第2話 『ものまね士は蟲蔵を掃除する』 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 間桐雁夜 聖杯戦争を破壊しよう―――。それはものまね士ゴゴの口から出た突拍子もない言葉だ。 その言葉を聞いた瞬間、雁夜は恥も外聞もなく思いっきり叫んでしまった。 聖杯戦争とはこの冬木の地に根付いたルールそのものと言っても過言ではなく、魔術師にとって決して途絶えさせてはならない大切な儀式だ。 雁夜は魔術師ではないが、それでも聖杯戦争がもたらす恩恵の大きさと、その甘い蜜に群がってくる魔術師どもの欲の深さはよく知っている。 雁夜が嫌悪する間桐臓硯という人外の魔術師もまたその一人だったのだから、他の魔術師が同じように聖杯を求め、魔術の秘匿さえ行えるのならばどんな悪行だろうと躊躇いなくやってのけると確信を抱いている。 そして聖杯に招かれると言われる英霊―――英華秀霊の気が集まっている人物の意味であり、生前に様々な偉業や悪行を成し遂げた人物―――聖杯戦争で召還されるのはあくまでそのコピーで本体は英霊の座とか呼ばれるどこかに保存されているらしいが、それでも人知を超えた力を持つ存在が聖杯を求めて召還されるのだ。 魔術師も、その召還に応じる英霊もまた等しく聖杯を求めている。だからこそ聖杯戦争は『戦争』の名で呼ばれており、血で血を争う殺し合いに発展してきたのだ。少なくとも雁夜は死者が出なかった聖杯戦争は一度もないと聞いている。 誰もが聖杯を求めて殺し、殺される。 そんな騒動の種を、破壊する、と。雁夜の目の前にいるものまね士と名乗った何者かは言ってのけた。 「・・・・・・正気か?」 その返答は咄嗟に出てきた言葉だったが、雁夜はその言い方がどこか臓硯に似ているのを思い出して眉間にしわを寄せた。 嫌っていてもどこか繋がっているのが間桐の魔術師の性なのだろうか? あるいは心を全く込めずに呼んだ『お父さん』に一欠けらでも愛情を抱いていたのだろうか? 本当のところを探り、わざわざ思い起こすと、それだけで気分が悪くなりそうだったので、雁夜はそれ以上を考えないようにする。 代わりにゴゴからの返答に耳を傾けた。 「それが『桜ちゃん』を救うためなら、聖杯なんぞゴミ以下だ。始まりの御三家とかいうお役目もこの代で全て終わらせよう」 「・・・・・・・・・・・・」 淡々と言ってのけるゴゴの言葉を聞きながら、雁夜は『こいつは本気だ』と思いつつ、同時に『こいつは聖杯戦争の重大さを判ってないんじゃないか?』とも思った。 雁夜はある意味で矛盾しない二つの思いを抱きつつ、そもそも目の前に立つ人物が何者であるかという根本的な疑問を抱く。 雁夜の部屋でこうしてゴゴと対面し、少し離れた場所にある椅子に桜を座らせた状態で話し出した。そして部屋の中にある時計の進みはまだ三十分も経っていないことを示している。その間に話した事は数多いが、雁夜がゴゴに対して桜の境遇と聖杯戦争に関する説明を行ったので、肝心のゴゴに対する話を聞けていない状況だ。 何者か? という問いに対し、ものまね士ゴゴだ、と返答があったが。それは回答ではあっても雁夜の求める答えではない。間違っていないかもしれないが全てでもない。 そもそも雁夜にとって魔術師という人種は信じるに値しない存在だ。 『ものまね士ゴゴ』と名乗ろうと、目の前にいる人物が何らかの魔術を行使して臓硯を滅ばしたのを雁夜は見ていた。臓硯という魔術師がより強い魔術によって滅ぼされた、言葉にすればそれだけだが、強い力を有しているからこそ雁夜はゴゴを信じられない。 表に生きる者と、世界の暗部を生きる裏の住人とでは価値観が大きく違う。魔術とは死を容認し、観念することに他ならない―――。それが雁夜の心をどうしようもなく傷つける事実だからこそ、雁夜は十年前に間桐家を逃げ出したのだ。 たとえゴゴの言葉が全て本当で、臓硯を滅ぼして雁夜の体の中に巣食う蟲を排除してくれた恩人なのだとしても、僅かでも危険があるのならば警戒するには十分な理由となる。 大体、始めてあったばかりの他人を。しかもいきなり家の中に侵入してきた正体不明の怪しい人物の言葉をいきなり信じろという方が無理だ。魔術という表には出てこない裏の事情にある程度は通じている雁夜でも、こればかりは容認しがたい状況である。 「・・・少しいいか?」 「何だ?」 「俺はこれまでお前の言う『ものまね士』がどんな意味を持って話されたのかが判らない。お前は確かにこの間桐邸に侵入してきた理由も、ここに立って俺と話す理由も話してくれた。けど、俺はお前が何者なのか判らない、正直に言えば格好もそうなんだが、怪しすぎて訳が判らないんだ」 故に雁夜は告げる。 「お前の話をしてくれ。俺が桜ちゃんの事情を話したんだから、今度はお前の番だ」 「いいぞ」 短く、そしてあまりにもあっさりと言ってきたゴゴはものまね士の生誕と歩んできた歴史を語りだした。 雁夜が一時間ほどかけて聞いた大まかな話は、おとぎ話か何かとしか思えない荒唐無稽な話の連続だった。 何もない空間での自覚認識。 生命を生み出した名前のない誰か。 地球とは別の星への降臨。 神と呼ばれた三人の子供。 模倣の末に生まれたものまね士。 子供からの反逆による封印。 冬眠など比べ物にならない長期の休眠。 新しいものまね。 初めての仲間。 一度砕かれた星の姿。 生きる気力を失った世界。 幻獣、魔法、科学と融合した魔導。 世界に封印されたモンスター。 世界の敵を倒し、新しい世界の入り口を開いた仲間達。 異次元を超える魔法。 たまたま出口になった間桐邸の蟲蔵。 単なる偶然が生み出した出会い。 ものまねの結果、滅ぼされた臓硯。 そして雁夜の願いであり、新しく定めた『ものまね』―――遠坂桜の救済。 「・・・・・・・・・頭が痛い」 雁夜は理解を超える話の壮大さに、思わず右手を額に当てた。 もし仮に、本当に仮の仮の仮にだが、ゴゴの話の全てを信じるとするならば。ものまね士ゴゴはこの世界の裏に生きる魔術師達が到達しようとしている幾つかの終着点、『根源の渦に至る』だとか、『不老不死を叶える』だとか、話でしか聞いた事のない『魂の物質化』とか、『無から有を生み出す』だとか、様々な事を、出来るからという理由だけで簡単に実現してしまっている。 嘘だ、冗談だ! 本当の事を言え!! と胸倉を掴んで叫びたい衝動にかられたが、実際に蟲蔵の中で人知を越えた力を行使したのを目の当たりにしているし、目の前に立つ人物の得体の知れなさは相対すれば嫌でも判る。 見た目はサーカスの道化を匂わせ、上から下までを衣装で覆い隠して正体を見せない。目元だけは露出して、二本の腕と五本の指、それから二本の足があるのは見れば判るのだが。男か女かそもそも人間なのかすらも分からない―――。 もし顔を隠すフードを剥いで半獣半人のミノタウロスが出てきても、納得して驚かないかもしれない。 いや、出てくればそれはそれで驚くだろうが、例え常識外れの何かがそこにいてもおかしくない奇妙な説得力を持っているのだ。ものまね士ゴゴと名乗った人物は。 「その話、本当なのか?」 「嘘は言ってないぞ。まあ、短く説明するために色々と省いたけどな」 淡々と言ってのけるゴゴの言葉を聞きながら、雁夜はゴゴに対する不信感を更に高めていった。 しつこいようだが、もし仮にゴゴの言葉を信じるのならば、別次元から到来したこの存在は、形こそ人に酷似しているが、その実態は人とかけ離れた存在だ。雁夜が持つ科学知識に沿って考えるならば、地球上のどんな生命体よりも強固な体を持っていることになる。 エイリアン、地球外生命体、異星人、または未確認動物なんかよりも珍しく、邂逅は奇跡というよりも不可能の領域である。けれど、雁夜の目の前に立つものまね士ゴゴと名乗った存在は確かにここにいる。 「・・・・・・本当か? 嘘じゃないのか? 俺を担いでないか?」 「嘘じゃないぞ」 珍しいという事すら恐れ多くなる不可能な領域に住まう奇跡の住人。それなのに雁夜と対面している相手は聞き違える事のない流暢な日本語を喋っている。 グローバル化の進んだ今の日本では日本語以外の様々な言語が喋られてもおかしくはない。世間には中国語、韓国語、タイ語、広東語、台湾語、インドネシア語、ベトナム語、ラオス語、カンボジア語、ミャンマー語、ネパール語、ウルドゥー語、ベンガル語、ヒンディー語、マレーシア語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ロシア語、ギリシャ語、オランダ語、ポーランド語、ブルガリア語、アラビア語、ペルシャ語、スワヒリ語など数多くの言語が存在し、地球という一つの括りで纏めても、膨大な数になる。 世の中には雁夜の知らない言語だって数多くあるし、既に失われてしまった言葉もたくさんある。 それなのに異次元の存在である筈のゴゴが雁夜と同じ日本語で話せている事実は冗談としか思えなかった。もしかしたら話している言葉すら『ものまね』して返しているのかもしれない、そんな事を考える。 雁夜は何を信じればいいのか段々と判らなくなっていった。 仕方ないので、判りそうな所から理解すべく、雁夜は間桐に関する問題から片付けようと意を決する。 臓硯がいなくなったのが本当ならばこれほど喜ばしい事はない。だが目の前に立つゴゴでが桜に害する存在ならば、排除するのが間桐雁夜に与えられた使命だ。排除など到底不可能だと理解してしまうが、それでもやらなければならない。 話のスケールが大きすぎていまいち理解し切れていない自覚を抱えながら。雁夜は誤魔化すように告げる。 「・・・・・・お前が臓硯を殺したんなら、死体が転がってる筈だ、確かめに蟲蔵に行くぞ」 「だから臓硯とか言う蟲爺ならオーラキャノンで完全に消滅させてやった。まあ、蟲の死骸なら大量に転がってるだろうが、見てもあまり楽しくないぞ」 「それでもいいんだよ! とにかく行くぞ!!」 雁夜は自分の理解力の少なさを追究されたようで、つい声を荒げてしまう。そしてこれまで背中を預けていた壁を離れて蟲蔵へと移動しようとするが、一歩も動かずに声を出したゴゴの言葉が雁夜の動きを止めた。 「ああ、でもその前に一つ。いや三つほどいいか?」 「・・・・・・何だ?」 出鼻を挫かれて雁夜の機嫌は徐々に悪くなっていく。 どうやらゴゴと名乗った人物の基本は『物真似ありき』であり、それに全て終始しており、他の事は二の次三の次になっているようだ。雁夜の苛立ちに対して、何ら思うところはないらしく、雁夜から強い視線を向けられても全く気にしていないように見える。 それがますます雁夜の機嫌を悪くさせるのだが、臓硯を倒してくれた恩人への感謝と正体不明のものまね士に対する警戒がごちゃ混ぜになって、行動に反映される事はなかった。 一歩踏み出した状態から再び壁に背中を預ける体勢に戻し。雁夜はゴゴの言葉に耳を傾けた。 「俺が考えるに『桜ちゃん』を救うには解決しなければならない問題が幾つかある。聖杯戦争の破壊は第一歩だが、二歩目三歩目が必要だ」 遠坂桜の話題ならば、雁夜が聞くのは当然だ。雁夜は黙って話の先を促した。 「まず一つ、雁夜が毛嫌いしているらしい間桐の魔術。これを『桜ちゃん』に教えない事。憎々しいのが言葉の端々にあるからよっぽど酷いモノなんだろう?」 雁夜はゴゴがいつの間にか自分を呼び捨てで呼んでいるのに気が付いたが、あえてその部分には突っ込まず、語られる内容に応じる。 そもそも力の差は歴然なので言葉での応酬はできても、武力で逆らって勝てる保障は欠片もないのだから、やるだけ無駄だ。やらなければならないと決意はあるが、それでも出来ないものは無理と言うしかない。 あるのは意地と願望と決意。 雁夜は臓硯に相対するような心構えで話を進めた。 「酷いなんてもんじゃない・・・・・・。あれは虐待と呼ぶのが優しく思えるほどのこの世の地獄だ。正直、お前の話を聞いて、あれがもう桜ちゃんの身に降りかからないと聞いた時は嬉しくて嬉しくて堪らなかった・・・。たとえどんな形であろうと、あれは覚悟のない人間が関わるようなものじゃない」 「それはそれは――。その問題は教える当人がいないので一応の解決を見てるから・・・、とりあえず今は大きな問題にはならない」 ゴゴはそう言うと、一旦雁夜から視線を外して後ろにいる桜へと視線を向けた。雁夜からは、頭だけを後ろに向けたゴゴの後頭部が見える。 雁夜とゴゴが話している間。桜はずっと部屋の中にあった椅子の上に腰掛け、話に耳を傾けるわけでも何か別の事をする訳でもなく、ただそこに居続けた。 普通の子供ならば、夜の静けさや昼の疲れも手伝って眠りに落ちてもおかしくない。けれど桜はずっと椅子の上に座ったまま、命令を待つかのように感情のこもらぬ目を雁夜とゴゴに向け続けている。 その人形のような希薄さが雁夜には悲しかった。 雁夜はゴゴと桜の両方を視界に捕らえながら、救わなければならない少女の事を強く見つめ、改めて自分に課せられた使命を意識する。 (俺は――、桜ちゃんを救うんだ・・・) その考えがゴゴの言った言葉に誘発されているのが何となく判ったが、別段困る事でもないのでそのまま思考を反芻する。 五秒ほど経った後、ゴゴはようやく後ろに向けていた頭を元に戻して、雁夜へと視線を向けて続けた。 「二つ。雁夜の言った『遠坂時臣』という男が『桜ちゃん』の父親であり、始まりの御三家の一つの当主だから、まず間違いなく一年後に起こる聖杯戦争のマスターとして参加するらしい。で、その遠坂時臣は間桐との約定によって『桜ちゃん』を間桐へ養子に出した。でも、もし何か別の理由があったら、聖杯戦争自体を壊しても、また同じ事を繰り返される可能性がある。むしろ間桐の約定という理由が存在しない分、余計に酷い状況に追い込まれる可能性だってある。まあ雁夜の言い分が本当なら、これ以上酷くはならないかもしれないけどな」 「あ・・・・・・・・・」 ゴゴの口から語られるありえる未来に雁夜の思考は一時停止した。 こうしてゴゴの口から言葉として語られるまで、雁夜はその可能性を完全に失念していたのだ。だからこそ受けた衝撃はとてつもなく大きい。 雁夜は間桐の名が示すとおり間桐の系譜を受け継ぐ魔術師の家系の一人だが、遠坂との間に結ばれた約定についてはそれほど詳しくはない。そう言った魔術師関連の話は全て臓硯が行っていたし、関われていたのは兄の鶴野であり、魔術を毛嫌いしていた雁夜は最初から知ろうとすらしなかったのだ。 けれど、間桐には間桐の事情があるように、遠坂には遠坂の事情がある。当たり前の事だが、魔術に限らずそれぞれの家庭には事情がある。そして雁夜はその事情を殆ど知らない。 もしかしたら自分は聖杯戦争で聖杯を得て解放された桜の『その後』を無意識に考えないようにしていたのかもしれない。 聖杯こそが遠坂桜を救う。けれど、そこから新しい地獄が生まれるなど、臓硯と交渉した時の自分には許容できなかった。 いや、今でも臓硯の支配が解かれればそれだけで桜が救われると短絡的な事を考えていたのだ。 何故、深く考えなかったのかは雁夜にも判らない。ただ、今この瞬間、雁夜はありえるかもしれない未来を想像し、思考し、決断し、選択するという分岐点を得た。それは事実である。 ゴゴの言葉が雁夜の思考の幅を広げたのだ。無意識に避けていたのかもしれない場所をゴゴの言葉が開拓したのだ。 受けた衝撃に放心し、思考がまだ完全に戻りきらぬ状態の雁夜だったが、ゴゴの言葉はそんな雁夜を無視して続く。 「そして、三つ。たとえ、どんな理由があったとしても、身近の人間が争って父親が死んだとなれば、子供は救われない。それをやったのが顔見知りのお前だったなら尚更だ。だから雁夜、お前が遠坂時臣を殺そうとするなら、俺は『桜ちゃんを救う』ものまねの為に、時臣を守る。状況次第ではお前を殺す」 「・・・・・・・・・」 雁夜はその言葉を聞き、『殺す』と何の感情もなく言ってのけたゴゴの事を怖いと思った。 こいつは相手に感謝しながら、殺す理由があれば、何ら躊躇せずに相手を殺せる存在だ―――とも思った。 遠坂と間桐の約定に関する衝撃の大きさから戻ってきてないから返事を出来なかったが、目の前に立つ存在の恐ろしさが単純に雁夜を絶句させる。 まるでボタン一つ押せば、容易く命を奪う感情のない機械だ。 ゴゴの話が正しければ、間違いなくゴゴには感情がある筈なのだが、そこには人間の尺度を越えた大き過ぎる線引きが存在する。もしかしたら、ゴゴにとっては地を這う蟲も、大地を生きる人間も、大して変わりないのかもしれない。 だからこそ、魔術師にとって悲願とも言える聖杯戦争を壊すなどと軽々しく言えるのではなかろうか。 ゴゴにとって最も大切なのは『ものまね』であり、それ以外は何であっても二の次三の次となる。そう思えてしまう。 力を持たぬ者が持つ者に感じる恐ろしさ。雁夜は体を震わせながら、思考をゴゴから時臣へと移す。これもまた一種の逃避だろう。 確かに時臣は桜を間桐の魔術と言う地獄に叩き落した張本人だ。しかし、彼が間違いなく桜の父親であり、かつて見た遠坂の家族風景の中で桜が父親に向かって楽しそうに笑いかけている姿を何度か目にしている。 親を殺されて子供は救われるのか? 残された子供は救われるのか? 臓硯と雁夜のような特殊な事例ならば話は別だろうし、日常的に児童虐待を繰り返す父親だったならば、はい、と答えるかもしれない。だが、魔術師としてではなく、父親としての時臣は間違いなく良い父親だ。 認めたくはない。認めるのも苦痛だ。 恋焦がれていた葵が選んだ遠坂時臣に対し、魔術師としてではなくただ一人の男として敗北したと認めるに等しいので、雁夜は決して認めたくはない。だが、それでも娘である凛と桜から見た時臣という人間は間違いなくよい父親なのだ。 そうでなければ、これまで雁夜が見てきた凛と桜の笑みが、あんなにも晴れやかである筈が無い。ただし、もしかしたら今現在の桜は、自分を間桐へとやった父親を恨んでいるかもしれない。 そうだとしても、彼女が自分自身の怒りを―――よくも捨ててくれたな、と―――遠坂桜の怒りを遠坂時臣へとぶつける為には時臣が生きていなければならない。死んでしまえば時臣が犯した罪の大きさを教える事も出来ない。 雁夜は今日この瞬間、初めて、遠坂時臣に対して怒りとは別の感情を抱いた。 初めて、時臣を殺す事と桜から親を奪うという事が繋がった。 「殺さなくても、気に食わないんだったら叩き潰せばそれでいい。失われた命はもう戻らないぞ」 なるほど、ゴゴの言う事には一理あり、雁夜は自分の胸に宿る遠坂時臣という人間に対する殺意を考え直さなければならないと自覚する。 だがしかし、それでも雁夜は遠坂時臣という人間を許せない。 たとえ凛と桜の父親として良い父親だったとしても、それでも雁夜にとって遠坂時臣は殺すべき怨敵なのだ。 幼馴染である遠坂葵となったあの女性を自分は好いている。二児の母となった今でも、間桐雁夜はずっと禅城葵に好意を抱き続けている。桜のことだけではなく、男として遠坂時臣が許せない面もある。 この怒りは今日出会ったばかりの他人の言葉で収められるほど軽いモノではなく、雁夜が自らを雁夜という一人の人間として認めるために必要な一部だ。 ただ、時臣を殺そうとするたった一つの決断に、幾つかの選択肢が加わった実感はあった。 ほぼ強制的に考えさせられた事が吉と出るか凶と出るかは判らない。それでもこの瞬間、雁夜には多くの選択が与えられた。 遠坂時臣を殺す。殺さない。生かす。 これまで目を背けていた『考える』という事。雁夜がしばらく沈黙を保っていると、今話しても聞き手の雁夜が聞いてくれないと感じたのか、ゴゴも沈黙を作り出した。 ほんの沈黙のまま少し時間が経過し、雁夜とゴゴの視線が再び合わさる。そこでようやく、ゴゴはこれこそが話の主題だと言わんばかりに、少し語気を強めて告げた。 「そしてこれが最も重要な事だ。三つじゃなくて四つだったな」 「それは?」 「あの『桜ちゃん』が何を持って自分が救われたと感じるか。という事だ。俺と雁夜で話している内容はあくまで大人の都合であり、雁夜の言う魔術師の都合だ。子供の『桜ちゃん』に無関係とは言わないが、『桜ちゃん』に良かれと思ってやった事も逆効果では救いにはならない」 だろう? と短く告げてくるゴゴに対し、雁夜は何も返せなかった。 何を『救い』と感じるか。それは人によって大きく形を変える。 ゴゴに言われたとおり、臓硯からの解放はあくまで雁夜の尺度で考える救済であり、桜にはもっと必要な事があるかもしれない。そして雁夜の救済が桜にとっての押し付けである可能性もまた捨てきれないのだ。 遠坂桜を葵の元に、時臣の元に、凛ちゃんの元に―――家族の元に返せば、それで救われると信じていた。けれどそれすらも間違っていたとしたらどうするのか? 雁夜は自分の中に生まれたその疑問に、再び考えの少なさを思い知らされた。 臓硯というとてつもない大きな壁が前にそびえ立っていたので、色々と考える余裕がなかったのは確かだが。それでも、考えようと思えば、ゴゴの話した内容はいつでも考えられた筈。それこそ、臓硯に聖杯を持ち帰る交渉を持ちかける以前に思いつこうと思えばいくらでも思いつけた筈。 けれど雁夜にはそれが出来なかった。それをしなかった。 雁夜はあくまで遠坂桜に罪悪感を感じて救いたいと思っても、葵や時臣のように桜の親ではない。桜を見る視点の違いが思慮の浅さとなって雁夜を縛り付けていたのだと、今更ながら思い知る。 聖杯は手に入れた者のあらゆる願いを叶えるという願望機かもしれない。だが雁夜は元々臓硯の不老不死を叶えて桜を解放させるための手段として聖杯を求めており、それ以上の事を考えていなかった。 人の思いとはあまりにも多くの要素が絡み合って作り上げられている。救うと言っても、方法が、結果が、目的が、到達地点が、多くの事柄が絡み合って初めてたどり着く。 そんな雁夜の熟慮を読み取ったかのように語られたゴゴの言葉。 それが重く雁夜の耳に届き、衝撃を与え続けた。 「だから『桜ちゃん』が救われた。と、思える下地が必要だ」 「そう・・・だな」 「心を閉ざしていると言うのならば開かせよう。絶望で押し潰されそうなら希望に作り変えよう。笑い方を忘れてしまったならば思い出させてあげよう。大人や魔術師の都合で振り回され、自分の意思と無関係に物事を決められるこの世の中に反抗できるようにしてやろう」 色々と自分に足りない部分を言葉にされ、雁夜は目の前にいるゴゴの恐ろしさとは別種の自責の念により押し潰されそうな雰囲気を味わった。 雁夜の肩にのしかかる重みは自分に浅慮が生み出した罰の重さだ。 考えようと思えば幾らでも考えられた。何か別の方法がある筈と考えれば、別の方法が浮かんだ。言われる前に目の前に広がっている現実をしっかりと見ていれば、本当に必要な事が何であるかは判れた筈。判らずとも、考えようとする意思は持てた筈だ。 雁夜はその重さから逃れようと何か言おうとしたが、自分で自分を縛り付けてしまい、言葉は何一つ語れなかった。 「ではまず救いの先駆けを、と」 だが、ゴゴにとってはそんな打ちひしがれた雁夜すらもどうでもいいらしい。色々と言い終えて満足したのか、短く言葉を告げて体を半回転させると、椅子に座っている桜の元へと移動する。 打ちひしがれているのと、離れていた距離が両者の間を別ち。雁夜は咄嗟にゴゴの行動を止められなかった。何をしようとしているかすら判らないので、数秒ほどゴゴの動きを注視するだけで終えてしまう。 雁夜が何も出来ずに硬直していた数秒間。ゴゴはその数秒を使って、いとも容易く桜の元へとたどり着いた。そして桜が座っている椅子の近く、部屋の一角にある壁に手を触れると、ボンッ! とコンロに火をつけた時の音を、数倍大きくしたような破裂音を鳴り響かせた。 「なっ!」 その音と、ゴゴが触れている箇所から巻き起こる白煙が雁夜の意識を強制的に現実に引き戻し、考えるなら後でも出来る、と今に意識を引き戻す。 雁夜は壁に手を付いているゴゴとその前にある椅子に腰掛けている桜の姿を認めると、即座に前に走り出した。間桐邸の部屋の大きさは日本の一般家庭に比べれば大きく作られているが、雁夜が本気で走れば二秒もかからずに端から端まで到達できる。 何をした? 桜ちゃんに危険が迫ってる!? 今の音は、その煙は何だ? 疑問を胸に抱えながら雁夜は駆ける。そして椅子に座る桜を護ろうと、ゴゴに飛びかかろうとするが、その前に白煙の中から現れた奇妙な物が雁夜の視界に飛び込んできた。 それはギャンブルを目的とするコイン作動式のゲーム機の―――俗にスロットマシンと呼ばれる機械の一部だ。 コイン投入口はない、ハンドルもない、絵柄や図柄が描かれているリールと呼ばれる部分が三つ、ただそれのみが壁に現れていた。 雁夜の覚えている限り、壁にはそんな物はなかった筈。 爆発音と白煙。そこから突如現れたスロットマシンの一角を見て、無関係だと考える者はいない。確実に、雁夜の目の前に立つものまね士が何かをやらかして壁に出現させたのだ。 「ちょっと待て、そのスロットはどこから出した!」 「気にするな」 「気にするに決まってるだろう! おいコラ、俺を無視するな。勝手に話を進めるな。おい!」 ゴゴは桜に向かって歩いたので、同じ方向から走ってきた雁夜には背を向けている。雁夜はその背中に向かって怒声を浴びせるのだが、ゴゴから返ってくるのは雁夜など相手にしていない短い返答だ。 ゴゴの言った事を全て信じるならば、ゴゴの目的はあくまで『ものまね』であり、それに邪魔したりしない限りは雁夜にも桜にも害意を及ぼさない筈。 けれどものまね士と名乗ったこの人物は何を仕出かすか判らない不安を常にまとっている。未知とゴゴが持つ力ゆえに雁夜はゴゴに恐怖を覚え、警戒を解けずにいる。今、こうして桜を守ろうと駆けだしたのがそのいい証拠だ。 話を聞いた後でも警戒心の大きさは変わらない、むしろ得体の知れなさは時間経過と共に大きくなるばかりなのだ。 不意に話し始めたときに聞いた『時空魔法デジョン』の事が頭によぎり、その事も聞いてなかったと思い出すが。目の前の展開の移り変わりの早さに忙しくて、デジョンの事はすぐに忘却の彼方へと押しやられてしまう。 雁夜の叫びをよそに、壁に突如現れたスロットは回り、一秒と立たずに停止して三つの絵柄を映し出す。 黄色い体毛を持った鳥のような動物の絵柄が左端に、真ん中には青色のダイヤの絵が現れ、右端には数字の『7』が並ぶ。 外れだ。 そう雁夜が考えた時、床の上でボンッ! とスロットが現れた時より少し小さめの爆発が起こった。 「な・・・」 今度は何だ、と言いたかった雁夜だが、床の上に突然現れた物体に目を奪われ、喋ろうとした意思そのものを消してしまう。 そこにいたのはウサギだった。 ただし、雁夜の想像する『動物のウサギ』とはいささか細かな部分が異なっており、ウサギなど滅多に見ない雁夜でも違和感を感じるおかしなウサギがそこにいる。 大きさは雁夜の頭部よりも少し小さいので、標準的なウサギの大きさであろう。だが、ウサギは青いマントを被らない。ついでに先のとがったこげ茶色の麦わら帽子もつけていない。頭の大きさが普通のウサギより倍ぐらいは大きい気がする。 「むぐむぐ? むぐむぐ? むぐ~」 極めつけにウサギはこんな人間の声のような鳴き声では鳴かない。 雁夜は児童文学の一つ、不思議の国のアリスに出てくる白うさぎを思い浮かべるが、それはゴゴによって否定された。 「こいつの名前は『ミシディアうさぎ』だ、大抵の子供はふわふわしたものが好きだから、とりあえずこいつを抱いてろ。感触が心地よかったら思いっきり抱きしめるといい。中々、頑丈だぞ」 ゴゴはそう言うと、どうやって出したのかよく判らない、得体の知れないウサギのマントを摘んで持ち上げる。 そして、椅子の上でずっと事態を静観していた桜の腕の中に、ミシディアうさぎを放り投げた。 「むぐ?」 「ぁ・・・・・・」 桜は咄嗟に跳んできたものを両手で受け止め、口を『あ』の形で小さく開きながら固まっていた。 雁夜はほんのわずかな事だが、普通の子供らしく反応する様子にほんの少しだけ希望を抱く。今ならばまだ桜は壊れていない。そう思えた。 そんな桜への喜びをとりあえず横に置いて。雁夜は何かをやらかしたゴゴに向かって罵声を浴びせる。 「アレは何だ、アレは!!」 「スロットだ」 「そんな事は見れば判る。どうやって出した、何で出した、何なんだアレは、あのウサギは何だ!!」 「だからスロットだ。ミシディアうさぎはスロットが外れると現れるウサギだ。体力を少し回復して、一部の状態異常を回復してくれるものすごいウサギなんだぞ」 「はいぃぃぃぃ!?」 その後、雁夜がゴゴの口から『スロットとは何か』、『ミシディアうさぎとは何か』を聞いて、とりあえずゴゴが扱える能力の一つだと納得し、使い魔のようなものだと自分を納得させるまでに十五分ほどの時間を必要とした。 話が一段落した後、雁夜とゴゴ、そしてミシディアうさぎを抱えた桜はようやく蟲蔵へと移動する。 ただ話をしただけなのだが、雁夜の心労はとてつもなく大きくなっていた。 この時点の雁夜は知らぬ事だが。もしスロットの絵柄が竜の絵柄で揃った場合、間桐邸は影の形も残さずに吹き飛んでいた。 もしくはスロットが数字の『7』で揃っていた場合、間桐邸にいるゴゴを除く全員の命はなかった。 スロットが外れて良かったのだと。この時の雁夜は判っていなかった。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - ゴゴ ゴゴにとって雁夜との話は実りある時間であった。 何しろこれまで知らなかった多くの事情を知る事が出来て、桜ちゃんこと遠坂桜を救う方法を幾つも考えられたのだ。 もちろん足りない情報は幾つもあり、雁夜の言っていた『遠坂時臣』も、一年後に開かれるであろう『聖杯戦争』も、聖杯によって招かれる『英霊』も、ゴゴが降り立った星とは異なる『世界』も、必要だ。 それらを知らずにいれば、『桜ちゃんを救う』というものまねを達成する為の大きな障害となるのは間違いない。知らなければならない事はまだまだたくさんある。 一つの星に降り立って多くを物真似したゴゴ。還って来た三闘神の力によって破壊という意味では出来ない事など殆どなくなったゴゴ。けれど世界は広く、物真似出来る事、知らない事はまだまだ山のようにあった。 この間桐邸の中ですら、かつての世界では見た事もない器具や機械があちこちにあるのだ。この世界では幼児にすら劣る今のゴゴが知れる事は数多い。 その未知がゴゴには嬉しかった。 物真似をやり遂げるための障害の多さに苦しみを味わいそうになるが、それでもゴゴは嬉しくて嬉しくてたまらない。 未知とは希望。かつて名前すら無かった誰かが孤独を癒すために繰り返してきた物真似は、今のゴゴにとって存在意義そのものなのだから。 これは物真似のし甲斐がある――。 ゴゴはものまね士として多くの事を物真似して行かなければならない。そうやって自己を再認識しながら蟲蔵へと向かうゴゴと、背後から付いてくる雁夜と桜。そして桜の腕に抱かれてちょっと苦しそうにしているミシディアうさぎ。ゴゴが振り返ると二人と一匹の姿が目に入る。 雁夜の部屋から直行しているので、あいにく間桐邸のもう一人の住人である鶴野の姿はここには無い。 「むぐ~」 桜ちゃんを救うものまね以外はするつもりが無いと断言したゴゴだが、状況によっては物真似の元である雁夜すら殺すとも宣言したので、信用されていないようだ。 先に進んで背中を見せる危険を排除したいらしく、雁夜の私室を出てからは雁夜は常にゴゴの後ろを陣取っている。当然、桜を手の届く場所において、だ。 だがそんな警戒はゴゴにとってどうでもよい。 「確かめに行くと言いながら先導しないのはどうだろう」 「いいから黙って先に行け。臓硯がまだ生きていたら、一番先頭に行く奴が危険に決まってる。滅ぼしたって豪語したんなら、先頭でもいいだろうが」 「自分の家なのにそこまで警戒しなきゃいけないなんて――。よほど仲が悪かったんだな、お前とあの蟲爺」 「当然だ! あんなのと仲がいい奴は最初から人格が破綻してる異常者だけだ!!」 言葉では気を悪くしているように話すゴゴだが、語られる言葉ほど気分は悪くない。それどころか前述の通り、ゴゴの心の中は喜びの華が咲き乱れており。状況が許すならば、小躍りしたい気分だった。 ゴゴは内心の喜びを噛み締めながら、同時に自分が話す言葉について考える。 今、ゴゴが喋っている話し方は初めて得た『仲間』の喋り方に引きずられている部分が多く、それを悪いとは思わない。むしろ、ものまね士として誰かの物真似をして得た結果だと思えば、誇らしさすら浮かんでくる。 元々、自分の事を『俺』と呼んでいたゴゴはどちらかと言えば男性口調だ。 そもそも自分の性別が人間で言うところの『男』あるいは『女』に大別できるものなのか確かめた事は無い。ものまね士ゴゴはものまねをする。逆に言えば、それが出来れば自分の性別など些細な事なので、考える機会がなかったのだ。 きっと今後も調べる気にもならず、ものまね士はものまね士として在り続け、喋り続けるだろう。 そんな自分の喋り方すらも物真似の結果だと思い、新たな喜びを噛み締めつつ、ゴゴはもう一度振り返る。 後ろを向いた視線の先にはミシディアうさぎを胸の前で抱えた桜がいた。 「ミシディアうさぎは抱いてると少しずつ体力が回復するから、お休みのお供にすると丁度いいぞ」 「・・・・・・」 相変わらず、初めて会った時から殆ど喋らない桜だが、ゴゴは話しかけている間、桜がずっとミシディアうさぎを落とさないように腕の位置を変えたり、抱え直したりしているのに気が付いた。 ゴゴがミシディアうさぎを抱いていろと言ったから、桜はその通りに行動しているように見えるが、ゴゴの目にはミシディアうさぎに対する執着の表れが桜自身すら気付かないうちに行動として現れていると見抜いていた。 もし、周囲の状況に対する完全な無関心を貫くのならば、そもそもミシディアうさぎを抱こうとすらしない。そして一緒に蟲蔵に行こうとすらしない。 一応、雁夜が連れてきたという理由はあるが、本当に感情が無くて全ての物事に無関心ならば、ここにはいない筈だ。 唯々諾々と周囲の言葉に言いなりになっているようだが。その実、桜が桜として意思決定を行い、自分の主義主張を押し通している部分が確実に存在する。 それは桜という人間の証明だ。 感情を宿らせないように見える碧眼、その目を隠すように伸びた黒い髪。けれど、間違いなく壊されずに残った感情が遠坂桜という人間の中に芽吹いている。 ゴゴは不意に仲間の一人であり、桜より少し年上だが同じ女児のリルム・アローニィを思い出すが。あれと桜を同列に見るのは色々な意味で危険だとも思った。 リルムは武器にも出来る筆一本でモンスターを瞬時に描写し、そのモンスターが持つ固有の能力を即座に発動させられる恐ろしい技の使い手だ。『団長のヒゲ』と呼ばれるアイテムを装着すると、ヒゲを生やした十歳児というコミカルな姿とは裏腹に、モンスターを操って同士討ちさせたりも出来る。 ゴゴは話でしか聞いてないが、何でも「似顔絵かくぞ!」と仲間を脅して強引に同行した過去があるらしい。 ゴゴにも同様の技は使えるが、それでも十歳の女の子が大人を脅す材料に出来るかといえば、すぐには肯定できない。 行動的で破天荒な少女がリルムだ。あれを基準にして『桜ちゃんを救う』を考えても、きっと良い答えにはたどり着けないだろう。だからゴゴは別れた仲間の事を懐かしみながら、意識を今に引き戻す。 止まる事なく進み、歩き、通った結果。ゴゴと雁夜と桜、ついでに桜に抱かれたミシディアうさぎの三人と一匹はあっという間に蟲蔵へとたどり着いてしまう。 地下の蟲蔵と地上部分にある間桐邸を阻む重厚な扉。ここに集まった三人と一匹が横に並んで通っても、まだ余裕がありそうな大きな大きな扉。 ゴゴはそれに両手をあてて思いっきり開く。 開かれた場所で三人と一匹を出迎えたのは―――大量の蟲の死骸が作り出す血の臭いと腐臭と死臭が混ざり合う、強烈な臭いだった。 「うっ――!!」 ゴゴの背後で、雁夜が鼻を摘む音がした。 一時三闘神の力の一角を手に入れた、人工魔導士ケフカ・パラッツォ。彼によって人の住む世界は一度破壊され、ゴゴが強引に『世界を救うものまね』をする時には街が街として機能していない所も珍しくなかった。 無秩序、無作為、無法地帯。かつては立法や行政の名の下に統括されていた場所もあったかもしれないが、それは見る影も無く壊され、乗っ取られ、力で奪われ、別の法則が世界を謳歌していた。 かつて存在した清らかな水も、科学の恩恵によって整備されていた町並みも、人の生きる意志も、沢山のモノが失われた。 と、ゴゴは仲間からかつての世界の形を話だけで聞いていたが、眠りから目覚めたゴゴにとってはケフカによって一度壊された世界こそが普通だ。 世界を救うものまねをするからこそ、仲間達と世界の敵を倒そうと旅を続けていたが、ゴゴにはかつて存在した世界への郷愁は無い。むしろ一度破壊された世界であっても、ゴゴが三闘神に殺されそうになった時と比べれば文明は格段に発達していると思っていた位だ。 だからゴゴにとって、生物の死骸が放つ死の香りなど珍しくも何とも無い。 ゴゴが旅した世界の中にはここよりも強烈な臭いを放つ場所は幾らでもあった。人の出す汚物や尿、汗と体臭が混ざった強烈な臭いに比べれば、蟲蔵の臭いなどまだまだ軽い。確かに蟲蔵という限定された空間の中に数百、数千もの蟲の死骸が押し込まれている状況は、ゴゴにとっても初見かもしれないが。限定された空間の中でモンスターの死骸が山を成している況ならば別段珍しくない光景だ。 人工物の中にあるモンスターの死骸という観点で言えば、規模の大きさこそ違えど魔法しか使えなかった狂信者の塔とそれほど違わない。ゴゴの主観では、雲にまで届きそうな巨大な建造物である狂信者の塔も間桐邸の蟲蔵も大差は無いのだから。 「こ、こいつは――」 「グランドトラインで死んだ蟲の成れの果てだ。言ったとおりだろう?」 雁夜は蟲蔵の惨状に鼻を摘みながら涙目になっているが、桜は雁夜とは対照的に桜の反応も示さない。 元々蟲蔵に関して何の感情も抱かないようにしているのか。あるいは心を閉ざして何も感じないようにしているのか。少しだけ目を細めて嫌そうな顔をしているようだが、それ以上は何もしなかった。 だから、この中で一番被害が大きいのはミシディアうさぎだろう。 何しろミシディアうさぎはウサギなので、自ら鼻を摘もうとしても前足の構造上それは不可能だ。加えて、桜に抱かれている状態なので、逃げようとしても逃げられず、蟲蔵の中から臭ってくる強烈な臭いにひたする我慢しなければならない次第である。 ゴゴは後ろを振り返って雁夜、桜、ミシディアうさぎの順に視線を辿ると、雁夜に視線を戻して告げる。 「蟲爺はそこに立って蟲蔵の中を見下ろしていた。で、下からオーラキャノンの直撃を喰らって、灰も残らず完全消滅。残ったのは雁夜の体の中にいた蟲だけで、そっちもエスナで消滅させたから『間桐の蟲』で生きてるのはもうこの世界に一匹もいない」 「・・・・・・桜ちゃんはどうなんだ?」 「自分と同じように体の中に蟲がいないか気にしてるのか? もし、蟲の苗床になってたら、この蟲蔵でもがき苦しんだ雁夜と同じようになってる筈だ。そうならないと言うことは桜ちゃんの体の中には蟲はいない」 ゴゴは自分がこれまでものまねによって得た―――正確に言えば思い出した―――魔法が作り出す効果に絶対の自信を持っているので、雁夜の体を蝕んでいた間桐の蟲を消し去った効果には一部の隙も無いと考えている。 ただし、間桐の蟲はゴゴの知識の中にない存在であり、単なるモンスターと識別するには中々特殊能力をたくさん持っていた蟲のようだ。ただの敵としてみればゴゴの障害にもならなかったが、それが桜の中で休眠している可能性はまだ合った。 そうやってゴゴが考えた事を雁夜もまた考えたのだろう、ゴゴから視線を外して背後の桜を見る目が『本当に大丈夫なのか?』と不安を物語っており、ゴゴへの信用の無さを明確に表している。 万が一。いや、億が一にもありえないが。可能性がゼロでないのならば、ゼロにしておくのも『桜ちゃんを救う』に繋がる道だろう。ゴゴはそう思いながら、雁夜の後ろでミシディアうさぎを抱いたままの桜に手を伸ばす。 「心配なら、こうしよう」 間に雁夜がいたので少し体の位置を動かさなければならなかったが、雁夜は桜を見ていたので阻む時間を作れない。 結果、ゴゴは桜の頭の上。額から十センチほど離れた場所で手を止めると、そこからある魔法を作り出して桜全体を包み込むように展開させていく。雁夜が止める間など全くない。 雁夜にかけた魔法は彼自身が暴れまわっていたので、押さえつけなければならなかったが。ゴゴの使う魔法―――三闘神と幻獣によって体系化された魔法の数々は、本来ならば対象者に触れる必要すら無いのだ。 ゴゴは桜を救う道を一歩進むため、魔法を唱えた。 「エスナ」 すると触れられていない桜の頭頂部。正確に言えばゴゴの手がある場所に最も近い位置から、虹のような光が生まれ、頭から首へ、胸元から胴へ、下腹部から足へと上から下に流れ落ちていった。 ミシディアうさぎを完全に避けた光の奔流は数秒と立たずに消えてしまい、瞬きしていれば見過ごしてしまいそうな淡い光だ。けれど、ゴゴの唱えた魔法は確実に効果を発揮し、桜の中に間桐の蟲が巣食っていたとしても、今この瞬間、完全に消滅したのは間違いない。 ゴゴはエスナによって引き起こされた実感のなさを感じ取り、やはり桜の中に間桐の蟲はいなかったのだと考える。 光が収まるのと横から雁夜の声が飛んでくるのは同時だった。 「今の魔術は何だ? 桜ちゃんに何をした!!」 「治癒の魔法『エスナ』だ。人の体調を正常な状態まで引き戻し、体に巣食う害意の大半を跳ね除ける魔法だ。雁夜の中にいた蟲を消し去ったのもこの魔法だから、万が一にも休眠状態の蟲がいたとしてもこれで消え去る。雁夜にも同じ魔法をかけただろう? 覚えてないのか?」 「・・・・・・とんでもないな。――臓硯の蟲は並みの魔術じゃ殺すのも不可能なんだぞ」 「そうか」 どうやら雁夜は間桐の蟲を絶対に叶わない難敵と思っているようだが、ゴゴにとっては間桐の蟲など気にするほどの敵でもない。 確かに蟲蔵の中に躯を晒している間桐の蟲の数は膨大だ、一匹一匹は小さくとも数百数千の蟲が一人の人間によって使役されて、一斉に一つの目的に邁進する状況はゴゴ一人では不可能な分業を可能にさせる。 ただしゴゴと敵対したならば、それは有象無象の蟲と何ら変わりがない。それどころか、かつて世界を救う旅をしてきた仲間ならば、誰も脅威とは思わないだろう。 雁夜の驚きを含んだ言葉とは裏腹に、ゴゴの心は全く揺らがなかった。出来るからやる、ものまねを完遂する為に必要だからやる。ただそれだけの話だ。蟲蔵の中に晒された蟲の屍骸がその証明だ。 ここで問題があるとすれば、それはよく判らない光が自分の体を包み込んでも、何の反応も示さなかった桜だろう。 エスナは確かに治癒の魔法だが、桜にとっては初見のはず。初めて見る光に何の反応も示さないのは、心と感情をかなり深い部分まで押し殺しているからこそ出来る事だ。 感情は死んでおらず、心は壊れていないかもしれない。けれど、かなり深い部分で眠りについているようだ。 ゴゴにとっては桜の心を解きほぐす事こそが難敵である。けれど、それは『桜ちゃんを救う』という物真似のし甲斐がある状況でもある。 ゴゴは桜の内面と言う強敵から視線を外し、蟲蔵の中に散乱する死骸の山を見る。 「それじゃあ、蟲爺が消えたのも確認できたところで、邪魔な物を片付けるぞ」 「何をする気だ。何かするなら、する前に俺たちに説明しろ」 「言うより見たほうが早いと思うが、まあいい」 ゴゴはそこで一旦言葉を区切ると、前情報を知らなければ何を言っているのか全く判らない言葉を口にする。 「これから雪崩を起こして、蟲の死骸を一掃する。燃やしてもいいんだが、時間がかかりそうだから埋めた方が早い」 「何?」 説明したのに、雁夜は首を傾げていた。 これがかつての仲間であったならば、ゴゴの言葉がどんな意味を持っているかをすぐに察し、何をしようとしているかも即座に汲み取っただろう。 これからゴゴがやろうとしている事は、ゴゴにとって―――物真似の元になったモーグリのモグにとっても、歩いたり息を吸ったり生きたりするのと同じぐらい、出来て当たり前の事だ。 特殊能力であるが故に人には使えず、モーグリしか扱えない技術だが。何をやろうとしているかは判ってくれただろう。 雁夜は知らないのだからゴゴの言葉がどんな意味を持っているか判らない。その理解力の無さに少しだけ落胆しかけるゴゴだったが、それはかつての仲間に思い入れがあった証明でもあったので、僅かに仲間達と旅した世界への郷愁を覚える。 叶うならばいつまでも浸っていたくなる暖かい気持ち。 けれど、今ゴゴの前にいるのは雁夜であり、かつての仲間との離別を選んだのはゴゴ自身だ。自らの選択に―――ここで手に入れた新たなものまねを行うため、ゴゴは強引に意識を切り替える。 「もう一度言おう。今から雪崩が起こす。だから、下手に動かない方がいいぞ」 「・・・雪崩? 何を言ってるんだ?」 雁夜はまだゴゴのやろうとしている事に予測すら出来ていないようだが、懇切丁寧説明するよりも見たほうが早い。 雁夜の部屋の中に急に出来てしまったスロットのリールも説明するよりも前に見せたからこそ言葉にしやすかった。この世界とかつての世界の差異があまりにも大き過ぎるので、言葉では説明しきれない部分が多くあるのも判っている。 ならば、今回もまた、まず見せる事こそが重要だ。 その説明不足が雁夜からの信用を損なう原因になっているのだが。ゴゴにとって大事なのは『桜ちゃんを救う』ものまねであり、それ以外の事は二の次である。極端な話、雁夜からある程度の事情を聞いた時点で、間桐雁夜という存在はゴゴにとってそれほど必要ではなくなっている。 あっても困らないし、無くなっても困らない。雁夜の評価はその程度だ。 まだ何か言ってくる雁夜を無視して、ゴゴは蟲蔵の中に足を踏み入れて、眼下に広がる虫の死骸の山を見渡した。蟲蔵の中にあるキャットウォーク。数時間前に同じ場所に立った臓硯はゴゴの技によって消滅し、消滅させた当人が立つ位置を奪い取って蟲蔵を見下ろしている。 生物から命を奪う事への躊躇いはゴゴには存在しない。 命あるモンスターを数多く殺し、仲間と共に一つの世界を救った過程でどれだけの命を奪ったのか数えてもいなかった。それは数えるのが億劫になる膨大な数に昇った。 あるいは目の前に広がる蟲の数よりも多いかもしれない。 生きていた物体の残滓を単なる物と定めるものまね士。敵の血で真っ赤に染まった手を思いつつ、ゴゴは雁夜に言って聞かせたとおり『後片付け』を開始する。 手すりの無いキャットウォークでは少々危険だが、ゴゴは小さくジャンプしながら体を回転させる。そして片足を床につけた状態で右に二回ほど円を描き、技の名前を呟いた。 「雪だるまロンド」 その一瞬後。蟲蔵の薄暗さが暗転し、完全な闇が三人と一匹を包む。 「お、おい!」 背後から雁夜の声が聞こえてきたが、ゴゴはそれを無視して前だけを見つめた。 雁夜の口から次の言葉が出てくるよりも早く、辺りに光が生まれて視界を開けさせる。回転の止まったゴゴの視線は見下ろしていた位置から一歩も動かず、蟲蔵の中に散乱する蟲の死骸を見下ろしているままだ。 ただし、蟲の死骸は山を成したままだったが、それ以外の風景が一変した。 「え・・・・・・え? あ? はぁぁぁぁ!?」 ゴゴにとっては見慣れた変化。雁夜にとっては全く知らぬ変化。その違いが雁夜の悲鳴という形で現れているが、ゴゴはその声にも反応せずにただ下を見下ろす。 蟲の死骸があった。ただし、その周囲を白一色の色彩が埋め尽くしている。 白は雪だ―――。ほんの少し前までは間桐邸の地下がゴゴ達の周囲に広がっていたが、今は雪山の一角に佇んでいる。 背後から聞こえてくる雁夜の声は何が起こっているか判らない混乱だと判るが。ゴゴにはモーグリのモグが使える特殊技能『踊り』によって世界を書き換える技だと知っているので驚かない。 吹雪は無く、雪は山を白化粧で染めた状態を映し出し、周囲にある山の方が高いのでゴゴたちがいる場所を盆地のように見せている。雲が空全体を覆い隠し、天も地も等しく雪の白さに染まっているようだ。 ゴゴ達は蟲蔵の位置関係をそのまま受け継いだかのように、蟲の死骸がある場所の上にいる。ただし、蟲蔵でキャットウォークや出入り口の扉辺りから見下ろしている状況よりも更に距離が開いており、蟲の死骸は真下ではなく斜め下に離れていた。 直線距離で測れば400メートル以上離れたのではないだろうか。蟲の死骸が集まって塊を成していなければ、白い雪山に浮かぶ黒い点にしか見えないだろう。 「ちょ、これ? はっ!? 寒っ! さむっ!! さむ!!」 ただし今の状況で、死骸の位置と自分達の位置を冷静に観察できる者はゴゴ以外にはいない。 きっと後ろには、雄大な自然にいきなり薄着で放り込まれた不条理さを呪って、それでも何とか体温を保とうと雁夜と桜が抱き合っている姿があるだろう。 感情の起伏を見せない桜は別の意味で茫然自失になっているかもしれないが、今はそれを気にしている暇は無い。彼らを思うならば声をかけるよりも前に事を済ませるべきなのだから。 後片付けを早く済ませよう。ゴゴはそう思いながら、雪山の上に向かって声を投げた。 「雪崩」 ゴゴがそう呟くと、大地がぐらりと揺れる。 揺れは短く、余韻も少ない。けれど雪山に起こった変化は劇的であり、揺れが収まったと思えば次の揺れがゴゴたちの立つ雪山を動かしていた。 揺れは時間経過とともに大きくなっていき、数秒経過した後で雪山の一角がずるりと動いた。雪山の一部、直径およそ50メートルほどの空間が、斜面を滑り落ちる現象へと姿を変える。 山岳部の斜面上に降り積もった雪が重力によって移動する自然現象だ。正しく、ゴゴが言ったとおりの『雪崩』が起こり始めた。 「はぁぁぁぁぁ!?」 驚く以外に何も出来なくなった雁夜の声が聞こえてくる。だが、それも山の上から滑り落ちてくる大質量の雪が作り出す音によってかき消されてしまう。 全層雪崩が作り出す自動車の速さに匹敵する時速70キロの破壊。自然の猛威に人の入り込む余地は無く、誰もが等しく起こっている現象を見るしか出来なかった。 起こった雪崩はゴゴ達には当たらず、離れた場所にある間桐の蟲の死骸めがけて突き進むので、危険は無いように見える。 ゴゴは後ろにいる雁夜の大きなため息を聞いた。 雁夜が感じたのは雪崩が直撃しなかった事への安堵か? 自然の雄大さが見せる感動か? この状況を意図的に作り出したゴゴへの諦観か? 雁夜がゴゴに対し、何を思っているか少し気になったので後ろを振り返れば。雁夜と桜が一心不乱に雪崩を見ていた。 ミシディアうさぎはいきなり雪山に放り込まれて、すぐ近くで雪崩が起こっているのに全く気にしていないようだ。ゴゴが呼び出しただけあって豪胆なウサギである。 雪崩を目で追う雁夜。雁夜が見る雪崩という名の白い悪魔は、あっという間に蟲蔵の中にあった蟲の死骸を飲み込んで、全てを埋め尽くしていった。 ゴゴが視線を前に戻した時、すでに雪崩は間桐の蟲の死骸に到達しており、呑み込み瞬間は見逃したが、『雪崩に呑まれた』という結果がゴゴの眼前に広がっている。 後片付けは完了した。 ゴゴは蟲蔵の掃除に満足しながら、この雪山を作り出した踊りを解除する。 雪山を呼び出した時とは逆に左に二回転。片足で立って回ると、周囲の景色は黒一色に染まり、雪山が作り出す白さは跡形もなく消滅した。 「・・・・・・これ。お? あ?」 先程の変化を繰り返すように、もう一度背後から雁夜の驚く声が聞える。 驚き過ぎだ。とゴゴは思ったが、初めて見る人間には少々衝撃的すぎる光景だと思い直し、無視する。 そうこうしている内に黒一色に染まった闇の世界に灯りが生まれ、ゴゴの視界には薄暗い間桐邸の蟲蔵の光景が蘇ってきた。 光の差し込まぬ地下、か細い光しかない蟲蔵。そこには雪山の白さは影も形もなく、雪が作り出す寒さも、凍えるような空気の冷たさも、雪山の上に開かれた白い雲の気配も、雪崩と言う自然の猛威が作り出した結果の残滓も、何一つ存在しない。 辛うじて蟲蔵の中に残る生き物の死骸が作り出す臭いの残り香が、ここに大量の蟲の死骸が合った事を伝えているが、残っているのはそれだけだ。 間桐の蟲はどこにもいなかった。 間桐臓硯が存在した証は残っていなかった。 何もかもが消えていた。 無味乾燥に大きく広がる蟲蔵の床がそこにあった。 「お掃除完了」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 軽く言ってのけるゴゴに対し、雁夜は突然の自然現象に言葉が無く。蟲蔵の入り口に膝をついて屈んだまま一言も喋らない。 感情を殺したつもりになっている桜ですらいきなりの雪山に何か思う所が合ったのか。感情の宿らぬ目は雪山を呼び出す前と何も変わっていないように見える。だが、それでも雁夜の腕に護られ、腰を落とし、ミシディアうさぎを抱いた状態で蟲の死骸が合った場所をジッと見つめ続けているのは驚いたに違いない。 ゴゴにはそんな桜の様子が、目に見える現実を確かめようとしている様に見えた。消えていない心の証明だと思った。 もし魔術に精通している人間がこの場にいれば、ゴゴが起こした現象をこう呼んだだろう。固有結界―――と。 雁夜も桜もその現象を説明できる知識を有していないので、雪山が現れて蟲の死骸を呑み込み、気が付いた時には何もかもが消えていたとしか言いようがない。 術者の心象風景で現実世界を塗りつぶし、内部の世界そのものを変えてしまう固有結界。 魔法に最も近い魔術とされ、魔術協会では禁呪のカテゴリーに入り、魔術師たちにとっては最大級の奥義であり、魔術の到達点のひとつとも言われる大魔術。ただし、顕現した心象風景という『異世界』には世界からの修正が働き、現在の世界を一部分壊しているので、抑止力による排斥対象となってしまう。 結果、固有結界の維持には莫大な魔力が必要で、大魔術師でも数分しか維持することはできない。 ゴゴはそんな固有結界をいとも容易く展開する。 「物がなくなってみれば、結構広いんだな」 何もなくなった蟲蔵がゴゴの前に広がっていた。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Side - 間桐雁夜 雁夜は考える。目の前で起こった出来事に圧倒されて言葉はなかったが、それでも混乱を何とか抑え込んで、必死に冷静さを保って考える。 「・・・・・・・・・・・・」 蟲蔵がいきなり雪山に変わり、雁夜の人生の中でも実際にお目にかかった事のない雪崩を間近で見て、衝撃で思考が吹っ飛んだ。 口からは慌てふためく言葉しか出てこなくなり、冷静さは空の彼方に消えていった。 呆然自失状態で蟲蔵の入り口に座り込んだまま、蟲蔵の地下に散乱していた蟲の死骸が無くなったのを見ながら、どれだけそうしていただろう。 見つめる先で自分は蟲の苗床にされていた。そこに自分の体が横たわっていた時からまだ一日も経ってないと思い出すまで、どれだけの時間が必要だっただろう。とても遠い過去の出来事の様に思えてしまう。 蟲の死骸が山を作っていた。雪山になって、雪崩が起こって全部消えた。起こった事を言葉にすればそれで終わるかもしれないが、魔術師よりも一般人の感性に近い雁夜にとって蟲蔵の中で起こった出来事は超常現象以上の奇跡だ。あるいは夢幻だ。 今更ながら、雁夜はようやくゴゴから聞いた『神と呼ばれた存在の親』がどれだけ莫大な力を有しているか実感する。 言葉だけでは信じられなかった奇跡の数々。 いきなり部屋の壁にスロットを作り出して、ミシディアうさぎなんてものを呼び出した時は驚いたが、あれはまだ手品だと言われても納得できる範疇に合った。 言葉では説明しきれない衝撃の連続。言葉による理解ではなく、体感による認識。 雪山の上に立っていたと認めた時、驚きと寒さで心臓が止まるかと思ったものだ。 「・・・・・・・・・・・・ふぅ」 それほど長い時間ではないだろうが、決して短くない時間を経て、雁夜はようやく冷静さを取り戻す。必死に混乱を抑え込んで、押しつぶして、力一杯に押し戻して、それでやっと冷静の片端が戻した。 確実に十分以上は経過しただろう。もしかしたら三十分以上経っているかもしれない。 雁夜は取り戻した冷静さの中で考える。 ゴゴが臓硯を殺した時は間桐の蟲に弄られた後だったので、疲れ切った頭では上手く考えられなかった。しかし、今は違う。考えられる頭がある。 休息を経て、ゴゴが行使する力の一端をまざまざと見せつけられた。幻覚や夢など言えず、起こった事実を事実として認めるしかなかった。 認めよう。ゴゴは雁夜など想像も及ばぬ得体の知れない技を行使出来る存在であり、神と崇め奉られる存在を生み出すのも可能な怪物だ。 なるほど、こんな事をいとも容易くやってのけるならば、臓硯ほどの魔術師であろうとも殺すのは容易いだろう。 雁夜から見た臓硯の力は山のふもとから見上げる頂上だ。力の差はどうしようもないが、決して届かぬ場所ではないとも思える力である。 しかし、ゴゴは違う。 雁夜の前に立つものまね士は空高くどころか、成層圏も突き抜けた月に君臨する超越者だ。生身の人間では決して届かぬ存在で、何か他の力を借りなければ存在を正しく認識する事すら出来ない。 雁夜はゴゴの強大さを思い。そして臓硯の消失を考えた。 戸籍上の父である臓硯が消滅した事をここにきてようやく理解し。蟲蔵の中で見た、白いレーザーが夢や幻ではないと理解させられる。 今日に至るまでの数日前や十年以上前、臓硯の事を父親として呼んだことは何度もあった。だから感傷の一つも覚えるかと思ったが、雁夜の胸の内に去来するのは臓硯が居なくなった事への喜びだけだ。 こうして居なくなった後も『亡くなって悲しい』なんて事は欠片も考えず、『居なくなって清々した』としか思えない。 臓硯に対しての情の薄さを考えながら、雁夜の意識は再びゴゴへと移る。 思考があっちへ行ったりこっちへ行ったりするのも、まだ混乱の余韻が雁夜の頭の中をかき乱しているからに違いない。冷静になったつもりでも、やはり受けた衝撃があまりにも大き過ぎたのだ。 雁夜は今だ腕の中で動きを見せない桜を認めつつ、ゴゴを見る。 『ゴゴが起こせる事象』として、それが一つなら何とか認める事も出来よう。だが二つ、三つ、四つ、と増えていけば、それは雁夜の範疇を超える、理解不能な領域へと膨れ上がってしまう。 雁夜はゴゴに訊きたかった。 お前は何が出来るのか? と。 だが訊く事が恐ろしかった。 もし、人の意識を操れると返されたら、どういえばいいのか? もし、簡単に地球を壊せると返されたら、どう言えばいいのか? 雁夜には判らなかった。判ろうとするにはあまりにもゴゴと雁夜が違い過ぎた。 ゴゴは『桜を救うものまねをする』を目的としており、今の所の行動原理は全てそれに付随する形で行われている。 言葉と行動に嘘偽りはない。それでも、雁夜はゴゴを信じきれない。ゴゴの力があまりにも強大過ぎるが故に、だ―――。雁夜には地を這う虫の気持ちが判らない。虫も巨人に見える雁夜の気持ちは判らないだろう。何故なら両者はあまりにも違いすぎるから。 同じ人間であっても、環境や習慣や思考や性別の違いによって同じモノを見ても全く違う考え方をする。ならば違いすぎる者達が互いを理解し合える筈はない。 雁夜は言いたかった。 臓硯を殺してくれてありがとう、と。これで桜ちゃんは救われる、と。 でもすぐに口に出来なかった。ゴゴが判らないから雁夜には言えなかった。 感謝と警戒と理解と不可解、そして受けた衝撃と動揺が雁夜の頭の中を更にぐちゃぐちゃにかき乱す。 その中で、雁夜は考える。 表に住まう一般人の感性を持ち、世間の裏に巣食う間桐の魔術師であろうとする者として、間桐雁夜は考える。 考えて、考えて、考え続けて、言わなければならない言葉を絞り出す。 「おい、ものまね士――」 「ん?」 「臓硯を殺してくれて、ありがとう。その上で・・・・・・お前に頼みがある」 間桐の忌まわしき血筋。聖杯戦争。遠坂桜の救済。臓硯が居なくなった後の未来。『救う』という言葉の意味。遠坂時臣への憎しみ。遠坂葵への恋心。ものまね士への恐怖。強大なる力。ただの人間の雁夜。間桐の魔術師――間桐雁夜。 多くの事柄が雁夜の頭の中を駆け巡り、やがて一つの言葉となっていく それは起こった状況からすれば突拍子もない言葉だった。後になって雁夜は絶対に『何故、あの時、あんな事を言った?』と、確実に不思議に思う言葉だった。それでも混乱の渦中にいる雁夜にとって、今この瞬間にこそ言わなければならない言葉だった。 その言葉を雁夜は言い放つ。 「俺が聖杯戦争で他のマスターに勝つ為に――、俺を鍛えてくれ」 間桐雁夜はそう告げた。 聖杯戦争を破壊しようと言ったものまね士にそう告げた。