第4話 『ものまね士は魔石を再び生み出す』 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 間桐鶴野 鶴野は何が起こっているのか判らなかった。 ずっと臓硯の指示で動いでいたお飾りの当主ではあったが、鶴野は雁夜が家出していた年月を間桐邸で過ごし、生家としてずっとずっと間桐邸で生き続けてきた。 鶴野にとっては安心なんて言葉とは無縁の間桐邸だが、それでも間桐邸は最後に残った拠り所でもある。鶴野にとっての生家である。 そこに突然入り込んだものまね士と言う異質な存在。 ただいるだけだったとしても、『自分の家に見も知らぬ他人がいる』という状況が恐ろしくて恐ろしくてたまらない。 どれほど外道な行いが日常と化していようと、間桐邸は鶴野の日常を作り出し、臓硯の機嫌を取り続ける限りは外敵とは無縁だった場所。だが、今現在、そこには臓硯すら軽く捻り潰す強大な敵が、我が物顔で居座っている。 これが表の世界に生きる普通の人間だったならば、警察に電話したりして自分の家にいる異邦人を撃退しようと考えるかもしれない。だが鶴野は何かの行動を起こして、ゴゴと名乗った化け物の怒りを買うのを恐れ、何も出来ない。 「・・・・・・・・・・・・」 自室のベッドの上で目を覚ました時、鶴野は自分がいつの間にか眠っていた事を知った。 そしてスクリーンセーバーが動いたまま、稼働状態で放置されたノートパソコンを見て、昨晩起こった出来事が夢ではないと思い出してしまったのだ。 もしかしたら緊張のあまり気絶してしまったのかもしれないが、ゴゴの姿が既に無く、必要な情報とやらを得て鶴野の部屋から出て行ったのは判った。 けれど、怪物の姿が目の前に無いからと言って、それは全く鶴野の安心には繋がらない。むしろ、間桐邸の中にいると、どうしようもなく判ってしまうからこそ、安全地帯の消失に恐怖しか覚えられなかった。 何故、こんな事になったのか? 何故、こうなってしまったのか? 考えても答えは出なかった。そして鶴野が今、置かれている状況もまた、考えても答えの出ない摩訶不思議な状態だった。 「・・・・・・・・・雁夜」 「・・・・・・・・・・・・何だ、兄さん」 「いや――、何でもない・・・・・・」 何故、自分は間桐邸の食堂で、雁夜どころか桜とすら同席しているのだろう。 鶴野には何が起こったのかさっぱり判らなかった。 目覚めてからベッドの上で恐怖に震え、夜の闇に怯えながら布団をかぶって丸まっていた時と同じ状態を作り出して、自分の殻に閉じこもっていた。 そうしていたら、鶴野の日常を脅かす怪物ことものまね士ゴゴが部屋の中に乱入してきてこう言ったのだ。 「鶴野、食堂に来い。朝食にするぞ」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・はぁっ!?」 鶴野にとっては青天の霹靂。しかしものまね士ゴゴにとっては、相手がどう思おうと覆す気のない命令のようで、一言だけ告げてからさっさと部屋からいなくなってしまった。鶴野の返答も、突然の言葉を理解する猶予も待ってなかった。 現れて、声をかけて、すぐ消える。 ゴゴが居なくなった事で鶴野はいっそのこと全てが夢だったと思いたくなったが、疑問にこそ思っても言葉それ自体はしっかりと聞いてしまった。 そして自分がどうしようもない弱者だと理解している鶴野は、逆らおうと言う選択肢も、聞かなかった事にしようと言う選択肢も持てなかった。 だからどれだけ不可思議で奇妙奇天烈で脈絡のない命令であろうと、それを聞いてしまったからには従うしかない。 そして鶴野はおっかなびっくり部屋を出て、常に周囲に気を配りながら、殆ど使わない間桐邸の食堂へと到達出来た。 つい先日まで、何の気負いもなく歩けていた生家が、今や紛争地帯の地雷原を進むような危険地帯に変わり果てたのだ。 そして鶴野は食卓の椅子に座って、食事が来るのを待っている様にしか見えない先客を見て。何故、こんな事になってしまったのだろう? どうして、こうなってしまったのだろう? と、もう一度、今の状況の理不尽さに疑問を覚えた。 そこに居たのは弟の雁夜だった。 そして遠坂から間桐へと養子に出された、桜もいた。 二人は入り口が見える位置、つまりは鶴野にとっては丁度相対する場所に腰かけており、直方体の食卓に並んで座っている。 当然、食堂に姿を見せた鶴野とは視線が合ってしまい、同じ間桐邸に居ながらほとんど言葉を交わさない三人が同じ場所に集まったのを自覚させられた。 目が合った後に生まれた空気は気まずいなんて言葉では済まされない。叶うならば、即座に転進して自分の部屋に戻りたい衝動にかられた。 桜を蟲蔵に放り込むのが鶴野に与えられた命令であり、それは『間桐の教育』という名の『子供への虐待』だった。 臓硯は嬉々として教育という言葉を使っていたが、鶴野は決してそんな事は言えなかった。ただ桜への虐待を行う片棒を担いでいると自覚しながらも、臓硯が恐ろしくて命令に従って来た。 だから鶴野は桜の目が『何で、蟲蔵に連れて行くの?』と責めている様にしか見えなかった。言葉にはされず、時折ジッと見つめられるだけだが、鶴野はそう思えてしまうのだ。 そして雁夜もまたそんな鶴野の行いを知っているだろうから、鶴野を見てくる目が『この外道が!』と蔑んでいるように思えてならない。 更に言うならば、弟とは言っても、雁夜とは十年以上口をきいていないので、ほぼ赤の他人のようなものだ。 同席などしたくなかった。しかしものまね士ゴゴが鶴野に命令したのならば、それを聞くしかない。 結果、出来上がったのは食卓を囲んだ鶴野と雁夜と桜―――。そして食卓の下で遠坂桜の足元にいる、うさぎに見えなくもない奇妙な生き物が同席する理解不能な状況だった。 「・・・・・・・・・・・・」 鶴野は恐怖故に、今の状況を何とか知ろうと、一番声をかけやすい雁夜に話しかけてみたが。返事は素っ気なく、会話にまで発展するような雰囲気ではなかった。 何とか『兄さん』と呼ばれている事で向こうが鶴野の事を兄弟と思ってくれているようだが、皮肉と言う可能性も捨てきれない。そして本心なのか皮肉なのか知れるほど、鶴野は今の雁夜を知らないので、判断はつかなかった。 雁夜は苛立ったような様子を見せているので、もしかしたら雁夜も鶴野同様に今の状況が作られている理由が判っていないのかもしれない。 気まずい空気を放ちながら一つの食卓を囲み、会話なんてものが全くない重苦しい雰囲気だけが立ち込めていく。そこには『明るい食卓』なんてものは無く、ただただ険悪になりそうな土壌があるだけだ。 そのまま三人の人間と一匹のよく判らない生き物が同席する空間は沈黙によって時間のみを流れさせた。 一秒経つごとに鶴野は心労を更に積み重ねていくのがよく判るのだが、離脱したくてもものまね士ゴゴという得体の知れない存在がそれを許さない。 相手は突然やって来て、唐突に命令し、鶴野を縛り付けた。 間桐邸に住んでいる鶴野にとっては不法侵入者以外の何者でもないのだから、強気に出て相手を追い出す選択肢だってあった。いっそ、あれは何だと目の前の二人に聞ければよかった。または、当人に直接問えればそれでよかった。 だが恐れで体を硬直させ、ただ言われるがままに行動を決めるしかない間桐鶴野には行動を起こせない。 その結果、沈黙だけが食堂にあった。 誰一人喋らない状態でどれだけの時間が経過しただろう。鶴野の位置からは時計が見えないから、カチッカチッカチッという秒針の音しか聞こえない。だから、流れた時間がどれほどかは判らなかった。 一秒か、十秒か、一分か、十分か。それとも一時間か。 少なくとも眠って起きてリフレッシュされた筈の鶴野の心労が再び失神寸前まで追いやられるぐらいの時間は経過したのは間違いない。 そこでようやく鶴野を食堂に来るよう命じた当人が姿を見せる。 ものまね士ゴゴ。サーカスの道化師のような奇抜な恰好でありながら、その色彩豊かな衣装の下にあるのは間桐臓硯すら軽く捻り潰す、裏の世界の常識すら覆す怪物だ。 両手にお盆を持ち、その上に朝食と思わしき物を乗せた怪物が一歩一歩近づいてくる。鶴野は相手が何をするのか判らなかったので、ただ視線をそちらに向けるだけだ。 するとゴゴは手に持ったお盆を食卓の上に載せて、そこにあった物を三人の前に配り始めた。 オレンジジュースと焼きたてパン、そしてスクランブルエッグとベーコンウインナー。 食材や食器類は元々間桐邸の中に合った物を使ったようだが、まるでホテルの朝食バイキングで用意される『これが朝食』という形をそのまま引っ張り出してきたかのような食事だ。 鶴野と雁夜はほぼ同じ、桜の分は子供だからと分量を少なくしていた。フォークにスプーン、それから箸もしっかりと置かれ、誰がどう見ても朝食にしか見えない光景が作り出される。 「・・・・・・・・・・・・・・・で?」 「何がだ雁夜?」 「俺たちをいきなりこんな所にまで連れ出して、一体これは何なんだ?」 「見ての通り朝食だ。健康は朝食によって作られるのだから、取らないとまずいだろう」 誰もが言葉を発さない状況で真っ先に言葉を出したのは雁夜だった。そしてゴゴの口からは淀みなく返事があり、二人の間には躊躇らしきモノを感じない。 話しすら恐ろしくて自分からは何も言えない鶴野とは雲泥の差だ。 何故、雁夜はそんな風に話せるのだろう? 鶴野は二人のやり取りを眺めながら、そう思った。 臓硯がこの場にいないのを全く不思議に思ってないのならば、ゴゴが臓硯を滅ぼした事情も間違いなく知っている筈。それなのに、何故こんなにも敵意すら言葉に乗せて話しかけられるのだろう? そんな鶴野の疑問をよそに二人の会話は続く。 「何が、どうして、どうなって、こんな事を仕出かしたかを聞いてるんだ。大体・・・びゃく、いや、兄貴までここに集めたのはどんな理由だ、おい!」 「飯はみんなで食べた方が楽しい。この家の中にいる全員を集めたつもりなんだが、足りなかったか?」 「気まずくて飯が余計に拙くなるのが目に見えてるだろうが! 集める前にそっちを気にしろ!!」 雁夜は堂々と鶴野に向けて『お前と一緒に飯が食べられるか!!』と言っているのだが、鶴野の方もその言葉には大いに賛成だった。 雁夜が間桐の家を出る前はもう少し友好的だったかもしれないが、十年と言う月日、全く重ならなかった別々の時間を歩み続けた二人の間に友好なんて言葉はない。 これが歩み寄ろうとする家族の話ならば、互いに友好を温めようなんて思うかもしれないが。鶴野は間桐以外に行ける場所が無いからいるだけで、雁夜の方も必要に迫られているからここにいるだけで、互いに歩み寄ろうなんて全く考えていない。 二人とも今更兄弟仲を復活させようなんて毛ほども思ってないので、同じ間桐邸の中にいると認めながらも、食事の席を同じくするなんて事態は起こらなかった筈。 ものまね士ゴゴという異質で異常でどうしようもない怪物が現れなければ―――。 鶴野にとっては雁夜だけではなく、桜と席を同じくする状況も心臓に悪い。だから雁夜がゴゴに向かって好き勝手に言える状況を見て、鶴野は思わず『よし、もっと言ってやれ』と心の中だけで応援した。 「まあ、それは今後の改善点としよう。とにかく、飯が冷める前に食え。中国の米は冷えるとまずいらしいぞ」 「・・・この野郎、判りやすく話題を変えやがって。この飯のどこに米があるんだ、どこに」 黙り込む雁夜を見ると、雁夜もまたゴゴの自分勝手な行動に振り回されているのだと実感できる。 そして言葉では強気に出ている雁夜だが、やはりゴゴと言う存在に勝てないと心のどこかで認めているようだ。ただし過程が異なる時点で、雁夜は鶴野には出来ない事をやってのける人間だと再認識させられる。 雁夜はそうやって、鶴野には出来ない事をやってのける。 十年前に間桐を出帆したのも、そう。 よその家の娘の為に間桐に戻ってきたのも、そう。 死を恐れずに刻印虫を植え付けたのも、そう。 そして、現在、鶴野には怪物にしか見えないものまね士ゴゴに真正面から話しかけているのも、そう、だ。 その自分と違う様子に―――兄から見た弟だからこそ、羨望を感じずにはいられない。何故、雁夜はそこまで出来るのか。と思わずにはいられない。 「そうそう、桜ちゃん。食べる前に『いただきます』を忘れずにだ」 「・・・・・・・・・・・・・・・いただき、ます」 鶴野が歩んできた人生の中で、おそらく一番不幸に見舞われた朝食が開始された。 用意された食事は三人分。食卓についている人数も三人。 朝食を用意して後片付けの為にと台所に行ってしまったゴゴと、その後を追って桜の足もとから退散した生き物―――後に『ミシディアうさぎ』という名前の、使い魔のようなモノだと知った生き物―――は、いなくなり。食卓には気まずい雰囲気を作り出す三人が取り残された。 「・・・・・・・・・」 カチャ、カチャとお皿とフォークが作り出す音が鶴野に耳に届いたり、用意された食事がのどを通り抜ける音が大きく聞こえたりして、言葉は食卓に全くなかった。 食事が始まる前は鶴野から雁夜に話しかける意欲が少しだけあったが、『食事をする』という逃げ道が用意されているので、鶴野はもう話そうという意思を持たず、ただ用意された朝食を腹の中に流し込む。 間桐臓硯と同席してもおそらく、今ほど気まずくは無いだろう。 とりあえずゴゴが視界から消えてくれたおかげで身体的な苦痛を味わう様な状況は無くなったが、その代わりに見えない位置にいる不安と雁夜と桜を前にした気まずさに心臓が根を上げていた。 今ならショックのあまり心臓が止まってもおかしくない。 用意された食事の分量そのものは皿三つぐらいで、急いで食べれば五分と経たずに腹の中に納まってしまう。 朝食を食べると言うノルマを課せられた今の鶴野にとって、分量の少なさはありがたかった。何故ならば、食事が終わればここを離れて気まずさから逃げられるのだから。 緊張のあまり食事を味わって食べる余裕は無く、機械のように食事を口に運んで咀嚼して呑み込んで、を繰り返す。ちらりと顔を上げて雁夜と桜の食事風景を見ると、彼らもまた鶴野と同じように朝食を終わらせる為に無言で箸を進めていた。 カチャカチャと皿に当るフォークの音は少し箸を操るのが不慣れな桜がウィンナーを突き刺す時に出す音だ。 言葉を離さない代わりに、気まずさを忘れる様に食べ続け。終わらせる事だけを考えて、鶴野は箸を進めていく。 そしてようやく朝食を全て口に含みえ、オレンジジュースで胃の中に流し込むことに成功した。 終わった。標高数千メートルの高い山の頂を目指した登山家が、頂上から下の世界を見下ろすような達成感を思いつつ、鶴野は箸を置く。 逃げよう、すぐ逃げよう。そう考えて席を立とうとした鶴野だったが、前から放たれた言葉で立ち上がる機会を逸してしまう。 「兄さん、ちょっといいか」 「・・・・・・・・・・・・・・・雁夜」 今まさにごちそう様と言いながら重い腰を上げようとしたのだが、雁夜から放たれた言葉で足に力を込めた姿勢で固まってしまった。 単なる物音だったならば気にせず立ち上がれた。ゴゴが再び台所から現れて話しかけてきた退席しようなんて考えは消し飛ぶ。しかし弟である雁夜からの言葉では、どう対処すればいいか迷いが生じてしまう。 結局、長い長い間を作りながら、食卓の席に座り直して応じる事にしたが、何故このタイミングで話しかけてくるのかが判らなかった。 気まずい空気を感じているのは雁夜も同様だから、朝食を終わらせて距離を取りたいのは向こうも同じの筈。なのに話しかけてくるのはどういう了見だろう? 鶴野は自分と同じように食事を終えて箸を食卓に置いている雁夜を見ながら。ほんの少し、あくまでほんの少しだけ気を緩ませて応対する。 十年と言う長い間、言葉を交わす事もなかったが、相手が弟である雁夜だからこその緩和だろう。もしくは『ゴゴよりはマシ』だ。 「話がある」 「・・・ああ」 正直に言えば、鶴野は今この瞬間もこの場から離れたくてしかない。席に座り直して話をするのも嫌で嫌で仕方がない。『ああ』なんて言わずに退散したいのだ。 いつゴゴが戻ってきて命の危機に晒されるかと思うと、不安で不安でしょうがない。 ただ、雁夜とゴゴとの間に何らかの協力関係のようなモノが出来上がっているのは、先程見たやり取りで何となく判った。 怖いのは嫌だからここから離れたい。そう思いながらも、間桐邸で共に育った兄弟ならば、ゴゴよりも話が出来るので、今の状況を少しでも掴みたいと思えるようになれるのだ。 雁夜にならば今起こっている事を訊けるかもしれない。そんな淡い期待がある。 気まずい雰囲気は変わっておらず、横目で見える桜の目が自分を責めている様にしか見えない。雁夜と話すのだって、出来ればやりたくないのだが、今は仕方ないと諦めた。 現状把握の精神が恐怖をほんの少しだけ上回った瞬間である。 「臓硯が殺されたのは聞いたか?」 「聞いた・・・・・・。信じ難いんだが、あのゴゴとかいう怪物が現れてから一度も姿を見ていないんだ。雁夜、本当に臓硯は・・・・・・居なくなったのか?」 「本当だ・・・。俺も最初から最後まで全部見てた訳じゃないんだが、あのゴゴがオーラキャノンとかいう、レーザーみたいな何かで臓硯の体を全て焼き尽くしたのを見た。それから地下の蟲蔵の中にいた蟲も全部アイツが殺して、塵一つ残さず消しちまった」 「・・・・・・」 雁夜の言葉は間桐の魔術に関わる者ならば到底信じられるモノではない。 臓硯の魔術は―――間桐の蟲は個人がどれだけ強大な力を持っていようとも対処できるような軽い力ではなく。数百、数千の蟲は醜悪な存在だが、数という点においてはとんでもない強みになる。 それを全て消したと雁夜は言った。 鶴野は雁夜の言っている事を自分の中で理解しようとするが、ありえなさ過ぎるからこそ次の言葉が出せなかった。 「俺だって自分が言ってることがとんでもない事だって判ってる。正直、その場に居合わせてなかったら現実に起こった事なのか判らないままだ。だから兄さ・・・・・・兄貴が信じられないのも何となく判る。でも臓硯は死んだ、間桐の蟲もこの世から消えた。それは本当だ・・・本当に起こった事なんだ」 「臓硯が・・・いなく、なった・・・」 口に出してみるが、やはり鶴野の中には『そんな事はありえない』という気持ちが溢れている。 だが同時に雁夜が嘘を言っていないというのも何となく理解できた。 お飾りの当主として、そして間桐の魔術に関わる者としては到底信じられないが、ものまね士ゴゴと言う存在が雁夜の言葉を後押ししているのだ。 あれは魔術に関わり裏の世界にある程度精通している者の目から見ても規格外の化け物だ。それこそ、物理的に対処が出来るとするならば『英雄』と呼ばれる者か、怪物退治を専門にする者達、『聖堂騎士団』とか『埋葬機関』とかでなければ不可能だ。 臓硯がいない。代わりにものまね士ゴゴがいる。その事実を見せつけられると、考えるよりも前に頭の中に納得が刷り込まれてゆく。 だから否定しようとしても、雁夜の言葉が本当だと受け止めてしまう。そうやって理解するしかなかった。 間桐臓硯はもうこの世のどこにもいないのだ。と。 「あの、臓硯が。本当に・・・」 「正直、俺はこんな事になるなんて全く思ってなかった。神の気まぐれなのか、運命の悪戯なのか判らないが、とにかくそうなっちまった。だからこれから話す事は『臓硯がいない』って事を前提に置いて聞いてほしい」 「ああ・・・・・・」 昨日ゴゴが部屋の中に入り込み、ノートパソコンを操作した時から何となく臓硯が居なくなった事を予測していたので、受けた動揺はそれほど大きくなかった ただ、改めて言葉にされると、それはそれで動悸が早まって、呼吸が少し苦しくなる。 何より鶴野の心を占めていたのは、『これからどうしよう』という疑問だ。 鶴野は間桐においてお飾りの党首であり、臓硯という実質的な当主のすることを全て体現する為の人形でしかなかった。弱者の知恵として生き延びる為に自らその道を選び、教育と自分を誤魔化して桜を蟲蔵に放り込んでいたのも、必要だったからやっていたのだ。 全ては臓硯の思惑通りに―――。 鶴野は自分がどうしようもない下種で、人間の屑で、臓硯に逆らおうともしない弱者だと理解している。だが、それでも臓硯が指示を出してそれに従う生き方が楽だと判っていた。 自分で考えなくていいのだ。従っていればある程度の自由と、生命が約束されていたのだ。それは、なんて楽な生き方だろう。 もちろん日々の恐怖はあり、出来るならばこんな生活から逃げ出したいと思ってもいた。それでも楽は楽だった。それは紛れもない事実だ。 その臓硯が、鶴野にとっては自分の意思決定を行う頭脳が消えてしまい。どうすればいいか途方に暮れてしまう。それこそが雁夜の言葉を聴いた後に、鶴野の頭の中を占めた戸惑いだった。 「今から一年後に冬木の地で聖杯戦争が行われる事になるのは兄貴も知ってると思う。俺は臓硯に取引を持ちかけて、奴に聖杯を持ち帰る算段だった。でも、その臓硯が居なくなったから聖杯戦争に間桐から人を参加させる意義は無くなったと言ってもいい。兄貴だって好き好んで殺し合いに参加する気なんて無いだろ?」 「それは・・・まあ・・・」 「俺は魔術師としての『間桐家』を継続させることはもう不可能だと思ってる。間桐の魔術は臓硯自身と言っても過言じゃなかったから、奴が居なくなった時点で間桐の魔術はもうおしまいだ。兄貴が魔術師をどう思ってるか俺は知らないが、俺はもう間桐を魔術師として継承させる意義も、必要性も、目的も、何もかもが無くなったと断言できる」 「・・・・・・」 「臓硯が居なくなった。俺は間桐の魔術を俺たちの代で終わらせるべきだと思う。その上で、兄貴の考えを聞かせてくれ。兄貴は、これから『間桐の魔術』をどうすべきだと思う?」 「間桐の・・・魔術、を・・・」 表の世界に生きる一般人並みの力しか持ち合わせておらず。魔術の事情を知るからこそ、鶴野は余計に魔術を恐れる傾向が強い。 聖杯戦争の勝利者が獲得できる『万能の願望機』なんてモノが本当にあったとしても、自分から殺し合いに参加してまで得たいとは思わない。死ぬのが怖いからこそ、鶴野は臓硯の人形としてこれまで生きてきたのだ。聖杯戦争に参加する気が無いのは大いに賛成できる。 ただし、『これからどうする』については、即答できる問題ではないので、鶴野としては言葉を濁すしかなかった。 臓硯が居なくなった話を聞いた時点でもかなりの衝撃を受けたのに、そこから同じ位重大な事柄を決めろと言われてもすぐに答えが出る訳がない。 間桐の魔術が終わる。 聖杯戦争への非参加。 雁夜の考え。 突然鶴野に与えられた自由。 誰かに意思を預けていた人形が操り手を無くした事実。 考えるべき事はあまりにも重要であり、鶴野の中でぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。 「聖杯戦争にあるサーヴァントに対する絶対命令権『令呪』、これは臓硯が考案して聖杯戦争に組み込んだシステムらしいが、令呪そのものは既に聖杯戦争の役割の一つとして組み込まれてるから、臓硯がいなくなってもシステムとして稼働し続ける。これでもう聖杯戦争を一から作り直す事は出来なくなったんだが・・・。もし間桐の魔術を継承させるなら、始まりの御三家として聖杯戦争をいつでも復活させるような技量が求められるだろうな」 「・・・・・・・・・」 「当たり前だけど、十年間、間桐の魔術から離れてた俺にはそんな事は出来ないし。俺はそもそも間桐の魔術に限らず、魔術師って奴の考え方に懐疑的だ。俺は――、『間桐雁夜』はもう間桐の魔術師じゃない、魔術師を継ぐつもりもない」 「・・・・・・・・・」 「それからもう一つ言っておく。もし、兄貴が間桐の魔術を継続させる気なら好きにすればいい。元々この家を出て間桐の魔術から逃げた俺が言えた義理じゃないのは判ってる。それでも、もし『間桐の魔術』に桜ちゃんを巻き込む気なら・・・・・・俺は兄貴を許さない、敵対してどんな手を使っても兄貴を殺すからそのつもりでいてくれ・・・」 次々に雁夜の口から与えられる情報は鶴野を更なる混乱へと追い込んでいった。 はたから見れば、黙って雁夜の言葉に耳を傾けている様に見えるかもしれないが、今の鶴野は状況を考えるだけで手一杯だ。 何もかもがこれまでの鶴野では考えられないような事ばかりで、何か答えを一つ出そうとするだけで多大な労力を必要とする。兄が弟から『殺す』と言われても驚かないぐらい、今の鶴野は多くの情報に囚われていた。 だから鶴野は短い言葉しか言えなかった。 「雁夜・・」 「ああ――」 「少し・・・・・・・・・考える時間をくれ」 「・・・・・・・・・判った」 雁夜の返答を聞いた後、鶴野は何が合ったかをよく覚えていない。おぼろげながら『ごちそう様』と言った気がするし、黄色やら赤やら青やら片方だけ生えた角やらを見た気もする。 力なく間桐邸の中を歩いた気もするし、部屋の戸を開けて閉めた気もする。 ただ言える事は、気が付いた時には鶴野は自分の部屋に戻ってベットに倒れ込んでおり、『これからどうするか?』を脳裏に宿しながら、思考に没頭し続けている自分に気が付いた事だ。 今までの鶴野には無かったこれから。人によっては何でもない問題かもしれないが、今の鶴野にとってそれはあまりにも壮大な問題であり。決断を下す事、それ自体に恐ろしさを感じてしまう。 それでも鶴野は考える。 いきなり考える事を強制させられた鶴野は気付いていなかったが、考える事でこの時の鶴野はゴゴに対する恐怖をほんの一時忘れていた。唐突に持ち込まれた疑問に考えなければならないと言う意思もあっただろうが、逃避こそが鶴野の背中を押して思考へと追いやったのだろう。 それが幸福なのか不幸なのかは判らない。 ただ、考える事で―――考えなければならない状況に追いやられる事で、鶴野は他の一切合財を忘れられた。それは事実だ。 一時とは言え、恐怖から解放された鶴野は幸せかもしれない。 この世にはどんなに考えても取り返しのつかない事が幾つも存在する。まだ考えて選べる余地のある鶴野は、やはり幸せなのだろう。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 間桐雁夜 気まずい雰囲気をそのままに、ゴゴの無用な気遣いによって鶴野と話す機会に恵まれてしまった雁夜は、今後の為に兄に向けて言いたい事を言った。 同じ家の中にいたが、今朝の食卓が十年ぶりの再会の場となった。ただし、臓硯と再会した時がそうであったように、一部とはいえ間桐の魔術を体現する鶴野に良い感情は持てない。 これが桜が間桐に引き取られる前の話だったなら、近況報告したり兄弟仲を温めたり出来たかもしれないが、遠坂桜が間桐家に養子に出された今。間桐の魔術を桜に押し付ける役目の一端を担っている兄を昔のようには見れない。 そして言葉で『兄貴を殺す』と言った雁夜は、本当に鶴野を殺せる自信があった。魔術師が相手ではなく、同じ土俵にいる人間ならば、言った通りどんな事をしてでも殺す決意がある。 ただ、殺したいほど憎い臓硯の手助けをしていた鶴野に対し、怒りの矛先の幾らかを向けていたのは間違いない。それなのに冷静に話が出来た自分に驚きを感じていた。 何故、あんな風に話せたのだろう? 臓硯に刻印虫の取引を持ちかけ、桜の教育が今も継続されている状態だったなら、鶴野と出会った瞬間に怒りにまかせて首を絞めていたかもしれない。 なのに朝食を一緒にとって、怒りなど入る余地もなく話をした事実だけが残った。 あまりにも想定と違いすぎる現実。今なお間桐の魔術を嫌悪している雁夜は、自分らしからぬ兄への気遣いを不思議に思う。 臓硯がいなくなったからだろうか? ゴゴに怯える鶴野が、桜ちゃんと目を合わせようとしないからだろうか? 十年と言う月日を経たが、それでも兄に対する家族愛があったのだろうか? 桜ちゃんを救うために色々考えなければならなくなり、攻撃的な思考が少しだけ鳴りを潜めたからだろうか? ありえそうな理由を幾つか考えるが、どれもしっくりこない。仕方ないので、雁夜はそれ以上考えるのを止めた。 鶴野に対して怒りを覚えると思っていたが、思ったより冷静に話せたならばそれでいい。当人は既に部屋に引っ込んでしまったので、それ以上考えても時間の無駄だ。雁夜にはゴゴに教えを乞うと言う、とんでもない苦難が待ち構えているので、即座に答えの出ない疑問をいつまでも気にしている余裕など無い。 雁夜はゴゴに今後の事を聞くために、朝食を終えると食器を台所へと下げる。そして、洗い物をしているゴゴの所に向かった。 「お前は食事をしなくていいのか?」 「誰かの物真似をして食べられるが、基本的に数十日食べなくても飲まなくても問題ないぞ。人はエネルギーを口から摂取する必要があるが、俺は大気から生きる力を吸収してると思ってくれ」 「・・・・・・まるで仙人だな」 「凄いだろう」 「で、朝食に俺たちを引っ張り出したものまね士はこれからどうするんだ? 俺を鍛えてくれるって約束しただろ」 「桜ちゃんの食事が終わって、後片付けをするまではゆっくりしてるといい。いきなり血反吐をはくような鍛錬にはしないから、今は気持ちを落ち着けるのが大事だ。何なら桜ちゃんと一緒に遊んでてくれ、ミシディアうさぎが退屈そうだから、そっちも頼む」 「判った・・・・・・」 ゴゴにそう言って台所を後にした雁夜だが、正直桜とどうやって接すればいいのか、まだ判らなかった。 感情を殺してかつての遠坂桜の面影を消してしまった今の桜に雁夜が出来る事は何だろう? そう考えると、ゴゴが主体としている『桜ちゃんを救う』という目標の難しさを考えずにはいられない。 臓硯から解放されても、そこで事態は終わらない。桜が間桐に養子に出された責任を取る為に、雁夜はそれを考えなければならなかった。 食器の洗う音を背中で聞き、頭の中では桜の事を考える。 ゴゴが一体どこで食器の洗い方や洗剤の使い方を知ったのか非常に気になったが、きっと『――の物真似だ』と返されるに違いないと答えを出す。 この世界とは違うが神と呼ばれる存在を生み出した超常の生き物。そいつが間桐邸の台所でゴム手袋をはめて食器を洗っている姿は中々シュールだ。その可笑しさと桜への接し方を同時に考えつつ、雁夜は食卓へと戻って桜の隣に座り直した。 「・・・・・・・・・」 「・・・・・・・・・」 まだ子供の桜の手は小さく、雁夜のように上手く箸が使えない。だからフォークを使ってゆっくり食べる桜の周囲には緩やかな時間が流れている。 だが、朝食を食べるその姿には感情の揺れは無く、好きな物を食べる喜びも、嫌いな物を食べられない苦しみもない。食事はただの栄養補給だと言わんばかりに、ゆっくりだが淡々と口に運ぶだけだった。 食事の邪魔をするほど大した話しもないので、雁夜は桜に話しかけず、黙って桜の事を眺めた。感情をほとんど映さぬ、魚の様な目を見た。 その目は雁夜が間桐を逃げ出したから生まれた罰の証だ。本来であれば、遠坂桜に降りかからなかったあってはならない出来事だ。 雁夜は桜を救う為なら―――、かつて見た引っ込み時間な少女の姿を取り戻す為なら―――、何でもすると、新たに心に決意の炎を宿す。 ただしその決意が今に反映されるかどうかは別の話なので、話題をすぐに出せない雁夜はいつの間にかゴゴの所から足元に移動してきたミシディアうさぎに救いを求めた。 雁夜は食卓の下に手を伸ばしてミシディアうさぎの脇に突っ込むと、そのままミシディアうさぎを引き上げて膝の上へと導く。 「むぐぅ~?」 これが普通のウサギならば雁夜が持ち上げる前に逃げられただろうが。突然、持ち上げられたミシディアうさぎは全く動じる気配を見せず、むしろふてぶてしい態度で雁夜を見ており、その目が『何すんじゃコラッ!』と言っているように思えた。 どうやら呼び出したゴゴと同じように周囲に対する恐怖なんぞ欠片も感じてないようだ。ついでに食事の必要もないようだ。 見た目こそちょっと変わったウサギに見えなくもないが。やはり超常の存在であるゴゴに呼び出された動物だけあって、普通ではない。 雁夜は目覚めた時に脇腹を小突いていた帽子に手を伸ばし、帽子の隙間から飛び出ている白い耳を避けて、ミシディアうさぎを撫でた。 「むぐ」 「スロットから出てきた兎・・・・・・か」 帽子の固い感触と指先に触れる動物の毛の柔らかい感触が雁夜の手に返ってくる。撫でた感触はやはり動物の毛にしか思えず、白煙を撒き散らしながら現れた状況を見ていなければ、ただの動物と思えてしまう。 いや、変な鳴き声なので、やはり普通の尺度で測るのは難しいかもしれない。 雁夜はこれが桜とどうやって接すればいいか判らない逃避だと自覚しながらも、他にやれる事が思いつかなかったのでミシディアうさぎを撫で続けた。その度に『むぐ』『むぐ~』と鳴くので、少し楽しかった。 「雁夜おじさん・・・」 「ん? ああ、桜ちゃんも食事が終わったんだ」 「ごちそう様、でした・・・」 「それじゃあ。こいつをどうぞ、と」 二十回ほど撫でた所で横から声がかかり、慌てて目を向けると用意された食事を全てたいらげてフォークを置いた桜の姿が目に入る。 雁夜は成人男性が動物と戯れている気恥ずかしさを隠す為、椅子に座る桜の膝の上にミシディアうさぎを移動させた。 「ぁ・・・・・・」 「右の耳の付け根辺りが気持ちいいみたいだから、触ってあげるといいんじゃないかな。おじさんは桜ちゃんの食器を片づけるから少し待っててね」 雁夜はそう言うと、椅子から立ち上がって桜の頭に手を乗せて軽く撫でた。 ミシディアうさぎを撫で続けた余韻が手に残っていたからだろうか? 雁夜自身、そんな事をするつもりは無かったのだが、桜の後ろを通る時に自然と手が伸びたのだ。 何気ない行動ではあったが、これは桜へと接する一つの手がかりになる。雁夜は桜が全て平らげた皿を揃えながら、桜の黒い髪に触れた自分の手を見つめた。 気負わず、ただの間桐雁夜として自然に接するのがいいだろう。何の変哲もない日常の繰り返しこそが遠坂桜を元に戻す効果を発揮するだろう。そして様子を見て状況の改善が認められない場合、医療従事者や専門治療施設の事も検討しよう。雁夜はそう思った。 全ては『桜ちゃんを救う』ため―――。 雁夜はゴゴに聞かせた言葉を、もう一度自分の中で繰り返す。 間桐の蟲蔵。ゴゴが初めてこの世界に降臨した時にここで居合わせた雁夜だが、今現在『間桐の蟲蔵』はその名で呼ぶには少々不向きな場所になったと考える。 建築物としての構造は何も変わっておらず、地下に造られたそこは薄暗く、空気の流れは悪く、壁にある無数の穴は何も変わらずそこにある。けれど『蟲蔵』という名前の通り、この場所を住処としていた間桐の蟲の姿はもう一匹もいない。 蟲の住まう蔵、故に『蟲蔵』。その蟲がいなくなったのならば、一風変わった地下に違いは無いが、ここは既に蟲蔵と呼ぶべきではない。 蟲蔵の中から蟲がいなくなったのならば、名前を別のモノに変えても困る者は一人もいない。むしろ、雁夜にとって蟲蔵に良い思い出なんてものは一つもないので、変える方が桜の為だろう。 間桐の魔術を自分の代で終わらせるのならば、その区切りの意味も込めて名前を変えるのはそれほど悪い事でもない。そう思えた。 「呼び方を変えるか・・・」 「何か言ったか、雁夜?」 「いや。何でもない」 間桐の魔術との決別を意味する思考が独り言になって囁かれ、それを聞きつけたゴゴが雁夜に問うた。 けれど、雁夜にとって蟲蔵の名前を変えるのは今じゃなくてもよい雑事だ。即座に意識を切って捨てると、これから待ち構えている鍛錬へと意識を切り替える。 かつては間桐の蟲の巣窟だった蟲蔵の床。桜と雁夜が蟲によって苦しめされたそこに居るのは雁夜と真正面に立つゴゴだ。 「さて、これから雁夜の鍛錬を始める訳だが――」 「その前にいいか」 「む、何だ?」 これまで会話の主導権を握られっぱなしになっていた雁夜がここに来てゴゴの言葉を阻む。少しだけ遮られた事への苛立ちが声音に含まれたが、雁夜としてはどうしても見過ごせない状況が蟲蔵の中に出来上がっているのだ。 その真意を聞くまでは、鍛錬など出来る筈がない。故に雁夜はそれを言葉にした。 「何で桜ちゃんがここにいるんだ」 雁夜はゴゴに向かってそう言うと、雁夜から見れば右側、ゴゴから見れば左側にいる場所を指さした。 そこにいる桜は壁に背を預けて、体育座りをして二人の様子を見ている。そして、彼女の腕の中には腕と足で拘束されたミシディアうさぎの姿があった。 雁夜の認識ではゴゴの鍛錬を受けるのは雁夜一人であり、そこには桜が介在する余地は全くなかった。可能ならば、桜がもう間桐の魔術に関わらないよう、蟲蔵に近づける気すらなかった。 思い出さなくてもいい位、悪い思い出しかない蟲蔵から離れて欲しかった。けれど、ゴゴによって雁夜だけではなく桜も蟲蔵の中に連れてこられ、ゴゴと雁夜と桜とミシディアうさぎの三人と一匹は蟲蔵の中に集まってしまった、 何故こうなったのか? 何故、桜ちゃんまでがここに来なければならなかったのか? その理由を聞くために、雁夜はゴゴの言葉を遮ったのだ。 「お前が俺を鍛えてくれるのは大歓迎だ、どれだけ感謝の言葉を積み重ねてもきっと足りない。だが、桜ちゃんをここに連れて来たのは何のためだ? ろくでもない理由だったら、俺はお前を許さない――」 言葉では強く言えるが、正直ゴゴが何かしようとしたら物理的手段で雁夜がそれを止めるなど出来る訳がない。 それでも雁夜は自分の意思を貫き通すと決めたので、『桜ちゃんを救う』ためならば、どんな敵だろうと立ち向かう気概を持てた。きっと自分一人だったら無理に違いない。 するとゴゴは雁夜の堂々とした態度を面白く思ったのか、声音に楽しさを滲ませながら返してくる。 「なぁに。雁夜を鍛えようとしてる方法はそのまま桜ちゃんの成長に直結するからな、別々にやったら二度手間になるから一緒に教えようとしてるだけだ」 「桜ちゃんを・・・・・・成長させる?」 「『桜ちゃんを救う』為に雁夜が自分を鍛えようとしてるわけだが、桜ちゃん本人の自立する力も必要不可欠だろう? 今から雁夜に教えようとしてるのはそのまま桜ちゃんの為にもなるからな」 「お前は一体、何をするつもりなんだ?」 雁夜にとって魔術師の鍛錬と言うのは、今なお記憶にこびり付いて離れない間桐の蟲を使っての教育と言う名の虐待だ。そして雁夜は間桐の家系に生まれながらも、魔術を嫌悪しており、他の家の魔術と言えば話だけ聞いている遠坂と、数代前に廃れた葵の禅城家位しか知らない。 だからこそ『魔術の鍛錬』と言うものを一際毛嫌いしており、自分が鍛えられる為ならばどんな苦痛も苦労も困難も受け入れる覚悟はあるが、桜がそれに関わるのは合ってはならない。 「俺と桜ちゃんに一緒に教えられるものって・・・。お前がやろうとしてるのは、一体、何なんだ?」 雁夜は隠さない怒りを言葉に乗せながらゴゴに向かって言い放る。 するとゴゴは雁夜の言葉を真正面から受け。 「じゃあ説明を――のその前に、と」 「おいっ!!!」 あっさり雁夜の言葉を横に流した。 これまでの話で嫌と言うほどに理解させられているが、ものまね士ゴゴは話の通じる相手だが、『我を通す』という事にかけては他の追随を許さない。自分勝手という言葉すら優しく思えるほどの傍若無人な存在なのだ。 けれど、全てを自分の思い通りに進めようとしている訳でもなく、雁夜の言い分を聞き入れてくれたりする場合もある。 話をする上で雁夜との相性が悪いのはもう確定してしまった事実であろう。 今度は何を仕出かすのか? そう疑問を覚えた次の瞬間、ドン、ドンッ! と小さいながらも耳の奥に残る爆竹の破裂に似た音が聞こえ、それに合わせて目に見えないが何かが広がっていくような感覚が雁夜の体を通り抜けた。 目に見える変化は何もない。しかし一瞬前とは確実に異なる何かが蟲蔵の中を包んでおり、僅かだが空気が重たくなったような感じもした。 何かが変わったのだ。それをやったのは目の前にいるものまね士だ。雁夜は諦めと疑問をごちゃ混ぜにしながら、ゴゴに向かって問い掛ける。 「何をした・・・」 「バトルフィールドを広げた。こっちの世界で言い換えるなら『結界』って言った方が判りやすいか」 「バトルフィールド?」 「この中にいれば、敵と味方が大別され、基本的に建造物や自然には一切攻撃できなくなる。まあ、戦いの為に用意された、敵と味方以外が破壊不可能な結界だと思えばいい。今は地下の蟲蔵を包んでバトルフィールドを展開してるから、床を殴っても壁を蹴っても絶対に壊れないぞ」 「・・・・・・・・・」 雁夜はゴゴの言葉を聞きながら、もう何度目になるか判らない驚きに言葉を無くした。 これまで嫌悪していた間桐の魔術に関わり、裏の世界において『どんな理不尽な事でも起こりうる』と、ある程度の覚悟をもって生きてきた。 主に表の世界でいう所の『外道』やら『非道』を易々とやってのけるのが魔術師たちだ。自分達の欲求を満たす為ならば、他人がどれだけ被害を受けようと奴らは気にしない。そうやって、どんな出来事が起こっても受け止められる覚悟があった。 だからこそ雁夜は桜が間桐に養子に出され、臓硯の虐待の犠牲者と知った時。怒りこそすれ、そうなるかもしれないと覚悟を決めていたから、それを内に押し込めて臓硯と取引を結ぶことが出来た。 だがゴゴがやる事は一味、いや百味ぐらい違いすぎる飛び抜けた事ばかりなのだ。一つ覚悟しても、別の事でまた驚かされてしまう。 「敵を倒すか、逃げるか、あるいは自分が死ぬか。このバトルフィールドに取り込まれたら、そのどれかしかない終わらせる道はない。とは言っても、一度設定された空間から走って逃げればそれだけで出られるし、結界は解除されるからそれほど大したモノじゃない。気が付いてないかもしれないから念の為言っておくが、臓硯を滅ぼした時もこれは展開されてたんだぞ? だからあそこに立ってた臓硯は消えても、壁とか足場とかには傷一つ付いてなかったんだからな」 「十分大したものだ・・・・・・、何だその無茶苦茶な結界は――」 雁夜は驚きで言葉が出にくくなっていたが、蟲蔵にあるキャットウォークの部分を指さすゴゴを見ながら、何とかそう言えた。 そして今更ながら、ゴゴの口から語られたかつて旅した世界の恐ろしさを―――。ものまね士ゴゴが神を生み出した超常の存在だとは聞いているが、そんな神が普通に存在する世界を怖いと思った。 バトルフィールドなんてものが普通に行われる世界。それは何と殺伐とした世界なんだろうか。 雁夜は一瞬。ゴゴが生きてきた世界の恐ろしさを思い、一年後に始まるであろう聖杯戦争の怖さを忘れる。 まだ全てを見せていないゴゴの力の大きさ故に、雁夜の認識の中で理解が出来る聖杯戦争という戦いが、ほんの一瞬だけだが、恐ろしくなくなったのだ。 「本当に・・・、本当にお前って奴は・・・・・・。いかん、何もしてないのに頭が痛くなりそうだ」 新しいモノが出てくれば出てくるほどに雁夜が受ける衝撃は強くなり、知れば知るほどに改めてゴゴという人間ではなく『存在』の大きさを思い知っていく。 「結界を張ったんだな? そうなんだな? 必要だからやったんだな?」 「ああ、下準備はこれで終わった。ようやく説明が出来る」 「だったら早くしてくれ、これ以上新しい何か出て来たら頭痛で気絶しちまいそうだ。俺と桜ちゃんに何をさせるつもりなんだ、お前は」 強気に出る事で雁夜は何とか自分を保つことに成功するが、心の中に宿った動揺は消えずに残ったままだ。 そうやって強気な振りをして自分を誤魔化さなければ今この瞬間にでも膝を折って、床に屈してしまいそうになる。 神の生みの親。その途方もない存在を前にして、相対するのが精一杯だ。これまで幾つも幾つも言葉を交わしてきたが、今だにゴゴに慣れるなんて事態は訪れてくれない。 「お前が『桜ちゃんを救う』ために、させようとしてる事って何なんだ?」 「説明を判りやすくするために実物を見せるぞ。鍛錬にはこれを使う」 「なに?」 ゴゴは短く言うと、右手を前に掲げて掌を上にした。 ゴゴの手は両手とも力こぶの部分まで覆い隠した手袋で隠されており、地肌は目以外の部分が見えない状態だ。五本ある指がしっかり見えるのだが、手袋で隠されている為、その下に人間の指があるのかどうか疑問を覚えてしまう。 そんなどうでもいい事を考えて意識を分散しなければ、気負うあまり失神してしまいそうだった。 何をするのか? どんな驚きが飛び出すのか? 魔術の常識からも外れた、何を見せられるのか? 雁夜は出来るだけ驚かぬように自分を律しながら、起こる出来事の全てを見極めようとゴゴの右手をジッと見つめる。 すると、程なくゴゴの右掌に変化が現れ、手袋の中から何から浮かび上がってきた。 「な――」 隠していたのを出したのではない。別の場所にあったのを持って来たのでもない。言葉通り、右掌から『出現した』のだ。 一定の高さまで持ち上がって制止したそれは、掌部分から数センチほどの高さを滞空しており。ゴゴの右掌の上で浮かんでいた。 濃い緑色の物体で、形は円筒形に近い。氷かクリスタルを思わせるその高さは15センチほど、幅は10センチもない。が、明らかにゴゴの手よりも大きく。一体どこから取り出したのか疑問を覚えずにはいられなかった。 バーでロックスタイルで酒を頼むと、丸くて大きい氷を使ってくる場合があり。ゴゴの掌の上に浮かぶ何かは、そんな氷に少しだけ似ている。 ただし、ただの氷が浮かぶ訳がないし。そもそも、その緑色の物体の中央には、オレンジ色の六芒星が存在を象徴しており。ただの氷でも、クリスタルでも、ガラス細工でもない様子を作り出していた。 雁夜は疑問を覚え、それをそのまま言葉にする。 「・・・・・・・・・・・・それは、何だ?」 雁夜が見たのは本当に起こった事で、間違いなくゴゴの右手から緑色の何かが現れた。 今回もまた表の常識から外れた何かを見せられ、雁夜の心は更に傷ついていく。そんな雁夜の心労をよそに置いて、ゴゴは自分が出した何かの説明を始める。 「三闘神が星に生きる生物に力を与えて『幻獣』に作り変えた話はしたな。この『魔石』は幻獣が死ぬ時に力のみをこの世に残した結晶で、大きな魔力を秘めている。持っていれば、この魔石に宿る幻獣を具現化させる召喚魔法が使えて、しかも鍛錬によってその幻獣が得意としている魔法を覚えることも出来る優れものだ」 「・・・・・・・・・」 「魔石によっては体力や魔力を底上げしてくれたりするのもあるからな。鍛錬して成長すれば、それに合わせて色々なパラメータを増やしてくれる。で、今回、雁夜の為に用意した魔石の名前は『ビスマルク』。炎と冷気と雷の初期魔法を覚えるには一番効率のいい魔石だ」 ゴゴの言葉を聞きながら、雁夜はそれを何とか理解しようと、自分の中にある知識を呼び覚ましてゆく。 始まりの御三家である遠坂には『宝石魔術』と呼ばれるモノがあり、実際にお目にかかった事は無いが、宝石の中で魔力を流転させ、本来保存できないはずの魔力をストックして解放することで戦闘に転用できると聞いた事がある。 ちなみに情報元は臓硯だ。 そう言った『魔術に由来する道具』というのはこの世に色々あり、雁夜の考える最上位は聖杯戦争に呼ばれる英雄が使う宝具であろう。 宝具は英霊が持つ生前に築き上げた伝説の象徴だ。魔術に関わる物でそれを上回る物を所有している者は極々限られる。おそらく両手で数えられる程だ。 そして、単なる道具の観点で見れば、ゴゴが取り出した魔石は宝具に勝るとも劣らない、とんでもない代物だ。 特に雁夜を驚かせたのは『魔石を持てば幻獣を具現化させられる』の部分である。ゴゴの言う召喚魔法がこの世界でいう所の召喚魔術に該当するのだろうが、それを簡単に可能にしてしまう魔石は汎用性があり過ぎる。 おそらく『魔術回路を持ち魔力を持つ者』とか扱うには何らかの制限はあるだろうが、間違いなく一級品の道具だ。 自分を落ち着ける為、驚きを極限まで減らす為。雁夜は自分の知識の中にあって、合致する言葉を引き出してくる。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせた。 「ビスマルク・・・? 第二次世界大戦中のドイツ海軍にあった戦艦か?」 ゴゴがこの状況でそんな事を言う筈がないと判っているが、雁夜は鍛錬の為に出された道具の高すぎる有用性に驚いて、ついそんな事を言ってしまう。 ものまね士ゴゴの非常識さはある程度把握したつもりだったが、こんな道具を出されるとは夢にも思わなかった。ゴゴが言った『魔法を覚えることも出来る』が本当ならば、臓硯を殺した時に見せた魔術や雪山を呼び寄せた魔術も使えるようになるかもしれない。 規格外すぎて、今度もまた卒倒してしまいそうだった。ただし今回は、動揺以外にも喜びが多く交じっていた。 「戦艦? 何だそれは? とにかく、この魔石を使って雁夜を鍛える。基本的に持ってればそれだけで鍛錬の補助になるし害はない。だから別の魔石を桜ちゃんにも渡そうって話しだ。何をしようとしてるかはこれで判ったか?」 「ああ・・・。正直、信じがたい話だが、とりあえずお前が俺と桜ちゃんに何をさせようとしているかは判った」 「それじゃあ話は早い。ほれっ」 ゴゴはそう言うと、右手の上に浮かんで居た緑色の物体―――オレンジ色の六芒星を中心に輝かせた『魔石』を鷲掴み、雁夜の方に放り投げてきた。 「ちょ、こらっ!」 まだ言葉でしか聞いてないが、ゴゴの言った事が本当ならば魔石はこの世界に置いてとてつもない価値を持つ。同じ位の大きさの宝石を雁夜は見た事が無いが、同等の価値が合っても不思議はない。 端的に言えば、庶民には一生涯、手の届かない天文学的な価格だ。それを路傍の石のように放り投げるゴゴの神経が雁夜には判らなかった。 ただの人間でしかない雁夜には想像もつかない太い神経なのだろうが、それを気にするよりも前に雁夜の体は魔石を受け止めるべく動いた。 絶対に、何が何でも落としてはならない。 緑色とオレンジ色に輝く魔石の軌跡を追って、雁夜の両手はめまぐるしく動く。 「と、ほっ、よっ! はっ!!」 野球の守備で、ボールを掴み損ねて送球に手間取る事。俗にお手玉と言われる、それと酷似した喜劇の様な―――けれど当人の雁夜にとっては必死の行動が実を結び、何とか魔石は床に落ちずに雁夜の手の中に納まった。 掴もうとした右手の指が持ち切れずに浮き上がる事一回。左手で抑え込もうとして、目算を外して落そうとする事一回。早鐘を打つかのような心臓が止まりそうになったのが一回。 「はぁ、はあ、はぁぁぁぁ――」 「ナイスキャッチ、雁夜」 「俺をからかうつもりなら辞めてくれ。頼む。本当に頼む。心臓に悪すぎて体にも悪い」 「雁夜――。そんな神経質だと、この先やっていけないぞ。もう少し図太くならないとな」 「誰のせいだ、誰の!!」 叫びながら呼吸を落ち着けた雁夜は、両手に握られた魔石の無事を確かめながら、感触を確かめるように指で撫でてみた。 見た目通りの硬質な感触が指に返って来て、状況を説明されていなければガラス細工の一種か何かだと勘違いしてしまいそうだ。しかし、ゴゴの手から出てくるのを雁夜は見ているし、ゴゴが雁夜の常識では推し量れない事をやってのけるのは、身に染みている。 人の体温よりは低いが、ほんのり暖かい魔石。見た目では判らない何かがこれに含まれていると確信を抱きつつ、雁夜はゴゴに言う。 「これは・・・どう使うんだ?」 「さっきも言ったが、基本的には持って鍛錬するだけだ。召喚魔法が使いたかったら、その魔石に魔力を注ぎ込んでそいつの名前を呼べば、出て来てくれる」 「・・・・・・・・・それだけか?」 「それだけだ。簡単だろう?」 「じゃあ・・・・・・」 雁夜は魔石の貴重さに比較した扱いの簡単さに、『そんな筈がないだろう』と『いや、ゴゴならありえる』と矛盾した気持ちを抱く。 今だ、雁夜はゴゴを信用も信頼もしてないが、『桜ちゃんを救う』ものまねだけは信じてもいいと思っている。そう思わなければやってられないのが実情だが、ゴゴの言葉を全面的に信じてやるしか活路は見いだせない。 そうやって自分を強引に納得させながら、雁夜は何が起こるかまだ判っていないにも関わらず、召喚魔法―――こちらの世界でいう所の召喚魔術の発動の容易さに心惹かれ、魔石の効力を詳しく確認する前に行動を起こしてしまった。 雁夜自身気付いていないが、間桐の蟲とは異なる、別の魔術への憧れが合ったのだろう。 「ビスマルク――」 雁夜がそう呟いた瞬間、両手で持っていた魔石が光り輝き、両手を軸にして体の中から何かが吸い出されるような感覚があった。 体の中を駆け巡る血流に似た何か手の中にある魔石の中へと一斉に向かっている。頭頂部から足の指先に至るまで、体の隅々から何かが吸われていく。 間桐の家に生まれながら、魔術回路が極端に少ない雁夜はこれまでに魔術を行使したことが殆ど無い。だから、この感触こそが魔力の使用だと、魔力が魔術回路を通っているのだと即座に思い当れなかった。 普段の生活では絶対に味わわないような、極小の蟲が体の中を這いずり回る様な気持ち悪さが、雁夜の体を駆け抜ける。 そしておぞましさを感じた一瞬後、魔石はより一層強く輝き、中央部にあるオレンジ色の六芒星もまた大きく輝き、緑色でもオレンジ色でもない紅い三つの輝きが六芒星から放たれた。 「うおおおおおおおおおおおおお!?」 気持ち悪さを叫び声で打消し、動揺を叫び声で吹き飛ばす。そうすると飛び出した三つの紅い輝きは消え、その代わりに背後から迫り来る圧迫感が伝わってくる。 何が起こってる? 疑問を頭に宿しつつ、口はそれを言う暇もない。雁夜は魔石を両側から握りしめながら後ろを振り返る。 そこには蟲蔵の壁から現れようとしている白鯨の姿が合った。 「くじらああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」 蟲蔵は元々間桐の蟲の住処であり、高さはそれなりに大きく作られている。しかし壁を水面に見立ててそこから現れようとしている白鯨はその全てを埋め尽くすほど巨大で、頭だけしか見えてないが雁夜など楽に呑み込めそうな大きな口が見える。 シロナガスクジラは体長が25メートルにもなる巨大な生き物で、間桐邸の蟲蔵よりも更に大きな生き物だ。頭が見える白鯨はシロナガスクジラではなく、しかも雁夜の知る鯨とは細部が異なるので、もし冷静に状況を分析できたならば、本物の鯨ではなく魔力によって作られた『幻獣』であると判っただろう。そもそも本当の鯨がいきなり壁から生えて出てくる訳がないのだ。 しかし今の雁夜には余裕なんてモノは存在しない。 ゴゴが蟲蔵の中にいた全ての蟲を滅ぼした時は驚いた。雪山がいきなり現れた時も驚いた。臓硯の戸籍を乗っ取って、間桐臓硯を名乗ると聞いた時も驚いた。 だが今この瞬間、自分の身長を大きく上回る巨大な生き物を前にしては、雁夜は竦む以上に何もできない。ただそこに突っ立って、迫り来る圧倒的な質量を前にして呆然とするしかない。 正しく、茫然自失になって、その場に佇んでしまう。 「あ・・・・・・ぁ・・・」 事前にこうなると聞いていれば少しは落ち着けたかもしれない。だが雁夜はそれを怠り、いきなり魔石の持つ力の発端に触れて、超常現象を目の当たりにしてしまった。 何かしようと思考すら浮かべられなかった。 ただただ、壁の中から出てこようとする鯨に目を奪われ、四肢は力を無くしてそこにいるだけの物体へと変わってしまった。 「あ・・・・・・」 そして胸びれが見えて、雁夜が立っている場所を押しつぶそうとした正にその瞬間。力を無くした雁夜の手が持っていた魔石を取りこぼした。 一瞬で吹き出た汗に滑って魔石が床に落ちる。ずるり、と擬音が聞こえてきそうな見事な落下だったが、雁夜は魔石が床とぶつかって固い音を出すまで、雁夜は魔石を落した事実に気付けなかった。 雁夜は慌てて床を見る。 けれど目の前から迫り来る鯨からも目を離せず、すぐにそっちに視線を戻してしまう。 どうすればいい? どうすればいい? どうすればいい? 雁夜の中には混乱しかなかった。 そうやって、もう一度。どうすればいい? と考えたその瞬間。 蟲蔵の壁から出てこようとしていた白鯨が霧散した。 霧が強い風で取り払われる様に―――。 砂上の楼閣が崩れ落ちる様に―――。 降り注ぐ雪が掌の上で溶けるように―――。 「はぁ!?」 一瞬前まで目の前に合った圧倒的な存在感が、即座に消え去ってしまい。雁夜の眼前には蟲蔵の壁だけが広がっている。蟲の住処とする為に幾つも開けられた穴は確かにそこに存在するが、巨大な鯨が通ってきた痕跡は全くない。 慌てて床に視線をやると、手から滑り落ちた魔石はあり、起こった事が夢ではないと告げている。 床に落ちた魔石には傷一つ無かったので、とりあえずガラス細工の様な見た目とは裏腹に頑丈そうだ。魔石の固さが少しだけ雁夜に安心を与えるが、鯨が現れて消えた理由にはならない。 何が起こったのか? 呆然としながら鯨が現れようとして壁をジッと見つめていると、背後からゴゴの声が聞えてきた。 「魔石を離したら駄目だろうが。あのままビスマルクを攻撃に使えば、俺に一撃喰らわせられただろうに。心臓が弱いと咄嗟の時に判断を誤るぞ」 「・・・・・・」 ゴゴの言葉を背中で聞きながら、雁夜は起こった出来事を何とか整理していく。 どうやらあの巨大な白鯨が魔石から呼び出されて雁夜が召喚した『ビスマルク』のようだ、実際に見た今この瞬間でさえ信じがたい現実ではあるが、とりあえずそういう事だと強引に納得させて思考を続ける。 雁夜は間桐の魔術師であり、他の人間に比べれば魔術を行う為に必要な魔術回路が少ない。それでも全く無い訳ではないので、おそらくその僅かな魔術回路を経由して魔力が吸い取られ、魔石から幻獣ビスマルクを召喚したのだろう。 そして雁夜とビスマルクを繋いでいるのは魔石であり、雁夜が供給している魔力だとする。召喚主である雁夜が魔石を手放して、魔力供給を断ってしまったので、ビスマルクは現界できずに魔石へと戻っていった。 ゴゴに聞けばすぐにでも答えが返ってきそうな考察だが、雁夜はあえて自分を落ち着ける為に、自分の中で考察を作り上げていく。 魔石。 幻獣。 巨大な白鯨。 幻獣と言うものがどういうモノかは話に聞いたが、知ると実際に見るとでは全く違った。 「幻獣を呼ぶのが鍛錬じゃなくて、幻獣が得意としている魔法を覚える方が鍛錬の主目的なんだがな――。こんな調子じゃ先行きは不安だな。本当に鍛えてもらうつもりはあるのか?」 「む・・・・・・、無茶を言うな。あんなのを・・・、いきなり、見せられて・・・・・・。驚かない奴がいるか。大馬鹿野郎ぉぉぉぉぉ!!!」 結果、世の中の不条理さと目の前に突き付けられた圧倒的な力に対抗するように、叫ぶしかなかった。 人間ぐらい一口で呑み込めそうな巨大な鯨を間近で見た衝撃、強引に吸い取られた魔力の疲労がそれに重なって、雁夜は魔石を床から持ち上げた所で腰を抜かしてしまった。 「初めて魔石を使ったご感想は?」 「・・・・・・改めて思い返せばとんでもない力だ。お前の言葉からの予想だけど、あの状態から更に敵に攻撃を加える為の、もう一段階があるんだろう? ただ出てきて終わりじゃないんだろ?」 「お、正解だ。少しだけ勘が鋭くなったな」 「ただの予想だ。それから、あれを呼び出すのに体の中の魔力が殆ど持ってかれて、もう一回同じことをやろうとしてもたぶん無理だ。呼び出せるだけでも大した事だとは思うが、今の俺じゃあ複数回使えない」 「ふむ・・・。となると、これからは召喚魔法よりも魔法―――雁夜の言葉で言えば、魔術か。その魔術を使えるように鍛えながら、魔力の量を増やす方向で鍛錬していくか」 床に座り込んでも話は出来る。そこで雁夜は膝を曲げて視線を合わせてくるゴゴと話をしていた。 気持ちを落ち着かせる為にも誰かと話すのは悪い事ではない。雁夜の現状を作り出した原因の九割ぐらいはゴゴにあるのだが、それを今更言っても仕方ない事だ。 悪態は付いても、雁夜はゴゴに修行をお願いする立場なので自分を制する。 「魔力を増やす? 出来るのかそんな事が」 「魔石の力なら可能だ。パラメータを上げる時だけ『フェンリル』の魔石を持ってれば効率が上がりそうだな、魔術の威力を上げるなら『ゾーナ・シーカー』にするのも良さそうだ」 「念の為聞いておくが・・・・・・。お前が持ってる魔石はいったい幾つあるんだ?」 「すぐに取り出せる魔石はビスマルク含めて31個だ。まだ試してないが、この世界で新しく幻獣を作り出せたなら、もっと数は増えるだろうな。いっそのこと人間を止めて幻獣になるか? 三闘神に出来たなら俺でも出来る筈だ、手っ取り早く力が手に入るぞ」 「・・・・・・冗談と思っておくよ」 「最後の手段だ、頭の隅にでも置いておけ」 魔石一つでもとんでもない力が使えるのに、あれと同じモノが後30個もあると聞かされ、雁夜は今以上に心身がの疲れてゆくのを自覚した。 そして、ゴゴが何気なく呟いた『フェンリル』。雁夜の記憶の中にあるフェンリルという名前は、北欧神話に登場する狼の姿をした巨大な怪物の事だ。 伝説に生きる怪物が出てくるとは思えないが。先程、固い壁の中から出てこようとする白鯨を見てしまったので、巨大な狼が出てくる可能性が否定できない。そして雁夜はあの巨大な白鯨が出て来た状況で立ちすくむ事しか出来なかったので、同じサイズの狼が出てきたら、見た瞬間に気絶してしまうかもしれないと思った。 「本当に、とんでもないな、お前の力は――」 「これでも神様の生みの親だ。これ位は出来て当然だ」 「・・・・・・そうか」 何の気負いもなく淡々と言ってのけるゴゴを見て、雁夜は改めてものまね士ゴゴとただの人間でしかない自分との力の差を認める。 いや、正確に言えば、到達しようなどと考えも出来ないほど圧倒的な高みに君臨していると再認識したと言った方が正しい。自分とゴゴとの力量の差すら測れないのだ、認める認めない以前の問題だろう。 雁夜が色々な衝撃で打ちひしがれていると、ゴゴがゆっくりと膝を伸ばして立ち上がる。 そしてこれまで起こった出来事の全てを見ていた壁際の桜に向かって手招きすると、「次は桜ちゃんの番だぞー」と軽く言ってのけた。 「おい・・・、ものまね士。あんなとんでもない力を桜ちゃんに渡すのか」 「魔術師としての素養で言えば雁夜なんかよりも桜ちゃんの方が上なんだろう? 使えるか、使いこなせるかどうかは別にして、呼び出すだけなら多分雁夜よりも楽にやってのけるぞ」 「それは、まあ・・・。そうだが」 「それに桜ちゃんに渡すのは雁夜に渡した攻撃用の幻獣じゃないから安心しろ。治癒を行う幻獣だから桜ちゃんに危険は及ばない」 ゴゴが言っていると、呼ばれた桜は特に反抗する事もなく、腕にミシディアうさぎを抱いたままやって来た。 桜が雁夜の横に立つと、丁度ゴゴと雁夜と桜の三人で三角形が出来ている。雁夜が手を伸ばせばすぐ届く位置で行われるし、既に雁夜が身をもって召喚魔術を体験した後なので、止める理由は無かった。 あえて言えば、雁夜としては桜には魔術から離れていて欲しい気持ちが強いという事。しかし、既に間桐の魔術師として思われてもおかしくない桜の安全を思うと、間桐の魔術に変わる何らかの力を手に入れておいて損は無いと打算が働く。 桜の為を想うなら、魔術から離れるのが正解なのか? それとも魔術の世界で生きていけるように力を得るのが正解なのか? 雁夜には答えが出せず、ただゴゴのやろうとする事を見守るだけだ。 「桜ちゃんにはこれだ」 「これ、は?」 「魔石『ユニコーン』、雁夜と同じように魔石に魔力を注ぎ込めば、額の中央に一本の角が生えた白い馬が出てくるぞ」 「そう・・・」 ゴゴは雁夜に魔石を渡した時と同じように、掌を上にしてまた新しい魔石を出現させた。 緑色の物体で、中央にオレンジ色の六芒星が見える。雁夜の手の中にある魔石『ビスマルク』と、全く同一の物にしか見えないので、二つを混ぜてシャッフルすればどちらが『ビスマルク』か判らなくなるだろう。 桜は魔石に興味が無いのか、ユニコーンという言葉に興味がないのか、あるいは蟲蔵の中にいる状況含めて物事全てに興味が無いのか。ゴゴの言葉を聞いてもほとんど反応が無い。 だが雁夜は違った。 「ゆ・・・、ユニコーンだと!?」 一角獣とも呼ばれるユニコーンがどれだけ今の世の中でありえない生き物か知っているから、その言葉に過敏に反応してしまう。ゴゴの言う『馬』などもっての外だ。 確かにユニコーンと馬の姿は似ているかもしれないが、ユニコーンは先程雁夜が考えたフェンリル同様に、伝説の中でしか存在しない生き物だ。 探せば動物園で見かけられる馬なんかとは比べ物にならない希少な存在で。少なくとも雁夜は馬なら何度か見た事があるが、生まれてから一度もユニコーンをお目にかかった事が無い。 だから雁夜はゴゴと桜の話に横から割り込み、強引に話に加わる。 「それは幻想種じゃないか!!」 「幻想種? 知らない言葉だがその意味は?」 「幻想種ってのは『伝説上の獣』に分類される生き物で、伝説とか神話で登場する生物の事だ。ユニコーンなんて、そんな幻獣・・・いや、聖獣がこんな石の中に・・・」 「こんな石とはひどい言い草だな。魔石の効力は身をもって知ったばかりだろうが」 「うっ・・・」 「とにかく物は試しだ。桜ちゃんはそこに広い場所にユニコーンを呼び出すように念じながら、名前を呼んであげてくれ。名前を呼べば雁夜の時と同じように魔石が勝手に魔力を吸収して、現れるけど、体から離したり距離を取ったら魔力供給が出来なくなって消えるから注意するように」 「うん・・・」 さっさと雁夜との話を切り上げたゴゴは、取り出したもう一つの魔石を桜へ受け取らせると、二歩ほど下がって、空間を開けた。 大人の雁夜なら片手で鷲掴みに出来るが、まだ子供の桜には魔石は大きく両手で持たなければならない。だから桜は腕に抱いていたミシディアうさぎを一旦床に下ろし、ゴゴから受け取った魔石をミシディアうさぎにしていた様に、両手で胸に押し付けていた。 感情を無くしたように見える遠坂桜。あの雁夜が呼び出した鯨の姿をしっかりと見ていたにも拘らず、怯える様子を見せずに淡々とゴゴが言うとおりに物事を進めていく様子が、逆に雁夜を不安にさせる。 そして雁夜にはもう一つ不安が合った。 雁夜の知識にあるユニコーンは非常に獰猛な生き物で、処女の懐に抱かれて初めて大人しくなると言われている。これが間桐に引き取られる前の遠坂桜ならば何の問題もなかったのだが、既に臓硯によって―――かつてこの蟲蔵の中にいた蟲によって嬲られた桜は間違いなく処女を失っている。 改めてそれを確かめる気はなく、それを話題にするつもりは雁夜には無い。けれど、本当に出てくるのがユニコーンで、それが雁夜の知識の中にある伝説の生き物と符合するならば、桜の身に危険が迫る。それが気がかりなのだ。 だが、今の雁夜に出来る事は限られている。幻獣『ビスマルク』、巨大は白鯨を呼び出した代償に雁夜の体は今も悲鳴を上げており、少し休めば普通に動けるようになるだろうが、まだ満足に動けない状態だ。体の不調を無視すれば動けるだろうが、万全とは言い難い。 ユニコーンが本当に出て来たとしても、出てくるのが単なる馬だとしても、無手の雁夜ではどうしようもなかった。 よって、今の雁夜に出来るのはゴゴへの注意を促す事だけだった。 「本当に危険は無いんだろうな。幻想種を呼び出せるなんて話は聞いた事が無いぞ」 「心配性だな雁夜は、『桜ちゃんを救う』ものまねの為に、桜ちゃんを危険に晒したら意味が無いだろうが。心配するな、魔石から呼び出される幻獣は呼び出した者を主と定めて従うようになっている。いわば桜ちゃんが主人で、呼び出されるユニコーンは忠実な使い魔みたいなもんだと思えばいい。付け加えるとユニコーンの大きさは普通の馬と大して変わらん。ビスマルクほど大きくない」 「・・・・・・本当か?」 「見る限り桜ちゃんの魔力は雁夜なんぞとは比べ物にならないほど強力だ。雁夜はビスマルクを一回呼び出すだけでヘロヘロになってるが、桜ちゃんなら四、五回は呼び出せるんじゃないか? ユニコーンを呼び出すぐらい簡単だから、疲労の心配もない。安心しろって」 「この野郎。人が気にしてることをズケズケと――」 後に雁夜は、ゴゴが即座に出せる魔石の中には、幻想種の中で頂点に位置する『竜種』も含まれ。果てには北欧神話の主神と同じ名前を持つ者すらいると知り、ビスマルクを見た時以上の大絶叫をすることになるのだが―――。 それはまだ訪れていない未来の話である。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 遠坂桜 体の中から何かが奪い取られていく感触が合った。話だけはしっかりと聞いていたので、おそらくこれが魔力なのだろう。 そして目の前に白い体躯と金色のたてがみ、そして額から一本の角を生やした白馬。いや、ユニコーンが姿を現したのを見て、桜は僅かな驚きと魔力が吸い出された疲労感を感じた。 「・・・・・・」 「ほら。やっぱり何の問題もなく呼び寄せただろうが。こいつは呼び出した術者とその仲間の状態異常を直す力が合ってな、今なら桜ちゃんだけじゃなく雁夜も一緒に癒しの力で包まれてる筈だ。もっとも雁夜の疲労までは直せないから、疲れたままだろうがな」 「ユニコーンの角には毒で汚された水を清める力あると聞いた事はあるが・・・。幻想種がこんな簡単に――」 何やら横でゴゴと雁夜が話しているのが聞えたが、桜の耳にはほとんど入らなかった。 魅せられているのだ。 ユニコーンと言う伝説にしか存在しない生き物。確かに見た目は馬に見えるが、馬では決してありえない圧倒的な存在感があり、見ているだけで膝を折ってひれ伏してしまいそうになる神々しさがそこにある。 桜を弄んでいた間桐の蟲が児戯に思えるその驚きを言葉にするのは難しく、桜は動揺のあまりユニコーンを見続けるしか出来なかった。 はた目から見ればぼんやりとユニコーンを見つめている様にしか見えない桜だが。動揺しつつ頭の中を駆け巡る思考の嵐は膨大な量に膨れ上がっている。 「本当に暴れないんだな・・・、このユニコーンは・・・」 「幻獣にはそれぞれの意思があるんだが『魔石』はその限りじゃない。主人に害する事が無いようになってるのが道具たる由縁だ。まあ、魔石を核にしてもう一度命を吹き込めば一個の生命として生まれるから、必要なら命を与えよう」 「そうやって何でもない事みたいに、魔術の領域を飛び抜けそうな話をしないでくれ・・・。俺は何か新しいのが出て来たら、それを一つ受け入れるのだけでも苦労してるんだぞ」 聞こえてくる話に気付かず、頭の中から沢山の記憶が、思い出が、遠坂桜の中に溢れてくる。 蟲が一匹も居なくなった蟲蔵を見て、何かが変わったのだと知った。 ゴゴに見せつけられた力は壮大であり、子供の目から見ても途方もない力だと判った。 突然現れたゴゴという人はよく判らないが、間桐臓硯がいなくなったのをようやく悟った。 渡された魔石に体力とは違う何かが吸い取られたが、その代わりに清らかな空気が周囲を包んでいるのだと理解した。 それこそが魔石『ユニコーン』の力。雁夜が言葉にしていた角が放つ聖なる力、ヒールホーンが桜の心身を癒しているのだが、溢れ出でた沢山のモノに思考を奪われている桜はそれに気づかない。 心の奥底深くに沈めて沈めて、鍵をかけて決して表に出てこないように殺した筈の感情がいつの間にか蘇っていた。 そんな奇跡に気付かぬまま、桜はユニコーンへ向けていた視線を動かし、今の状況を作り出したゴゴを見る。 目の部分か晒さず、奇妙な恰好で全身を覆い隠したものまね士ゴゴ、この世界とは別の世界からやって来た神を生んだすごい人。 けれど桜がゴゴを見て胸に抱いた気持ちは尊敬ではなかった。ゴゴの姿を視界に捕えた瞬間、ある言葉が桜の中から浮かんだのだ。 何で、間桐の家に養子に出された時、来てくれなかったの? と。 何で、もっと早くあの蟲を殺してくれなかったの? と。 何で? 何で? 何で? と。言葉が桜の頭の中を塗り替えていく。 気が付けば、くすくすくすくすくすくす、と。自分の口から、笑い声が漏れて止まらなかった。 桜はその感情をうまく説明できない。心の中に宿った気持ちを説明できる言葉を知らない。 だから端的に思いの丈を打ち明ける為、胸に宿った言葉だけを言い放った。 「何で――」 手に持っていた魔石『ユニコーン』は床に置かれ、手放した瞬間に一角獣の姿は霧のように姿を消した。 それを横目で見ながら、「何で」ともう一度囁き。桜はまだ満足に動けない雁夜おじさんの所へと歩いていく。 元々、近くに寄っていたのだから、そこまで行くのは簡単だった。 桜は歩く。そして雁夜おじさんの手の中にある魔石『ビスマルク』に手を伸ばして奪い取る。 雁夜おじさんもゴゴも自分がそんな事をするとは思ってなかったようで、ただ目を丸くしたまま自分を見ていた。 桜は先程耳にした『攻撃用の幻獣』という言葉を思い出しながら、もう一度頭の中にあふれた言葉を告げる。 「ねえ。何でもっと早く、助けに来てくれなかったの?」 その言葉は激しい怒りによって湧き出た、桜の心だった。今まで抑えつけられていた心が、ユニコーンによって解放されてしまい、現れてしまった桜の想いだった。 「おいで、ビスマルク――」 雁夜が止めるよりも早く、ゴゴが次の行動を起こすよりも早く。桜は新たな幻獣を呼び出す為に、魔石へと魔力を流し込む。 起こった出来事はゴゴと雁夜が桜の感情を理解するよりも早く進行していく。桜の言葉と共に、雁夜を上回る膨大な魔力が魔石へと注ぎ込まれ、雁夜の召喚速度を大幅に上回る召喚が行われて、桜の背後に巨大な鯨が現れてしまう。 命を吸いだされるような苦しみが体を蝕んだが、桜は歯を食いしばって耐えた。その苦しさは頭の中に生まれた想いに焼かれ、何の意味も持たずに消えていく。 あなたが、もっと早く来てくれたら。 あなたと、もっと早く出会ってたら。 あなたは、もっと早く動けた筈。 妨げられ。虐げられ。抑え込み。封印しなければならなかった鬱屈した想い。ユニコーンによって解放された桜の想いは逃げ道を求める。 「許せない――。許せない、許せない、許せない、許せない、許せない、許せない、許せない、許せない、許せない、許せない、許せない、許せない」 桜はくすくすと笑みを浮かべながら、怨嗟の言葉を呟き続ける。 幻獣ビスマルクが呼び出され、雁夜が途中で止めてしまった水属性攻撃が桜の背後から生まれてゆく。 それは人を容易く呑み込む巨大な泡。桜の魔力でより強化されたバブルブロウ―――雁夜が呼び出した白鯨ではなく、桜の魔力に侵食されたのか、体躯を白から黒に染めた鯨が生み出す漆黒の泡だった。 蟲蔵の壁から浮き出るビスマルク。黒い鯨は自らの存在を誇示するかの如く真っ黒に染まった体を見せびらかせている。 桜の想いを宿し、破壊の権化となったビスマルクの力の向かう先。ビスマルクと桜の視線は―――ゴゴただ一人へと向けられていた。 封じていた感情が蘇った時、ゴゴは桜の敵となった。