私には将来なりたいものなんて何もない。
夢とか希望のことも考えたことがない。
十四歳の今までなるようになってきたし、これからもきっとそう。
だから、何かの事故やなんかで死んでしまっても別に構わない……と、生意気ながらもほんのちょっぴり思っている。
──なんて、そんなことを作文に書いたら先生に大目玉を食らのは見え見えなので、優等生の私は、「将来の夢」と記された授業課題に、無難に「スチュワーデス」と書き込むのでありました。まる。
夢と現実をそろそろ区別し出すお年頃。
ただの十四歳の子供がはっきりとした自分の未来像を描けるかといったら、それは恐らく難しいことで。
少なくとも現実味の溢れた夢に、私はまだ出会ったことがない。
自分のやりたいこととか、なりたいもの、未来の展望なんて、人生のスケジュール帳には未だ書き込まれていなかった。
でも、一つだけ。
将来についてはっきり言えることがある。
私は。
『科学者』なんてものには、絶対にならない。
△▼△▼△▼
『第三新東京、第三新東京──』
駅のアナウンスを耳にしながら私はホームを後にした。
第三新東京市。周囲を緑の山々に囲まれた高層ビルの群れ。田舎では一度も目にすることのなかった建築物が、私の視界を埋め尽くしている。
迎えが来る筈の待ち合わせ時間まで……あと、十分くらい。
「……何で、今更」
他人の耳に届けば、はっきりわかってもらえるくらい不機嫌な呟き。
私は手の中にある手紙を見下ろした。
ワープロで打たれた無機質な文字。報告書なんてものを連想させる文字の羅列は人間味の欠片も含まれていない。
『綾波レイ』宛ての手紙は、ただただ淡々と、端的に事務的に高圧的にこの第三新東京市にやって来るよう私に『命令』していた。
唯一の肉親から届いた手紙に、私は周囲の目もはばからず思いっ切り口をへの字にする。
響いてやまない蝉の声が、駅の前でぽつんとたたずむ私を包み込んでいた。
「貴方が綾波レイさん?」
「えっ? あ、は、はい」
整理のつかない感情にぐるぐるぐるぐる振り回されていると、女の人が声をかけてきた。
染められている金髪に、泣きぼくろ。とても美人で、その声音一つで知的な印象を窺わせる大人の女性。
もしかして、と思う私の心の動きを読み取ったのか、目の前の女性は凛々しくもこちらを安心させるように笑いかけてきた。
「特務機関NERV技術開発部所属、赤木リツコよ。貴方を迎えに来ました」
綾波レイ。
中学生。肉親は母親以外無し。人格は普通だと言われるように努力してきたつもり。
とある地方で身元引受人の庇護のもと今日まですくすくと育ってきた。
品行方正、八方美人。自分が自分のことを表すとしたらこんな言葉。礼儀正しく、程々に人当たりが良く、誰にも迷惑をかけないよう振る舞っている。
内向的とか自虐的とかそんな言葉とは一切無縁。「私は人形じゃない? 当たり前じゃないですかー」と言えるくらいには明るい性格。
友達もそれなりにいて、順風満帆とは言わなくても、何の波瀾も刺激もなく無為にこれからを過ごしていく……筈だったと思う。
先日届いた、この一通の手紙がなければ。
「じゃあ赤木さんは、母の部下なんですか……?」
「リツコでいいわよ。部下というのは少し語弊があるけれど、そうね、綾波ユイ副司令のもとで私は今の仕事を務めさせてもらっているわ」
サー、と四つのタイヤがアスファルトを駆けていく。
初めて乗る黒の高級車に体を揺らされながら、私は赤木リツコさんの横顔に問いかけた。
現在移動中。ついこの間まで縁のなかった高級感溢れる居心地に内心怖気付きながら、私はどことも知らない場所に送迎されていた。ちなみに運転手さんはいかにもといった黒服の男の人だ。
「混乱してる? 今貴方の置かれている状況に?」
「……ちっともしてません、って答えたら、子供のやせ我慢に見えますか?」
「少し微笑ましくは感じちゃうかしら?」
「じゃあ、混乱してます……」
「ふふっ」
リツコさんは結局おかしそうに微笑んだ。最初はその冷静然とした容姿からきつそうな印象を受けていたけど、話してみると意外に優しそうな人だった。
言葉の通り、少し普通じゃない状況に置かれている私のことを配慮して接してくれているのかもしれない。
いい人そう、と何の根拠もなく私はそう思った。少なくとも、何年も音信不通でいざ連絡が来たと思ったら、実の娘を強引にこんな場所へ召喚する母親より……ずっとマシだ。
「それとも、お母さんに会うことに緊張してる?」
「……いーえっ。ちっとも微塵も欠片も緊張なんかしていませんっ。誰があんな母親なんかにっ」
「くっ……あはははっ」
母親のせいで動揺しているなんてことは認めたくなかった。負けを認めるようで、癪だったから。
心持ち身を乗り出した私に、リツコさんは目を丸くした後、見事に吹き出してくれた。お腹なんかも抱えちゃってる。
……美人なのにそんな声を上げちゃって、はしたなくありませんかぁー?
負け惜しみ一つ。微笑ましい微笑ましいと笑われている私は、頬を赤らめながら恨みがましい目付きをしてリツコさんを睨む。大人のこういうところって、嫌いっ。
くそぅ、と貧相な胸の中で唸りながら、ぷいっと私は車の窓の方を向いた。
「ふふっ、ごめんなさいね、笑ったりなんかして。でもおかしくて」
「いーですよっ、別に。私、おかしいですから」
「うふふっ。じゃあ、代わりに私も教えてあげる。綾波副司令も、貴方と会うことにうろたえているそうよ。澄ましているけど、あれは絶対どんな顔すればいいか悩んでいる、ですって。私の母親、貴方のお母さんと付き合い長いらしいんだけど、そう言っていたわ」
「……」
リツコさんの方に振り返らないまま、私は流れていく窓の外の光景を見るわけでもなく眺めた。
記憶の淵におぼろげに残るまだ優しかった母親。
父が無くなった日を契機に人が変わってしまった母親。
泣きじゃくっている幼い私を、簡単に捨てていった、冷たいあの人の顔。
今、車の窓に薄く映っている相貌は、綾波ユイと呼ばれる人物のものと瓜二つだった。血が繋がっているから当然といえば当然だけど。
違いがあるとすれば、色素が抜けて青く見えるこの頭髪と、気持ち悪いくらいに真っ赤に染まるこの瞳。後は病的なまでに白いこの肌か。
綾波ユイを知る人達は、私を見る度に「お母さんにそっくりだ」と口を揃えるから、私は正直、自分の容姿が嫌いだった。
「……あの人は、こんな所で何をしてるんですか?」
娘を捨ててまで、とそう続けそうになるのを、私は少し苦労して堪えた。
「何を、とは一概には言い切れないわね。強いて言うなら、色々なことを、かしら。副司令の口から直接聞いた方がいいと思わ」
「……それじゃあ、もう一つだけ聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「こんな所に呼び出して、母は、私に何をさせるつもりですか?」
「……」
窓の外を見ながら、言う。
燦々と照りつける日の下を走っていた筈の車は、何てことのないように地下へともぐり、そして何てことのないように私の目へとんでもない景色を叩きつけてきた。
とても広い空間。地中にあるなんて思えないほど緑豊かなジオフロント。湖に、黒いピラミッド。
昨日までの世界とは、もう別世界だ。
そういえば。
子供の頃、『不思議の国のアリス』をいつも寝る前に読んでくれたのは、あの人だったんだっけ。
△▼△▼△▼
だから、科学者なんて嫌いなんだ。
「レイ。貴方にはこのエヴァンゲリオンのパイロットになってもらうわ」
血の繋がった実の娘に、巨大ロボットに乗れだなんて白昼堂々と言ってのけてみせる。
「これは貴方にしか乗れないの」
自分で呼び出しておいて、もっとこう、他に何か言うことがあるんじゃないの?
「拒否は許されないわ。貴方には人類の存亡がかかっている」
だから、科学者なんて、嫌いなんだ。
ジオフロント内に建設されてあった施設に運ばれた私は、リツコさんの案内でこのゲージと呼ばれる場所に連れてこられた。
そこで私が目にしたものは紫色の巨人。エヴァンゲリオン、なんて言う巨大ロボットだった。
「実物を見た方が早い」なんて今まで何の説明もしてくれなかったリツコさんの言葉を、私は遅まきながら理解する。こんなものを見せつけられた後なら、『使徒』だとか『サードインパクト』だとか、そんな荒唐無稽な話も受け入れられる余裕も生まれてくるから。
少なくとも、今更手の込んだ悪戯だったなんて期待することはできない。
ともかく。
機密の関係でまだ話の全容は語ってもらってないみたいだけど、人類のカウントダウンっていうものが迫っていることは、不本意ながらも半疑ながらも呑み込むことはできた。
だけど。
「私が、こんなロボットに乗れる筈ないでしょう!?」
わけのわからない敵と戦ってこいだなんて言われても、ハイわかりましたと了承できるかは別問題。
真正面、大した距離もない場所で立っている人物。
私と同じ顔に、ダークブラウンの髪。本当に十四歳にもなる娘を持つ母親かと問い詰めたくなるほどの若々しさを秘め、白衣を着こなすその様はいかにも科学者と言うような風貌。
顔色をちっとも変えない──まるで人形のような私自身と向き合っているようだ──実母、綾波ユイに私は食ってかかる。
「今までほったらかしにしていた癖に! 馬鹿げてるわよ、おかしいよっ! こんなことのために私を呼んだの!?」
「貴方が何を考えているのか知らないけど、事態は貴方が思っているよりも深刻よ。個人の一感情なんて些末に過ぎないほどに」
「っ……!」
「──それと、これは人造人間。ロボットとは違うわ」
「知るかっ!!」
絶対っ、ぜーったいっ、私は科学者なんてならない!
馬鹿げた理不尽に対する怒りも相乗して、変なこだわりを披露する母親に唾を飛ばす。通っている学校の人達が今の私を見たら口を半開きにするかもしれない。私は俗に言う優等生だったから。私自身、こんな乱暴な感情を抱えていたことに驚いているくらいだ。
私は眦を吊り上げて母を睨みつけた。
「……私が、お母さんの子供だから? 私がお母さんの娘だから、だから私はこれに乗らなきゃいけないの!?」
「そうだとしたら、どうするの?」
「それならっ、私はお母さんの娘になんかなりたくなかったっ!!」
私の大声がゲージに鳴り響いた。
私達の他に居合わせるリツコさんと、彼女の母親の赤木ナオコさんは、見開いた目で私を見つめていた。
私の癇癪が辺りから音を奪って、少しして。
静寂を破るように、母は表情を崩さすに言った。
「言いたいことを言ったのなら、現実を受け止めなさい。貴方が私の娘であることは変わらないし、エヴァに乗らなければならない事態も動かない」
「……!」
「さっきの答えは一応、ノーよ。私の娘でなくても、エヴァを操れるのはレイと同世代の子供達だけ」
いっそ酷薄なまでに母は事実を淡々と突きつける。
身を切るように振り絞って出した言葉だったのに、お母さんは、てんで応えてないようだった。
胸が痛んだのなんて少しの時間だけ。すぐに茹るように頭がカァッと熱くなる。
「どうしても駄々をこねるようなら無理強いはしないわ。先生の所へ帰りなさい」
「本当に帰るって言ったら、どうするのっ……?」
「失望するかしら」
この、人はっ……!
顔が自然とうつむき、唇を噛み締める。握った手が小さく震え続けた。
泣きたいのか、私。
「……答えは今日中に出しなさい。赤木リツコ博士、後はお願い」
「はい……」
ナオコさんを引き連れて静かにゲージを出ていく母の背中を、私は仇のように睨みつけた。
そしてその後、さっきから黙ってこちらを見つめているエヴァの顔を、私は泣きそうな目で見上げ続けた。
△▼△▼△▼
「その場で即決してくれるとは思わなかったわ」
「……私にも、もう何だかよくわかりません」
スパゲティをくるくるとフォークで巻きながら、私は答えた。
まばらとしか人影のない広い食堂で、私達は今少し遅めの昼食を取っている。
リツコさんにはエヴァに乗る意思を告げた。意思と言えるほどまともなものなのか、全然判断がつかないけど。
私の返答にリツコさんは苦笑して、湯気の立ちのぼるコーヒーを一口すすった。
「お互い、難しい母親を持つと苦労するわね」
「お互い……?」
「私もね、母さんに少なくないコンプレックスを抱いているわ。幼い頃の境遇も、レイちゃんに似てるかしら?」
自分のこともレイと呼んでいいと告げながら、私はリツコさんの話に耳を傾けた。
「天才と言われる母さんと常に比べられるのが悔しくて、張り合うように生きていたら、結局あの人と同じ研究者なんてものになってた。不思議よね、研究に没頭していた母の背中をあれほど忌み嫌っていたのに」
「……」
「でも経緯はどうあれ、母の立ち位置に少し近付くことで、わかったこともあるわ。少なくとも一方的な不満っていうものは今は抱けない。大人になった、と言えばそれまでだけど」
リツコさんは私の不安を断ち切るように続けた。
「老婆心ながら言わせてもらうと、今ここで逃げ出したら、レイ、貴方は副司令のことを一生わかってあげられないと思うわ」
「……別に、わかりたくもないです」
「ふふっ。でも、一生溶けないわだかまりを抱えて生きていくなんて嫌でしょう? だったら、ロジックなんかで誤魔化さないで、思いきって感情のままぶつかりなさい」
自覚はなくても後悔したくないから、私はここに残る選択をした。
リツコさんは私の胸の内をそう指摘した。何だか複雑な気分になりながらも、私は黙ってつるつるの麺を口の中に運ぶ。
私達、似た者同士なんだ、と。
実の姉のように笑ってくるリツコさんをこっそり一瞥しながら、そんなことを思った。
「えっと、じゃあ……この後のことなんですけど、私はどうすればいいんですか? 住む所とか、学校とか……」
「心配しなくていいわ、全ての手続きは私の方で済ませておくから。住居は……レイが望むなら、綾波副司令と住めるよう手配できるけど?」
「お断りします」
ぴしゃりと即答した私に、リツコさんはまた苦笑する。
それからリツコさんは、エヴァのパイロットとしてやるべきことなんかを簡単に教えてくれた。
訓練のことだったり、機密保持のことだったり、色々。
漫画で出てくるような怪獣と戦うことにまだ実感は湧かないけど、自分の立たされた状況を詳しく聞けば聞くほど、役に立たない後悔がこみ上げてくる。
すごすごと大人しく帰っておけばよかったかな……。
「使徒襲来が予測される八月某日まで約一ヶ月、貴方はEVA初号機専属パイロット・サードチルドレンとしてNERV本部に缶詰になると思うから、そのつもりでいて頂戴」
「え……い、一ヶ月っ? 一ヶ月しかないんですか!?」
「事実上、一ヶ月もないと考えてもらっていいわ」
短すぎないですかと驚く私にリツコさんは説明してくれた。何でも、私とは別のパイロットがエヴァの起動テスト? とにかく実験中の事故で大怪我を負ってしまったらしい。つまり、私はピンチヒッター、そのパイロットの後釜ということだ。
ううーん、確かに土壇場になって「来い」とか言われて呼び出されて「乗るなら早くしろ、でなければ帰れ!」なんて言われる無茶苦茶な展開よりマシだけど……。
しかも大怪我するような訓練、するんだ。
やっぱり、早とちっちゃった、私?
「あの、リツコさん、今そのパイロットってどうしているんですか……?」
「どうだったかしら。昨日までは絶対安静で寝たきりの筈だったけど」
……怖いよぉ。
「気になるんだったら、お見舞い、行ってみる?」
「えっ?」
「同僚になる子に、会いにいってみるかって、そう聞いているの」
リツコさんは少し意地悪そうな顔でそんなことを言ってきた。
こんな顔もできるのかって、私は意外に思った。
△▼△▼△▼
そうして、リツコさんと一緒に来た病棟には。
「お母さん……」
先客がいた。
陽だまりのできる廊下の窓辺。私には向けられなかった温かな笑みが、一人の男の子に向けられている。
頭も、首も、顔も、真っ白な包帯で巻かれた痛々しい姿。
左腕には大きなギブス。
薄手の病院服に包まれる体の線は、今にも折れてしまいそうなほどに細かった。
まるで親子のように見えるその光景を、私は近寄ることもできず遠くから見守る。
リツコさんはそっと、男の子の名前を教えてくれた。
「あの子がファーストチルドレン。碇シンジ君よ」
緩やかな風が窓一枚隔てた外で吹いた時。
母親の笑みからゆっくり視線を外した瞳が。
黒い黒い輝きをもって、私のことを見つめてきた。