空が白い。
最早騒音に近いほどのタイヤの摩擦音とエンジンの駆動音が徐々に遠のいていく。そんなに慌てなくてもいいから静かに走って欲しい。あんなうるさい音を出して何が面白いのだろうか、引き篭もりには理解できない。
残ったのは静寂。深深と降る雪はとても美しくて、明るい空が割れて粉々に散っているように見えた。ぼやけた視界でも十分に幻想的だったその光景は私の最後には少々勿体無いと思ってしまう。ただ、ぶつけられた拍子に鼻がやられたのか鉄寂びた匂いしかしなかった。これこそ勿体無い、こんな美しい光景は二度と見れやしないだろうに。一体どんな匂いだったのか……匂いなどある筈が無いか。
赤い血に濡れた服越しに背中が冷たくなるのが分かる。こんなに濡れてしまって、明日は風邪をひいてしまうのだろうか。
酷く、冷静だ。誰でもない自分が。私は、そうだ轢かれたのだ。なんとも喧しい車だったが生き物を轢くのはいただけない。私だけでなく猫も駄目だ。
久々に家をでてみればこの様。愛くるしい猫に命を差し出すとは、私も末期か。何の末期なのかは知らんが。
思えば黒猫だったような気がする。黒猫、なんと縁起が悪い…。まさか人を殺すまでの縁起の悪さとは恐れ入る。流石黒猫。
今や社会に何の貢献もしていない私が猫とはいえ命をかけて助けるなんて思いもしなかった。人間何をやらかすか分からないものだ。
首が動かせない私の視界の外で、猫がか細く鳴いたような気がする。
それが心配してくれているように聞こえて、私は思わず笑顔になってしまう。私を看取るのが猫一匹とは、神様も粋なものだ。三途の川の渡し賃は確か生前どれだけの人に想われたか、らしいが、私ではこんなものだろう。一銭ではどう考えても河に蹴落とされてしまう。
それでも。
まだ鳴き続けてくれる猫には悪いが、中々良いものだ。何かを助けて死ぬなんて私の人生の幕引きには立派過ぎだ。頑張って生き続けてきた老人方には悪いが、私にとっては大往生。
終わり良ければともいうが成程、悪くない人生だった。
どうやら限界のようだ。終わりというのはこんなに清清しいものなのか、なにかから解放される感覚。天から降り注ぐ白い光は見えなくなり、私は吸い込まれるような強烈な流れに身を任せた。私の身体はどんどんと遠のいていき、黒猫はこちらを向いて悲しそうに鳴いていた――。
*
気がついたら何も見えなかった。暗いとか、黒いとかそういうものではなく、見えないと分かるような闇が広がっていた。なぜ私が自我を保っているのか不思議な程に透き通るような世界。見渡すという行為も行ったのか行っていないのか分からなくなってきた。
そんな不安定になりそうな世界に、一つだけ小さな光が灯った。ありがたい、あれを基点にすれば。そう想った瞬間、その光は驚くほどの速さで広がり、大きくなって世界を呑み込んでいった。そうして私も呑み込まれて――
鬱蒼と生えた木々が見えた。急いで身体を起こして自分の身体を確かめると、腕が二本、足が二本。ただし肉体全て骨。意味が分からなかったが自分の顔を確かめるのが先と思い、手で顔に触れる。触れたはずだが感触はしなかった。これではよく分からない、麻痺でもしているのだろうか。というか骨に触覚などあるはずなかった。やはり混乱しているらしい。
仕方なく辺りを見回すと、木々が見える。木々が見える。木、木、木。辺り一面ということは、ここは森の只中なのだろう。少し不安になってきた。
手元には斧。無骨で、木こりが使うような斧だ、多分。木こりなんて会ったことないから判らないが、漫画とかではこんな感じだったような。
ためしに拾ってみると、ひょいっ、と案外軽く持てた。骨だけでは支えられないはずなのに不思議なものだ。
……いや、不思議なものだ、じゃない。何を言っているんだ私は。骨だぞ、骨になるなど…いやはや、現実は小説よりも、とはよく言ったものだが……これは少々度が過ぎているような。この分では顔もどうせ頭蓋骨一つだろうて、まるでスケルトンにでも転生したかのようだ。
いやそうか、私は魂だけとなり、どこかの骨に憑依でもしたのだろう。とりあえずそういうことにしておく。一度納得すれば気にならないものだ。
手持ち無沙汰というか、わけが分からな過ぎて何をしたらいいものやら。斧で肩の骨をとんとんと叩く、骨は砕けない。さてどうしたものか。
……とりあえず、この身体は睡眠できるかどうかは分からないが、寝ようか。
明日から頑張ろう。