰り返す。 思考はその繰り返しに没頭し、同じ場所を何度も何度もぐるぐると回り続けた。 回して、繰り返して、回して、繰り返して、高速に回り続ける言葉の中央にあるモノに形を与えるように、何度も何度も回して繰り返す。 何十回そうしただろう? 何百回そうしただろう? 何千回そうしただろう? 『彼』の意思はただそれのみに集約し、たった数秒の間に恐ろしく大量にループした。 『何か』から言葉が連想させるのならば、その逆も決して不可能ではない。ただただそれが何なのかを求め続ける思考は執念によって支えられ、そして遂に一つの言葉を『彼』の中に蘇らせた。 「・・・・・・せ・・・い、は・・・・・・い」 そう呟いた瞬間、『彼』の中で光が生まれた。 幾つかの言葉を連想したように、別の言葉が、形が、風景が、願いが、『彼』の中で爆発した。 たった一つだけ残った大切なモノを言葉にして思い出すと同時に、それに付随するいくつもの情報が『彼』の中に蘇る。 『彼』は思った。 僕はコのフユきでナガす血ヲ、人類サイゴノ流血にシテミせる。 そして、こうも思った。 ボくハ―――聖杯で―――人類ヲキュウさイスる。 一斉に蘇った言葉の中には自らを指す一人称が『僕』であったり、これまでは欠片も思い出せなかった地名『冬木』があったり、『人類』『最後』『流血』『救済』などの言葉が巻き起こったりもした。 起点となる一つが蘇り、そこを中心にして色々な事が発生する。 けれど『彼』の意識は一人称にも地名にもさまざまな言葉にも向かわず、たとえ自分を見失っても決してなくならずに残り続けた『何か』へと向かっていく。 『彼』は他に何も選ばずに、ただひたすらにそれを選ぶ。 たった一つだけ残っていた『彼』の大切なモノを繰り返す。 聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で―――。 「聖・・・、は・・・い・・・」 再び同じ言葉を呟いた時、それは以前よりも意思のはっきりとした言葉に変化していた。最初は呟きというよりも呻き声に近かったが、今では明確な言葉になっている。 繰り返された思考の中で言葉は意思に変質し、思い出そうとしていただけの思考は願いも蘇らせた。 そして『彼』は冬木の聖杯のある場所に目を向ける。 『彼』は思い出した。聖杯はそこにある、聖杯はあの中にある、聖杯はあの中にしかない、他は全て偽物だ、と。 今の『彼』にとっては自分が手を伸ばす先にある聖杯の外枠が何であるか等どうでもよかった。それが人の形をして、『彼』を見ていて、誰かに付き添われていたとしても、どうでもよかった。 そこに聖杯がある。それだけが『彼』のたどり着ける答えであり、それ以上の思考は生まれない。 聖杯を核として連想するのならば間違いなくそれが誰であるかも思い出せるはずなのに、『彼』にとっては人の形をした膜か箱、外装、あるいは邪魔物としか思えなかった。 物であり、者ですらなかった。 「聖・・・杯、で――」 その代わりに『彼』の中にはより強く聖杯が蘇っていく。 あれが『彼』の願いを叶え、あれが『彼』の思いを形にし、あれが『彼』の存在する意義そのものになる。 今も『彼』の中には自分は無く、『彼』は自分の名前すらも思い出せていない。ただただ聖杯だけが『彼』の中で膨れ上がっていく。 すると『彼』の中で膨張する思いに触発されたように、『彼』が見ている光景もまた『彼』が望む形へと変わっていった。 聖杯を体内に隠し持つモノの隣に立つ誰かが肩に触れた。 肩に触れられた瞬間、そのモノはビクンッ! と腰から上を仰け反らせて硬直する。 『彼』はそれを見ていた。片時も視線を外さず、ずっと見続けていた。 「イリ、ヤ・・・」 聖杯を体内に収めたモノが何かを呟いた。その言葉は何故か距離を隔てた『彼』にしっかりと聞こえたのだが、『彼』はその言葉がどんな意味を持ち、どんな思いで語られたのかを全く考えない。 ただ起こった変化を見続けるのみだ。 見つめる先にいるモノの変化は止まらず、仰け反ったままの体勢で小刻みに震えだす。 もしこの場に魔力の流れを目で見れる者がいたら肩の当てられた手から腹部に向けて異質な魔力が送り込まれている事に気づいただろう。 自前の魔力とは全く異なる魔力が強制的に流し込まれている。清らかな湖に汚物を注ぎ込むように、異物が肉体を犯している。それが震えの原因だ。 けれど『彼』にとってそれは驚くどころか思考する価値すら存在しない出来事だった。口は大きく開かれ、大粒の涙を流し、痛みを伴いながら震えていたとしても、重要なのは流し込まれた魔力が腹部にあるモノに吸収され、どんどんとある形を成していく事実だけだ。 『彼』は聖杯が完全な形に近づいていけば、魔術的に肉体に封入した聖杯の運び手が人としての機能を失うことを知っていた。人格の喪失、肉体の消滅、つまり死ぬと知っていながら、それでも僅かな意識すらもそちらに向けなかった。 ただ聖杯が作られていくのを待ちわびていた。 時間が過ぎ行くごとに、聖杯の器は魔力を吸収し聖杯を作っていく。 「キ、リ・・・・・・・・・」 助けを求めるように呟かれた言葉が最後まで言い終えられるよりも前に、遂にその時は訪れる。 最初に起こったのは人の形をした物を焼く炎だった。それは聖杯の器を宿した腹部を中心にして湧き上がる。 まるで人体自然発火現象のように、火の気など欠片もなかったにも関わらず、指先に灯るほどの小さな火は膨れ上がり、一気に炎となって燃え広がった。 人の形をした物はその炎に焼かれ、瞬時に灰となる。 悲鳴をあげる時間も、苦痛を声にする時間も、最後の言葉を残す時間も無い。体の内側で完成した聖杯の膨大な魔力の余波で、あっという間に外装は取り去られてしまった。 『彼』は喜んだ。そして、より強くそこを凝視した。 そこには聖杯がある。腹があった位置に浮かぶ黄金の杯がある。 皿の部分は葉脈を思わせる意匠が施された半球。もっとも下には魔法陣のように円形の装飾があり、その下に付いた高台にも切り込み細工や彫刻が施されて握り易くなっている。 取っ手は無く、幾つかの装飾を除けばシンプルな構図で、一般的なワイングラスの形状をそのまま大きくした黄金の塊と言ってもよかった。 それこそが『彼』が待ち望み、欲し、願いを託すべき聖杯だ。 『彼』は喜んだ。もっともっと喜んだ。歓喜の渦は些細な出来事を全て吹き飛ばす、それほどまでに強烈な喜びが『彼』の中から生まれた。 その聖杯と全く同一の物が聖杯の現れた場所の近くに立つ男の手にある事実など簡単に忘れた。人の形をしたモノから現れた聖杯しか見ていなかった。 『彼』は聖杯に近づくために更に上に手を伸ばし、前に数歩進み出る。 するとその動きに同調するように、空に浮かんだ聖杯は『彼』の元へとふらふらと近づいてくる。 『彼』は思った。 聖杯は僕を選んだ。と。 こうも思った。 あの聖杯が僕の願いを叶える。と。 ゆっくりと下降してくる聖杯に合わせて。もう一つ。別の何かも一緒に降りてくるのに『彼』は気付く。 それは細長い三角形の形をしていた。黄金の地金に空の青を髣髴させる蒼色で装飾が施されていた。中央には妖精文字の刻印が彫られていた。 『彼』はそれを知っている。知っているからこそ、見た瞬間にそれもまた聖杯同様に求めていた物だと思い出す。 決して手に入れねばならない物ではなかったが合って損は無い物。 剣の鞘。 一種の概念武装。 魔法の域にある宝具。 名を―――全て遠き理想郷(アヴァロン)。 「あ・・・ああああああああああ――」 幾つかの事は思い出しても、『彼』が喋れる言葉は今も『聖杯』のみ。ただし、彼の中に渦巻く様々な思いは普通の人間が抱くよりも強くなった。 多くの事を思い出していないからこそ。気持ちは研ぎ澄まされ、膨れ上がり、それ以外のモノを排除する。 伸ばした右手から銃を落とし、代わりに下降してきた聖杯が握られる。そして伸ばした左手に全て遠き理想郷(アヴァロン)が握られた。 時間が流れていくと周囲の雑踏はどんどん増え、それに合わせて人の声という名の騒音が『彼』の耳にも届く。 けれど今の『彼』にとっては両手に握られた二つのモノ以外は全てがどうでもよかった。 聖杯がこの手にある。全て遠き理想郷(アヴァロン)がこの手にある。今の『彼』の思考を埋めるのはその二点のみ。 もう聖杯がどこから現れたかなど忘れた。聖杯を体内に封じていた人の形をしたモノも忘れた。自分が誰かなど思いだそうとすらしない。聖杯をひたすらに求め続けたが故に『彼』には判らない。 声を出していたモノが―――『彼』の愛する妻だったのだと―――最後まで気付かなかった。 『彼』はただ聖杯を思い、そして願いを託す。 人ルイを救済シ、あラユル戦乱トリュウ血を根絶しロ・・・。 言葉は無い。けれど想いは合った。それに応じて『彼』が右手に握る聖杯が光り輝く。 受諾した―――。そう言わんばかりの眩い光は太陽よりも強く、黄金の光が夜の暗さを消し飛ばして『彼』の右手を起点にして広がっていった。 遂に『始まりの御三家』が悲願した聖杯降臨の儀式が始まった。 本来ならば冬木に存在する四か所の霊脈のどこかでなければ執り行うことすらできない筈なのだが、『彼』はその異常さを考えられない。ただ願いが叶っていくのを喜ぶだけだ。 ゴボッ・・・、と何も入っていなかった筈の聖杯の器から音がして、光を塗りつぶすどこまでも黒い何かが器の中を満たしていく。その異常を見ても、『彼』は何もおかしいと思えなかった。 『彼』が立つ道路に広がっている泥と全く同じモノがどんどん聖杯の内側から現れているのに、『彼』は満足げな顔をしながら見つめるだけだ。 だから起こる変化のすべてを見逃した。 器の中で常に増え続けていく黒い液体はあっという間に器の総量を上回って外に溢れ出す。その溢れた部分が聖杯を握る『彼』の右手に触れるのは必然だが、『彼』はそれでも何の対処もしなかった。 「あ――?」 聖杯に願いを託し、聖杯はその願いを叶える。『彼』の中にある願望しか見ず、現実から目をそらし続けた『彼』はそう呟く。 何かがおかしい。聖杯の事しか考えられていなかった『彼』がそこで初めて違和感を覚えるのだが、何もかもが遅すぎた。 聖杯を満たす黒いモノが単なる液体だったならば、それは『彼』の手を伝うだろうが重力に引かれて下に落ちる筈。斜め上に伸ばした腕の肘の辺りで地面に向けて落下するのが普通だ。 けれどそれは地面に落下するどころか、生き物のように『彼』の腕に纏わりついてくる。決して地面に落ちることなく、『彼』の体を這って進む。 何かがおかしい。 もう一度違和感を呼び起こした『彼』は掲げた聖杯を下げながら、何が起こっているかを知ろうとする。しかし『彼』が行動を起こすよりも黒いモノが心臓がある位置に到達する方が早かった。 ブチリ、と音がする。 激痛に苦しんでもおかしくない状況でありながら、痛みを感じる意思すら感じない今の『彼』にはそれが何なのか判らない。聖杯から溢れた黒い液体が『彼』の皮膚を裂いた音だと判らない。 ナイフのように鋭く、けれど液体としての柔らかさも失わず、黒いモノは『彼』の胸を引き裂いた。それでも『彼』は痛いとも苦しいとも辛いとも思わず、ただ違和感を覚えるだけで思考を終える。 起こる変化はそれだけで終わらず、『彼』が左手に持つ全て遠き理想郷(アヴァロン)にも起こった。 黄金の輝きを放ち続ける聖杯の光と同種、あるいはそれ以上の強い光を一瞬だけ放ち、『彼』の左手の中にずぶずぶと吸い込まれていったのだ。 その間にも溢れ出た黒い液体は『彼』の肉体にどんどんと覆いかぶさっていく。最初は腕から伝う一筋の黒い糸だったが、時間が経つごとにそれは太く大きくなり、その分だけ『彼』の胸を大きく引き裂いていった。 対抗するように左手から染み込んでいく光はあっという間に胸の位置まで到達し、引き裂かれる部位を癒すように光を放ち始める。 ブチブチと皮が避け、肉が斬られ、遂には骨まで露出し、『彼』の体が開かれていく。 光がその近くで輝き、裂かれた肉を元の位置へと押し戻し、体を閉じてようとする。 破壊と再生。人知を超えた事態が自分の体に起こっていながらも、『彼』は違和感以上の危機を考えようともしない。 聖杯の中から溢れた黒い泥は、底抜けに深く、そして重い闇を湛える『孔』を『彼』の胸に穿とうとしている。全て遠き理想郷(アヴァロン)は伝説の通りに所有者の傷を癒そうとしている。 『彼』の肉体を使い、今、二つの奇跡がせめぎ合っていた。