第29話 『平和は襲撃によって聖杯戦争に変貌する』 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 間桐雁夜 少し考えれば判る事だったんだが、子供が一人で間桐邸に来れる訳がない。隣の家から歩いて来るのとは訳が違い、士郎を送り届けた場所と間桐邸との間には子供ではどうしようもない距離が存在する。 大人の行動範囲なら、ちょっと足を伸ばせば到達できる距離なんだが、子供にとっては同じ冬木市の中でも小旅行に匹敵するぐらい離れてる。 大きく見たとしても小学校低学年程度にしか見えない士郎が独力でこれる訳がない。 道路に突っ立っていた士郎の後ろに両親が揃って並んでいたのを見つけたのは、士郎を発見した俺が呆けてから三秒ほど経過した後だ。もし相手が敵だったら、確実に殺されていた隙を晒していた。 不覚―――。 驚きのあまり警戒を解いてしまう未熟さに気落ちしそうになりながらも、俺はとりあえず三人を間桐邸へと招き入れた。 なんでもこの三人は士郎を運んでくれた事を改めてお礼する為に間桐邸を探してわざわざ訪れたそうなのだが。邪推すれば、士郎を含めた一家三人が敵サーヴァントやマスターの手先になっている可能性がある。 だけど本当の事を言ってる可能性もある。俺にはその辺りの判断は出来ない。 そして俺は客を家に招く経験がほぼ皆無であり、こんな時にどうするのが正しいのかが判らなかった。迷った俺に『家に上げる』と決断させたのは、ゴゴの言った『危険はない』という台詞を思い出したからだ。 聖杯戦争の最中でなければ士郎一家が訪れた理由を額面通りに受け取ってもいいのだけれど、俺は敵の可能性を捨てきれない。だが俺よりも敵を感知する能力の高いゴゴが『危険はない』と言った。だったら士郎達を敵と思わなくてもいいじゃないか。 それに、外で応対するよりもむしろ間桐邸―――つまり自陣で応対する方が士郎達以外の横槍を心配しなくていい。 門の所で話していていきなり襲撃されたらかなり面倒だ。 士郎達が敵で、内側から間桐邸を破壊される危険性は確かにある。だけど結界を維持しているゴゴは洞窟、森、雪山、草原、砂漠など、複数の固有結界を自由自在に操る、一般人からも魔術師の観点からも常識外れで桁違いの存在だ。どんな事が起ころうと対処してしまうだろう。 だから俺は間桐邸へと招く行為が正しいか正しくないかは別にして、安全だと判断して三人を間桐邸へと通した。 無駄に広い間桐邸には客人を相手にする時に使う応接室があったりするんだが、普段は人が立ち入らないので『ただあるだけの部屋』と成り果てている。俺も桜ちゃんも利用した事はない。 寂れた物置になってもおかしくないんだが、一年前にゴゴが間桐邸に住むようになってから、家事の物真似と言って間桐邸の隅から隅まで掃除してしまった。そのお陰で応接室は人が入らないのは変わってないが、埃一つない清潔な部屋に変わっている。 俺達はそこで向かい合った。 言峰親子に間桐臓硯がケフカ・パラッツォだと偽ってる状況なので、ものまね士の恰好をしているゴゴは見つからないように隠れ、応対は俺と士郎を助けた時に一緒にいたティナ―――こいつも考えてみればゴゴなんだが、この二人で行うことになった。 向かいに座るのは訪れた士郎一家の三人で、合計五人が応接室の中にいる。 相手は大人二人と子供一人、こちらは大人二人。バランスは取れていると思う。 「改めて――、士郎を助けてくださって本当にありがとうございました」 手始めにそう切り出したのは士郎の父親だ。 深々と頭を下げられと困るんだが・・・。俺自身、士郎を助けたくて助けた訳じゃない。俺はあくまで桜ちゃんがそう望んだから結果として士郎を助けたのであって、正直、士郎個人に関してはどうでもいいとさえ思ってる。 まあ、礼を言われるのは悪い気はしないので軽い会釈を返しておいた。 そこから名前と簡単な自己紹介へと続き、明るい感じで話が始まる。 「間桐雁夜です――」 感謝を告げる深々とした頷きじゃなかったが、俺は自分の名前を告げながら軽く頷く。そして俺の頭が元の位置にまで戻ると同時に、隣に座るティナも言った。 「ティナ・ブランフォードと言います。初めまして」 今のティナの服装は飛空艇ブラックジャック号に戻るまでの気まずい空気を作り出してた薄手の格好じゃなく、『シルクのローブ』を羽織って女性特有の華奢な体を隠し、髪を『金の髪飾り』で纏めている。 当然ながら帯剣してる訳でもなく、戦う空気など欠片もない。屋内でする格好にしては厚着かもしれないが、戦う時に見た格好に比べればだいぶマシだ。 「ティナさん、と仰るんですか。失礼ですが、こちらの御宅は『間桐』とお伺いしていたのですが――」 「間桐は元々ロシアから移住してきた移民なので、その縁で少し――。今はこの家で少々お世話になってます」 「そうですか・・・」 どう見ても日本人には見えないティナに対して士郎の父親が疑問を抱くのは当然だ。 そもそも俺だってティナになってるゴゴに会ったのはほんの数日前で、いきなり作り上げられた嘘八百の話しは俺だって初めて聞く。 間桐が元はロシア系の魔術師でマキリと呼ばれているのは知ってたが、そこにティナの出生やら何ら屋の繋げるとは思ってなかった。 まあ、相手が納得してくれるなら俺が口出しする事ではないので黙っておく。 「それで・・・。士郎を助けて頂いたお礼にと――、ほんの気持ちばかりの物ですが、お受け取り下さい」 話が途切れた所で士郎の母親が白いレディースバッグから何かを取り出してこっちに差し出してくる。 これで相手が魔術師だったなら中身が魔術的な呪いの可能性を真っ先にあげるんだが、士郎の家はたまたまキャスターの騒動に巻き込まれた聖杯戦争とは無関係の家なので、単純に贈り物だと思う。 ただし、何かある時はすぐに動ける様に『何か起こるかもしれない』と心の隅で常に意識しておくのを忘れない。 受け取って見ると、包装紙の一角に『ハーブの潤いギフト』と書いてあり少し重みを感じたので、どうやら石けんか何かの詰め合わせらしい。 子供が助けられた親の立場として、お礼の品としてこれは正しいのか正しくないのか俺には判らなかった。 魔術師として戦う力を手に入れる為に修行に明け暮れたお陰で、一般生活における対人関係から縁遠くなってしまったのを今更悔やむ。 ゴゴと桜ちゃんと一緒に外に出かけたり旅行したりする機会は何度もあったが、俺達は『間桐関係者の三人』で完結していたので、それ以上外に手を伸ばしたり人の輪を広げたりしてこなかった。 俺が間桐に戻る一年以上前はこんな状況でも普通に応対できてた筈なんだが、一年間の生活の密度が濃すぎる普通の常識がどこかに消えてしまった。 平静を装いつつ、しかし内心『俺の応対は正しいのか!?』と常に考えながら話す。 「あの時も言いましたが、俺たちはそんな大した事はしたつもりはありません」 改めて考えると、俺はアインツベルンの森での戦いから意識してティナのそばにいる状況を作ってこなかったのだが、二人で並んで応対する姿はまるで対面にいる夫婦のようだ。 ティナと並んで座る今の状況を思い出してしまい、意識して考えないようにした気まずさが心の底から湧きあがって、俺の体を突き破り飛び出しそうだった。 落ち着け、落ち着け。そう自分に言い聞かせてティナを見ないようにした。 「それでも貴方達は士郎と私達の恩人に変わりありません。ありがとうございました」 士郎の父親はもう一度礼を言いながら頭を下げる。 腰の低い人だ。 「それで――。間桐、臓硯さんはいらっしゃいませんか? あの方にもお礼を言いたいのですが」 「爺ならちょっと用事が合って出かけてますよ。早ければ今日中に帰って来るでしょうが、遅ければ数日後になると思います。爺は年の割に行動的なんで、いつ帰るのかは判りません」 当然だ、何しろその『間桐臓硯』こと『ものまね士ゴゴ』は俺の隣にもいるし、格好だけ同じ奴なら間桐邸の他の場所にもいるし、冬木市の至る所にも存在する。 もう帰ってる奴がいつ帰るかなんて判るか。 その後も色々と話は進む。 とりあえず話された内容を額面通りに信用するなら、士郎一家はあの時士郎を届けてくれた『間桐臓硯』と『間桐雁夜』の名前と人相を頼りにこの間桐邸を突き止めたらしい。 まあ、ものまね士ゴゴの格好で練り歩く間桐臓硯は一年前からこの近辺で出没しまくってるし、怪し過ぎて警察のお世話になりそうになったのは一度や二度じゃないから、交番で尋ねればすぐに判っただろう。 よくもまあ、ものまね士の怪しげな恰好をしているゴゴを見つけ出して、わざわざお礼を言いに来ようなんて思う―――この士郎一家の行動力に驚かされる。 俺だったら子供。つまり俺に当てはめれば桜ちゃんなんだが。自分の子供が無事に帰って来たのを喜びつつも、助けてくれた人はものすごく怪しいからなかった事にする。 君子危うきに近寄らず―――だ。昔の人はいい事を言ったな。 それだけ相手を見た目で判断しないこの夫婦は善良なのだろう。 どんな相手だっとしても、子供を助けてくれたのならお礼を言うのは当然。あの時名乗った名前と大雑把に聞いた場所からこの間桐邸を突き止めるまで三日もかけなかったのだから、急いで俺達を探したに違いない。 繰り返すが、俺だったら絶対にやらない。 更に言うなら、士郎は魔術が本当にあると証明する為に河童になる魔法『カッパー』を喰らって泣いてた筈。けれど、今の士郎は間桐邸の前で挨拶してきた時と同じように子供らしくも毅然とした態度でそこにいる。 これこそ、今泣いた烏がもう笑う。だ。やはり昔の人はいい事を言った。 善良さと子供の切り替えの早さに感心しながら士郎を見ると、士郎の視線が俺でもティナでもなく、部屋の出入り口へと向いていた。つられて俺もそっちの方を見てみると、扉の隙間から応接室の中を覗いている目があった。 取っ手と同じぐらいの高さにあるそれは桜ちゃんの目で、応接室の中から外を見る士郎とばっちり視線を合わせている。 桜ちゃんが珍しいお客様に興味を惹かれたか、それともティナ以外の誰か―――と言っても間桐邸の中で桜ちゃんを唆せるのはミシディアうさぎを除けばゴゴしかいないんだが―――。ゴゴが桜ちゃんを唆して応接室を覗かせたか。 どちらにせよ桜ちゃんは応接室を覗いて、士郎はもうそれに気付いていた。 「桜ちゃん」 部屋の外にいる桜ちゃんに向かって呼びかけると、気付かれてないと思ってたのか、驚きのあまり体を大きく振るわせて扉に頭をぶつける。 ゴンッ! と聞いていると、いっそ清々しさすら覚えてしまう見事な音を立てた。その衝撃で扉が開き、部屋の外と内側が繋がってゆく。 「あ・・・・・・」 もしかしたら士郎のご両親は桜ちゃんの存在に気付いてなかったかもしれない。だが、俺が桜ちゃんの名前を呼んで、しかも扉が開いて姿を晒せば自然と視線はそちらに向かう。 部屋の中の全員の目が桜ちゃんに向けられた。 「あ・・・、の・・・」 桜ちゃんに取っては士郎の両親は見知らぬ大人だ、桜ちゃんの気質と言ってもいい人見知りが声を引込めてしまう。 覗いてしまい悪い事をしたと思っているかもしれない。怒られると思っているかもしれない。 「ねえ、桜ちゃん――」 桜ちゃんの名前を呼んだのはティナだった。 声をかけられた瞬間、桜ちゃんはビクッ! と体を震わせる。 「今、私達、お客様のお相手をしてる所なの。こっそり覗くなんて悪い事よ、だから気を付けなきゃ」 「・・・・・・はい」 「じゃあ覗いた罰として、ちゃんとこの人達に自分の名前を言ってね。言えるでしょ?」 いきなりやって来た『他人』にいきなり自己紹介させる。 凛ちゃんだったなら何ら臆することなくやってのけるだろうが、桜ちゃんにとってこれは確かに罰になる。 それでもティナが優しく語りかける様子からは叱っている様に見えない。 俺もまた桜ちゃんを見てるのでティナがどんな表情を浮かべてるか判らないが、多分微笑んで、桜ちゃんを見ているんだろう。 桜ちゃんは士郎一家の方に体を向けて両手を前で揃えた。そして怯えながらも背筋を伸ばし、ちゃんと頭を下げる。 この辺りは葵さん、というか遠坂家の躾けの厳しさを漂わせる。 「・・・こん、にちは。――とおさか、さくら。です」 「うん、よくできました」 弱々しさと拙い感じ、そして桜ちゃんの可愛らしさが混じった見事な挨拶だった。 ただし、嬉しそうに言うティナとは対照的に士郎の父親はその名乗りに疑問符を浮かべている。 「遠坂? 確か間桐と・・・」 「理由あって預かってる幼馴染のお子さんなんです。桜ちゃんは葵さんの――この子のお母さんですけど、遠坂葵さんのお子さんで間桐と直接の血縁関係はないんですよ」 「はぁ・・・それはそれは」 俺の説明に一応納得してくれたのか、それとも苗字も人種も何もかもが違う者達が間桐邸に集まってる状況を怪しんでいるけど表情に出してないのか。 俺を見る目がほんの少し探る様な目に変化した気がしたので、多分後者だろう。この組み合わせに更にものまね士の恰好をした間桐臓硯が加わるんだから怪しむなと言う方が無理かもしれない。 怪しまれっぱなしだと応接室の空気は重くなるだろうから、俺は別の話題を探す。 そして桜ちゃんに視線を向けて最初に見つけた士郎に狙いを定める。 大人の話しとは関係のない桜ちゃんを誰よりも先に見つけたのは、ここにいるよりも他の場所に居る事を望む―――大人たちの会話をつまらなくな感じてるからじゃなかろうか。 「士郎君、これからおじさんは君のお父さんお母さんと難しい話をするんだけど。すっごいつまんないぞ。それでもここにいるかい? なんだったら桜ちゃんと一緒に遊んでおいで」 俺の口から飛空挺ブラックジャック号の上で士郎を脅したゴゴの仲間とは思えない猫なで声が出た。 自分で喋っておいてなんだが、ちょっと気持ち悪い。 桜ちゃんと凛ちゃんになら優しく語りかけるなんて何度でも出来るけど、他の子供にも同じようにしても自分への気色悪さをまず感じる。 表情には出さないが気持ち悪すぎて吐きそうだ。 どうやら俺の思いやりや気遣いは基本的に桜ちゃんを中心に構成されているらしい。俺は内面をひた隠しながらも表情は笑顔にして、子供を案じる大人を演じきる。 「それじゃあ・・・」 やはり自分の両親といえど、大人に囲まれているのがつまらなかったのか。俺の申し出に全く断るそぶりを見せず、申し訳なさそうに呟きながらも士郎は立ち上がって部屋の外に向かった。 その動きに躊躇いは無い。 士郎に限らず子供が楽しいと思えない場所に留まり続けるのは難しいのだからしょうがないか。桜ちゃんでもつまらないと思った事に飽きて別の場所に行きたい事は多々あるのだから。 そのまま士郎は一直線に部屋の外に向かうかと思ったが、俺達と桜ちゃんのいる廊下との丁度中間ぐらいで立ち止まる。 そして俺とティナの方に振り返り、桜ちゃん程礼儀正しくなかったが、頭を下げて大きな声で言った。 「助けてくれて、ありがとう――ございました!!」 「ん・・・?」 もう父親の方から何度も言われてるので、今更、お礼を言われるのはおかしくないんだが、士郎の言葉の中に引っ掛かる単語があった。 どうして士郎は俺に向かって『助けてくれた』と言える? 『運んでくれて』や『家に送ってくれて』ならまだ判るが、その言葉はおかしくないか? 単に礼を言った父親の真似をしただけか? それとも、士郎はゴゴが口止めされたのに両親に事件の事を話したのか? 疑念を抱いていると士郎は早足で駆け抜けて応接室の外へと出て行ってしまう。桜ちゃんも大人の話を邪魔し続けるのはまずいと思ったようで、士郎が出ていくと同時に扉を閉めてしまった。 これで部屋の中には大人しかいなくなった。ティナの年齢は『大人』と呼ぶかどうか微妙な所だが、ゴゴの本性は人間の年齢で測れる範疇を超えてるので問題ない。 ただ、俺としてはこれ以上ここでやる話は無いと思ってる。子供を家に連れて来てくれた大人に親が礼をしに行く。その儀礼はもう終わったのだ。 むしろこれ以上どんな話がある? そう思っていると、父親の方がある話を切り出してきた。 「士郎を助けてくださった方を探るような真似はしたくありません、ですから隠し事をせずに正直にお聞きしたいのですがよろしいでしょうか?」 「――聞きましょう」 「実は間桐臓硯さんと貴方の御二人が士郎を送り届けてくださった後。士郎から何があったのかを聞いて、そこで興味深い話を聞いたんです」 「ほう」 軽く返す俺だったが、若干父親の表情が今まで以上に強張っているのに気が付いた。 嫌な予感がする。 「で、どんな事を聞いたですか?」 「はい。世の中には『魔法』と呼ばれる技術が合って、冬木市ではその『魔法』を使った戦いが今も行われている――という話です」 「・・・それはまた突飛な話ですね」 予め士郎が両親に事件を話した可能性も考慮したおかげで、全く動揺なくそう返事が出来た。 『大人がなに、子供の言ってる事、真に受けてるの?』と小馬鹿にするようにも言えたのは上出来だ。 魔術を知らなければむしろこの対応は自然だ。魔術を知らない自分を賢明に演じながら俺は考える。 結局、子供に口止めしても、安全だと思える場所に移動してしまえばそこであっさりと口を割る。士郎が被った被害はほんの少しだけ河童になって言葉で脅されただけ。物理的に痛みを伴った訳ではなく、喋らなくするには条件が不足してたらしい。 まったく、桜ちゃんと凛ちゃん以外の『子供全般』が嫌いになりそうだ。 喉元過ぎれば熱さを忘れる―――。昔の人はいい言葉を言った、正しく今の状況を忌々しいほど的確に表しているな、畜生。 「まさか貴方は『魔法』が科学全般のこの時代に本当にあるなんて信じてるんですか?」 「正直言えば子供の戯言だと思ってます。ですが、私は士郎が嘘を言う子供だとは思えません」 はっきり告げる父親の姿を見て、俺は少し息子である士郎を羨ましいと思った。 俺と鶴野の戸籍上の父親だった臓硯はこんな風に俺達を信頼してくれた事など一度もない。もし同じような状況であの蟲爺に言えば『何を言っておる、馬鹿が。くだらぬ事を言うでないわ』と一笑する姿が簡単に想像出来る。 もっとも、臓硯は俺達を信頼も信用もしてなかったから、こんな話を一度だってした事が無いので、想像はあくまで想像でしかない。 「それと――」 続けられた言葉を聞きながら、俺は頭の中に浮かんだ臓硯の姿を消す。 「雁夜さんはご存じないかもしれませんが、実は私達は『冬木市の悪魔』こと謎の連続殺人犯から児童を守る為の集会に参加してるんです」 「たぶん、小さな子供を抱える親は大なり小なりこれに関わってます」 母親の方が付け加える形で話に参加してきた。 俺は考えた。どうして、今、その話をする? と。 「この前、そこで気になる話を耳にしたんです――。士郎と同じように『気絶して保護された子供』が大勢見つかって、その子供達は気絶する直前にこのお屋敷の『間桐臓硯』さんとよく似た人を見たそうだ、って」 「・・・・・・・・・つまり?」 「はい。こんな事を言うのは失礼と重々承知しておりますが、私達は貴方達が何らかの形で殺人と誘拐に関わってるんじゃないかと思ってるんです」 何が言いたいのかはっきりさせる為の返答は俺達をキャスターのマスターであり、冬木市に死を撒き散らしている雨生龍之介だと確かめる詰問だった。 俺は甘かった。ついさっき、この二人を善良だなんて考えた自分を抹消したい。 さっき考えた通り、ゴゴの口止めの甲斐なく士郎は親に起こった事を全て話したらしい。俺達がただ道を通りかかって介護した者ではなく、命が危険になる戦いに身を投じる『戦闘者』だと認識しているようだ。 そして俺達が聖堂教会に後始末を頼んだ子供達は、士郎のように口止めではなく記憶処理を施されるだろうから無関係になったと思い込んでいたが、不十分に記憶を残したまま保護されたらしい。 あの言峰璃正神父の策謀か、記憶を消す魔術が不確かだったのか。多分、前者だ。 もしかしたらあの嘘吐き神父は『子供達を無事日常へと返す事を約束しよう』とは言ったが、『全ての記憶を消そう』とは確約していないから、俺達を陥れる為にわざわざ記憶を中途半端に残した状態で表の世界に戻したのかもしれない。 聖杯戦争に関する部分の記憶はしっかり消しておいて、殺されかかった事実とゴゴの姿だけは残しておけば魔術の隠匿に関しては問題ない。 表面上は中立を謳う監督役の仮面を被り、裏では遠坂陣営と結託してアーチャーとアサシンの共同戦線を作り上げる様な輩だ。ゴゴが宝具の物真似で実現してる『物真似集団』の実態を掴んだり、警察や一般市民の目をこっちに向けて俺達が動き辛くなるような手段はとってもおかしくない。 今の所、犯人探しの事情聴取で警察が訪ねてきたりしてないが、この様子だと今この瞬間にも警察が間桐邸を訪れる可能性は大いにある。 それにしてもこの夫婦は中々したたかだ。そして図々しくもある。 まさかお礼を言われたその次に出てくるのが殺人と誘拐事件の犯人呼ばわりとは。『関わってるかもしれない』と言葉を濁しても、間桐臓硯の名と姿を出した時点で犯人だと怪しんでるのは確実だ。 遠坂時臣に向ける殺意に匹敵する想いを抱いても誰も俺を責めないと思うぞ。この野郎共・・・。我が子が無事と判ったら命を救ってくれた相手でも敵か? 士郎を連れて行ったのは犯人だと思われない為の俺たちの狂言だと思ってるのか? ただ向こうも礼を逸してると承知しているようで、心苦しそうな顔をした。この顔が演技だとしたら大した役者だ。俺としてはむしろ演技である可能性の方を推称したい。 本当にそうだったら、犯人呼ばわりされた怒りのままにぶん殴れる。怒りに任せて殺すつもりは全くないが、暴言に対して一発殴るくらいは許される筈。 士郎は判っているんだろうか? 不用意に両親に話したことで、自分達が殺されてもおかしくない状況に陥ってると判ってるのか? 両親の方も士郎が今、俺達のテリトリー内にいて、生かすも殺すも自由自在だって判ってるんだろうか? 一度は助けてくれたから今度も助けてくれるなんて甘い期待をしていたら、随分と舐められたものだ。魔術師はそんなに甘い存在じゃない、もし魔術が表に知られるような事態に陥ったら、人殺しなど簡単にやってのける。 現にキャスターが雨生龍之介と結託して殺人と誘拐を行い続けても、止める理由は『聖杯戦争に支障が出るから』でしかない。魔術が表の世界に知られる危険はもちろん考慮されてるが、もし聖杯戦争に支障が出ないでキャスターの隠匿が完璧に行われていたら、監督役も他のマスターも冬木市の住人がどれだけ死のうと放置する。 俺だって桜ちゃんがそう望んだからキャスターと対立してるだけで、何人殺されようが対岸の火事だと思ってる。 「爺が子供達に・・・ですか」 俺が呟いた言葉には間違いなく殺意が込められていた。怒りのあまりそのまま殴りかからなかった自分を褒めてやりたい。 この一年の成果としてこれまでにない自制が強く俺を縛り付けるが、怒りそのものは消しようが無かった。 ゴゴを怪しんでいて、行動を共にしていた俺を怪しんでない訳がない。確実にこの二人は俺も怪しんでる。 この無礼者め!! とりあえず心の中だけでストレス発散していると、母親の方が更に衝撃の事実を言ってきた。 「実はご近所の奥様方に私達が戻らなかったら警察にご連絡する様にお願いしました」 「ほぅ――ここで俺達が何かしたら警察がここに駆けこんでくる、と・・・」 もし壁際に立てかけておいた魔剣ラグナロクが入ったアジャスタケースが手元に有ったら、俺は一気に抜いて二人とも斬っていたんじゃなかろうか。 これが聖杯戦争の関係者―――敵マスターやサーヴァントに関連する相手だったら問答無用で斬り殺してる所だ。マスターならいざ知らず、キャスターとアサシンを除く他のサーヴァントを斬れるかは非常に疑問だが。 脅し文句を入れてくる辺り、両親ともに肝が座っている。そこだけは称賛できるんだが、初めから俺達を犯人と決め付けている辺りがムカついて仕方がない。 自分達の安全の為の配慮なんだろうが、こういう事をお礼と一緒にする事じゃない。そもそも、危険は警察に任せて一般市民は自分の家に引っ込んでろ。 それともこいつら、俺が判らないだけで間桐を探る為に言峰璃正が協力者に選んだ聖堂教会の手先じゃなかろうか? 突飛な想像だが、あまりの展開にそれもあり得ると俺の中で雄叫びが挙がる。むしろそうであってくれ。 今、俺は、こいつ等を斬りたくて仕方がない。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - ゴゴ 闘争に観点を置けば、士郎と両親の二人はただの一般人だ。魔石を使えば桜ちゃんでさえ簡単に倒せる。 ティナが三人に気付かれない内にこっそり探査魔法の『ライブラ』をかけてみたが、魔術師の家系でもなければ外的要因として魔術的な操作を受けた様子もない。つまり単なる一般人。素養についてはまた別の問題だが、今の段階では無手の雁夜一人でも十分対処できる。 倒そうと思えばいつでも倒せるのだが、この二人は幾つかの保険を用意して間桐邸に乗り込んできた。 聖杯戦争に関わる事ならどんな些細な情報も洩らさないように注意深く観察していたが、さすがに冬木市にいる一般人全てを知るには監視の目が少なすぎる。 ただし、やろうと思えばゴゴは冬木市だけではなく地球の至る所を監視できる数のミシディアうさぎを作り出せる。事実、かつての世界では一つの星を覆い尽くすほどの魔力を蔓延させていたのだ。無尽蔵とも言える魔力があれば一般人の監視もやろうと思えばやれる、『出来ない』ではない。 透明になったミシディアうさぎの数を101匹程度に抑えているのは、これ以上増やすと敵に発見される危険があるだけでそれ以上の意味は無い。 それでも『やらない』は『知らない』と同じなので。現段階、一般人の監視までは行っていないから、士郎が家に辿り着いた後にどんな話をしたのかをゴゴは知らない。 どんな会話の果てにどんな答えに辿り着き、どんな決意を抱いて間桐邸を訪れたのか。何もかもが判らない。 自分達を犠牲にしてでも悪を裁こうとする気概は尊敬に値する。自己犠牲は状況によってはとても立派とは言えないが、それを容易くやってのける辺り『余人とは違う』とゴゴの関心を引くには十分すぎる理由がある。 だが悲しいかな、正義感を押しとおす為には絶対的に力が不足している。確かに表の世界の悪人や、事を大きくしたくない者達にとって士郎達が打った手は中々悪くない。 しかし、ものまね士ゴゴが選べる選択肢は表に生きる一般人の常識どころか裏に跋扈する魔術師もまた大きく上回る。一般人が仕掛けた保険など簡単に覆せてしまう。 たとえば、この場で士郎を含めた三人を殺し、ゴゴが『己が栄光の為でなく(フォー・サムワンズ・グロウリー)』で三人になり代わる。 別の手で、透明化の魔法『バニシュ』をかけたゴゴが常にそばに控え、混乱の魔法『コンフュ』をかけ続けて正常な話が出来ないようにする。 他にも考えようと思えばいくらでも方法は出てくるが、ゴゴはそれらをする気は無い。 今の士郎達は間桐邸に乗り込んできた敵に等しく、こちらを怪しんでいる上に聖杯戦争だけではなく魔術の世界に足を踏み込んでいる。間桐だけではなくゴゴの情報が他に知られない為に手っ取り早い方法は『死人に口なし』。だがゴゴはそれをしない。 何故か? 桜ちゃんがキャスターに誘拐された子供達を助けるのを望み、その願いは今も続いているからだ。 いきなり見知らぬ大人が間桐邸に現れて、最初は接触しないように距離を取っていた。それでもほぼ同年代の子供がいるのが気になるのか、セリスやロックになっている別のゴゴが促せばすぐに応接室へと移動してしまった。 ゴゴが間桐邸に現れてからの一年。桜ちゃんは同年代の子供と接する機会が殆どなかったので、興味が湧いたのだろう。士郎と桜ちゃんの年齢は同じか、士郎の方が一つか二つは上に見える。 ただ、一般人の目が間桐に向くのは聖杯戦争でも魔術の秘匿でも状況が悪化しているように思えるが、この状況は決して間桐にとって悪い面ばかりでもない。 それは『こういう事もある』と桜ちゃんに教えられる機会を得られたからだ。 桜ちゃんが望むからゴゴは『排除』を選ばない。その代わり桜ちゃんを『教育』する為に、士郎は恰好の教材となる。 表の世界に押しとおる『日常』とは一線を介した魔術に関わると、知らぬ者から見れば理解すら得られない状況は往々にして起こってしまう。 疑心という名の人を蝕む毒だ。 例え命を救われた相手だとしても、それが『魔術』という常識外れの力であれば、感謝よりも先に猜疑を抱いてしまう。 桜ちゃんは桜ちゃんなりの正義に則って雁夜に子供達を助けてくれるようにお願いしたが、その正義が認められるかどうかはまた別の問題。 何も言わないと約束した士郎が易々と嘘をつく姿を桜ちゃんは目の当たりにした。誰にも言わないと誓ったのに、士郎は簡単にそれを裏切った。 命を救われた相手だろうと人は時に嘘をつく。どれだけ善良に見えようと、胸の内に巣食う本性は簡単には見通せない。 本当なら誰よりも桜ちゃんの事を想ってくれていた筈の両親でさえ、遠坂の家から桜ちゃんを捨てたように―――。 そんな訳で桜ちゃんをダシにしてまんまと応接室から士郎を引きずり出したゴゴは、雁夜と同席しているティナから一旦意識を外して、マッシュの方を意識する。 「お前か、ゴゴと雁夜に助けられた奴ってのは」 応接室の外に出た士郎に話しかけたのはマッシュで、大人が子供を見下ろす視点が見えた。 士郎はいきなり現れた大人にほんの少しだけ委縮したが、マッシュと一緒に移動してきて桜ちゃんの元へと移動したミシディアうさぎ達に興味を惹かれたらしく。すぐに『へー、わー』など感嘆のため息をもらしながら触り始める。 まあ、ごつい男よりもウサギの方が子供の関心を惹くのは当然か。 いきなり現れたマッシュから逃げたかっただけかもしれないが、とりあえず桜ちゃんより人見知りはしないようだ。 ミシディアうさぎの中で、ゼロだけは士郎に触られる前に桜ちゃんの胸元へと跳躍し、二本の腕が作り出す小さな輪の中に収まる。 「おい坊主、大人の話は暇だっただろう。折角だからこの中を案内してやる、どこに行きたい?」 「――色々探検したい。・・・です」 マッシュがもう一度言うと、士郎は帽子に『2』と描かれたジーノを撫でながら返事をする。 少しだけ考える素振りを見せたが、間桐邸に入る前から屋敷の広さが気になっていたのか、迷う時間は短かった。後に続く『です』までに間が合ったのは敬語を言い馴れてないからだろう。 「そうなると地下が一番『探検』には向いてるな。兄貴とセリスもいるから丁度いい。よし、行くぞ!」 マッシュはそう言うと、士郎からの返答を待たずにさっさと歩きだしてしまう。合わせて桜ちゃんも歩調を合わせ、ミシディアうさぎ達もそれについていくので、士郎は後ろから後を追う形になった。 好奇心旺盛なのか最初から内部を見てみたいと思っていたのか、移動中に士郎は絶えず視線をあっちこっちに移動させる。 もし士郎が桜ちゃんの学校の友達、あるいは何らかの理由で魔術とは無関係に間桐邸を訪れた子供だったならば歓迎しただろう。だが、士郎は口止めされて置きながらあっさりと魔術を両親にばらし、親を巻き込んで間桐邸へと入り込んだ敵に等しい。 色々見るのに忙しくて話は殆どなく、士郎はマッシュ達の後を追うのがやっとの有様。そのまま何事もなく間桐邸の地下、つまりは蟲蔵へと到達してミシディアうさぎと士郎を含めた全員が何事もなく入る。 そして地下へと下る階段を下り始めるのと、一階部分と地下とを隔てる扉がゆっくりと閉じるのはほぼ同時だった。 「え・・・?」 いきなり自動ドアのごとく後ろの扉が閉まったので、士郎が初めて立ち止まって後ろを振り向く。だがそこにあるのは地上部分に立つ間桐邸と地下に存在する蟲蔵を切り離す重い扉があるだけだ。 士郎がそう望み、マッシュが叶えたので、士郎は自分の意思で蟲蔵に来たと思っているかもしれないが本当は違う。どこか別の場所に行こうと言いだしても、最終的にここに連れてくる事は士郎の両親が『魔術』を話題に出した時から決まっていた。 何故なら、ここならばどれだけ叫ぼうと地上にまで声は届かないから―――。 「あの・・・」 「ここが間桐邸の地下室、通称『蟲蔵』だ」 何か言おうとする士郎の声を遮ってマッシュが語る。その声音に今まで無かった『苛立ち』が紛れているのは子供ながらも気付いたらしい。 言おうとする言葉を呑み込んで何も言わない。 士郎はもしかしたらマッシュが何に対して苛立っているのか、いや、怒っているのか気付いたかもしれないが、気付いても手遅れだ。 マッシュの言葉を聞いて動きを止めてしまった士郎の首に向けマッシュの手が伸びる。前から喉元を握るのではなく、後ろから首の骨を掴むようにしっかりと抑え込む。 そして力任せに子供の体を持ち上げて、そのまま蟲蔵の中央に跳躍した。 マッシュが腕と手首を曲げて持ち上げた士郎の顔を自分へと向ければ、あっという間に片腕で首を拘束して吊り上げる状況が出来上がった。 「てめえ、ゴゴの言った事を全然理解してなかったみたいだな。魔法の事をべらべらと親に喋りやがった」 マッシュの目から士郎を見ると、首根っこを掴んだ体勢でぶらんと垂れ下っている。ただし、士郎を掴んでない方の手には、いつどこから現れたのか判らない爪を模した武器『タイガーファング』が装着されていた。 片手で士郎を持ち上げ、もう片方の手には『タイガーファング』。単純な腕力で吊り上げられた士郎の頬に人を殺す武器がペタペタと当たる。 「魔術を知る奴は余程の理由が無い限りそれを秘匿する。判るか、坊主? てめえの口の軽さが両親を殺すんだよ。折角、助かった命なのに自分から死地に飛び込むとはな、何考えてんだ全く」 マッシュらしからぬ粗野な口調で話しかけ、判り易く士郎を脅す。 それもその筈、これは士郎が陥っている状況を―――桜ちゃんの意思が作り出した結果を判り易く表す為の演技なのだ。 もちろん、マッシュが言ってる事に嘘はなく、状況が許せば士郎一家はここで死ぬのだが。 「どうやら河童になる程度じゃ思い知らないらしいな、腕の一本でもなくなれば秘密にしなくちゃいけない意味の重さが判るか?」 「待て、マッシュ」 恐怖にひきつる士郎を吊り上げたまま、マッシュは声がした方向に振り返る。 そこには壁に背を預け、マッシュを見ているエドガーの姿があった。最初から蟲蔵にいたのか、それともマッシュが移動すると同時にここに現れたのか、士郎には判るまい。 「兄貴――、まさか止めるなんて言わないよな」 「お前の『タイガーファング』じゃ鋭すぎて痛みが軽くなってしまう。『回転のこぎり』ならじわじわ削るから、痛みも多いだろう」 そう言うとエドガーは右手を横に伸ばして手のひらを上に向けた。 雁夜と桜ちゃんにとってはゴゴが魔石を生みだす時に見せるポーズなので、最早、見飽きている構図かもしれないが、士郎はそんな事は知らない。 そのポーズを取れば手から何かが出てくる。その事前予測がまるでない。 当然ながら、エドガーの手のひらにいきなりチェーンソーが出現するなんてのは予測できる訳もなく。ブルルルルル、と重低音を鳴り響かせながら回転する凶器が出てくるなんて想像すらしていなかった。 「ひっ――!」 「たとえフィガロ国民であろうと、男であろうと女性であろうと、罪を犯したのならば償わなければならない。士郎君、君はご両親に事情を話した時点でどうしようもなく重い罪を犯しているのだよ」 エドガーは『回転のこぎり』がよく見えるように横に伸ばす。そのままゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、マッシュに吊り上げられた士郎へと近づいてゆく。 きっと士郎の目にはエドガーの姿が死神に見えているだろう。 「あの子も可哀そうに――。でもね桜ちゃん、あの子にああしなくちゃいけないのは私達が原因なのよ、もちろん桜ちゃんもね」 「え・・・?」 桜ちゃんはいきなり作り出される懲罰に呆然としていたが、エドガーと同じくいきなり現れたセリスに後ろから抱きしめられると、壁際にまで下がらされて邪魔できないようにされた。 桜ちゃんの腕の中には使い魔のゼロがいるので、ミシディアうさぎ一匹と女の子と女性の抱きかかえ三段が作られる。 「桜ちゃんは雁夜にお願いして子供達を助けたいと思った。それはものすごくいい事だと思うわ。だけどね、助けてもらってそこで終わりじゃないの。物語は『めでたし、めでたし』で終わるかもしれないけど、現実にはああやって言っちゃいけない事を言う人が次の物語を作り出してしまう場合もあるのよ。だからただ助けるだけじゃ駄目、どう助けるかも重要なの」 難しい話かもしれないが桜ちゃんはゼロを抱きしめたまま黙って聞いている。 もしかしたら目の前で行われている凶行に―――見える演技から目を離せずにいるだけかもしれないが。 「最初から助けちゃいけなかったかもしれない。もっと強く口止めしておけばよかったかもしれない。ブラックジャック号に連れて行ったのが間違いだったのかもしれない。魔術の事を教えちゃいけなかったのかもしれない。出来たかもしれない道は沢山あったわ。もちろん、桜ちゃんが全部悪いなんて言わないわ。私達だってやり方を間違えたから、あの人達は間桐邸までやって来た。『こうすればよかった』って、私達も後悔してる」 セリスは腕の中で抱かれている桜ちゃんに向けて更に言葉を続ける。 「私達はあの人達の事をよく知らず、善意で黙っていてくれると思ったけどそうじゃなかった。魔術に限らず、行動には責任を負う義務があるの。桜ちゃんはまだ子供だから難しいかもしれないけど、私達は魔術を内緒にする為に負った責任を果たさなきゃいけない。魔術が広まらないようにしなくちゃいけないのよ――」 士郎は家に帰る直前にゴゴから『言うな』と脅され、頷いて了承の意を示した。桜ちゃんだけではなくそれでゴゴは黙っていると士郎を信じた。 そして呆気なく裏切られた。 桜ちゃんは知っただろう。今、目の前で大人達に拷問されそうになっている士郎は魔術の事を黙っていると言いながら、喋ってしまった罰を受けていると。 桜ちゃんは悟っただろう。助けて恩義を感じた相手だったとしても、簡単に口を割ってしまうのだと。 桜ちゃんは学んだだろう。そもそもこんな状況に陥らないようにする為には、魔術そのものを知られないようにするべきだった、と。 経験が人を成長させる。 士郎に魔術の事を喋ったのはゴゴだが、桜ちゃんが『助けて』と言わなければこんな状況は生まれなかった。だから桜ちゃんもまた責任を負う立場にいる。 「『黙っていて』、そうお願いしても喋ってしまう人は大勢いるわ。言った事を正しく全部やってくれる人もいるし、そうじゃない人もいる。これは魔術だけじゃないのよ」 「・・・・・・・・・」 「約束を違えたらどうする?」 「・・・・・・悪いことをしたら。罰が、当たる?」 「そう。これはその『罰』なの。しかも、とびっきり重い、ね。あの子は言っちゃいけない事と、言っても冗談で済ませられるラインを越えた。だから罰を受けなきゃいけないの」 セリスがそう言った瞬間、マッシュに吊り上げられた士郎に向けて、エドガーの『回転のこぎり』が襲いかかった。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - ウェイバー・ベルベット 「ねえ、この子がどこの子か知らない? 子供の足で遠出できるとは思えないからこの辺りに住んでると思うんだけど」 朝の『ウェイバー、ロリコン疑惑騒動』はとりあえず落ち着いて、僕はマッケンジー夫妻に向けてそう切り出した。僕は冬木市の地理に関しては戦略的観点から色々と調べたけど、さすがに住んでいる人の事までは知らない。 東側の新都、西側の深山町に中央を流れる未遠川。その他にも遠坂邸や間桐邸、不可侵の中立地帯―――かどうかはかなり怪しくなった冬木教会など、聖杯戦争に関わりがある場所は調べたけど、さすがに一般人にまで調査の手を伸ばすのは難しい。 だからこそマッケンジー夫妻なら何か知ってるかもしれないと聞いてみた。 「わし等の生活じゃあまり小さな子供には接しないからなぁ。すまんが見た事はないなぁ」 「ええ。この辺りじゃ見かけない子よねえ・・・」 返って来た二人からの回答は否。どちらもこの子の事は全く知らず、近所に住んでいる子供ではない。 そうなると僕やマッケンジー夫妻よりも冬木市に住む人の事をよく知ってる者達、つまりは警察に聞くのが一番早いんだけど、その選択肢を除外してどうにかしようとしてる僕は別の手を選びたい。 そこで僕は相変わらず片時も僕から離れようとしない女の子から直接話を聞こうと考えた。 聖杯戦争とは別の意味で朝から忙しくなる。そう思っていたら、時間経過と一緒に不可解な点ばかりが浮き彫りになっていった。 って、そうじゃない。判らない事がどんどんと増えていったんだ。 マッケンジー宅にあった子供服―――きっと僕じゃない本当の孫がこの家に住んでいた時の名残だろう―――、を着ようとしても女の子は身につけ方が判らなくて、マッケンジー夫人に着せてもらったり。 実体化したライダーの偽名『アレクセイさん』と、この子の為に用意された食事じゃ箸はもちろんスプーンやフォークの使い方が判らなかったり。 そもそも食卓に座った自分の前に出された食事に対し、『どうぞ召し上がれ』と言われたにも拘らず食べていいのか戸惑っていたり。委縮とは別、あえて言葉にするなら『未知』を前にしてるみたいだった。 誰でも知ってる当たり前のことに対して、そもそもどうすればいいのかを知らない節があちこちで見える。 女の子の見た目の年は十歳かもう少し下。この国では義務教育として初等部に通っている年齢で、普通に生活していれば間違いなく知ってる事をこの子は知らない。 まるで、隔離されたどこかでずっと生活して、今時の魔術師なら誰でも普通に行える『日常生活』を何一つ知らないみたいだ。 一つ一つを説明して、こうやるんだよ、と僕やマッケンジー夫人が教えたらすぐに覚えてくれたから学習能力が低い訳じゃない。言葉は喋れないけど、こっちの言うことを完全に理解している。 キャスターに誘拐されて、壊されて、心を閉ざして、それで声を出せなくなったのかと思ったけど、もしかしたら最初からこの子には一般人とは違う事情があるのかもしれない。児童虐待とか何かの理由での拉致監禁されてたとか。 この子がそれを自分から説明してくれたらいいのだけれど、言葉が喋れないからそれも難しい。絵や字で何か伝えてくれないかと、たくさんの真っ白い紙と色鉛筆―――。これもマッケンジー宅にあった子供用の道具だけど、それを渡しても『書く』あるいは『描く』を発想できず、何のための道具か判らずに十数秒首を傾げていた。 僕にはあまり経験がない。というか、あまりに昔の事なので忘れているけど、子供なら落書きの一つや二つぐらい誰だってする。この子にはそんな経験が無いんだろうか? ようやく色鉛筆で紙に絵が描けるのを理解してくれたけど、『描く』のを知らなかった子供がいきなり絵で自分の事を説明するなんてのは高度過ぎる。 案の定、女の子は色鉛筆を紙に当てて滑らせるとその色が紙に映る現象そのものに目を惹かれ、何かを表現するような事態まで到達できなかった。紙の上に描く場所が無くなる頃、そこにあったのは絵でも字でもなく、ただ色鉛筆が上から下へ、右から左へと行ったり来たりするだけの抽象画みたいな何かだった。 これで何らかの意味がある絵だったら僕が困る。子供の落書きにしか見えないそれから意図を読み取れる技術は僕にはない。とりあえず字を書いたり絵を描いたりするのも初めてだって判っただけ収穫と思おう。 「なんだ小娘、その訳のわからん代物は。描くのなら余の様に立派な物を描くがよい!」 一つの机を挟んで向こう側に座っていたライダーが何をしていたのか僕は全く判ってなかった。まさか僕の意識がこの子に集中している間に同じように絵を描いてるなんて。 ライダーの真名、征服王イスカンダルに絵心があるなんて話は聞いたことが無い。そう思いながら顔をあげてライダーが掲げる紙を見ると―――、そこには腕を組んで悠然と立つライダーがいた。 「ライ・・・。アレクセイ、これ・・・」 「余の姿よ。うむ、中々の出来栄えだ」 黒の鉛筆一本で描かれたからさすがに細かい部分は省略されているけど、全体の輪郭や背後になびくマントは間違いなくライダーのモノだ。ライダーを知ってる奴なら間違いなくライダーだと判る。 もしかしたら絵心の有無は歴史に刻まれなかっただけで、ライダーはかなりの腕前の持ち主なのかもしれない。 ライダーの自画像に感心していると、ライダーは持っていた黒鉛筆を僕に差し出した。 「ほれ坊主、次はお前の番だ」 「はっ!?」 「次は坊主自身を描けと言っておるのだ。そこの小娘が描き、余も描いた。坊主だけ加わらぬのは不公平であろう」 歯を見せて笑うライダーが冗談を言ってるようには見えない。 恐る恐る鉛筆を受け取って、僕は一度だって描いた事のない自画像を描こうとする。だけど、横から袖を引っ張る小さな手が僕の作業を止めさせた。 「ん――、なに?」 出来るだけ優しく話しかけると、僕の袖を引っ張った女の子は紺の色鉛筆を掲げて僕に見せた。 さっきのライダーの真似かな? そして新しい紙の上に鉛筆を置いてぐりぐりと円を描く。 「ほほう。どうやらその小娘は自分が坊主を描きたいと言いたいようだ」 「――そうなの?」 ライダーの言い分を聞きながら、僕はこの子に聞いてみた。正直、女の子が何を言いたいのかさっぱり判らない僕にはライダーの言ってることが本当かどうか確かめる材料すらない。 頼りない自分を意識してしまうと、女の子は大きく頷いた。 「ならば坊主、お前が小娘を描けば万事解決だ。余はこの絵を完成させるぞ」 「なぁマーサ。わし等はお互いを描くとするかね」 「そうですねえ――。お絵描きなんていつ以来かしら、何だか楽しくなってきたわ」 いつの間にかはマッケンジー宅にいる全員が集まっていた一つの机を囲んでいた。机の大きさは五人が囲むには少し小さかったけど、つめれば出来ない広さでもない。 女の子の意思を確かめるべくやり始めた事だけど、結局やってる事は遊戯以上の域を出ない。 女の子は紺の色鉛筆を紙の上で踊らせて、ぐりぐりと丸い塊を作り出す。あれはもしかして僕の顔のつもりなんだろうか。ライダーは赤の色鉛筆で髪の毛と顎ひげとマントを塗っていて、ライダーの雄々しさをより強く表現していた。 マッケンジー夫妻は向き合った状態で相手の顔を描いているが、その進みは遅く、むしろ同じ場所で同じことをして同じ雰囲気を楽しんでいるようだった。 仕方なく僕も隣に座る女の子の絵を描く為に色鉛筆を手に取る。紺色は使われていたから、とりあえず紫の色鉛筆で髪の毛を描いていく。 白い紙の三分の一ぐらいが紫色の線で埋まった時、不意に僕は女の子を何と呼べばいいのか考えた。 言葉でも文字でも意思疎通を行えなかったので、僕はこの子の名前を知らない。何と呼べばいいのか判らないのは困る。 今のマッケンジー宅の中ならほかに子供がいないから『この子』で通用するけど、名前は魔術に限らず普通の生活でも重要な事柄だ。たとえそれが仮に名付けられたものであっても、そこに意味が生じる。 名前とは存在の証明。そして自分と他人を区別する。 魔術においても、相手の名を知らなければ結べない契約は数多い。 だけど、この子が記憶喪失だったとしたら、本当の名前がある。そうなれば仮の名と言えども、別の名前で呼ぶのは気が引けた。 「どうした坊主、手が止まっているではないか」 髪の毛と顎ひげの部分を真っ赤に染めて、赤いマントを描いてるライダーが言ってきた。 「いや。この子をなんて呼べばいいのかな、って思ってさ・・・」 「ふむ・・・そいつは中々難しい問いかけだな」 マントを赤く塗るのを途中で止めてライダーた言う。そして紙に書かれた赤い顎ひげと同じ部分に手を当て『うーむ』と唸った。 ライダーが何か妙案を出してくるのかな? すると、僕がそう考えるのとほぼ同時でライダーが『おおっ!』と声をあげた。 二秒も経ってない。妙案を思いつくにしても早すぎない? ライダーは今まで描いていた自画像を裏返しにすると、何も書いていない無地の部分に大きく何かを描き始める。 持っていた赤の色鉛筆が上から下まで余すことなく動いてある文字を完成させた。 「見よ、小娘! これが余の名だ!!」 前に突き出した紙には大きな文字で『イスカンダル』と片仮名で書かれていた。 「お、おい・・・」 「アレクセイさん、その名前は?」 「うむ、余がこの衣装をまとっていた時に雄々しく名乗る名だ。どうだ、見事であろう」 そう言いながらライダーは紙を回転させて、書きかけだけど『征服王イスカンダル』の威風堂々とした様子を見せつけた。 マスターあるいはサーヴァントなら、一度見れば忘れられないその姿。ただ、マッケンジーさんにとっては何の事か判らないので、『アレクセイ』と『イスカンダル』は繋がらない。 これが切っ掛けでライダーの正体を怪しむんじゃないだろうか? 『アレクセイ』が偽名だとばれるんじゃないだろうか? 僕が不安に心を蝕まれていると、マッケンジーさんは口の形を『あ』にした。 「ああ。演劇か何かの役柄ですか――」 「そう思ってよい」 どうやら聖杯戦争とは無関係に自分なりの答えを出したようだ。ライダーがもう一度紙を回転させて『イスカンダル』の文字を見せつけた時にはもう、マッケンジーさんの顔から疑心は消えていた。 とりあえず一安心。 改めてライダーが書いた『イスカンダル』を見ると、どうやったら細い鉛筆でそんなに太い文字が書けるのかと疑ってしまう堂々とした文字があって、裏面にある絵の壮大さと合わせるとライダーが倉庫街の戦いに乱入した時の宣言を思い出してしまう。 「我が名は征服王イスカンダル。此度の聖杯戦争においてはライダーのクラスを得て現界した」 秘する名は無く、何者であろうと我が覇道を貫き通す。 今は偽りの名『アレクセイ』で通しているが、あの威風堂々たる王の姿を思い出すには『イスカンダル』と書かれて紙一枚でも十分すぎる。 今となっては懐かしさすら覚えてしまうあの顛末を思い出していると、マッケンジー夫妻はライダーが何をやりたいか察したようで、同じように紙を裏返して何か書き始めた。 僕はライダーが何をしたいのか、そして二人が何をしようとしているのかも判らない。すると二人はそれぞれ『グレン』、そして『マーサ』と書かれた絵を掲げ、ライダーと同じように自分の前に持って行った。 まるで、これが私の名前だ。と言わんばかりに―――。 そこでようやく僕はライダーの意図に気付く。要するに自分の名前を文字で表して、紹介しているだけだ。 大きな文字で書けば子供でも読みやすい。女の子が片仮名を理解しているかは判らなくても、言っている事は通じているのだから、書かれた文字が各々の名前だと理解できるはずだ。 唯一残された僕は遅れないように急いで紫色の線しか書けてなかった紙を裏返す。そして『ウェイバー』と書いた。 思わず、『イスカンダル』につられて『ベルベット』と続けて書きそうになったので、慌てて紙を前に突き出して誤魔化した。本来、この場では『ウェイバー』の後には『マッケンジー』と続けるのが正しい、名前を間違えるなんて簡単なミスでマッケンジー夫妻に掛けた暗示が解けたらあまりにもひどい。 失敗しそうになった状況を誤魔化そうと力強く紙を前に出して掲げると、女の子が机の上に乗り出して僕が突き出す紙を覗きこむ。 「ウェイバー、これが僕の名前だ。君の名前は?」 問いかけると、女の子は皆が突き出した紙に書かれた文字を一つずつゆっくり追った。 『イスカンダル』『グレン』『マーサ』。一つ一つを見回して僕が書いた『ウェイバー』に戻ってくると、そこでようやく納得したようで、新しい紙に何やら文字を書き始める。 大人がやっている事に自分も仲間入りできるのが嬉しいのか、いつも表情を重くしていた女の子が少しだけ笑みを作り出しながら、紙に何かを書いていく。 そして僕らと同じように紙を前に出して、よく判らないモノを見せつけた。 そこに書かれた文字は下手を通り越して最早暗号にしか見えない。 辛うじて文字の体裁を整えていて、僕でも解読できた文字はたった二つ。『ン』と『サ』だ。これ以外にも文字見たいな絵みたいな落書きみたいなよく判らないモノが書かれていたけど、解読できなかった。 この二文字の順番を逆にすれば一つの言葉になる。 「サ、ン?」 僕がそう言うと、女の子は少しだけ笑顔を浮かべて頷いた。 『サン』、呼び名をそのまま英語に置き換えると太陽を意味する『SUN』になる。それがこの子の本当の名前なのか、それとも自分が言い表したい単語をただ文字にしただけなのか僕には判断できない。 でも女の子はまた新しい紙を取り出して、そこに『サン』と書いて僕らと同じように前に突き出した。これが私の名前! とでも言わんばかりに。 「へぇ・・・、中々立派に書けてるじゃないか」 「そうですねぇ。元気があって、いい名前・・・」 それを見てマッケンジー夫妻が女の子の名前だと想像しても不思議はない。僕だってそう思う。 この国では『サン』と聞けば『三』と数字を考えてしまうけれど、キリスト教の聖人『サン・モーリス』のように『サン』は時に人の名前に用いられる。 「小娘。余はこれよりお主を『サン』と呼ぶが、それでもよいか」 ライダーも同意して、女の子も『サン』と呼ばれるのを嫌がってないので、それが女の子の名前なんだと決定する空気が流れ始めた。 僕は女の子の口から直接聞いた訳じゃないけど、嫌がって無いならそれでもいいかと思い始める。 もし別に本当の名前があるなら、その時に考えればいい。そんな風にも思って、それ以上深くは考えず、女の子の名前は『サン』なのだと確定させた。 僕は後になってこの時の事を何度も思い出す。 あの子は間違いなく自分の名前を―――自分の正体を―――自分が何者であるかを書こうとした。 ライダーは気付いていたんだろう。気付いたうえで、あえて僕が読み取れなかった部分を無視したんだろう。 ただ僕が気付いていなかっただけなんだ。 この時、気付いていれば何かが変わったかもしれない。 あの子が書こうとした文字は『ン』と『サ』だけじゃなかった。 『シ』 『ア』 『ハ』 残った三つの文字も書こうとしてうまく描けず、僕の浅はかさがそれを文字と認識しなかった。 あの子は見せられた四人分の名前の中から、耳で聞いた音を自分を表す単語から選び出して文字にした。それがたまたま『ン』と『サ』の二文字だった。 もし片仮名そのものを全て知っていたとしたら、『シ』と『ン』はよく似ているから、最初から知っていれば『シ』を書けない筈はないと気付けた。 でも僕はその事実を考えないようにして読めない部分を除外してしまった。 四人分の名前の中から合致した二文字、無かった三文字。 五つの片仮名を増やして並びかえると、ある二つの単語が浮かんでくる。 『ア』『サ』『シ』『ン』。 『ハ』『サ』『ン』。 それは僕がよく知る聖杯戦争に召喚されるサーヴァントの名前。あるサーヴァントの真名。あの子が何者なのかを表すこれ以上ない言葉だった。 気付こうと思えば、気付けた筈―――。あの子がどこの誰なのか、僕はここで判った筈なんだ。 でも僕は・・・・・・。 あの子、女の子、小娘。色々と呼ばれていたけど、とりあえず仮の名前として『サン』と呼ぶことで一応の決着を見た。 マッケンジー夫妻の本当の孫は僕と同じ男だし、孫の父、つまりはマッケンジー夫妻にとっての息子もまた男だ。 一時的に保護しているだけなんだけど、それでも小さな女の子が家の中にいるのが余程嬉しいのか、あるいは新しい刺激に飢えていたのか。僕よりもライダーよりもマッケンジー夫妻がサンを構い始めた。 『サンちゃん』と優しく語りかけるようになったのは自然な流れ、温和な老夫婦に見えたのだけれど、いつの間にか活力というか若さを取り戻して行動的になってる。 当然ながら男所帯で小さな女の子の姿など全くなかったマッケンジー宅に女の子の着替えがある筈ない。今は白いワンピースの上にマッケンジー夫人の服を羽織っただけの恰好で、着飾るとは言い難い。 僕はそれでも十分だと思ったんだけど、マッケンジー夫人は強く言い切った。 「たとえ幾つになっても女はちゃんと着飾る義務があるのよ。そうだ、折角だから一緒に買い物に出かけましょ」 その時のマッケンジー夫人はすでに老齢にさしかかって孫もいるとは思えないほど若々しく、僕は思わず『マーサさん』と呼び、女傑を前に平伏しそうな気持ちになった。 もちろん、そんな事態は起こらなかったのだけれど。 そこからの展開は流れるように通り過ぎ、マッケンジー夫人はすぐに夫を抱き込んで味方を増やすと、どこからか女性ファッション雑誌を持って来て、一枚一枚ページをめくりながら丁寧に説明し始めた。 「男はね、女が綺麗になると嬉しい生き物なのよ」 とか。 「サンちゃんも女だったら綺麗になりたいって思うわ、これは女の本能なの」 とか。 「恐い世の中になったからこそ、綺麗でいなきゃねぇ」 とか。色々教えているのか、それとも洗脳してるのか判断がつけ辛い不穏な言葉を耳打ちしている。当然の話だが、サンが僕から離れたがらないので、すぐ近くで僕もその話を聞かされた。 そしてあっという間に出かける準備は整えられ、総出で外出する事になった。 アサシンが健在だと知れた今、マスターの視点からは拠点から出て敵に見つかる事態は出来るだけ避けたい。しかし、サンがどこの誰で探している人がいるなら戻してあげたいと思っているので、昼間の外出は外せない。 それに王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)を目撃した時から胸の中でくすぶっている思いもある。 女の子の服を買いに行く用事のついでに本屋に行く予定を立てながら、僕らは総勢五人のグループとなって外に出かけた。 そして冬木新都にある繁華街に到着したところで後悔した。 「うむ。やはり異郷の市場をひやかす愉しみは戦の興奮に勝るとも劣らぬ」 ライダーが外出したがっていたのは召喚してからずっと知っていた。だから頭二つか三つ分ほど大きな位置から周囲を楽しげを見渡すライダーを見ると騒動を引き起こす予感しかしなかった。 未遠川の水を汲んでくる時とか、聖杯問答の為に酒を手に入れた時とか、外出するのはこれが初めてじゃないけど。初めて訪れる場所の様に喜色満面だ。 「ライダー、判ってるのか?」 「うむ」 「僕らはサンの服を買いに来たんだぞ」 「うむ、うむ」 「アーケードからは絶対に出るなよ、今の僕らの守りはお前だけなんだからな」 「言われんでも分かっとるわ」 ライダーは聞いているのかいないのか、周囲を見つめるその目がギラギラと光り輝いている。 周囲の酒屋やら玩具屋やらゲームセンターやら関西風お好み焼きショップやらに興味津々なんだろう。 耳は間違いなく僕の言葉を聞いてるんだろうけど、意識は周囲に広がってる。多分、僕の言う事を聞いても理解してない。 「・・・・・・・・・征服も略奪するなよ」 「えっ?」 小さく呟いたけどライダーはしっかり聞いていた。今まで他に向けていた目が初めて僕に向く。 「『え?』じゃない。万引きも、無銭飲食も、一切無し。欲しいものがあったらきちんと金を払え」 怒鳴りつければそれだけ周りの目を集めてしまう。ライダーの巨躯でもう注目の的になっている気もしたけど、これ以上目立ちたくないので、出来るだけ声を潜めた。 そしてライダーの手に分割しておいた軍資金の一部が入った財布を渡す。 これは一か所に軍資金をまとめてライダーに見つかったらあっという間に散財されてしまう危険があるので対策を打った成果だ。ライダーが今も着てる『アドミラブル大戦略Ⅳ』のタイトルロゴと世界地図が絡まったXLサイズの半袖プリントシャツを通販で勝手に購入したのがいい証拠だ。 「心配するな。マケドニアの礼儀作法はどこの宮廷でも文明人として通用したのだぞ」 現代の日本で生活する者が聞けば何のことか判らないと首をかしげる事を堂々と言い放つ。すぐ近くにいるマッケンジー夫妻に聞かれてないといいなと願ってると、ライダーは財布を手に鼻息荒く買い物客の波へと紛れ込んでしまった。 他の買い物客と比べても頭一つ分飛びぬけている巨漢は見つけ易いが、遠ざかっていく背中を見ながらあのライダーが何か騒ぎを起こすんじゃないかと気が気じゃない。でもライダーの異文化に対する適応能力が桁外れに高いと判ってもいるから、不安と信用は丁度半分ずつ。 マッケンジー夫妻を懐柔した『アレクセイさん』がその証明だ。 渡した財布には残った軍資金の半分近くが入っていて、消耗は痛手だ。それでもライダーが騒ぎを起こさない代償なら仕方ないと諦める。 あっちがあっちで好きにやってるなら、こっちはこっちで目的を果たすだけだ。 「それじゃあ、ウェイバー。服屋に行こうかね」 「あ、お爺さん。その前にちょっと本屋に寄っていい? 二分もかからないから」 「そうかい? それじゃあ少し待ってようかね」 出来れば僕は一人で本屋に向かいたかったんだけど、相変わらずサンは僕から離れたがらず、徒歩でしがみつくのが無理の場合は服の一部や手を握ったままだった。 僕が本屋に行けば必ずサンはついて来る、サンが来ればマッケンジー夫妻二人も当然ついて来るので、目当ての本を立ち読みして情報のみを手に入れる手段は選べない。 本を手にすれば時間を忘れるのは僕が幼い頃から変わってない気質で、文章を読み解いて把握する能力については誰にも負けない自負がある。それでも数分で一つの一冊を読み終えるのはさすがの僕も不可能だ。 仕方なくサンを引き連れた状態で本屋に入り、目当ての本を探した。 冬木市は外来住民の多い土地柄のためか、洋書コーナーは思った以上の品ぞろえで、探していた本は比較的簡単に見つかった。すぐに速読して中身に目を通したい衝動に駆られるけど、ここで時間を潰しても得られるものは何もない。 一人だったらそれでも良かったけど、今は文字通り『張り付いてる』サンがいて、本屋の外にはマッケンジー夫妻が待ってる。もし立ち読みを始めればマッケンジー夫妻がいつまでも出てこない僕を心配して探しに来るのがはっきりわかる。 それに『少女にしがみ付かれた状態で立ち読みする男』なんてのは周囲の目を集めるのに十分すぎる。折角、ライダーと離れて群衆の中に埋もれられたのに目立ちたくない。 本に没頭して時間を忘れるのは今じゃなくてもいい。そう思いながら、僕は表紙に『ALEXANDER THE GREAT』と書かれた本を手にとってパラパラとめくる。 ほんの少しだけ内容を頭の中に入れて、汚れやページの損失が無いのを確認した。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 衛宮切嗣 アイリからの連絡を受けた時、僕は聖杯戦争が始まってから最も大きな衝撃を受けた。 魔術師としての僕の実力は決して高いとは言えない、だが『魔術師の裏をかく』に特化した僕の戦い方は聖杯戦争に関わる誰よりも秀でていると自負がある。衛宮切嗣という機械を客観的に評価した場合も結果は変わらない。 だからこそ万全の注意を払い準備した新しい拠点が発見されるのは僕の予想の上を行った。 アインツベルンの森は見張られていだろうたけど、移動する間に全てを振り切るか排除して新しい拠点は誰にも知られなかった。使い魔はおろかアサシンの監視もない。その上、事前に購入しておいた拠点の下準備は全て舞弥が行い、僕との間にも接点はなかった。 時間が経てばいつかは気付かれてしまうと判っていたけど、それでもまだ時間がある。その見通しが僅か数時間で崩されてしまう。 カイエン・ガラモンドと名乗った男が何者なのかは分からず、ライダー陣営に協力しながら、間桐にも関わりがある。これで『間桐に協力している組織』と全く関わりが無い筈はない。 監督役の言峰璃正が聖堂教会の者として間桐を調べ、その上でぶつかり合って消耗する状況を予測したが、まだ聖堂教会すら表立った成果を出していないようだ。 認めるしかない。この組織は僕どころか聖杯戦争に関わる全ての者たちを上回っている。 僕は電話で応対しながら平静を装い、『わかった、新しい方針を決めるまで少し時間をくれ、こちらから電話する――』と電話の向こう側にいるアイリに言えたけど、衛宮切嗣という一つの機械が破綻しそうな動揺が渦巻いているのも認めた。 客観的に自分を判断できるのでまだ衛宮切嗣の性能は発揮されたままだが、僕の上をいく存在を相手にするなら僕だけの力では足りない。 そもそも僕はまだ倒すべき敵が誰なのかすら把握していない。もしこの組織の規模が聖堂教会や魔術協会に匹敵するのならば、僕と舞弥だけで対処するのは不可能。首謀者を殺して動きが止まる組織でなかったとしたら、一人や二人始末しても意味はない。 この状況で僕が選ぶべき戦略は撤退だ。 戦いを一旦中断し、情報収集を綿密に行い、倒すべき敵の規模と殺すべき相手が誰であるかを見定めなければならない。しかし、それは聖杯戦争の縛りが無ければの場合に限る。 僕は聖杯を手に入れなくちゃいけない。アイリを犠牲にして戦い、イリヤを残したまま―――。何としてでも結果を手に入れなくちゃいけない。 何をしてでも、聖杯で世界を救う。 だから僕は賭けに出る。 程度はどうあれ、アインツベルンに雇われる以前の『衛宮切嗣』と比較して今の僕は衰えている。だからこそ往年の冷酷さと判断力を取り戻さなくてはならなかった。 全ての命を等価として計り、常により犠牲の少ない道を選択する。小を殺し、大を生かす。たった一人の命で地球に生きる全ての人間の命が救えるのならば、僕はその『たった一人の命』を切り捨てよう。そのたった一人の名がアイリスフィール・フォン・アインツベルンだとしてもだ。 そう考えた時、僕は喪うモノなど何もないかつての自分を意識出来た。妻も娘もなく。痛みを感じる心すら無く。ただの暗殺者であり殺人機械でしかなかった『衛宮切嗣』が戻ってきた。 僕だけど僕じゃない『衛宮切嗣』は考える。 間桐に協力する組織があると判明してから、僕は下準備で用意した手段とは別の方法を探し求めた。そして拠点とは別の場所に用意しておいたある仕掛けを更に増強する事にした。 この手段は不確定要素が多く絡むので使いたくはない方法だったが、適切な状況ならば、物理的な威力はケイネスの拠点を破壊した爆破解体(デモリッンョン)を上回る。ライフルによる遠距離狙撃より確実性は低いが、破壊力および広範囲での攻撃を重視した。 同時に威力の増強だけではなく、数を増やして別々の場所を攻撃できる準備も整える。 短時間で準備を整える為にばらまいた金は多く。アインツベルンが聖杯戦争の為に用意した金、そして僕個人の蓄えの大部分を浪費してようやく形になった。普通ならもっと格安で手に入れられる品も、時間短縮を優先した為に倍額以上が必要になってしまったからだ。 当然、貯蓄は大きく削られ、今後の行動にも支障は出る。 しかし重要なのは聖杯戦争で勝者となり聖杯を手に入れる未来だ。『聖杯戦争のその後』を考えるより目の前にある現実に持てる力の全てを集約させる。 僕は携帯電話を手に取り、かかって来たアイリの番号とは別の番号を打ち込む。 耳に当てれば聞こえるコールは一回限り。 「――はい」 「舞弥、アイリ達をランサーの位置まで誘導しろ。こちらは例の仕掛けを発動させる」 「了解しました」 ほんの僅かな逡巡すら無い肯定。五秒もかからずに通話は終わり、携帯電話からは通話が終わった無機質な音が鳴る。僕は耳から携帯電話を離して『仕掛け』を発動させる為の準備を進める。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - ゴゴ 蟲蔵の中では阿鼻叫喚の様子が作り出されていた。 「ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」 悲鳴をあげ、紅い血を噴き出し、涙を流し、恐怖のあまり小便と糞便をまき散らす。たった一人の子供によって惨劇は作り出される。 その子供―――士郎を痛めつけているのはマッシュとエドガーのフィガロ兄弟で、片方は『オートボウガン』『ドリル』『回転のこぎり』などの機械を使い、もう片方は鍛えられた腕力と技術によって士郎の体を破壊していた。 骨の折れる音がする。 皮膚が避ける音がする。 紅い血が床を汚す。 士郎の肉片がボトリと落ちる。 絶叫は止まらず、攻撃も止まらない。 殺される、殺される。 死ぬ。 痛みは止まらず、殺意も止まらない。 死ぬ、死ぬ、死ぬ。 死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ。 という幻覚を士郎は見ている筈。 エドガーが『回転のこぎり』で斬りかかろうとする直前、離れた位置にいたセリスがステータスを混乱にする魔法『コンフェ』をかけたのだ。 士郎は自分を殺そうとするエドガーとマッシュしか見てなかったので。セリスが何をするか全く理解できていない。 酷い痛みを味わっているように思ってるだろうが、実際には何も起こってない。魔法がかかると同時に蟲蔵の床に寝かされ、覚めない悪夢の中で自分を傷つけている。 それだけだ。 痛みも。 苦痛も。 鮮血も。 嘆きも。 骨折も。 切断も。 破壊も。 死の恐怖も。 全ては士郎の頭の中だけにある幻に過ぎない。 「あ、あ、あ、あああああ!!」 だけど士郎はそれに気付かない。 ただただ痛くて辛くて苦しくて殺されそうな状況に恐怖して叫び続けるだけだ。 魔術師の観点で見れば、これは拷問ですら無い。精神面に酷いダメージを負ってるだろうが、この程度ならキャスターに殺されかけるよりも数倍マシだ。 ほんの少しだけ自分を殴ったり蹴ったりつねったりすれば、それだけで幻から脱出出来る。開放されれば何も起こってない事実を目の当たりにして、すぐに落ち着きを取り戻すだろう。 悪夢と一緒だ。 夢は覚める。混乱もまた覚めてしまう。 本当に拷問するなら、マッシュの技をかけてすぐに回復魔法で治し、エドガーの機械で攻撃して回復魔法で治し、傷つき治すサイクルを何度も何度も何度も何度も繰り返す。 それをやらないのは、士郎があまりにも弱すぎて手加減が難しいのと、血生臭い手段とは別にこういう事もあるのだと桜ちゃんに教える意味がある。 桜ちゃんなら判る筈だ。 雁夜がゴゴと修行している時はこんな軽いモノじゃなかった。雁夜が負った痛みは頭の中だけにある幻覚程度の生易しいものではなく、時に本当に死んでしまう事もある壮絶なものだった。 もし間桐臓硯が健在で、ゴゴが来る以前に行われていた蟲蔵での教育が続行されていたら、今、士郎が味わっている痛みよりもっと壮絶な扱いを受ける羽目になったと判る筈。 ありえたかもしれない可能性、『もしかしたら』は実際に起こるかもしれない事実だ。 魔術に関わるのならば、士郎のようになるかもしれない、雁夜のように修行の段階で大きな痛みを伴うかもしれない。 もっと酷い事を見たり聞いたり味わったりしなければならないかもしれない。 本来ならマッシュもエドガーもセリスもこんな子供の精神を痛めつけるような事は決してやらない。ゴゴにとって物真似している誰かがやらない事をやるのは、その当人への侮辱だ。 これは最早、物真似ではない―――。 それでも。だが、それでも『桜ちゃんを救う』ために、魔術に関わるのならばこういう事が普通に起こる、と教えておかなければならない。 魔術は単なる手段であり、それを使う者の価値観によってどんな形にも変化する。 誰かを守る魔術にもなるし。 誰かを傷つける魔術にもなるし。 誰かを不幸にする魔術にもなるし。 誰かを幸せにする魔術にもなるし。 誰かを殺す魔術にもなる。 「ひどい・・・」 「そうね、私達は年端もいかない子供を傷つけてる。とても酷い大人だわ」 桜ちゃんの呟きに抱きしめたままのセリスが返す。 「でもね、桜ちゃん。魔術に関わるなら、この位は普通に起こることだって知っておかなきゃいけないのよ。この世界には楽しい事も優しい事もある。だけど同じぐらい辛い事も苦しい事もある。もしあの子がゴゴとの約束を守ってくれたら、私達だってこんな事はしなかったわ。あの子は自分から痛い思いをする場所に踏み込んだの。これは『知らなかったからごめんなさい』で済む簡単な問題じゃないの」 「・・・・・・・・・」 「私達はこれからあの子のせいで大変な思いをするわ・・・。お返しをする私達はひどい大人。そして、あの子も約束を破ったひどい子ね」 セリスが言い終えると、士郎がまた蟲蔵の床の上で悶絶する。 また悲鳴があがった。 マッシュの姿をした別人。 エドガーの姿をした別人。 セリスの姿をした別人。 彼らがもし同じ状況に陥ったなら、『桜ちゃんを救う』物真似をしているゴゴと違って、士郎の仕出かした罪を許しただろう。敵と戦うのは仕方ないとしても、関わり合いになっただけの子供に精神的な拷問するなんて手段は決してとらない。 結局、姿形を物真似しようと、ゴゴは彼らの姿を借りただけの別人であり、人格や心まで物真似出来た訳ではない。限りなく彼らに近づける事は出来るけれども、その本質はものまね士ゴゴから変わらない。 そう―――所詮、ものまね士ゴゴに出来る事は物真似でしかない。彼ら自身になれる訳ではないのだ。 蟲蔵でやっている事が間違っていると理解しながら、ものまね士ゴゴはそれが『桜ちゃんを救う』に繋がる道だと信じて過ちを続ける。 救済とは成長だ。桜ちゃんが一人で生きていけるような心と力を得るのが真の救いだ。 その為に多くの体験が必要不可欠になる。言葉だけでは教えられない真実が桜ちゃんを救っていく。 これは物真似だ。だけど物真似を侮辱する行為だ。 「・・・・・・くそっ!」 唯一蟲蔵に行かなかったロックは間桐邸の二階から外を見下ろし、人知れず苛立ちを言葉にした。 全員で蟲蔵に行ってもよかったのだが、分裂したゴゴの自意識が精神的な拷問などしたくない部分としてロックの意識に干渉したのだろう。 自分が今、ここにいる意味を考えながらロックはぼんやりと外を見る。 雁夜の近くにはティナがいて、桜ちゃんの近くにはセリス達がいる。士郎一家の来訪によって遊びの時間が中断されてしまい、手持ち無沙汰になったし、何もせずに一人になりたい気持ちもあった。 「ふぅ・・・」 吐き出したため息は重く、調子が良いとは言えない。 敵が襲いかかってくれば万全の体調で迎えうてる自信はあるけれど、ロックとして戦うやる気が落ち込んでいるのがすぐに判った。 戦いになれば相手が誰であろうと勝てる。だが、ものまね士ゴゴが物真似に疑問を抱けば、そこで意欲は落ち込んでいく。 殺すつもりは全くないし、あまりやり過ぎると体は無事でも子供の心が壊れてしまう。まだ混乱の魔法『コンフェ』を士郎にかけて三分も経ってないが、もう潮時だ。 これ以上、自分で自分の物真似を汚したくない―――。願いすら含んだ想いの中で結論を出しながら、もう一度外を見る。 少し雲があるが、晴天と言っても問題ない良い天気だ。 キャスターのマスターである雨竜龍之介の連続誘拐殺人事件が無ければ、外で遊ぶ子供たちが沢山いたに違いない。 そう思っていると、間桐邸の正門を破壊する暴力的な音が鳴り響いた。 ドンッ! と大きな音が鳴り、ロックは咄嗟に空を見上げていた顔を動かして、音のした方を見下ろす。 「――こういう手に出るか!!」 見下ろした先にあるモノ。それは正門を破壊しただけでは終わらず、間桐邸へと向かってきた。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - ウェイバー・ベルベット 眠っていた時に聞いたマッケンジー夫人の叫び声やサンの事、他に考えることが色々あったので今の今まで忘れていたけど、聖杯問答を終えた夜、ほんの一瞬だったけど僕は夢を見た。 その時見えた光景を決して忘れられず。夢だと理解しながら、それでもあの光景を鮮明に思いだせる。 僕が夢で見た景色、それは最果ての海(オケアノス)―――。 どうして、あれが最果ての海(オケアノス)と呼ばれる海だと判るのか? 打ち寄せる波の音の他には何もない。 どうして、今まで忘れていたのに鮮明に思い出せるのか? 大きく広がる海の青さは無限を思わせる。 どうして、僕は見た事もない海を見ているのか? 考えれば謎が幾つも湧きあがるけど、忘れようとしても忘れられない『理解』が僕の中に刻まれている。だから思い出せば、すぐに僕の頭の中に最果ての海(オケアノス)が浮かぶ。 ただし、最果ての海(オケアノス)を夢に見ていたのは僕、つまりウェイバー・ベルベットじゃなかった。 ライダーの目でその光景を見つめていて、僕はライダーと同じ目線でその海を見つめていた。 でも僕は知っている。ライダーは知っている。征服王が思い描いた見果てぬ夢は叶わなかったのだと知っている。あれはきっと、記憶の中にある情景ではなく、胸に抱いて来た願いそのものなんだ。 ほんの一瞬しか見えなかったけど、その夢は僕の心の中に強烈に刻みこまれた。 それはライダーの王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)を見た時。魅せられた時の気持ちによく似ていた。 だから僕は見果てぬ夢を追い続けた王の在り方を―――歩んだ足跡を―――生き様を―――最後を―――、知りたくなった。本屋に行ったのはそれが理由だ。 僕が知っている『征服王イスカンダル』は少ない。 人の身でありながら、歴史上、もっとも世界征服に近づいた王だという事ぐらい。 もちろんそれでも十分すごい偉業なんだけれど、その道中にどんな事があったのか全く知らない。ライダーの史実を詳しく調査したこともなければ、知ろうとしたことも無かった。 でも今、僕は知りたいと思ってる。 あんな風になりたい。 あんな風に生きたい。 胸に宿る炎は羨望か、共感か、激情か、熱意か、まだ判らないけど。ただ『知りたい』。僕は心の底からそう思ったんだ。 だから僕はライダーの伝記を買って、征服王イスカンダルが駆け抜けた一生を知りたくなった。ライダーに直接聞いた方が早いとは判っていても、それをやれば僕が『ライダーの姿に心動かされてる』って知られてしまう。 それは何か恥ずかしい。 「ほれ! なんと『アドミラブル大戦略Ⅳ』は本日発売であったのだ。しかも初回限定版だぞ!」 そんな僕の心境の変化なんて全然気付いてないらしく、ライダーは服屋に乗り込んでてきて購入したゲームソフトを嬉しそうに見せびらかしている。 本屋から服屋へと移動した僕らは、最初の予定通りサンの服を購入する為に子供用の服を探した。 本屋と同じで外来住民の多い土地柄故か、バリエーションの豊かさは被服の面でも変わらない。あっという間に沢山の子供服が見つかって、そこから小さなファッションショーが始まった。 モデルは言うまでもなくサン。 衣装担当は同性のマッケンジー夫人。 僕は離れたがらないサンを何とか剥がしつつ、試着室の中で待つマッケンジー夫人の方へと連れて行くマネージャーみたいな役目。 マッケンジーさんは服を交換してどれがいいかを検討する相談役と観客を兼任してる。そこにゲームソフトを買ったライダーが合流して、観客の数が増えた。 ライダーが合流する前に三回も衣装交換を済ませてるのでこれが四回目だ。 これまでは花柄がプリントされた厚手の長袖だったり。淡い水色のパーカーだったり。ドット柄でレース衿がついたワンピースだったり。 僕とライダー、そしてマッケンジーさんは男なので女性の着替えを見る訳にはいかず、試着室の外でサンの着替えを待ってる。 思いがけずに手に入れてしまった時間。僕は隣に立つライダーに話しかけた。 「なあ、ライダー・・・」 「何だ坊主? 小娘といえど女。着飾る時間を待てぬようでは男がすたるぞ」 「違うっ! そんな事を言いたいんじゃない」 話し始めるまで僕が心の中でどれだけ決意を鈍らせてたかこいつは判ってない。僕がどれだけ悩んで言おうとしているかをライダーは判ってない。 まあ、話してないんだから判る筈が無いんだけどさ。 僕はライダーへの怒りを必死で抑え込み、何度も何度も深呼吸を繰り返してしきり直す。すぐ近くに居るマッケンジーさんに聞こえないように小声で話しかける。 「お前・・・・・・歴史だとすっげえチビだったってことになってるぞ。それがどうしてそんな馬鹿でかい図体で現界してるんだ?」 「いきなり何の話だ? 余が矮躯とな?」 「ペルシアの宮殿をおとしてダレイオス王の玉座に座った時、足が届かなくって踏み台の代わりにテーブルを用意したって記録があるんだよ」 僕はさっき少しだけ見たライダーの伝記の記述を思い出して言葉にする。 前後関係を詳しく読んだ訳じゃないけど、『ライダーはダレイオス王に比べて小さかった』って記述は見間違えじゃない。 でも身長二メートルを超える長身のライダーを見ると、僕にはどうしても小さいなんて思えなかった。もっと小さい僕はどうすればいいのさ。 「ああ、ダレイオスか! そりゃ仕方ねぇわ」 そこでライダーが一旦言葉を区切る。 「いいか坊主、知らんならよく聞け。かの帝王はなぁ、その器量のみならず体躯もまた壮大であった。強壮なるペルシアを統べるにまっこと相応しい大物であったよ」 ライダーは僕とは別の方を向いて、そこにいる誰かを見上げる姿は様になっている。誰も居ないのに、僕はそこに居る誰かをライダーが見上げている風に見えた。 ただ、そうなるとライダーの視線の先にある誰かの頭は軽く三メートルを超える。ダレイオス王をライダー以上に知らない僕には今の言葉から想像するしかないけど、もうこれは巨人だ。 「なんだかすごく納得いかない・・・」 「それ言ったら、アーサー王なんか女だぞ女。余の体格の逸話なんぞより、よほどタチが悪いわい」 昔を懐かしみながら気をよくしてるのか、段々とライダーの声がでかくなって近くのマッケンジーさんに聞こえそうで怖い。 でもライダーはそんな事全く気にしないで話を進める。 「まぁ要するにだ。何処の誰とも知れんヤツが書き留めたもんなんぞ、当てにならんもんだわい」 「違ってるなら違ってるで、怒らないのかよ? ――自分の、歴史だってのに」 最後の問いかけは周囲に聞こえないように小さくしたけど、僕の戸惑いは膨れるばかりだった。 ライダーの宝具、王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)。あれだけ痛烈な宝具を作り出して、見事な様を見せつける限り、あの猛々しさを間違って伝えるのはおかしいと思う。 別にライダーの歴史なのだから僕が口出しすべきではないのかもしれないけど、あの有様を見せつけられた一人としては、間違った歴史を間違ったままで残すのは何かが違うと思った。 そう、例えば、ライダーの覇道は彼が望むままの形で残したいと願う、僕の願望というか何というか。僕自身にもよく判らないもやもやした気持ちが渦巻く。 「ん? 別に気にすることでもないが。――変か?」 「いつの時代だって、権力者ってのは、自分の名前を後世に遺そうと思って躍起になるもんだろ」 「そりゃまぁ、史実に名を刻むというのも、ある種の不死性ではあろうがな。そんな風に本の中の名前ばっかり二千年も永らえる位なら・・・、せめてその百分の一でいい。現身の寿命が欲しかったわい」 「じゃあ・・・。三十そこそこで死んだって話は・・・・・・」 「おお。そりゃあ、あっとるな」 気が付けば僕はライダーと一緒になって周囲にいる人たちが聞こうと思えば聞けるぐらいの大きさで喋っていた。 ライダーは他人事のように軽々しく言うけど、ライダーの伝記を見る前から征服王イスカンダルが史上最大の帝国を築き上げた偉業は知っていた。そして、僅か三十歳という若さで没した事も知っていた。 そこにある無念はどれほどのものか。僕なんかには想像できない。 ライダーは聖杯問答の時に『悔いは無い』って言ってたけど、やっぱり『あれがやりたかった』とか『こうしたかった』って後悔はあるんじゃないだろうか。 「あと十年あったらなぁ。きっと西方だって遠征できたぞ」 場を和ますようにライダーが軽口を叩くけど、僕の中にあるもやもやした気持ちはちっとも晴れない。昨夜の聖杯問答でライダーが口にした願望の意味を改めて思い知り、僕が聖杯戦争に挑んだ決意なんか軽く吹き飛ばす重さを考えてしまう。 僕は何も言う気にならず、ぼんやりとライダーの顔を見上げていた。すると別方向から声が飛んでくる。 「サンちゃん、次のお披露目よ!」 気まずい沈黙を吹き飛ばすようなマッケンジー夫人の声が試着室の中から聞こえてきたのだ。 僕はライダーから視線を外してそっちを見た。試着室のカーテンが取り払われ四度目のファッションショーが行われる。 結局、十回以上試着を繰り返して、サンが満足いく―――というよりマッケンジー夫人を満足させる服を上下合わせて三着ほど購入した。 二着はマッケンジー夫人の手にあるが、三着目はサンがそのまま着てる。 とりあえず服を買う用事は問題なく終わったので後は近くの店で靴を購入すれば、上から下まで一式が揃う。今はマッケンジー宅に合ったサンダルで誤魔化してるので、足元だけが不完全な印象を受けた。 服の時もそうだけどマッケンジー夫人がサンを嬉々として構うので、購入資金について心配しないのが良い。 今のサンの恰好は出会った時から着てる白いワンピースに淡い色のカーディガンとズボンを合わせて子供らしくも落ち着いた様子だ。喋れないのを考えなくても、言葉少なめのお淑やかなサンに似合ってる。 ライダーも『ほほう、中々似合っておるではないか』と褒めていた。 サンの表情の変化も乏しく、喜んでいるのか、悲しんでいるのか、心苦しいのか、申し訳ないのか判りづらい。でも周囲にいる僕を含めた四人から一斉に褒められて、サンの口元がほんの少しだけ動いたのを僕は見逃さなかった。 笑おうとして失敗した。僕にはそう見えた。 喜怒哀楽。人ならば普通に出来る喜んだり、怒ったり、悲しんだり、楽しんだりを、どうすればいいのか判らないように見える時がある。 ますますサンがどういう生活をしてきて今に至っているのかが判らなくなる。 父親はいるの? 母親はいるの? 兄弟、姉妹はいるの? 教育は受けているの? 仲のいい友達はいるの? 記憶を失っているから色々な事が判らないと一応の説明はつけられるけど、そうなると魔術師の僕に心身医学は専門外だ。 記憶が失われているのと、僕が出来る魔術で暗示をかけるのとは意味が違う。とりあえず警察にはいかなくても病院には連れて行くべきか―――。 今後の事を考えながら歩いてると、店の外が騒がしくなってるのに気が付く。耳を澄ませて聞いてみると、聞こえてくるのは悲鳴だった。 今はまだ真昼間だけど、聖杯戦争がらみで何かが起こった? 僕はまずそう考える。 だけどランサーが僕らを誘い入れる為に魔力を放出していた感じはしないし、空気中に含まれるマナが乱れた様子もない。見上げればそこにあるライダーの顔にも戦いの雰囲気は全く見られなかった。 つまり魔力に関わる出来事は何も起こってない。 そうなると外にいる人たちは魔力とは関係ない何かを体感して悲鳴を上げている。白昼堂々とサーヴァントが襲撃するとは思えないけど、もしかしたら気配を消したアサシンが仕掛けてきたのかもしれない。 可能性は低いけどアサシンが一般人に見とがめられた、とか? 「何の騒ぎかねぇ?」 「お爺さん、お婆さん。ちょっと様子を見てくるからここで待ってて」 「あ・・・、ウェイバー」 後ろから聞こえてくるマッケンジー夫人の呼び掛けに答えず、現状を把握する為に僕はライダーと一緒に外に出た。当然ながら腰にしがみついたサンも一緒だ。 戦いになるならマッケンジー夫妻とは離れて行動しなくちゃいけない。あの二人を巻き込んじゃ駄目だ―――。 慣れない服に包まれて緊張してるのか、サンは今まで以上に大人しい。ついでにマッケンジー夫人の着せ替え人形になって疲れたらしく、気のせいでなければ服にしがみつく力が少し弱かった。 急いで外に出た僕らは、アーケード内を爆走し、買い物客を吹き飛ばして進む、信じられないモノを見た。 あ、これってきっと僕たちへの攻撃だ・・・。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 遠坂時臣 アーチャーとの連携がなければ、聖杯戦争への参加すら覚束ない。情報戦ではアーチャーの参加は必須事項ではないが、戦いになればサーヴァントの力は欠かせない。 アーチャーは召喚時に与えられた特殊スキル『単独行動』によって、私の魔力供給を殆ど必要せずに出歩いている。Aランク相当の『単独行動』によって現界の維持はもちろん、戦闘から宝具の使用まで行えてしまう。 これまでは綺礼のアサシンの情報収集のみに戦いを絞っていたが、ここからはアーチャーの力が必要だ。それもマスターである私からの魔力供給を行った上での十全の力が。 ライダーの王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)を知った今、王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)があろうとも私の魔力供給なくしてライダーに勝利するのは不可能だ。 だからこそ私はマスターとして戦場へと馳せ参じる。 しかし、いきなりライダーの拠点に乗り込んで戦う等、品の無い真似をしてはならない。 どんな時でも余裕を持って優雅たれ―――それが遠坂に代々伝わる家訓であり、戦いにも品格が求められる。まずは聖杯戦争に無用な騒動を持ち込んだキャスターを討伐する。 現段階、倉庫街の戦いで令呪を一画失ったが、大きな問題はない。 遠坂家五代目継承者として、何より一人の魔術師として魔術の秘匿すら行わない無謀な輩をこれ以上のさばらせていく訳にはいかない。令呪を三画揃え直し、全てのサーヴァントを駆逐するのだ。 そして王がようやく御帰還なされた―――。 待ちわびた時がようやく訪れ、私は戻られた王を出迎える。 「お戻りになりましたか、英雄王。早速ではございますが、これより獅子を狩り落としに参ります。共に出陣するお許しを頂けますか?」 「ふむ、良かろう」 私の自室に現れたアーチャーは毛皮のファーをあしらったエナメルのジャケットにレザーパンツの現代風の服装から一気に黄金の甲冑へと衣装を変える。 これまで特殊スキルに物を言わせて好き勝手に物見遊山を繰り返しているアーチャーが、たった一言告げただけで武装を纏った。 てっきり『そのような些事、野良犬共で争わせておけ』や、それに近い意味の言葉が返ってくるかと思ったので拍子抜けだ。 「何か英雄王のお気に召されるものがありましたか?」 言いながらも現代の世界を『度し難いほどに醜悪だ』と切り捨てたアーチャーが関心を示す何かがあるとは思えなかった。 聖杯問答にてライダーを地に這う虫ではなく聖杯戦争で倒すべき敵だと認識した話は綺礼から聞いている。あるいはそれがアーチャーにやる気を出させているのではないかと思ったが、アーチャーからの返答はそうではなかった。 「お前は知らずともよい事だ」 「――そうですか」 「知った所で時臣、お前には理解できないであろうよ」 邪悪な笑みを浮かべるアーチャーは楽しげであり、気を良くしているのは誰の目から見ても明らかだ。 その理由が何であるかを教えず、私への気遣いなど欠片もないその様子に苛立ちを覚えるが、私は表情には出さずに頭を垂れる。 どんな理由があるにせよアーチャーが戦う気になってくれているのならばそれでよい。 好き勝手に動き回れる状況を脱し、聖杯戦争のマスターとサーヴァントとして戦いに赴けるのならば小さな理由には目を瞑る。 「では英雄王、参りましょう」 「時臣、お前は先に行け。我(オレ)は霊体となり後から向かう」 「はっ」 アーチャーは私の目の前で黄金の粒子、つまりは霊体へと変化する。姿を消すと同時に黄金の威圧感もまた室内から消えたので、私は握りの頭に特大のルビーを置いた礼装のステッキを手に取った。 カツン、カツンと足音を響かせながらゆっくりと遠坂邸を歩き、真正面の扉から堂々と外に出る。 空から降り注ぐ太陽の光は眩しく、扉を開いた瞬間に僅かに目を細めた。 闇に紛れて出陣するなど優雅とは程遠い。だから私は堂々と―――遠坂家の当主としての風格を持ち、毅然として態度で前に進む。 敷地の結界は遠坂の魔術に関わる者を攻撃対象にしないので、私は結界の中を堂々と歩く。 たとえ遠坂邸を見張る使い魔に姿を見られようと、私は真正面から出陣する。いっそ、私の属性である炎の魔術によって遠坂邸を見る下賤な輩の目を全て潰すのもよい。 可視、不可視問わず、使い魔も魔導機も全て遠坂時臣の出陣を祝う狼煙となるのだ。 「ふっ・・・」 臆することなく歩み続ける中、私は今の状況への違和感を感じた。 確かにアーチャーが言った通り、私の近くにあの黄金のサーヴァントの気配を強く感じる。言った通り、霊体化して傍にいるのだろう。 だがそれはおかしい。 アーチャーはアサシンが遠坂邸を襲撃した狂言も、倉庫街での戦いに乱入した時も、単独行動スキルで何の制約もなく出歩ける時も、『秘する』の言葉を知らぬかのように振舞ってきた。 英雄王ギルガメッシュにとって隠れるなどと言う状況そのものが恥なのだろう。 だからこそアーチャーは傲岸不遜に誰に見られようとも気にせずに行動してきたが、今はその『秘する』を行っている。 これは先程思い浮かべたアーチャーの機嫌の良さの理由とは違う、決して無視してはならない異常だ。 アーチャーがわざわざ霊体化している理由は何だ? 遠坂邸を監視している使い魔たちに姿を見せない理由は何だ? 私を先に行かせる理由は何だ? この異常はあの機嫌の良さに連なるかもしれない。 そう思った時、私の足はもうアーチャーがアサシン一体を殺した時に出来たクレーターの近くにまで接近していた。 庭の結界を作り出す要石はまだ健在なので、まだ私は結界の中にいるが、このまま歩いていけば結果を抜けて戦場へと出る。 この異常、いや、最早『謎』とでも言うべき事態が解明されるまでは遠坂邸から出るべきではないかもしれない。 私はアーチャーのマスターであり、令呪によってサーヴァントを従える立場にある。だがアーチャーが私を自分と同列に扱っていないのはどうしようもない事実で、私と並び立つ状況を作りたがらなかった可能性はある。 だが事はそんな単純か? ほんの数秒前までは感じなかった嫌な予感が私の中を駆け巡る、背筋が凍り、この場から一秒でも早く離れろと理由なき直感が囁く。 結果として『謎』は私の足を止めさせて、広々とした遠坂邸の庭の中に私を立たせた。 庭の外側にある植え込みの向こう側から何かの物音がしたのは私がしばらく佇んだ後の事だ。 「――何だ?」 思わず呟いたその一瞬後。轟音を撒き散らすモノが植え込みを超えてくる。 それはとてつもなく大きく、だからこそナンバープレートの横にある黒地にオレンジ色で書かれた『危』の標識が私の目に飛び込んでくる。 真正面から見ると、必ず視界に入る位置に取り付けられているが故だ。 植え込みを超えて来たモノの正体はタンクローリー・・・。そう考えるより早く、それは私に衝突し、爆発した。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 久宇舞弥 私は通信する。 携帯電話を通し、完全なる殺人機械『衛宮切嗣』を構成するパーツの一つとして通信する。 「遠坂邸、間桐邸、および冬木新都アーケードへの着弾を確認しました」 「判った。使い魔にそのまま監視させて後で結果を報告しろ。今は廃工場へ向かえ」 「了解しました」 私は行動する。 命令を受けた機械はその通りに行動する。 たとえその結果に死が待ち構えいようとも、そうなる可能性が高いとしても機械は行動する。 ただ命令のまま行動する。