帝国と都市同盟の戦いが始まってより七日ほどたった頃、フェリクス達はトラン湖沿岸の村々を経由して北方の玄関口であるキーロフの街へと辿り着いた。モラビア城より東に位置するこの街は交易で財を成す商人たちの拠点であり、帝国の圧政下にありながら人々は豊かな暮らしを享受していた。表通りに立ち並ぶ綺麗な石造りの建物はその象徴とも言えるだろう。
豪商ウォーレンもかつてはこの街を基盤に財を成した。ただの華やかな街という訳でもなく、沖合にある大渦のようなすべてを呑み込むような危うさも孕んでいた街である。継承戦争より九年経った今ではその影も見られず、交易と漁業の街として穏やかな空気が流れている筈なのだが、今、この街は慌ただしく騒めき立っていた。
桟橋へと降り立ったフェリクスに住人たちの噂話が聞こえてくる。都市同盟との戦争が始まった。その隙を付いて立ち上がった解放軍が全滅したと。皆、一様に顔に張りつけた不安を塗りつぶすよう声を荒げる。
「何でまた……戦争なんかに……」
「あいつらが攻めてくるんだからしょうがねえだろう!!」
「私たちにはハイランドだって付いている。婚姻を結んだのでしょう?」
「そのハイランドの皇子が解放軍を潰したんだっ!!」
「バルバロッサの糞野郎は血が好きなんだよっ!! 俺たちのことなんてどうだっていいんだ!!」
幾つかの情報に皇子の身体は凍りついた。声を出そうとするが、震えた唇は言葉を紡いではくれない。その目の前で群衆へと向かい、オデッサは駆けだした。
「その……話は……本当……?」
蒼白に染まる顔で街人たちの輪に割り込んで男の肩を掴む。込めた力の強さに男が悲鳴をあげるが、オデッサがは止まる事なく、口早に問い詰めた。
「解放軍が……!! フリックがっ……!? どうしてっ……!?」
焦り、困惑、不安、恐怖、様々な感情がオデッサの心をかき乱す。目は血走り、あまりの剣幕に言葉を失った男をただ揺さぶりながら問い続ける。
「やめなさい、オデッサっ!!」
その時だ。オデッサと男の間に割り込み、声を響かせた男がいた。白い髪を七三に分けて、猫のような大きな瞳をした中年の男。小柄な身体に羽織る茶のジャケットはくたびれている。解放軍初期メンバーの一人であり、帝国のスパイでもある”博覧強記”のサンチェスだ。困惑する男の心配をしながらもその瞳は黒く濁っている。
「サンチェス……!? なぜ……ここに……!? 貴方はエルフ達と……」
「いえ……私の方でも戦争の情報を掴みまして……確認の為に北方へと向かっていたのです」
「確認って……フリック達は……」
拙い声の問いかけにサンチェスはただ首を横に振った。よろめいていくオデッサの身体は倒れこむ前に後ろから追いついて来たエルザによって支えられる。絞り出す声は悲愴で掠れていた。
「なん……で……?」
「我々は……ルカ皇子を舐めていたようです……」
俯き、拳を握るサンチェスは本当に悔しそうに答える。そう、彼は確かに悔やんでいる。それは都市同盟との戦争の火蓋を切った事に対してだ。解放軍が潰された事に関しては喜んでいる。北方へとフリック達を誘導して潰し合うように仕向けたのはサンチェスだ。そして帝都にてルカへと幾つかの情報を渡したのも彼だ。何も悲しむ必要はない。もっともオデッサの前でそれを見せる訳にはいかない。
そしてルカ・ブライトという人間を読みきれなかった後悔がある。策を弄するものは自分の計画の範囲にないものを何より嫌う。サンチェスも例外なく、それに当てはまり、同盟の村を滅ぼして帝国へとやって来たルカを問い詰めようとモラビア城を目指していた。
その途中で立ち寄ったここキーロフで何故かオデッサを見つけた。不思議に思い近寄ってみるとオデッサは酷く取り乱し、住人を締めあげていた。帝国のスパイではあるが、争いが好きな訳ではないサンチェスは助けようと割り込んだのだ。
「あなたは……?」
「申し遅れました。私はサンチェスと申します。彼女の仲間です」
群衆へとやってきたマクシミリアンの言葉にサンチェスはオデッサへと目をやり、演技をしたまま答える。人のいい老人には彼の演技は見破れない。何の疑いもなく、直ぐにその言葉を信じた。
「そうでしたか。わしはマクシミリアンと申します」
「あなたがあの有名な……」
顔こそ驚いて見せたが、勿論、サンチェスは知っている。帝国における、ある意味、危険人物である老人を知らない筈がない。だが、彼は忘れていた。マクシミリアンがこの場にいるという事の意味を。
「あの……」
小さな声だった。長い金色の髪を後ろで一括りにした少年。怯えるような翡翠色の眼差しが向けられた。
――皇子殿下……!!
しまった、とサンチェスは内心、顔を青くする。面識はないが、帝国の影である自分が皇子の前に出て良いことなど何もない。正義の塊であるマクシミリアンを教育係りに宮廷の中で生きてきた皇子だ。サンチェスのやったことが知られたならけして良い顔はしまい。それは皇帝バルバロッサへの反抗へと繋がる。
そして何よりの問題は皇子がオデッサと共にいることだ。帝国の民がどんな扱いを受けているのかを少なからず知った上での行動だろう。フェリクス・ルーグナーの人生は自分の望まぬ方向へと向かっている、とサンチェスは判断した。
「貴方も……皇帝……陛下……を憎んでいるのですか……?」
掠れがすれの弱い声での皇子からの問いかけにやはり、と確信を覚えながらも心に湧きあがる感情には何の曇りもない。
――憎んでいる筈がない。私は陛下の臣です。
ならば巻き戻さねばならない。何の迷いもなく、陛下を案じ、民を憂い、勉学に励んでいた頃の皇子に。それこそが帝国の未来へと繋がっていくのだから。例え、今がどんな泥沼にあろうとそれを皇子が知る必要はないと。
だが、想いとは裏腹にサンチェスの口は言葉を紡げない。オデッサの前だ。下手を討つ訳にはいかない。
「私は……憎んでなど……おりません。ただ、民のことを考えているだけです」
やんわりと頬を弛めて語りかけるサンチェスはその裏でどうやってオデッサから引き離すかを考えだした。誰にも気付けはしない笑顔だ。二十年以上そうやって仮面を被って生きてきた。ばれる筈がないのだ。
ここでエルザに出会わなければ。
少しの焦りでサンチェスは気付かなかった。自分を見るエルザの瞳が酷く冷たいことに。
同じく、闇に生きる者として。
憔悴したオデッサの前にキーロフの街で一泊する事となった皇子達は宿へと入る。壊れてしまいそうなオデッサにサンチェスが行動を共にすると申し出てきたのは皇子達にとっても幸いであった。相変わらずバレリアは目を吊り上げたままエルザを睨んでいる。皇子の口数は少なく、オデッサともエルザとも距離をおく。喧しいマクシミリアンもその様子に元気がない。シーナと侍女の居心地は最悪である。
ギクシャクした一行に変化を与えてくれるのなら誰でもいいのだ。船頭であったタイ・ホーとヤム・クーはこの街を治めている男を訪ねるとここで別れた。昔馴染みのようで積もる話があるのだろう。オデッサの取り乱しには特に触れることのなかったタイ・ホーだが、別れ際に皇子の頭を乱暴に撫でると、
「ま、がんばんな」
と一言、言い残した。なに考えてんでやんすかねぇ……、と言いたげなヤム・クーが印象的だった。
部屋に入った皇子には先程の光景が思い出され、木造りのベットに力なく倒れ込む。一人部屋であることが気を使われているのだとは気付けそうもない。それなのにバルバロッサは血を好んでいる。そんな筈がない、と否定した所で何の意味もないことには気付いている。ただ、ただ心は重く微睡んでいく。そして解放軍の全滅。
なぜ……ルカ・ブライトが帝国にいる……?
その答えはでない。まさか自身の発言が理由だとは思いもしない。知らないのだから。いや、知っていたのならば、もう立ち上がれないかもしれない。自分のせいで解放軍は全滅したと責めたてただろう。帝国は戦争へと入った。ルカへの恐怖も沸々と蘇る。食いしばるようシーツに引っかけた指が不安となって波を描く。
「この国は……どうなる……?」
枕に顔を押し付けて呟いた姿には運命に負けない、と言った時の力はなく、ただ弱い子供の姿だった。
「なぁなぁフェリクス、ナンパしに行こうぜ!! さっき見たんだけど洗濯物を洗ってるおねーさんがかなりイケてんだよ!!」
そんな空気はどうでもいい、と部屋の扉は勢いよく開かれた。笑みを浮かべた金髪の少年シーナである。鍵をかけ忘れた皇子ではあるが、部屋の前には止めてくれ、と言っても止めない侍女が立っていた筈だ。簡単に入れる筈がない、と思えば侍女はちゃっかり部屋に入り込んでいる。気まずそうに皇子を窺いながらも瞳には心配の色がある。部屋へとシーナを通したのは彼女なりに考えてのことだろう。
だが、それは彼女たちの都合であって今の皇子にそんな余裕はない。どうすればそんな気分になれるんだよ、と苛つきながら身体を起こすと邪険に眉をひそめた。拒絶の意思はありありと、それでもなおシーナの早い口は止まらない。
「あ、それともあれか? ゲームでもするか? 下にカードゲームやってる兄さんがいたぜ。待ってろ。今、呼んで来てやるからなっ!!」
「シーナっ!!!!」
ついに怒鳴り声をあげた。既に心はぐちゃぐちゃで。母、アイリーンとの約束を破ろうとしたシーナが許せなかった。それが嫉妬だと気付いて更に心は乱れる。顔すらも合わせたくはない。視線は床へと落ちて長い金髪は顔を隠す。
出ていけ、と発せられた無言の圧力に黙りこんだシーナだが、拳を軽く握って退きはしなかった。
「あんまり……気にすんなよ……」
先程までのおちゃらけた表情ではなく、引き締まった真剣な顔。そのまま鼻を一つ掻いて言葉を続ける。
「俺はおまえのこと、よく知らないけどよ、おまえが苦しんでいるのはわかる。だから……俺は……その……」
言葉はそこで拙く途切れた。その次の言葉を出すことに臆病になっている。心配だ、と一言かけるだけなのに、それを拒絶されるのが怖い。励まそうと声を上げたのは自分の為でもある。彼は皇子と友達になりたいのだ。
コウアンの街で豪族レパントの一人息子として大事に育てられたシーナに友達はいなかった。同年代の少年が側に居なかった訳ではない。幼い時は周りに沢山の友達と言える者がいた。だが、甘やかされたシーナは成長するにつれてその友達の数を減らしていった。それは甘やかしすぎたレパントとアイリーンの責任だが、子供の世界にそんな事は関係ない。
いつからか遊びに誘われる回数が減った。誘いを断った筈の少年が他の子供と遊んでいるのを見た。家族に心配はかけまいと家の中では振舞うが、彼はもう人との付き合い方がわからなかった。少し大きくなってくると今度は違う友達が現れる。レパントの権力を利用しようとする者たちだ。
それでもシーナは良かった。自分は一人じゃないと思えたのだから。だが、彼は聞いてしまう。影で放たれた面倒くさい、という言葉を。彼は再び孤立した。コウアンの町に嫌気が差して遊学と偽って旅に出る。両親は甘いまま許可を出してくれた。
遺伝に引きずられるように女へと声をかけた。それが寂しさであったと自身すら気付かないままに。成功なんてしなかった。人との触れ合い方がわからない少年に気長に付き合うような女はそうはいない。やがて彼は気付いた。簡単な友達の作り方を。それがレパントの権力と金を利用することだった。
幼き日の悲しい記憶は彼へとはね返った。
金の力は怖い。それだけで自分に価値が生まれたと錯覚できる。積み上げていく虚構の中で更に人との付き合い方はわからなくなる。代わりに生まれたのは恐怖、金が尽きればまた一人になる。声をかけた女の中に金貸し兼借金取りの”夜叉”カミーユがいたのは悪い偶然だったのだろう。シーナの身元はしっかりしている。ならばカミーユは金貸しとして金を貸すだけだ。その使い道などどうでもいい。
良くも悪くも彼女はその道のプロなのだ。ただ金を貸して取り立てる。カクの村で皇子達が居なければシーナを引き摺ってレパントの下へと怒鳴り込んだろう。群島へ売り飛ばすは脅し半分、本気半分、取りたてられるなら早い方がいいと判断したまでだ。ただ優しいだけの女性なら”夜叉”なんて字名はつかない。
そうやって自己欺瞞を繰り返している内に寂しいという感情すらシーナは何処かに置き忘れた。ただ目の前の快楽を求める無為な日々。母親似の優れた容姿も相まり軽薄な口は更に軽くなっていく。
ある日、いつものように声をかけた。他人が自分をどう見ているかなんて知りもしない。わかりもしない。心に空いた空虚を誤魔化して生きていくのだと諦めていた。
殺されかけた。意味もわからずジジイに。フェリクスはそんな彼を助けた。二度も。
ジジイはシーナを叱った。バレリアはうっとおしいと言いながらも魔物との戦闘に入るたびにシーナを見ていた。傷を負わないようにと。彼は嬉しかったのだ。自分という人間を見てくれることが。殴られてばかりだけど彼らとの旅が楽しかった。その中心にいるフェリクスと友達になりたいと彼は思うようになっていた。
フェリクスが皇子だと知り、吸血鬼化の危険があるとしてもそれは変わることはなかった。
そして今、ようやく視線を合わせた二人の少年だが、シーナの口は固まったように動かない。思春期の少年だ。妙な気恥かしさもあり、誤魔化すように頭を掻くとやがて方向を逸らした。
「そうだ。あの子が悲しむ」
突然、会話を振られた侍女は顔を赤くしながらそんなことはない、と手を振る。どうにもこの年代の子供たちは感情に素直になれない。母との約束を破る気なんてシーナにはなかった。むしろ、他人を理解する為に侍女の恋を応援しようと決めたのだ。もっとも、いまいち侍女が皇子に惚れているのかはわからないようである。
そんな彼らの気持ちは皇子にも伝わる。しかし、こちらもやはり素直にはなれない。自分を励まそうというその感情は嬉しいものだ。だが、それに甘えた所で現状が良くなる訳ではない。皇子に真に必要なのは導き手である。どんな人間であれ一人の力で出来る限界はある。決意も理念も無意味という場面に巡りあう。
それでもなお前に進み、道をこじ開けられる者を英雄と呼ぶのだ。彼らに導き手はいらない。道はすべて後ろに出来る。人もまたそれに続く。残念ながら皇子は未だそのラインにすら立っていない。
シーナの気持ちに気付いたことが仇となったのか、皇子はそのまま押されるようにカードゲームを始める。そんな事をしている場合じゃない、と感じながらも現実からは目を背けたままで。
そしておそらく導き手であろうオデッサは宿の一室で変えられない現実に直面していた。
「私がっ……!! 私のせいでっ……!!」
オデッサはただ自分を責めていた。自分が解放軍を起こしたせいでフリックが、ビクトールが死んだと。その可能性がある事は知っていた。なのにそれが現実になった時の引き裂くような痛みと空虚がこれ程までに激しいものだとは知らなかった。まだ、二十一歳だ。潰れてもおかしくはない。
ベットに腰かけたエルザの胸元に顔を押しつけ、涙を擦り付ける。やれやれ、とため息を零すエルザだが、その喪失感を知っている為か、突き放すことはなかった。火薬と細かい傷で染まった手で優しく頭を撫でてやる。とめどなく溢れ出る涙はエルザの胸の谷間へと流れ込んでいく。
一刻、二刻と時間は残酷に過ぎ去る。それでもまるで泣きやむ気配のないオデッサの前にエルザは顔を曇らせ影を落としていた。いい加減、うっとおしい。その喪失感を知っているとは云え、いつまでも泣き虫に付き合っていられるほどエルザの気は長くない。
「で……? どうするんだい……?」
声は低く、青い瞳はオデッサに選択を迫る。
「すべてを投げ出して逃げるというのなら、それもいいだろう。手向けだ。私が青いのと同じ場所に送ってやる」
胸に抱いたまま耳元で囁いた。信じられぬ言葉に顔を急いで上げたオデッサは涙で滲んだままの瞳でエルザを睨みつける。
「泣くことも……許されないの……!?」
「許されないね……。そんなものは……何の意味もない……」
「そんなのって……!!」
目を細めてエルザは断言する。知っている。それを失ってまで生きる辛さを。ならば、ここで殺してあげるのがオデッサの為だとガンへと手をかける。立ち上がり、白のマントは揺らめきながら銃口を合わせた。これは暗殺者として生きてきたエルザなりの不器用な優しさだ。
「オデッサ……あんたは優しすぎる。生きるのは……辛いだろう……。せめて……いい夢を見て、眠りな……」
オデッサが声を出すよりも速く――弾丸は放たれた。
夜の港街を駆け抜けた銃声は皇子の耳にも飛び込んでくる。シーナと侍女がカードを落として慌てているのを横目に部屋より飛び出した。廊下でバレリアと鉢合わせになり、視線を重ねてオデッサの部屋へと踏み込む。
硝煙の匂いが鼻を差す。僅かに空気に揺らめく白煙はエルザが天に構えたシュテルンより登るもの。そしてオデッサは血痕を撒き散らしながらベットに倒れ込んでいた。意味のわからぬ惨状にバレリアが七星剣を抜き放ちエルザへと突きつける。
「これは……どういう事だ!? 説明しろっ!!」
問いかけに返事はない。エルザはただ悲しい顔のままシュテルンを見続ける。
「貴様らは仲間ではなかったのか……っ!!?」
再度、目を釣り上げたバレリアから声が投げられる。エルザはオデッサを見るともう一度、手元のガンに視線を戻してそっと呟いた。
「この子は……生きるには……優しすぎる。だから……これ以上、苦しまないように……私の手で……」
「そんなの……間違っているっ!!!!」
悲痛に顔を歪めた皇子が絞り出すように叫びを上げた。それも届きはしない。
「そうだね……。正しい人間がまっすぐに生きれない世界なんて間違っている……。でも、それが……私たちの生きている世界なんだ……。世の中は……いつも不条理で……欺瞞で満ちている……」
エルザの過去を噛みしめた声だけが部屋には響き渡る。僅か五歳でハルモニアに売られ、暗殺者として育てられたあげく、ようやく手に入れた幸せも自らの手で終わらせた彼女の言葉が。不条理はいつも隣にあった。
遅れてやってきたマクシミリアンやシーナ達も部屋に入り、エルザの姿と倒れたオデッサを見続ける。身体を震わせて声を出したのは皇子。その瞳からは涙が零れていた。
「だから……、だから……殺したって言うんですかっ!? 彼女が可哀想だから……!! 僕は……嬉しかったのにっ!! 貴方達が生きていて……っ!! あり得ない組み合わせなのにっ!! 自分が此処にいる意味はあったんじゃないかって!!」
「あんた……? 何を言っているんだい……?」
「わかるもんかっ!!!」
エルザに疑問の目を向けられても皇子はただ叫ぶ。自分自身の中にある訳のわからない感情と共に。
「泣いているのかい……? オデッサの為に……? それとも……」
「勝手に人の人生を終わらせないでよっ!!!!」
そこで死んだと思われたオデッサの声が聞こえてきた。頭につけた細いサークレットこそ焼き切れてはいるが、身体に異常はなさそうだ。とび跳ねるように立ち上がるとエルザの頬目がけておもいっきり殴りつける。だが、エルザは素早く受け止めた。
「殴られなさいよっ!!!」
「……まさか…………躱すとはね……」
まるで赤毛の猿のようにキィキィとオデッサは唸る。瞳にもはや涙はなく怒りで満ちていた。発砲の瞬間、オデッサは身体を捻り、銃口を蹴りあげた。それでも回避するには至らず弾丸は頭を掠め、まさかの事態に思考が追いつかずそのまま倒れ込んでいた。当然、エルザは死んでいないことには気付いていたが、その事に意識は少し囚われた。
”ほえ猛る声”の最高位、騎士級ガンナーが的を外した。それもバレリアに続いて二度目だ。本来、そんな事はあり得ないのだ。自分はどうなっている、とエルザは自身に起きている変化に困惑していたのだ。
そしてオデッサはエルザの好き勝手かつ一方的な台詞の前に怒りが抑えられない。なにせ返事も聞かずに撃ちやがったのだから当然だ。しかも顔に反省の色がまったく見えない。むしろ、何で……? と言いたげである。
果たしてそれはオデッサに向けられたものであったのかはわからないが、オデッサにして見ればどうでもいい。取り合えず、一発殴る。それだけは譲れない。
「不条理が何だって言うの……っ!! それを無くす為に私たちは戦っているのよっ!! 私の命はその為にあるの!! 貴女に殺される為にあるんじゃない!!」
掴まれた手を振りほどいたオデッサが叫びながら再び殴りかかる。そのすべてをこ憎たらしくエルザは回避する。珍しく善意からの行動に殴られてやる理由など欠片もない。オデッサの拳はただ宙を舞い、白いマントへと絡みつく。更に顔を赤くして打ち込んできたオデッサの拳をエルザは再び掴んだ。
「生きていけるのかい……? 大切な者を失ってまで……」
「フリックがまだ死んだと決まった訳じゃない!! それに私は言った!! フリックの前で!! 貴女を守ると――!!」
それは呆れだったのだろうか。大きく口を開けて呆然としたエルザの腹に遂にオデッサの拳は突き刺さる。痛みより先に笑い声があがる。オデッサの馬鹿さ加減と自分自身に対して。
――この子は……私じゃないのに……。
「アッハッハハハハハハ!!!!」
幸せを失くしたあの日より、初めてエルザは笑い声をあげた。そして思い知った。自分はどう足掻いてもオデッサには勝てないということを。
「あんたの馬鹿は死んでも治らないよ」
「いいわよ!! 反省しなさいっ!!」
座り込んでしまったエルザの頭にオデッサが拳骨を落とす。その顔は笑っていた。何年も付き合った気の置けない友人を許すように。笑いあう二人の前に、どうしたらいいのか、わからなくなった皇子達はそのままそこに立ち尽くした。ドタバタとしたキーロフの夜は更けていく。
不味いな、と呟いたサンチェスの思惑を裏切って。