月村安次郎による月村家襲撃の一件から、僕───和泉春海が入院してから早10日が経とうとしていた。最初の3日は寝たきりの意識不明状態であったとはいえ、目覚めてから既に1週間近い日数が経過し身体の擦過傷や火傷はほぼ完治。むしろ空っぽになるまで絞り尽くした霊力の補填や、擦りきれんばかりに集中力を使い果たしたことによる頭痛に悩まされていたくらいだ。しかしまあ、それであっても元気が取り柄の子どもの身体。5日もあれば日常生活を過ごすに支障にならないくらいは回復する。現に僕も4日目からは病院内を歩きまわって、同じく入院中の老婦人の方々から吐くほど甘ったるいべっこう飴を頂いたこともあった。結局、何が言いたいのかというと。「……暇」───まあ、そういうことである。ポツリと不満を呟いて、バフンと身を投げ出すようにして横になり頭の後ろに組んだ両手をもっていった。病院のベッドといえば不安定な安っぽいパイプ製を想像するものだが、まだまだ発展途上の子どもの背面タックルを何事も受け止めたこの真っ白のベッドは軋む音ひとつ立てることもなく。何となく周りを見渡すと、そこにあったのは『前』を含めて僕が経験したことも無いほどに豪華な病院の個室。一連の騒動の責任を重く受け止めた月村家当主であり忍さんとすずかの父親である月村征二氏が特別に手配した個室であった。彼にとって僕が単なる子供であり、月村家に対する影響力を全くと言って良いほど持っていないことを考えると、なるほどこれは確かに彼の御仁による謝罪と感謝の気持ちの表れであるのだろう。───僕にとってこれが『大きなお世話』以外の何物でもないという事実を除けば、であるが。正直なところ、僕としては大部屋で他の入院患者と一緒に寝食を共にしても苦でも何でもないのだが。「……やっぱり金持ちは好かんね、どうも」意識せず、内心が声に乗って漏れ出る。別に、単なる金持ちであったなら思う所は何も無い(そもそも金持ちが全部嫌いならアリサやすずかとこんなに仲良くなってはいない)。むしろ部下のため家族のために責任をもって努力する姿には尊敬の念を抱くことだってある。つい先日、本人直々に謝罪にきた月村征二氏の姿は堂々としたもので、その姿には僕なんかでは計り知れないほどの指導者としての風格が満ち満ちていた。彼から気押されるものが無かったと言えば、やはりそれは嘘になるのだろう……が、やはり『それ』と『これ』とは別なのだった。ほとんど治りかけの僕にこんな部屋を宛がうくらいなら、もっと重篤の患者にでも宛がってやれと。つい、そんな捻くれた思考が首をもたげてしまうのだ。結局のところ、与えられるだけ暮らしが我慢ならないのだ、僕は。ただ単に日々を生きるためだけの金を与えられ、無味無臭の世界を子に強いる『前』の親だった“アレ等”───「───あー、いかんいかん。やっぱり軽く参ってる」横になったまま、フルフルと首を振って鬱々とした思考の泥沼から抜け出す。ほぼ寝たきりの入院生活(いや、歩き回ってはいたけどさ)は、どうやら自覚のないところで僕自身をかなりネガティブな人間にしてしまったようだ。今さら『前』で大嫌いだった自分の親を思い出すとは、僕もかなり極まってきてると見て良いだろう。いつもならば傍に葛花がいて遠慮もなく愚痴を言って言われてを繰り返すことで悩む暇もないのだろうが、生憎と彼女も今は和泉家で母や妹たちと過ごしている。本来なら母親あたりが小学1年生の僕と一緒に病院に泊まり込むのが普通だが、ウチには更に幼い妹たちがいるのだからそっち優先は当たり前である。何だかんだで母親や妹たちも毎日お見舞に来てくれてたしね。「お?」───と、思考をニュートラルに戻すべく一度考えを止めて頭の中をまっさらにしていると、魂視が病室の前に特徴的な気配を感知した。思わず緩んだ口元をそのままに、身を起こして枕元に備え付けられている缶の中から一枚のクッキーを取り出した。5日前にアリサたちが持ってきてくれたお土産で、アリサ・なのは・すずかの3人が手作りで作って来てくれたらしく、それはもう大事に大事に食べていたのだが、それでも残りは早数枚。たぶん今日中にでも全部食べ切ってしまうだろう。そうして、ちょうどクッキーを一枚手元に引き寄せると同時に、廊下へと繋がる唯一の扉がガラリと勢いよく開かれた。「くーん!」トタトタと駆け寄ってきた巫女服キツネ耳姿の久遠ちゃんの身体を受け止める。こっちが子どもの状態だと彼女のほうが少しだけ大きいので若干圧し潰されそうになる。「おーよく来たな。いらっしゃい、久遠ちゃん。クッキー食べる?」「くぅん♪」あーんと無邪気に開けられた小さな口に、クッキーを放り込んだ。彼女の口には少し大きすぎたらしく、咥えたクッキーに両手を添えてムグムグしている。うん、かわいい。と。「───こら、久遠。お行儀わるいことしちゃダメでしょ」ピクピクと嬉しそうに動いている久遠ちゃんの金色の耳の撫で心地を堪能していると、開けっ放しのままだったドアからコツコツと静かな足音が僕の耳朶を打ち───「や、いらっしゃい」「こんにちは~、春海くん」───其処には目の前の久遠ちゃんの飼い主であり、10日前の一件で倒れた僕の治療を一身に引き受けていてくれた、神咲那美ちゃんの姿があった。**********「体はもう大丈夫?」「お陰さまで何とか、だけどね。さっきまで暇してたトコ。ほら、座って座って」言いながら、春海は自分が腰を下ろしているベッドを挟んでドアの反対側に在る丸椅子を那美に手渡し彼女が座るのを確認する。ちなみにヒト型の久遠は椅子が無いのでベッドに座った状態でお菓子に夢中である。可愛らしくて大変よろしい。そんな狐耳の少女を尻目に春海はお菓子と一緒にあるカゴの中からリンゴを一個、引き出しの中から皿と果物ナイフをそれぞれ取り出した。「果物、剥くよ」「あ、そんな。お見舞に来たのにそんなことさせられないよっ。わたしがやるから、春海くんは横になってて」「や、そもそも那美ちゃんリンゴ切れないでしょ」「う、ぅ~、それは……」彼の脳裏に浮かぶのは、先日自身の見舞いに来た際にリンゴへナイフを入刀した那美の危なっかしい手つきである。さすがに「芯だけになったリンゴ」等というほど悲惨な出来ではなかったが、果実部分が大きく目減りしていたことは了然だった。「僕もこの1週間はホント暇だったからねー、ちょっとでも何かしていたいのよ」春海としても、この行き詰った感のある入院生活に鬱っ屈していたところに都合よく現れた那美《としした》である。思いっきり世話を焼く気まんまんであった。少なくとも、現在進行形で小学1年生の男になけなしの女のプライドを粉砕されている那美からすればこの上なくハタ迷惑な話である。「う~ん……じゃあ、お願いします」「くーん」「はい、お願いされました」───わたしも耕介さんにお願いして料理おしえてもらおっかな……。そんなことを考えながら地味に沈んでいる那美に気付くこともない春海は冗談っぽく返し、手の中でくるくるとリンゴを回して果実を器用に丸裸へ変えていく。胡坐をかいてその膝の上におかれた皿のなかに繋がったままのリンゴの皮がどんどん落ちて、沈んでいた那美が戻ってきた頃には既に半分近くリンゴの白い中身が覗いていた。ただ見ているだけの状況に落ち着かなくなったのか、───おもむろに立ち上がった彼女は春海の背中に手を回した。「じゃ、じゃあ、今のうちに“こっち”もやっちゃうね」「ん。片手間で申し訳ないんだけど、お願い」言葉の結びと同時に、彼の背に温かな感覚が広がった。胡坐をかいて座っている春海の背中に、右手を添えて目を閉じている那美というこの格好。傍から見れば奇妙な光景であっても、していることは立派な治療行為である。正しくは『霊媒医療』の一端で、先の一件でその殆どがすっからかんになった春海の霊力を那美に負担が掛からない範囲で少しずつ供給してもらっているのだ。葛花や春海であっても難事と言える霊力供給をさらりとこなせるのは、霊媒医療に精通している神咲那美の面目躍如といったところか。本人にその自覚は微塵もないが。「あ゛~~~、何だろこの感じ。足湯のような按摩のようなそうでもないような……」温かな気持ち良さと言えば真っ先に連想するのがそれらだが、同時に背筋に一筋奔るこのゾワゾワとした感覚が何とも。「わたしも子どもの頃ケガするとよく十六夜にしてもらってたけど、気持ちいいよね~これ」「くぅん♪」このゾクゾクッとした感覚が癖になるね!(とか言ったらたぶん引かれるな)那美と久遠が言ってるのはもっとこうポカポカとかの擬音が似合いそうな牧歌的なものであって、間違ってもそんな疲れた中年にありがちな変質的な楽しみ方ではないだろう。ショリショリと音を立てるリンゴとナイフをBGMにしながら、やけに温度差のある感想を抱く2人と1匹だった。「うん、霊力もやっぱりもう殆ど回復してる。どこか身体に違和感とかない?」「いやもう全く。長いことホントにお世話になりました。そっちも退魔仕事で忙しいのにごめんね?」「ううん、わたしは高町先輩や春海くんと違って忍さんたちに何もできなかったから。……せめてこれくらいはやらないと、罰が当たっちゃうよ」「まあ餅は餅屋。危ないことは僕や恭也さんが現状一番の適任だったし、仕方ないよ」そもそも春海も那美も恭也も、本来月村家の件には一切の関わりがない赤の他人なのだが、それは言わぬが花である。元より友達を助けるために各々が出来る限りを尽くしただけだ。そう言って那美に背を撫でられながら肩を竦めた少年が、今度は疲れたようにいきなり肩を落とした。「というか、本当なら誰も怪我をせずに済んだはずだったんだよ。“あんなの”を予想しろとか、無茶振りにも程があっただけで……」丸裸となったリンゴを手の中で食べやすい大きさへとカットしていく春海の脳裏に過ぎるのは、件の敵。艶やかな金髪と底冷えする殺意を備えた美貌の襲撃者───自動人形《イレイン》。彼女の登場は誰にとっても最大の誤算であり、同時にそれは最悪の失敗でもあった。その封印を解いた首謀者、月村安次郎であっても、それは例外ではない。(恭也さんたちの力を借りてとは言え、“あれ”を撃退できたのは素直に誇って良いよね、うん)運が良かった───とは言わない。勝てないならば勝てるような状況へと持って行くのが彼の闘い方であるし、それでも勝てないならばそもそも闘ってすらいない。その時は男の全プライドを返上して那美に土下座して彼女の霊力を分けて貰い、葛花に土下座した上で彼女に全霊力を供給してイレインを倒して貰っていたところだ。少なくとも、春海が真っ向から闘うよりはずっと勝算があるだろう。悔しいことに。イレインと相対した際の恐怖を身体が思いだしたのか、額に一筋の冷や汗を流しながら微妙に後ろ向きな思考をする春海。そんな彼の背を撫ぜた那美がポツリと言葉を漏らした。「イレイン。……ノエルさんとおんなじ、ロボット、なんだよね」「くーん……」「うん。あれは強かった。もう少し強かったら尻尾巻いて逃げてるくらい」まあその場合、そもそもその『逃げる』という行為が可能かどうかについては置いておくとして。そして、そんな言葉を聞いた那美が、目の前にある春海の黒髪をポンと軽く叩いた。「もう……そんなときはすぐに逃げなきゃダメだよ。春海くんはまだまだ子供で、周りの人に頼っても誰も怒ったりしないから」「わかっちゃいるけど、どうもねー」確かに子供ならば頼っても許されるのだろうが……果たしてその理論が、あくまで子供の“ガワ”を被っているだけの春海にどこまで適用されるのか。彼の主観では高校生の恭也や忍、見た目は成人であるノエルでさえ『前』の自分よりやや年下の後輩である。どうしても面倒を見なければというお節介な年長思考回路が首をもたげてしまうのは避け難い。もちろん特定分野では彼等のほうが遥かに優れているということは文字通り痛いくらいに理解しているのだが、……人間、無駄に重ねた年齢の中で培われた自信という名の傲慢は如何ともしがたい。「あー、またそんなこと言って。ご家族の人たちも春海くんのこと心配してたんでしょ?」「してたねぇ……」自分の入院とほぼ同時期に帰国した父にとってはさぞや寝耳に水だったことだろう。最愛の妻と過ごせる折角の休暇を、息子の入院補助に掛かりきりにさせてしまったことは素直に申し訳ないと思う。ちなみに、父母の中で今回の事件は単なる放火であり、和泉春海の怪我は取り残された月村家の娘たちを助けるために負った名誉の負傷とされている。彼が気を失っている間に恭也も交えて決められたカバーストーリーとして家族にはそのように説明されたのだ。聞いた話では謝罪の際に和泉家に挨拶に来た月村家両親と春海の父母は割と仲良くなっているらしく、一緒に謝りに行った忍とすずかが妙に嬉しそうにその報告を彼にしていた。報告するすずかの何故か赤く染まった顔やら、世話に来た和泉家両親の何故か面白がっている様子やら、春海には全く全然微塵も少したりとも訳が分からない。分からないったら分からない。「自分の知らないところで自分の人生に関する仮契約書に勝手に判が押されたような気がするのはなんでなんだろうね」「???」そもそも小学1年生(いや、もう2年生か)の言う事を真に受けるなと。「こっちの話。……うん、リンゴも剥けたし、まずは食べようか。那美ちゃんもどうぞおひとつ」「あ、うん。ありがとう、いただくね」「ほれ、久遠ちゃんも」「くぅん♪」フォークに刺したリンゴに向かって嬉しそうに顔を突き出す久遠の、その口元にリンゴを放り込んでやる。美味しそうにショクショクと甘味を噛み締めているキツネ耳の少女に目を細めつつ、自分もひとつ。うん、甘い。そうして咀嚼しながら、那美の霊媒診断の結果を聴く。「霊力に関しては、もうそんなに心配いらないかな。もともと今日こうして治療に来たのも明日退院する前に念のためって以上の意味はないしね」「結局10日間ほとんどずっと付きっきりで診てくれた那美ちゃんのおかげでね。改めてありがと」「いえいえ、どういたしまして」彼の言葉に、那美は照れくさそうに微笑んで。「十六夜ならもっと短い期間で治してくれるんだけど、わたしだとそこまでの力はないから」「さっきも言ったけど、人には向き不向きがあるんだから。それでも訓練次第で大概のことは如何とでもなるなる。それに、誰に劣ってるから那美ちゃんのしたことが無くなる訳でもないさ」ここで『そんなことないよ』と言わない辺り、彼が“前”において『隠れS』と言われた由縁である。「もっと効率の良い治療法だって無くは無いんだけど……」「え、そうなの? どんな感じの術?」少し小さな声で呟いた那美の言葉を拾って尋ねる。そんなものがあるのなら、どうして普段から使用しないのか。「え、えっと、……その、えっと、ね?」が、どう言う訳か春海の疑問に、彼女は照れでほんのり赤くなっていた頬の色を僅かに強めた。「?……那美ちゃん?」「くぅん?」「う、う~~~……そっそうだ! そんなことよりも、春海くん! どこか痛い所とか残ってない!? 今日で最後なんだし、どこだって治療しちゃうよー!!」「へっ!? あ、と、そう?」突然身を乗り出すようにして言いだした那美に、口に加えたリンゴもそのままに仰け反って距離を取る。一方の春海は、たぶん房中術か何かってことなんだろうなー、と乙女の恥じらいを台無しにする無駄に高度な洞察をしつつ、ならばと脇腹の辺りを手のひらで押さえて見せた。「なら、左のこの辺りにちょっと違和感がある、かな。イレインに投げられたときに変な風に打ったらしくて、フィリス先生にも何度かマッサージして貰ったりもしたんだけど」「あっ、だったら見てみるね。ほら、脱いで脱いで」「あいよ」目の前の少女がせめてもう一回り年上だったらウッハウハになってたであろう台詞を言われながら、春海は寝巻き代わりのじんべえの前を解き、うっすらと割れた腹筋や、わずかに傷痕の残る肌を彼女の目前に晒して───、「那美、なんかフィリスが話したいことがある……って?」ガラリ、と病室の扉を開いて現れた私服姿のリスティだった。「…………」 ←半裸で女子校生に迫る少年H。見た目7歳、中身おっさん。「あ、リスティさん」←顔を真っ赤にして男の肌に手を這わせる少女。かわいい後輩。「くぅうん」 ←リンゴで買収された(と思しき)キツネ耳の美少女「実に残念だよ、変態」「だったら少しは残念そうにしろそしてこれを外せ外して下さいお願いします」掛けられた手錠の冷たさに慣れた自分がちょっと嫌な春海だった。**********「まったく、なんか会うたびに僕に手錠かけてないかアイツ……」「くーん♪」慌てた那美ちゃんの必死の訴えの甲斐もありなんとか自身の無実を証明できた僕が、目の前でちょこんとお行儀よく座っている久遠ちゃんの耳の裏や顎下をクリクリしながら一人ごちる。色んな意味で現在僕の恩人筆頭となっているその那美ちゃんはというと、リスティがこの部屋を訪れた際に言ったようにフィリス先生が彼女を呼んでいるらしく、久遠ちゃんを僕に任せて行ってしまった。なので、今この病室にいるのは僕と久遠ちゃんの2人きりである。「…………」「~~~♪」友達のように思っている少女と同じ空間を共有し親しげに触れ合う男。巫女服を着た友達を同じベッドの上に侍らせペット感覚で撫で回す男。やっているのは同じことなのに、字面を変えると漂うこの犯罪臭。後者の方がより事実に近いというのがまたやってられない。そもそも友達という呼称すら別の意味に聞こえるのは一体どうしたものだろうか。友達(ペット)。「というわけで、取り出したるは残り数枚となった3人娘の手作りクッキー」「くぅうん♪」まあ考えていても仕方がない。僕は缶の中から残ったクッキーの内一枚を取り出し、眼を輝かせるキツネ少女の前に差し出した。すぐさま伸びて来た小さな手をサッと躱し手で壁を作るようにして、言う。「待て」ペット感覚というか、まんまペットだった。ペットでもいいじゃないかにんげんだものはるみこの場に那美ちゃんがいれば冗談抜きにたたっ斬られそうなことを考える僕。一方、「くぅーん……」生まれて初めての犬扱いを喰らったであろう久遠ちゃん。思いもしなかった『待て』にピンと立った耳をしゅんと俯かせて、それでも素直に待つ彼女の姿に僕は忠犬の素質を見る。彼女の目はしきりにクッキーを追っていたが、そんな光景を見ても僕の良心は小揺るぎもしない。これは躾けなのである。「……お手!」差し出した右手の平に、即座に乗せられる小さな右手。「おかわり!」「くぅん!」バッ、と今後は左の手。それを見て満足そうにウンウンと頷く僕。そんな僕の反応に、途端に久遠ちゃんの瞳が輝き出した。「じゃあ次で最後な?」なんて爽やかに笑って続けた僕の言葉に、彼女の眼が俄然やる気が燃えている。静かに集中力を高め自慢の耳をピンと張っている久遠ちゃんに姿を認め、僕は厳かに最後の命令を下し───「『くぅん』以外に鳴いてみろ」「くぅぅううううううううううううん!!!!!!」飛び掛かってきた。**********海鳴病院の清潔な廊下を、3人の少女が歩いている。「春くん、もう元気になったかな~?」3人娘の右、いつものように頭の両側で結んだ髪を跳ねさせた高町なのはがウキウキ笑いながら言う。「あれ、アンタ最近来てなかったの? わたしはおとといに1回だけ来たけど、あいっ変わらずムダに元気がだったわよアイツ」それに返したのは3人のうち真ん中を歩く少女、アリサ・バニングスだった。「まったく、普段から鬱陶しいくらいなんだから、もう1週間くらい病院で大人しくしとけばいいのよ」「もう、アリサちゃんったら」両腕を組んでさも興味なさそうに返すアリサに、横で聞いていた最後の女の子───月村すずかが苦笑いしつつ、諫めるように言った。彼女とてアリサが本気で行っている訳ではないことは何となく分かっているので、そこまで強くは言わない。今も入院している友達の少年いわく、ツンデレなのだ。そんなことを思い返しながら、すずかは先日仕入れた情報を披露した。「あ。でもね、きのう春海くんのお見舞に来たとき、今週中には退院できそうって言ってたよ!」「うにゃ、そうなんだ! だったら、今度のお花見には間にあうかなぁ?」「うん、たぶん大丈夫だよ。春海くんも絶対に行くって言ってたもん」「っていうか、」と。人を挟んで俄かに盛り上がる親友2人の真ん中で、呆れたような声が上がった。「すずか。アンタ、もしかしてハルのお見舞って毎日来てるわけ?」「え? う、うん」訊かれていることの意味が解からず、戸惑い混じりに頷くすずか。そんな彼女の様子にアリサはわかり易く「はぁ~……」と溜息をついて見せた。「いくらなんでも通いすぎよ。確かにハルのケガはすずかの家の火事が原因かもしれないけど、だからってすずかが気にすることなんてひとっつもないんだから」「そ、そんなのじゃないよ!」「だったら何なのよ」言いたいことがあるなら言ってみ?言外にそう続けたアリサに、すずかは両手の人差し指をツンツンしながら恥じらうように……、でも、どこか嬉しそうな顔をしながら。「それは、その、……助けてくれたお礼というか、好きでしてることというか……」「は? 何って?」「とっ、とにかく! ケガしたことを気にしてとかっ、そういうんじゃないから! ゼッタイ! むしろ気にしてないくらいだし!」それはそれでどうなんだろう。と、最近テンションが浮ついているす親友に微妙な顔をする。明らかにその元凶となっているであろう件の少年に、今度こそ事故のときのことを訊き出してやると3人の中で1番のしっかり者を自負する少女が決意を新たにしたところで。「あはは。まあまあアリサちゃんもそのくらいで、ね? ほら、もう春くんの病室もすぐそこだし」「む、……それもそうね」いまいち話の流れを理解できているのかいないのか、変わらずニコニコと笑顔を維持したままのなのはだったが、確かに彼女の言う通り、同級生の和泉春海が入院している病室が廊下の向こう側に見えている。すずかへの追及もここまでだろう。(まあいいわ。この後ハルを問いつめれば良いだけわよね。どうせアイツが何かやったんだろうし)なんて、本人が聞けば全力で無実を主張しそうなことを考えながらも、3人の脚は変わらず件の病室へ然したる障害もなく辿りつく。「……いいわね、2人とも。どうせまた扉の前で驚かそうとしてるに決まってるんだから、ビビっちゃダメよ」「「あ、あはは……」」自分の言葉に苦笑いする2人を放置して、引き戸に掛けた手を思いっきり引っ張ってドアを開け放つ。───そこには。「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおごめんごめんマジごめん正直調子に乗った謝るから止めて噛まないで舐めないで割と本気でけっこう気持ち良いからうぉぉおおおおおおおおおおおおおおう!!!!!!」「くぅぅううううううん!!!」乱れたベッドの上で巫女服を着た金髪の少女に押し倒されている、知ってる男の子がいた。───バタンッ「あは、あはははは……へ、部屋、間違っちゃった、かなぁ……?」アリサとなのはの眼が、光の速さで扉をシャットアウトしたすずかに向けられた。「いや、明らかに今ハルが狐耳の女に押し倒されてたんだけど……」「た、たぶん抱き枕か何かだよ!」春海が小学1年生にして狐耳金髪美少女の抱き枕を所持していることにされた瞬間だった。「で、でも、春くんがハムハムされてたような……」「それ用の抱き枕なんだよ、きっと!」「何用なのそれ!?」思わずツッコんだアリサだったが、このままでは埒が開かないとすずかを押しのけ再び扉に手を掛けた。「あ、アリサちゃ───」「こらハルーーー!! アンタ、一体何やって、ん……の?」が、扉を開けて入った先にいたのは、来客用の丸椅子を3つ並べて爽やかに笑う春海だった。「はっはっはっ。やあ、いらっしゃい。今日はわざわざ僕の見舞に来てくれたのか? 何も無い所だが、心ばかりの歓迎くらいはさせて貰おうじゃないか」「……今ここに狐の耳をつけたすっごい綺麗な金髪の女がいなかった?」「ハハハ、何を馬鹿なことを。そんな狐の耳をつけたすっごい綺麗な金髪の巫女服を着た女がいたら僕のほうからお近づきになりたいくらいだ」「さっきからなんか話し方が変じゃない?」「そんなことないYO!」「指むけないで」「あ、はい」その後。二十余年の人生で培ったすべての語彙を尽くして何とか誤魔化すことに成功した春海であった。ちなみに。春海がアリサとなのはを誤魔化している間、すずかは本来お土産用の果物が入っていたであろう籠の中で人形のフリをしている久遠と何度か視線を合わせて冷や汗をかいていた。**********次の日。「昨日はひたすらに疲れた……」休息のために入院しておいて疲れたも糞もないだろうという意見向きもあるやもしれないが、悪いのは可愛すぎる久遠ちゃんである。だから僕は悪くないというわけで、ようやく退院の許可が出た僕は人の行き交うロビーのソファーでひと心地ついていた。今は退院の手続きをしている母親待ちである(入院にかかった費用は全て月村家が支払っている)。入院期間中にお菓子を貰ったり等々でお世話になった患者さん達には既に挨拶は済ませていた。全員が「もう入院なんてするもんじゃないよ」と優しく送り出してくれた記憶を思い起こしてほっこりする。───チャリン、チャリン。「……ん?」そのまま、そのうち高町家が花見を企画するらしいので今回の入院で世話になった人たちにお返しとして弁当か何か持って行こうかな、なんて考えていると、少し離れた場所にいる女の子が財布の中身を盛大にブチ撒けた。どうやら自動販売機でジュースを買おうとしていた際の事故らしい。とはいえ、如何に僕とてそれを黙って見ているほど冷たくはない。こちらにコロコロと転がってきた500円玉を手にとって少女の方を見ると、彼女の周りでは既に親切な人たちがコインの大半を拾い終えており、持って来たのは僕が一番最後のようだった。「おーい、そこの君」「へ? わたしですか?」後ろから声を掛けられて驚いたように振り返った彼女に僕は頷いて、手の平に置いた500円玉を差し出した。「そう、そう、君だよ。……これ、こっちまで転がってきたんだけど、たぶん君のじゃない?」「え、あ、あー! あ、ありがとう! すっごい助かりました!」彼女の眼は何度か手に持った財布の中と僕の差し出した500円玉を往復していたが、やがて財布の中身が合わないことに気付いたのだろう。すぐに理解してお礼を言ってきた。ぺこぺこと頭を下げてくる女の子に手を振って応じる。「どういたしまして。じゃあ、気を付けてな」───目の前の“車いすに乗った少女”に僕はそう言って笑いかけ、タイミング良く手続きを終えた母親と合流した。「うん! ほんまにありがとな!」───背後から聞こえた彼女の関西訛りが、妙に耳に残っていた。(あとがき)第二十四話「巡りあわせが長生きの秘訣」投稿完了しました。最後の娘は一体誰神はやてなんだ……!(迫真)というわけでバレバレの引きのままあとがきですよ。こんにちは、作者の篠航路です。前回の番外編は思いのほか受け入れて貰えたようでひと安心しました。感想で言われて気付きましたけど、なるほど確かにこの妹たちはモバマスの某きぐるみ狂いと腹パン天使さっちゃんっぽいっすね。作者的には某ローゼン明電の双子人形の特長を足してそれぞれ2で割ったつもりだったのですが。ほら、口調とかそれっぽくない? 違ったっけ?と、前話の釈明はこのくらいにして。今回は病院での主人公と、それを見舞う人々がメインとなっております。ほのぼの最高や! まあ見舞いにくる人数が余りに多すぎたんで今回登場した人+αくらいが原作とらハの那美ルートに関わっていくんじゃないかなぁ。個人的に原作レンルートを余り崩したくないのが悩みどころ。正直あの晶とレンの友情ファイトはリリカルにおけるなのはとフェイト並みに好きなバトルなのよねー。と、まあ。あとがきだか愚痴だか分からなくなってきたので今回はこの辺で。では!