一年生活秘録 その6 『飛空艇はつづくよ どこまでも』 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 間桐雁夜 「旅行に行くぞ」 「はぁっ!?」 雁夜はゴゴが休んでいる時―――もっと正確に言えば睡眠をとっているのを一度も見たことが無く、24時間常に動き続けていると思っている。これが普通の人間ならば過労で倒れるのが目に見えているのか、三柱の神を生み出した頂上の存在には『休息』というものが無縁でも、むしろそれが普通に思えた。 ただ、間桐邸で家事全般を担っている家庭的な姿も見ているので、生き物らしからぬ部分と人間らしい部分の両方を見ている雁夜としてはどう言えばいいか判断に困る。 もっとも、ものまね士の格好にエプロンとゴム手袋を着けたシュールな格好を『家庭的』と表現するかは人それぞれだ。 そんなこんなで、ゴゴは慣れた手つきでいつもと同じように二人分の朝食を準備した。そして雁夜と桜が並んで座り『いただきます』と言うよりも早く、訳のわからない事を言い出したのだ。 いい加減、ゴゴの突飛な行動と常識外れの力には驚かなくなってきた雁夜だが、その言葉が世間一般の常識から何ら外れる事が無いからこそおかしく聞こえる。非常識とゴゴは同一の理由で結ばれているからこそ、奇妙奇天烈な存在が普通を語ると逆におかしくなる論法である。 「・・・・・・・・・」 蟲蔵での殺し合いと、慣れていない大人と言う条件も重なり、いまだに桜はゴゴに対して引っ込み思案な顔を見せ続ける。ゴゴの言葉を不思議に思って見つめても、何か尋ねたりはしなかった。 ついでに言えば、普段は桜の腕に抱かれているミシディアうさぎは食卓の下に陣取っており、こちらの会話が聞こえている筈なのに関わる気が無いらしい。今では桜の使い魔で『ゼロ』という名前まで与えられたのに、召喚主であるゴゴに全幅の信頼を置いているのか、どうでもいいのか。そのおざなりな態度が『そっちは好きになってくれや』と言ってる気がした。 「朝からいきなり何の話だ?」 「いや、何。近頃は雁夜も桜ちゃんも間桐邸にこもりっきりだからな、気晴らしにどこかに出かけようと企んだ」 「変な言い方をするな」 「桜ちゃんの行動範囲がこの間桐邸を中心に広がってないのは雁夜にも判ってるだろう? 長く家を開けるつもりはないから日帰りの予定だ」 同世代の幼児が親に連れられてどこかに出かけたりする話はどこにでも転がっているが、間桐邸に住まう桜にはそれがない。 これが姉の凛ならば一人で外を快活に出歩いて縦横無尽に遊びまわる姿を想像できるのだが、内向的な桜からはあまり想像できない。事実、桜は間桐邸と言う新しい環境に馴染もうとする意欲もあり、ほとんど外出せずに一日の大半を屋内で過ごしている。 たまに庭に出て木々に触れる機会もあるが、それを外出とは呼ばない。買い物の為に外出する場合もあるが、雁夜が知る限り桜が自主的にどこかに行きたいと言った試しは無かった。 「・・・・・・・・・確かに」 桜の生活習慣を思い出してみると、ゴゴの言う事には言い分があり過ぎる。もし雁夜が聖杯戦争にマスターとして参加しようとしなければ、一日と言わずに遠坂の家の桜が戻るその日までずっと傍にいてもいいのだが、雁夜には聖杯戦争のマスターになる為に自分を鍛える必要がある。 鍛錬と遊び相手。雁夜の体が一つしかない以上、どうしても両立できなくなってしまうので、桜の為に何かしなければならないと思いながら、長期的な面で力を身につけられても目の前にある今日がどうしてもおざなりになってしまう。 雁夜が接せない分をミシディアうさぎとゴゴが埋めているのが現状である。 基本的にゴゴは雁夜の鍛錬の相手役を務めているので、間桐邸の中で桜は一人ぼっちになってしまう。十匹に増えたミシディアうさぎによって孤独とは無縁かもしれないが、世界は広く、大きく、間桐邸で完結するような狭いモノではないと教えるのもやぶさかではない。 考えれば考えるほどにゴゴが言った『旅行に行く』はそれほど悪い案ではないと思えてくる。問題があるとするならば、突然過ぎる事と雁夜の修行をどうするかという二点だ。 雁夜は思い描いた疑問をそのままゴゴにぶつけた。 「鍛錬はどうするつもりなんだ?」 「旅行のついでに行えるものを用意してあるから心配ない」 「む・・・」 即答されてしまったので雁夜は言葉を詰まらせるが、すぐにもう一つの問題に移行する。 突然の対処に負われて被害をこうむるのは自分よりもむしろ桜だ。朝食を食べられないまま大人達の話を横で聞いて呆然としている桜に向って話しかける。 「桜ちゃんはどうしたい?」 「・・・・・・・・・行きたい。――けど」 「けど?」 「どこに行くの?」 「あっ」 雁夜は桜の言葉を聞き、別の問題がある事にようやく思い当たる。反対する理由ばかりを気にしてしまい、桜が賛成した場合を完全に失念してしまったのだ。 本当ならば一人の大人として桜よりも前に気付かなければならかった。改めて自分の気遣いの無さに自責の念を抱きつつ、反省するなら後でも出来るので行動に反映させた。 「そうだ。そういえば、お前は俺達をどこに連れて行くつもりなんだ?」 「山か海だ」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・そうか」 確かに旅行の定番と言えば定番だが、明確に『ここだ』と言わないのに断言だけはしてる、そんなゴゴの言葉を聞いて雁夜は嫌な予感しか抱けなかった。 何故なら、一度だって雁夜の予想内に収まるような穏便な物事の進め方をした事が無い、それがものまね士ゴゴなのだから―――。 朝食を食べる前にいきなり騒動の種が放り込まれたので、心労によって雁夜の意欲は朝から最下層を這いずり回っている。ただし目に見える形で表わせばすぐ近くにいる桜を不安にさせてしまうので、一人の大人として必死に隠した。 沈鬱な一日が始まるかと思えたが、腹が膨れれば気持ちが多少和らぐのもまた事実であった。 「・・・・・・・・・ふぅ、御馳走様でした」 「ごちそうさまでした」 食事を終えるタイミングが早かろうと遅かろうと桜はそれを気にしてしまう。大人と子供なのだから食事の速度に差が出るのはどうしようもないのだが、雁夜は意識して桜と同じ時間に食事を終えるように調整していた。 出来るだけ不安にさせないようにするのと、一緒に食事をする時間を出来るだけ伸ばそうという配慮である。 雁夜の人生の中には『誰かと一緒にとる食事』という状況で喜びを感じた経験がほとんどない。全くないと言えば嘘になるが、すぐに思い出せるほど多くはなく桜と一緒にとる食事は雁夜に喜びを与えてくれた。その時間を長く味わいたいと思うのは当然だろう。 両手を合わせて一礼する桜の姿は堂に入っており、彼女の親の躾が行き届いているのを感じさせる。そこには間違いなく親が子を想う愛情がある。その筈なのに、遠坂は桜を養子に出した。 「・・・・・・・・・」 食後の余韻に水を差す思考が雁夜の中に生まれそうになるが、それが膨らんで雁夜の意識を占有する前に横から飛んできた声が思考を止めさせる。 「これが今日の旅行に持っていくお弁当だ」 声が聞こえてきて、食事を終えた食卓に弁当箱が二つ並ぶ。片方は四角く大きめの弁当箱で、中身は『これこそが幕の内弁当だ』と言わんばかりの中央に梅干しを乗せた白米、鮭の塩焼き、卵焼き、里芋、人参、がんもどきが並んでいた。 そちらが雁夜の弁当ならば、自動的にもう片方は桜の弁当になる。もう一方は大きさは雁夜の弁当の半分ほどで、卵型をしていた。小さな梅干しが中央に乗る白米は一緒だが、海老フライ、ポークウインナー、スパゲティー、ポテトサラダ、ブロッコリー、と、全ての品が小さめので、子供用の幕の内弁当を作り出している。 朝食を食べたばかりなので食欲は湧かなかったが、弁当の見本のような出来栄えに目を引きつけられた。 雁夜が知る限り間桐邸にはこんな弁当箱は存在しなかった筈なので、一体、いつどこで手に入れたのか疑問に思うが、ゴゴのやる事なのでいちいち気にしてられない。 「わぁ・・・」 隣で嬉しそうに自分のお弁当を見つめている桜がいたので、ゴゴに疑問を投げかけて喜びを萎ませてしまっては可哀想だ。雁夜は徐々にゴゴの思い通りに作り替わっていく間桐邸を思いながらも、桜が喜んでいるならばそれで良いかと考え直す。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 遠坂桜 突然『旅行に行く』と言われて、桜はひどく驚いた。しかし、徐々に落ち着きを取り戻していくうちに驚きは『行きたい』という願いに変化していった。 桜の生家は今住んでいる間桐邸ではなく遠坂の家だ。それでも桜は子供だから大人の言う事には従わなくちゃいけないと判っている。逆らっても大人の力には叶わないと知っていた、抗ってもどうしようもないと学んでいた、泣き叫んでも誰も助けてくれない時もあるのだと悟っていた。 雁夜おじさんは優しくしてくれるし、よく判らないゴゴも自分を傷つけたりしないと判る。それでも間桐邸にいると苦しい記憶が呼び起こされてしまうのが止められない。 たとえば蟲蔵で雁夜おじさんの特訓を見ていると、間桐の蟲に嬲られていた気持ち悪さが蘇る。 たとえば廊下を歩いていると、力任せに自分を引きずって蟲蔵に放り込む大人の手を感じる。 たとえば食卓で食事をとっていると、遠坂の家で家族と一緒に食べていた暖かい気持ちを思い出してしまう。 子供は大人の言う事を聞かなきゃならない。そう判っていても、蘇った桜の感情は容易に苦しさを呼び起こすのだ。それをとてもとても辛く感じる時がある。 桜が旅行に行きたいと即決したのは間桐邸から離れたかったからだ。 桜の想いとゴゴの強引さが合致したからこそ、日帰りの旅行は実現された。 「で? 山か海に行くとか言ったが、どうやって行くつもりだ? まさかお前の奇抜な格好で普通に電車に乗るとか言わないよな、嫌だぞ俺は」 何度かゴゴが演じる『間桐臓硯』と一緒に街に行った事はあるが、そのたびに周囲から見られてとても恥ずかしい思いをしたのを覚えている。雁夜おじさんの言葉を聞きながら、桜もまた『どうするの?』と思った。 桜が背負っている子供用のリュックには、作ってもらったお弁当とハンカチやティッシュなどが入っているだけだ。近所を出歩く位の軽装で、日帰りとはいえ旅行に行くとは思えない荷物の少なさだ。 雁夜おじさんも特訓するようになってから持ち運ぶようになったポシェットとアジャストケース以外の荷物は、中身がほとんど入っていない大人用のリュックを背負っているだけで、中身が自分と同じぐらい少ないのを知っている。 どこに行くの? どうやって行くの? いつものように使い魔となったミシディアうさぎのゼロを両腕で抱きかかえながら、疑問を視線に乗せて玄関口に立つゴゴを見る。すると、ゴゴは腕を前に突き出して庭園と言ってもいい間桐邸の広い庭に向けた。 「何のつもりだ?」 「移動手段を出す」 「はい? 『出す』だと?」 雁夜おじさんがどういう意味なのか聞いたが、桜の目はゴゴの手元に向けられたまま動かなかった。ずっと見ていた筈なのに、いつの間にか空中に絵柄や図柄が描かれている何かが三つ浮かんでいたのだ。 それはカジノなどで見かけるスロットのリールと呼ばれる部分なのだが、桜はそれが雁夜おじさんの部屋の壁に埋め込まれているモノと同じに見えた。 腕の中でじっとしているミシディアうさぎを呼び出したよく判らない技。桜にはどうしてそれが空中に浮かんでいて、いつの間に現れたのか、どうして出したのか、全く判らず。教えて、と想いを乗せてゴゴを見つめるが、ゴゴは桜も雁夜おじさんも見ずにその空中に浮かんだスロットを回し始めてしまう。 ぐるぐる、ぐるぐる、回転する絵。 ぐるぐる、ぐるぐる、縦に回る絵 ぐるぐる、ぐるぐる、回り続ける絵 二秒ほど経過した後、三つの絵は全て卵みたいな形をした黒い何かで止まった。 当たりだ。桜がそう思った次の瞬間、間桐邸の庭に巨大な何かが現れた。 「え・・・・・・・・・・・・?」 「な、お・・・あ――。えぇぇぇぇぇぇ!?」 それは間桐邸よりずっとずっと大きかった。 それは卵みたいな風船みたいな形をしていた。 それは大きくて黒かった。 それは黒い風船の下に家みたいに見える何かを吊るしていた。 それはプロペラを回して浮かんでいた。 それは端が見えなかった。 それは遠くに立つ隣家にぶつかりそうだった。 それはやっぱり大きかった。大きくて、大きくて、大きかった。 桜は驚きながら間桐邸に来る前に絵本で見た『飛行船』を思い出す。でも実物を―――しかもこんな間近で見たことのないし、突然目の前に現れた大きな機械に驚き過ぎて本当にこれ飛行船なのか判らなかった。 腕の中にいるミシディアうさぎをギュッと抱きしめながら、ただ見上げるしか出来ない。隣で同じように上を見ている雁夜おじさんがいる。 「飛空艇――『ブラックジャック号』。俺の仲間だったセッツァーの愛機だ」 驚く二人に関係なく、手を下したゴゴが何か言っている。 でも桜の意識はずっと突然現れた大きなモノに奪われたままで、しかも回転して風を振りまくプロペラの音にまぎれてよく聞こえない。 桜の頭の中を暴れまわる驚きは、目の前にある何かと同じぐらい、とてもとても大きなざわめきだ。何か言っていたがよく判らない。 「だがこんなモノがいきなり街中に現れたら誰もが混乱して騒ぎ立てる。そうなると厄介だから少し細工をする」 またゴゴが何か言ったが桜は聞いていなかった。それを人の言葉だと理解しながらも、耳から入ってくるモノが単なる音としか捉えられなかった。 頭の中は驚きだけが満たされている。だからゴゴが放った呪文も全然聞いていない。 「バニシュ」 「あれ・・・?」 誰かの声が聞こえてきたと思ったら、桜の目の前に広がっている大きくて黒くてよく判らないモノが端っこから消えていく。まるで黒板にチョークで書いた文字を黒板消しが消すような―――鉛筆で書いた文字が消しゴムで消えて、白いノートに戻るような―――たき火に水をかけて燃える炎を消してしまうような―――そんな『消失』が桜の前で行われてゆく。 空を埋め尽くしていた大きなモノがどんどんと消えていき、代わりに空の青さと雲の白さと太陽の光が桜の視界に返ってくる。 五秒もかからずあっという間に空の景色が広がってしまい。そこに合った筈の黒くて大きいモノ―――『飛空艇ブラックジャック号』は跡形もなく消えてしまった。 「あ、あれ・・・・・・あれれ? 無くなっちゃった・・・」 「そうだね――、桜ちゃん。消えちゃったね・・・」 呆然と消え去った場所を見ながら、雁夜おじさんと現実を確かめあう。 確かにそこに合った筈のモノは消えてしまい、桜の目には間桐邸の庭が映っていた。桜の前にあるのはただそれだけだ。 あれは何だったんだろう? あれはどこにいったんだろう? あれはどこから出てきたんだろう? 余韻の中で再び疑問が桜の頭の中を蠢いて埋め尽くす。 すると、そんな桜を差し置いて、ゴゴが何もなくなった場所を見ながら呟いた。 「効果範囲を拡張して無機物を影響下に置くも可能。元々装備も一緒に透明化していたからそれほど難しくないが、魔力さえあれば飛空艇ほどの大きさでも包み込めるとはな――。結果を固定された魔法すら改変する力か、これで『架空元素・虚数』のほんの一端なのだから恐れ入る。色の相性もあるかもしれん」 言葉が難しくてどんな意味なのかは判らなかった。それでもゴゴが何かやったから消えてしまったのだと判った。 だから桜は雁夜おじさんの裾を引っ張って聞いてくれるように目で訴える。驚いていなかったら直接言えたかもしれないが、突然現れた大きいモノのせいで心臓はバクバクと忙しく動き続けて、それどころではない。 「雁夜おじさん・・・」 「あ、おお――。任せてくれ。おい、ものまね士、あれは一体何だ! 何かやるならやる前に説明しろと前に行っただろうが」 「移動手段を出す、とちゃんと言っただろう」 「俺は事細かに、詳しく、ちゃんと、やる前に、説明しろと言ってるんだ!!」 「エンジンの型式はST12UNを8基。全長は125メートル、全幅は28メートル、ついでに全高は41メートルだ。ボディータイプはフルモノコックを採用して、最高出力は186500馬力。最大速度は150キロの優れものだ」 「・・・・・・・・・・・・何の話だ?」 「だから飛空艇の『詳しい説明』だ、雁夜が聞いたのに文句があるのか? 贅沢者め」 横で聞いていた桜はやっぱり何の話か判らないままだ。そして雁夜おじさんも何を言われたのか判らないらしく、真正面からゴゴを睨んでいたが、その顔が苦渋の表情を浮かべている。 ゴゴは硬直してしまった雁夜おじさんから視線を外すと、さっきまで黒くて大きいモノが浮かんでいた庭に向かって歩き出した。そして二十歩ぐらい進んで何もない場所で立ち止まると、ポツリと呟く。 「一度『ダイビング・ボム』で爆撃させないと飛空艇として使えない。まったく、不便な技だ」 耳を澄まさなければ聞こえなかった小さな声が耳に届く。 そして―――。庭に立っていたゴゴが爆発した。 「うおっ!!!」 「きゃっ!」 唐突に巻き起こった破壊に何も出来ず、吹き荒れた爆風は桜の体も雁夜おじさんも一緒に後ろに吹き飛ばし、太陽が降りた来たんじゃないかと錯覚する光の奔流には目を瞑るしかなかった。腕の中にいたミシディアうさぎのゼロを反動で落としてしまう。 咄嗟に体を丸めたが、雁夜おじさんと一緒に間桐邸の外壁に背中と肩がぶつかってものすごく痛い。 ぶつかった場所から痛みがじんじん広がっていく。 真っ赤な光が見えた気がして目も痛い。 熱湯を浴びせられたみたいに体が熱い。 苦しい。苦しい。苦しい。 「ケアルラ」 目を閉じてうずくまっていると遠くから声が聞こえてくる。体を包み込む熱さとは違う別の温かさが手と足とお腹と胸と顔を通り抜け、あっという間に痛みが消えた。 ものすごく痛かった筈なのにすぐ消えた。 幻みたいに全てが元通りになっていく。 目を開けてみたら、心配そうに顔を覗き込んでくるミシディアうさぎのつぶらな瞳が見えた。そしてその向こうには爆心地で汚れ一つなく悠然と佇むものまね士ゴゴがいる。 「さて、準備は整った。旅行に行くぞ」 ゴゴは何事も無いように淡々と言う。間桐邸の壁際で苦しんでいる自分と雁夜おじさんを見ているのに、慌てた様子もなく堂々と言ったのだ。 やっぱりこの人は苦手―――。桜はそう思った。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 間桐雁夜 驚かないように心がけても想定外の出来事が起これば事前の覚悟など何の意味もない。それはゴゴと接するようになって雁夜が会得した真理だ。 この世界とは別の世界から到来したゴゴは、その世界で神の名を冠する子供達を生み出した『神の親』とでも言うべき超常の存在だ。四肢を持つ人の形をしているが、その本質は人ではなく、内に秘めた莫大な力は人の尺度で測れる大きさではない。 出来る事、やれる事、叶えられる事、実現できる事。雁夜が見た限り、ゴゴは限りなく全知全能に近い。 だから『何が出ても驚くな』と雁夜は常に自分に言い聞かせているのだが、それが実を結んだ事が一度もない。いっそ、ゴゴが実現可能な事を予め全て聞きたい衝動にかられるが、そこで『何でも出来る』と返されたら、自分が生きていく意味すら失いそうになるので聞けずにいる状態だ。 雁夜が命懸けの鍛錬に身を投じて、聖杯戦争に参加しようとしているのは桜を救うために他ならない。ゴゴが雁夜を鍛えてくれているのも『桜ちゃんを救う』という雁夜のものまねの延長線上にあるからこそだと思ってる、 しかし『桜ちゃんを救う』と言ったゴゴならば、雁夜がいてもいなくても容易に目標を達成するだろう。それこそ『何でも出来る』を行動で示し、遠坂など路傍の石と同等に扱い、どんな障害でも力任せに押しのけるに違いない。 それが『桜ちゃんを救う』事にならないからやってないだけで、ゴゴは遠坂など歯牙にもかけない。 だから雁夜はゴゴの行動に驚かされっぱなしでも決して『お前は何ができる?』と尋ねない。知ってしまえば、雁夜が雁夜としてここにいる意味が無くなってしまう気がする。雁夜が桜を救う意味すら消し去ってしまう気がする、それはとても恐ろしい未来だ。 雁夜を必要とせずに遠坂時臣を叩き潰すゴゴが容易に想像できる。 聖杯戦争を壊すと宣言したゴゴが、聖杯戦争の根幹も軽く破壊できるのが想像できる。 全世界に生きる人間の意識に介入し『争うな――!』と強制的に意思を捻じ曲げる姿が想像できる。 それどころか200年前に始まった聖杯戦争が最初から興らないようにするのも不可能ではない気がした。 死者蘇生を行えるゴゴだ。宇宙空間から大気圏突入を普通にやれたと語ったゴゴだ。常に流れ続ける時間すら超越し、過去改変を行えるかもしれない。聖杯戦争を起こらなかった史実に作り替えてしまうかもしれない。 これは単なる想像だが、ゴゴを間近で見ている雁夜にとって思い描いた空想は実現するかもしれない恐怖そのものである。 結果、雁夜はゴゴのする事を驚かないように覚悟を決めながら、結局何度も驚かされるのを甘んじて受け入れている。多くを尋ねずに道化を演じている自覚はあったが、知りたくない真実を知るよりは何倍もマシだ。 間桐雁夜が遠坂桜の傍にいる為に、時として真実から目を背ける必要があった。 「だからと言ってこれはないだろう・・・・・・」 「どうした雁夜」 「どうもしない!!」 魔石から呼び出した幻獣や、雁夜に貸与されている魔剣ラグナロクなどは『魔力で作り上げた』という一応の理由はつけられる。ミシディアうさぎもそうやって呼び出したのだから、納得しようと思えばで出来る。 だがこれほど巨大な建造物を一瞬で作り出すのは何かの冗談としか思えなかった。 ゴゴが消え去った筈の間桐邸の庭に手を伸ばし、透明なドアノブを握って開いた時は恥も外聞もなく絶叫してしまった。 目の前の景色が割れて何もない場所がドアになった時の驚きをどう表現すればいいのか雁夜には判らない。 開かれたドアから堂々と入っていくゴゴの後を追いかけ、そこに広がる豪華なカジノに目を奪われた。 目に見える範囲の大きさだけならば間桐邸も劣ってないが、煌びやかさと楽しげな雰囲気は比較にならない。あえて言えば人の姿が全くないのが気にかかったが、それは間桐邸も同じである。 雁夜はそのまま二分ほど動けずにただただ周囲の光景に目を奪われていたが、思考が蘇った後は自分達がいる場所が、ゴゴが作り出したあの乗り物―――飛空艇の内部なのだと推察できた。 「もう一度聞いていいか?」 「いいぞ」 「これは、何だ・・・」 「飛空艇――『ブラックジャック号』。俺の仲間だったセッツァーの愛機だ」 再び繰り返された説明を聞きながら、雁夜の腕は自分にしがみ付いてくる桜の肩を抱き、もう一度カジノにしか見えない内装を見渡す。 「急に見えなくなったのはどうしてだ?」 「透明化の魔法『バニシュ』の効果だ、普通は触るのも不可能なんだが、術者は影響できるように調整した。元々、敵への攻撃は通るから難しくなかったな」 「どうしてこんな物を呼び出した?」 「移動手段だと言っただろう」 「・・・やる前に説明してくれてもいいだろうが」 「気にするな」 「気にするわ!!」 お腹の辺りに手をまわして、おっかなびっくり周囲を見回していた桜がビクッ! と震えるのが判ったが。雁夜は咆哮を止められなかった。 ゴゴに対する理不尽な叫びだとは判っていたが、それでも叫ばずにはいられない時がある。 ただゴゴとの会話とでも言うべき日常のやり取りは雁夜に冷静な思考を戻す役割も与えてくれた。慣れとは恐ろしい。 ゴゴが突飛な事をする、自分が驚く、時間経過と諦めにより『そういうものだ』と受け入れる。これは何度も繰り返されてきた理解に至る手順だ。 驚きは場合によって異なったり、時にあっさり殺される場合もあるが、思い知って強制的に納得させられて諦めるのは既に日常となっている。雁夜は慣れで驚きを抑え込み、諦観によって冷静さを取り戻す。桜をこれ以上驚かさない為の意地もあった。 「まさかこんなモノまで呼び出せるとは思ってなかったな・・・。飛空艇――だったな、お前の仲間はこんな代物を個人所有してたのか?」 「あっちの世界じゃブラックジャック号は世界で唯一の飛空艇で、セッツァーは『世界最速の男』として名を馳せてたらしい。仲間になった後に乗せてもらってたもう一台の飛空艇はこれじゃないが、個人所有だったのは確かだ。つまり世界で唯一と嘘をついてた訳だが――、まあそれはいい。ついでに言えばセッツァーはギャンブラーだったな」 「・・・・・・どんな博徒だ、おい」 雁夜は脳裏に『ギャンブルで金儲けして飛空艇を買った男』を想像しようとするが、あまりにも雁夜が生きてきた常識とは違いすぎるので予想できなかった。 これがテレビのドキュメンタリーで紹介される海外の大富豪ならば予測も立てられるのだが、ゴゴから聞いた話の中で仲間は全員世界を救うために立ちあがった戦士なのだ。ギャンブラーが戦う光景を想像できず、雁夜はそれ以上の思考を放棄する。 代わりに半強制的に足を踏み入れる羽目になってしまった飛空艇、名を『ブラックジャック号』というらしい―――の中を観察する。 スロット台にポーカーなどを行うカード台、床は板敷きの部分とカーペットに覆われた部分があり、外からの太陽光を取り入れる必要ないほどに灯りが溢れている。とりあえず、目に見える範囲に居住区画や飛空艇としてのエンジンルームは見当たらないが、やはりカジノに見えた第一印象はじっくり見ても変わらなかった。 上に昇る階段が見えたので、単純に平屋の上に巨大な風船を付けた作りではなく、何階層かに分かれた作りなのだろう。優雅さや上等さで言えば他にもっと立派なものがあるのを知っているが、肝心なのは目に見えるこれら全てはゴゴが作り出したという点だ。 かつてミシディアうさぎを呼び出した時と同じようにスロットを回していたのを思い出したので、間違いなくこの飛空艇はゴゴの力で具現化されている。 「・・・・・・・・・・・・・・・」 夢か冗談ならば正気になって見なかった事にすればいい。しかし物質として雁夜の目の前にあり、足の下から返ってくる浮遊感―――電車に乗っているのとは異なる振動や左右への揺れが間違いなくこの飛空艇が対空している事実を教えている。 驚きは既に雁夜の中から消え去っていたが、何を言えばいいか判らずに黙り込むしかない。 気付かぬ内に桜の肩に当てた手に力がこもったが、彼女もまた何を言えばいいか判らないのか、黙って身を寄せている。 そんな二人の沈黙を破ったのはゴゴ―――ではなかった。 「むぐむぐ?」 「むぐ~」 「むぐ、むぐ」 「むぐむぐむぐ~」 「むぐ」 大量の鳴き声が聞こえてきたと思ったら、雁夜達が入って来た入口からミシディアうさぎが一斉に突入してきたのだ。 無遠慮に突き進むその姿はここが自分の家であるかのようで、トトトトトトト、と軽快な足音を鳴らしながら、立ち止まる雁夜と桜の横を通り抜けて散らばる。 あるミシディアうさぎはポーカー台の上に陣取り。 あるミシディアうさぎはふさふさのカーペットの上で横になり。 あるミシディアうさぎは何が気に食わないのか壁に衝突してぶつかった箇所を睨みつけ。 あるミシディアうさぎはゴゴに近づいて、むぐむぐ、鳴いて。 あるミシディアうさぎは階段を駆け上がり。 あるミシディアうさぎは呆然とする雁夜と桜を見上げ。 あるミシディアうさぎは雁夜の位置からは見えない死角へと走っていき。 あるミシディアうさぎは窓枠に飛び乗って外の風景を眺め。 あるミシディアうさぎは階段を上った別のミシディアうさぎを追いかけ。 あるミシディアうさぎは桜の前に回り込んで跳躍し、桜の上の中に収まった。こいつは使い魔のゼロだ。 一瞬前まで初めて見る光景だった筈なのだが、そこに間桐邸を縦横無尽に駆け回る獣が加わるだけでいつも見る光景のように思えてくる。桜も腕の中にいつもの重さが戻って来たので安心したのか、雁夜に伸ばしていた手をミシディアうさぎを抱き上げる手に変化させた。 離れた手に寂しさが無いと言えば嘘になるが、いつものように両手でしっかりとミシディアうさぎを抱きしめると表情が緩んだので、それで良しとする。 あちこちを自由気ままに暴れまわるミシディアうさぎの件はとりあえず横に置き、雁夜はゴゴの元へと移動した。後ろから少し距離をとって桜が付いて来るのが足音で判ったが、ミシディアうさぎによって落ち着きを取り戻した彼女は後回しだ。 三歩も進めば話すには十分な距離となる。 「これがお前の言う『移動手段』で、これでどこかに行くのが『旅行』か?」 「そうだ。そしてこれから雁夜の鍛錬も同時に行うから甲板に来い」 「甲板?」 「舵はそこにある。今のままじゃ飛空艇は浮いてるだけの風船と大差ない」 ゴゴは手短に言うと、ミシディアうさぎが二匹ほど消えていった上に続く階段へと向かった。慌てて雁夜がそれを追い、ミシディアうさぎのゼロを抱いたままの桜も後に続く。 一階分上がると中央にカード台を置いた広い空間に出る。見渡すと左右の壁際にドアがあり、広めのリビングのような印象を受ける。ただし、ここにも人の気配がなかったので、カジノを思わせた状況に変わりは無いが、どこか寂しさを感じさせた。 カード台の上に乗っかって体当たりで相手を突き落とそうとしているミシディアうさぎがいたが、それは人ではないので無視。きっと、相撲をしているのだろう。内装は昇って来た場所とそう大差はないので、目新しいものは見つけられない。 ゴゴは楕円を描きながら脇目も振らずに別の階段へと向かい、雁夜と桜がそれを追いかける。ほどなく外気の冷たさが雁夜の頬を撫で、屋外に向かっているのだと実感できた。 そして雁夜達はついに甲板へと到達し、飛空艇ブラックジャック号の真骨頂とも言うべき、頭上に黒いバルーンを携えて周囲に遮蔽物のない壮大な景観を目撃する。 「わぁ・・・・・・」 その声は桜のものだったが、雁夜の口から出た声もかすかに混じった。 間桐邸の庭現れた飛空艇、普段窓から見ている景色がほんの少し高くなっただけで、物珍しい何かが見える訳ではない。ただ『浮かんでいる』という事実が見慣れた景色を全く別のモノに変えているのだ。 右を見ても、左を見ても、前を見ても、後ろを見ても、必ずそこには空の青さがある。間桐邸の窓からは絶対に見れない風景を作っている。 見るモノが同じでも視点を変えれば違うモノに見える不思議。ある種の感動を感じながら、雁夜は東西南北の全方位を見渡して、流れゆく風に身を任せた。 「すごいね・・・・・・」 「うん・・・」 雁夜と桜が立ち止まって呟くと、その分だけ先を行くゴゴと距離が開く。 結果、階段から上がって甲板から周囲の景色を見ていた雁夜と桜、ついでに桜の腕に抱かれたミシディアうさぎのゼロは、ゴゴが飛空艇の操舵輪を握るのを完全に見逃した。 現れてからずっと浮かんでいた飛空艇は飛びたてる準備を整えていた。エンジンに直結した八個のプロペラは今か今かと出発を待ちわびており、傷一つない黒いバルーンは大地から浮きあがる時を待っている。 唯一足りなかったのは操縦者のみ。その操縦者であるゴゴが操舵輪を握り、飛空艇ブラックジャック号は空を飛ぶ為の準備を全て整えた。 雁夜と桜の都合などお構いなしに、準備を終えてしまった。 「では出発だ」 「「え?」」 一瞬のずれもなく雁夜と桜の声が重なった次の瞬間。ゴゴの操舵輪を手前に引き、ブラックジャック号は空高く舞い上がった。 「ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」 もし近くでブラックジャック号が飛び上がる瞬間を見れた者がいたら、遠ざかる雁夜の絶叫も聞けただろう。 「お・・・おぉぉぉぉぉ、おま、おま、おまえなぁぁぁぁぁぁ」 雁夜はこれまで味わったことのない緊張と戦っていた。 幻獣やら魔術やらで色々とゴゴに驚かされてきたが、それらは全て地上で起こった出来事であり、二本の足で立てる大地で起こった異常だ。しかし今、雁夜は飛空艇に持ち上げられたお陰で大地から遠く離れた空の上にいる。 落ちたら確実に死ねる。 恐怖の度合いがこれまでの異常とは異なり、大地に立っていない不安が雁夜を四つん這いにさせて甲板にしがみ付かせていた。 大の大人が格好悪いなどと言える余裕はない。甲板に出る階段のところで顔だけを出した桜がいるのだが、そちらを見れる余裕もない。 いつもは重いと感じている魔剣ラグナロク、アジャストケースに入っているそれを重しにして、必死に自分の居場所を固定する。 「無様だな雁夜」 「ぐ・・・、この・・・・・・ちくしょう――」 操舵輪を握りながらこちらを見ずに淡々と言ってのけるゴゴに怒りを覚えた。しかし、その怒りは全て甲板にしがみ付くのに費やされ、怒りに任せて攻撃なんて出来ない。 生身で空の風を感じる場所にやってきてしまった。 寒かった。 恐ろしかった。 風が痛かった。 普段、何気なく地面に立っているのがどれだけありがたいか骨身に染みた。 可能ならば雁夜もまた桜のように屋内に引っ込みたいのだが、ゴゴがそれを阻んだのだ。じゃあ今日の鍛錬を始めるか、と言って雁夜の逃げ道を塞いだが故に―――。 恨みがましい目をゴゴに向ける雁夜だが、操舵輪を握ってブラックジャック号の姿勢を制御し続けるゴゴには届かない。 「この世界には三次元レーダーを使用しての対空監視を行うシステムが存在する。一定の高さまでに昇ると察知されて『正体不明機』は警告を受ける、最悪攻撃される仕組みだ」 「そ・・・それが、どう・・・した・・・」 「今、飛空艇ブラックジャック号はその『攻撃される危険域』を飛んでいる」 「な!!」 雁夜は四肢で踏ん張る体勢を維持したまま何とかゴゴとの会話を成立させていた。けれど、聞こえてきた言葉はそんな必死さを吹き飛ばし、四肢の力を緩めさせて動揺させる効果を発揮してしまう。 ゴゴの言う事が本当ならば、自分達は魔力で飛空艇を飛ばしたから神秘の秘匿という点で裏の世界に喧嘩を売り、飛空艇で日本の上空を我が物顔で飛んで表の世界に喧嘩を売っている状態になる。 大変だ―――そう雁夜が思った瞬間、力の抜けた四肢と横から吹いた強風で雁夜の体がふわりと浮かんだ。 「のおおおおおおお!!」 ほんの数センチほどの浮遊。しかも一秒と経たずに重力の恩恵で甲板に舞い戻った雁夜だったが、何も掴む場所のない空に放り出されそうな恐怖はしっかり刻まれた。 甲板の外周には転落防止用の手すりがあって、安全面が考慮されているように見える。しかし風が吹いただけで浮かんだ事実がそんな手すりなど合って無い物にしてしまう。 空を飛ぶ手立てを持たぬ人間が、空に放り出される―――それをとても恐ろしく感じた。 飛空艇ブラックジャック号が危険な場所を飛んでいる聞いたのに、恐怖はその警戒をたやすく吹き飛ばす。これまで豹変したゴゴと戦ってきた経験は何の役にも立たなかった。 乗務員や旅客を乗せるゴンドラが取り付けられた飛行船のように完全な屋内からならば空を飛ぶ浮遊感と地上では味わえない外の景色の移り変わりを楽しめたかもしれない。だが、このブラックジャック号の甲板はすぐ隣に大空が待ち構えているのだ。 地に足を付けられぬ空中。我が身一つでは何も出来ない死の領域。いれば死ぬ、その単純さが恐ろしい。 「お、ろせ・・・。降ろし、てくれ・・・」 「駄目だ。聖杯戦争で空にいる敵と戦う事になったらどうする? 恐れるなとは言わないが、慣れておかないと何もできないぞ、今のお前のようにな」 「そ・・・れは・・・」 咄嗟に『そんな敵がいるか!』と言いたくなった雁夜だったが、ゴゴと言う異常を何度も目の当たりにしているので、そんな事は起こらないという楽観視が出来なくなった。 ゴゴならば身一つで空を飛んでもおかしくない。いや、背中から羽根を生やしても不思議はない。そして同じ事が出来る存在が別にいないとどうして言える? 雁夜は裏の世界について中途半端な知識しか持っていないが、それでも人間など遠く及ばない存在がこの世界にいる位は知っている。もしそいつらが聖杯戦争に関わってきたらどうするか? 恐怖の中で雁夜は思う。 逃げるしかない。 空にいる事実から逃げたい思考も合わせ、雁夜はすぐに答えを導きだした。 「逃げる!」 これまでの弱気な言葉はどこへ行ったのか、生きる為ならば四肢に力を込めたままでもしっかりと声が出せた。 四つん這いになっている上に言ってる事が少々情けなさ過ぎるのだが、やはり雁夜にはそれを気にする余裕はない。ついでに言えば、後ろで甲板に顔だけ出している桜の視線がどんどんと冷たくなっているのだが、前だけしか向けない雁夜は気付いていなかった。 「そうだな、その判断は正しい」 ゴゴからも同意を得られたので雁夜の恐怖が少しだけ和らいだ。 「そこで今回の鍛錬だ。使う魔石は『ファントム』、バニシングボディーが味方全体に透明化の魔法をかけるんだが、魔力さえ途切れなければ飛空艇にかけている魔法をそのまま継続させられるだろう。雁夜が意識する無機物を含んだ『味方』を透明にする幻獣だ、これならレーダーにも感知されず、誰にも見つからず飛び続けられる」 「な・・・。なる、ほ・・・ど・・・」 「つまり今回の鍛錬は飛空艇の移動で空に慣れながら、敵に見つからないようにファントムに魔力を注いで現界させ続けるのが主旨だ。魔力消費を極限まで抑えて、これまで無駄に垂れ流してきた魔力を魔石に集中させろ。魔力を魔石に注ぎ込めなくなったら戦闘機が飛んできて攻撃されると思え」 ゴゴはそう言うと、操舵輪の中心を押した。カチンと何かが組み合う音がしたので、どうやら中央に操舵輪を固定する仕組みがあるようだ。 四つん這いで動けずにいる雁夜とは対照的にゴゴはブラックジャック号の甲板の上を何の支えもなしに普通に歩いてくる。舵を取る者は誰もなく、飛空艇は惰性で空に浮かんでいるだけ、強風が横から吹けばすぐに何もない空に放り出されるかもしれないのに、だ。 雁夜はこれまで以上に信じられないモノを見る目で歩いてくるゴゴを見た。 だがゴゴはそんな雁夜の尊敬のような敬意のような怪物を見るような目に全く興味が無いらしく、雁夜の横に屈むと右手に出現させた魔石を腰にある紺色のポシェットに突っ込んでしまう。 右手の手のひらを上にして、魔石を手の中から出現させた瞬間を見る余裕が無い。 ポシェットのチャックを開けるのに荷重がかかって踏ん張るのが精いっぱい。 ゴゴの行動を止めるのは不可能で、途中からは見張るのも出来なくなった。 「さあ、準備が出来た。桜ちゃんを旅行させるためにも気張れよ雁夜」 「む――」 横からの突風で自分の為に頑張るのは意欲は吹き飛んだ。けれど、雁夜の中にはまだ別の理由が存在し、それは消える事のない炎として雁夜の中で燃え続けている。 桜が間桐の家に養子に出されたと知ったあの瞬間から存在する、決意と言う名の炎。 桜ちゃんを救う為に―――、桜ちゃんを救う為に―――、桜ちゃんを救う為に―――。暗示のように繰り返し繰り返し念じると、少しずつ恐怖の代わりにやる気が湧き出てきた。 それは桜が黒い鯨のビスマルクを呼び出した時、挫折しそうだった自分を『桜ちゃんを救う』の決意で覆した鼓舞に似ていた。最早、遠坂桜の救済は間桐雁夜が生きる理由そのものになったと言ってもよい。 「や・・・って、やる――。やって、やる・・・。やって、やる――。やってやる――。やってやる!!」 ブラックジャック号の操縦に戻る為に遠ざかるゴゴの背中を睨みながら、決意を声にして昂ぶらせていく。声を出した分だけ、『桜ちゃんを救う』の言葉が頭の中で繰り返された。 間桐雁夜はそれをやり遂げなければならない。何故なら、それは間桐雁夜が生み出し、本来ならば間桐雁夜が背負うべき罪だからだ。 「やってやるぞ、くそったれ!!」 勢いをそのままに立ちあがり、アジャストケースの蓋を開けて魔剣ラグナロクを引き抜いた。いつもはその重さ故にアジャストケースを下に傾けてラグナロクを降ろすのだが、普段ならば絶対に出来ない片手での抜刀を実現させたのだ。 火事場の馬鹿力か。あるいは敵との相対ではなく、空に放り出される恐怖でおかしなハイテンションが作られたのか。 雁夜は片手で抜刀出来た事実をさておいて、そのまま剣を甲板に突き立てて、二本の足と魔剣ラグナロクで体勢を固定する。 両手をラグナロクの柄頭に当て、足を肩幅より大きく開く。ゴゴの姿を正面に捉えて背筋を伸ばし、すっと仁王立ちする姿はどこかの騎士を彷彿させる。 抗うのならば堂々と―――全ては『桜ちゃんを救う』その為に―――。魔剣ラグナロクの切れ味にもしっかりと耐えたブラックジャック号の甲板で、雁夜はようやく立って前を見据えられた。 「来い――『ファントム』!!」 たとえ飛空艇の上だろうと、風が常に吹いて恐ろしくても、魔石に魔力を注ぎ込んで幻獣を呼び出すのは雁夜にとっては慣れた作業だ。掛け声と一緒にポシェットの中にある魔石に魔力を放出すれば、脱力と頭上に何かが現れる感覚が同時にやってくる。 これまで間桐の蟲蔵で何度も味わった幻獣召喚の前兆だ。 雁夜は甲板に突き立てた魔剣ラグナロクと二本の足で体を支えながらそっと上を向く。そして、そこに現れたエメラルドグリーンの幻獣―――『ファントム』を目撃した。 「ファントム・・・。これは、まるで柳だな」 桜を救うための奮起と空に放り出される恐怖を忘れようと、あえて四つん這いになっていた過去を無視して格好つける男、間桐雁夜。 ファントムはそんな雁夜の言うとおり、長い笹の葉を何本も何十本も何百本も繋ぎ合せて、一つの塊を形成しているような幻獣だった。頭を下にした四本足の動物に見えなくもないが、手も足も顔も存在せずに、輪郭をあいまいにしている。 そこにいるのに明確な形を作らないモノ。塊としてそこにいながら、明確に正体を映さない幻だ。 ファントム、つまりは『幻影』あるいは『幽霊』から連想して、『幽霊の正体見たり枯れ尾花』の植物に行き着いたのかもしれない。雁夜はそんな風にファントムを見ながら考えるが、頭上に君臨し続ける幻獣がすぐに効果を発揮し始めた。 「ぐ・・・」 ファントムが全身からエメラルドグリーンの光を発したかと思えば、雁夜の感覚は腕や足で感じる質感とは異なる何かを掴み始める。 手を伸ばして何かに触れているようで、そうでない。 足で何かを踏みしめているようで、そうでない。 肌に感じる風や日の光があるようで、そうでない。 触れているようで触れていない。 飛空艇の上に立っている自分を感じるのに、それ以外の何かが感覚として雁夜の中に入ってくる。一言で言えば気色悪かった。 けれどもそこにあるのは間違いなく自分の感覚そのもので、見えないけれど自分の体が広がっていく実感があるのだ。 雁夜の体を中心にして、感覚だけが風船のごとく外へ外へと広がっていく。 「これから魔法の効果を受け渡すから透明化を継続させろ。魔法の効果を強め過ぎると『透明化させる自分達』も一緒に透明になって飛空艇が消えるから気をつけろ、逆に影響範囲を狭めると飛空艇は空に現れるぞ」 「わ、わかった・・・」 何とかゴゴの言葉に応じる雁夜だが、実際は何も判っていなかった。 このファントムで何が出来るのか? 自分が広がっていくこの感覚は何なのか? 見えない場所に触れているような気色悪さは何なのか? いっそ何もかも放り出して辞めてしまえば楽なのだが、『桜ちゃんを救う』という決意が雁夜の背中を押して逃亡を許さない。 言葉での説明ではなく感覚としては幻獣の効果を嫌になるほど実感できるのだが、雁夜が自分の目で見ている範囲には何の変化も起こっていない。あえて言う変化はファントムがエメラルドグリーンの光を微弱に放ち続けている位だが、それ以外は何も変わっていない。 ビスマルクのように大量の泡が出てくる訳ではない。ゾーナ・シーカーのように目に見えるバリアを張っている訳でもない。現れただけならばユニコーンの時と似ているが、胡散臭さで言えば段違いだ。 一体これは何だ? 雁夜はそう思った。 「いくぞ」 「あ。ああ・・・」 いつもより弱弱しい返答を返した次の瞬間、雁夜は幻獣『ファントム』が何をしているのか強制的に悟らされた。 「お―――」 ファントムの感覚が雁夜の頭の中に、いや、手足の指先から脳天まで隙間なく潜り込んできて、何をしているのかを教えてゆく。 これを結界と呼んでいいか判らなかったが、言葉で表現するならおそらく膜が一番近い。ある一定の空間を切り取って隔離する効果が感覚で判る。 外から見てもそこに何かあるか判らず、内側から見れば何も変わってない景色が見える。この『境界』を作り出すのが『ファントム』の能力であり、はた目から見れば物体を透明にして存在を抹消しているように見せている。 確かにそこにあるのに、決してそこにあると悟らせない隠匿の幻獣。これがファントム―――。 「ぁ・・・あ・・・」 言葉による説明ではなく、頭の中に直接刷り込まれるような感覚の上書き。飛空艇と空中との間を隔てる巨大な空間のずれ、それが雁夜そのものであるかのような感覚で全身を包む。 何とも奇妙な感覚だった。 両腕は魔剣ラグナロクの柄頭を抑えているが、飛空艇の船尾を抑え込んでいるような気もする。 両肩は迫りくる風を常に受け続けているが、八個のプロペラの駆動音をすぐ間近で感じている気もする。 両足は甲板の上でしっかりと体を固定しているが、飛空艇の下部にあるカジノの外壁を足の上に乗せている気もする。 両目は操舵輪を握るゴゴの背中を見ているが、ゴゴの立つ場所よりもさらに前にいて、空を飛んでい 一人の人間としての感覚とは別に、飛空艇を覆い隠すもう一人の間桐雁夜がいるような感覚があるのだ、しかもそのもう一人は細長い卵型をして、飛空艇をすっぽり包んでいる。 繰り返すが、雁夜の目から見える風景に変化はない。それでも魔石から呼び出された『ファントム』は空を飛ぶ飛空艇ごと雁夜達を見えなくしている、それを感覚で理解した。 感覚の増加におぞましさは感じなかったが、いきなり手が六本に増えたり、背中から羽根が生えたり、足が四本になったり、巨人になったり、望遠鏡並みに目が良くなった気がして落ち着かない。 いっそ倒れて眠りたいとすら思ったが、それを止めたのはやはり桜の存在だった。 「雁夜おじさん・・・・・・」 本人は雁夜を呼んだ気はなく、ただ心配で呟いただけかもしれないが。その言葉は膨れ上がった雁夜の感覚にしっかりと捉えられ、意味ある言葉として雁夜の中を駆け抜ける。 『桜ちゃんを救う』。四つん這いから立ちあがった時と同じ言葉がもう一度脳裏に繰り返され、弱気になりそうだった自分を叱咤した。 耐えろ、耐えろ、耐えろ。と心の中で叫んだ。 元より桜を救う為ならば間桐の蟲に体をどれだけ壊されようと耐える気概があった。それに比べれば今起こっている出来事など痛みもなければ恐れる必要もない。ただ気色悪さに屈服しそうなだけだ。 この程度を耐えられなくて、どうして桜を救えるのか? この程度、軽く乗り越えて見せろ。 自己暗示にも似た軽い罵声を自分自身に浴びせかけ、雁夜は全身に力を込める。 「お・・・ぉぉぉぉ、ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」 「初めてにしては中々やる。まだまだ無駄が多いが及第点をやろう」 背中を向けたままのゴゴの方から言葉が聞こえてきた時、雁夜はファントムが生み出す効果を知ろうとする余裕を得ていた。もちろん一瞬でも気を抜けば、飛空艇の周囲に展開している『外と内を隔てる膜』の維持に失敗して、透明化が解除されてしまう感覚はある。それでも、『桜ちゃんを救う』と考えると集中できて、空から落ちて死ぬかもしれないなんて余計な事を考えなくて済むのだ。 色々と余分な事を考えていたから、判らない事が判らずにいた。それが無くなれば代わりに出てくるのは事象を知ろうとする知的好奇心だ。 そしてビスマルクを呼び出す時に吸われる魔力よりは少ないのに気が付き。同時に、魔力を吸われ続ける状態を維持するのはビスマルクを召喚して消すのよりも難しいと思い知る。 雁夜からは目に見える変化が無いので、目視で確認できないのもファントムを維持し続ける気力を萎えさせる原因で。感覚だけで巨大な飛空艇を覆うイメージを維持し続けるのはとても難しい。 だが、これは戦いではない。殺し合いでもない。ただ純粋に成すべき事を成す為に思考を一点に集中し続けるだけ。どうすれば良いかはゴゴが前例を作ってくれていたので、それに倣えばいい。 「ただ魔力を流し続ければあっという間に底をつく、必要最低限に絞って魔石に魔力を送る以外の全てを遮断するようにしろ。そうすれば少しは持続時間が伸びる。『無駄をなくす』どんな事にも通用する技の一つだな」 目で見て確認するのではなく、感覚によって幻獣を扱うのは、これまで漠然と行っていた『魔力供給』と『自分の魔術回路』を認識する手助けをしていた。 それは同時に今の自分の魔力操作が稚拙であり、ゴゴの言う無駄な部分を思い知らされる結果となっている。悔しさと自らの不甲斐なさに怒りがこみ上げてくるが、それ以上に桜の前で無様な格好は出来ないと思った。 四つん這いになって死にそうになっていたのを見られたので今更とも言えるが―――。 「船尾の透明化がほどけそうだな」 「何っ!?」 「後ろを意識し過ぎると今度は前が疎かだ」 「ぐっ!」 「で、次は左右が狭まってプロペラが露出しそうになってるな」 「ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ」 魔剣ラグナロクと両足の三点で体勢を固定したまま動いていないが、頭の中で向ける意識はあっちへ行ったりこっちへ行ったり忙しい。特にゴゴの言葉が聞こえるよりも前に、自分の感覚が展開しているファントムの境界線が弱まっているのが判ってしまうので尚更だ。 空を飛べぬ人が空中で行う鍛錬。加えて、これまでの体を使っての戦いではなく、魔力の向上を目的としたやり方には新鮮味を感じる。 けれどそれを喜ぶ余裕はない。まだファントムを召喚し続けていられる感覚はあるが、一瞬でも気を抜けば飛空艇を囲んでいる透明化の膜が萎んでしまうのが判るのだ。卵型を維持して飛空艇を外側に露出させないようにしなければならないので、常に集中を強いる苦難がある。 「バニシングボディーが解除されたら全てが終わりだと思え。途中で辞めたり限界まで魔力を振り絞る気が無いなら、魔力が切れた時に手助けしてやらんぞ」 「このサディストが!!」 「おっと、酷い事を言われて飛空艇の操縦を失敗してしまいそうだ。どれ、このまま地上に墜落するか」 「すみません。勘弁して下さい」 色々な意味で前途多難であった。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 遠坂桜 「・・・・・・」 桜は飛空艇の中にあった椅子を窓際まで移動させ、窓から見える壮大な景色を一人占めしていた。 世の中には移動する手段は色々あり、物心ついた時から乗った乗り物は、自動車だったり、自転車だったり、バスだったり、電車だったり、他にも沢山ある。けれど、空を飛ぶ乗り物に乗った覚えはなく、窓から見える景色は普段見る風景とは全然違った。 もしかしたら赤ん坊の時に飛行機に乗ったのかもしれないが、覚えている限りで空を飛ぶ乗り物には乗っていない。同じ大地に立って見上げる景色と空に舞い上がって見下ろす景色、どちらも同じものかもしれないが、空から見下すと全く違うモノに姿を変えた。 きっとこれが絶景と言うのだろう。 飛空艇が空に舞い上がった時、桜は怖くなって甲板へと通じる階段に避難した。頭だけを出して雁夜おじさんが甲板にしがみ付くのを見ていたが、その姿をみっともないとは思わなかった。桜だって怖かったから、一歩も動けずにその場に留まるしかなかったのだ。雁夜おじさんを責める理由はどこにもない。 雁夜おじさんは最初は震えていたけど、持っていた荷物から剣を引き抜いて堂々と立った。あれはすごいと思った。そして一歩も動けない自分には絶対にそんな事出来ないとも思った。 「桜ちゃん。目的地に着くまで暇なら降りてもいいんだぞ。どうせそこからじゃ雁夜の背中しか見えないからな」 だから飛空艇を操縦しているらしいゴゴからそう言われた時、何も言わずに飛空艇の中に引っ込んだのだ。 ここに居たって何もできない。 勇気を出して甲板に上がろうとしても、吹き荒れる風が怖くて前に進めない。 お姉ちゃんだったらきっと堂々と立って『来なさい、桜』と言ってくれるに違いない。 その想像が羨ましく―――妬ましく―――苦しく―――そんな風に出来ない自分が嫌になる。 雁夜おじさんは間桐邸の地下で頑張るみたいに特訓している。だから桜は一人でいるしかない。 最初は屋内に戻れた安心と、窓から見える壮大な景色に何も言えない驚きを感じたが、二十分も経つと驚きは何事もなかったかのように引っ込んでしまった。 つまらない。 何故そう思うかは判ってる。どんなにすごい景色を見ても、一人じゃ楽しくないからだ。 ゴゴの口から聞いた話によると、内側からは見えるけど外側からは見えない透明な膜が張られているらしい。向こうからはこちらは見えないが、こちらからは向こうが見える。そんな初めて教わるすごい出来事も、一人じゃすぐに納得して終わってしまう。 「・・・・・・・・・おかあさん」 桜は誰にも聞かれない独り言を呟き、会いたい人を脳裏に思い浮かべて言葉とした。 雁夜おじさんは優しくしてくれる。ゴゴは不便が無いように色々やってくれる。それでも養子に出されてから桜は一度も『母性』に接してこなかった。だから会いたくて、会いたくて、仕方なかった。 それでも桜は自分が『お母さんに会いたい』と言えば、間桐邸の大人達を困らせてしまうと理解していた。 一年後に行われる聖杯戦争と言うのに参加する為に準備しているらしいが、その戦いの為に遠坂とは話すら出来ない状態らしい。 桜はそれを知ってしまった。 雁夜おじさんが遠坂の家に帰れるように約束してくれたけど、会いたい気持ちが溢れてせき止められない。 会いたい―――。 困らせたくない―――。 会いたい―――。 困らせたくない―――。 決して交わらない二つの思いを胸に宿し、そのまま何も言わずに自分の胸の内だけに留めるつもりだった。ぽつりと呟いたのは誰も傍にいないからこそだ。 自分が我慢すればいい。 自分が何も言わなければ誰にも知られずにいられる。 そう思ったから一人の時に囁いたのだが、その言葉を聞いていた生物がいた。 桜の腕に抱かれているゼロだ。 「むぐ~」 「ぁ・・・・・・」 普段は桜の腕が前足のわきの下に潜り込んで、桜の見る方向とゼロが見る方向は常に同じになっている。それなのに、桜が母親の事を言った後、ゼロは桜の腕の中でもがいて体を半回転させ、太ももの上に乗って顔を見上げてきた。 桜が椅子に座っていたから出来た芸当だ。もし桜が立ったまま窓の外を見ていたら、体を動かした時に桜の腕から滑り落ちただろう。 「何?」 「むぐ~」 桜はミシディアうさぎに限らず、動物が何て言っているのか判らない。ゼロは既に桜の使い魔として繋がりを持っていたが、伝わる感情は何となく判るのだが言葉は判らないままだ。 桜は人の言葉しか知らないし、ミシディアうさぎはミシディアうさぎの言葉しか喋ってくれない。だから腕の中から見上げてくるゼロが何が言いたいのか桜には判らなかった。 「むぐむぐ!」 それでも、何となく慌てているような気がした。 とがった茶色い帽子の奥、つぶらな紅い目が桜の目を見つめてくる。その目がどうしようか戸惑っている気がした。 その考えが正しいか知る為に桜はもう一度ゼロの目をジッと見つめる。 あなたは何を考えているの? どうして私を見たの? あなたは何を思っているの? どうして私を見つめているの? 答えを探し求めて、使い魔との繋がりを魔力で強め、ゼロの紅い目を見つめる。すると、ミシディアうさぎが顔を見上げている状態から更に顔を後ろにのけぞらせ、天に向かって大きく鳴いた。 「むぐ~~~~~~!!」 「え?」 掛け声、いや咆哮か遠吠えとでも言うべき大きな大きな声でゼロが鳴く。生きたぬいぐるみのように桜に抱かれるの普通になっていたので、忘れそうになっていたが、ゼロは使い魔であり、一つの生物であり、小さな鳴き声も大きな鳴き声も出せるのだ。 相変わらずむぐむぐしか言ってないが、鳴き声の大小が合って当たり前。それでも今までに聞いたことのない大きな鳴き声に驚いて硬直していると、遠くから沢山の足音が迫って来た。 驚きながらも聞こえてくる足音に耳を澄ませてそちらを見る。すると窓際に立つ桜めがけて、飛空艇のあちこちに散らばっていた量産型ミシディアうさぎが全速力で走ってくるのが見えた。 十秒もかからずに、腕の中にいる一匹を除く全てのミシディアうさぎが桜の足元に集合した。帽子の部分に『1』から『9』と刺繍されているうさぎ達。 突進してぶつかってくるんじゃないかと思ったので、少し怖かったのは桜だけの秘密だ。 「・・・・・・ど、どうしたの?」 基本的に間桐邸のあちこちで自分勝手に生活する量産型ミシディアうさぎだが、桜は腕の中にいる一匹が命令すれば統率のとれた一団に変貌するのを知っている。そしてそのゼロは桜の言葉なら大抵聞いてくれるが、自主的に動く事の方が多い。 だから今度も何かするのかと考えながら、それが何なのか判らずにミシディアうさぎ達を見渡した。 すると腕の中で大きく鳴いたゼロが桜の太ももを土台にして跳躍した。 「あ――」 手の中から消え去った温かさを追い、桜が手を伸ばすがゼロは捕まらない。伸ばした手がむなしく空を切ると、床に降り立ったゼロと集まった量産型ミシディアうさぎ達が一斉に鳴き出した。 「むぐっ!」 「むーぐむぐむ~」 「むぐっ!」 「むぐむぐむ~」 「むぐっ!」 「む、ぐむぐむ~」 「むぐっ!」 「むぐむぐ、む~」 まず桜の腕の中にいたゼロが鳴く、それを合図にして一匹が後に続いた。帽子の部分に『1』と描かれているミシディアうさぎだ。 そしてまた同じように鳴くと、別の一匹がまた後に続く。今度は『2』と描かれたミシディアうさぎだ。 ゼロが他のミシディアうさぎの一匹目に、二匹目に、三匹目に、四匹目に合図を出している。桜はミシディアうさぎ達が一体何をしたいのか判らなかったが、その鳴き声を聞いている内にある音楽を思い出した。 「・・・・・・・・・・・・ドレミのうた?」 ミシディアうさぎ達の鳴き声が歌っているように聞こえて、それが聞いた事のある歌だったから呟いた。 確証などなく、ただ漠然とそう思っただけ。しかし桜がそう呟いた次の瞬間、総数十匹のミシディアうさぎ達が喜びの声を上げながら桜の周りを飛び跳ねる。 「むぐむぐむぐむぐ」 「むぐむぐ!」 「むぐっ!」 「むぐむぐ!」 「むぐ~」 歓喜の舞いと楽しげな鳴き声が辺りに充満する。見ているだけで『楽しそう』と思える喜びの嵐がミシディアうさぎ達を中心に吹き荒れた。 そして誰も彼もが喜びながら桜の事を見つめていた。 桜の頭の高さまで跳んで視線を合わせてくるミシディアうさぎ、帽子には『7』の文字。床をぐるぐる回りながら桜を見上げてくるミシディアうさぎ、帽子には『9』の文字。壁を駆け上がり天井から落ちながら桜を見るミシディアうさぎ、帽子には『3』の文字。 前後左右上下どこを見ても十対の目のどれかが見ているので、ちょっと怖かった。 「もしかして・・・・・・、一緒に歌えって?」 「「「「「「「「「「むぐっ!!」」」」」」」」」」 桜は十匹が一斉に鳴いた瞬間、『そうだ!』と声がどこからか聞こえて気がした。きっと使い魔のゼロが繋がりを介して言ったのだろう。 辺りを見渡してもミシディアうさぎ以外の姿はなく、ゴゴの姿も雁夜おじさんの姿もない。それでも桜は耳に残る音を探してきょろきょろして―――それがミシディアうさぎ達、全ての想いだと知る。 「・・・うん、一緒に歌お」 逡巡は僅か、それでも遠坂桜は自分の口ではっきりと想いを言葉にした。 そして皆が歌い出す―――。 ド 「ドーナツのド~」 「むーぐむぐむ~」 レ 「レモンのレ~」 「むぐむぐむ~」 ミ 「みんなのミ~」 「む、ぐむぐむ~」 ファ 「ファイトのファ~」 「むぐむぐ、む~」 ソ 「あおいそら~」 「むぐむぐむ~」 ラ 「ラッパのラ~」 「む、ぐむぐ~」 シ 「しあわせよ~」 「むぐむぐむ~」 「さあ、うたいましょう」 桜の声に合わせてミシディアうさぎが歌う。 楽しさと、喜びと、幸せと、興奮と、笑いと、愉快を乗せてミシディアうさぎが歌う。 桜を中央に置き、周りをミシディアうさぎ達が跳ねまわる。 桜の歌声に合わせてミシディアうさぎ達がジャンプする。 「ドミミ、ミソソ、レファファ、ラシシ」 「むぐむぐむぐ、むぐむぐむぐ、むぐむぐむぐ、むぐむぐむぐ」 「ドミミ、ミソソ、レファファ、ラシシ」 「むぐぐ、むぐぐ、むぐぐ、むぐぐ」 「ドミミ、ミソソ、レファファ、ラシシ」 「むぐぐ、むぐぐ、むぐぐ、むぐぐ」 「ド――、レ――、ド――」 「むぐ~、むぐ~、むぐ~」 歌を歌う。 笑みを浮かべた桜が歌う。 ミシディアうさぎが舞い歌う。 飛空艇ブラックジャック号の中に桜とミシディアうさぎ達との歌声が響き渡る。 それは喜びの歌だった。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 間桐雁夜 「ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー」 雁夜はこれまで生きてきた人生の中でこれほど疲れたのは一度もないんじゃないかと思えるほどに疲労していた。 立ちあがる事も、上半身を起こす事も、寝転がっている体勢を変える事も出来ない。自分にできる事はただ一つ、新鮮な空気を体の中に取り込むことだけだ。 ゴゴによって多少の魔術を扱えるようになり、疲労回復の魔術を自分にかけて体力を回復させる術を身に付けた。ゴゴの『一瞬で完治』や『死者の蘇生』など、とてつもない力の行使はまだ出来ないが、雁夜が間桐の魔術とは異なる別の道を歩んで『魔術師、間桐雁夜』を形作っているのは確かである。 けれど、雁夜に襲いかかっている疲労はそんな魔術を使わせない程大きく、息を整えなければ魔術を使う事も出来ない状態だ。疲労回復の魔術とて、それを使う為には必要最低限の体力と魔力が必要になるのだから。 今の雁夜はその両方をなくしている状態なので、ただの一般人と変わらずに地面に横たわるしかない。 雁夜はふとテレビで見る男子100メートル競走などで、ゴールした後に地面に倒れ込む選手の事を思い出す。もちろん見た場所は間桐邸ではないが、画面越しに彼らを見て『そんな疲れるのか?』と不思議に思った事があったが、今は我が身でそれを体感していた。 「う、が、は。ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー」 口を大きく開いていると唾が出てくるが、それを呑み込むのすら難しい。体はひたすらに新鮮な空気を欲しており、一瞬もおかずに呼吸を繰り返さなければならない。大の字に手足を大きく広げ、背中に流れる汗と服の下に感じる砂の感触が混じった気持ち悪さを考える余裕もない。 間桐の蟲に体を食われた時とは別の苦しみだ。痛みで死ぬような事態には陥らない安堵はあるが、体の中から色々と絞りつくされて何も残らない喪失感があった。 何とか顔をあげて周囲を見れば青い海が広がっていた。 自分は白い砂浜の上に体を投げだしていた。 空から降り注ぐ太陽の光がまぶしい。 人気のないこの場所を行楽地として訪れたならば解放感に包まれただろう。 しかし疲れてそれどころじゃなかった。 「ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー」 「雁夜おじさん・・・・・・大丈夫?」 「さぁ・・・く・・・ら・・・じゃん」 「あ、ごめんなさい。疲れてるのに・・・」 横に立って雁夜の顔を覗き込んでくる桜がいたが、疲労困憊の雁夜では応じる事もままならない。上げた頭はすぐに戻ってしまって天を仰いだ。 人の名前に聞こえないうめき声を出し、その言葉が桜を不安げにさせてしまうのに悔しさを覚えても。結局、新鮮な空気を求めて呼吸を繰り返すしか出来ないでいる。桜が隣に座るのが見えたが、雁夜は彼女に何の声もかけられない。 砂浜の上に大の字で横になっている雁夜、その隣で腕の中に生き物を抱きながら体育座りをする桜。そして少し離れた位置で自然の雄大さを確かめるように、海を眺めるものまね士ゴゴ。ついでに近くをうろうろしている九匹のミシディアうさぎがいる。 三人と十匹が人気のない海岸にいるのは、雁夜の魔力が尽きて飛空艇が不時着したのが原因だ。 雁夜が呼び出した幻獣『ファントム』は、術者が意識する空間を隔離して外から見れば透明になった様に見える結界を張れる。通常は人一人分の空間を断絶して外と内とを隔てるようだが、雁夜は全長は125メートルの飛空艇を丸ごと包み隠す結界を維持し続けたのだ。 時間にして約一時間。長いと見るか短いと見るかは人それぞれで、雁夜はよくぞやったと自分をほめたい気分なのだが、きっとゴゴに聞けば『桜ちゃんならもっと持続できただろうな』と返されそうなので、何も言わないでいる。 ゴゴが目的地をどこに設定したかは定かではないが、体の中から魔力とか体力とか気力とか色々なモノを魔石に絞りつくされて雁夜は遂に限界を迎えた。 透明化の限界はそのまま神秘の秘匿を犯しかねない暴挙だったので、やむなく飛空艇を地面に下ろして、そこがこの人気のない海岸だったのだ。 正直、ゴゴがどこを目指して飛空艇を飛ばしていたのか知らないので、ここがどこなのか判らない。 「ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー」 透明化が解除されて雁夜の頭上にいたファントムが魔石の中に戻った後、ゴゴの行動は素早かった。 まず砂浜に飛空艇を着陸させた。 そして魔剣ラグナロクに寄りかかって床に崩れ落ちる雁夜の首根っこを掴んでそのまま階下へと向かい。全てのミシディアうさぎと桜に飛空艇を出る事を告げると、そのまま十秒もかからずに外に出てしまったのだ。もちろん雁夜の荷物はしっかりと手に持っている。 桜とミシディアうさぎが砂浜に降りると、間桐邸の庭で見た光景を再現するようにゴゴは飛空艇を消し去ってしまった。 透明化の魔法で飛空艇を消しているのか、それとも間桐邸で呼び出した時と同じように『作り出す前』に戻したのか。疲れと飛空艇を知覚認識できない雁夜では判断付かないが、『無い』のは判った。 残されたのは砂浜の上に寝転がらされた雁夜と、どうすればいいか判らないがとりあえず自分の傍にいる桜だ。 ゴゴの魔法ならば雁夜の疲労など一瞬でなくなるだろうが、自発的な回復に任せようとしているのか、回復魔法をかけてくれる兆しはない。雁夜も体を蝕む苦しさはから逃れたい気持ちはあるが、限界まで色々と出しつくした壮快感があるのも確かなので、砂浜の上に寝転がるのを由とする。すぐ隣に桜がいる状況もこのままでいいと思える理由の一つだろう。 「ぜぁー、ぜぁー」 「・・・・・・・・・・・・」 落ちれば命はなかった飛空艇。吹きつける風にもてあそばれて死ぬかと思った時間。疲労はそれらを全てを打ち消して過去にしていく。 これまでの雁夜だったならば、疲れていても死んでもおかしくなかった状況に恐怖しても不思議はなかった。しかしゴゴと接するようになって、段々と現実に起こる事象に恐怖するレベルがどんどん高くなっていく気がしている。 今なら、目の前で火事が起こっても冷静に対処できるだろう。 今なら、大地震が起こっても桜を守る為に行動できるだろう。 今なら、熊や虎やライオンを前にしても、呆然とせずに戦ったり逃げたり出来るだろう。 疲れで思考に没頭は出来ないが、それでも達成感と共に自分が成長している喜びが雁夜の中にあった。 時間が経てば徐々に呼吸も落ち着いて来て、一心不乱に新鮮な空気を求めなくてもよくなってゆく。それでも疲労は雁夜の体を蝕み続けているので、体を起こすのも億劫だ。自由とは程遠いが、全身で空気を求めようとする渇望は薄れても消えてはいない。 出てくるのは全身を流れる汗と、砂浜に転がっているせいでこびりつく砂の感触。海の近くだから当たり前だが、漂ってくる潮の匂いとべたつく感覚が落ち着かない。しかし突如生まれた、誰かに手を握られる感触が不快感を全て吹き飛ばした。 「お・・・・・・」 手の中に生まれた温かい感覚がなんであるかを知る為にそちらを見ると、横で体育座りをしていた桜が自分の手を握っていた。 正確にいえば大の字に寝転がっている雁夜の手の上に自分の手を乗せているだけだ。握っていると言うよりも合わせていると言った方が正しい。 「雁夜おじさん・・・・・・・・・、苦しそうだったから・・・・・・」 「そ・・・・・・そう――」 少しだけ減った呼吸の中で桜の方を見ると、彼女は片手でミシディアうさぎのゼロを抱えながら、もう片方の手を雁夜の手に置いている。 指を曲げて桜の手を握ると、子供特有の小さくも温かい手の感触がしっかりと返ってきた。 ミシディアうさぎはいたが、初めての飛空艇で一時間も放置されて寂しかったのかもしれない。呼吸困難に陥りそうな自分を見て、何か出来ないと考えた末の結論なのかもしれない。幻獣ファントムにとことん吸われた魔力が触れていれば渡せると思ったのかもしれない。 桜が何を思って行動に出たのかは桜にしか判らない。雁夜には人の心の中を覗く術など持ち合わせていないので、桜の真意は判らない。それでも、手の中に返ってくる体温の暖かさに魔石に吸われた何かが戻ってくる気がした。 「桜・・・ちゃん・・・・・・。ありが、とう・・・・・・」 「雁夜おじさん・・・」 言葉は少ない、しかし見上げる者と見下ろす者は互いの心を通わせるようにただ見つめ合って時を過ごしていく。それは雁夜の呼吸が落ち着くまでずっとずっと続けられた。 疲れは体に残っているし、少し休んだ程度で失った魔力はすぐには戻らない。それでも、普段と変わらぬ呼吸ぐらいにまで自分を落ち着かせることに成功した雁夜は、砂浜に横倒しになっている体勢から上半身を起こして周囲を見渡した。 疲れを癒す為に費やした時間は二十分ほどだろうか。 見ると、ゴゴが砂浜の上に青空をイメージしたらしい青と白のレジャーシートを広げて、その上に雁夜の荷物と桜の荷物を置いていた。 雁夜は今更ながら砂浜に横になっていた時に背負っていたリュックサックが無くなっていた事に気がつく。おそらく、飛空艇をここに着陸させたゴゴが雁夜を砂浜に放り投げるまでの間に背負っていたリュックを剥いだのだろう。 桜の背中に合ったリュックも、今は砂浜に敷かれたレジャーシートの上にある。 それだけならば雁夜は特に何も思わなかった。最初の目的地がどこだったのかは不明のままだが、この人気のない砂浜を急遽旅行の目的地にしたとしても問題ない。むしろ、雁夜のせいでここにきてしまったので、謝らなければならないとも考える。どこから持ってきたのか、レジャーシートの四隅の内三つに置かれた大きめの石、これも問題ではない。 雁夜が思わず大絶叫してしまいそうだったのは、レジャーシートの重しとして四隅の最後の一つを支えているある物だ。 それは雁夜が持っていたアジャストケースだった。しかも風が吹いてもしっかりとレジャーシートを押さえつけているので、中身入りなのは間違いない。 つまりゴゴは雁夜が砂浜の上に横になっている状況で、武器である筈のラグナロクとアジャストケースに収めて重しとして代用したのだ。世界を救ったと教えられた魔剣ラグナロクを重石代わりにするのは後にも先にもゴゴ一人だけだろう。 「・・・・・・・・・・・・」 魔石ほどの汎用性はないかもしれないが、それでも振るえば持ち手の魔力を吸い取って爆発へと置き換える魔剣だ。 好事家に売却するなら、途方もない額になるのは想像しやすい。 そんな大それた物を何の躊躇いもなく重し代わりにするゴゴに雁夜は絶句するしかない。けれどいちいち驚いていたらゴゴと相対する事すら出来ない、そう言う事だと諦めて全てを受け入れるしかないのだから。 ゴゴは魔剣をぞんざいに扱われてショックを受けている雁夜など知った事ではないらしく、堂々と自分達の元へやってきて話し始めた。 「さて、当初の予定とは変わってしまったが、今日はここで遊ぶぞ」 「遊ぶ? どこか行く場所があったんじゃなかったのか」 「山だろうと海だろうと『旅行』は間桐邸を離れて、他の場所に行く事だ。つまりここにいる時点で『旅行』の目的は達成されたと言ってもいい。大体、今の雁夜は魔力が枯渇してるから、同じ事をもう一度やって別の場所に行こうとしても不可能だ」 「ぐ・・・・・・」 咄嗟に反論しようとするが、この砂浜に着陸する羽目になったのは雁夜の魔力不足なのは明白であり、もっと長い時間維持できたかもしれない自分の下手さを思い知っていたので何も返せなかった。 代わりに『旅行』に論点を当て、ゴゴに問う。 「何もない場所だぞここは」 「気晴らし出来ればどこだろうと問題はない。むしろ人気が無いなのは邪魔が入らないのと同じ事だから都合がいい」 「お前みたいな変な格好してたら絡まれる可能性が高くなるからか?」 「それもある」 「嫌味を素で返すな!」 ゴゴの傍若無人ぶりをやり込めたられたのは一度もなく、今回もまたマイペースでありながら我が道を行くゴゴに押し切られるのが目に見えていた。 諦めが肝心である。 「桜ちゃんの気晴らしが今回の『旅行』の主旨じゃなかったのか? ここじゃあ桜ちゃんも楽しめないと思うぞ俺は」 「どこだろうと間桐邸と違う環境ならばそれでいい。それに桜ちゃんもそんなに悪い気はしてないみたいだな」 「え?」 雁夜が振り返ると、そこにいた桜はこれまで雁夜の手に置いていた片手で小さな山を作っていた。 つまらなそうにしていればゴゴの言葉に反論出来たのだが、片手でミシディアうさぎのゼロを抱えながら、もう片方の手で砂遊びをする顔は、若干微笑んでいるように見える。 思い出してみれば間桐邸にも、いつも会っていた公園にも砂場は無い。雁夜は、桜がこれまで海に出かけた事がないのかもしれないと思いながら、桜に問うた。 「桜ちゃん。その――、楽しい?」 「海って、初めてだから・・・」 若干の間が大人を気遣ったように思えてならないが、桜の口からそう言われては雁夜は何も言えなくなる。 だから雁夜は諦めてゴゴの言う『ここで遊ぶ』を受け入れるしかなかった。そもそもゴゴに『じゃあどうする?』と返されても雁夜に妙案はないのだ。魔力が回復すれば別の場所に行けるだろうが、今はそれも出来ない。 「・・・・・・・・・判った。ここで遊んで気晴らしにする。判ったよ」 「判ってくれて何よりだ」 雁夜が言うと、ゴゴに即答された。そうなるように仕向けておきながら何を今更。と考えたが、それを口にしても意味はないので止めた。 するとゴゴは雁夜が作り出した返答までの間を利用し、新たな言葉をぶつけてくる。 「それじゃあ、まずこれだ」 「何?」 雁夜は自分が承諾してからゴゴから片時も目を離しておらず、彩り豊かないつものゴゴの姿をしっかりと捉えていた。 何も持っていなかった筈だし、取り出せる荷物も近くにはなかった。けれど、『これだ』と口にしたゴゴの手にはしっかり今までになかったモノを持っていて、雁夜の目がそれを認めていた。 どこから用意したのか? しかもそれは間桐邸から出発する時には絶対に持っていなかったし、近くに店など一軒もないのでここで購入したとも考えにくい。 状況と季節と環境と時間が揃えばここにその物体があってもおかしくない。けれど、前提条件が全て食い違っていながら、ただ結果だけがここにあるのならばそれは単なる異常だ。しかしそれをやっているのが理不尽と非常識の塊とならば納得するしかない。 繰り返すが、諦めが肝心である。 雁夜はゴゴが現れてから色々と変わってしまった自分を思う。 「何だ、それは」 「スイカだ。見て判らないのか?」 「いや・・・・・・。スイカは知ってるが・・・」 緑色に深い緑色の縦縞が入った楕円形の食べ物。ゴゴが両手で抱える日本で生活する者なら大抵は知っている野菜を見ながら、力無く言う。 「目の前に海、立つは砂浜、そこにスイカ。答えは一つだ」 「・・・・・・・・・・・・・・・スイカ割りか?」 「正解だ雁夜」 ゴゴはそう言うと、雁夜と桜から距離をとって手の中に合った西瓜を砂浜の上に直接置いた。 食べ物を地面の上に置くのはどうかと思ったが、ゴゴが何かしようとしているので今は何も言わない。堂々と『スイカ割り』と言ったのだから、その通りだろうが、ゴゴが雁夜の予想の斜めを上を行くのはいつもの事だ。 気がつけば桜もまた山を作る手を止めてゴゴを眺めている。 桜と一緒にゴゴの動きを見つめていると、十メートルほど離れたゴゴはそこに落ちていた木の棒を拾った。遠目から見た長さは十五センチほど、小枝としか言えないそれを拾ったゴゴは何故か右手その小枝を持ったまま斜め下に手を伸ばす。 まるで武器を握って下段に構えているような―――。雁夜がそう考えるが、ゴゴはその体勢のまま動かず、数秒が経過してしまう。 「・・・・・・・・・」 何をするのか? 何をやるつもりなのか? 何を見せてくれるのか? 演技を見る観客のような気持ちで全く動かないゴゴを見ていると、見えない口元からささやき声が聞こえてきた。 「必殺剣――・・・」 「ん?」 遠く離れて聞こえる筈のない小さな声なのに、何故かその声がしっかりと雁夜の耳に届く。 「断!!」 その雄叫びの様な声が衝撃波を放ちながら全方位に広がるような錯覚を覚えた。 だが雁夜を真に驚かせたのはゴゴの声ではなく、叫ぶと同時に砂浜に立っていた筈のゴゴの姿が消えた事だ。 どこに行った? 雁夜はそう考えながら、スイカ割りだと言ったゴゴを思い出して西瓜の方を見る。すると西瓜の横にゴゴの姿があった。 まるで瞬間移動だ。そう思った次の瞬間、スイカが二つに両断されて地面に転がる。 「・・・・・・」 「これがスイカ割りだ」 目隠しをしていなかった。周囲の声を頼りにしなかった。 雁夜には判らなかったが、何らかの技で斬っただけだ。 予想しろと言う方が無理のある無茶苦茶な結果に雁夜は叫ぶ。 「間違ってる・・・・・・。それは色々と間違ってるぞ!!」 日本文化を知る者として黙っていられない間桐雁夜であった。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 遠坂桜 桜は目の前に広がる光景を眺めていた。 「何で、お前は砂浜の上にうつ伏せになってるのに砂が全くついてないんだ」 「魔力で薄い膜を作って、地面と服との間を遮断してるだけだ。物理防御力を高める魔法『プロテス』の応用だから、やろうと思えば雁夜にもできるぞ」 「不条理な・・・」 「桜ちゃん、合図を頼む」 「あ、はい――」 桜が、パンッ! と小さな手が音を鳴らすと、それに合わせて砂浜に寝転がっていた二人が立ちあがって振り返る。そしていつの間にか用意されていた二十メートルほど離れた場所に立っている旗に向かって走り出した。 ミシディアうさぎよりも更に小さい旗で赤い色が砂浜の上に存在を象徴している。 一瞬後、雁夜おじさんがまだ半分も走ってないのにゴゴの姿が旗のすぐ隣に合った。 「ふざけるな!! いつ走った、全く見えなかったぞ!!」 「少し力を込めただけだが・・・、全く相手にならんな」 「勝てる訳が無いだろう。畜生――」 「だったら桜ちゃん勝負したらどうだ? もちろん色々ハンデをつけてな」 「わ、私?」 「雁夜はラグナロクが入ったアジャストケースを持って、ついでに走る距離も倍にする。桜ちゃんは普通の距離で勝負する。これで対等だな」 「・・・・・・桜ちゃんはまだ子供だぞ。俺が負けると思ってるのか」 「負けたら恥だな。よし、準備だ」 「え、ええええ!?」 気がつけば桜は雁夜おじさんが横になっていた所でうつ伏せになっており、遠くに雁夜おじさんが同じようにうつ伏せになっていて、持ち歩くようになった黒いアジャストケースを背負ってるのが見えた。 両手を顔の前に持って行って砂の上に置く。ざらざらした砂の感触が手の中に返ってきて、少しくすぐったい。 「準備はいいな」 「いつでも来い!!」 「・・・はい」 数秒後、パンッ! と手を叩く音が聞こえて、桜は何でこうなってるのかよく判らないまま、立ちあがって振り返る。雁夜おじさんよりも早く旗を取れば勝ちだと教わったが、どうして自分がそんな事をやってるのかは判らないままだ。 この競技がビーチフラッグと呼ばれている事を桜は知らない。ただ流されるままにやる羽目になって、何故か雁夜おじさんと勝負することになっていた。 腕の中にゼロのふわふわした感触はない。 あまり外で遊ばなかったので、走るのは苦手だ。はっきり言えば、嫌々やっているだけだった。 それでもやり始めたならばやり遂げなければならないと妙な使命感が桜の中に芽生える。それは旗の向こう側で横一列に並んだミシディアうさぎ達がいて、飛び跳ねたり『むぐむぐ!』『むぐ~』と応援してるみたいに鳴いてくれるからだろう。 勝つとか負けるとかじゃなくて、誰かが応援してくれるならやらなきゃいけない。桜はそう思った。 「おおおおおおおおおお!!!」 後ろから声が聞こえてきたので振り返ってみると、形相を浮かべながら旗めがけて一直線に走ってきている雁夜おじさんが見えた。 怖かった。 逃げる為に桜は視線を前に戻し、そこにある旗めがけて走りだす。 使命感と恐怖が混ざり合った疾走。雁夜おじさんの足音が後ろから迫って来たので、桜も必死になって旗を目指す。 走る。 駆ける。 逃げる。 取る。 一秒後、砂浜の上に立っていた旗は桜の手の中に収まった。 「ま・・・・・・ま、負けた・・・。桜ちゃんに・・・負けた・・・」 「雁夜おじさん――」 何と声をかければいいか桜には判らなかったが、声をかけるよりも前にミシディアうさぎが殺到して来て桜を取り囲んだ。 「むぐむぐ!」 「むぐ~」 「むぐっ!?」 「むぐむぐむぐ」 「うげっ!」 何匹かが砂浜に横たわる雁夜おじさんの頭を踏んだ気がしたが、いつも桜の腕に抱かれているゼロが跳んできたので、支えるのに忙しいから気に出来ない。 ミシディアうさぎ達は歌う。喜びの声で歌う。桜の勝利を祝い、歌う。 むぐむぐとしか聞こえないが、その声が『おめでとう』『すごいよ桜ちゃん』と言っている気がした。 「もう一回! もう一回勝負だ桜ちゃん!!」 「格好悪いぞ雁夜」 砂浜の上に作られていく山が遂に桜の身長よりも大きくなっていった。 最早それは『砂の山』とは呼べず、『砂の丘』と言うしかない。 「その調子だ『ゴーレム』、桜ちゃんの山を雁夜のより大きくしろ」 「幻獣を呼び出すなんて反則だろ! こっちは手が二本だけだぞ!!」 「ミシディアうさぎが協力してくれるだろう」 「十秒で飽きてあっちで走り回ってるあいつ等の事か? 嫌がらせか、おい」 「もう少し高くすれば滑り台にもなるな」 「人の話を聞けぇっ!!」 背中から伸びた二本の管から灰色の煙を吐き出し、茶色く四角い木と丸い木が組み合わさっている『何か』。砂の中から現れた手足を持ったそれが桜の前にどんどんと砂を積み上げていく。 「俺にもそれを使わせろ」 「今の雁夜じゃ『ゴーレム』を呼び出せないだろう。大体、雁夜が呼び出しても敵からの物理攻撃を防御してくれるだけでそれ以外は何もしてくれないぞ」 「ぐぬ――」 「桜ちゃん、坂を作ったから滑って感想を聞かせてくれ」 「は、はい・・・」 桜は砂で出来た丘を登り、そこに出来ている坂を滑り降りる。 材質が砂なのだから登ればそれだけで砂が崩れ、滑る時も一緒に砂が流れて太ももの下がざらざらした。 微妙―――可もなく不可もない砂の山を言い表すのにこれほど的確な言葉は無く、それ以上に何を言えばいいのか判らなくなった。 「・・・・・・・・・」 何て言えばいいか判らない。 どう言えばいいか判らない。 桜が軽い混乱に陥っていると、桜が登って来た場所にあるモノたちが殺到する。 「むぐ」 「むぐむぐ」 「むぐ~」 「え?」 ミシディアうさぎ達が砂で出来た滑り台を登っていると気がついた時、桜めがけて全てのミシディアうさぎが体当たりしてきた。 ただ滑り台を滑りたかっただけなのかもしれないが、小さなミシディアうさぎも十匹集まれば桜より大きくなる。塊となって滑ってくるミシディアうさぎに押され、桜は頭から砂の上に転がってしまう。 「・・・・・・」 ぶつけたのが砂なので痛くなかった。驚いただけで、すぐに顔をあげて後ろを振り返る。 するとそこには申し訳なさそうな顔をしながら、肩を寄せ合って身を縮めているミシディアうさぎがいた。 頭を下げて被っている帽子で顔を隠し、時々顔をあげて桜の顔を見る。そして次の瞬間にはまだ帽子で顔を隠すのだ。その姿は怒られるのに怯える子供のようだった。 「・・・・・・・・・怒ってないよ」 桜がそう言うと、全てのミシディアうさぎが顔をあげて桜を見つめた。 表情はほとんど変わってないが、まっすぐに見つめてくる目が『ありがとう』『桜ちゃんは優しい』『嬉しい、嬉しい!』と言っている気がする。 そのすぐ後だ。全てのミシディアうさぎが跳び上がって桜にぶつかって来たのは―――。背中から砂浜の上に転がった桜だが、むぐむぐ言いながら桜に頬を寄せてくるミシディアうさぎ達を見ると、怒るに怒れない。 視界の端に帽子に描かれている『1』『5』『9』『2』が見えた。 「どうだ雁夜。あれを見て、まだお前は『ゴーレムを使わせろ』と言うつもりか?」 「いいとこ取りしやがってこの野郎。その魔石借りたら同じ事が出来るようになってやるぞ」 レジャーシートの上に広がったお弁当は今朝用意されたものだ。まだお箸を上手く使えないので、子供用のフォークに刺して食べる。 「美味しいかい桜ちゃん」 「うん――。雁夜おじさんは?」 「おじさんのも美味しいよ。外で食べるといつもより美味しいね」 桜が頷くと雁夜おじさんは嬉しそうにしながら白米をほおばった。 レジャーシートは二人が並んで座るとそれだけで隙間が無くなって置いた荷物をつめなければならない。だからゴゴもミシディアうさぎ達もレジャーシートには乗っていない。 ただ、ゴゴもミシディアうさぎも桜が知る限り食事をとった事は一度もない。 今も少し離れた場所でミシディアうさぎ達の中心に立って次の遊びの指示を出している。食事とは無縁の不屈の体力の持ち主たちがそこにいた。 「二人の食事が終わる前に浜辺での『だるまさんがころんだ』の特訓を行う。雁夜にも桜ちゃんにも負けないように各自努力するように」 「むぐ」 「むぐっ!」 「むぐ~」 「むぐ」 「では、最初は俺が鬼だ」 ゴゴはそう言うとミシディアうさぎから距離を取り、桜達からも背を向けた。 衣装が派手だからこそ遠く離れてもよく判る。ミシディアうさぎ達は横に並んでゴゴの背中を眺めているが、声に誘われて桜も雁夜おじさんも一緒に見る。 そして練習が始まった。 「だ~、る~、ま~、さ~、ん~、が~、ころんだ!」 言葉に合わせて何匹かのミシディアうさぎが前に出るが、これまで一定のテンポで喋っていたゴゴが『ころんだ』との所で急に速度を早めた為、何匹かが立ち止まれずに砂の上に転ぶ。 砂に倒れながら『むぐっ!』と鳴いた。 「トレス、セクス、ユイン、それからジーノ!! 動いたから捕虜だ、こっち来い」 「むぐぅ・・・」 「むぐ」 「むぐむぐ」 ゴゴが振り返った時に止まれなかった『3』、『6』、『8』、『2』のミシディアうさぎがゴゴの所にちょこちょこと移動する。 青色のマントの中から前足を出して列を作る姿が可愛く、下を向いているのが落ち込んでいるように見える。 「次だ! だ~、る~、ま~、さ~、ん~、が~、ころんだ!」 二回目だったので慣れが出たのか、ゴゴが振り返った時に動いているミシディアうさぎは一匹もいない。全てのミシディアうさぎが『が~』の辺りで前に出るのを止めて、前足と後ろ足をしっかりと砂につけて体を固定した。 「やるな――。だが、次はどうかな。だ~~~~~~~~~~~、るまさんがころんだぁ!」 「むぐ!」 「ナナ。今、動いただろう、見逃さんぞ!!」 今度は帽子に『7』と描かれたミシディアうさぎが一匹転んで捕虜となる。 楽しそうだった。 面白そうだった。 レジャーシートの上で食べるお弁当は美味しかったが、あそこに行きたくて行きたくてしょうがなかった。 「桜ちゃん・・・・・・。もしかして、加わりたい?」 「うん――・・・」 「なら早く食べちゃおう」 「うんっ!」 これより五分後、三人と十匹が入り乱れる『だるまさんがころんだ』が砂浜の上で行われる。 桜は砂浜の上で過ごす時間に困惑していた。 しかし、この時間を楽しんでいる自分を認めていた。 笑みを浮かべながらミシディアうさぎ達と追いかけっこをして、転がっても痛くない砂の上で色々な事をする。 楽しい―――、そう、誰かと一緒に遊ぶのはとてもとても楽しい。桜はそれを思い出す。 遠坂の家から間桐の家に養子に出され、上手く笑えなくなった。けれど、今、皆と過ごす時間はとても楽しく、意識しない内に口元に笑みが浮かび、遠坂桜と言う存在全てから喜びがあふれるかのようだ。 楽しい。 美味しい。 嬉しい。 ずっとこんな時間が続けばいい―――桜はそう思いながらまた笑った。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 間桐雁夜 再び飛空艇を呼び出し、もう一度透明化の魔法をかけたゴゴによって、三人と十匹は帰路についていた。 既に夜の帳が世界を包み始め、夕焼けの赤さと夜の暗さが同居し始めている。 少し動けば服の中から砂が零れ落ちるので、風呂で入念に体を洗わなければならないだろう。 雁夜の魔力はほんの少しだけ回復しており、ポシェットの中にある魔石『ファントム』に魔力を注ぎ込めば、再び飛空艇と不可視の結界で包み込めるだろうと判っていた。しかし、持続時間は海にやって来た時よりも大幅に削られるのも判っていたので、無理はせずに帰りはゴゴに全てを委ねたのだ。 ファントムを呼び出す必要すらなく、手を振るっただけで巨大な飛空艇を一瞬で覆い隠す魔術行使の精度の高さ。『バニシュ』によって姿を消す巨大な飛空艇。 ほとんど見えないが、顔色一つ変えずに飛空艇を透明にして、その状態でなおかつ操舵輪を握って飛空艇を操る余裕の表われ。 落ちれば命が無いのに、地上にいる時と何も変わらずに応対できる不変の態度。 一日中魔術行使をしても尽きず絶えず無くならない膨大な魔力。 どれもこれも雁夜には無い強さだ。 甲板に上がって飛空艇を操作するゴゴに近づくと、雁夜から何か言いだす前に向こうから話しかけてきた。 「桜ちゃんはどうした?」 「下の部屋だ――。遊び疲れたんだろうな、ミシディアうさぎに囲まれてぐっすり寝てるよ」 何とかゴゴに返事をする雁夜だが、海に行く前の恐怖が今も体の中に根付いており、足は震えて四つん這いになりたくてしょうがなかった。 それでも目の前にゴゴと言う目標がいたので、何となく格好つけたくなったのだ。ゴゴは人の身で到達できない高みにいるのは判っていたが、そう思えた。 虚勢でも、飛空艇の上で二本の足だけで立てられるようになったのは収穫と言える。 「今日は楽しかったよ・・・。魔力が絞りつくされた時は死ぬかと思ったけどな・・・」 「自分の今の限界を知るのは悪い事じゃない。それにこの世界の魔術師は微弱だが、ただ生きているだけで魔力を放出して無駄にしている。それを全て体に留めて扱えるようになれば魔法が使える時間は伸びる」 「言わんとしてる事は何となく判る。ファントムに魔力を注ぐ時、どこかに消えていく魔力があったような気がしたから、多分あれがそうなんだろうな」 「常に緊張を強いて体を鍛え続ければ一年でもそれなりの術者にはなれる、遠坂時臣に真っ向から戦いを挑んでも勝てるかもしれない。だが雁夜、お前は『桜ちゃんを救う』為に力を求めた。ならば破壊に費やす力だけを求めても人は救えない。心を鍛え、桜ちゃんを知らなければ救いは見つからない、喜怒哀楽あってこその人だろう?」 「――こんな時間をこれからも作れって、そう言ってるのか」 「そうだ。雁夜の鍛錬にもなるよう調整してやるから存分に鍛え、そして遊べ」 「・・・・・・・・・」 雁夜は堂々と言ってのけるゴゴの強さに―――失敗など恐れずにただ我が道を突き進む存在の大きさに羨望の眼差しを向けるしかなかった。 しかし、ゴゴのやり方に不満があるのもまた事実であり、正直にそれを認めるのに悔しさを感じる。雁夜は誤魔化すように横に移動して、甲板の全方位を囲む手すりへと向かった。 どれだけ歩いてもまっすぐに飛ぶ飛空艇はぶれず、安定した飛行に足取りは軽くなる。 もちろん上空にいる恐怖も、落ちたら死ぬ恐怖も、今すぐにでも四つん這いになりたい願望も雁夜の中にある。だが、船が海を移動する乗り物であるように、飛空艇が空を飛ぶ乗り物だと認めて、受け入れる余裕がある。 中心部分から外に向かう程に歩幅が小さくなっていくのが判ったが、それでも足を止めずに手すりまで移動すると、そこに手を当てて体を固定して地上を見下ろす。 身を乗り出して下を見る勇気はまだ無かった。 「・・・いい、景色だな」 夕焼けの赤さと夜の闇に染まろうとする地上は普段雁夜が見る景色と同じでありながら、全く別物に見えた。 感動という言葉すら霞んでしまう衝撃が雁夜を襲い。目の前に広がる雄大な景色に言葉を続けられない。 普段見る事のない山の影。 徐々に灯り始める街の明かりが作る人の息吹。 雲が消えていく地平線。 大地からは見えない空の景色。 恐怖と感動をごちゃまぜにした良く判らない思いが雁夜の中を蠢いた。 「この世界の魔術は無駄にしてる部分が多い。臓硯として出歩いて、雁夜以外にも何人か魔術師を見かけたが、どいつもこいつも『検知される魔力』を作り出して外に漏らしている。少なすぎて一般人にも同じ魔術師にも気付かれないからそれで良いと思ってるのかもしれないが、俺から見れば夜の太陽だ。神秘の秘匿とかのたまってるが、自分達で自分達の首を絞めてるな、あれは――」 聞かせているのか独り言なのか、背後から聞こえてくるゴゴの言葉もほとんど耳から入ってこない。目の前の景色に心奪われてそれどころではなかった。 飛空艇に乗らされた時は見る余裕なんてなかった。ファントムを呼び出している時は甲板の中央に立って魔石から幻獣を呼び出し続けるので精一杯だった。だから、雁夜は初めて見る飛空艇からの景色を存分に堪能する。 今しかないチャンス。ようやく訪れたチャンス。これを無駄にしたら一生後悔する。 そのまま十分ほど飛空艇から見える景色をずっと眺めていた雁夜だが。吹きつける風の寒さに身を震わせ、言っておかなければならない事を思い出す。 「なあ・・・一つ言っていいか」 「何だ?」 最初は驚いたが、飛空艇なんてとんでもないモノを呼び出したゴゴには幾ら感謝しても足りない。 結果として見ればゴゴは『雁夜を鍛える』と『桜ちゃんを救う』を同時にやってのけたのだ、雁夜一人ではこうはいかなかっただろう。 だがそれでも―――それでも雁夜はそれを言わなければならなかった。 「あのなぁ・・・」 「今日はまだ四月だ!! こういう事は夏になってからやれ!!」 「もちろんやる。今回は予行演習と思え」 「予行演習なら先に言え、何度も何度もそう言ってるだろうが!!」 「最初は緑豊かな山で新鮮な空気を吸わせようと思っていたからな、予定変更を余儀なくされたのは雁夜の魔力運用の未熟さだと知れ」 「う・・・痛い所を突きやがって」 雁夜も桜もこの『旅行』で色々と得たモノは多い。それでも季節外れの『旅行』を容認する事は出来なかった。 雁夜が感謝しながら怒る。ゴゴはそれを受け流す。そのやり取りが雁夜とゴゴの変わらぬ接し方だ。 そうこうしている内に飛空艇は高度を下げて行く。 ゴゴが呼び出して、操縦している飛空艇が冬木市に―――間桐邸に到着しようとしていた。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 野をこえ、山こえ。谷こえて―――。 はるかな町まで、ぼくたちの―――。 たのしい旅の夢、つないでる―――。