第27話 『マスターは休息して出発して放浪して苦悩する』 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - ゴゴ アサシンの宝具である『妄想幻像(ザバーニーヤ)』は、ゴゴに物真似された瞬間からその効力を変質させられ、同一のモノでありながら全く別のモノに変化した。その結果にバーサーカーの宝具『己が栄光の為でなく(フォー・サムワンズ・グロウリー)』を重ねることで、ゴゴ一人ではできない様々な状況を作り出してきた。 これまでは『仲間』と認識した相手にのみ、宝具での変身を限定していたが。敵と認めた相手に変身してはいけない理由はない。そんな制限は、ものまね士ゴゴとしての『物真似』の成長を阻害する。 ありとあらゆる事象を自らのモノとして、自分が何者であるかを知るためには敵であろうと味方であろうと善人であろうと悪人であろうと大人であろうと子供であろうと男であろうと女であろうと、等しく物真似の糧になるのならば関係ない。好き嫌いしたら大きくなれないのだ。 故にゴゴはケフカ・パラッツォに変身した。 なぜかと理由を考えればゴゴの中で明確に『悪』と断定できる最も顕著な例が彼だからだ。個人の力を存分に振るう為に世界を一つ滅ぼしかけ、三闘神の力を我が物にしようとした男。ガストラ帝国の魔導実験によって力を与えられた人造魔導士で、実験で強い魔導の力を得たが引き換えに精神が破綻したらしい。彼の過去については以前セリスから聞いた。 聖杯戦争は魔術と冬木市を結びつける大きな理由であり、間桐の庇護を受けている遠坂桜が現在もっとも縁深い魔術関連の騒動である。桜ちゃん自身の安全を考えるならば聖杯戦争を壊す為に、雁夜とバーサーカー以外のマスターとサーヴァントを全員皆殺しにして、大聖杯も、遠坂とアインツベルンも全て壊せばいい。 だがそれだけでは駄目だ。 桜ちゃんを救う―――。それこそが雁夜の願いであり目的であり到達点であり、物真似しているゴゴがたどり着くべき場所だ。それを成し遂げるためには多くの苦難を突破しなければならない。 ゴゴが、ではなく。桜ちゃんが、だ。 桜ちゃんは知らなければならない。 味わわなければならない。 体感しなければならない。 身に染みなければならない。 言葉で説明するのは容易いが、子供では理解できない言葉も数多くあるだろう。 まだ幼い身で聖杯戦争に関わらせるのは酷だとは思うが、魔術に関わる事がどういう現実を生み出すのかを桜ちゃん自身が肌で感じ取らなければならない。 その為にゴゴはケフカ・パラッツォとなった。 魔術それ自体には善意も悪意もなく、この世界の中に存在する単なるシステムにすぎない。それを用いる人間が善やら悪やらを決めて行動しているのだ。もっとも、大半の魔術師は自分たちの正しさの為に邁進して善だの悪だのは考えていないだろうが。 桜ちゃんの安全はゴゴがそばにいる限り保障される。しかし不測の事態と言うのはいつでも起こる可能性を秘めており、だからと言って桜ちゃんに闘争の余波が全く来なければ教えられない。 桜ちゃんを死なせず、けれども恐怖を生み出す敵が必要だ。単に殺して終わらせようとする短絡的な者ではなく、恐怖そのものを持続させようとする存在が必要だ。 そしてある意味これが最も重要なのかもしれないが、聖杯戦争を終わらせた時。始まりの御三家で間桐だけが残っていれば、魔術教会も聖堂教会の目も確実に間桐に向く。だから聖杯戦争を破壊した黒幕が―――犯人が―――間桐すら陥れた怪物が―――桜ちゃんに恐怖を教える敵が必要なのだ。 それこそがケフカ・パラッツォ。 ゴゴが知る限り彼以上の適任はいない。 キャスターことジル・ド・レェ。あるいは言峰綺礼。自覚無き『悪』としたら衛宮切嗣とセイバーの組み合わせも悪くないが、そのどれもがこちらの思い通りに事を進めてくれるとは限らない。 間桐臓硯が一年前から豹変した事実はすでにどの陣営も掴んでいるであろう情報だ。そこに『ケフカ・パラッツォ』を投入させて、『間桐臓硯を殺してすり代わった者』と答えを与える。 間桐臓硯は既に殺されている、もしかしたらまだ生かされている。どちらを考えるかは人それぞれだろうが、今の間桐臓硯が別人だと誰もが薄々感づいていく筈。 中には騙されずにものまね士ゴゴにまで到達できる者もいるかもしれないが、表向きにそう見える事実こそが今は必要だ。 自作自演。今の状況を表すこれほど的確な言葉はない。ゴゴはそう思った。 ゴゴにとっての幸運はライダーの王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)が発動した時にその場に居合わせた事だ。 聖杯戦争において敗北したサーヴァントがどのようにして聖杯にとりこまれるか。それを間近で見れた事こそが、聖杯問答を閲覧した立場で得られた最も大きな収穫であろう。 アサシンは宝具によって分裂した群体であり、全てを統合し始めてアサシンのサーヴァントとなる。つまり全てのアサシンが消えない限りアサシンは残り続けるのだが、分割されていてもその身が聖杯戦争にアサシンのクラスで召喚されたサーヴァントである事には違いない。 そして円蔵山中腹に立つ柳洞寺の地下大空洞に設置されている大聖杯の術式とは異なる、聖杯戦争の賞品としての聖杯―――便宜上『聖杯の器』または『小聖杯』とでも呼ぶべきそれはライダーの固有結界の中に取り込まれたアイリスフィールの体内に存在する。 さすがにアイリスフィールの肉体によって阻まれている『聖杯の器』までを読み取るのは不可能で、まだ所在の確認しか出来ていないが、アサシンの魂が吸い込まれていく様子はしっかり観察できた。 人の目、あるいは魔術師の目でも感知できないであろう特殊な波長。魔力解析に特化した魔眼でもあれば見破れたかもしれないが、あの場にいる事情を知る者知らない者全員集めても、見たのはゴゴ以外にはいない。あるいは聖杯を体内にもつアイリスフィールと同じ陣営のセイバーは敗退したサーヴァントの辿り着く先を知っているかもしれないが、アサシンの魂が喰われていく瞬間を見たとは思えない。 現在ゴゴが持っている物真似の成果で、残る『聖杯の器』さえ揃えば聖杯戦争における全ての魔術的要素が揃う。そうなれば、サーヴァント健在でも聖杯を顕現させられるだろう。 ゴゴは英霊の魂が喰われていく過程をしっかりと見極め、それを物真似して再現する確信をほぼ得た。『聖杯の器』に注がれる魔力は自前で充分。ただ注ぐべき器が今はまだ足りていないだけだ。 全てが揃えば、二百年前に始まりの御三家が実現しようとして叶わなかった『聖杯生成』をゴゴ一人の力で行えるようになる。 これまでにも少ないながらアサシンを何人か殺してきたが、彼らは分割された個であり、本来のアサシン一人分が持つサーヴァントとしての存在感が少なすぎたが故に聖杯に取り込まれる状況を見極めきれなかった。魂を吸収するアイリスフィールが間近にいなかったのも原因の一つだ。 言峰綺礼と遠坂時臣は多くのアサシンを投入してあの場で決着をつけるつもりだったのかもしれないが、それはゴゴに新たな力を与える結果をも生み出した。あちらは気づいていないだろうが、言峰綺礼達はライダーの宝具の正体を知りながら、同時に大きな誤算も生み出している。 ゴゴは喜びを抑えきれず、心の中だけでくすくすと笑う。 そんなゴゴの心象とは裏腹に、一旦冬木市郊外で飛空艇ブラックジャック号を降りたティナは桜ちゃんを背負いミシディアうさぎを引き連れて間桐邸を目指している。ティナの健脚ならばずっと歩いても問題ないが、寒空の下で桜ちゃんの風邪を考えると途中でタクシーを拾うのもいいかもしれない。 使い魔のゼロを含めてうさぎが十匹乗れるタクシーがあるのかは疑問だが。夜間料金の三倍も払えば運転者も文句は言わないだろう。間桐邸にはアインツベルンの城から帰還するエドガーも戻る予定なので、そうなれば守りは更に強化される。 ストラゴスはランサーとの戦いを終えた後に冬木市をぶらぶらとしているが、そもそもランサーへの監視の目が少なかったのが幸いだったようで、追手や監視の目を感じられず、何事もなく孫のリルムと合流すべく歩き続けている。 この調子なら一時間と立たずに祖父と孫は合流できるだろう。 監視の目に晒されているゴゴ、気付かれていないゴゴ、そもそも間桐の協力者とすら思われていないゴゴ。中にはアサシンが常に張り付いているゴゴもいたが、諜報戦力として魔術師や使い魔よりも優秀なアサシンだ。貴重な人材はもう一人たりとも失いたくないようで、たくさんの場所で堂々とその身を曝け出しながらも、攻撃してくるアサシンは一人もいない。 これならば余程の事態が起こらない限りは問題にはならない。そう、『余程の事態』でも起こらなければ―――。 何事もなかった。 平穏である事が悪い訳ではないが、ものまね士としては『物真似が無かった』と平穏は同義なのであまり喜ばしい事態ではない。 もちろん、複数に分裂した全てのゴゴが同時に物真似の材料を得られなかった訳ではないが、聖杯問答でのライダーの宝具、ランサーへの襲撃で得た多くの情報、冬木教会への強襲などに比べれば、圧倒的に得たモノが少ない時間だったのは紛れもない事実。 つまりそれだけ時間を無駄にしてしまった。 結果だけで考えるならば、桜ちゃんを連れたゴゴ、もといティナ・ブランフォードは何の問題もなく桜ちゃんを間桐邸まで運び、ミシディアうさぎ達と一緒に帰還した。 冬木市の中で飛空艇ブラックジャック号を探している者達は郊外で残滓すらなく消え去った幻を追い続けているだろう。 眠る桜ちゃんと同じように、雁夜もまたアサシンとの戦いの傷を癒して休息させている。 ゴゴを除いた二人の安全確保は行われ、桜ちゃんにはティナが、そして雁夜にはロックとセリスが常時張り付いている。 万が一、いや億が一にもありえない事だが。もし間桐邸への襲撃があって、邸内への侵入を許した場合、雁夜と桜ちゃんを守る盾はすぐそばにいる。 仮に侵入できたとしても。桜ちゃんと雁夜を護衛しているゴゴとは別に、戦力としてのゴゴがここには何人もいる。直接、雁夜と桜ちゃんの部屋に突入すれば話は別だが、階下から二階へと登ろうとすれば強力な門番に阻まれて先には進めない。 間桐邸ごと破壊する様な兵器で攻撃されたとしても、間桐邸の周囲に張り巡らされた結界がそれを感知して対処するまでのほんの一瞬があれば二人を守る行動を起こせる。 万全だ。 極端な話。一つの世界を救った者たちの守りを突破するならば、世界を滅ぼせるだけの力を持って対峙しなければならない。とりあえずマスターの中でそれだけの力を有している者はいない。 今のところライダーの王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)がこれに該当しそうだが、あの英霊が闇討ちする姿はどうしても想像できない。あるとすれば、真昼間で、しかも堂々と正面突破だろう。 ゴゴは桜ちゃんが眠るベッドの横にある椅子に腰かけ、ティナの視線から桜ちゃんを見る。そしてかつての世界ではゴゴがどうしても物真似出来なかったティナの特殊技能『トランス』が今は物真似できるのかと考えた。 『トランス』、それは人間と幻獣の混血であるティナだけが使える技で、一定時間ティナが幻獣化する事で使う魔法の威力を格段に跳ね上げられる『変身』だ。 ものまね士ゴゴは幻獣の元と言ってもいいが、その形はものまね士に固定されている。だが今のゴゴにはバーサーカーの宝具によってティナの物真似を可能にしており、姿形の変化もほぼ自由自在に行える状態だ。ならばティナとして『トランス』を使うのは不可能ではないと考える。 懸念があるとすれば、それはティナの目の前で眠る桜ちゃんだ。 今の桜ちゃんはティナの事をゴゴと同一の存在だと自覚した上で、別物である『ティナお姉さん』として扱っている。 見た目の変化でゴゴとティナを別人と見ているようだが、『トランス』はそれを根底から突き崩す諸刃の剣でもある。 かつてゴゴが旅した世界。ケフカが引き起こし、世界が引き裂かれたあの日。ゴゴはまだ三角島の地下で眠っていたが―――。あの時、モブリズの村では多くの人が死に、大人も死んで、残ったのは最年長16歳のディーンとカタリーナ、そして年端も行かぬ子供たちばかりだった。 仲間たちとはぐれたティナはそこでママと呼ばれ、慕われていた。 ティナは誰かを愛する心の発露をそこで知り、戦う意思を取り戻すためにモブリズの村を襲うフンババというモンスターと戦ったのだが、そこでティナは『トランス』を使い変身した。 いや、魔法の効力を格段に跳ね上げる『トランス』を使わなければフンババには敵わなかったので、使うしかなかったと言うべきか。 この世界ではバビロニア神話の『ギルガメシュ叙事詩』に登場する怪物として描かれているフンババ。その怪物を倒す為にティナは『トランス』を使い、そして勝利した。 だがその代償として、ティナは慕われていた子供達からある言葉を投げかけられてしまう。 子供達は言った。 ティナを見ながら、怪物、と。 ティナが幻獣化によって大きくその姿を変貌させ。四肢をもった人の形を作りながらも、紫色の燐光で全身を輝かせ、目は黄色と黒に変貌した。 一糸纏わぬその姿は見知らぬ者にとってはまさしく怪物であり、初見であろう子供達がそう思うのは無理もない。子供の中の一人がその姿でもティナをティナだと考えなければ、きっとモブリズの村にいた全員が、目の前にいる怪物と自分達の慕うティナとを繋げなかったに違いない。 桜ちゃんが幻獣化したティナをモブリズの村の子供達と同じように怪物と思い、ティナへの敬愛が絶望へと転化してしまっては『救う』どころではなくなる。 ティナの目で桜ちゃんを見ながら、ティナはまた怪物と言われる恐れを心の中に宿してちくりと胸を痛めた。 モブリズの村では皆が判ってくれた。けれど、桜ちゃんもそうとは限らない。 恐れを抱きつつ桜ちゃんの寝顔を見ると、桜ちゃんの回りをいつものようにミシディアうさぎが囲んでおり、天然羽毛の暖房に暖められた様子も一緒に見えた。 ミシディアうさぎは魔力で作り出された疑似的な生物であるが故に、本来の生物が持つ『獣臭さ』とでも言うべき匂いがない。 快適かつ安全。しかも術者であるゴゴと、使い魔となったゼロの主人である桜ちゃんの魔力供給が続く限り存在は維持され続ける。半永久的に生き続けるので、寿命による離別の心配はない。 この世界には悲しい事や辛い事がたくさんある。そして楽しい事や嬉しい事もたくさんある。大事なのはそれを知る事だ。 桜ちゃんは色々と学ばなければならない。 ティナは自らの『トランス』が見た目を異形に変える術だと理解しながら、むしろ魔導の中にはこういう存在もいるのだと判らせる為に『トランス』を使う選択肢もある、と思い直す。 モブリズの村ではいきなり怪物が目の前に現れたので子供達を怯えさせてしまったが、桜ちゃんの場合は予め言葉で説明してから変身できる余裕がある。 桜ちゃんに『トランス』を知らせずに過ごす選択もあるが、桜ちゃんを想い成長を望むならば、むしろ教えるべきだ。魔術に関わればこんな事もあるのだと話すべきだ。 もっともこの恐怖はティナの姿をしているゴゴが『トランス』を使えなければ何の意味もない仮定に成り下がるが。 とにかく間桐邸に戻ったゴゴにより、屋敷の中で桜ちゃんと雁夜には冬木市の中で最強と言っても過言ではない守りがついた。 「ん・・・」 眠りが浅くなったのか、暖を求めたのか。ティナの意識が別のゴゴに移ろうとした時、桜ちゃんが寝返りを打つのが見えた。 それを見ていたティナは微笑んでいる自分を想う。ゴゴだと自覚しながら、ティナとして微笑んだ。 その笑みは冬木教会でケフカ・パラッツォとして好き放題した後の爽快感とは違った。 サーヴァントが聖杯に呑み込まれる様子を知れた時のゴゴの喜びとも違った。 ライダーの宝具を見れた時の歓喜とも違っていた。 母性を感じさせる柔和な笑み。そんな柔らかい笑顔でティナは桜ちゃんを眺めていた。 「起きてからは大変なんだから、今はゆっくりお休み・・・桜ちゃん」 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 言峰綺礼 夜が明け、日の光が冬木市を照らす中。私は少し前に行ったアーチャーとの会話を思い返した。 「聖杯とやらの格はいまだに見えぬが――たとえガラクタであったとしても良しとしよう。我(オレ)はそれ以外の愉しみを見出した」 「我(オレ)はな、傲慢なる生を好む。器の卑小さをわきまえず大望を懐く者。そういう奴は見ているだけで我(オレ)を愉しませる」 「我(オレ)に言わせれば、そもそもその時臣の仮説こそが疑わしい。あの男が、そこまで聖杯に肩入れされるほどの器とは思えぬからな」 冬木教会の半壊―――英霊とそれに匹敵する魔術師との戦いで全壊しなかったのが奇跡とも思えるが、その無残な有様を修復する為に聖堂教会のスタッフが駆けつけ、私の行っていた後片付けを引き継いだ。 彼らは私がアサシンのマスターであるとは知らされていない。だが、私が何らかの形で聖杯戦争に関わっており、監督役である言峰璃正神父の息子である事は知っている。 故に多くは問われず、異常とも言うべき冬木教会の惨状の原因については追及してこなかった。あるいは父は冬木市に潜り込ませた聖堂教会のスタッフを単なる労働力として考え、余計な詮索をしない口の堅い者に限定したのかもしれない。 彼らは冬木教会の損壊を『表の世界でも起こり得る事件』としてもみ消す為に細工をしていくだろう。 私は父の看病を行い、治癒魔術によって容体が安定して後は覚醒を待つまで父を回復させた。その時だ、私が私室でくつろぐアーチャーと対話する機会を得てしまったのは。 アサシンの生存が露見し、マスターとして冬木教会に保護された私がアサシン以外のサーヴァントと話すなど危険しかない。中立の不可侵領域として設定された冬木教会を襲撃した前例が作られたのだから、別のサーヴァントが襲撃を仕掛け、私と時臣師の結託を見破り暴露する可能性は大いにあり得る。 それでも私がアーチャーと話したのは、行きがかり上とは言え、各マスターの聖杯探究の動機を知ろうとするアーチャーへの回答を行わなければならないと思ったからに他ならない。 例えそれが英雄王ギルガメッシュの娯楽だとしても、私はそれを成すと確約した。 そして残るアサシンの中にはマスター自身の声と姿を見聞きした者もいるので、私はアサシンの一体を呼び寄せてアーチャーへ伝えようとした。 隠密に特化させておけば、英霊でもない限り見破られる危険は無い。そう判断しサーヴァントを呼び寄せようとしたところで、アーチャーは言った。 「あんな影ごときの言葉などに興味はない。綺礼、これはお前の口を介して語られなければ意味のない報告だ」 直に情報収集を行ったアサシンではなく、『言峰綺礼』というファクターを通り抜けた情報を求めるアーチャーの真意が私には判らない。 得られた情報の多くは聖杯戦争に特化しており、間桐に協力しているあの組織についてはまだ疑問が多く残る。 報告とは起こった事象を客観的かつ正確に述べるものであり、中途半端な報告では私の主観が雑じってしまうので由としない。そして不足している情報があるのはどうしても否めない。 それでも私はアーチャーとの約束を果たす為。アサシンが手にいれた情報を頭の中でくみ上げ、その一つ一つをマスターが聖杯を求める理由にのみに絞って言葉とした。 ランサーのマスター、ケイネス・エルメロイ・アーチボルト。ライダーのマスター、ウェイバー・ベルベット。この両名は聖杯そのものを求めているのではなく、魔術師としての栄誉の為に聖杯を求めているだけだ。 あるいは言葉にしきれぬ聖杯に託す願いが彼らにはあるかもしれないが、戦いの理由についてそれ以上の情報は無い。 キャスターのマスター。雨生龍之介はそもそも自分の身に降りかかっている状況が聖杯戦争と呼ばれる闘争だという自覚が無い。 よってキャスターから願望機の存在を聞き及んでいるようだが、単なる情報の一つとして処理するだけだ。雨生龍之介には願いが存在しない。 バーサーカーのマスター、間桐雁夜については間桐の守りが堅牢な事もあり、得られた情報は他のマスターに比べて少ない。しかし、彼が間桐に戻り、聖杯の力で遠坂の次女を救い出そうとしているのは理解できた。 本来であれば当主を継ぐのは間桐雁夜の役目だったが、その歪な魔術故に間桐の魔術そのものを毛嫌いした間桐雁夜が十年前に家を出る。その結果、遠坂と間桐との盟約により遠坂の次女は間桐へとやられた。 間桐雁夜と真の当主である間桐臓硯との間には、聖杯と遠坂の次女を交換する取引が合ったようだ。 そして時臣師の妻である遠坂葵とも過去に何らかの因縁があるようで、魔術師らしからぬ『贖罪』という凡庸な理由こそが間桐雁夜が聖杯戦争にマスターとして参加する理由である。 だが間桐臓硯に成り代わる者が存在する事実が私を混乱させる。間桐雁夜の望みはあの者から遠坂の次女を解放する為に戦っているのか、あるいは間桐臓硯が残した何らかの遺物あるいは妄執を体現する何かに囚われているので戦っているのか。まだ情報の少なさゆえに結論は出せない。 とにかく、理由が無いのはキャスターのマスターと大差は無く、彼が聖杯に託す願いもまた存在しない。脅威として見れば間桐は恐ろしい集団となったが、理由として見れば間桐雁夜のそれはあまりにも凡俗だ。 セイバーのマスター。衛宮切嗣について、私はアインツベルンの悲願、つまりは聖杯の降臨を成し遂げる、達成そのものが理由だと偽りの話しを作り出した。 あの男がセイバーのマスターだと確信を抱きながら、私は今に至るまでその姿を捉える事すら出て来ていない。機会は幾度かあったが、その都度、衛宮切嗣は私を含めたアサシンの監視からすり抜けて行方をくらましている。 遠坂邸でのアサシン敗退を最初から狂言と見抜いていたとしたら、その洞察力は敵ながら称賛に値する。 今となってはアサシンの監視対象が間桐に協力している組織に移ってしまったので、他の陣営の監視は最低限になってしまった。今に至るまで衛宮切嗣発見の報は届いていないので、これからは絶望的であろう。 アサシンを全て動員すれば捕捉できるかもしれないが、それは時臣師との盟約に背く事になる。 衛宮切嗣を追いかけるのは私が対談を望むが故であり、聖杯戦争とは何ら関係が無い。アーチャーに語り聞かせて興味をもたれれば厄介だ。部外者に踏み込ませるつもりは全くないからこそ虚言が必要になる。 こうして全てのマスターに対する理由をアーチャーへと語り聞かせた。 「所詮は雑種、期待はずれもいいところだな。どいつもこいつも凡俗なばかりで何の面白味もない」 そしてアーチャーの口から出て来た勝手気ままな言いように、私は少なからず苛立ちを感じた。何の意味もない事柄だとばっさり切り捨てたアーチャーに対し、私は苛立ちをそのまま言葉とする。 するとアーチャーは十分な成果があったと前言を撤回した。 何を言っているのか判らない私に向け、アーチャーが続けて言う。 「自覚がなくとも、魂というものは本能的に愉悦を追い求める。故に綺礼。お前が見聞きし、理解した事柄の中でもっとも多くの言葉を尽くして語った部分こそが、お前の興味を惹きつけた出来事に他ならぬ」 アーチャーが何かしらの意図をもって私にマスターが聖杯を求める理由を調べさせている事を察していた。しかしそれがまさか私自身だったとは考えもしなかった。 あるいは他のマスターが聖杯を求める理由を知り戦いを有利に進める為かとも思ったが、アーチャーの思惑は私の想像を超えていた。 自らの心を解体される恐ろしさが私の中と通り抜け、即座にこの話を切り上げたい衝動にかられる。だがアーチャーはそんな私の動揺を汲み取ったかのように満足げに笑う。 「バーサーカーのマスター。たしかカリヤとか言ったな。お前はこの男については随分と子細に報告してくれたではないか」 間桐は今回の聖杯戦争において最大の問題点であり、調査に費やす手はどれだけあっても足りない。間桐雁夜の情報もまたそれに付随する要素であり、調べる事柄であるのは明白だ。 何ら臆す事無くそう言った私に対し、アーチャーは淡々と返す。 「違うな。お前はこの男についてのみ、無自覚な興味を発揮し、入り組んだ事情が見える調査をアサシンに強要してしまったのだ。綺礼、お前の言い分では調べるべきはバーサーカーとそのマスターではなく、その周囲となる。どうしてお前はこの男についてこれほどの調査を続けたのだ? 贖罪などと凡俗な理由を知れた時、理由を知る必要はなくなったのではないか?」 アーチャーの言葉を聞き、私は内省し、判断のミスを即座に認めた。 間桐に協力している組織が聖杯戦争においてのみの協力体制を敷いているとすれば、間桐雁夜の敗退―――間桐が戦う意味を無くす事こそが必要だと感じ、調査を行わせたが、アーチャーの言うとおり調べるべきは間桐雁夜の周囲であって戦う理由ではない。 バーサーカーが有する能力、宝具の簒奪は恐るべき力で、現段階ライダーの宝具同様にアーチャーに匹敵しうる敵だ。 しかし、間桐雁夜だけに焦点を絞るならば、魔術師として半人前以下のあの男の脅威は少ない。仮にバーサーカーを制御できたとしても、狂化したサーヴァントの魔力消耗は他のどのサーヴァントよりも多く、間桐雁夜では長時間の戦いは不可能。 郊外の森の中でキャスターと戦い善戦したが、結局は魔力切れによって勝利を逃した。 間桐雁夜はわざわざアサシンを使ってまで調べる敵ではなかった。 間桐に与する者達の力があまりにも多いが故に私は自分の目を曇らせてしまった。間桐雁夜の過大評価がアーチャーに余計な詮索をさせてしまったのも、私のミスだ。 「お前は間桐を脅威と考えているようだが、仮にその脅威でもってバーサーカーとそのマスターが聖杯戦争に勝利したとする。そのとき何が起こるか、お前は想像出来るか?」 その言葉を聞いた瞬間、私が真っ先に思い浮かべたのは間桐と遠坂との対決であった。 間桐雁夜自身がそれを成すのか、あるいは他の誰かが成すかは問題ではなく。確実にアーチャーを有する時臣師と間桐は衝突する。 規格外の宝具を有するライダーも戦いに関わる可能性はあるが、間桐も遠坂も紛れもなく『強者』であり、聖杯戦争が戦いであるのならば衝突は必然だ。 結果、間桐が勝てば時臣師は死ぬ。そして遠坂の次女は解放されるのだが、そこに待ち構えているのは父親を殺した男の称号のみ。間桐雁夜がそれを成す可能性は大いにある。 間桐雁夜は負ければ死ぬ、勝利しても時臣師の妻である遠坂葵と遠坂の次女、そして今では遠坂の魔術の後継者となったあの遠坂凛からも恨まれる。 もし間桐雁夜がそれを覚悟の上で聖杯戦争に挑んでいるとしたら、殉教者と何ら変わりない。覚悟せずに挑んでいるとしたら、間桐雁夜はどうしようもない愚か者だ。 どちらにせよ間桐雁夜に救いは無い。私がそう考えた時、今まで以上に満足げに笑うアーチャーは言った。 「なあ綺礼よ。もういい加減に気付いてもいいのではないか? この問いの本質的な意味に」 アーチャーが何を言っているのか。いや、私に何を言わせようとしているのか。その意図が判らず、私は問うた。『間桐雁夜の勝利を空想して、何の意味がある?』と。 そしてアーチャーは意味などないと言い放ったのだ。 「この我(オレ)がいるのだ、仮定の決着を考えても何の意味は無い。だが、お前がそれを考える行為そのものには意味がある。お前は平時の無駄のない思考を放棄し、延々と益体の無いのない妄想に耽っていた。判るか? 無意味さの忘却――。苦にならぬ徒労――。即ち、紛れもなく『遊興』だ。これこそがお前の興味を何より惹きつけた。祝えよ綺礼、お前はついに『娯楽』の何たるかを理解したのだぞ」 それこそが『娯楽』そして『愉悦』。言峰綺礼が欲するモノ。 虚ろ気に呟く私に向け、アーチャーは『然り!』と断言した。 私は否定した。アーチャーの言葉を否定した。 間桐雁夜の命運には人の『悦』たる要素など皆無だ、と。 私が欲する『愉悦』などそこには無い、と。 間桐雁夜が遠坂の次女を解放しようとするなら、痛みと嘆きを積み重ねる責め苦しか待ち構えていない。いっそ早々に命を落とした方が救われる、と。 私は否定した。 強く否定した。 「綺礼よ――。なぜそう『悦』を狭義に捉える? 痛みと嘆きを『悦』とすることは何の矛盾もなく、愉悦の在り方に定型などない。それが解せぬから迷うのだ、お前は」 「それは許されることではない!」 私はアーチャーにそう言った。 叫んだ。 そしてこうも言った。 「英雄王、貴様のような人ならざる魔性なら、他者の辛苦を蜜の味とするのも頷ける。だが、それは罪人の魂だ。罰せられるべき悪徳だ。わけても、この言峰綺礼が生きる信仰の道に於いてはな」 「故に『悦』そのものを罪と断じてきたか? 求め続けながら目を逸らし生きて来たか。よくそこまで屈折できたな。つくづく面白い男だよ、お前は」 続けて発せられた言葉が区切られる。私は激昂のあまり反論するつもりだったが、二つ隣の部屋に寝かせてある父が体を起こすのを感じ取った。 それは私とアーチャーの会話に紛れて消えてしまいそうな僅かな音。聖堂教会のスタッフは教会の後片付けはしていても、奥にまでは入り込まないので動く気配があればそれは父以外にはいない。 けれど、会話が途切れてしまったが故に私の耳はその音を捉えた。 これ以上アーチャーの言葉を聞くのは危険だ。そして私は父の様子を診なければならない。 私は急いで部屋を出ていこうと扉へ向かった。 「それが真に万能の願望機であるならば――。綺礼よ、聖杯はお前自身にすら理解の及ばぬ、心の奥底の願望を、そのままに形を与えて示すことだろう。聖杯をして祈れ。しかる後にアレのもたらしたモノを見届けて、それを自らの幸福の形と知ればよい」 思うに、背後から投げかけられた言葉を聞きながら、そこで足を止めてしまったのが私の最大の失敗だった。 話を途中で切り上げようとする私に対し、あの傲岸不遜が皮を被っているようなアーチャーが罰を下さなかった時点でおかしいと思うべきだった。 自分以外の全てを雑種と蔑むアーチャーだったならば、父が目覚めたからと言って話を切り上げさせるのを許す筈がない。つまり、あの段階でアーチャーの話しはもうほとんどが終わっていた。投げかけられた言葉は単なる余興でしかなかったのだ。 最早、アーチャーが私に言うべき言葉は全て言い終えられ、私は全てを聞いてしまっていた。 私はその声を聞いて振り返ってしまう。聞くべきではないと心が叫んでいながら、全ての話を聞き終えてしまったが故に聞いてしまった。 そこで私はアーチャーの目を見る。 まるで私すら知らぬ私自身の本質を全て見極める様な目―――。その目が、それこそが正道なのだと語っていた。 その目が私に問うていた。いや、問うているのは私自身だ。 アーチャーが冬木教会に現れるより前。間桐臓硯に成り代わっていた何者かの声を聴いた時から、その思いは私の中に合った。 奴は言った、『似ている』と、あの破壊を口にした男が私を見て『似ている』と、そう言ったのだ。 あの言葉を切っ掛けとして、今に至るまで私が考えないようにしていた多くの想いが溢れて止まらない。表面上は平静を装えたつもりは合ったが、それすらもアーチャーには見抜かれていたのかもしれない。 私が必死で押し隠そうとしていた根幹が―――罰せられるべき悪徳が土の下から息吹をあげる新芽のように成長していく。 「求めるところを為すがいい。それこそが娯楽の本道だ。綺礼、お前の求める道は示されているぞ。もはや惑うまでもないほど明確に、な」 私はアーチャーの最後に告げた言葉を脳裏に思い出し、考えないように自らを諌めても決して拭えぬ思いが根を張っている事に気が付く。 父の看病に向かっている筈の男が全く別の事を考えているのだ、何と滑稽な話だろう。 言峰綺礼が求める目的意識とは―――理想とは―――探求とは―――願望とは―――快楽とは―――、何なのか。 ほんの少しだけ手を伸ばせばそこに手が届く、そこに触れるだけで『ああ、そうだったのか』と自分が何者であるかを知る為の大きな納得を得られると判ってしまう。 しかし、そこに触れて知ってしまえば、これまで言峰綺礼が作り上げてきた人生全てが瓦解してしまう予感もあった。 私は何も言えずにいた。 私は誰にも何も言えず―――ただ考え続けながら、教会を後にした。 父の容体が安定し、監督役としての責務を全う出来るようになったので、冬木教会に長居するのは危険だと理由が合った。アーチャーとの会話をこれ以上続ける危険も重々承知していた。けれど、それだけが私を教会の外へと導いた理由の全てではない。 何か父と話した気はしたが、その内容が何であったのかを思い出せない。取りとめのない会話をした気もするし、これからは今まで通りに援助を行えないと、父から自責の念を聞かされた気もする。 アサシンのマスターとして、今後とも影ながら時臣師の補佐を行うと私から父へ言った気もした。 覚えていない理由は明白だ。 私がそれ以外の事を常に考え続けていたからに他ならない。 私は心の中に巣食った思いを考え続けていた。外界からの事象にほとんど反応を示さず、ただただ考え続けていた。 もしこの状態で敵に見つかれば、反撃も出来ずに殺されてもおかしくない。そう気付いたのは冬木教会を離れてから二十分ほど後の事。それまで私はただひたすらに考えていた。 言峰綺礼が欲する愉悦を―――、これまでにない切っ掛けと共に―――、ずっと、ずっと考えていた。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - アイリスフィール・フォン・アインツベルン 「セイバー、運転の感想はどう? 私の楽しさが判ってくれたかしら」 出来るだけ場の状況を和ませようとしたつもりの一言だったが運転席でメルセデス・ベンツ300SLを操縦するセイバーの表情は晴れない。 倉庫街の戦いを終えて、アインツベルンの城へと拠点を移す時。私はこの車の運転を楽しんで行っていた。けれどその時はまだ余裕があったからこそ楽しめた。 「・・・実に素晴らしい乗り物です。これが私の時代にもあったらと、そう思わずにはいられません」 少しだけ間を置いてから返すセイバーの格好は、騎士ではなく男装の麗人としての黒スーツ姿だ。助手席から話しかけて、車中では誰よりも近くに並ぶ二人なのに、その心は大きく引き離されている。 そうじゃない。 他の誰でもない、私自身がセイバーの行動に疑念を抱いてしまっていて、それがセイバーにも判ってしまうのだろう。 今の私じゃ運転に不安があるからセイバーに頼んだのけれど、ちょっと失敗だったかな。 もちろん車中の重い雰囲気を作る理由はそれだけが全てじゃない。アインツベルンの森と城、結界であり拠点でもあったあの場所がライダーによって破壊され、所在を知られた後では留まるのは危険。 だからアインツベルンの森以外の拠点に移動する為に私たちは急いで切嗣に連絡を取った。数分後に折り返してきた電話で新しい拠点を指示されて、迎えに行くまでは城に留まってくれとも言われた。 新しい拠点に移動する為の準備として城に留まった数時間。最強の守りのセイバーが側に居てくれたけど、それでも私の感じた数時間は緊張の連続だ。 結局は敵の襲撃なんてなかったのだけれど、何もなかったから息苦しさだけが膨れ上がった。そして、その間に私は色々な事を考えてしまった。 新しい拠点へと誘導する為にライトバンが先を行く。けれどその中には舞弥さんだけではなく切嗣の姿もある。 キャスターの襲撃から冬木の町へと斥候していた二人。セイバーと出来るだけ接点を持とうとしない切嗣だから、てっきり新しい拠点への移動は舞弥さんだけがするのかと思ったのだけれど、切嗣にも何らかの問題が発生して、使っていた拠点を離れなければならなくなったそうだ。 詳しくは訊いていないから、何が起こったのかは判らない。ただ切嗣はこう言った。 「まだ、敵には君がセイバーのマスターじゃないとばれてない」 互いの車に乗り込む前に短く告げられたその言葉。でも、私はその中に小さな嘘が混じっていたのを感じた。 アインツベルンに雇われる前。つまり私の夫になる以前の切嗣の仮面が剥がれ、ほんの少しだけ城で過ごした切嗣の顔が見えた気がした。 私はずっと切嗣の妻として生きてきた、だから夫が隠している―――もしかしたら切嗣も確証が無くてどう言えばいいのか判らない『何か』があるのを敏感に感じ取った。 もし敵に私がセイバーのマスターとして偽っている事が知られてしまったら、切嗣ははっきりとそう言う筈。私たちが優位に行える可能性が損なわれたとしたら、それに淡い期待があったとしても、今の切嗣は切り捨てる。 きっとあのライトバンの中では私とセイバーがそうであるように、切嗣と舞弥さんが言葉を交わしている筈。切嗣はその『何か』を私ではなく、舞弥さんに話しているだろう。 切嗣が聖杯を得る最後のマスターになる為には舞弥さんの力が必要だ。頭ではそう理解しているのに、正直に言えば、あの二人が行動を共にしている光景に強く嫉妬してる。 どうして私は切嗣の隣に並んでいないの? 私は先を行くライトバンを見ながらつい考えてしまう。 「・・・そ、それにしても、サーヴァントのスキルって凄いのね。初めて触る車なのに、あなたの操縦って完壁よ」 「私も、いささか奇妙な感覚ではありますが――まるで遠い昔に腕に覚え込ませた技術を振るっているような感じです」 今度の返答に間は無かったけど、やっぱりいつものセイバーに比べると少し硬い感じがする。 私がセイバーに抱いている思いが―――。彼女は本当に私たちの為に聖杯を得て、世界を救済する為に使ってくれるのか―――。その疑念が伝わってしまったのだろう。 そしてセイバーは切嗣がすぐ前にいながらも、今度もまた話を出来なかった状況に怒りを覚えてる。 聖杯問答が始まる前、私たちは切嗣が敵を追い払う為の代償として城が半壊するんじゃないかと思える惨状は見た。あの『切嗣の攻防の結果』が街中で起こったら、その被害に合ったのが一人や二人とは思えない。 魔術師とサーヴァントを倒す為。冬木ハイアットホテルを倒壊させた時の様に、切嗣が逃げる為に他の何人も、何十人も、何百人もの人達を犠牲にしていても不思議はない。 切嗣に『何か』が合ったけど、切嗣は無事だった。その事を私は単純に嬉しく思う、でもその代償として犠牲にした人達がいないなんて、私には思えない。 だって切嗣はもうたくさんの人達を犠牲にして結果を得るやり方を私たちに見せたのだから。 でも切嗣に尋ねるのが怖くて、本当に起こった事をまだ確かめてない。 ねえ切嗣。あなたに何が合ったの? あなたは何をしたの? あなたは舞弥さんと何を話しているの? 私たちがやろうとしている事は、本当に正しい行いなの? 「・・・・・・」 「アイリスフィール? どうかしましたか?」 「あ、何でもないの。ちょっと考え事をしてね」 話をする雰囲気ではなかったけれど、突然黙り込んだ様にも見える私に向けてセイバーが言った。 相変わらず車中の空気は重い。少しでも場を解そうと、私は別の事を言ってみる。 「ねえ、セイバー」 「はい」 「思ったんだけど。最新型の戦車か爆撃機にあなたを乗せたら、それで聖杯戦争は一気に片付いちゃうんじゃない?」 出来るだけ軽く言ってみたけれど、心の中にある想いは全く消えずに残り続けた。 騎士への疑心。 妻としての嫉妬。 正しさそのものへの疑問。 一言も口にしなかったけど、おそらく大部分はセイバーに筒抜けだと思う。騎士王として、多くの人間を見て来たセイバーが自分の心を覆い隠す術など全く知らない私の胸中を測るなんて簡単に出来るに違いない。 でもセイバーは騎士としてそれを確かめない。私が口にするのを待っている。でも、それを口にしない私が悪循環を作り出して、空気は悪くなる一方だった。 「面白い発想ではありますが、断じて言えます。いつの時代にも、私の剣に勝る兵器などない、と」 「そう――」 ようやく表情を緩め、いっそ誇らしげに堂々と言うセイバーには頼もしさを感じる。 セイバーの強さを、そしてサーヴァントの戦いを間近で見たから、私はセイバーの不敵な言い分に異論を唱えない。事実そうだと思う。 けれど、心のどこかで『それは嘘よセイバー』と彼女の言葉を否定してる私もいた。 私は切嗣を介してアインツベルン以外の情報を手にいれて来たけれど、体験そのものはこの冬木市に来てからが全て。たくさんの事は話しには聞いているけど実物は見た事は無い。 それでも、切嗣の願いを聞いた私が『聖杯の力によって世界を救済したい――』。そう決断させたのは、ある兵器に関する話を彼から聞いたからだ。 原子爆弾。 水素爆弾。 中性子爆弾。 核兵器と呼ばれる、一発で都市を壊滅させられる武器。 この冬木がある日本と呼ばれる国で、かつて二発の原子爆弾がその威力を発揮した。 世界に散らばる核兵器の中のほんの一部。けれど、たったその一部だけで町が消え、人が大勢死に、数十年経った今も消えない傷痕として核の脅威は人々の心に刻まれている。 核に汚染されて人が住めなくなる土地があると聞いた。 放射線被爆でかかる、完治できない重い病気もあると聞いた。 核兵器とは人の執念が生み出した、世界を何回も何十回も壊せてしまう恐ろしい武器だ。 全部切嗣から聞いた話だけれど、これは魔術とは何の関わりの無い表の世界で本当に合った出来事。 世界を救わなければ―――。人は自らの手で世界を、この星を破壊してしまう。 私はそう思った。 だから、切嗣が教えてくれた世界の救済を共に目指そうと心に誓った。 セイバー、あなたの剣はこの星に生きるすべての人達を斬り殺せる? セイバー、あなたはこの世界を壊せる? 私は咄嗟にその言葉を呑み込んだ。もし言ってしまえば、私がセイバーの剣に勝る兵器の存在すらも口にして、騎士王の無力さを言葉にしてしまいそうだったから。 兵器の事を考えないようにして、私は切嗣の事を思い直す。そうしないと、セイバーに向けて兵器の強弱を口にしてしまいそうだ。 その代わり、また切嗣と舞弥さんの組み合わせを考えて、妻として二人を嫉妬する自分を思い出してしまう。 結局、車中の重苦しい雰囲気はずっと消えなかった。 聖杯戦争に関わるマスター達の中で、私だけに判る感覚がある。それは私の体内に封印した聖杯の脈動―――聖杯の器である私だけが感じられるサーヴァント消失の度合いだ。 私の中にある聖杯は召喚されたサーヴァントが消滅すると、『英霊の座』と呼ばれる領域に戻る前にその魂を喰らって真の聖杯を作り出す為の糧とする。 サーヴァントが消えれば消える程、つまり聖杯がその役目を果たす為に力を付けていけば行くほどに、私は人としての機能を失っていく。 だから私には判る。まだアサシンは顕在だ、って。 アインツベルンの城に現れたアサシンは大勢いたけれど、あれだけが全てじゃない。まだ『サーヴァント一体分』の魔力が聖杯に喰われていないと私には感じられる。 教会に保護されたアサシンのマスターだった言峰綺礼はマスターの資格を失ってはない。もしアサシンの能力が分身だったとしたら、数体を残して予備戦力として、残りをこちらに差し向けた。 ライダーの宝具によって大勢のアサシンが殺されたけれど、まだ言峰綺礼の手元にはサーヴァントが残っている。 もしかしたら、その残ったアサシンが、私達のクラシックスポーツカーと切嗣達のライトバンの組み合わせを追跡しているのかもしれない。私には暗殺者の英霊の気配は判らず、セイバーも敵の気配は感じていないけど、もしかしたらそうかもしれない。 アサシンの監視されてる時に移動するのは危険かもしれないけど。アインツベルンの森はもう拠点として使えないから移動は急務。結局は移動するしかないのだけれどね。 この『アサシンの健在』も私の雰囲気を重くしている理由。だけど、拍子抜けするほど新しい拠点までの移動では敵サーヴァントの襲撃は無かった。 二台の車は冬木大橋を渡って深山町へと入る。そして閑静な住宅が立ち並ぶ冬木市の歴史を感じさせる一角へと入り込み、ある位置で停車した。 「この辺り・・・、トオサカやマキリの拠点に近いわ。その気になれば歩いて行けるほどの距離しかないはずよ。いくら所在を知られてなくても、こんなに近いなんて・・・」 「おそらく切嗣は近すぎるが故に見えない盲点に入り込んだのでしょう。敵の意表をつくという点に限って言えば的確です」 前のライトバンが動く気配を見せないので、セイバーもまた車を停車させる。程なく、舞弥さんが車を降りたので、私たちも合わせて外に下りる。 ただ、セイバーが『切嗣』と言った時の口調は車中の会話よりもっと固かったのがどうしても気になる。 セイバーが召喚されてから、切嗣は一度もセイバーと言葉を交わしていない。そしてセイバーは私と同じように切嗣の行動の不可解さに気付いて、その事を追求したい筈。 問う者とそれに応じる気が無い者。両者の軋轢がより強くなるのは当然だ。 この問題とは別に、もしかしたら今もアサシンに見張られているかもしれない。そんな思いを抱きながらも、アサシンを見抜く術を持たない私には何もできない。 だから私は開き直り、ただ目の前の事だけに集中する。 道路から見る新しい拠点―――ドイツどころか冬木でもほとんど見ない、純和風建築の木造平屋を見ながら、私は言う。 「ふぅん。随分、不思議な建物ね」 冬木市のある日本。今まで聖杯戦争が行われてきたその場所の知識を私はいくつか聞いていたので、これが日本の建造物の一種だと知識では知っていた。 第三次聖杯戦争が行われた六十年前ならそれほど珍しい建物ではなかったかもしれないけど、新都の建物と比べると同じ『家』でありながら、全く別物に見えてしまう。 新鮮であり異質。それが新しい拠点を見た最初の感想だ。 アインツベルンの森の中に合った城に比べれば敷地面積は小さいけれど、周囲にある建物に比べればかなり広い。けれど、長年空き家として放置されてきたのか、塀の向こう側に見える屋根の寂れた様子が尋常ではない。塀の塗装もあちこちが剥がれ、よく原形をとどめていると感心してしまう。 私は昔、切嗣から日本のお屋敷の話を聞いた後、それを見たいと言った事がある。 切嗣が何を思ってここを拠点にしようとしたのか、そして、どうやってこの拠点を手にいれたのか少し気になった。住居としてはとても酷い有様だけど、もしかしたら切嗣は私の話を覚えていてくれて、ここを拠点にしようとしてくれたのかもしれない。 もしそうだとしたら嬉しい。 「アイリ」 家に目を奪われていた私を呼ぶ声がする。切嗣の声に導かれてライトバンの方を向くと、そこには車から荷物を下ろす切嗣と舞弥さんがいた。 「どうしたの切嗣」 「すまないが僕たちは荷物を下ろさなきゃならない。結界の敷設と工房の設置準備に取り掛かってくれないか」 「――判ったわ」 私が返答を言い終えるより前に切嗣は荷物の中から鍵束を取り出し、その中の一つを門の鍵に差し込んで開錠する。 切嗣が持つ鍵束の中に一つだけ古めかしい鍵があった。他の鍵は切嗣が門を開くのに使う鍵と似ているのに、その一つだけが明確に違う。私はそれが何なのか少し気になったけれど、私は切嗣がセイバーを全く見なかった事と切嗣が運ぶ荷物に意識を向けた。 ライトバンの中に大量に入っていた荷物は、きっと切嗣が予め冬木市にもちこみ、アインツベルンの城とは別の場所に保管しておいたのだろう。いきなり拠点を変えなきゃならない事態が起こった時、例えば今みたいな事態に備えたに違いない。 アインツベルンの城が拠点として使えなくなっただけでおろおろしてしまった私とは違う。何重にも備えを作り、常にどんな不測の事態が起ころうとも冷静にそれに対処する。 切嗣はとても頼りになる。けれど切嗣は、セイバーに全く話しかけない。 荷物を運び入れるならセイバーの助けを借りればすぐに終わるのに、話しかけるどころか視界にいれようともしなかった。 話しかけるつもりのない切嗣の在り方は何も変わっていない。それはつまり、セイバーに守られて傍に居続ける私は切嗣と心の底から話す機会を持てないのと同じ。 アインツベルンの城で切嗣が私とイリヤを連れて逃げようと言ってくれたあの瞬間。あの状況こそが、私が切嗣の本音を―――誰にも邪魔されずに夫婦だけで話し合える最後のチャンスだった。 もう切嗣はセイバーや舞弥さんが近くにいては、決して本音を明かしてくれない。そう思えてしまう。 私も切嗣も生きてる、まだまだ話すチャンスは幾らでもある。その筈なのに、そう思えない私が、アイリスフィール・フォン・アインツベルンがいた。 「・・・・・・・・・」 私はセイバーと切嗣との間に入り、二人が決定的な亀裂を生まない為の緩衝材としての役割を自らに課した。そして切嗣が世界を救い、私が最後の聖杯の器として命を終える覚悟も決めた。 切嗣が聖杯を獲得する為の最大限の努力をし続けなければらない。そう判っている筈なのに、私は今切嗣と話がしたくて堪らない。 振り返ってセイバーを見ると、車中での顔よりも更に表情が強張っていて、自分を無視し続ける切嗣への不平不満がありありと顔に出てる。 もしここが人目の多い住宅街でなければ、セイバーはアインツベルンの城で切嗣に言ったように、声を荒げた筈。 でも、ここで周囲の目を集めても得られるものは何もない。そしてセイバー自身、自分のマスターがそうやって無視するのを受け入れてしまい、会話を諦めてしまった節がある。 私の予想もあるけれど、それほど間違ってないと思う。 対話の可能性を切嗣とセイバーが互いに摘み取って辞めてしまった。 私とセイバーは切嗣と舞弥さんがライトバンから荷物を家の中に運び入れる様子を眺めていた。言おうと思えばセイバーに『手伝って』と言えるけど、セイバーが切嗣に近付いても会話が無ければ険悪な空気を増やすだけだ。 どんどんと荷物が家の中に運ばれるのを私たちはただ見ていた。結界を張り、工房を設置しなくちゃいけないと判っているのに、不仲な様子にどうしても目が行ってしまう。 切嗣と舞弥さんの息の合った動きはそのまま手際の良さに変わり、あっという間にライトバンに積まれていた多くの荷物が家の中へと運ばれる。 荷物の運搬が終わると、切嗣は中へ行き、舞弥さんは逆に外に出てきて私たちの方に来た。 「マダム」 私が返事をする前に舞弥さんはさっき切嗣が持っていた鍵の束を渡してくる。 「お二人には、今日からここを行動の拠点としていただきます」 事務的な口調と一緒に差し出された鍵束を受け取り、手の中で感触を確かめる。 受け取った時に少しだけ力が抜けて鍵束を落しそうになったけれど、まだ私は人として振舞えた。 聖杯戦争を脱落したアサシンが聖杯に喰われ、私の人としての機能は徐々に衰え始めている。まだ楽しい運転は出来るけれど、万が一にでも事故を起こしたらまずいのでセイバーに変わってもらったのだ。 予め判っていた事だけれど、私は聖杯戦争が終わる時には死ぬ。人の形を借りた、ホムンクルス『アイリスフィール・フォン・アインツベルン』の姿はどこにもなくなっている。 決めたはずの覚悟が恐怖になって私の動きを止めそうになるので、慌てて手の中の鍵に意識を引き戻した。 「ねえ舞弥さん。この鍵は何?」 そう言って、さっき見た一つだけ違う鍵を目の前に持って行く。 「庭にある土蔵のものです。古いですが、立て付けに不安がないのは確認済みです。工房の設置にはそこをお使いください」 また淡々と返してくる舞弥さんは機械のようだ。 冷淡そうな顔は全く変わらず、ただ自分に課せられた役目を果たそうとしている。今になって迷いを抱いている私とは違う―――。 「それでは、私はこれで」 長居する理由が無いのか、それとも切嗣に何か任務を託されているのか。別れの挨拶もそこそこに、舞弥さんはライトバンに戻ろうとする。 私はそこであるべき人の姿がここに無かったので、思わず舞弥さんに聞いてみた。 「あ、待って」 「――何でしょう」 「切嗣はどうしたの?」 「母屋の最奥部にて休息を取っています。結界の敷設には問題なく、およそ二時間後に出立の予定です」 「そう・・・」 私たちには一言も告げられていなかった休憩を舞弥さんの口から聞かされ、私は語気を弱めてしまう。 私たちがここを新しい拠点として使い、結界こそ無いものの最強の守りであるセイバーがここにいれば、『休眠』という無抵抗な姿を晒しても問題ない。切嗣がそう判断したと考えられなくもないけれど、眠ることすら一言も伝えられなかったので、セイバーの守りを信頼してると思うのは難しい。 そもそも私が舞弥さんに聞かなければ、切嗣の現状を知るには直接見るしか方法が無かった。舞弥さんの口振りでは、もう切嗣は休みに入っているので、どうして私達には言ってくれなかったのか問い質す事は出来ない。 切嗣は聖杯戦争に勝利して、世界を救うために貴重な時間を回復に充てている。私がその邪魔をしてどうするのか。 これまで切嗣はアインツベルンの城で合流する以外、徹底して私達とは別行動を取っていた。数時間も同じ場所に留まるのは協力者ないし切嗣がセイバーのマスターだと露見する危険があった。 なのに切嗣は私たちと同じ場所にいる。これは切嗣らしくない行動だ。 切嗣だったら、この場所が他の誰にも知られてない拠点だとしても、私たちとは別行動を取って別の場所で休むと思う。 きっと何かあった。さっき車の中でも考えた『何か』が合って、今の切嗣をらしくない行動に誘導してる。 そして私はその『何か』を聞いていない。 舞弥さんはきっと聞いてるだろう。 もしかして切嗣は私とセイバーを『近付かなければ問題ない要素』と考え、話す時間すら無駄と考えて休み始めたのかもしれない。もし、そうだとしたら、私たち二人は『居ても居なくてもいい』と言われたのと同じだ。 その言葉を切嗣の口から聞いたような恐ろしさが私の中を駆け巡り、心を冷えさせる。 ねえ切嗣、あなたに何があったの? 私たちはあなたにとって何なの? 私たちは聖杯で世界を救うために一緒に戦ってるんじゃないの? 「失礼します」 舞弥さんの言葉が聞こえていたけど頭の中に入ってこなかった。 見える景色の中で舞弥さんはライトバンに乗り、私達二人を門前に残したままさっさと走り去ってしまう。 私はそれを呆然と見送った。 「アイリスフィール」 「――さて!! それじゃあセイバー、新居の点検といきますか」 「はい・・・」 出来るだけ努めて明るく振舞おうとしたけれど、セイバーには私の心の揺れが伝わってしまったようで、切嗣に向けていた固い表情とは別の不安げな顔を私に向けていた。 大丈夫ですか? その顔がそう言っていた気もしたけれど、私はそれを追究しない。セイバーが何を言いたかったのか聞いてしまうと、私はその言葉を切っ掛けにとても恐ろしい事を考えてしまう。 切嗣はもう私達の事なんでどうでもいいと思ってる、そう考えてしまう怖さがあった。 一度車に戻った私たちはセイバーの運転するメルセデス・ベンツ300SLで門を通りぬけた。ここが新しい拠点だったとしても、いつまでも路上駐車しておくのはまずいと判断し、そして外から見ただけでも車の一台や二台は簡単に入りそうな敷地面積があるのが見えたからだ。 長らく手入れのされていない荒れ放題の前庭へと車を進め、巨大な鉄製の道具の重さで伸び放題になっていた草を強引に押し潰して停車した。 降りる時に少しだけ苦労して、降車した私たちの目に飛び込んできたのは平屋の母屋だ。 「この国なりの幽霊屋敷って趣かしらね。きっと廊下は板張りで、干し草を編み固めた床に、紙の間仕切りで部屋を分けてるのよ」 セイバーが作り出す暗鬱な空気を払拭する為に出来るだけ明るく振舞うつもりだったけれど、私の口からは勝手に言葉が出て来てしまう。 この気持ちは新鮮―――そう、アインツベルンの城で生まれてからずっと過ごしてきた私にとって何もかもが新鮮に見えて、嬉しくて楽しくて仕方ない。 例え荒廃が酷く、雨風が凌げるのがやっとの有様だとしても、私にとっては驚きと喜びの連続だ。いつからかセイバーへの気遣いは消えて、私自身が楽しんでいた。 「あら? どうかしたのセイバー?」 「――いいえ、アイリスフィール。貴女が構わないというのなら、それはそれで助かる話です」 「ん?」 そんな風にセイバーと話しながら首をかしげる私がいて、セイバーは後ろから一定の距離を保ちながら付いてくる。 時折、短い会話を交わしながら、この新しい拠点の様子を隅から隅まで観察しようとあちこちを移動する。 ただ、そんな楽しげな空気もこの建物の一角―――埃が積もった場所に出来た真新しい足跡と荷物を運んだ跡を見つけるまでの間だった。 これでこの拠点にいるのが私達だけだったなら、足跡の主を不審者と思ったのだけれど、舞弥さんからの話しと私たちが散策した状況から切嗣が家の中に入った証拠と判る。 つまり廊下を歩いて奥へ奥へと向かって行くこの跡を辿った先に切嗣がいるのだけれど、これは今の私にとっては切嗣の休息の邪魔をしない為の道しるべでもあった。 見える痕跡の進む先には近付かない。けれども、結界を張る為の探索と何より私が日本家屋という物がどんな物か気になったので、別の場所の捜索は進む。 私が口を閉ざすと、セイバーもまた応対しなくなったが、私の場合は切嗣がこの先にいると判り休息の邪魔をしたくないのが大きな理由だけれど、彼女の場合はもう少し複雑な想いが絡んでいる。 言葉は少なく、そして囁くような喋り方に変化した。私たちは切嗣がいるであろう場所には近づかず、あちこちを歩き回った。 その間、探索し終えた場所から別の場所に移動する間、私はセイバーとの話が無いタイミングで少しだけ考え事が出来た。 私の胸に宿った楽しげな雰囲気を冷ましていく事実。 声を潜めなければならない確たる理由。 切嗣はどうして自分がセイバーのマスターだと露見する危険を承知の上で、私たちのそばで休息を取っているの? アインツベルンの森ではキャスター来訪と間桐の割り込みが無ければ、切嗣は舞弥さんと一緒に郊外から市内へと戻った筈。でも、今はそれをしていない。 もちろんその理由を本当の意味で知る為には切嗣自身の口からしっかりと聞かないと判らない。ただ、切嗣が何かの理由で話したがらないのならば、私の方から理由を考えればいい。私は切嗣のお荷物になる為に聖杯戦争に関わっているのではないのだから。 切嗣に何があったの? 戦いへの心構えの意味も込めて私は短い時間ながら、切嗣に起こった事を考えた。 もしかしたら―――。聖杯問答でライダーが特攻を仕掛けてきた結果、城が使えなくなったと切嗣に連絡した前後、どちらかで切嗣が襲われたか、何らかの事態が起こって使っていた拠点の一つが使えなくなったのではないだろうか。 ありえそうな可能性は何者かに襲われたであろう前者だ。言峰綺礼が切嗣に狙いを定めたように、彼か他のマスターが切嗣を強襲したとしたらどうだろう。 聖杯戦争に関わりなく拠点の一つが使えなくなったとしたら、切嗣は私にそれを言ってくれると思うので、そう仮定を作る。 もし仮に切嗣が誰かに襲われたとしたら、それは七人のマスターと七騎のサーヴァントだけが戦う筈の聖杯戦争に雑じりこんだ異物。特定のマスターに肩入れしている聖堂教会の言峰璃正神父より、もっと大きく別の力を関わらせているマキリ。間桐と名を変えた、あの陣営である可能性が高い。 トオサカとマキリの拠点に近いここでわざわざ休むのは、その両者の目から自分を隠す為ではないだろうか。 起こった出来事は偶然の邂逅か、明確な目的あっての接近なのか。私には想像しか出来ないけれどマキリが切嗣をセイバーのマスターと看破した。切嗣が私にそうと言わなかったのは、私を心配させないが為だとしたらどうか。 空想とも言える考えだけれど、切嗣がセイバーのマスターだと露見した可能性を覚悟する事は出来た。もし他のマスター、あるいはサーヴァントが私の事を偽のマスターだと口にしても、動揺を悟られずに隠し通せると思う。 いきなり言われれば確実に私の戸惑いは察知され、ひっかけられたと思った時は手遅れになるかもしれない。けれど、こうやって心構えを作っておけば、愛する夫の安全を増やして、少しでも手助けができる。 ほんの少しだけ胸の中に楽しさとは違う暖かい気持ちが生まれた。 あちこちを移動する時、廃屋だからか、木造の廊下が全てそうなのか。家の中を歩くとギシギシと足音がする。私は切嗣が眠るのを邪魔しては悪いと思って、ゆっくり歩いていたら時間はどんどんと過ぎていった。 そしてついに切嗣が眠っているであろう場所以外の全てを捜索し終えた私たちは、結界の敷設が問題ないと判断し、いよいよ工房を設置する為の土蔵へと移動を開始した。 これまでの移動は殆ど母屋の中ばかりだったけれど、一旦庭に出れば少し大きめの声で話しても大丈夫。私はこれまで潜めていた声を開放してセイバーに話しかける。 「魔術師の拠点として考えると、ちょっと難しい場所ねここ」 「結界を敷くのに不十分でしたか?」 あの切嗣がそんなミスを犯すだろうか? そう言外に告げてくるセイバーに向けて、私は言う。 「そうじゃないのよ。こうも開放的な造りだと、魔力が散逸しすぎて家の中に工房を作るのは難しくって。結界の敷設は何の問題もないわ」 「マイヤの言っていた土蔵が工房の設置には適している様です、まずはそちらを見てからにしましょう」 「それもそうね」 そんな会話をしながら庭の一角にある土蔵に移動し、鍵束の中に合った古めかしい鍵を使って開錠する。 どれだけ長い年月閉ざされていた扉だったのか、ギシギシと唸りをあげる扉は大きく重い作りだったにも関わらず、セイバーの力で開けた時は壊れてしまいそうだった。 本当に大丈夫なの? 不安を覚えずにはいられなかったけど、私の懸念は中の様子を見た瞬間に吹き飛んでしまった。 「理想的! これならお城と同じ要領で術式を組んでも大丈夫ね。とりあえず魔法陣を敷いておくだけで、私の領域として固定化できそう」 土蔵の中に一歩踏み込んで、私はこれまで潜めていた声を完全に開放し、歓喜を言葉に乗せて叫んでしまった。 土蔵の中なら母屋まで声も届かない目算もあったけれど、アインツベルンで過ごしてきたこれまでとは違う『よその国にある私だけの陣地』、自分だけに与えられた玩具のような高揚感が私を叫ばせた。 もしかしたら切嗣がここを新しい拠点にしたのは、この土蔵が―――アインツベルンの工房が作れる場所があったからかもしれない。これも日本のお屋敷を見たかった時と同じで予想でしかないけれど、夫からのプレゼントを受け取ったような気持ちが心を躍らせる。 「じゃあ、さっそく準備に取りかかりましょう。セイバー、車に積んである資材を持ってきてくれる?」 「はい。一通りここに運びますか?」 「今は錬金術の道具と薬品だけで充分よ。赤と銀の化粧箱にまとめてあった筈だから、それをお願い」 「判りました」 今度の聖杯戦争の為に城の中には予め準備されていた道具が幾つもあった、今回はその中で持ち運べる物の幾つかをメルセデス・ベンツ300SLに積み込んでのだ。 多くは持ち出せなかったのだけれど、ここを新しい拠点として使う為に必要な道具は揃っている。 持ち運ぶなら、人の機能を失いかけている私よりもセイバーの方が適任。その間に魔方陣を描く場所を決める為、私は土蔵の地面に膝をついて隅から隅までを慎重に見定める。 程なくセイバーが戻ってきた。 「それじゃあ、悪いけどセイバー、手を貸してくれる?」 「はい」 セイバーが持って来た道具の中から試験管やピペットやフラスコを取り出し、切嗣がセイバーを召喚する時にも使った水銀がたっぷり入った容器も取り出す。これ一つだけでもかなりの重量になるので、私が車からここまで運んでいたら落としていたかもしれない。 もしセイバーが魔術に関して素人だったなら、手伝ってもらおうとは思わなかったけれど。アーサー 王の伝説から、彼女が魔術の基礎ぐらいは習得していると知っている。 出す指示さえ間違えなければ、一人でやるよりも手早く魔方陣を描けるだろう。 「あの場所に、六フィート径で二重の六亡星を描くの。方角はあっちを頭にするわ。最初に水銀の配合を一緒にやって、足りなくなったら同じ配分で慎重に作って頂戴」 「判りました」 こうして私はセイバーと一緒に土蔵をアインツベルン式の工房にする為の作業を開始した。 私の指示に沿ってセイバーが水銀を精錬して、出来上がった順に私が魔方陣を描いていく。足りなくなればその都度、別の水銀を調合していった。 この時の私とセイバーの様子はまるで姉妹の様に仲睦まじく、聖杯戦争で敵と殺し合う宿命も、私に待ち構える未来も、切嗣とセイバーとの間にある不和も、私が舞弥さんに抱く複雑な思いも、作業の集中によって消えていた。 楽しい―――そう、和やかな空気の中で作業に没頭するのは私にとってもセイバーにとっても楽しい時間だった。 けれど、楽しい時間と、大事な事に費やす時間はあっという間に過ぎ去って、気が付けば新しい拠点を拠点として使いこなす為に使った時間は二時間を軽く超えていた。 私がそれに気付いたのは、セイバーと一緒の作業をしている最中。彼女が私の描いている魔方陣から顔をあげ、土蔵の入り口を見ていた時だった。 「どうかしたの、セイバー?」 水銀で魔方陣を描く作業を注意深く眺めていた彼女がいきなり視線を外した。気にならない筈がない。 問いかける私に向けたセイバーの表情は、今まであった和やかな空気を完全に消し去っていた。だけどその顔は敵と遭遇した時のような真剣さとも違う。 彼女は何を見ているの? 私は彼女が告げた言葉で表情の意味を知る。 「――マスターが休息を終え、出陣しました。幾つか荷物を持って出たようです」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・そう」 返事は短かった。けれど魔方陣を描くための手は止まってしまい、返答するまでに必要だった時間が酷く長いものだったと自分でもよく判る。 とても即答なんて言えない時間。それが私の動揺の強さを強く表している。さっき思い浮かべた『敵が切嗣をマスターだと確信している』の心構えなんて、別の動揺で簡単に吹き飛んでしまった。 思えば、家の中を散策していた時にかなりの時間を使ってしまった。母屋の広さもそうだが、眠っているであろう切嗣を起こさない為に、音をたてないようにゆっくり歩いていたから、かなりの時間がかかってしまった。 工房を作るのにも時間をかけているし、舞弥さんの言っていた二時間なんてあっという間に過ぎてしまう。 休息を終えた切嗣が私たちに―――セイバーと接したくないが為に、声をかけずに出ていくなんて予想できた事態。休み始める時でさえ、一声かけなかったんだから。 あそこにいたのはセイバーのマスターであり、聖杯戦争に勝利して聖杯を手にいれる男。もう私だけの夫『衛宮切嗣』じゃない。 私に一声かけてから出発してくれる切嗣じゃない。 「アイリスフィール――」 「・・・大丈夫よ。さっ、早く仕上げましょう」 後になって思い返して辿り着いた私自身の考えだが。思えばこの時。私は切嗣に似てセイバーから戦い以外の何かしらの助言を聞く行為そのものを拒否していた。 『世界の救済』という言葉こそ同じでありながら、セイバーと切嗣との間にある絶対に供用できない壁の存在。聖杯問答でそれを知ってしまった時、私はセイバーに何かを求めるのを辞めてしまったのだ。 聖杯を手にいれて世界を救済する。その目的にだけ焦点を合わせ、私は仮定を出来るだけ考えないようにしていたからこの時は気付かなかった。 上辺だけの会話はするし、問われ応じる話もした。けれど、彼女の生涯や切嗣の願い、私の中に封印された聖杯など、深く入り込んだ話は意識して話題にしなかった。 そうやって彼女からの言葉を遮った私は、臨時の工房を作り上げるまでほとんど作業以外の話をしないで過ごした。楽しさは消えて、義務感だけで作業を完成させようとする。 魔法陣を描き工房を組み立てる作業は集中力がいるので無駄話が出来ないのだけれど、私が会話そのものを拒絶していたから話は少ない。 切嗣が同じ家の中にいるのか、それとも出て行った後なのか。この違いだけで私は工房を作る楽しさを感じられなくなってしまった。 切嗣が居なくなってしまった寂しさを埋める様に、私は作業に没頭した。 そして切嗣が出て行ってから約三十分弱。ようやく工房は完成し、この新しい拠点が拠点として動作する為の半分が完成した。 後は結界の敷設だが、アインツベルンの森に合ったような強力な結界を作るのは一人では難しい。そして、郊外の森の中なら多少周囲に被害が出てもいい強力な破壊を撒き散らす結界でもよかったのだけれど、市内の住宅街にそんな結界を設置するのは危険すぎる。 近所の子供が誤ってボールを庭に投げ入れてしまったとして、そこに侵入者を粉砕する結界が張られていてしかも発動したら、自分達で『ここに魔術師がいます』と喧伝しているようなものだ。 とりあえずセイバーがここにいるから、まずは結界内に敵が侵入してきたらすぐに判る探知式の結界を張り巡らすべき。そう思っていると、セイバーがまた土蔵の入り口へ顔を向けているのが見えた。 「どうしたの?」 最初は魔方陣が完成したから次の工程に移る作業がどこか見ているのかと思ったけれど、すぐに違うと判った。 切嗣の時と同じようにここではないどこかを見てる―――。彼女の横顔が私にはそう見えた。 「敵・・・か、どうかは判りませんが。何者かが、屋敷の前に立っています」 「どこ?」 「最初に我々が停車した場所です。まだ庭内へは侵入しておりません」 私には遠く離れた場所に誰がいるかなんて全く判らないけれど、この状況でセイバーが冗談を言うなんて考えづらい。 何よりこの聖杯戦争では諜報に長けたアサシンがまだ残っている。工房を作っている間は手出ししなかったからと言って、それはこの場所が知られていない理由にはならなかった。 もしアサシンのマスターである言峰綺礼が遠坂と通じているのだから、外にいるのは遠坂のサーヴァント。つまりあの黄金のサーヴァントかもしれない。 もしサーヴァントだとしたらセイバーがその魔力で気付くかもしれないが、アサシンのように気配を遮断できるサーヴァントもいるので、油断は出来ない。まず敵だと思って対処する、それが聖杯戦争の心構えだ。 私は魔方陣を描く為の道具を一度横にのけ、聖杯戦争のマスターとしてセイバーに告げた。 「何者かは判る?」 「いえ・・・敵意は無いと思いますが、直接見ない事には判りません」 「出迎えましょう。念の為、セイバーは武装して」 「――はい」 もし道路に立っているのが敵だとしたら私が矢面に立つのは危険だけれど、セイバーの傍以上の護りは無い。まだ結界を全く敷いていないこの拠点の中で彼女と行動を共にする事こそが何より安全だ。 敵だと仮定して。切嗣が出て行った後で遭遇出来たのは幸運と呼ぶべきか、それとも切嗣がいないのを戦力の低下と思い不幸と取るか、どちらで考えるかは難しい。 とにかく私はセイバーと一緒に土蔵を出て、高く伸びた雑草を避けて庭を走った。 これでそこにいるのが近所の人だったら拍子抜けするけど安心もする。 長年閉ざされていた門扉が開き、その中に自動車が停めてあるのを珍しかったから見ていただけ。そうであって欲しいと思った。 聖杯戦争なのだからサーヴァント同士が戦いになるのは仕方ないとしても、こんな真昼間に人が大勢いる住宅街の中で戦闘になるのは避けたい。 敵陣営の誰でも無ければいい―――走りながらそう祈った私の耳に、声が届く。 「どなたか居られるか!?」 その声は紛れもなく私たちの拠点に向けられた声だった。 声が聞える前に門までかなり近づいていたので、声の余韻が聞えるかどうかと言った所で、私たちはその声の主―――セイバーが感じた何者かの姿を視界に捉えられた。 私の頭はその人物が何故ここにいるかを考える前に、知りうる限りの情報を思い浮かべて目の前に立つ男と合致させていった。 ライダーと一緒に聖杯問答に入り込んだ人。 聖杯に興味は無いと言っていた人。 舞弥さんを探している人。 サーヴァントではない人。 マスターでもない人。 多くは知らなくとも、何らかの形でライダーと共闘関係を結んでいる事は知っている。だから彼は紛れもなく敵。 私達の敵、カイエン・ガラモンドがそこに立っていた。