第5話 『ものまね士は人の心の片鱗に触れる』 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 間桐雁夜 魔石に封じれた幻獣ビスマルク。巨大な白鯨であるビスマルクの攻撃は、バブルブロウと呼ばれる巨大な泡による攻撃だ。 ただの泡と侮るなかれ。 小さいものは手のひらに収まりそうな小ささだが、大きいモノは雁夜の身長を上回る巨大な球を描いている。雁夜はそんな巨大な泡を見た事が無く、単なる『泡』という現象でありながら、その雄大さに目を奪われた。 泡の群れが蟲蔵の中を埋め尽くしている光景を見ながら雁夜は思う。これこそが自分が途中で止めてしまったビスマルクの―――魔石と言う道具が作り出す真の力なんだ、と。 けれど、今の雁夜はそれをゆっくり鑑賞している時間は無かった。何故なら、魔石によって作り出された泡の群れは、確かな敵意を持って放たれようとしているからだ。 「許さない――」 蟲蔵の中に響く、怨嗟を含んだ桜の声が雁夜の耳に届く。 その声はこれまで雁夜が接してきた『遠坂桜』のモノではなく、間桐に養子に出されてから感情を無くした少女の口から呟かれたモノでもなかった。 雁夜が見た事のない笑みを浮かべながら、憎しみと恨みを込めて誰かが喋っている。 雁夜の目は確実に桜の姿を認めながらも、その少女が桜であると判りたくなかった。 黒髪に碧眼を持つその姿は桜そのものだ、けれど雁夜の知る桜はあんなにも怒りを露わにしたことは無い。だから雁夜はゴゴに見せられた超常現象に驚くのとは別に、現実を認めたくがない故に考えるのを半ば放棄する。 「そうなるか。そうくるか。ならば、ここでは狭すぎる、場所を移すとしよう」 雁夜の耳はゴゴの声を聞きながら、その内容については全く理解しない。 「さばくのララバイ」 続けられた言葉が言い終えられる同時に屋内である蟲蔵が姿を消す。そして、熱砂が吹き荒れ、地平線すら見える広大な砂漠が周囲に広がるが、雁夜の意識はその変化に何の反応も示せなかった。 雪山に変わった時と同じように、結界が発動して別の場所に作り変えられた。目で見て、耳で聞いて、肌で異常事態を感じ取っているにも拘らず、今、雁夜が見るのも聞くのも感じるのも視界に映る桜ただ一人だけだ。 壁が消え去って広い空間が周囲に広がり、結果、空中に浮かぶ黒い鯨とその周囲に浮かぶ黒い泡が見えるようになった。雁夜に見えるのはそれだけである。 「ライブラ」 今の雁夜にとってゴゴの言葉は単なる音でしかない。周囲に出来上がった広大な砂漠も意味をなさない。 「属性、架空元素・虚数? 実在概念を捻じ曲げて、存在情報を書き換えてるのか? 色彩の変化は存在しない実物への干渉の結果か、すごいぞ桜ちゃん」 「さ、くら?」 長い長い空白の時を経て、雁夜はそこでようやく、目に映る桜以外の思考を蘇らせた。 ゴゴの言った目の前に立つ少女の名前が切っ掛けになったのか。あるいはずっと見続けて、過ぎた時間がようやく思考が戻らせたのか。 本当の所は雁夜本人にも判らず、それを気にする余裕もない。ただ雁夜が呼び出した鯨は白かったが、桜の後ろで雄大に空を泳いでいるのは鯨の色は黒い。 色彩の違いがそのまま桜の豹変とつながっている様に思えるだけだ。 「魔石の本来の力を更に上乗せして、『実在しないモノ』に作り替えてるのか。桜ちゃんの力は中々すごいな」 「これが桜ちゃんの力――」 怒りながら、それでいてしっかりと笑っている少女と雁夜の知る桜が結びつき、思考が急速に戻ってくる。 それでも雁夜が呼び出した白鯨とは見ただけで別格と判る黒い鯨を見せつけられ、雁夜はそう呟くしかない。考えられても、目に見える以上の事が思えない。 透明であれば大きな泡かシャボン玉が飛んできているように見えたかもしれないが、黒く染まったそれは巨大な鉄球に見えた。 出てくるのは水が持つ特性の押し流すや呑み込む結果ではない、金属の重厚さが作り出す純粋な破壊だろう。 それをやっているのば雁夜の知っている桜だ。姉の凛の背中に隠れて、人見知りしていた桜だ。ようやく目の前の桜と遠坂桜が雁夜の中で繋がるが、その事実に雁夜は恐怖する。 巨大な黒い鯨を背後に従えて、鉄球を何個も何十個も何百個も用意する桜。今はゴゴが蟲蔵から砂漠に場所を移した事実に警戒して攻撃する様子は無いが、桜の目に宿る殺意の光がいつ攻撃に変化してもおかしくはない。 雁夜の前に立つのは遠坂桜だ。しかし、彼女は何か別のモノにとりつかれたようだった。 「こんな・・・。桜ちゃんの力は、こんなに大きいのか・・・・・・」 あまりにも違いすぎるからこそ、認めたくなかった。しかしそこに立って、笑い、目に狂気を宿らせたのは、紛れもなく桜当人なのだ。 考えられる状況が雁夜の中に戻ってきたが、同じ位の混乱が雁夜の頭の中を埋め尽くす。 どうすればいいのか? 何をすればいいのか? 答えの出ない袋小路に迷い込み、雁夜はまた思考を放棄しそうになる。 「何を迷ってるんだ、雁夜」 「ぐえ!」 それを現実に引き戻したのは、雁夜の服の襟を掴んで後ろに跳躍したゴゴだった。 成人男性一人分を片手で引きずる膂力が発揮され、雁夜は桜から距離を取らされる。覚悟しなかったところにいきなり衝撃が襲いかかって来たので、雁夜の頭が前につんのめって首が自分の服で絞められた。 「ぐ、げほっ! げほっ!」 あまりに唐突かつ強烈な衝撃だったので、雁夜は考える所ではなくなってしまう。 ただ、距離が開いたので、より広く桜の事を見れる状況が出来上がる。間近に居た筈の桜が小さく見えるようになったが、それは喜ばしい事ではなかった。 開いた距離の分だけ桜の豹変ぶりが見え辛くなったのはありがたいかもしれないが、空中に浮かんで今この瞬間にも攻撃してきてもおかしくない黒い鯨と、その鯨の周囲に浮かぶ鉄球にしか見えない黒い泡もしっかりと見えている。 もしかしたら大小合わせたその数は百を越えているかもしれない。一目では数えきれない膨大な数に、雁夜は『死』を考える。 否応にも考えてしまう。 「・・・・・・・・・」 桜の変わり様とは異なる、別の理由での絶句。桜の怒りの矛先は間違いなく雁夜とゴゴに向かっており。あるいはゴゴ一人に向けられて雁夜はその巻き添えになっているだけかもしれないが、同じ場所に立っているが故に敵意を向けられているのは間違いない。 救いたい相手からの拒絶の意思がそこにある。それが雁夜の生きようとする意志を削り取っていった。 (これが俺に与えられた罰なのか・・・) 雁夜には自責の念があった、桜への罪悪感もあった。だから当の桜に攻撃されるかもしれない現実をすんなりと受け入れた。 むしろ、そうであるべきだとさえ思えてしまう。 こうなるべきだったんだと、罪を背負わせてしまった者に罰せられることが正しいんだと、雁夜はそう思いながら徐々に思考を放棄していく。 自らの意思で―――。 忘我の境に入るのではなく、自分で自分を消していく。 その中に力ずくで割り込んできたのはまたしてもゴゴの言葉だった、 「雁夜、目的を履き違えるなよ。聖杯戦争が桜ちゃんを救うんじゃない、桜ちゃんを救う過程の中に聖杯戦争があるだけだ! 何をすべきか考えて、考えて、考え続けろ。桜ちゃんを救う為には聖杯戦争なんて必要ないかもしれないと心に留めろ。俺は聖杯戦争を破壊するつもりだが、必ずしもそれが必要じゃないと選択の幅を広げろ!」 「・・・・・・・・」 自分を消しさろうとしているからこそ、ゴゴの言葉は雁夜の頭の中に容易に入り込んだ。桜の攻撃を受け入れようとしたからこそ、真横からの言葉が雁夜の中に滑り込んでくる。 返事は出来ない。 けれど、ゴゴの言葉が雁夜の意識を再び『選択』へと導いていく。 「叶わなくとも前を見ろ。一度でもやり遂げると誓ったなら、それを成し遂げる心の強さを持て。お前が求めようとしている力は何の為だ? 強者に勝つ為か? 聖杯戦争に勝つ為か? 自分の立場を強める為か? 違うだろう、間桐雁夜。お前は『桜ちゃんを救う』その為に、力を求めたんだろうが」 「・・・・・・・・」 「あれだ。あれこそが、お前が救おうとして桜ちゃんだ。人が持つ、表と裏という二面性の片方だ! あれも間違いなく桜ちゃんだ!」 ゴゴが指で指し示す方向には空中に浮かぶ黒い鯨がいた、周囲に浮かぶ黒い泡が合った。そして遠坂桜が立っていた。 雁夜が救いたいと願い、そしてその為ならば何でもすると覚悟した少女がそこにいる。 ゴゴによって距離を取ったが、間違いなくそこに―――遠坂桜がいる。 「今、桜ちゃんは怒りを俺たちにぶつけようとしている、これ以上ないほどの感情を露わにしてる。ここから逃げてどうする? ここから逃げてどうなる? ここだ、今この瞬間こそが桜ちゃんを救う大きな一歩だ。逃げるな、媚びるな、へつらうな、臆するな、負けるな、屈するな、立ち向かえ。今、逃げれば。今、気持で負ければ、お前は一生、桜ちゃんを救えない。あの娘の思いを受け止められない大人がどうやって子供を救うつもりだ? どれほど恐ろしくても膝をつかずに前だけを見ろ、見続けろ。お前は桜ちゃんを救うんだろうが」 ゴゴの言葉が続ければ続けられるほどに雁夜の意識はより強く桜へと引きずられていった。何もかもを諦めて、桜からの攻撃を受けようとしていた雁夜が薄められ、それ以外の選択肢が強引に与えられていく。 考えろ。考えろ。考えろ。―――と。誰かの声で自分の中に別人格が植え付けられていくようだ。 雁夜はもう一度前を見て、クスクスと笑いながらこちらを見ている桜の姿を視界に焼き付けた。 「傲慢になれ。大人として子供より上だと思い込め。俺に罵声を浴びせるように、不遜な態度を崩さず、そこに堂々と立っていろ。お前は大人だ、子供の癇癪に脅える大人がどこにいる? 肉体も、精神も、心も、命も、全てを賭けて戦え、間桐雁夜。それでようやくお前は桜ちゃんと同じ舞台に上がれる」 そして雁夜は見てしまう。 口元に笑みを浮かべ、目に確かな殺意を宿しながら、それでもうっすらと目尻に涙を浮かべる桜の顔を。雁夜は見てしまう。 笑いながら―――怒りながら―――。それでも泣いている桜を見つけた。 「救いたいと思うのは簡単だ、救いたいと言葉にするのも簡単だ。伝えるのと判ってもらうのはとても難しい。だから行動で示せ! 救いたいと、桜ちゃんを想っていると、自分は本気だと、行動で示し続けろ。お前に出来るのはそれだけだ」 もっと他のやり方がある筈だ。ただ桜の攻撃にその身を晒す以外の方法がある筈だ。桜を救う方法が―――涙を流してこちらを見る少女の心を助ける方法がある筈だ。 ゴゴの言葉に触発され、雁夜の中に選択が現れる。 そして決定的な言葉がゴゴから放たれた時、雁夜は力強く二本の足で立った。 「もう一度言うぞ、雁夜。ここで屈したら、お前は桜ちゃんを救えない――」 「・・・・・・ふざけるな」 臓硯に取引を持ちかけた時のように―――。どれだけ強大な力を前にしようと、桜ちゃんを救う為なら何でもすると決めたあの時のように―――。雁夜は自分の中に決意と言う名の炎を燃やす。 強く、強く、強く。けれど冷静に、冷徹に、冷酷に。目的を達する為に自分を変えていく。 自分からそう決めたのではなく、ゴゴによってそう誘導されたのが非常に気に食わなかったが。雁夜とて望むところであり、ゴゴへの怒りは余所へ置く。 もう自分で自分を消そうとしていた間桐雁夜は存在しなかった。別の間桐雁夜がここにいた。 「手を出すなよ、ものまね士。俺がやる」 今、自分がすべき事を成し遂げる。その一点に意識を集中し、雁夜は自分を作り変える。 劇的な変化ではない。ただ、何かを成し遂げる為にそうしようと心に決め、望む未来を掴み取ろうと決意した。ほんの少しだけ意識を切り替える、ただそれだけの事だ。 変化とすら呼べないかもしれないほんの些細な違い。それを胸に宿し、雁夜は桜を見つめながらゴゴに向かって告げる。 「俺が桜ちゃんの所まで行って、あの子を止める。お前は俺が桜ちゃんの所までたどり着けるようにサポートしてくれ。それ以外は何もしなくていい」 「お前の力じゃどうやっても桜ちゃんの攻撃を避けられない。無駄に命を捨てる気か?」 「俺がどれだけ傷つこうと、怪我を負おうと、瀕死になろうと。お前なら俺を生かし続けられるだろう? 違うか」 魔術師の世界を知る雁夜から見てもゴゴの力は常識では測れない破格の力で、ほぼ確実に魔法の領域にどっぷり浸かっている。 人体に巣食う間桐の蟲を消滅させられるのならば、人一人を生かすぐらい簡単に違いない。 そんな願望意欲が強い予測の元の言葉だった。 「よく判ったな。確かに可能だ」 それは当っていたようだ。感心したような返事が横から飛んでくる。 雁夜はその言葉を自分の中で理解しながら、進むべき道は前にしかないと意を決する。 そして余計な事をしないようにゴゴに更なる釘を刺した。 「俺の『桜ちゃんを救う』物真似をしている、ものまね士ゴゴ。お前じゃ駄目だ、前に出ないで下がってろ。これは桜ちゃんと同じ、ただの人間の俺がするべき事。桜ちゃんを地獄に落としたこの俺がやらなきゃならない義務なんだ!」 ゴゴに引きずられて乱れた襟を直しながら、雁夜は前を見る。 見えるのは桜ただ一人。周囲に浮かぶ黒い泡も、背後に浮かぶ巨大な黒の鯨も何も変わっていない。 しかし、雁夜は違っていた。ほんの少し前まで桜に攻撃されてもいいと思っていた気持ちと、今、胸に宿っている思いは全く違うモノだ。 「俺が桜ちゃんを止める。だからお前は俺を生かし続けろ」 「それでこそ――。それでこそ、だ。そんなお前だから、物真似に値する。いいだろう雁夜、お前を支えてやる、どんな怪我でも一瞬で直してやる、たとえお前が死んでも蘇らせてやる。だから、桜ちゃんの所にまでたどり着く強い心を――、人の持つ意志の輝きを、俺に魅せてくれ!!」 隠しきれない喜びがゴゴの声に乗っていた。 フードに隠されて目元しか見えないのは変わってないが、きっとその奥には喜色満面の笑みが広がっているだろう。 雁夜は見ずとも何となく判るゴゴの様子に苦笑し、足に力を込める。 「俺は桜ちゃんを救いに行ってくる」 「行ってこい」 雁夜は前に出る。桜の上に浮かぶ鯨が、その動きに合わせて黒い泡を撃ち出した。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 遠坂桜 桜は魔石の使い方など詳しく教わってないし、言葉にして明確に説明された訳でもない。それでも、何となくこの緑色の塊に目に見えない何かを注ぎ込めば思い通りに動いてくれるのは判った。 魔石の中から巨大な鯨が現れても、桜はそれを怖いとは思わなかった。何故なら、それは自分よりも数十倍も大きいにも関わらず、まるで自分の手足のように動いてくれるからだ。 自分の手を怖いと思う者はいない。 胸に秘めた思いは―――、どうしてもっと早く来てくれなかったの? この怒りだった。 桜は目の前にいるものまね士ゴゴが許せなかった。 こんなものすごい力があるなら、もっと早く助けに来てくれたらよかった。こんな事が出来るなら、間桐に行かされなくてもよかった。 ゴゴが間桐邸を訪れたのは全くの偶然であり、桜を救おうと行動を開始したのは雁夜と出会ったからだ。偶然と必然と運命が重なり合って出来た奇跡のような今であり、もし間桐臓硯が生きていたら、もっと悲惨な未来が待ち構えていた筈。 だから、ある意味、ゴゴは間に合ったのだ。 それでも桜はゴゴを許せなかった。目に見える全てが許せなくて、許せなくて、許せなかった。 周囲が砂漠に切り替わったので警戒したが、結局、桜がやる事は変わらない。相手が距離をとっても同じだ。桜は魔力を魔石に注ぎ込み、自分の中から見えに見えない何かが吸い出される苦しみを味わいながらも、ビスマルクに命じる。 『壊せ』――と。桜は何の躊躇もなく命じる。 桜を主人と定めた幻獣はその願いを受入れ、周囲に浮かばせた漆黒の泡を敵に向けて放出した。 本来であれば海の青さを表すかのような透明度の高い泡なのだが、桜の魔力によって変質した黒い泡は別のモノに姿を変えている。着弾と同時に破裂して、爆発によって相手にダメージを与える筈のそれは、硬質な一つの塊に変わって威力を格段に増した。 むろん、桜はビスマルクの攻撃が本来のモノから変わった事を知らない。ただ、『何となくそうだろう』と魔石を通じて破壊をもたらすモノだと理解しているだけだ。 どれだけ打ち出しても構わない。ビスマルクは黒い泡を何個も何個も何個も撃ちだす。桜はそれを支える為に魔石を通じて、自分の上に浮かぶ黒い鯨に魔力を注ぎ続ける。 許せない―――。 壊せ―――。 どこかに行け―――。 と、心の中で絶叫した。そう思いながら、桜は攻撃を続けた。 遠く離れた場所に立つ二人の誰か。一人が前に出るのと、ビスマルクの攻撃がその一人に集中したのはほぼ同時だった。黒い泡は全く形を変えずに突き進み、まるで鉄球のようにその人に命中する。 何回も、何十回も。 泡はその人にぶつかって、少しだけ方向がそれたが、基本的に前に進み続けて、その人を壊していく。 余った黒い泡をもう一人にぶつけるが、確実に当たっている筈なのに、もう一人は立った姿勢のまま動かずにそこに居続けた。 桜は不思議だった。一人は桜が望むとおりに見るも無残に吹き飛んで砂の上に横たわっているのに、もう一人はそうならずに立っている。 どうして壊せないんだろう? 桜はそう考えた。 そして桜がもう一度ビスマルクに魔力を注ぎ込み、黒い泡をもう一度作り直そうとしていると、横たわっていた人が真っ白い光に包まれ、ムクリと起き上がった。 「・・・・・・・・・え?」 壊した筈なのに、壊れていなかった。 骨が砕ける音を、皮がねじれる音を、血管が裂ける音を、人の体が壊れる音を確かに聞いたのに、その人は立ち上がった。曲がってはいけない方向に曲がった腕を見た、壊れた人形のように吹き飛ぶ姿を見た、あちこちから紅い血を流す様子を見た、それなのにその人は無傷で立っている。 桜は何で怪我が治って立ち上がれてるのか判らなかった。それでも、まだ壊せていないのを理解して、ゾンビのように蘇る姿に驚く前に、『壊そう』と思った。 桜は起こった異常を異常と考えず、まず破壊を考える。 「ビスマルク――」 もう一度、黒くなった鯨に話しかけ、両手で握りしめた魔石へ魔力を注ぎ込む。 すると空中に浮かぶ鯨の周囲に黒い泡が何個も何個も出現した。 一つ一つが普通の人間位なら、簡単に殺せそうな威力を秘めている事が判る。自動車で撥ねられるみたいなものだと桜には判っていた。 でも、この攻撃を受けながら、桜の視界の中にいる二人は変わらずそこに立っている。 「許さ、ない」 混乱しそうになった頭が再び怒りで埋め尽くされ、自分の身に降り注いできた運命と言う名の理不尽さを目の前の誰かに向けた。 もし魔石を持ち、間桐臓硯が目の前に居れば、桜は何の躊躇いもなく臓硯を殺しに行った。しかし、臓硯はもういない。 怒りのはけ口を求め、桜は感情に任せてもう一度攻撃する。撃ちだす泡の数を少し減らして、今度はちゃんと敵に当っているかを確認する為、それぞれに一発ずつ撃ち込む。 風を切る音が桜の耳に届き、巨大な泡が人を吹き飛ばすのを見た。後ろに立っている人にもしっかり当たっている筈なのだが、何故かそちらは微動だにせず受け止めて横に押し退けてしまう。 色彩豊かな衣装に身を包んだ方こそが桜が怒りを向けるべき人だ、それなのに鉄球に等しいビスマルクの黒い泡が全く効いてくれない。 そうしたら、砂漠の砂の上に横にした筈の誰かがまた起き上がってきた。 何で、上手くいってくれないの? 何で、思い通りになってくれないの? 何で、私の願いを聞いてくれないの? 桜は目の前に立つ人達を壊したくて壊したくて仕方が無かった。それなのに桜の希望など関係ない現実ばかりが目の前に広がっている。 桜は悔しかった。妬ましかった。苦しかった。羨ましかった。許せなかった。悲しかった。 くすくすくすくす、と口元には笑みを浮かべながらも、頭の中はぐちゃぐちゃになって、よく判らなかった。 何もかもを壊したくて仕方ない。 桜は自分でも気づかない内に、目に涙を浮かべた。何故かはやっぱり判らなかった。 桜が命じれば、ビスマルクは黒い泡で攻撃してくれた。 何度でも、何度でも、攻撃してくれた。 魔力を注ぎ込めば、攻撃してくれた。 尽きる事無く、黒い泡を生み出して。目の前の敵を攻撃してくれた。 桜の望むままに、破壊を生み出して攻撃してくれた。 許せない大人を―――、自分を陥れた大人たちを攻撃してくれた。 そうやって、何度、黒い泡で攻撃しただろう? 五回は超えたと思えるし、十回はやったと思う。ただ、桜は無我夢中で攻撃していたので、これが何回目の攻撃なのかは覚えていない。 いくら攻撃しても一人には効かなくて、もう一人は何度も何度も立ち上がって来る。そのあまりの変わらなさに数の認識はあやふやになっていき、四回目と五回目と六回目は一緒になっていた。 右側に弧を描くように撃ち出してぶつけた事もあった。 頭上から重力に任せて落とした事もあった。 左斜め下から顎めがけてぶつけた事もあった。 小さめの泡を使って拳で殴るみたいに、腹に顔に胸に腕に足にぶつけた事もあった。 それなのに、その二人は何も変わらずにそこに立ち続けている。そしてまっすぐこっちを見て、桜を見つめているのだ。 どんな怪我を負っても、その人は立ち上がった。 どれだけ傷つけても、その人はもう一度起き上がった。 壊して、壊して、壊して、壊して、壊して、壊しても、その人は止まらなかった。 気が付けば、桜の意識は壊したくて仕方なかった攻撃の効かない方ではなく、何度でも何度でも立ち上がる誰かに吸い寄せられていた。 何度もビスマルクに命じて、その度に魔石へと魔力を注ぎ込んで桜の意識は摩耗して行った。辛うじて、誰かを攻撃しなければならないという意識だけは残っていたが。何故? の理由を考える事も出来なくなっていく。 疲労していく体は回復を求め、吐き出す呼気は徐々に激しさを増していく。頭の中を埋め尽くして怒りは、吐き出す息と一緒に体の中から抜け落ちていくようだ。 桜は不意に考える。あの人は誰だろう? どうして私は壊したかったんだろう? と。 「桜ちゃん・・・・・・」 「ぁ・・・」 何度も何度も立ち上がって桜を見つめてきた人が桜の名を呼ぶ。 その声を、その顔を、その姿を、桜は知っている。 どうして、今までその人が誰であるかを考えなかったのか。そうやって不思議に思えるほど、桜はその人の事をよく知っている。 桜はその人を見つめ、その人の名前を呟いた。 「雁夜、おじさん・・・」 「桜ちゃん」 名前を呟いた瞬間、桜は急速に『雁夜おじさん』の事を思い出し、これまで接してきた時間の全てを思い出したんじゃないかと思えるほどに、膨大な量の情報を頭の中に溢れさせた。 同時に、ゴゴ一人に向ける筈だった怒りを、傍にいた『大人』という括りで雁夜おじさんも一緒に巻き込んで攻撃した事実に気付いてしまう。 それどころか、雁夜おじさんの後ろに立つゴゴに攻撃が効かないからこそ、雁夜おじさんの方を重点的に攻撃してしまった節さえあった。 知り合いを、見知った相手を、桜の事を想ってくれている人を、桜自らが傷つけたのだ。 「わ・・・たし――、私・・・」 徐々に『知り合いを自分の手で傷つけた』という事実が頭の中を占有し、ほんの一瞬前まで合った筈の怒りにすり替わって桜の意識を侵食していく。 それは悪い事だ。してはならない事だ。 桜は手を少しずらして、魔石ごと自分の体ごと抱きしめる。他の誰でもない、自分の仕出かした事を自分の中に押し込めるようにギュッと抱きしめる。 「桜ちゃん、大丈夫――」 雁夜おじさんはそう言うと、一歩前に出て桜に近づいてきた。何度も何度もその体を壊し、腕も足も腹も胸も頭も、全身くまなく破壊した人が桜に向かって歩いてきた。 その声を、その姿を、その所作一つ一つを見れば見るほどに、後ろめたさと呼ぶことすらおこがましい強烈な罪悪感が桜の中を埋め尽くす。 誰かを傷つけてしまった自責の念が桜の心を締め付ける。 とてもとてもとてもとてもとても胸が苦しかった。 「桜ちゃん。もう、君を傷つける奴はいないんだ――。怖がらなくても大丈夫・・・」 「いや・・・、いや・・・」 合ってはならない事がここにある。誰かを傷つけてしまった結果がここにある。雁夜おじさんが近づけば近づくほどに桜はそれを思い知り、一歩後ろに下がって目の前の現実から逃げようとした。 けれど周囲に広がる広大な砂漠は消えてなくならないし、背後に浮遊する黒い鯨も、その鯨が浮かばせている膨大な数の黒い泡も変わらずそこにある。 雁夜おじさんが近づいてくるのもそうだ。桜が起こした罪は今も目の前にある。 「やだっ―――!!!」 怒りではなく、現実を否定したいが為に、桜は再び魔石に魔力を注ぎ込んで攻撃を再開した。 こんな現実は嫌だ、無くなってしまえ。と。そう思いながら攻撃してしまった。 桜が目を閉じて、自分の体をより強く抱きしめた時。ビスマルクは桜の願いを受け止めて、雁夜おじさんにめがけて黒い泡を撃ち出してしまう。 左右から打ち込むモノと、上から叩き落とすモノと、真正面から貫くモノ。全体の総量からすれば合計四つしかない攻撃は少ない部類に入る。 しかし一つ一つが人を死に至らしめる威力を持っており、右から回り込んだ泡は雁夜おじさんの左手を砕きながら体を回し。左から飛ばした泡は雁夜おじさんの足から血を撒き散らしながら払い。上から落とした泡は雁夜おじさんの頭を力ずくで地面に叩き付け、残った最後の泡は雁夜おじさんの耳と腹部の一部をくり貫いた。 「ぁ・・・あ・・・・・・」 やってしまったと思って目を開けた時には全てが終わっていた。 紅い血が砂の上に広がって、曲がってはいけない方向に腕と足が折れ、首の後ろからピンク色の肉と白い骨が少し見えている。 死だ―――。 人の体が壊され、どうしようもなく伝えているその結果を見てしまい。桜の意識は一気に冷まされ、攻撃しようとしていた意思は完全に砕かれた。 やってしまった。 遣ってしまった。 殺ってしまった。 怒りに任せた結果、自分は取り返しのつかない事をしてしまった。 指は力を無くし、手の中に握りしめていた魔石が砂の上に落ちるが、今の桜にそれを気にする余裕はない。 背後に控えていた黒い鯨が姿を消して、周囲に浮かんでいた全ての泡が消え去っても、桜の目は自分が殺した雁夜おじさんへと向けられたままだ。 今、自分が殺してしまった人を―――ずっと見ていた。 だから雁夜おじさんの全身を淡い燐光が包み込み、時間を巻き戻している様に手と足と腹と首と胸と頭が元の形を取り戻していくのもしっかりと見てしまう。 「えっ・・・?」 桜には何が起こっているのか判らなかった。 ただ、雁夜おじさんの体が光ったと思ったら、怪我など無かったように起き上がったのだ。桜の方を見てくる雁夜おじさんがまたそこに現れたのだ。 殺してしまったと思ったら、そこにいる。 夢なのか、幻なのか、現実なのか、桜には判らない。 「少し痛かったけど、俺は気にしてないよ。こう見えて、おじさんは頑丈なんだ」 また近づきながらそう言ってくる雁夜おじさんの言葉を聴いて、桜は咄嗟に『そんな筈ない』と思った。 間桐の蟲という忌まわしい『攻撃』に晒された桜は、自分の仕出かした事が人を苦しめ、傷つけ、時に死に至らしめるモノだと判っている。 何より今、目の前で殺してしまった雁夜おじさんの姿をしっかりと目に焼き付いたのだ。それなのに雁夜おじさんは何事もなかったように小さく笑みを浮かべ、桜に近づいてきた。 そのあまりの変わらなさが桜には苦しかった。とても苦しくて、とても悲しくて、とても辛くて、自分が嫌で嫌でたまらなかった。 「ごめん、な、さい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――」 「いいんだ桜ちゃん」 雁夜おじさんは桜のすぐ目の前に立っており。聞えてきた声に引きずられて顔を上げれば、膝を落して目の高さを合わせてきた。 間近で見る雁夜おじさんの顔には怪我なんて無かった。血も流れてなかった。無傷でそこにいた。 そんな『間桐雁夜』の姿を見た瞬間。桜の中に間桐に養子に出される前の公園の風景が蘇ってくる。 母がいた。姉がいた。雁夜おじさんがいた。父はいなかったが、公園から帰ればいつでも会えた。 もう戻らない景色が蘇り、桜はもう一度『ごめんなさい』と言いながら、それを口にする。 「雁夜・・・おじさん」 「なんだい。桜ちゃん」 「お父さんは・・・、お母さんは・・・、お姉ちゃんは・・・。わたし、のことが・・・、きらい、なの?」 どうして私はここにいるの? どうして私は遠坂の家にいられないの? どうして私は間桐に連れてこられたの? どうして私は痛くされたの? どうして私は―――。 雁夜おじさんを殺してしまった気持ちと過去への疑問。膨大な量の疑惑が再び桜の中に生まれ、口に出した言葉よりもっと多くの言葉がぐちゃぐちゃになって駆け巡る。 すると雁夜おじさんは膝をずらして前に出て、桜の体をギュッと抱きしめる。 「そんな事無い。みんな、桜ちゃんの事が大好きだよ。もちろん、おじさんだって桜ちゃんの事が大好きだ」 耳元で囁かれる言葉は答えを求める桜の中にじんわり染み込んでくる。だけど雁夜おじさんの言葉だけでは、今桜の身に起こっている事は説明しきれない。 納得できない。 感情が暴れ出す。 「じゃあ・・・。何で・・・・・・何で・・・・・・」 「ほんの少しボタンを掛け違えただけなんだ。魔術師だから、色々なしがらみが出来て、桜ちゃんが間桐にこなくちゃいけない状況が出来てしまった。でも、みんな桜ちゃんに会いたくて、会いたくて、仕方ないんだよ」 「・・・・・・・・・ほ、んとう?」 「ああ。葵さんが桜ちゃんを嫌いになる筈なんてないじゃないか」 桜は間桐の家になんて来たくなかった。 でも、父親がそうしろと言ったから、桜は間桐の家にやって来た。 どうして? どうしてこうなったの? 雁夜おじさんの言葉を聴きながらも、消せない疑問が―――怒りを容易く誘発する理由が―――桜の中で蠢く。 すると雁夜おじさんはより強く桜の体を抱きしめてきた。互いの鼓動が聞こえてきそうだ。 人の温かさがあった。 「大丈夫。きっとおじさんが桜ちゃんを遠坂の家に帰してあげる。桜ちゃんは葵さんと時臣、凛ちゃんの所に絶対に帰れる――、また一緒にみんなで暮らせる――。だから安心して」 「・・・おじさん」 「少し寂しいかもしれないけど、桜ちゃんは帰れる。絶対に遠坂の家の帰れる。おじさんが約束しよう」 「やく・・・そく」 「そう、約束だ」 雁夜おじさんはそう言うと、桜を抱きしめていた腕をほどき、右手を取って互いの小指を絡み合わせた。 桜はその意味を知っていた。これは約束を必ず守る証だ。 「指きりげんまん、嘘ついたら、針千本飲ーます」 「あ・・・」 「俺との約束だよ、桜ちゃん。少し時間はかかるけど、君は遠坂の家に帰るんだ」 「・・・・・・・・・」 その言葉が嬉しくて、桜は雁夜おじさんの反射的にしがみ付いてしまう。 そして泣いた。 ただ泣いた。 わんわんと泣いた。 悲しくて、嬉しくて、苦しくて、傷つけて申し訳なくて、言葉にしきれないよく判らない思いに突き動かされて―――、涙が止まらなかった。 一体、この小さな体のどこに、こんなに涙が入っていたのかと不思議に思えるほど、泣いた。 流す涙はいつまでも止まらなかった。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 間桐雁夜 ずっと泣き続けるかと思えた桜だが。ある程度時間が経つと、電源の切れた機械のように涙を止め、そのまま寝息を立てながら体重を預けて来た。 何とも判りやすい泣き疲れだ。 黒い鯨を呼び出した時に見せた禍々しい笑みは、眠る桜には見えない。 あれもまた桜の中にある『遠坂桜』を作る一部分なのだろうが、長時間持続させられるほどのモノではなかったのだろう。あるいはこれまで溜め込んでいた感情が一気に爆発して、その勢いのまま消えてしまったか。 間桐邸で変わり果てた姿を見てから、今に至るまで何の感情も見せずにいた桜がここに来て変化を見せた。あまりの変わり様に一時呆然自失に陥ってしまったが、どんな感情であれ、何もないよりはマシだ。 今はあの桜を見ても、前向きにそう思える。 「何度も回復したから死んでない。そして『桜ちゃんを救う』意思も折れてない。この短時間で随分と心を成長させたな、雁夜」 「お前か・・・」 振り返ってみると、そこには戦いが合った事など関係ない、と言わんばかりにゴミ一つ付いていないゴゴが立っていた。確実にゴゴの方にも桜の攻撃はいった筈なのだが、雁夜と違って完全に無力化したらしい。 服が肉と一緒に千切れた雁夜とは大違いである。 雁夜は桜の呼び出したビスマルクの攻撃で何度も何度も死にかけて、その度にゴゴの援護を受けて回復して無傷の状態に戻してもらった。 そうでなければ、桜の説得など不可能だったので、回復させてくれた事には素直に感謝したい。だが、人を回復させる魔術の強力さには羨望と恐怖を覚えずにはいられなかった。 色々見て来たので、ゴゴがとんでもない力の持ち主である事は判っていたが。まさか即死してもおかしくない折れ曲がった首まで一瞬で治すとは思わなかった。おそらく、桜と対する前に言っていた『死んでも蘇らせてやる』というのも本当に出来るだろう。 治されると言うよりも、まるで起こった出来事が無かった事になるような『まき戻し』の方が説明としては適切な気がする。 その力の強さに恐れ。けれど、その力の一端を学ぶ機会を得れた奇跡に雁夜は感謝した。 「桜ちゃんは大丈夫なのか?」 「ああ。魔石を使いすぎた反動が一気に来て、体が休息を求めて眠ったんだ。雁夜も体の怪我は治っても、心の疲れは消えていないから、眠いだろう?」 「そうだな・・・。気を張ってないと、そのまま気絶しそうだ」 「今日だけで十回は死んでるぞ。寿命とかヘイフリック限界とか、回復魔法でも蘇生魔法でも治せない場合はあるんだから、不用意に死ぬな」 「ああ、判った」 ゴゴの言葉を聞きながら、雁夜はやはり自分は桜に何回か殺されたのだと思い出す。 その度に蘇らしてもらったからこうして説得できたのだが、我が身に起こった事だからこそ常識外れだとよく判る。裏の世界に限定しても、もし死者蘇生の話が広がれば、誰もがゴゴを付け狙うようになるだろう そうならない為にも、強くならなければならない。そう雁夜は思った。 気を取り直して見れば、ゴゴの足もとにはいつの間にか消えていたミシディアうさぎがいた。 どうやら桜がビスマルクを呼び出した時点で、傍にいるのが危険だと判断したらしい。戦いが始まった状況で、即座に最も安全な場所に避難したのだ、この兎は―――。 呼び出したゴゴと同じで、人の感情など気にしない、ふてぶてしい兎である。 「俺たちはどれぐらいここにいるんだ? いや、俺は桜ちゃんの攻撃をどれ位受けてたんだ?」 「三十分ほどだ」 「それだけか。随分と長い間ここにいるような気がしたが・・・・・・」 「戦闘はそれだけ精神を削り体力を消耗する。もし聖杯戦争に参加して、遠坂時臣と戦って勝つつもりなら、もっと鍛えないとな」 「・・・・・・」 腕の中に桜の体温を感じながら、雁夜はゴゴの言った時臣との戦う場面を思い。そしてゴゴの事を考える。 ゴゴは聖杯戦争を壊すと言った。雁夜が聖杯戦争に関わろうとするのをどう考えてるのだろう? 一度その事を聞いておいた方がいいと思うが。今は横になった瞬間に眠ってしまうであろう予感が合ったので、聞く気力すらなかった。 「どうかしたか雁夜?」 「いや。何でもない、少し眠いだけだ」 「そうか、眠いのか。では今日の鍛錬はこれで終了としてゆっくり体を休ませろ。次の鍛錬までに疲れを残さないようにな」 「ああ・・・」 ゴゴがそう言うと、周囲に合った砂漠の風景が薄れていき、足元にある砂の感触がドンドンと消えていく。 考えてみれば、この砂漠もまたかつて見た雪山と同じで、ゴゴが作り変えた結界の一つに違いない。 桜を説得しなければならなかったし、生きて立つのに精一杯だった。周囲の光景の移り変わりを気にする余裕なんてまるでなかったから深く考えなかったが。この一面砂漠の風景も魔術の常識から外れた超常の力の一部なのだ。 雪山の次は砂漠。驚く暇が無かったので今回は驚けなかったが、改めて思えばとんでもない変化である。 「俺は少し図太くなった・・・のか?」 雁夜は誰にも聞かれる事のない独り言を呟いた。 そして周囲に広がっていた砂漠の広大さと、天から降り注ぐ太陽の暑さが消えたかと思うと。雁夜の視界の中に懐かしさすら覚える蟲蔵の薄暗い様子が入ってくる。 臓硯がいた時は近寄る事すら苦痛を覚えていた筈の蟲蔵に、懐かしさを覚えるとは何の冗談だろうか。雁夜は見知った風景に安心を覚え、フッ、と溜息を吐き出しながら肩を落とす。 その瞬間、体の中に蠢いていた疲労と言う名の敵が一斉に雁夜に襲い掛かり。抗う暇もなく眠りの世界へと引きずり込まれてしまう。 「ぁ・・・・・・」 油断した。そう思うよりも早く、張っていた気を霧散させてしまった雁夜は眠りに落ちた。 目を覚ました時に、眠る前の状況と大きく食い違う現状に驚くのは何度目だろう。雁夜は寝起きのぼんやりした頭で、ふとそんな事を考える。 「またか」 目が覚めると、間桐邸にある雁夜の私室の天井が視界に入ってくる。これが普通にベッドに潜り込んで眠った後の目覚めだったならば驚くに値しないのだが、こうなる前に雁夜は別の場所に居た筈だ。 蟲蔵の床の上で、桜を腕の中に抱いた状態で眠りに落ちたのを覚えている。 周囲の景色の移り変わりは、酒に呑まれて記憶が飛んだ場合と少し似ているが。今回は誰かが雁夜を私室にまで運んでくれたのだ。既に前例があるので、そうやって自分の状況に対する予測を立てるのは容易かった。 やったのはゴゴだろう。 何を思って、わざわざ雁夜を私室のベットの上にまで運んでくれたのかは判らないが。とにかく、雁夜を運んでくれたのはゴゴに違いない。 「・・・・・・まあ、怒る事じゃない、な」 雁夜が覚えている限り、間桐の家の中でわざわざ眠ってしまった雁夜をベットにまで運んでくれるような親切な人間は誰一人いない。 だからこそ、ゴゴの行動が何ともおもはゆい。正直、どう言えば良いか判らなくなってしまうので、羞恥を隠すための怒りが前面に出てしまうのだ。 そうやって自己分析しても、ゴゴに対する苛立ちは消えてくれなかった。 死に瀕して。いや、ゴゴのサポートが無ければ確実に亡くなっていたであろう怪我が一日と経たずに治った。怪我一つ無く起きれたのだから感謝すべきだが、ゴゴの傍若無人ぶりにどうしても感謝の言葉が出し辛くなるのだ。 感謝しながら憎悪を抱くという器用な真似は出来ず。怒声に似た口調ばかりで話しかけていた過去が蘇り、雁夜の中でゴゴとどう接すればいいのか判らない、悶々とした気持ちばかりが膨らんでいく。 「・・・腹が減ったな」 気を紛らわすために放った言葉が意味を持って雁夜の耳に舞い戻った時。グー、と唸る腹が空腹を訴た。 窓から差し込む朝日を見て、昨日の朝から20時間近く眠ってしまったのを知る。 それほど時間が経った実感は無いのだが。現実に流れた時間はかなり多い。それだけ桜からの攻撃が心身に響いて、休みたいと体が訴えたのだろう。 死んでもおかしくないあれだけの事がありながらも、こうして無傷で起きれたのは行幸だ。 無事ならばこの時間すら短すぎる位だ、と前向きに考え直す。本当ならご臨終か、一生寝たきりになってもおかしくなかったのだから―――。 ゴゴの事とか色々と考える事はあるのだが、とりあえず空腹と言う目の前の敵を打倒する為に意識を切り替える。 ベッドから下りて桜の攻撃でずたぼろになってしまった服を脱ぎ、間桐邸に戻ると決めた時に持ち込んだ服に着替える。 今だ壁に出現しているスロットから目を背けつつ―――。 空腹は解消されずとも、服を着替えればそれだけで意識は少しだけ切り替わる。新しい門出と言えるほど劇的な変化ではないが、とにかく昨日の自分とは異なる何かが胸の中にあった。 雁夜はその心地よさにほんの少しだけ身を預けつつ、腹を満たすべく入口へと向かう。ゆっくりドアが開かれたのは、雁夜がまだドアノブに手を当てる前の事だった。 「っと・・・」 急に開けようとしたドアが開いたので驚いたが、その驚きはゴゴに見せられた数多くの異常に比べれば何の変哲もない日常の一つである。 風で開いたか、立てつけが悪かったのか。即座に幾つかの予測を立てると、その答えは廊下の方から勝手にやって来てくれた。 「あの・・・」 「ああ。桜ちゃん」 勝手にドアが開いた理由は廊下の方から開いた桜だ。 雁夜は一歩下がってドアが開く空間を空けつつ、隙間から雁夜の部屋の中を覗きこんでくる桜に声をかける。 桜はドアのすぐ近くに雁夜が立っているとは思っていなかったようで、雁夜の顔を見た瞬間、ビクッ! と体を震わせて、声を詰まらせた。 それでも、雁夜の部屋にわざわざ来た理由―――。おそらく雁夜を起こしに来てくれたのであろう、それを完遂する為に、朝の挨拶を口にする。 「おはよう。雁夜おじさん」 そこには間桐邸に連れてこられ、間桐の蟲の蹂躙されて感情を無くした少女はいなかった。おっかなびっくりの言葉がよく似合う気弱さだが、それでも雁夜が求めてやまなかった桜の笑顔がそこにあった。 二か月に一度は冬木に帰って葵と一緒に会っていた遠坂桜がそこにいる。 引っ込み思案なかつての少女がほんの少し勇気を出した、積極的に動いて自分を変えようとしている。一言でまとめれば『成長』と呼べる変化が雁夜の目の前に広がっている。 それが嬉しくて嬉しくて仕方なく。雁夜は胸の中に喜びが満ちていくのを感じた。 「おはよう、桜ちゃん」 「おはよう――」 「それじゃあ、行こうか」 もう一度朝の挨拶を繰り返した桜にそう返すと、桜は肯定の意味を示すように一度頷くと、雁夜の部屋のドアを大きく開いて道を開けた。 どうやら雁夜に先に行って欲しいようだが、その目が『一緒に行こう』と物語っている様にも見えた。 姉である凛の背中に隠れてそんな目をしていた桜を思い出し、その懐かしさに『戻って来た』と、もう一度喜びを想い。胸に宿る暖かさを噛みしめつつ、桜と一緒に間桐邸の廊下を歩きだす。 前方から声が飛んできたのはそのすぐ後だった。 「起きたか二人とも、よし朝食だ。今日は台所にあったコーンフレークと牛乳、そして果物の盛り合わせだ。昨日の分までモリモリ食べろ」 「あ・・・」 喜びに水を差すようにぶしつけに飛び込んできた声の主はゴゴだった。しかも、何故かゴゴは無地のエプロンをつけて色彩の豊かさを更に膨らませており、臓硯が支配していた薄暗い間桐邸とはとてつもなくミスマッチな光景を作り出している。 桜との時間を邪魔された事もあり、雁夜はかける言葉につまってしまう。 すると斜め後方に何かがぶつかる感触が合ったので、雁夜はそちらに目を向けた。 「あの・・・・・・、その・・・・・・」 「桜ちゃん?」 そこには雁夜の服を掴んで、雁夜を盾にしてゴゴを見ている桜の姿が合った。 どうやら、今に至るまで付き合いがあった雁夜に対しては多少強く出れるのだが、ほぼ初対面と言っても過言ではないゴゴに対しては、まだ内気な顔が出てくるようだ。 そもそも桜が蟲蔵の中でビスマルクを操って最初の攻撃しようとしたのはゴゴだ。つまり、雁夜とは昔の付き合いもあってこうして和解出来ているが、桜の中ではいまだにゴゴは『敵』となっているのかもしれない。 ほぼ知らない相手。敵と認めている者。人見知りする桜。これらが絡み合って、雁夜と同じように話せる訳がない。その結果、雁夜の後ろに隠れている今が出来上がった。 いっそ、蟲蔵で見た不気味な笑みを浮かべて敵意を目に宿したあの桜の方が、堂々とゴゴと話せる。そんな事を雁夜は考えるが、何かの切っ掛けであっちの桜が出てくれば、それはそれで大変だ。 もしかしたら、あれは怒った時の桜が見せる普通の顔なのかもしれない―――。雁夜はしがみ付いてくる桜のつむじを見ながらそんな事に考える。 これがもし桜の姉の凛だったならば、ゴゴに驚きはするだろうが、すぐ後に『何なのよあんたは、そんな恰好してるなんて変態!』とでも言いそうだ。 雁夜としては桜を救うためにゴゴの協力が必要なので、二人の仲が悪いのはよろしくない。どうやって間を取り持とうか考えると、答えを出す前にゴゴが喋り出した。 「何だ、桜ちゃん。ビスマルクで攻撃したのを気にしてるのか? あんなもんは俺にとっては蚊に刺されたようなもんで、全く効かなかったから気にするだけ無駄だ」 「え・・・」 「あの程度の攻撃なら百回くらっても痛くも痒くもない。気まずくなる必要なんぞないから、雁夜と一緒に堂々としてろ。そんな事より朝食だ、俺は今から鶴野を呼びに行くから先に行ってろ」 ゴゴはそれだけ言うと、二人に背を向けて去ってしまう。 あまりの急展開に思考がついて行かず、雁夜も桜も呆然と見送るしかない。 それでもゴゴの姿が見えなくなると、自分達が何をすべきか思い出せてくるので、雁夜は桜を見下ろし、桜は雁夜を見上げ、共に視線を合わせながら言う。 「・・・・・・・・・行こうか、桜ちゃん」 「うん・・・」 桜を救うために大きな問題が一つ解消され、状況は大きく前進した。しかしまだまだ残る問題の多さを考えずにはいられなかった。 間桐邸の食卓に着く。言葉にすればそれだけなのに、十年も寄り付かなかった生家では初めてやる苦行に等しい。 もし昨日一回やってなかったら、ただ席に座るだけでにかなりの労力が必要になっただろう。今更ながら、雁夜はゴゴの図々しさが時に感謝する事態を生み出すのだと知る。 一度やった慣れも手伝い、雁夜は桜と普通に食卓に座って朝食の準備を整えた。いつの間にか『飯はゴゴが用意する』という状況が出来上がっているので、二人は他愛もない話題ではあるが、話の華を咲かせて時を待った。 一人だったならば待つ時間はつまらないかもしれないが、今、雁夜の隣には桜がいる。救うと決めた少女が小さく笑みを浮かべて雁夜を見ている。その何でもない事が雁夜には嬉しくて嬉しくてたまらなかった。 何気ない光景が幸福に思えた。 程なく、兄の鶴野が食卓に姿を見せる。宣言通り、ゴゴが呼びに行ったのだろう。 「雁夜」 「ああ、兄貴。おはよう」 すぐに返した『おはよう』は、おそらく間桐邸に戻ってから、最も気持ちよく言えた『おはよう』だ。 今までは鶴野について思うところが大量にあったのだが、それらを全て許せそうなおおらかな気持ちがある。 兄貴にも事情があったんだ。そう思えるほどに―――心が強くなっている実感がある。 小さい変化かもしれないが、昨日の一件で間違いなく自分は成長している。その変化が心地よく、雁夜は自然と笑みを浮かべた。 だが次の瞬間。その心地よさを冷ます、予想外の言葉が鶴野の口から放たれる。 「雁夜」 「ん? どうしたんだ兄貴、早く席に――」 「・・・・・・・・・俺は」 「え?」 「俺は、この家を出ていく」 鶴野は食堂の入口に佇んで、一歩も食卓へと踏み込んでこない。 その兄の口から語られた内容は雁夜の頭を凍らせる冷たさを含んでいた。