───ああ、軽い発作ですね……───幸い、大したものではありませんでした……───薬も効いているようですし、“今回は”少し休めばすぐに元気になりますよ……それが、倒れたレンに主治医を名乗る年配の医者が、保護者である桃子さんに言った言葉だったそうだ。あれから。具体的には倒れたレンを病院に運び込んでから、翠屋の責任者である士郎さんを除いた高町家の面々が勢揃いするまであまり時間はかからなかった。皆、落ち着かない様子で病院のロビーに立ちつくしている。こうなってくると高町家の人間でない僕がいることは非常に場違いな気がしてくるのだが流石に今さら帰ると言える訳もなく、同じく何もできないなのはと一緒にロビーのソファに座っていることしか出来なかった。「レンちゃん、だいじょうぶかなぁ……」「大丈夫だよ、きっと」気休めだ。しかし、それでなのはの心が僅かでも安らぐのであれば。そう思って口にした言葉だったが、なのはは変わらず眉尻を下に向けたままだった。それ以上言葉は重ねず、僕は垂れ下った彼女の頭をぽんぽん軽く叩いた。「あ、あの、オレ……ごめんなさい!」そうしていると、僕たちに程近い場所で立ったまま俯いていた晶が突然叫んだ。唐突な彼女の謝罪に高町家の面々も目をめばたかせている。いつもの勝気な笑顔はどこへやら、歳相応の女の子のように不安げな表情をした彼女に、桃子さんが医者に話を聞きに行って居ない今、一番の年長者であるフィアッセさんが近づいた。「どうしたの、晶? ごめんなさいって、どうして?」「そ、その、オレ、あいつが病気とかって知らなくって……それで、最近オレら、けっこう遠慮ぬきでバシバシやってるから、……もしかしてあいつが倒れたのって、って思って……」「あ、晶のせいなんかじゃないって!」「そうだよっ、そんなこと言っちゃダメだよ晶ちゃん!」落ち込む晶に、美由希さんとなのはが慌てて励ます。「たぶん関係ない……と思うから、晶もそんなに落ち込むな」「そもそもお前との喧嘩が原因ならとっくの昔に士郎さんがストップかけてるから」「恭也と春海の言う通りだよー。だから晶も落ち込まないで笑顔笑顔! 今はレンのためにもちゃんと元気にならなくちゃ」「……はい」もともと晶は責任感が強い。というより、基本的に高町家の人間は士郎さんたち大人勢3人を除き誰もかれもがクソ真面目なので、思い悩むとなればとことん自分を責める傾向にある。もうちょっと不良になっても誰も文句言わないと思うけど、おそらくこれが育ちが良いというヤツなのだろう。半分元ヤンみたいな人生を送っていた僕には絶対無理そうである。そんなふうに自分を責める晶を僕たちで宥めすかしているところに診察室から出てきた桃子さんが伝えた内容が、冒頭の医者の言葉だった。思わずその場にいた全員が胸を撫でおろした。それは僕も例外ではない。「念のため、大事を取って今夜は病院に泊まるそうだから、わたしは今からレンが宿泊に必要なものを家から持って来るわ」「あ、士郎と桃子は明日の仕込みもあるから夜はわたしが一緒に泊まるよ」「ん。そうね、ならお願いするわ、フィアッセ」「OK。だったらわたしも桃子と一緒に帰って荷物とってくるから、恭也たちはそれまでレンの傍についてあげてね」「了解」代表で答えた恭也さんに微笑んで、桃子さんとフィアッセさんの大人2人は一度高町の家に帰って行った。残された僕たちはお互いに顔を見合わせ、誰とはなくレンの待っているという病室へと向かい始めた。「やや、どもです、どもですー。ご迷惑おかけしてホンマすんませんでした」ノックと共に入室した僕たちを迎えたのは、予想外に平和的で健康的な様子の鳳蓮飛その人だった。「……だ、だいじょうぶなの、レン」「お、おみまいに来たよー……?」あまりにいつも通りな彼女の様子に、思わずと云った風に美由希さんとなのはが訊いた。「なっはは、このたびは本当ご心配おかけしまして。なのちゃんもありがとなー」「あ、うん……」「で、さっき美由希さんも訊いてたけど、肝心の体調のほうはもう大丈夫なのか?」「おーう、春海もほんまありがとうなぁ。ウチはすっかり元気やで」こちらの頭をぽんぽんと叩いて子供扱いしながら、わざとらしいくらいに明るく言うレン。そんな彼女にされるがままになりつつ、僕は訊いた。「心配は心配だったけど、結局お前って何で倒れたんだよ。こっちとしては、そこのところ訊かねえとスッキリしないんだけど」少々無神経だとは思ったが、本来家族だけが訪れることができる場にここまで踏み込んでしまったのだ。知る権利くらい僕にだってあるだろう。───それに、自分の身体のことはレン自身が一番よく知っているだろうから。この病室を訪れるまでに桃子さんが、レンの主治医を名乗る男性。そう『主治医』なのだ。もし彼女が今日初めて罹患した病によって倒れたというのなら、主治医なんて単語は出てくる筈がないのだ。つまりそれは、レンがもっと以前から病院に通うほどの状況にあるということに他ならない。これまでの高町家の人々の反応を見る限りにおいて、彼女は同居人である彼等にも自分のことを隠していたのだろう(もちろん彼女の保護者である士郎さん・桃子さんを除いて)。しかし、こうしてレン本人が全員の前で倒れてしまった以上それは手遅れだ。もう、隠し通すことなど出来やしない。ならばこそ、この中で彼女との縁が最も浅い僕こそが、レンにとって一番話すことが負担ではない人間だろう。そう考えた僕が真っ先にレンに訊くと───案の定レンは“僕の方だけ”を見て、部屋全体に程良く届く位の声を転がした。「あはは、ちょーっとした心臓発作ってヤツでなぁ」自分の症状をバラすいつも通りの明るい声は、どこか物哀しく上滑りしている気がした。「ウチの心臓はどーもウチによく似ててな、なんやナマケモンなんよな。仕事サボりがちで困っとる」「そうかい。でもまあ、とりあえずは元気そうで安心したよ」「あはは……おーきにな、春海」「ん」「……あの、レンちゃん。これ、さっきそこでジュース買ってきたの。いっしょに飲も?」「わー、なのちゃんもおーきに!」と。隣で丸椅子に座っていたなのはと話し始めたのを見て会話を打ち切り、部外者は目立たぬように一番後ろまで下がった。その際に見た高町家の人々の顔は、思いのほか元気なレンの姿にどこかホッとした様子が見て取れた。「……お、───なんや、おったんか」「……ああ」ただ一人、城島晶を除いて、ではあったが。「…………」「…………」無言。睨み合いのような、戸惑っているような。おそらく当人同士も何から話すべきか迷っているのだろう。(……ふむ)そばに立っていた恭也さんの袖をクイクイと引っ張る。「そういえば恭也さん。ここってフィリス先生もいますし、せっかく顔を出したんですからちょっと会って行きましょうよ」かの女史には高町兄妹も整体師としてお世話になっているのだ。「ん?……そう、だな。美由希、お前も行くぞ」「え?……あ、……わかった。なのは、レンに雑誌とかアイスも買っておきたいから一緒に行こうよ」「え、でも」固まってしまったレンと晶をチラチラと気にしているなのは。僕はそんな彼女の脇に後ろから両手を差し入れて抱き上げた。「おらー行くぞー」「にゃあああ!? なんでー!?」慌てるなのはをズルズル引き摺り、恭也さんと美由希さんが待つ病室の外へと出る。「突っ立っとらんと、まず座りー」「……おう」後ろ手に閉める扉の向こうで、残された2人のそんな言葉が聞こえた。**********レンと晶。彼女たち2人を除く高町家全員(+α)が出て行ってしばらく時間が経った。「…………」「…………」が、それで何か自体が進んだのかと訊かれれば否と答える他ない。無言。お互いに言いたいことはハッキリしている筈なのに、それが口から出てこない。もともと2人とも自分がそんなキャラでもないことを自覚しており、また、互いに対して畏まることも今更すぎた。「…………」「…………ああもう! 辛気臭いやっちゃな! 言いたいことあるんやったらさっさと言わんかい!」しかし、そんな無音の時間も先に痺れを切らせたレンの怒鳴り声であっさりと終わりを告げた。いつもの如く、喧嘩相手の売り言葉。だが晶はいつものような買い言葉を返すことをしなかった。「あ、あのよ……」歯切れ悪く、ただ自分の考えを吐露した。「オレ……その、お前に悪いこと、したか……?」「…………」懺悔にも似たその言葉を、レンは静かに聞いていた。「オレ、知らなかったから……」「教えてへんのやから、当たり前や」「そうだけど!……そうだけどよ」つっけんどんに返すレンに、晶は必死に紡ぐべきセリフを探した。柄ではないが、ここはきっと自分が謝罪する場面なのだろうと、持ち前の気真面目さで考えながら。「今回のが、もし───」「『オレのせいだったら、ゴメン』か……?」「うん、……すまん」小さな小さな晶の、ともすれば一人言とも取られかねない呟きを聞いたレンは───1度目を閉じた。こちらの様子に首を傾げる晶に構うことなく、すーはーと息を吸って吐いた。そして───「───ふっざけんなーーー!!!」ここが病室であることも忘れたような怒声が、対面に立つ晶の耳を劈く。思わず両手で耳を塞いで目をチカチカさせる晶に、レンは構わず怒声をぶつけ続けた。「アホやアホやとは思ってたけど、まさかここまでアホやとは思わんかった」彼女は、怒っていた。「ええかっ、よく聞けコラ! そんな風に何もかも『自分のせいかも』とか勝手に思い込むのは止めいこのアホ! オノレを慰めてんとちゃうからな! うちはそういうの、なんやめっちゃムカチューって話や!」怒って───そして何より、屈辱に震えていた。だって、そうだろう。わざわざ口には出さないが、心の中でしか思ったことはないが、今の今まで本当の意味で対等だと思っていた人間に、こともあろうか『憐れまれて』しまった。屈辱で、───ただただ情けなかった。「……ウチが体わるいのは、ウチのせいや」「……」「ムリして体調わるくなっても、それは全部ウチの責任や」「……うん」静かに返事した晶に、レンは手元にあった枕を投げつけた。「…………」ボフンと自分の顔にぶつかって落ちる枕を晶は両手で受け止めた。もとよりこんなもの、痛くも痒くもない。なのに、何故か今まで受けたどんな拳よりも痛む気がした。「それを自分のせいかも、とかっ、傍についとる自分がもっとちゃんとしとればー、とか! 死ぬほど大きなお世話やアホ!!」感情のままに、激情のままに、レンは叫び、訴えた。「何よりそんな自分勝手に同情されたり、死にかけたミミズやムカデでも見るみたいに憐れまれたりするのが……、それがウチは、めっちゃムカつくんじゃ! えーか!? ウチは可哀そうなんかと違う……! そやから、あんたごときに同情されたり、責任感じられてそんなしみったれた顔される覚えもない!!!」怒鳴り声と、振り下ろされたレンの小さな拳が粗末なパイプのベッドを叩く。「ウチは……そんなんと、ちゃうねん……」限界まで絞り出された本音は、呟きとなって宙に溶けた。「……って」───と。「あんたに当たっても、しゃーないか」「えっと……」「……あのな」急な話の転換に付いていけなくなった晶に、そっぽを向いたレンが言う。「……心配してくれるんは、……心配してくれたこと自体は、そのなんや……」ぽつり、ぽつりと。「ごくわずか……? 実にかすかだけ……? ほんのちょびっとだけ……」何度も何度も念を押して。「………………………………………………おーきにや」そうして、また訪れた無言の時間。そんな空白に耐え切れなくなったのか、それとも居た堪れなくなったのかレンが口を開く。「……せやから、そないな顔するな! うっとーしくて敵わんわ!」「……ああ」「それにアンタ、ただでさえ不細工なのに、それ以上辛気臭い顔したら取り返しつかへんで」「…………」「アンタはもともと不細工な上に、背は小っこいわ、頭悪いわ、男にしか見えんわ」「……?」「空手バカ一代のくせに大して強ないわと、ホンマええトコ無しなんやから」「おい」さすがにストップを掛けた。これまで申し訳なさから言いたいように言わせていただけに、凄まじい形相になっていた。「いくらなんでもそこまで言われる筋合いは無いぞ?」「ホントのことはどんな状況下でも言ってええと思わんか?」「…………」「…………」「…………へへへ」「…………ふふふ」「やる気か?」「やらでいか」晶が跳び、レンが舞った。**********病院の外にまで雑誌やアイスを買いに言った美由希さんとなのはを待ちながら、僕と恭也さんはレンの病室の前の廊下に並んで立っていた。「……レンって、もともと身体悪かったんですか?」「……小さい頃は入院と退院の繰り返しだった。最近は元気だったから、もう大分良くなったのかと思ってたんだけどな……」そう言って、恭也さんは溜息を一つ零した。と、そこで僕と恭也さんはそれぞれ自分の耳を塞いだ。───ふっざけんなーーー!!!ビリビリと空気を震わせるようなレンの怒声が廊下にまで鳴り響く。僕はぎょっとした様子でこちらを振り向いた看護婦さんに愛想笑いしながら、印を切って彼女の病室に簡易的な結界を施し、周りに漏れる音を遮断した。他人の迷惑も考えろガキ共。「すまん」「いえ」「……レンと会ったのはまだ小学校くらいのときでな、そのときも場所は入院してたあの子の病室だったよ」うちの母さんとアイツの母親は親友同士だったから、と続ける恭也さんに、僕は相槌を打つ。「お小遣いで買ったクッキーの缶を持って行ったりしてな。結婚の約束したり、なんだかんだで懐いてくれてた気がするよ」「さらっと結婚の約束とか言うなや」それだけ聞くと甘酸っぱい思い出なのに、既に忍さんとフラグが立ってる辺り酷い話である。というか、絶対覚えてるだろアイツ。「ん?……子供の頃の話だぞ?」「せやな」「?」見てください、これが鈍感体質というものです。なんという主人公。「……ともあれ、適当な言い方が見当たりませんけど、レンのほうも頑張って下さいね。こういうのってやっぱり家族の問題になってくるんでしょうし」「言われずとも、だ」少々冷たい言い方になってしまったが、他に僕に何が出来るのか、と。親しくなっても、家族は家族、友達は友達である。レンのほうも、今すぐ死ぬ訳でもないのに他人の僕に世話を焼かれたところで鬱陶しいだけだろう。「まあ、僕もできる限りは手伝いますよ」「なら今まで通りレンと仲良くしてやってくれ。他には望まない」「それこそ、言われずとも、です」お互いに軽口を叩きながら、ハッと軽く笑い飛ばす───と。「……ああああぎぎぎぎ、アダダダダッ!!??」病室の中から聞こえてきたよく知った悲鳴の声に、僕たちは互いに顔を見合わせた。目の前にある病室の扉をガラリと開く。すると、そこには───。「アガガガガ……ッ!?」「ほっほっほー、病にあっても鳳蓮飛、アンタごときに遅れは取らへんでー」───病室のベッドの上で、首・肩・手首を同時に極めたレンの見事な間接技が晶を締め上げている光景があった。「何やってんだ、お前ら」「おー、春海におししょー。いや、このおさるがあんまりにも生意気なもんやからちょっと躾けをと」「うがあああああ!!!」と、そこで晶の呻き声を聞きつけたなのはと美由希さんまで病室に駆けこんできた。「え!? ちょ、やめなって、レン!?」「あーーー!!? レンちゃん晶ちゃん何やってるの!? ケンカしちゃダメーーー!」「だ、だい、じょうぶ、だいじょう、ぶ……う!?」「ほう、余裕あるなー。じゃあもっと行っとこか」「うううがあああああ!!?」結局、場所は違えどいつも通りの光景を取り戻している高町家年少組。そんな彼女たちを前に、僕と恭也さんは再度お互いに顔を見合わせた。「「……ハァ」」溜息を一つ。さっきまでシリアスしてた自分たちが馬鹿らしくなり、スゴスゴ病室の扉を潜り直して廊下に出る僕らだった。**********「んじゃ、僕は用事あるからもう帰るわ。アリサ、日直の仕事がんばれよー」「あ、まって春海くん。わたしも今日は早く帰るから、途中まで一緒に行こ?」「ん、そう? もしかしてノエルやファリン関係の『用事』?」「うん、それもあるけど……あ、あの、春海くん」「なに?」「ひ、ひさしぶりに、その……す、吸ってもいい?」「あ、ああ……うん、別にいいよ。じゃあ一緒に帰るか。アリサ、なのは、また明日なー」「バイバイ、なのはちゃん、アリサちゃん」そう言って、並んで帰って行った友達2人を見送ったアリサとなのは。そんなアリサが日直の仕事である日誌記入を終えて校庭に出た頃、彼女の隣に居たなのはが手を合わせて申し訳なさそうな声をあげた。「ご、ごめんねアリサちゃん。今日、レンちゃんが退院するからなのはももう帰らなきゃ」って、ならハルたちと一緒に帰りなさいよ。そう言うと、この優しい幼馴染は苦笑いしながらこう言うのだ。───だって、一人で学校に残っちゃったら、アリサちゃんも寂しいでしょ?「子どもかあたしは!!」一人で帰り道をテクテク歩きながら爆発するように叫んだ。道行く通行人がビクリとしていたがアリサは気付かない。「……まあ、なのはがそう言うのも分からなくはないけど」というのも、原因は最近の春海とすずかだ。別に彼等がアリサやなのはをハブにしている訳ではない。表面上は今まで通り、仲良し3人組+1だと思っている。+1は勿論春海だ。しかし最近……具体的には春休みが明けてからというもの、あの友達2人は何かと一緒にいる光景が目に止まるのだ。休み時間や体育の時間、気が付くといつも同じ画の中に収まっている。ただ、それはアリサとなのはを蔑ろにしている、という訳ではない。むしろ春海に関しては常の通り、一歩引いた立ち位置からクラスを俯瞰しているように彼女は感じていた。変わったのは、月村すずかの方だ。休み時間も体育の授業も、基本的に彼等が一緒にいるときはいつもすずかが春海の隣に立っている。だから2年生になってからは自然とアリサとなのはも春海に席に集まるようになっていた。が、同時にだから何だと訊かれるとアリサとしても返答に困った。別にすずかが春海と一緒に居る時が増えたからと言って、アリサ達と一緒の時間が減ったわけではないのだ。むしろ最近にすずかは妙に生き生きとしていて、去年よりもどこか明るく可愛くなったとクラスの女子の間でも評判である。ませた男子の誰彼がすずかに惚れている、なんて噂が流れている程だ(無論、春海ではない)。だからこそ、アリサは自分が悶々としているその原因が解からず尚さら悶々する。悶々が悶々を呼んで更に悶々して悶々のゲッシュタルト崩壊である。───実のところ、アリサが不満に思っているのは単純に『自分が彼らの輪から外れているように感じる』、ただそれだけであった。すずかが春海と何かあった、それは確実だ。鈍いなのはでさえ気付いているものを、聡いアリサが感付かない筈がない。尤も、なのははそれがどんな意味を持っているのかまでは考えつかないようだが。なのはが幼いのではない。アリサが歳の割に早熟なのだ。しかし、その聡明さは同時にアリサの思考の迷走を産んでもいた。クラスでも評判の仲良し3人組で通っていた筈なのに、それが春休みが明けて2年生になってみると春海にすずかを取られてしまったような状況になっている。それらが全て自分の知らない場所で起こったこと。それこそが彼女のフラストレーションの源だった。春海やすずかと云った個々人に不満は無い。しかしそれを繋ぐ互いに関係から自分が外れているようで、そこが気に入らない。要するに、彼女は自分が仲間外れにされたことが不満なのだった。「~~~もうっ、なんだってのよ! どいつもこいつも!」だが、いかに聡明であっても子どもは子ども。経験の不足そのものは如何ともし難く、それは神童の名を欲しいままにするアリサであっても例外ではない。自分が単に拗ねているのだという自覚も無ければ、そもそもそれを認めるにはアリサ・バニングスという少女はあまりに幼く、また、単純に負けず嫌いだった。結果、アリサの不満は今日も燻ぶるばかりであった。そうして歩くこと十分ほど。今日は習い事の日なので車の送迎ではなく徒歩で現地へと赴くのだ。実際、学校で車を待つ時間を考えたら直接向かった方が早いから。とはいえ、今は些か早く学校を出過ぎたようだった。ムカムカに任せて早歩きにズンズン進んだのも手伝ってか、これでは開始時間より一時間も前に到着してしまうではないか。通りがかった公園の時計台を見てそう考えたアリサ。そんな彼女の視界に、神社へと続く石段、そしてその入り口にそびえる鳥居が入り込んだ。「あ、そうだ」───久しぶりに友だちに会っていこうっと。そんな軽い思考の帰結で、彼女は学校帰りの寄り道をすることに決めた。「久遠ー、ドコにいるのよー?」八束神社から程近い林の中、然程深くない位置からアリサは口元に添えた両手をメガホン代わりにして呼びかけていた。最初は神社の境内で久遠を探してみたが見当たらなかったアリサ。ならばと今度は久遠がいつも出てくる林の中へと標的を移していた。ガサガサと怪我をしない程度に草間を覗き込んで見ても、あの見慣れた黄色いボディは影も形も無い。「もしかして今日はいないのかしら……?」これだけ呼んで姿を見せないということは、今日はここに顔を見せていないということなのだろう。那美がこの神社で働いている関係上、那美とセットで行動している久遠はほぼ毎日八束神社で日向ぼっこなりをしていると思っていたのだけど、どうやら当てが外れてしまったようだ。残念。折角やって来たのに会えず終いというのは悔しいが、こういう日もあるだろうとわざわざあの長い石段を昇ってきた事実を慰めるアリサ。そんな彼女の耳に、ガサガサと草をかき混ぜる音と共に幾つかの笑い声が届く。「え?」神社からも程遠くにあるこんな人気の無い場所にいる人間なんて限られている。何らかの目的意識がなければ、まず近づかないような所だろう。ならば、きっと久遠に会いに来た誰かに違いない。ひょっとしたら、先に帰った春海とすずかという可能性もある。自分の声に気付かなかったのも、遊ぶのに夢中になっていたのかもしれない。そう考えたアリサは、程良く疲労の溜まった足を音がする方へと向けた。その際、足音は出来るだけ抑えて相手に気付かれないように注意を払う。もし春海たちだったなら、背後からビックリさせてやるのだ。幸い、声が聞こえた場所まで距離らしい距離は殆どなかった。ほんの30秒も歩けば目的地に到着した。到着したが……その光景を見たアリサは、すぐさま考え無しに近づいたことを後悔したくなった。「おいおい、なんだこれサンドバッグってヤツ? かっけー!」「オラオラオラオラオラ!! ワンツーワンツー、ってか?」「イテッ!? おいバカっ、人が近くにいるってのに急に手振りまわすなっつの。タバコ、火つけたばっかだったのによー。おい、も一本くれ」「やだよ、もったいねー」そこに居たのは、町内のある高校の制服に身を包んだ男の4人組だった。それも、言動や着こなし、口に咥えたタバコを見るにアリサがあまりお近づきになりたくない類の。早い話、世間的に不良と呼ばれる少年たちである。「…………」草間に身を隠しながら彼らを見たアリサの顔が思わず渋くなる。いま現在彼女の目の前にいる少年たちは、制服の着こなしを除いて見た目はただの少年だ。髪を染めている訳でもなければ、ピアスで顔中を穴だらけにしている訳でもない。ただ言動が一目で分かるほどに粗野なだけだ。だが、たったそれだけで、人を見かけで判断するなと両親から真っ当な教育を受けたアリサが嫌悪感を抑えきれなかった。タバコなら自分の父も愛煙している筈なのに、彼等が喫煙している姿はまったく格好良くない。自分は不良と呼ばれる類の人間を初めて間近で目にしたが、こんな気持ちになったのは生まれてこの方一度も無い。なるほど、ふざけてからかってくる春海にムカムカ来るのとも全然違う、言い様の無い恐怖混じりの嫌悪感。こんな最悪な気分が存在するのかとビックリしたくらいだ。できることなら今すぐ彼らの前に出て行って注意したい。タバコなんて止めて家に帰って勉強でもしてろ、と。「(……早くここから離れようっと)」でもまあ、アリサとて馬鹿ではない。ドラマなどで得た聞きかじりの知識でしかないが、あのような類の人間はこちらが正論を言って図星を突くと逆に憤怒に駆られてしまうという。特技に逆ギレがあるのだろう。アリサにだって正義感はあるし、むしろ人一倍そういう性格であるのは自覚するところだ。だが、それでも時と場合を考えられるくらいの分別はあった。また、それは危機管理能力にしても同様だ。防犯ブザーは乙女の必需品と母親から習った。ともかく、初めての状況でも持ち前の賢明さを遺憾なく発揮した彼女は、生理的な恐怖で割とドキドキしている胸を抑えながらその場を離れようと踵を返して───「───くぅん……」───背後から聞こえた小さな鳴き声に戦慄した。振り返って窺うと、彼等から程近い場所で見慣れた黄色い友だちが震えている光景が眼に入った。「お、なになに? イヌっころ?」「や、キツネじゃね? うわ、珍しー。初めて見たわ」「ちょ、お前捕まえてみろよ」「やだよ、きたねー」「お前そればっかだな。しゃーねーな、オレが捕まえてやる」そんなやりとりの経て、眼鏡の少年が立ち上がり久遠のもとへとズカズカと無遠慮に近づいて行く。……が、伸ばされた手を久遠はアッサリと避けて躱してしまう。的を外され、バランスを崩してたららを踏んだ少年を残りの3人が笑う。「ぷ、何やってんだダッセー」「るせッ! ちょっとヨロけただけじゃねーか! おいっ、逃げるなゴラッ!!」再度、そして三度伸ばされた手を懸命に避ける久遠。そこまでしても無理ならば素直に放っておけばいいのに、仲間に嘲笑われて半ば意地になっているのか眼鏡の少年に諦める様子は無い。「───はい、しゅーりょー」が、そんな久遠の頑張りはあっさりと雲散霧消した。眼鏡少年の影に隠れて近づいたもう一人の長髪の少年が、躱して彼女が逃げ込んだ隙間で待ち構えていたのだ。堪らず急ブレーキをかけたところをすかさず抱きかかえられる。それが不快だったのか、抱かれた体勢でしっちゃかめっちゃかに手足をバタつかせる久遠。「くぅぅうう……ッ!」「おわ!? コラ、暴れんな───イテェッ!?」その時、偶然だろうが暴れさせていた右前脚の爪が長髪の少年の皮膚を鋭く引っ掻いた。思わず抱えていた手を離し、その隙に久遠が逃げようと跳び降りて───「イテーな、チクショーがッ!!」「ぎゃんッ!?」───着地する直前、激昂した長髪の少年に思い切り蹴り飛ばされた。強かに蹴られた久遠は、そのまま一度地面にぶつかりバウンドした後ようやく停止した。明るかった太陽色の身体は土に汚れ、見る影もなくなっている。不幸中の幸いと言おうか意識はあるようだが……身を起こそうとするその動きは緩慢で、フラフラと足が覚束ないのは誰から見ても明らかだった。「おいおい、それやり過ぎじゃね」「知るかっつの! コイツから引っ掻いてきたんじゃねーか!」「あーあ、ふらついちゃってんじゃん。かわいそー」言葉の割にまったく哀れんでいない声音でヘラヘラと笑う少年たち。そんな彼らを押しのけた長髪の少年がそのまま必死に立ち上がろうとする久遠に近づき、その小さな体を摘まみ上げようとして───突如飛来した石の礫が、その鼻っ面にめり込んだ。「アグァッ!??」鼻を押さえ、反射的に身をかがめる長髪の少年。よく見るとその手の中に赤い物がある。どうやら鼻血が噴き出たようだった。突然の事態に唖然とする少年たち。そんな少年たちの脇を、鮮やかな金色が奔り抜けた。金色の髪の少女───アリサ・バニングスは久遠と少年たちの間に入り込むと、友だちを庇うようにして両手を広げた。彼女特有の意思の強いブルーの瞳が、真っ直ぐに少年たちを見据えている。「アンタ達、何してんのよ!」怯えも無ければ怯みもない。子ども離れした胆力を遺憾なく発揮し、アリサが叫ぶ。状況の推移に処理が追いつかない少年たちは言われるままだ。「高校生のくせにこんな小さな子を寄ってたかって、恥ずかしくないの!? こんな所に集まって弱い者イジメしてる暇があるならとっとと家に帰って勉強でもしてなさいよ、このヒキョウモノ!!」眼をつぶって、一息に言い尽す。それは怖がって飛び出すのが遅れてしまった彼女の後悔さえも込めた言葉。ともすれば自分の中に湧いてしまいそうになる、或いは既に湧き上がっている恐怖を押し殺した叫び声。───が、この時点でアリサは致命的なミスを犯した。跳び出すのなら、石を投げず挑発などもせずに介入すべきだった。そうすれば如何に不良の彼らといえど小学生のアリサに危害を加えることは無かっただろう。または、石をぶつけ怯ませた時点で久遠を連れて迅速に逃げ出すべきだったのだ。脇目も振らずに、全力で。しかし、その全てが、既に遅い。石を投げて怪我を負わせてしまった。彼らの目の前に全身を晒してしまった。プライドだけは一人前の彼らを罵倒してしまった。全てが失策。アリサの小学生離れした意思力が、この時に限っては完全に裏目に出てしまった。座っていた他の二人を含め、四人全員がフラリと立ち上がる。馬鹿にしたようなヘラついた眼がアリサの心を突き刺す。「わーお、何この子。かっこよくね? ガイジンさん?」「しかもすっげー可愛いっていうね。金髪だし、お人形みたい」「ぷるぷる震えちゃって。怖いのによく頑張ったねー、えらいぞー」ネットリとした視線が彼女の全身に降り注ぐ。彼女の中に渦巻いていた恐怖の総量が一気に増量する。ついでに不快指数も。ただ、この三人までならまだ良かった。粗野な上に無遠慮だが、直接的な害意は少ない。このまま耐えれば程なく彼女は解放されたことだろう。「───何しやがんだッ、このクソガキが!!!!」しかし、それでは済まない一人が怒声を上げた。アリサの投げた石が直撃し、今の今まで血を垂れ流す鼻を押さえて痛みに耐えていた長髪の少年だった。ようやく鼻血を止めた彼は周りの少年たちを突き飛ばすようにして退かすと、至近距離でアリサを睨みつけ始めた。「いきなり石ぶつけてきやがって、覚悟できてんだろうなァッ!! アァ!!?」威圧と怒声で威嚇する少年。未だ手が出ていないのは、決して優しさ等ではない。小学生の、それも女を殴るのはダサいという安っぽいプライドから来た単なる見栄だった。これだけ脅せばこの生意気な子どもだって泣きだすだろう。そうすれば自分の溜飲も下がるし、石礫になんてビビっていないという自らの面目も立つ。どうやら少年の中で小学生の女の子相手に怒鳴り散らすという行為は、所謂『ダサい行動』には分類されないようだった。「ふざけんじゃないわよ」────そして、そんな男の幼稚な見栄をアリサの勇気は粉々に粉砕した。「アンタこそあたしの友だちに手を出して覚悟できてんでしょうね?……そうよね、できてる訳ないわよね。暴力を振るわれた側がどう思うかなんて、ちっとも考えてない。───だからこんな酷いことをやってもそうやってヘラヘラできるのよ! 人の気持ちを考えろなんて当たり前のことの勉強は小学校で終わらせときなさい!!」「んだと……もういっぺん言ってみろクソガキ!!!」「何度でも言ってやるわよ! このヒキョウモノ!」「───ッ!!」そんなアリサの恐怖を押し殺した啖呵が、遂に不良少年の逆鱗に触れた。アリサの瞳がこれ以上の問答は無用とばかりに振り上げられた右拳を映し出す。きっと自分は、あの握りしめられた拳に殴られるのだろう。友だちを助けたことに後悔は微塵も無かったが、それでもやはり痛いのは少し嫌だった。彼女は反射的に固く目を閉じ、身を強張らせて衝撃を待つ。……………………。…………。……。(……あれ?)おかしい。せっかく備えているのに、いつまで経っても拳が飛んで来ない。来るならとっとと来なさいよ、と持ち前の負けん気を考える暇さえあったほどだ。「…………」おそるおそる、閉じていた瞼を開く。最初に見えたのは、さっきまで軽薄な笑みを貼り付けていた顔をポカンと呆けた表情に変貌させ、アリサの方を見ている男たち。……いや、違う。彼らが見ているのは自分ではない。目線は確かにこちらだが、彼らがその目を向けているのはその後ろ側、アリサの背後だ。「ぐるるるるぅううう……ッ!」気付くとほぼ同時に、背後から声が聞こえた。地の底から響く様な重低音で、彼女の家にいる飼い犬たちが警戒してあげる唸り声にも似ている。「───え?」自然、目の前にいる少年たちのことすら忘れかけて振り返るアリサ。そんな彼女の瞳に映ったのは、自分と同じく鮮やかな金色をした髪から狐の耳を生やした、巫女装束を着た少女の姿。彼女は同姓のアリサから見ても可愛らしく端正な顔を怒りに歪め、きつい調子でアリサの向こうに居る少年たちを睨みつけている。唐突な登場にも関わらず、謎の少女に見蕩れるアリサ。───バチン。瞬間、少女の周りの空気が爆ぜた。───バチン、バチン。再度連続で爆ぜた空気の中に蒼い雷が瞬いているのが見えた。ふわりと広がった少女の金髪が、バチバチと音を立てて帯電している。「───ッ!」ズドンッ───!!!少女の音なき声と目を焼かんばかりの青い光。次の瞬間には少年たちが立つ場所のすぐ前方の地面が弾け、直径1mほどの範囲が大きく抉れていた。跳ねた土が彼らの服を汚す。そのことさえ碌に認識できていない様子の少年たち。彼らはゆっくりと目の前の少女から抉られた地面へと視線を移して───、『う、うわぁあああああああああああああああああああ!!!??』湧き上がった原始的な恐怖が命じるままに、彼らは少女とアリサに背を向け蜘蛛の子を蹴散らすように駆けだした。「…………」残されたのは、去った危機に安堵し腰を抜かしたアリサと、ふーっと短く息を吐きだして帯電していた蒼い電流を霧散させた謎の少女。足元にへたり込んだアリサの前にしゃがみ込んだ少女……彼女はそのまま、じーっと穴が開くほどにこちらを見つめ出した。「あ、あの……?」「…………」少女の行動の意味が解からず戸惑うアリサ。それでも、得体の知れない少女がすぐ傍にいるというのにアリサの中に恐怖は無かった。それには勿論彼女は自分を助けてくれたのだと言う事実もあったが、……何より少女がアリサを見つめる瞳があまりにも純すぎた。こちらに見せる表情は無垢そのもので、僅かに下げられた眉尻は少女がアリサを心配していることを雄弁に伝えていた。だから、アリサにあったのはあくまで少女の正体が解からないという戸惑いだけだ。そんな彼女の前で、少女がゆっくりと口を開く。瑞々しく赤い唇が少女の本当の声をアリサの耳に───「───くぅん」「───は?」───届けて、彼女の明晰な頭脳が残さずフリーズした。『くぅん』? それは一体どういう意味なのだろう。アリサは英語と日本語を完璧に扱うバイリンガルだが、そんな単語は生まれて聞いたことがない。英語といえば、この前なのはの家に遊び行ったとき、フィアッセさんに英語を使ったミニゲームを出して貰って春海を含めたいつもの4人組で勝負したのだが、なんで自分と春海が同着一位なのだ納得できない普段あんなアンポンタンのくせに馬鹿ハル。「って、そうじゃないわね」「くぅん?」思わず明後日の方へ行きかけた思考を元に戻す。いや、それでも流石にこれはないんじゃなかろうか。自分を助けてくれた謎の少女の第一声が何故に『くぅん』? たとえ言うことがなかったにしても、もうちょっとマシな言葉があるんじゃなかろうか。それじゃあまるで久遠の───と、そこまで思考してハタと気が付いた。「アンタ、その耳……」少女の耳から伸びた髪と同色の獣耳。アリサの見間違いでないならば、それは確かに狐のものだ。「……ちょっとごめんなさい」「きゅーん」おもむろに手を伸ばし狐の耳をコネコネするも、そこにあるのは温かな体温を持った本物。加えて先ほどから姿の見えない狐の久遠。ダメ押しに『くぅん』。以上の条件から導き出される答えは、えーと。「もしかして、久遠、なの……?」「くぅん♪」まさか、という口調で訊いたアリサの言葉を、少女はまるで肯定するように微笑んだ。八束神社からもそれなりに離れた林の中を、4人の少年たちが走っていた。「ハァッ、ハァッ、ハァッ、……くそっ、なんなんだよアレ!?」走りながら、眼鏡の少年が口汚く悪態をつく。だが彼も走ることを止めることは決してしなかった。追いつかれたら、きっと殺されてしまう。───しかし。「し、知るかよ! なんか危なかったし、とりあえず逃げ───うわッ!?」彼の言葉に応えようとした長髪の少年が、何かに足を取られて転倒してしまった。さっきまで血を流していた鼻を再び大地に強かに打つ。「お、おい───!?」残りの3人が堪らず振り向いて、「───なあ、兄ちゃん等。そんなに急いで何があった」うつ伏せに倒れた長髪の少年の傍に、一人の子どもが立っていた。フードを目深に被って顔は見えないが、聞こえた声は確かに少年のもの。体格はそれほど大きくなく、さっきまで彼らと一緒にいた金髪の少女と似たようなものだ。歳の頃はきっと小学生くらいだろう。しかし、いま重要なのはそんなことじゃない。転んだ長髪の少年を含め、彼ら全員がそう思った。自分たちの見間違いでなければ───この野郎、わざと足を引っ掛けて転ばせやがった。そうだ。コイツは走って逃げようとする自分たちの前に突然現れて、一番先頭を走る長髪の足を引っ掛けたのだ。そして堪らず長髪の少年が転倒。それが、つい先程の一瞬で起こった一幕だ。そして、状況に思考が追いついてくれば少年たちの行動は早かった。目の前にいるのはさっき自分たちを脅かしたバケモノ女じゃない。見た目ただの生意気なガキだ。ビビる必要はなく、ならば、やることは一つだ。3人はフードの子どもを取り囲んだ。半狂乱だった頭は既に冷え、完全に目の前の少年で憂さを晴らす気でいる。どの顔も苛ついた、しかしどこかヘラヘラとした軽薄な表情を取り戻していた。「う、ぐっ……」そこでようやく、地面に伏して鼻を押さえていた長髪の少年が身を起こした。両手を地面に突き、何とか身を起こそうと四肢に力を込めている。激情。彼の頭の中には正にそれだけが渦巻いていた。狐には爪を鋭く立てられ、小学生の女に強かに石をぶつけられ、バケモノに脅され、果ては何処の誰とも知れないガキに足を引っ掛けられて無様に転んでしまっている。なんで自分ばかりが、という理不尽を嘆くと同時に彼は喜んでもいた。ああ、やっとこの溜まりに溜まった憂さを発散することが出来る。目の前のガキには一切の遠慮をする必要がない。泣こうが叫ぼうが自分の気が済むまで殴り殺してやる。正真正銘ケダモノの笑みを顔に浮かべた長髪の少年は、そのまま両手に力を込めて頭を上げ───「く、ははっ、上等だよ。テメェ絶対ぶっころ───ぶぎゅッ!!?」───フードの少年に後頭部を踏み抜かれて再び地面に沈みこんだ。『……………………』目の前で起こった光景が信じられず、思わず押し黙る3人。そんな彼らの前で、たった今仲間の頭を情け容赦なしに踏み抜いたフードの少年が特に気にした様子もなく口を開いた。「おら、クソガキ。質問したんだからさっさと答えろよ」グリグリ、グリグリと。後頭部に置いた足を動かしながら無機質に訊く少年。やがて反応の無さに飽きたのか後頭部から足を退けた彼は、そのまま長髪を鷲掴んで高校生の身体を自分の顔の高さまで持ち上げた。小学生のような体格に見合わぬ膂力だった。目深に被ったフードから見えた瞳が、怯えの混じった長髪の少年の瞳を覗き込む。「……近くに見覚えのあるヤツとないヤツがいると思って来てみれば、胸糞悪い光景見せやがって。不良なら不良らしく自分たちの内輪だけで行動してろ。人様に、それも、あんな小さいガキ共に迷惑かけてんじゃねえよ。情けねえ」「は、はひ……ッ!」こちらを睨むぎょろりとした瞳と言葉そして何より痛みに、長髪の少年の心が折れた。それは周囲の少年たちも同様で、目の前の小学生くらいの体格しかない男から流れる得体の知れない威圧感に全身が緊張を強いられていた。それを見て下らないと言わんばかりに鼻を鳴らしたフードの少年が、長髪の少年を投げ捨てた。「本当なら、久遠ちゃんが見逃した時点で僕が手を出すのはお門違いなんでな。この件に関してはこれ以上お前らを叱るのは無しにしてやる」その言葉は半ば以上意味が解からなかったが、4人は内心で安堵の息を漏らした。見逃して貰える。それだけは理解できたからだ。───しかし、結論から言ってそれは早計に過ぎた。ホッと息をついた4人をフードの少年はぐるりと見廻して、見える口元だけで満面の笑みを浮かべた。「叱るのは無しだ……だから、ここからは“僕”の事情だ」『……え?』その日、海鳴市内に在るとある高校に在籍する素行の悪いことで有名な4人の少年たちが、ボコボコに腫れあがった顔で登校してくるという事例が発生したとかしてないとか。(あとがき)第二十七話「上には上がいる」投稿完了しました。作者の篠 航路です。えー、はいー……正直すまんかった。そんな気持ちでいっぱいな作者です。前回のあとがきで予告した通り、今回の話は入院したレンと晶の一幕、そしてリリカルなのはSSテンプレートの一つ「アリサ危機一髪」となりましたが……いやもう不良くんたちを出してからというもの筆が進む進む。気が付けば内容の3分の2がアリサ達のエピソードで埋まって立っていうね。完全に作者の悪ノリの産物な気がします。安次郎と言いイレインと言い、やっぱり解かり易く悪役してるキャラを書くのは相当楽ということを再確認した作者でした。さて。今回の話ではレンと晶の関係性、そして那美久遠ルートに絡む新たな人物アリサ・バニングスの登場になります。レンと晶は原作の通りなので今さら語るまでもないのですが……実はアリサに関してはこのSSを作り始めてからずっと、彼女が那美ルートに絡むことは決まっていました。それというのも、原作ゲームリリカルおもちゃ箱の名エピソード「花咲く頃に会いましょう」でなのはや久遠と一緒に遊んだ少女であり、アリサ・バニングスの元ネタでもある幽霊少女『アリサ・ローウェル』の存在です。やっぱり久遠が出る以上アリサもセットで出さなくては。そんな思いが作者にはあるのです。不良くんたちに関してはアリサ・ローウェルの元ネタストーリーからあっさり出演決定。原作プレイした作者の鬱憤を晴らすべく、死ぬまで行かずともとにかくボッコボコになって貰って超スッキリ。そんな自己満足なことしてたからここまで話が長くなったんだけどな!と、少し長々と語ってしまいましたので、今回のあとがきはこの辺で。では、また次回。(追記)以下は投稿時の一番最後にあった部分ですが、どうにも悪ノリしすぎたかなーと感じられてきたので、あとがきの後ろに移動させました。作中でこのやり取りがあったかどうかは、読者の皆様のご想像にお任せします、ということで(オイ。**********「ひい、ふう、みい、よう……最近の高校生ってけっこう金持ってんだなー」『生憎、儂に金の価値はわからん』「これだけあれば翠屋の菓子を全種類買ってもお釣りがくる、と思う」『マジかの、買って!』「いや、買わんて……ともあれ、これで問題だった金の面はクリアした。後で紙と墨を買い込みに行くぞ」『お前様はケチじゃ! ケチケチじゃ!』「喧しいわ。どうせ泡銭だ。余ったらちゃんと買ってやるからそれまで待てって言ってんの」『我があるじさまはなんとお優しいのじゃろう。ウチに来て舎弟をふぁっくして良いぞ』「意味もなく久遠ちゃんを売るんじゃない。女くらい自分で口説くわ……って、そうだよ。久遠ちゃんとアリサだよ。あれって絶対アリサに久遠ちゃんの正体バレたよなぁ、また面倒なことにならなきゃいいけど」『フラグ乙じゃな』「おいバカやめろ。ただでさえ『今度はアリサかー』みたいな気分になってんだから。これ以上イレギュラーは勘弁してくれよ」『吸血鬼幼女に続いて金髪ツンデレ幼女か。胸が熱くなるの』「こっちはただでさえすずかに搾られて減った血が、冷や汗で更に冷たくなってるよ……」