「ハァ、ハァ…………到着ッ」士郎さんたちに会った時よりも荒くなった呼吸を宥めながら立ち止まる。国守山。それがこの山の名前だ。海鳴の町は古き良き観光の町としても知られており、海鳴にある山は基本的には私有地か観光地のどちらかしかない。私有地は原則として一般人は立ち入り禁止。観光地は大概の場合は人が必ずいるため、修行に利用するわけにはいかない。自宅で堂々と修行する訳にもいかず、どうしたものかと困っていた数年前のある日、僕がランニング途中に偶然見つけたのが、自宅から片道1時間半の場所にあるこの『国守山』だ。この山も海鳴にある他の山と同様に私有地ではあるものの、所有者が一部を一般開放しており、その敷地の一部が丁度いい具合に開けた広場になっているのだ。町の中心地からもかなり遠く、特に観光地として整備されている訳でもないため、人が来ることも滅多にない。そんな訳で、この広場は僕がよく利用する修行場となっていた「これで良し、と」目の前の木に符を張り付ける。周りを見ると目の前の木の他に3本の木があり、同様の符がそれぞれに張り付けられていた。上から見ると、ちょうど広場を正方形で囲む形になっていることだろう。僕はそのまま正方形の中央の立つと、右拳を握った状態から人差し指と中指を立てて、刀印を結ぶ。「青龍、白虎、朱雀、玄武、空陳、南寿、北斗、三体、玉女───急急如律令」呪を唱えながら刀を象徴したその手で素早く四縦五横の九字を切る。イメージするのは、世界の切り取り。と、キンッと小さく甲高い音とともに4枚の符に白い光が灯る。周囲の世界が閉じる感覚。国土結界。密教に伝わる結界であり、四方に配置された符を基点に魔障の出入りを禁じることに特化している。なんでも、比叡山や高野山の結界もこの『国土結界』らしい。もっとも、いま僕が使っているのは人払いの意味合いが強いのだけれど。『ふむ、結界の方はもう及第点かの。とは言え、本来は符に依ることなく発動するのが理想。故に評価としては“まだまだ”じゃのう』結界の中央に立つ僕の横でプカプカ漂っている葛花が酷評を入れる。「わかってるっての。でもいろんな術を同時進行してんだから、どうしても一つ一つの練度は落ちるもんだって」『同時に手を出し過ぎて初期は使いものにならず、昔は霊障に出くわすと即座に回れ右で走り去っておったの』着物の袖で口元を隠しながらクスクスと含み笑いする葛花。くそう。人の情けない過去をいちいち蒸し返しやがって。これだから四六時中一緒にいる奴は。迂闊に失敗もできやしない。お前、実は僕の背後霊じゃないだろうな?そんな葛花を無視して、僕は背負ってきた鞄からあるものを取り出す。取り出したのは白い面。葛花と出会った日に木箱の中にあった、あの狐の面である。面は軽く、持ってみると硬い感触が手に伝わる。名称も特に無いらしく、僕もクズハもそのまま『狐面』と呼んでいた。面の細部に引かれる朱は下品にならぬよう必要最低限であり、その顔に映し出される白い狐の表情は、眼を細め、口元は弧を描いて満面の笑顔を称えている。「じゃ、今日もよろしく頼むな、葛花」『心得た』僕は面を彼女の前に差し出しながら葛花の簡潔な了承を確認すると、そのまま面を彼女の胸の中に埋め込んだ。ずぶずぶって感じで。僕の手が彼女の膨らみに乏しい胸を貫いているように見えて、見た目の猟奇度が半端ない。と同時に、僕の口から呪が紡がれる。───我が真名は和泉春海。汝を使役し汝が身を繰る者也。紡がれる呪と同じくして、葛花に埋め込んだ手を通して『力』を注ぎ込む。普段念話を行なうために通す経路(パス)と同じ要領のものをこの瞬間のみ物理的に押し広げ、純粋な霊力を供給する。すると。ボゥと、葛花に埋め込んである自身の手を中心に、陰陽五行を司る五芒星《セーマン》が現れた。それを目で確認しながら、僕は呪を唱え続ける。───古よりの約定に従い、汝が身、其の霊魂尽き果てし其の時まで、我と共に在れ───急急如律令と。葛花の存在感が急激に増してくるのが、それこそ霊的な感覚ではなく直接触覚で感じられ。『……ん」目の前の幼女の悩まし気な声を聞き流しつつ、僕はゆっくりと彼女の胸中から右手を抜き去る。「どうだ?感じは」「大事ない。些か荒いが修正範囲内じゃ」「ん。……やっぱまだ荒いか?」「『あいつ』と比べておるからの。現時点ではどうあっても見劣りは仕方なかろ」「これもまた要練習、か」「そういうことじゃ」地を踏みしめて立つ葛花は手をにぎにぎしながら告げる。僕は彼女の足元の目を向けると、草がほっそりとした葛花の裸足に踏みつけられ、ひしゃげていた。“ひしゃげている”───そう、今の葛花には実体があった。秘術 霊魂降ろし《ミタマオロシ》対象の霊にとって縁が深いモノを媒介に“氣”を用いて外郭を創り、霊体を顕界に実体化させる秘術。その際の霊の存在力は術者が最初に注ぎ込んだ力の量に比例し、術者と交わした約定を果たす者となる。「…………………………………」オーバーソ○ルですね、わかります。…………いや、厳密に言えばあの技とも違うんだけどね。別に武器になる訳じゃないし、他にもいろいろ制約あるし。でも元ネタは間違いなくアレである。だって書いてたし。「オーバーソウル!葛花 in 狐面!」とか叫んだ方が良いのかなぁ?ちなみに普段の霊体でも物に触れられない訳ではない。霊力をある程度もっている霊ならば小石程度の重さの物なら持てるらしい。それでも滅多に居ないらしく、僕は葛花以外に見たことはないけど。「では、始めるとするかの」「ん」まあ、何時まで経っても不思議に思おう術の概要は置いておいて。そう言って、僕と葛花は15メートルほどの間隔を開けて向かい合う。───左に跳ぶ。数瞬遅れて、さっきまで僕が立っていた場所を、あるモノが高速で通過する。ただ、僕自身が『それ』を確認する暇はない。すぐに次がやってきた。僕の進行方向を塞ぐように真上から落ちてきたモノをバックステップでかわすと、地面に激突したそれが、舞い上がる砂埃を掻き分けて地面スレスレを薙ぐようにして迫る。僕は跳躍前転の要領でそれをやり過ごして着地。今度は此方に向けて矢の如く一直線に伸びてくる。目標は僕の頭部。僕は地を這うように上体を倒すと、体が完全に倒れきる前に右脚を強く踏み出す。そんな極端なまでの前傾姿勢を維持したまま、自分の頭上を高速で通過するモノを気にすることなく、其のモノの発生地点───葛花に向かって一気に駆け抜ける。前方の葛花に目を向ける。僕を強襲してきたのは、彼女の背後から伸びた───9本の尾。その一本一本が鉄のように硬質化しており太さは直径10センチ程度。中には剣状のモノもあれば、槍の如く鋭く尖ったモノもある。流石に9本同時と云うのは今の僕では無茶が過ぎるので、今はそれらを4,5本同時に相手にしているのが現状だ。始めた頃が一本だったことを考えれば、これでも成長しているのだけど。この修行光景を見た者はやり過ぎだと言うだろう。……うん、ごめん。全力で同意します。でも葛花がやると言った以上、今のところ弟子的立場にある僕は従うしかないのである。所詮この世は弱肉強食なのだ。……葛花が絶妙に手加減してくれてるから続けられるんだけどね?今までこれで大怪我したはことないし。その程度の信頼関係は一応あるのだ。ちなみに9本の尾とは言うものの、それは別に葛花の正体が『九尾の狐』だった、とかではない。葛花自身の尾は真っ白なものが1本だけだ。今の9本は「狐の妖怪変化」よろしく、『変化の術』による変身である。まあ妖狐の尾の数はそのまま本人の力の強さを表しているため、僕が相応の力を注げば数も増えるらしいが……今の僕では倒れるくらいに限界まで注いでも、3本がやっとだろう。『本来の変化は自分全体の姿を変えるものだが、儂ほどの妖狐にもなると部分変化もお手の物』とは葛花の談。おまけに既存のものであるのならば、無機・有機を問わず、如何なるものにでも変化できるとか。ただ鉄や石の類ならともかく、レアメタルや電化製品などの葛花にとって理解不能なモノには流石に無理らしい。前方の葛花に意識を集中する。彼我の距離は残り5メートルほど。そのまま葛花まで到達できれば僕の勝ちなんだけど……流石にそう簡単にはいかないか。葛花が引き戻した5本の尾が上空から僕を強襲した。地面に等間隔で突き立つ鉄尾の群れの中を、僕はジグザグの軌道を描きながら紙一重で避け続け、(1……2、3……4……)───避け切る!(よし、5本全部!これで───ッ!?)油断。現在の鍛錬のノルマである5本をかわし切ったことで、他の尾の存在を失念していた。右上から叩きつけるように迫るのは“6本目の鉄尾”。左右に避けている余裕は───ない。「───フッ!」咄嗟にそれを跳躍でかわす。しかし、足元で轟音を立てる鉄尾に戦慄する暇もなく、真正面から再度一条の鉄尾が槍の如く迫る。現在僕がいるのは空中。避けようにも足場はなく、満足に身動きもできない完全な死に体。脳裏によぎるのは、迫る尾に叩きつけられた僕。(───焦るな、集中しろ。目線を反らすな)僕は始める前に左腕に巻いたホルダーの1つから、符を1枚取り出す。それはあらゆる物理干渉を防ぐための、四縦五横に急急如律令と書かれた、一枚の護符。それを前に掲げて力を込め、現れるのは───符を基点とした1枚の障壁。こいつで葛花の鉄尾を受け止める。たが真正面から受けたのでは、子供で体重の軽い僕は吹き飛ばされるのがオチだろう。だから障壁を尾の側面に接触させ、そのまま自分の腕を振り抜くことで尾の軌道上から───自分を引っこ抜く!ガキンッ、とやや甲高い音とともに障壁と鉄尾が接触。が、やはり空中での急制動に体が付いていけず、着地の瞬間に体勢が崩れた。そして、目の前に突きつけられる剣尾。「ここまでじゃの」「ハァ、ハァ……くっそー」僕は息も荒いまま地面に大の字で転がった。「6本目なんて聞いてないぞ…………って言うのは、言い訳なんだろうなぁ」「当たり前じゃ。死合いの中に汚いも何も有るものかよ」言いながらとてとてと近づいてきた葛花が、寝転がったままの僕に再度言葉を紡ぐ。「やはり身体強化の術式は急務じゃの。反応速度と体捌きに身体が付いて行っておらん」「……だな。体が貧弱じゃあ、どんな動きしたところで質量に押し潰されるだけだしな。……符を使わない術式はまだ苦手なんだけどなー」「それと何かエモノもじゃな。攻めるにも守るにも、乱打戦の中で素手でいちいち符を掲げておったのでは時間が掛かり過ぎる。今のお主はただでさえ身が貧弱じゃ。一瞬の遅れが致命傷となるぞ」「エモノ……ああ、武器か。……そうだなぁ。たださぁ、剣とかって振り回して上手くなるもんなのか?『前』の時は喧嘩なんかは全部素手で、武器なんかは持ったことがないんだけど」一応、それなりの攻撃手段は考案しているのだが、まだまだ実戦では扱いがな。「儂は武器の扱いに関しては門外漢じゃぞ」胸張って言うな。「お前、根本的なところで動物だもんな……」弱肉強食を地で行く奴なのである。ともあれ、やっぱり最優先は武器と身体強化か。身体強化の術式は、今の僕の力量では発動までに時間がかかる上に、持続時間も短い。実用段階までは最短でも数カ月から半年はかかる。ここは精進あるのみだな。ただ、問題はやはり武器だ。さっきも言ったように、僕や葛花は武器に関しては完全に専門外。こればっかりは術書に頼るわけにもいかない。誰か師が、せめてアドバイザーが必要になってくる。「まあ、無いものねだりをしても仕方がない、か。武器に関しては、夜にでもまた検討してみようぜ」「ま、よかろ。術式の修行も怠らんようにの」「了解了解、っと」話しながら、足を振り上げ反動を付けて勢いよく立ちあがる。「まずは、今あるモノを伸ばすとしますか」修行再開、ということで。その後葛花と改めて二十回ほど様々な距離でやり合い、本日の勝率は3割ほど。それから符の投擲練習と陰陽五行の修行。午後からは士郎さん達との約束があるため、11時前には修行終了。修行場の後片付けを終え、僕はランニングをしながら帰路に着いた。このとき、僕は予想もしていなかった。この後、たった今話していたばかりの師の存在が現れることを。(あとがき)はい、今回は前回述べた通り「春海の修行の一部」となりました。……いやもうホントごめんなさい。作者の貧困な発想力ではこんなモンしか思い浮かびませんでした。てか、肉体鍛錬しかしてねえ。どこが陰陽師なんだよコイツ。というか術の訓練って何やるんでしょうね。座禅や精度くらいしか作者には思い浮かびません。あと、主人公の技が出てきましたね。はいオーバーソウルです。「お前これやりたかっただけだろう」と思った読者の方。あなたは正しい。これがしたかっただけです。ただ、オーバーソウルとは言っても、別にこの世界に巫力だとかがある訳じゃありません。あくまで「リリカル」と「とらハ」の世界観で可能と(作者が)思うことだけです。そういう考えでいけば、今回出ていた「氣」や「霊魂降ろし」が何のことだか分かる人もいると思います。ただ優しい人は分かってもスルーしてくれると作者はとっても助かります。あと、国土結界とか呪文とかはネットで見つけたそれっぽい言葉を引用しているだけなので、現実のものと同じとは考えないようにお願いします。この物語はフィクションであり、登場する人物・団体などの名称はすべて架空のものであることをお忘れなく。