令呪の兆しがこの手に現れてからまもなく一年が経過しようとしている。
冬木の地に満ち始めた魔力の気配も以前の比ではない。いよいよこの地において四回目の聖杯戦争が始まろうとしているのだ。
七人の魔術師と七騎のサーヴァントにより行われる文字通りの戦争。その備えをこの一年間、いや、それ以前から行っていた俺にとって充分すぎる準備が整っている。むしろ此処数ヶ月は逸る気持ちを抑えることに苦心する時間の方が長かったほどに俺は焦がれに焦がれていた。
「……もう、頃合だな」
間桐邸の二階に設けられた簡易な魔術工房の窓を開き、深呼吸をするとそれだけで大気に満ちるマナを感じることができる。
「カリヤおじさ……じゃなかった。カリヤせんせい!」
これから始まる凄惨な激闘を予感させない心地良い日差しを浴びながら空を見上げていると魔術によって閉ざされていた工房の扉が開かれ、元気な女の子が満面の笑みを讃えて飛び込んできた。
「今は講義中じゃないからおじさんで良いんだよ、桜ちゃん」
「はい! わかりました、カリヤおじさん」
俺の言葉に声量を落とさずに頷いた女の子、“間桐 桜”は呼吸をわずかに乱しながら背中に大き目のリュックサックを背負っている。
締まりきっていないリュックの口から稚拙な造形の人形の頭がいくつかはみ出ている。リュック自体がデフォルメされた愛らしい動物の形状をしているため、その口から首だけがはみ出ている様は見ようによってはとてもシュールなモノがある。
「忘れ物はないかい? オモチャだけじゃなく、宿題もちゃんと忘れていったら駄目だよ」
「わすれてないよ。カリヤおじさんにいわれたのはちゃんとバッグにいれました」
そう言う間も桜はリュックの脇バンドを握り締めて元気の余り過ぎた兎のようにぴょこぴょこ跳びはねている。
「それじゃあ、これからお世話になる禅城さんのお家についたらどうするかちゃんと覚えているかい?」
「おぼえてるよー! 『わたしは、マトウ 桜です。おせわになります。よろしくおねがいします、おじいさま! おばあさま!』」
「よろしい。それじゃあ、二週間くらいになると思うが先方に御迷惑をかけないようにするんだよ」
「はい!」
桜は再三にわたる俺の確認事項にも面倒がらずにしっかりと応える。
この一年間、桜に対する魔術の指導は基礎中の基礎だけに絞っていた。桜は魔術的には実の両親の素養を正しく受け継いでいるため、素晴らしいの一言だが、まだ肉体的に未熟すぎるため過度の魔術使用は物理的な成長を阻害しかねない。奇跡に等しい架空元素の資質を持つ桜は強引に型に填めるよりも自由な精神性を持たせた方が良いと判断し、マキリの基本属性たる水を使った流体操作を遊びを交えた方法で修練させている。基礎の習熟が完了すれば、本来の架空元素を用いた簡易ゴーレムの生成と操作を教えていくつもりである。
ようやく小学校に上がる齢にしてその才能の片鱗をいくつも見せ始めている桜は教える側としても気持ちが良い。この間桐邸に種類の異なる魔術により閉ざされた扉をいくつも用意しているのだが、この一年で桜はそのすべてを一般人がドアノブを回して扉を開くのと変わらない感覚で易々と開いている。そのような状況なので、今回の戦いが終わったら違う術式で鍵を作り直すつもりだ。
まさか俺が人にモノを教える日がくるなど思いもしなかったが、それほど悪いものではなかった。例によってなかなか情を抱くことができていないが、目に見える形で魔術師として成長していく桜を見ているのは面白い。言い方は悪いかも知れないが、ゲームをしているような感覚があった。このゲームの最も面白いところは、桜と同じくらいに優れた資質を持つ存在が、別の誰かにより育成されているという部分にある。
「……余分だな。桜は聖杯戦争が始まるまでの紛わせだろうに」
聖杯戦争こそが俺を充たしてくれる最高のゲームだ。
それを楽しむ為に俺は桜を禅城の家に送った。聖杯戦争の期間中は、遠坂 葵と遠坂 凛の二人も禅城家に避難するということを知っていた俺は、予め時臣に連絡を取り、葵たちが禅城に避難する際に桜も一緒に連れて行ってくれるように願い出ていた。正史と異なり、間桐と遠坂の間に不可侵のきまりはないため、時臣は特に気にすることなく承諾した。
門前まで桜に付き添い、迎えに来た葵に「桜を頼みます」と簡単な挨拶だけを伝えて戻るつもりだったが、葵は桜を車に乗せると1人車を降りて俺の前に立った。
「雁夜君は、あの人を……殺すつもり、なの?」
車の中で楽しげに談笑を始める娘達に聞こえないように葵は小声で呟いた。
それは同じように聖杯戦争に参加する遠坂時臣を俺が優先的に排除しようとするのではないかという良妻の可愛らしい気苦労を向けられ、俺は呆れたようにため息を吐いた。
「聖杯戦争では、マスター殺しが最も効率の良い作戦なのは確かだ。けれど、それだけでは俺の目的は達せられない。貴女の夫を狙わなくとも強敵はいくらでも居る。俺はね、葵さん。勝ちたいんじゃない、戦いたいんだよ。それにこれまでも何度か言ってきたけど俺は、貴女を奪いたいと思ったことは一度もない。それだけは覚えておいてもらいたい」
「雁夜君。貴方は――」
葵の言葉は最後まで耳に入らなかった。
必要のないモノだと思った俺は、車の中から手を振る幼い姉妹たちに応えてから踵を返して間桐邸へと戻った。
今夜はいよいよサーヴァントを召喚することになる。
現段階ならまだ幾分かの選択肢が残されているが、俺はあえて正史に則ったやり方で行こうと決めていた。時臣に召喚されるギルガメッシュに【単独行動】のスキルを持たせないためにもアーチャーのクラスに該当するサーヴァントを召喚した方が良いのだろうが、それにはその英雄に縁のアイテムを手に入れなくてはならなくなり、ひいてはそこから俺が召喚したサーヴァントがどの英雄であるかを看破される可能性が出てきてしまう。サーヴァントの正体を秘匿するためにも正史通りの召喚を行った方が良い。手違いさえなければ、少なくとも最強クラスのサーヴァントを召喚できるのだ。わざわざ危険や余計な手間をかけるよりも、闘争のための準備を整えることに労力を割いた方が何倍も良いのだ。
「聖遺物を用いずに召喚するとなればまさに運頼みということになるが、良いのか? 雁夜よ」
間桐邸の地下空間に構築された蟲蔵の一区画を区切ってひとつの巨大な召喚陣を描き出している。
最初にこの区画を訪れた臓硯は戦慄を覚えたと言う。そのような評価は俺にとって無意味でどうでも良いことであったが、“これ”のオリジナルを作り出したマキリ・ゾォルゲン自身の太鼓判を押されたことからも自分の術式が間違っていないことを改めて確信することができたことは気休め程度には役に立った。
「構いませんよ。俺が召喚できる英雄は純正であるはずもない。それでもあえて真っ当な英雄を召喚しようとするならば自ずと答えは限られてくる」
「……雁夜よ。貴様、死ぬ――いや、おぬしならば或いは……」
俺の意図を察したのか、臓硯は静かに召喚陣の外に“退避”した。
一区画を縦横に奔る召喚陣は血管のように脈打ち確かな鼓動を刻んでいる。それは俺の心臓の鼓動とリンクしており、縦横に奔る召喚陣はこの身に宿った令呪を強化するための特別な術式だ。この術式は令呪の使用回数を増やすという無粋な代物ではない。マキリの禁呪たる“制約”を用いた令呪加工術式。俺が召喚するべき英霊を使役するためにも必要な保険のようなものだ。
「告げる――」
一言呟いた瞬間に召喚陣が毒々しい鮮血の輝きを放ち始める。
完全に隔離してあるこの一区画を取り囲む結界の向こうからマキリの蟲たちが恐れ慄く様が令呪を通して伝わってくる。
俺が日本に帰還してからというものマキリの蟲たちは俺の魔力に中てられ、半分以上が変異を来たしている。それほどまでに俺の魔力はマキリの“業”に浸透しやすく、マキリの“業”を侵しつくす劇薬だったのだ。
「――告げる。
汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ――」
体内を脈動する魔力の感触が、地下空間全体に広がっていく。
それは俺に侵食された蟲たちが召喚陣に捕らえられ、サーヴァント召喚のための贄として食い潰されていっているのだ。
間桐の魔術は“吸収”。その特性に従い、間桐雁夜というピストルに込める魔力という弾丸として蟲たちが喰われている。
蟲たちにとって、俺は残虐無比の暴君だった。虐げ、砕き、潰し、食む。共存などありえない、共生など許さない、従わぬならば絶滅せよ。それが俺とマキリの蟲たちとの関係だ。これまで臓硯に示されるがままに間桐の魔術師を犯してきた蟲たちは“新たな当主”である俺に屈服した。マキリの魔術により育まれた蟲たちは、意思がないからこそ覆せぬ条理を前に変革を余儀なくされた。
「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者――」
蟲たちの精気だけで足りるはずもなく、大気よりマナをも取り込む。その様を間近で見守っている臓硯の感想は「まさしく暴喰じゃのう」という呟きにすべてが込められていた。神秘を成すに一つの機構と化した肉体が軋みをあげる。
呪文の中途に『狂気』の属性を付与するための二節を挟む。
「されど汝はその眼を混沌に曇らせ侍るべし。汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者――」
たった二節。『狂気』の属性を刻み込む二節を唱えただけで多くの蟲から断末魔が搾り出された。
脆い。潰れた蟲たちはあまりにも脆すぎる。人の肉である俺の身体ですら耐えることができる苦痛に押し潰されるなど許されない失態だ。儀式が終わったら潰れた蟲と同系統の蟲は処分しよう。マキリ・ゾォルゲンの肉体を取り戻した臓硯ならばもっと強靭な蟲を生成できるはずだ。臓硯には、この一年間は次の肉体を生成することに集中させていたのだからそのくらいの些事はしてもらわなければ。
「――汝、三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ」
呪祷を結び終えた瞬間、床や壁に広がっていた召喚陣が空間より引き剥がされ、俺の身体へと逆流してくる。
それと同時に召喚陣の中央に黒い稲妻が渦巻き、闇より深い漆黒を纏った超常の悪鬼が降臨する。
マキリの“制約”による狂化の強化。
お前の手綱を握っているのは、貴様が望む“性”を持つ男だ。存分に狂え、際限なく暴れろ、敵がある限り共に破壊し尽くそう。
「ar……er■■■■■■■■■■■■ーッ!!」
かつて『完璧なる騎士』と讃えられた面影を失くし、誰に向けるべきかさえも判然としない狂気に染まりつくした『バーサーカー』の咆哮が今生への産声だった。