第23話 『ものまね士は聖杯問答以外にも色々介入する』 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - ゴゴ かつて過ごした世界から別の世界へと渡った時は驚かなかった。それが出来ると知っていたからだ。 蟲蔵を埋め尽くす蟲の群れもモンスターの一種と捉えて済ませて終えた。小さな蟲の群れなど珍しくないからだ。 抑止力という名の世界そのものが語りかけて来た時も驚きは少なかった。知る以前から存在を感じていたからだ。 聖杯戦争と言う名の闘争を市街地で行う異常さも、物真似する対象以上の入れ込みは無い。闘争も平穏もものまね士にとっては等しいからだ。 動揺などこの一年味わった事が無かった。 しかしこれは違った。 アサシンの宝具『妄想幻像(ザバーニーヤ)』によって分断された全てのゴゴの意識が力ずくでカイエンとエドガーの視界に集結しようとする。自意識を強制的に決めつけられる強力な動揺であり驚愕であり―――魅了がそこにあるからだ。 それが、それこそがライダーの宝具『王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)』。 雲一つない照りつける太陽の下、固有結界によって生み出された広大な砂漠は驚くに値しなかった。ものまね士ゴゴの目を惹きつけるのはライダーの後方から現れて、アサシンの集団を敵とみなして集った大軍勢だ。 これだけ壮大な宝具の発動にはそれに見合う莫大な魔力が必要なようで、時間経過と共にライダーに貯蔵された自前の魔力がどんどんと減っていくのが判る。本来であれば、マスターであるウェイバーから減った分を調達するのがサーヴァントの正しいあり方なのだが、ライダーは減らすばかりで増やそうとはしなかった。 減った分を一気に補給すればマスターに多大な影響が出るので少しずつ補給するつもりか、あるいは、マスターとサーヴァントの間で魔力供給が行えてもやる気が無いのか。何かしらの意図があるのだろう。 とにかく起こる事実の全てを見定めようとものまね士ゴゴの目が目の前の光景を凝視する。今この瞬間に限って言えば、誰かに攻撃されたら迎撃も防御も出来ないだろう。そう確信できる程に集中して、集中して、集中してしまう。 英霊となったかつての同胞たちを召喚し、ライダーを先頭に据えた、正しく『王の軍勢』と呼ぶに相応しい壮観な光景がそこにある。 アーチャーの宝具は確かに強力無比で、撃ち出す弾丸である宝具が尽きない限り、大抵の敵は個人であろうと集団であろうと組織であろうと国であろうとも滅ぼせるに違いない。 けれど極論すればアーチャーの宝具はただ強力なだけだ。まだ全てを物真似していないので、同じ結果を物真似出来るかは怪しいが、同じ結果を導き出すのはそう難しい事ではない。 ただ破壊すればいい。 雁夜はまだ扱えない強力な魔法の幾つかに込められるだけの魔力を込めればそれで終わりだ。それだけで冬木市全てを生きてる人間ごと一瞬で地ならし出来てしまう。 アーチャーの宝具の物真似は決して難しくは無い、それが現段階の結論である。だがライダーの宝具は違う。 『個人』には決して成し遂げられない『軍勢』。 アサシンの宝具とバーサーカーの宝具の物真似によってゴゴにも似たような状況を作り出すことは出来る。だが、それは物真似ではなく贋者だ。 ライダーのようにかつての仲間達をそれぞれ呼び出すように見せかけているだけの、物真似とは到底言えない児戯のような見せ掛けだけのハリボテだ。 見た目だけならば同じような結果を作り出せるかもしれないが、他の誰でもないものまね士ゴゴ自身がそれを自らの物真似と認められない。出来るのは精々モグの特殊技能『おどる』でこの砂漠と同じ空間を作り出すのが関の山。 幻獣を召喚して共に戦う事は出来る。 ゴゴ自身が分身してかつての仲間が集まったように見せる事は出来る。 でも、かつて共に旅して戦った同胞たちを呼び寄せられない。 王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)は、現段階では絶対に物真似しきれないと、ものまね士ゴゴが完敗を認めるしかないとてつもない宝具だった。 辛うじてものまね士としてのプライドが『少なくともまだ今は』という枕詞が付けようとするが。出来ないと心の底から認める部分も間違いなく存在する。 ライダーによって呼び出されたサーヴァント達。彼ら一人一人の顔を、形を、姿を、装備を、佇まいを、威風堂々たる様を、纏う覇気を、何もかもを見つめて、ものまね士ゴゴは結論付ける。 これをものまね士ゴゴは物真似できない。 ものまね士ゴゴが、ありとあらゆる事象を物真似してきたゴゴが物真似できない。 王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)に到達できない。 悔しさか、羨望か、自分への怒りか、郷愁か、頭の中を通り抜けた感情がどんなモノなのか言葉にしきれなかったが、とにかくものまね士が物真似出来ないと認めるしかなかった。 素晴らしいと思った。 凄まじいと思った。 圧倒的だと思った。 どうしようもなく惹き込まれた。 多くの感情が溢れ、想いを言葉で言い表せなかった。 目の前の大軍勢が敵対した時に敗北するなどと欠片も思わない。力として衝突すれば圧倒できる自信はある。けれどものまね士ゴゴにとっては『物真似できない』この一点が全てを圧倒する、それはものまね士としての誇りだ。 認めるしかない。 この時、この瞬間、ライダーが固有結界を発動して、この世界の歴史に名を刻んだ伝説の勇者たちが現れた時―――。ゴゴは思ってしまった。 嗚呼、こんな事を出来るライダーになら、征服王イスカンダルになら。負けてもいい(・・・・・・)―――微かではあるが、ゴゴはそう思ってしまった。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - セイバー 軍神。マハラジャ。王朝の開祖。 名を知らずとも判ってしまう彼ら英雄が作り出す壮大な空気は私の肌をちりちりと焼いた。それは天上から降り注ぐ太陽の光よりも強い。 彼らが全員その威名の根源に同じ出自を誇っている事には察しがついた。すなわち──誰も彼もがかつて征服王イスカンダルと共に轡を並べし勇者である、と。 迫りくる軍勢に臆した訳ではない、圧倒された訳でもない。単純な力で考えるならば、風王結界(インビジブル・エア)によって封じられた聖剣が真の力を解放した時、たとえ相手がどれだけ巨大な敵であろうとも大軍勢であろうとも決して負けはしない。 それでもこの目に映る彼らの姿に私の誇りは大きく揺さぶられた。 「久しいな、相棒」 その声に引き寄せられてそこを見れば、子供のような笑みを浮かべながら巨馬の首を強く抱くライダーの姿が合った。 乗り手のいない空馬だったが、その雄大さと威風は他の英霊たちが作り出す強大な雰囲気に負けていない。おそらくライダーが『相棒』と呼んだあの馬こそ、神格まで与えられ崇拝された伝説の名馬ブケファラスであろう。 人ならざる存在すらも英霊の格を持つライダーの宝具。それは絶大なる支持の元、宝具の域にまで達した臣下との絆が作り上げたもので、理想の王で在り続けた私が生涯において、最後まで手に出来なかったモノだった。 ライダーがブケファラスに跨り、私を含めたこの場に居合わせる全ての者達へ謳い聞かせる。 「王とはっ! 誰よりも鮮烈に生き、諸人を魅せる姿を指す言葉!」 「「「「「然り! 然り! 然り!!!」」」」」 声高々に響くライダーの声はこの砂漠の端から端までを埋め、応じる英霊たちは一斉に剣を盾を槍を武具を打ち鳴らしながら、歓呼の声をあげる。 ライダーを中心にして、声は巨大な音となって大地を揺らし、空気を割り、この空間全てを満たしていった。 そこにあるのは圧倒的な自身と誇り。 「すべての勇者の羨望を束ね、その道標として立つ者こそが、王!」 征服王イスカンダルが作り出す『王の姿』そのものであった。 「王の偉志は、すべての臣民の志の総算たるが故に!!」 「「「「「然り! 然り! 然り!!!」」」」」 数百、いや、数千の轟きが一つに混ざり合い、強大な『力』となって眼前に現れる。その圧倒的な力を前にしては暗殺者の集団であろうとも、路傍の石と変わらない。 私は彼らの姿から目を離せなかった。聖杯戦争を勝利して、聖杯を勝ち得る為に打倒しなければならない敵―――それを理解しながら、彼らと共にライダーが作り出す『王の在り方』に目を離せなかった。 私もライダーも等しく雑種と呼んでいたアーチャーですら、この大軍勢を前にして固い表情のまま沈黙を保っている。 「さて、では始めるかアサシンよ」 そう告げながらライダーは離れた場所に集められたアサシン達を振り返る。その顔に浮かぶ笑みは肉食獣を思わせる笑みでありながら、目に宿った光はどんな敵であろうとも許さない残酷さで輝いている。 マスターを殺されかけ、聖杯問答を邪魔され、その上で王が振る舞った酒すら蔑ろにした狼藉者を欠片も許さぬ意思がその目に見えた。 この後、何が起こるかを予測する必要はなかった。起こるべくして起こる事実は必然であり、そこには奇跡も偶然も貼り込む余地はない。 今やライダーを中心にして王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)の高揚はこれ以上ないほどに高まっており、例えどんな敵が目の前に立ちふさがっていようとも止まる選択はありえない。何より、軍勢と集団が遮蔽物も目立った地形もない砂漠で激突したら勢いのある方と数で勝る方が勝つのは戦場の理だ。 宝具クラスの切り札でもない限り、戦況が覆る事は決してない。 「見ての通り、我らが具象化した戦場は平野。生憎だが、数で勝るこちらに地の利はあるぞ?」 死刑宣告にも等しいライダーの言葉が放たれると同時に、アサシン達は烏合の衆となってしまう。 なすすべもなく棒立ちになるアサシンがいた。 逃げる場所など砂漠のどこにもありはしないのに、軍勢と逆方向に遁走するアサシンがいた。 無謀にもライダーと対しようと固有結界が発動した時に近くに落ちた黒塗りの短刀を拾い上げて構えるアサシンがいた。 そこには統制と呼べる類のモノは何一つ存在せず、ライダー率いる大軍勢を前にして圧倒的な力の差を感じ取ってしまった敗者の姿しかない。 アサシン達は戦う前から負けている。そして今のライダーはそんなアサシン達に手加減するつもりは全くない。 馬上から剣を引き抜き、向かうべき方角へと―――アサシン達へと剣先を差し向けるライダー。そしてアサシンの最後を告げる号令が放たれた。 「躁踊せよ!!」 ライダーの合図と共に一斉に湧きあがる鬨の声。ブケファラスもまたライダーの声に合わせて力強く駆けだし、誰よりも早く、誰よりも前に、誰よりも強く、征服王イスカンダルを戦場へと運ぶ。 自ら先頭に立ち、自ら馬を駆って突進する印象的かつ鮮やかな疾走。味方どころか敵すらも魅了するそれは伝説に語り継がれる征服王イスカンダルの姿そのものだ。 私は大軍勢の進軍にアイリスフィールが巻き込まれないように不可視の剣を収めながら彼女の肩を抱く。 巻きあがる砂塵の中でライダーが駆ける。王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)がそれを追う。 馬の駆ける勢いと共にライダーの剣が先頭にいたアサシンの首を飛ばした。それを切っ掛けとして、槍を持った英霊たちの何人かが、アサシン達に狙いを定めて空高く槍を放り投げる。 弧を描いた投擲は寸分たがわずにアサシン達の体を射抜き、貫き、砂の上に磔にさせた。血があふれ、骨は砕かれ、アサシンの形をしていたモノが魔力の残滓すら残さずに消えていく。 一息遅れて、ライダー単騎ではどうしても取りこぼしてしまうアサシン達に狙いを定めた剣士が敵に肉薄した。 槍で貫かれて消えたアサシン達を踏み越えて、逃げようとしたアサシンの首をはねる。セイバーとして召喚されたこの身の技術には届かぬ技だったが、それでも決して大きく劣っているとは言えない英霊が作り出す剣技の冴えでアサシン達が次々と殺されていく。 闘争とは呼べぬ有様だった。 掃討とも言えない一方的な蹂躙劇だった。 いや、むしろこの一方的な展開こそがライダーの命じた『蹂躙せよ』を彼らが完遂した証なのかもしれない。 巻き起こる砂埃と大軍勢によって遥か遠くまで駆け抜けたライダーの姿はほとんど見えない。それでも元々の体格の大きさと、馬上の見やすさが辛うじて彼の姿を視界に収めていたので、アサシンが作り出す集団の最後尾まで一気に駆け抜けて止まるのが見えた。 ライダーの制止に合わせて王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)もまた進軍を止める。アサシンの姿は一人たりとも残っていない。 アサシンと戦えたのは戦士は数少なく、大軍勢の大部分はただ進んだだけで戦いすらしていない。 アイリスフィールの肩を抱く私の周りに、アサシンが現れた時も変わらず地面に座り続けるアーチャーの周りに、少女を下にして丸くなるライダーのマスターの周りに、槍を構えずにただ持って佇む男の周りに、この国の『サムライ』を彷彿させる男の周りに、進軍を止めた英霊たちが立ち並んだ。 彼らの視線の先にはライダーがいる。例え戦えずとも、彼らの意識は征服王イスカンダルにのみ集約されていた。 勝利を王に捧げ―――。 王の威名を讃え―――。 我ら王と共に―――。 「「「「「「ウォオオオオオオオオオオッ!!」」」」」」 一斉に湧きあがる勝ち鬨の声。間近だからこそ今まで以上に響くそれは確かな喜びにあふれていた。 王と共に分かち合う勝利、そして王と同じ戦場で戦える喜びが、意味ある言葉ではない轟きの中に含まれ、私に理解させてゆく。 狂喜のような勝ち鬨の声が響かせながら、役目を終えた英霊たちは現れた時とは逆に霊体へと還っていく。そしてライダーだけではなく彼らの魔力でも維持されていた固有結界は英霊たちの帰還によって解除されていった。 熱砂吹き荒れる砂漠はアインツベルンの城の中庭の景観を取り戻し、照りつける太陽は消えて月光と静かな夜の暗さになっていく。 私とライダーとアーチャー。中庭に集った三人のサーヴァントは固有結界が発動した時と同じ配置に戻り、遥か遠くまで駆け抜けていたライダーが相棒と呼んだブケファラスの姿も消えてしまう。 聖杯問答の状況は復活し、あちこちに現れたアサシンなど最初からいなかったように戻されている。さっきまで肩を抱いていた筈のアイリスフィールは距離を取って背後に佇む位置にいて、ライダーのマスターもまた隣に同行者を立てた状態で腰に少女をしがみ付かせた格好に戻った。 おそらく固有結界を解除する時に、ライダーが各々を戻す場所を指定したのだろう。そうでなければ、アサシンが現れる前の配置に戻っている説明が出来ない。 「興がそがれたな――」 ほんの一瞬前までアサシンを相手に問答ではなく戦争をしていた筈だが、既にライダーの空気は完全に聖杯問答のそれに戻っていた。 床にどっしりと座りながら杯に残っていた酒を一気に飲み干すライダー。戦装束だった格好はTシャツ姿に戻り、肩にぶちまけられている酒の残りも一緒に蘇っている。 足元を見れば、剣を握る為には邪魔になるので放り投げた筈のアーチャーの酒器が戻っていた。 いつまでも私一人だけが立っていては折角戻った聖杯問答を台無しにしてしまう。私は他の二人と同じように座り、アサシンの横槍などなかったように振る舞う。 私が座ると、アーチャーがライダーに向けて不機嫌そうに言い放つ。 「成る程な――。いかに雑種ばかりでも、あれだけの数を束ねれば王と息巻くようにもなるか・・・。ライダー、やはりおまえは目障りだ」 「言っておれ。どのみち余と貴様とは直々に決着をつける羽目になろうて」 ライダーは涼しく笑って受け流す。そしてそのまま視線を私に向けてきた。 「さて、セイバーよ。言わせてもらおうか」 再び聖杯問答の幕が上がる。 ライダーによってアサシンの妨害は終結した。ここにあるのは途中で止められた聖杯問答であり、他に割り込むものはもう何もない。 アサシンへの警戒をかき消し、私は意識を聖杯問答に戻そうとする。だが、脳裏には先ほど見たライダーの宝具が焼きついたままだ。忘れようとしても決して忘れられない強力な印象が今も残り続けている。 止められる前に私自身の口で語った言葉を思い出す。 「征服王、我が身の可愛さのあまりに聖杯を求める貴様には我が王道は判るまい。飽くなき欲望を満たすためだけに覇王となった貴様にはな!」 言葉を頭の中に思い描き、少しだけ王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)の印象を薄れさせることに成功した。 アーチャーが用意した酒器を再び手に取り、残っていた中身を口に含んでさらに意識を聖杯問答に引き戻していく。表向きは隙を見せぬようになんでもない風を装いつつ、その実、懸命に意識を闘争のそれから問答のそれに戻していった。 小さく息を吐き出して真正面に座るライダーを見据える。するとライダーはその凝視を待ち構えていたように堂々と告げてきた。 「セイバーよ、『理想に殉じる』と貴様は言ったな」 「その通りだ。それこそが王の誉れであり、理想に殉じてこそ王だ!」 自らの王道を言葉にした時、意識は完全にアサシンが現れる前に戻っていた。自らが歩んできた王道の正しさを誰よりも理解し、そして誰よりも悔いたかつての想いが私の中にこみ上げてくる。 真正面からこちらを見るライダーを見返すと、ライダーは更に続ける。 「・・・なるほど往年の貴様は清廉にして潔白な聖者であったこどだろう。さぞや高貴で侵しがたい姿であったことだろう。だがな、殉教などという茨のの道にいったい誰が憧れる? 焦がれるほどの夢を見る?」 「何・・・?」 「聖者はな、たとえ民草を慰撫できたとしても、決して導くことなどできぬ。確たる欲望のカタチを示してこそ、極限の栄華を謳ってこそ、民を、そして国を導けるのだ!」 ライダーの掲げる王道には正義がない。 聖杯問答が始まってからこれまでに感じていた思いにやはり間違いはなく、絶対に必要であるべきモノがライダーには足りない。 やはりライダーは間違っている。強い思いを胸に宿していると、ライダーは更に言った。 「王とはな、誰よりも強欲に、誰よりも豪笑し、誰よりも激怒する。清濁含めて人の臨界を極めたるもの。そうあるからこそ臣下は王を羨望し、王に魅せられる。一人一人の民草の心に『我もまた王たらん』と憧憬の火が灯るのだ」 「そんな治世のいったいどこに正義がある?」 「ないさ。王道に正義は不要。だからこそ悔恨もない」 「なっ・・・」 あまりにもきっぱり断言するからこそ、私は怒りを通り越して何も言えなくなってしまった。 ライダーの王道を認めたのではない。何をもって民の幸せを作り出すかの基本原則にそもそもの違いがありすぎて、目の前にいるライダーが本当に『王』であるかに迷いが生じたのだ。 欲望のままに征服王の道を進み続けたライダーにもライダーなりの正義があると思ったが、まさか最初から正義そのものを不要と断じていたとは思わなかった。 私は民を苦しめる乱世を鎮めるために王となり、ブリテンを導くために王であり続けた。だが、ライダーは自ら乱世を巻き起こした王であり、繁栄への渇望は宝を求める夜盗と何も変わりはしない。 不敵な笑みを浮かべるライダーは私が言葉に詰まったのを『口でやりこめた』とでも思っているのか。その顔に苛立ちを覚えると、ライダーは朗々と更なる言葉を続けた。 「騎士どもの誉れたる王よ。たしかに貴様が掲げた正義と理想は、ひとたび国を救い臣民を救済したやも知れぬ。だがな、ただ救われただけの連中がどういう末路を辿ったか、それを知らぬ貴様ではあるまい?」 「何──だと?」 末路の言葉を耳にした瞬間、脳裏に去来したのは血に染まった落日の丘だった。 多くの屍が山を成していた。 多くの血が河を成していた。 カムランの丘から見下ろした光景に私以外に生きていた者はなく、ただ膨大な数の滅んだ命だけが積み重なっていた。 私の心に刻まれた決して忘れてはならないあの光景が私の口を閉ざす。 「貴様は臣下を『救う』ばかりで『導く』ことをしなかった。王の欲の形を示すこともなく、道を見失った臣下を捨て置き、ただ独りで澄まし顔のまま、小綺麗な理想とやらを想い焦がれていただけよ。――故に貴様は生粋の『王』ではない。己の為ではなく、人の為の『王』という偶像に縛られていただけの・・・ただの小娘にすぎん」 「貴様――」 好き勝手に言うライダーに言い返したい言葉はいくらでもある。だがそれを言葉にしようとするたびにカムランの丘から見てしまった壮絶な光景が頭の中に蘇る。 本当にあれは正義を成した末の正しき結果だったのか? そう考えてしまう。 だがあの光景は選定の剣を引き抜いたときに予言されていた。覚悟も決めていた筈なのに、いざ、あの終末を迎えてしまった時に祈らずにはいられなかったのだ。 あの日、あの時、選定の剣を引き抜いて王となった瞬間。立ち会った老魔術師が告げた予言はすべて正しかった。 「その剣を岩から引き出したる者、すなわちブリテンの王たるべき者」 「それを取る前にもう一度よく考えてみるがいい。その剣を手にしたが最後、君は人では無くなるのだよ」 「奇蹟には代償が必要だ。君は、その一番大切な物を引き換えにするだろう」 あの予言はどうしようもなく正しかった。 正しかったからこそ、正しさすら覆す全く違う可能性を求めたのだ。そんな奇蹟があってくれたならば―――と。だから、その奇蹟を聖杯に求めた。 ライダーの言葉が私の正しさを壊していく。 ライダーの王道に屈服したのではない。私の王道の正しさが―――正義が崩れてしまいそうになった。 きっとカムランの丘の光景を思い出している今の私は気弱な顔を浮かべているだろう。あの時あった臣下の死を、友の死を、肉親であった者たちの死を見てしまい、力なく泣き崩れたあの時と同じように。 けれどライダーの語る『王』を受け入れることは絶対にできない。それは私が私自身を否定する道だ。正義なき行いなどあってはならないのだから。 だがライダーの見せた王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)は紛れもなく征服王イスカンダルの『王の姿』を見せつけた。 正義なき王道をライダー自らが口にしておきながら、だ。 何か言わなければならない。聖杯問答だからこそ、ライダーに言い返さなければならない。そう分かっているのに、口は開かない。 脳裏に浮かび上がる絶望の光景を起点として迷いが生じてしまう。すると、不意におぞましい寒気を感じて、動揺は力づくに引き剥がされた。 どこからか撫でまわすような視線が私に刺さっているのを感じた。 ライダーではない。彼は真正面から私を見据えているが、その目に宿る感情は怒気が近い。向かってくるのは横からだ。 私は横を向き、そこにいて成り行きを見守っていた黄金のサーヴァントを見る。 私が聖杯に求める願いを口にしたときに嘲笑し、その時点から私への追及をライダーだけに任せて自分は酒を愉しんでいるアーチャー。真紅の双眸が絡みつくように私を見つめており、意図は読み取れずともそこに宿る淫靡な凝視は嫌でもわかる。 「アーチャー、なぜ私を見る?」 「いやなに、苦悩するおまえの顔が見物だったというだけさ」 微笑を浮かべながら語るアーチャーは普段のアーチャーに比べればとてつもなく柔らかだ。 しかし自分以外のすべての存在を、王である私もライダーすらも雑種と言い切るアーチャーが語れば、致命的なおぞましさを含む。 そのアーチャーが言う。 「まるで褥で花を散らされる処女のような顔だ。実に我(オレ)好みだ」 「貴様っ!!」 その愚弄は決して見過ごせない。いや、見過ごしてはならない類のモノだった。 倉庫街でライダーに『小娘』呼ばわりされた時とは比べ物にならない怒りがこみ上げ、手に持った酒器を地面に叩きつけて破壊し、不可視の宝剣を再び手の中に持つ。 たとえこれが聖杯問答であろうとも、許されるべき言葉とそうでないものは確実に存在する。アーチャーはその一線を今踏み越えたのだ。 私はそのまま不可視の宝剣でアーチャーを斬ろうと身構えるが、それが実行される前にライダーの声が飛ぶ。 「余に何も言い返さぬのか? セイバーよ。そこが貴様の限界だ」 その言葉を聞き、私は動きを止めた。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - ゴゴ セイバーが何らかの迷いを抱いているようだが、ライダーの言うとおり反論できない所がセイバーの限界だ。セイバー自身がそれを認識しているかどうかは別にして、自らの王道を貫きとおして前に進もうとしているライダーとアーチャーを前にして、その王道を誤ったモノとして捉えれば先に続く道はない。 聖杯問答に乱入し、アサシンが出現した時も、ライダーが宝具を展開した時もエドガーとして一歩も動かなかった。宣言通り、事態を見守るだけに留めていたのだが、女性には優しくあれと囁く『エドガー・ロニ・フィガロ』としての意識がセイバーの味方をしたくなる。 それでも根幹にあるゴゴの意識がエドガーの意思に反して行動に移させない。 どれだけ外見を取りつくろうと、宝具『己が栄光の為でなく(フォー・サムワンズ・グロウリー)』で姿形を同じにしようとも、意識はものまね士ゴゴから抜け出せていないのだ。 他人を物真似しきれない。その悔しさが心の中に生まれそうになるが、今はセイバーに対してどうするかが重要なので少しだけ横に置く。 あるいはあの素晴らしいライダーの『王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)』の余韻に浸るのに忙しくて、セイバーの事など、どうでもよくなっているのかもしれない。 アーチャーが挑発したのは間違いない。けれどセイバーが問答の中に武器を持ち込んだ所で、聖杯問答に一気に終わりに向けて加速していく。 実質、聖杯問答を取り仕切っているライダーがどんな方向に状況を持っていくかで流れは変わるだろうが。問答を続けるのは殆ど不可能だ。 アサシンたちが現れた時は力で排除したが、聖杯問答の根底にある『問答の余地』はまだ残っていた。 それが今は綺麗さっぱり消えている。 どうする? 心の中に浮かべた問いかけに応じるように、ライダーが黄金の酒器を地面の上に置きながら言った。 「お互い、言いたいところも言い尽くしたよな? 今宵はこの辺でお開きとしようか」 やはりライダーもこれ以上聖杯問答を続ける無意味さに気づいていた。これ以上、この場を続ければ、それは問答ではなく闘争に姿を変える。聖杯問答としてこの場を終わらせるタイミングは今を除いて他にはない。 ただし、ライダーとアーチャーは問題ないが、好き放題言われて反論の一つもしていないセイバーがこのまま終わるのに納得できるはずもない。 アーチャーに向けていた敵意をそのままライダーに移し、セイバーは言う。 「待てライダー、私はまだ──」 「貴様はもう黙っとけ」 突き放すような固い声だが、それはむしろライダーの温情と言える。これ以上、続けても聖杯問答はセイバーの迷いを増長させるだけだ。今ならば自らの正しさを過ちだと認めてしまう彼女のしてはならない決断を阻められる。 だがもしセイバーがアーチャーを斬り、不可視の剣をライダーにも向けたならば、王以前に人としてセイバーは自分を許せなくなるだろう。 祖国を思うあまり自らの王道の正しさを捻じ曲げようとしたセイバーだ。思い余って自分で自分を殺してしまうかもしれない。 あるいはライダーはここで聖杯問答を終わらせ、セイバーが『自らの王道を貫く』のを待っているのかもしれない。セイバーの王道をライダーは認めないだろうが、それでも歴史に刻まれた偉業はライダーといえども否定できない。セイバーは紛れもなく英霊であり、ブリテンを治めた王なのだから。 「今宵は王が語らう宴であった。だがなセイバーよ、余はもう貴様を王とは認めぬ」 「ライダー、貴様!!」 語気を荒げてもライダーは応じない。ただ、ゴゴはライダーの言葉の中に『今のままの貴様では』の一区切りが抜けているように感じた。 それは真正面から対峙したわけではなく、横で互いの話を聞いているからこその余裕が気付かせたのだろう。 立ちながらセイバーに背を向けるライダー。言葉で応じない代わりに彼はスパタを取り出して引き抜いた。あれが、神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)を呼び出す為の剣であることはこの場に集った誰もが察している。 だからこそ、ライダーが剣を一閃した後に虚空から雷鳴を轟かす戦車(チャリオット)が現れても誰も驚かなかった。 アインツベルの城の中庭の半分近くを占用するライダーの神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)。それは言葉以上にこの場から立ち去る意思を明確に示している。 結局のところ、この聖杯問答は互いの『王道』を進むなら、三人の『王』が真っ向からぶつかり合うのを再確認しただけだ。聖杯を譲れぬ理由があり、王道に沿ってそこを通るならば力で衝突するのは必然。 ただセイバーだけがその道を踏み外そうとしているだけの話だ。 御者台に乗り込む前にライダーがこちらを振り返る。エドガーの視点からそれを見て、ライダーの口から語られる言葉を一瞬で予測する。 「立ち去る前に一つ聞いておこう――。貴様、余の軍門に降らぬか?」 やはり―――。ライダーの口から語られた内容を耳にした後、脳裏に宿ったのは強烈な納得だった。むしろこの状況で戦いのために口火を切ったならばセイバー以上に落胆したに違いない。 どんな状況だろうとも征服王イスカンダルは征服王イスカンダルとして自らの道を突き進む。それに名前がついて『王道』と呼ぶようになった。 状況が状況なので言葉こそ短かったが、それでも征服王イスカンダルらしい一言に心が奮い立つ。 だが、この世界にフィガロという国が存在しなくても、エドガーもまた一国の王であり、突き進むべき王道が存在する。 ゴゴとしても『ものまね士』であり続けるためには誰かの下については自由に動けない。今のエドガーがそうであるように、王ですらものまね士ゴゴにとっては物真似の対象なのだ。断じて、主君に据えるモノではない。 「あの素晴らしい者たちを見せられた後では心揺らぐお誘いだ。けれど断らせてもらおう」 「そうか、そりゃあ残念だのう」 「私は君と聖杯を争う相手でない。だが私にも譲れない道があるのでね」 ライダーの前でフィガロの国王だと名乗ってはいないが、それでもエドガーとしての王道をほのめかしながら告げる。 ふてぶてしい笑みで持って答えれば、ライダーもまた獣を思わせる男っぽい笑みを浮かべてこちらを見た。 交わした言葉は短いけれども清々しい別れがここにあった。 セイバーに向けた憐れみすら漂わせる視線とは大違いだ。 「さあ坊主、引き上げるぞ」 「──え? あぁ、うん・・・」 ライダーが言うとウェイバーは生返事をしながら恐る恐る御者台へと移動していった。 放心と呼ぶに相応しいその様子はライダーの宝具『王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)』を見たからだろう。倉庫街で見た英霊の宝具に決して見劣りしない、あるいは最強といっても過言ではない様を間近で見せつけられたのだ。 ライダーがあの宝具を戦場で使ったのは今回が初めて、もしマスターであるウェイバーもまた今回が初見だったならば、その驚きようは当然と言える。 いきなり敵に真名を明かす破天荒さを見せつけながら、それでいて誰よりも強大な宝具を使いこなす征服王イスカンダル。独立サーヴァントの連続召喚が作り出す偉容に圧倒されても不思議はない。 ゴゴと同じように―――。 今のウェイバーは腰に少女の姿をしたアサシンがしがみ付いているのにも気づいてないのかもしれない。ずりずりと引きずっているのか引きずられているのか分からないまま動いてウェイバーが御者台に乗る。それを追って、カイエンになったゴゴもまた御者台に乗り込んだ。 王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)を見てものまね士ゴゴが思った気持ちは嘘ではない。それでも、いずれは物真似してみせるという向上心もまたふつふつと湧き立つ。 逸る気持ちがゴゴを起点にしてカイエンにもエドガーにも伝播しそうだった。 最後にライダーが業者台に乗り込んでそのままで先頭へ移動する。手綱を握り締めアインツベルンの城からの帰還準備を整えると、そこでようやくライダーを睨んでいるセイバーの方を振り向いた。 憐れんでいるような視線は変わっていなかったが、放たれる言葉は真摯にも聞こえる。 「なあ小娘よ。いい加減にその痛ましい夢から醒めろ。さもなくば貴様は、いずれ英雄として最低限の誇りさえも見失う羽目になるぞ。貴様の語る『王』という夢は、いわばそういう類の『呪い』だ」 「いいや、私はっ!」 違う、とセイバーが続けるよりも前にライダーは手綱を操って二頭の雷牛を走らせてしまう。 神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)はライダーの命じるままに一気に天高く飛翔し、雷鳴の轟きを遠雷に変えながら去ってしまった。あっという間に言葉が届かない高みへと上り詰め、夜の空の中へと消えていく。 もっとも、あちらのカイエンに意識を移せばすぐにでも把握できるので、ゴゴにとっては隣にいるのと大差がない。 アインツベルンの城に残るのはセイバーと彼女のマスターと偽っているアイリスフィール。そしてアーチャーとエドガーの四人だ。 セイバーは一時アーチャーに不可視の剣を向けていたので、ライダーがいなくなって聖杯問答は形を変えた、状況によってはそのまま戦いになってもおかしくないのだが、アーチャーは撫でまわす様な視線をセイバーに向けるだけだ。 そこに殺し合いを行う雰囲気はない。いや、この状況でセイバーだけ逸っていた。 「耳を傾ける必要などないぞ、セイバー。おまえは自らが信じる道を行けばいい」 「・・・私を嘲笑しておきながら、今度は私をおもねるのか? アーチャー」 「無論だ。おまえが語る王道には微塵たりとも間違いはない。正しすぎて、その身にはさぞ重かろう」 セイバーは再びアーチャーに不可視の剣を向けるが、アーチャーは戦う空気をまとわずに、ただただセイバーを見つめ続ける。 見ようによっては恋焦がれているようにさえ見えた。 「その苦悩、その葛藤――。慰み者としては中々に上等だ」 そう言いながら笑うアーチャーはどこまでも邪悪だった。笑いの性質こそ違うものの、その姿はかつて一つの世界を滅ぼして神の力すら手中に収めたケフカ・パラッツォを思わせる。 自分を頂点に置き、他者はどうなっても構わないという考え方は似ているので、そこに類似点があった。 「せいぜい励めよ騎士王。ことによるとお前はさらなる我が寵愛に値するかもな」 アーチャーはそれだけ言うと、足元から自らを零体化させていった。セイバーが剣を向けている状態で無防備ともいえる移動だが、斬られても構わないと思っているのか、今のセイバーでは斬れないと確信しているのか。隙を存分に見せつけて消えていく。 敵意とは異なる何かがアーチャーの中に芽生えているのは間違いない。ただこの黄金のサーヴァントほど『恋』や『好』が似合わない男はいない。男女間の関係だろうと、『支配』の方が似合っている。 どんな意図があるかは読めないが、アーチャーが敵としてではなく別の意味でセイバーに目を付けた。何がアーチャーの気を引いたのか判らずに、ついアーチャーを目で追うと。頭部が消える直前にこちらを―――つまりエドガーの視線でアーチャーと目があった。 倉庫街の戦いでマッシュと完全に敵対したアーチャーだが、兄弟だからと言ってエドガーをいきなり葬り去る度量のせまい男ではなかった。それでもこちらを敵と認識したのか、一瞬だけ交差した視線の中に殺意があった。 錯覚にも思える短い時間だが気のせいではない。アーチャーの全身が消え去って完全に零体化した後には何も残っていなかったが、紛れもなくアーチャーはエドガーを見て殺意を飛ばしてきたのだ。 戦いの場が揃えば、話し合い以前に出会った途端に殺し合いになる。そう確信してしまう強い殺意だった。 ライダーが去り、アーチャーも消えた。 物真似するモノを見つけるためにこの場に訪れた。戦う気は最初からなく、ランサー健在で満足に宝具を使えない今のセイバーを相手にしても得るものは何もない。それに聖杯に託すセイバーの願いを知ってしまったあとでは、近くにいるだけでむしろ怒りだけが湧き上がってしまう。 もうここにいる理由は何一つなかった。 「では私も失敬させてもらおうか」 あえてそう言って不戦の態度を示す。槍を手に取った時に不可視の剣を構えるセイバーとアイリスフィールの緊張が高まるのを感じたが、戦いたくない意識はこの場で誰よりも強い。 けれど、苦悩する女性がいたら声をかけるのもまたエドガーである。ゴゴとしての意識は即時退散を求めながら、エドガーとしての意識が言うべきだと心の中で叫ぶ。 先ほどのエドガーを物真似しきれなかったものまね士の矜持がそうさせるのか。体はアインツベルンの城の外に向かうべく跳躍の準備を進めながら、気がつけば言葉を発していた。 「セイバー。君が聖杯に託す願いは君を『英雄』と認めた民草の思いもまた踏みにじる。悪い事は言わない、そんな願いは捨てた方が君の為だ」 「なっ!」 ゴゴとエドガーの意識が中途半端に拮抗していた為か、失礼とは思いつつも背中を向けたまま言葉を発した。 ただし今の状況を考えれば悪い点ばかりでもない。 何しろ、放った言葉はセイバーにとって挑発以外の何物でもなく、不可視の剣を構えた今の状態ではそのまま戦いに突入しても何ら不思議はないのだから。それでも『背を向けている』、なら。騎士道を体現しようとするセイバーは攻撃してこない。 セイバーは自分の王道を否定するどうしようもない愚か者だが、まさか自分なりの正義を貫こうとしている時に背中を向けている相手にいきなり斬りかかったりはしないだろう。 そのまま数秒待ったが、不可視の剣による攻撃も言葉での応酬もない。見えないので予測するしかないが、いきなり無関係と思われた男から忠告されて動揺しているのかもしれない。 ただ予測が正解だったとしても、これ以上セイバーに話しかける危険性は見なくても理解できた。今ほど、火に油を注ぐ、が似合う状況は他にないのだから。 ゴゴは話の矛先を後ろにいるセイバーではなく、横にいるアイリスフィールに変える。 「御婦人、お子さんはいるかな?」 「・・・え?」 エドガーの視点で横を向けば少しだけアイリスフィールが見えたので、唐突に話しかけられた彼女がセイバー以上に困惑しているのがわかった。 唐突すぎる。そう思ったが、セイバーとこの瞬間にも敵対して戦いになりかねない状況では、言葉を短くまとめるしかない。 「いるだろう? 君に心に決めた人がいるか。それともいないか。誰かの妻か。子を産んだ母か。私には見ただけで判る容易い事だよ」 こちらの言葉を聞いて絶句しているというよりも、いきなり言われてどう返せばいいか迷っているアイリスフィールに向け、エドガーの口で更に言葉を続ける。 「セイバーにとってここに集った我々は誰もが等しく敵。そして彼女は敵の言葉をすんなり聞く女性ではないようだ。子を持ち、慈しみ、愛し、育てる貴女なら――。いや、もしかすると貴女しか、セイバーを止められないかもしれない。頑張ってくれたまえ」 「・・・・・・」 アイリスフィールがどんな思いでこの言葉を聞いたかはアイリスフィールにしか判らない。そして見えない位置で間違いなくこちらの話を聞いているセイバーもまたどんな思いでこの言葉を聞いたかはセイバー自身にしか判らない。 願わくば、あんなつまらない願いを抱えてままではなく、ライダーやアーチャーのように自らの王道を突き進む一人の王として、もしくは迷いなき淑女になってほしいと願うばかりだ。 何も言わないアイリスフィールを一瞥し、エドガーは速やかにこの場を退散するために跳躍する。アインツベルンの城の中庭に現れた時のように、常人には決して不可能な飛翔と見間違うジャンプだ。 足に履いたアクセサリ『竜騎士の靴』が可能にした人知を超えた力。城の屋根の上に乗って、最後に一度だけ振り返ると、目を丸くしながらこちらを見ているアイリスフィールと、今にも斬りかかってきそうな殺気をぶつけてくるセイバーがいた。かなりの距離まで離れたのに剣呑な雰囲気が伝わってくる。 もう少しあそこで長居していたらセイバーと戦いになっていたかもしれない。 物真似したくない相手の上に、ランサーによって手傷を終わらせて十全に力を発揮できない今のセイバーには興味がない。今から向かってこられても困るので、エドガーの姿をしたゴゴはアインツベルンの森を脱出すべく、彼女らに背を向けて大きく跳躍した。 聖杯問答を通じて一番の収穫は何か? 自分自身に問えば、やはりライダーの宝具『王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)』を見れたことだろう。 ものまね士ゴゴとしての力を総動員すればあれを上回る結果は作り出せるが、宝具そのものを物真似する事は出来ない。無論『今の所は』だが。 すべてを物真似するにはライダーと共に戦った全ての独立サーヴァントを召喚しなければならない。幻獣ならば、息を吸うのと同じぐらい簡単に呼び出せるが、かつて征服王イスカンダルと共に世界を駆け巡った英霊たちを召喚するとなると話が違う。 これは物真似のし甲斐がある―――。 現時点での『できない』はすぐに未来への『できる』へと変貌し、物真似への渇望へと姿を変えた。完全に王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)を物真似するには長い時が必要になるかもしれないが、それでも出来ないとは考えずに出来ると意識を切り替える。 そのせいか、ライダーに同行しているカイエンの意識にばかりゴゴの主体がひっぱられるが、ライダーは神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)で空を駆けるのに忙しく、目新しいモノは何も見れない状態につまらなさを感じていた。 カイエンの目で見て判るのは、あの王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)を発動させたことでライダーの貯蔵魔力が限りなく減っていることと、アサシンの少女にしがみ付かれたウェイバーがどうすればいいかおろおろしている位だ。 戦車(チャリオット)がアインツベルンの森から距離を取るまでしばらくはこのままだろう。ゴゴはアインツベルンの森の中を駆けるエドガーに意識を移し、今も魔力経路を通じて五感の幾つかを同調させている雁夜へと語りかける。 「あれが相手ではどんな武器でも宝具にできるバーサーカーといえども勝ち目はないな」 「・・・・・・ああ、もしバーサーカーに魔力切れの弱点がなかったとしても、単騎であれに勝つには武器が頼りなさすぎる」 エドガーの口から出てくるのは肉声だが、応じる雁夜の声は頭の中だけに聞こえる特異な声だ。周囲から見れば、走りながら独り言を喋っているようにしか見えないだろう。 「先陣切って突っ走ったライダーだけなら何とか出来るかもしれないが・・・。あの固有結界に取り込まれて、ライダーが不在でも残りのサーヴァントが健在なら勝ち目はないな」 「なかなか冷静な判断じゃないか。少し前の雁夜なら『俺のバーサーカーは誰にも負けない』と言いそうだがね」 「比較対象がお前だからな。俺がどれだけ弱くて、英霊でも太刀打ちできないか嫌になるほど思い知った。ところでこの後はどうするつもりなんだ? アサシンの監視が外れたならもう街の中にいる必要はないだろ」 「それなんだが・・・。残念なことにアサシンはまだ二十人ほど健在でね。しかも、ライダーの宝具を見極めてサーヴァントの情報収集は完了したのか、残ったアサシンは私たちの調査に本腰を入れ始めた」 「つまり・・・」 「ああ、雁夜の周りにもかなり距離を取ってアサシンが一人ついてるぞ。私の後ろからも攻撃できない距離を取って一人追いかけてきている。城で同じアサシン達を殺されながらも全く動かなかった、大した奴だ」 アサシンの健在を伝え、しかもそのうちの一人が近くにいると聞かせると、雁夜の意識がエドガーの中から遠ざかっていった。 通常ならアサシンの一人程度慌てふためく必要はないが、今の雁夜は意識をエドガーに移している為に本体が無防備だ。その危機感から急いで戻ったのだろう。 「やれやれ、ロックとセリスの護衛だけでは不安かね? 蟲蔵でアサシンの全容はほぼ解明された、あの程度では敵にもならんよ」 完全に同調を切ってしまったようで、呟いても雁夜からの応答はない。 仕方なく一定の距離を保って背後から迫ってくるアサシンを意識しつつ、アインツベルンの森を抜ける。 離れ過ぎて攻撃は届かないが、向こうも接近し過ぎると呆気なく殺されると学んだらしい。離れれば離れるほど情報の精度は落ちて、しかもこちらの会話は聞こえないだろうが、監視できる人員を減らさずにいたいのだろう。 ただし『アサシンが複数いて、しかもまだ生き残っている』という状況はアサシンの諜報機関がまだ健在である利点もあるが、言峰綺礼がまだマスターとして聖杯戦争に参加している事実をしっかり教えてしまった汚点もある。 中立である筈の聖堂教会がまだサーヴァント健在のマスターを一人かくまっている。しかも言峰璃正とアサシンのマスターそれが親子関係であるならば、肉親の情があろうとなかろうと中立性を欠いた行いであるのは確たる事実である。 キャスター討伐により令呪一画が渡されるので、ライダーやセイバーが言峰綺礼の健在に気づいても、動くならばキャスターが倒された後の可能性が高い。 つまり聖堂教会に誰にも邪魔されずにちょっかいを出すなら今こそが好機なのだ。 アサシンにもそのマスターである言峰綺礼にも物真似する要素が見当たらないので興味は全く無いが、『聖杯戦争を破壊する』を目的にするならばやれる事はいくつかある。 「アサシンを使い、聖杯戦争の全てを操っていたつもりになっているようだが・・・。そろそろ自分の器の大きさを知ってもらおうか、言峰璃正」 エドガーの口から囁かれた言葉は誰にも聞かれることなく虚空へと消えていった。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 間桐雁夜 夜のアインツベルンの森に出来上がった一本の道―――ライダーの戦車(チャリオット)が作り出した破壊の後を逆走するエドガーの視界から見ていた景色。それが一気に消えて、生身の自分の視界に戻っていく。 理由は言うまでもなく、アサシンがまだ残っていてしかもこちらを監視しているのが不安になったからだ。 何しろ護衛についてるロックとセリスも五感同調の魔力回路の役目をはたしているので、俺たちはいま完全に無防備なわけで―――。そう思いながら意識を完全にゴゴから間桐雁夜に戻すと、同じ夜でもアインツベルンの森とは全く違う町の景色が目の中に飛び込んできた。 そのまま反射的に周囲を見回すと、特に異常のない夜の冬木市が広がっている。 敵の姿はなく、ぴりぴりとした緊張を強いる空気が辺り一面に立ち込めているのは何も変わっていない。その事実に俺はほっとした。 もっとも、俺が気付いてないだけでアサシンがこっちを監視してるんだろうが・・・。 「異常なし・・・か」 「危険だったらエドガーと話す前に強制的に同調を切ってるぞ」 「心配性ね、雁夜」 思わず呟いてしまった独り言に返してきたのは、両隣りに座るロックとセリス―――の姿をしたゴゴだ。相変わらず、完全に別人としか思えないので、他人と接しているようで何とも気まずい。 ただしそれは表情には出さない。 弱っている時だからこそ相手には強く見せろ。何度も殺されて、何度も戦って、可能な限り相手にこちらの手の内を悟らせないようにするやり方は生きる為の術として身についていった。 ゴゴには俺の内情が全てが判られている気もするが、意地で気まずさを表情には出さずに話を続ける。 「それでこれからどうするんだ? さっきも言った・・・いや、エドガーにはだけど、俺からアサシンの監視が外れたならもう街の中にいる必要はないぞ。あっちの目的がお前らなら俺がここにいる意味は無いだろ」 「その代わり、一人で動けば遠坂時臣が本腰を入れて敵対してくるだろうな。ライダーの宝具を知ってバーサーカーを泳がせておく必要がなくなったからな、魔力消耗の早さを知られてたら真っ先に攻撃されるぞ」 「アーチャーとは倉庫街で勝負がつかずに終わってるわ。マスターのその気がなくても、サーヴァントが自分から仕掛けてくるかもしれないの。貴方もアーチャーの保有スキル『単独行動:A』は知ってるでしょう? 位置は判るから出会わないように場所を変えられるけど」 「そっちの問題があったか・・・」 ゴゴという『絶対防衛』がいる為か、つい聖杯戦争について軽視する傾向が出始めたのは悪い兆候だ。いまだキャスターの悪意は冬木市の中を蠢いているうえに、バーサーカーのマスターである俺自身の敵がまだまだ残っている。 ただ、話を聞いている間、ふつふつと遠坂時臣に対する怒りが心の中から湧き上がっていった。あの男が動くのならば、その時こそ俺の聖杯戦争が本格的に始まる時だ。 前哨戦として倉庫街の戦いを生き抜き、桜ちゃんの願いで子供たちを何人か助けたが、真の目的である『桜ちゃんを救う』ための行動は遠坂時臣の行動なくして決して成しえない。 この先の未来に何が待ち構えているかは俺には判らない。ただ、ゴゴの手によって聖杯戦争はこの第四次を最後に終わりを迎えるのだけは判っている。 俺は何としてでも桜ちゃんを救ってみせる。 その為に俺はここにいるのだから。 「アーチャーの宝具があれだけならバーサーカーと俺だけでも何とかなるかもしれない。よくて相討ち、悪いと勝負の流れを持ってかれて一方的に殺されて終わるな・・・畜生」 「心配しないで、ライダーの奥の手と同じようにアーチャーにも必ずあの宝具以外の武器があるはずよ。貴方は絶対に単独で戦わないで」 「要するにアサシンがいようといまいと俺たちのガードがあるから心配するなって事だ。安心したか雁夜」 「まあ・・・・・・頼りにはしてるよ」 一年前にすでに結論付けてしまったことだが、いまだにゴゴの力を借りなければ聖杯戦争すら勝ち抜けない自分の力に嫌気がさしてくる。 だが考えるまでもなく一年前の段階で見習い魔術師にすらなってない男が、生まれた時から鍛錬を行っている正規の魔術師と戦える所にまで到達できるはずがない。 ゴゴの力がなければ、そもそも戦いの舞台にすら上がれなかったのだ。感謝こそすれ、恨むのは筋違いだろう。 それでも自分の不甲斐なさに腹が立つのは止められなかった。 平静を装いつつ、話題を変える。 「一旦、桜ちゃんと合流しないか?」 無茶な話題転換だとは自覚しつつも、桜ちゃんと随分会ってないような気がしていた。 時間にすれば丸一日も経ってない。けれどアサシンと他の監視の目を警戒し続け、しかも聖杯問答にこっそりお邪魔してライダーの途方もない宝具を見たせいか、体感時間が強烈に引き伸ばされているような気がする。 言葉に出来る確たる理由は無かったが、無性に会いたくなった。 「いいんじゃないか?」 「でもブラックジャック号は冬木市の外にあるし、桜ちゃんは寝てるわ。間桐邸に戻って休んでからにしましょう」 「え? あ、その、いいのか?」 「雁夜が言い出したんだろうが、何をいまさら」 「これから冬木市が少し騒がしくなるわ。戻るのは私も賛成よ」 ロックの言葉は聞き流せる軽さがあったが、セリスのそれは軽く告げられたからこそ聞き逃せない単語を聞きとってしまう。 セリスは言った、『騒がしくなる』と。まるでこれから起こる何かしらの事象について知ったような口ぶりがどうしようもなく気になった。 何しろ見た目はゴゴと全く別人のセリスだとしても、本質は人が予測できる域を軽々と突破して色々とやるものまね士ゴゴなのだ。 その一言を軽んじるのは危険すぎると思い知ってる。 「・・・・・・何があるんだ?」 間を置きながらもそう問い掛けてしまうのは仕方ないことだと思う。 悪いのはゴゴで俺じゃない。 「聖杯問答にいなかった人たちに少し仕掛けてくるわ」 「もしかしたらマスターの半数はこれで消えるかもしれないな。まあ、それはそれでこの先の戦いの手間が省ける」 「・・・・・・・・・・・・・・・」 聖杯戦争に参加したマスターを殺すなら、最大の障害となるのはそのマスターを守っているサーヴァントだ。 倉庫街の戦いでバーサーカーを仕掛けたのでサーヴァントの恐ろしさはある程度判った。アインツベルンの森でキャスターとも直接対峙したので、戦いようによってはその厄介さも格段に跳ね上がると思い知った。 けれどロックとセリスは―――明日の天気を語るような気安さで障害の低さを口にする。自らを高みに置いた口振りに羨望と同時に嫉妬が湧いた。 「詳しく聞かせろよ」 「間桐邸に戻るまでは長い、歩きながら話すか」 ロックはそう言って立ち上がった。セリスもそれに続いて同じく立ち上がったので、横に置いておいた魔剣ラグナロクが入ったアジャスタケースを手に取りながら俺も立ち上がる。 あと数時間もすれば桜ちゃんと会える。それ自体は嬉しい筈なのに、その数時間の間にまたゴゴが何かやらかすかと思うと気は重くなっていく。 「で? 何をするんだ?」 歩き出すと同時に話は始まった。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 衛宮切嗣 ランサーのマスター。ケイネス・エルメロイ・アーチボルトことロード・エルメロイの脱落を確認すべく、追跡を開始。冬木市の各所に放った使い魔からの情報を統合し、現在の拠点は郊外の廃工場を隠れ家として利用していると判明した。 結界の術式の構成は甘く、冬木ハイアットホテルとは比べ物にならない粗雑な結界に守られており、単身での攻撃も可能。ただし、結界そのものに綻びは無いので解除の必要性あり。 望遠によりランサーと会話をするロード・エルメロイの婚約者であるソラウ・ヌァザレ・ソフィアリを確認。ランサーに気づかれる可能性が高いので以後の監視は使い魔とカメラによる録音に変更。 セイバーの片腕が完治しない状況と合わせて予測するに、現時点では彼女がランサーを統べていると思われる。アイリスフィールと同じように代行マスターとしてふるまっているのであれば、彼女を殺してもサーヴァントの無力化は叶わない。廃工場の奥でかくまわれていると思われるロード・エルメロイを同時に始末する方法が必要となる。 「・・・・・・・・・」 聖杯戦争開始以前に舞弥と落ち合った新都駅前の安ホテルは今でも拠点の一つとして有効活用されており、壁に張られた冬木市全域を表す地図には聖杯戦争に関するもろもろの情報が余すことなく記録されていた。 ルームサービスの類は一切断っているので、この部屋に近づく者は舞弥を置いてほかにはおらず、ここに迫りくる者がいるとすればそれは敵でしかない。 つい先ほど、アインツベルンの城から連絡があり、ライダーの特攻によって急遽開かれた聖杯問答なる催しの詳細が伝えられた。 機械など殆ど触ったことのないアイリが電話をかける苦労が浮かんでくる。 本来であればアインツベルンの城から僕の電話に直通でかけるなど愚の骨頂であり、誰かが僕と同じように無線信号を傍受する機械的な技術に長けた者ならば、すぐにこちらの居場所を知られてしまう危険を孕んでいる。 それでも電話をかけてきたのはアインツベルンの城で起こったあまりにも多くの出来事に起因していた。ライダーの破天荒さは言うにおよばず、魔術師の常識を超える王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)という名の固有結界。セイバーが万全の状態であれば拮抗できるかもしれないが、現状では勝ち目のない宝具を知った。 そしてアイリが語ったもう一つの話は、少女の姿をしたアサシンがライダーのマスターと同行している点だ。見破ったのはセイバーらしいがそれはどうでもいい。もしかしたらアサシンのマスターである言峰綺礼は遠坂時臣だけではなく、ウェイバー・ベルベットとも共闘体制を結んでいるのかもしれない。 セイバーに見破れたことを間近にいるライダーが出来ないとは思えないので、アサシンを傍に置いているのは意図的であろう。 そうなるとアーチャー、ライダー、アサシン、この三人のサーヴァントが全て一大勢力を作り上げている可能性が出てきた。 僕はランサーの現状についての情報整理を一旦置き、引き続き警察無線から傍受した失踪事件の情報をまとめ始める。最早、ライダーに結界を破壊しつくされたアインツベルンの城を拠点として使い続けるのは不可能、そこでセイバーとアイリをあそこから移動させる手筈を整える必要がある。 すでに舞弥に行わせているので、そちらの心配はしていない。 問題なのは予想外すぎるライダーとアサシンの共闘。そして今だ全容どころか片鱗すら掴ませない間桐に協力している何らかの組織の情報だ。倉庫街で乱入してきた『マッシュ』という男が間桐邸に戻ったのを確認した後、僕はすぐに調査を開始した。 特に一年前から唐突に装いを新たにした間桐臓硯を中心に調べているが、今のところ重要かつ決定的な手がかりは何一つ入ってこない。だが、英霊の攻撃を弾き返し、真っ向からやりあえるだけの戦力を複数保持する組織など限られる。あれだけの力を持っているのならば、裏の世界でその名を轟かせても不思議はないのだ。 それなのにまだ尻尾すらつかめていない。 ライダーのマスターにはアサシンの少女以外にも、間桐と協力関係にある組織の人間と思わしき『エドガー・ロニ・フィガロ』という人物と旧知の間柄と思われる者もいた。 あり得ないとは思いたいが、アーチャー、ライダー、アサシン、そしてバーサーカーすら共闘していたらどうするか? 情報が少ないのでこれは予測にもならない妄想でしかない。しかも始まりの御三家は他の四人のマスターよりも聖杯への渇望が強いので、共闘するなど絶対にあり得ない。行き過ぎた想像は事実を曲解するので考えるのは危険だが、起こっている事実は言峰綺礼と遠坂時臣、そして聖堂教会の共闘をさらに上回る混沌を生み出している。 まずは正確な情報を仕入れて、起こっている事実を正確に把握しなければならない。 アインツベルン城を襲ったというアサシンの軍勢が、総戦力を動員したものだったと思いたいが。ライダーのマスターに同行しているアサシンがいるのならば、あの男がマスターとして健在なのは間違いない。 頭の中に一瞬だけ通り過ぎた『迫りくる敵』の姿が現れて、情報収集に努めなければならないと理解しているのに、その思考は消える事無く残り続けた。 敵の名は言峰綺礼。 僕が聖杯を得る為の敵はあの男だけではない。それなのに言峰綺礼の名は強く僕の中に残り続ける。 そもそも言峰綺礼は何を考えて聖杯戦争にマスターとして参加したのか? その意図が掴めない。 遠坂邸での不可解なアサシンの敗北があり、倉庫街の乱戦で殺されたはずのアサシンが現れた瞬間から、アサシンのマスターである言峰綺礼は遠坂時臣の傀儡か協力関係にあるものと考えた。 アサシンが宝具によって複数に分裂して行動できるようになったのか、あるいは別の何かを使ってそれを可能としたのか。複数のアサシンによる統括して諜報活動を行ったのは見事と言うほかない。 しかしならば何故、アサシンにとっての弱点ともいえるマスター自身が冬木ハイアットホテルに隣接する舞弥を攻撃したのか? アインツベルンの森にキャスターが侵入した時も、言峰綺礼らしき人物が森に侵入してきたのを確認している。もし言峰綺礼が諜報役に徹するならば、狂言に従って保護された冬木教会から一歩も動いてはならない筈。 だが言峰綺礼が出歩いている事実が存在する。 仮に言峰綺礼の目的が僕自身だったならば、行動のおかしさの説明は出来る。だが僕がセイバーの真のマスターだと露呈した雰囲気はなく、むしろ僕個人にのみ焦点を当てた行動ばかりが目立った。 何のために? 言峰綺礼はアサシンのマスターとしてセイバーのマスターを追っているのではない、言峰綺礼個人として僕を追っている。 あり得る可能性は怨恨だが、事前に調査した言峰綺礼の経歴と僕との接点は何一つ存在しない。かつて僕が殺した魔術師や、その過程で犠牲になった人の中に言峰綺礼の知人がいた可能性はゼロではないが、これも考えにくい。 考えれば考えるほどに言峰綺礼の行動理念の根幹にあるものが判らず混乱していく。 ただし、言峰綺礼にどんな意図があるにせよ衛宮切嗣の敵としてこれからも眼前に立ちふさがるのは間違いない。 「言峰綺礼・・・貴様は何者だ?」 思わず声に出して呟いてみるが、判らない状況を覆す突破口にはならなかった。むしろ焦りは募り、真実から遠ざかっていく実感ばかりが膨らんでいく。 聖杯戦争に関する情報収集を継続し、意図して言峰綺礼の思考を外を追いやるか。あるいは判断力に曇りが出始めているので、休息を取って体調を一旦万全にすべきか。 最後に睡眠を取ってからすでに七十時間が経過している。薬で眠気を抑えているが、無意識のうちに疲労は蓄積されて集中力を鈍らせている可能性は大いにあり得る。 まだ集めるべき事柄は山のように存在するが、誤った判断を下しては意味はない。 自己催眠の呪文によりストレスを意識もろともに消し飛ばす荒療治を使えば、二時間程度で十全の状態にまで復帰できる。情報収集を部屋の中に設置した機械に任せ、衛宮切嗣という一個の機械装置もまた休息させる。 そんな風にこれからの事を考えたまさにその瞬間だった。ジリリリリリ、と部屋の中に備え付けられているルームサービス用の内線電話が音を鳴らした。 電話をかけられるのはホテルのフロントからだけで、用がない限りは絶対にかかってこない状態を作り出している。つまりこの電話はルームサービス以外の何かしらの異常事態を知らせる電話になる。たとえば、ホテル内で火災が発生したので宿泊客に知らせる為の緊急電話をかける場合などがこれに該当する。 いったい何が起こった? 突然鳴り響いた電話に対し、驚くよりも前にあり得る可能性の一つを思い浮かべて動揺を強制的に消す。そして慌てる事無く、受話器を手に取った。 「はい」 「夜分遅くに申し訳ございません。フロントですが、『田中誠』様のお部屋で間違いございませんか」 「そうです」 事前に舞弥がこの部屋を借りるときに使った偽名に僕は間髪いれずに応じる。足跡を残さないために偽名を用いるのはいつもやり慣れていることなので、見も知らぬ他人の名前で呼ばれようと逡巡はない。 「何かありましたか?」 衛宮切嗣としての機械装置は迷うことなくそう告げた。 「フロントにお客様のお知り合いと名乗る方がいらっしゃっているのですが・・・」 「僕に?」 「はい。『リルム・アローニィ』と名乗る十歳ぐらいのお嬢様です」 聞いた事のない名だった。 敵であろうと味方であろうと、それが知った名だったならば何らかの対処はとれるのだが、全く知らぬ第三者の名前が出ては判断に迷う。だから僕はそれをそのまま正直に告げる。 「聞いた事の名前ですね。誰かと間違えていませんか?」 もしこれで『遠坂』や『間桐』、最悪の可能性として『言峰綺礼』の名前が出たら、僕は即座にこの部屋を脱して外に逃げる算段を立てていた。 窓の外にあらかじめ設置しておいた対人監視用のセンサーは作動していないので、来訪者が敵だったとしてもまだこのホテルを包囲してはいない。 誰が何の意図で僕を訪ねたのか? その疑問でほんの僅かに電話口に応対する僕の言葉に空白ができると、受話器の向こうから新たな言葉が飛んでくる。 「――失礼ですが、『衛宮切嗣』という名前にお心当りはございますか?」 「いえ、ありません」 「フロントにいらっしゃっているお客様は『衛宮切嗣』様に御面会を希望なのですが、仰った部屋番号は田中様の番号になっておりまして・・・」 言葉では何の戸惑いもなく応じたが、頭の中では訪問者への危険レベルを最高値にまで引き上げる。 このホテルには監視カメラなんて大層な物は設置しておらず、だからこそ誰にも知られずに身を隠す拠点としては有効なのだが、そのおかげでフロントに移る景色もこちらには見えない。 アインツベルンの城のように自らの拠点とするならば監視体制を整えるべきだが、仮の拠点でしかない安ホテルでは不可能だ。 敵が来た。セイバーのマスターとして認識しているかは不明だけど、ここにいるのが『衛宮切嗣』だと確信をもった何物かが近づいている。そう判断し、状況への楽観視はしない。 だが不可解なのは、もし敵ならばわざわざフロントを通らずに直接外からこの部屋を攻撃すれば済むのに、わざわざこちらに接近を知らせた点だ。何か用があってこちらに接近を知らせているのか、それとも聖杯戦争とは関係のない何者なのか。 楽観的希望が話し合いが通じる相手の可能性を浮き上がらせるが、今は正体不明の相手を『迫りくる敵』と想定する。情報もなく何も判らない状態で主導権を相手に渡せば、待っているのは僕の死だ。 だからこの場からの即時撤退のために僕は動き出す。 「とにかく知りません。では、失礼します」 フロントからの回答を待たず、僕は受話器を置いた。そのまま脱出に必要な道具だけを手に取り、窓へと向かう。 トンプソン・コンテンダー、魔術礼装『起源弾』、そしてこれまでの情報をまとめた情報でまだ情報精査が終わっていないもので重要度の高いものを幾つか。 壁に貼り付けられた地図や、警察無線を傍受するための無線機などは移動の邪魔になるし持ち運ぶためには時間を要するので切り捨てる。整理されていない情報ばかりだが、全て僕の頭の中に入っているので、今は必要な物だけを持って撤退する。 手が窓に触れて開いたその時。コン、コン。と扉をノックする音が耳に届いた。 フロントから人の足で到達するにはもっと時間がかかる筈。フロントに姿を現して何者かの他に別働隊がいたのだろう。 扉を挟んで距離にして数メートル向こう側に敵がいる。 「衛宮切嗣? いるならここをあけろー」 その敵はイリヤを思わせる幼い喋り方をして、女の子のような少し高めの声だった。 僕は聞こえる声に応じず、窓枠に足をかけて一気に跳躍した。 「むー。開けないなら似顔絵描くぞ」 後ろから聞こえてきた声には答えない。その代わりに、こういう場合のために用意しておいたある仕掛けを発動させる。 万が一にこの安ホテルが拠点だと敵に察知され、なおかつ逃走のために準備する時間すらない場合にのみ効果を発揮する仕掛けだ。 地面へと落下しながら足を下にして着地に備える。そして持ち出した荷物を脇に抱えて手を開けると、コートのポケットから『それ』を取りだす。 スイッチだ。ただし、段階を二回踏まないといけない。 ロックするスイッチを押しながらもう一つのスイッチを押さないと効果は発揮されない。 重力に引かれる自由落下の一瞬の間に手はその二つの手順をなんなくこなし、着地すると同時にホテルの部屋の中に仕掛けておいた傷痍爆薬がその破壊を撒き散らす。 聖杯戦争に対する証拠隠滅と迫りくる敵への攻撃。二重の意味を持つ破壊が頭上で巻き起こり、地響きと共に飛び出したホテルの窓から炎が噴き出した。 英霊や予め防御の魔術を施した相手には効果は薄いが、足止めぐらいの役には立つ。 「何だ、何だ、何だぁ!!」 見上げて爆破の確認をしていると、すぐ近くの窓から驚きわめく声が聞こえた。どうやら同じホテルに泊まっていた客が突然の騒音に驚いたようだ。留まっていては人目につく可能性があるので、すぐに走り出す。 駆けだした態勢になったまさにその瞬間。ホテルの窓から誰かが身を乗り出した。僕が走り出す方向と一緒だったが、身を屈めれば衝突はない。 僕は慌てずに姿勢を低くする。こちらの顔を見咎められない意味もあってのことだが、ほんの一瞬だけその人物と視線が交錯した。 「なっ!?」 その人物の顔を見た時、機械装置である筈の衛宮切嗣が動揺した。 馬鹿な、何故お前がここにいる? そんな言葉が脳裏によぎり、足は地面を駆け続けても頭の中は困惑で一杯だった。すぐに僕の体は安ホテルから距離を取るが、目にした光景はしっかりと脳裏に刻まれている。 僕は見た。見間違いなどではなく、確かに見た。 直接肉眼で見たわけではないが、その顔は僕の知っている男の顔だった。 何故ここにいる―――間桐雁夜。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - ランサー あのアインツベルンの城での戦いより、ケイネス殿を救出し、ソラウ殿が新たな我がマスターとして聖杯を勝ち取る戦いへと身を投じる。 騎士である限り、忠義を尽くす君主はケイネス殿ただ一人しかありえない。だがその忠義に報いるべく聖杯を勝ち得るには、ソラウ殿の協力が必要なのもまた事実。 今でも私はケイネス殿に騎士としての忠誠を誓った身。しかし、ケイネス殿が戦えず、ソラウ殿がケイネス殿の伴侶として、ただケイネス殿のためだけに聖杯を求めると誓ったからこそ、仮初ではありながらもソラウ殿と共に戦うのを承諾した。 まだ目立った行動を起こしていないのは、敵の出方を窺うのと、ケイネス殿の容体が安定するまでに少し時間が必要だったからだ。 ソラウ殿は言った。 「あくまでケイネスの騎士だというのなら、ランサー、尚のこと貴方は聖杯を勝ち取らなくてはならなりません。あの体を癒すには奇跡の助けが必要だわ。それが叶うのは聖杯だけでしょう」 「彼の負傷に責任を感じるなら、ロード・エルメロイの威信を取り戻そうと思うなら、貴方は主に聖杯を捧げなければなりません」 「──誓います。私はケイネス・エルメロイの妻として、夫に聖杯を捧げます」 ケイネス殿の妻として夫に聖杯をささげる為にマスターの重荷を背負う。その判断にそれ以上の他意は無いとソラウ殿は誓ってくださった。 しかし私はソラウ殿のように涙で求め訴える女と向き合ったことがある。あの眼差しはこの身が英霊となる以前、生前の妻であったグラニア姫とあまりにも重なりすぎるのだ。 愛に生きたが故に英雄ディルムッド・オディナに背臣の名を課した張本人。されど、苦難ばかりの私の人生に後悔は無く、自らの運命を精一杯生きた誇りがあった。 それでも心の中に残ったしこりが再び私を現世へと導いた。 聖杯戦争にランサーとして召喚される原因でもあるこの思い。この身に宿る信念はただ一つ、すなわち『前世では叶わなかった、騎士としての本懐に生きる道を―――』。 曇りなき信義、忠節、たった一人の主へと捧げる勝利の名誉。 一人の騎士として生き、一人の騎士として戦い、一人の騎士として果てる事こそが我が願い。聖杯戦争に召喚された時、私の願いの半分はすでに叶っている。後は聖杯をケイネス殿の元に持ち帰り、忠義の成果を形にするだけだ。 だがソラウ殿が二人目のグラニア姫となって私に縋りついてきたとしたら―――。生前の君主フィン・マックールのように同じ過ちを繰り返さない保証はどこにもない。 かつて魅了の魔眼が巻き起こしてしまった悲運は決して繰り返してはならない。それなのに繰り返す事こそが私の業であるかと言わんばかりに、運命という名の壁が目の前にそびえ立つ。 悲運を繰り返さない為の解決策など思いつかず、ただ時間だけが過ぎ去っていった。 どうすれば? 睡眠の必要のないサーヴァントとしての我が身は昼夜を問わずに見張りを続行する。その中で何度も疑問を抱き、そして答えを見つけられない我が身の不甲斐なさに溜息を吐いてきた。 どうすれば? どうすれば? どうすれば? 何度同じ言葉を繰り返しても答えは出ない。そして時間だけが過ぎてゆく。 ケイネス殿の容体が安定し、キャスター討伐への準備が整い次第出陣する予定だ。今の調子ならば夜が明けて数時間もすれば行動に移せるだろう。 戦いへの予測は即座に立てられる。けれど悲運を回避するための解決策は依然として浮かばないままだ。私はもう一度小さな溜息をつく。 「・・・・・・・・・」 もしかしたらこの瞬間にも冬木の土地では英霊同士の戦いが起こっているかもしれない。そう思いながら遠くを見つめると―――結界で感知できない遥か遠方から迫りくる人影を見つけた。 人の肉眼では単なる点にしか見えないが、英霊のそれは余人のそれを軽く凌駕する。 ライダーの戦車(チャリオット)や、現代の機械を用いての接近ではない。人の足を使った歩行だが、目的地は間違いなくここだ。廃工場でしかないこの場所に用のある者がいるとすれば、それは人の立ち入らぬ場所で騒ごうとする輩か、ここがケイネス殿の現在の拠点と知った上で仕掛けてくる敵のどちらかとなる。 ただし人影の歩く速度は遅いので、まだ到着には時間がかかる。私は見張りを一旦止め、ケイネス殿とソラウ殿が眠る寝所へと急いだ。 ホテルの一室にあった豪奢なベッドなどここには存在しないので、ケイネス殿が眠るのは病人が眠るような少し高めの簡易寝台。そしてソラウ殿が横になっているのは工場の応接室と思わしき場所にあったソファーを寝床の体裁を整えて使用して頂いている。 主君とその婚約者に気苦労を重ねているのはランサーたる我が身の不甲斐なさが招いた結果。目に見える現実を突きつけられ心が揺れるが、今はそれを無視して二人の肩をそれぞれ揺する。 「ケイネス殿、ソラウ殿、起きてください!」 ケイネス殿はもともと眠りが浅かったのか、すぐに目を開いてこちらを見つめる。ただし、本調子には程遠く、平時であれば体を起して命令してくださるのに、今は体を横にしたままだ。 あの時、敵の攻撃によって内臓はほぼ壊滅し、筋肉と神経も体の至る所が破壊されて四肢を満足に動かす事も出来ない。 「敵が・・・いえ、何者か判りませんが、この拠点に接近する者がおります」 「――すぐに応戦しろ」 「御意」 すでにマスター権の譲渡については双方ともに周知の事実。しかし、私にとって主君は今もケイネス殿ただ一人であり、短く告げた命令に背く意思はかけらもない。 たとえ聖杯戦争のマスターとして共に戦えないとしても、それはケイネス殿を見限る理由にはなりはしない。私は命じられたまま即座に行動し、零体化によって長距離を一瞬で移動する。 ソラウ殿もすぐに起きると思われるので、結界の中で朗報を待って頂く。 目の前におられたケイネス殿は消え、私の目は迫りくる何者かを映し出す。私は近づいてくる何者かの射程範囲外と思わしき場所で実体化し、必滅の黄薔薇(ゲイ・ボウ)と破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)を下げて構える。 その人影は白髪の老人だった。 鼻の下と顎に貯えられた髭は真っ白に染まり、中央部分にのみ残った髪の毛も同じく白に染まっている。まがった腰がより一層小柄な体格を小さく見せ、けれど足元まで伸びた赤いマントが強烈な印象を放っていた。 それはライダーが身に着けているマントよりも鮮明な赤で、それ自体が一つの目印になっている。私が人影をすぐに発見できたのも、夜の中でも目立つ赤さがあったからこそだ。 マントの下、つまり老人の胸元には今にも飛び出しそうな怪物の顔があり、何らかの魔獣を模した衣装を着込んでいる。鋭い二本の角を生やし、牙をむき出しにしたその姿からは獰猛さを感じた。 衣装に作り変えられる前は人を簡単に殺す魔獣であった事だろう。 「止まれ――」 突然現れた私に対し、接近していた老人は驚かない。それどころか、むしろ待ちわびていたとでも言わんばかりに笑みを浮かべる。ここで私は目の前の人物が無作為にここを訪れた無関係の第三者ではなく、聖杯戦争に関わりのある何者かだと結論付ける。 敵か、それとも味方か。 ケイネス殿に協力する人物はソラウ殿を置いて他にはおらず、誰かに助力を頼んでもいないのでこの状況で廃工場を訪れるのは十中八九敵となる。それでも万が一の可能性がある。そして相手の正体を知らずにいきなり攻撃するのは騎士の道に反する。 「貴様。何の目的でここに来た」 まずは言葉のみ、槍の切っ先を向けながら恫喝のごとく話してはならない。相手が老爺に見えるならば尚更だ。いきなり攻撃を仕掛けるなど道理に外れる外道。 私は両手に槍は持っているが、切っ先は地面に向けたままだ。 「答えよ」 「なるほど、なるほど。話に聞いていた通りの御仁ゾイ」 距離とった状態で、老人が言った。 「ワシの名はストラゴス・マゴス。お主、少しワシと戦わんか?」 それはある意味で予想通りの宣戦布告だった。