3月も半ばを折り返し、僕にとっては5年後まで縁も程遠い卒業式イベントが終わったのも記憶に新しい今日この頃。春の陽気も強まり、冬の早朝はまさにヒーローの如く八面六臂の活躍を見せていたコタツ様も長い休暇を検討され始めたある日の朝のこと。けたたましく悲鳴をあげる目覚まし時計に耳朶を凌辱されながら、畳に床布団といったやや和風テイストな自室の中で目を覚ましていた。小学校に上がると同時に、友達を家に呼んだときに無いと不便だろうと母さんが自分の息子に宛がった部屋だった。ただまあ、そんな親の気遣いを余所に息子本人が家まで友達を招いたことは皆無だったりする。人には見せられないもの(予備の呪符とか)とかも多いしね。頭の中で誰に言うでもない言い訳をしながら、布団を剥いでむくりと身を起こす。寝崩れていた作務衣の袂を惰性で正した。まだ覚醒して間もないが、それでも眼に眠気を残すことは殆ど無かった。もともと寝起きは良い方だし、子どもの身体は回復が早い。“とある理由”から今朝の鍛錬は中止となったため、睡眠時間をいつもより多めに取ることができたとなれば尚更だ。ふと、今まで自分が横になっていた位置から隣を見る。其処には、「すー……すー……」白に朱で縁取られた襦袢(寝巻きらしい)に身を包み、腰まで届く白髪をベッドの上に大きく散りばめた、キツネの耳と尻尾を備える童女が居た。言うまでもなく、僕の師匠・パートナー・ペットなどなど某女子寮の管理人並みの便利さを誇る妖狐『葛花』その人である。───コイツがいると、あったかいから冬場はベッドから出たくなくなるんだよなぁ……。そのこともあって、冬の季節のころは毎年一人で寝起きするよりも辛いのだ。反面、寝ているときはポカポカと温かいので、この天然の湯たんぽの争奪戦が兄妹間で頻発している。大抵は喧嘩両成敗という名の不公平条約のもと財宝(湯たんぽ)は母さん行きとなり、敗者は身を寄せ合って寒さを凌ぐことになるのだが。いやそれも十分あったかいけど。今日こうして僕と葛花が床を共にしているのは、単に昨夜の争奪戦(ストファイ)を僕が勝利したからだった。とりあえず、寝起きで僅かにモヤの掛かった思考回路に任せて何となくじ~~~っと眠る葛花を観察する。「……ぅむん……んんっ」布団を剥がれたことで初春の残寒が肌を刺激したのだろう。彼女はそのモフモフとしたぶっとい純白の尻尾を抱き枕代わりに抱きしめながらムズがるように身じろぎし、……その拍子に襦袢の裾が捲れてこれまた雪のように白い素足が覗いた。僕がそっちの人ならば今すぐ抱きしめて二度寝している愛らしさなのだが、ぶっちゃけ5年も同じものを見続けると慣れる。飽きたと言っても過言ではない。その上枕元でだらしなくヨダレを垂らしてニヘラとだらしなく笑う光景を見ていると、僅かに芽生えたそんな気も完全に失せるというものだ。気分としては保育園のお昼寝タイムで眠っている児童たちを見守る保母さんが一番近いかも知れん。まあ、しかしそれでも時折ピクピクと動くキツネ耳を見ていると無性にイジりたい衝動に駆られてしまうのは人として当然の摂理だと思っている。「えい」「きゅんっ」なので、素直に諦めて湧き上がる欲求に身を任せることにした。手が毛先に触れると同時に、感触がお気に召さなかったのか呻きのような声を漏らして不快そうに鼻先をスンスンさせていたが、そんなもので僕が止まると思ったら大間違いだ。自分の欲求に身を任せられる男の中の男。和泉春海をどうぞよろしく。目標は狐耳の後ろ側。髪を同色の毛が生え揃ったそこは、しかし人間の髪以上に質が柔らかく、触ると新雪のようなふわふわとした感触が返ってきた。人と同じように毎日(僕が)シャンプーで洗い、毎日(僕が)丹念に毛繕いを重ねたそれは、まさに極上の手触り。生え揃った毛先の繊細な感触は108技の一つ「トリミング術」の賜物である。自分で言うのも何だが僕ってすげぇ多才ですね。……まぁまぁ。正直? いくら動物とはいえね? 眠った女の子の身体を好きに弄り回していいのかという躊躇いもね? 多少はね? ありますよ? ───あるけど、ねぇ?「…………まぁ、こいつが寝てるときくらいしかこんなに触われないですし、ねぇ?」別にいいよね、ペットだし。ねぇ?「……んぅ……むにゅ、……ふごっ」というわけで、そのままたっぷり10分ほど葛花の狐耳を無言で弄って(毎朝の)日課を終えた僕だった。そうして最終的に目を閉じたままビクンビクンし始めた葛花を放置し、ホクホク顔でリビングに顔を出した僕。それを迎えたのは、味噌の香りも芳しい鍋をかき混ぜながら、鼻歌まじりにご機嫌な様子でポニーテールを揺らすやや長身の女性の後ろ姿だった。ドアを開く気配に気付いたのだろう。鍋をかき混ぜる手もそのままに、こちらを振り向いた彼女は僕を認め───、「あら、───おはよう、春ちゃん」そう言って確かな母性を感じさせ立ち振る舞いと共に女性───和泉家の家事を一手に引き受ける誇り高き専業主婦、和泉春海の事実上の母親である『和泉かなみ』は、ニッコリと微笑んだ。リビングと連結したキッチンに入って冷蔵庫を開き、お気に入りの低脂肪牛乳を取り出しながら僕も朝の挨拶を返す。「うん。おはよ、母さん」「春ちゃんがこの時間まで寝てるなんて珍しいわね。いつもならジョギングから帰ってくる時間じゃないかしら?」「昨日言ったでしょ、今日の夜から友達の家に泊まるって。遊ぶために体力はとっとくの」「あらあら、そうなの」息子の言葉にクスクスと可笑しそうに笑う母。実際は月村邸にて襲撃者に備えるためだという事実を知れば、彼女はどう思うのだろう。言わないけど。「確か月村さんのお宅よね。あんまりワガママ言って迷惑かけちゃダメよ?」「わかってるって」隠し事をして身としては、この話題は精神衛生上よろしくない。とっとと話を逸らすが吉である。「それより、どうかしたの? さっきからご機嫌だけど」「んふ。あらあら、あらあらあら。やっぱり親子なのかしら? わかっちゃう? やっぱりわかっちゃう?」ええから早よ言え。飲み終えた牛乳を冷蔵庫に仕舞い、用済みとなったコップを水洗いしながら冷ややかな視線を向けたところで敵も然る者。赤らめ頬に空いた左手を添え、むふふと母親に有るまじき声を漏らしていやんいやんしながら。「今朝早くに電話があってねー、……お父さん、来週末に帰ってくるんですって」大層ご満悦な様子である。「あ、そうなんだ。お盆以来じゃない? 父さんが帰ってくるのって」「そうなの! 本当なら次の夏までお預けのはずだったんだけどね、あっくんったら忙しいはずなのに無理しちゃって。本当にバカなんだから、もう!」何がお預けなのかはボクコドモダカラワカンナーイ。「『カナちゃんや子供たちのために頑張る』って。お母さん、もう嬉しくて嬉しくて」「お、おう」せ、せやな。個人的にはお互いイイ齢した夫婦があっくんカナちゃんとかマジ勘弁。……あ、我が父のフルネームは和泉秋人である。念のため。「そうよそうよ! あの人ったらさっきの電話だってね、」「あ、ぼく、ちょっと顔洗ってくるッス」「あら、そう?」その残念そうな顔はやめなさい。「なら、ついでに『あの子たち』も起こしてきてちょうだいな。さっき起こし行ったけど、たぶんこの分だとまた二度寝しちゃってるから」「はいはい」「『はい』は1回」「はーい」了承しながら後ろ手にフリフリ。逃げ遅れる前に退却退却っと。子供部屋なう。「ってことでゲタップマイシスタァァアアアアズッ!!」叫びながら勢いよく剥ぎ取った布団の下にいたのは、お互いに程良く伸びた髪を絡ませながら向かい合ってスヤスヤと眠る、控え目に言って可愛らしい2人の幼女。友達の女の子と同じく、それぞれ赤と青を基調としたきつね柄のファンシーなパジャマを着た2人の少女こそ、僕の初めての妹であり小さな侵略者───、「オラ起きろ!───あおな!ようこ!」「ん、んー……おはようです、……ハルにぃ」「……んんっ、んむむむ……あさからうるさいですよー、ハルにいさん」ムズがるように返事をするのはどちらもとてもよく似た顔同士───名を『和泉あおな(台詞上・双子の小さい姉のほう)』『和泉ようこ(台詞下・双子の小さい妹のほう)』という。「お前等はあれだ。いい加減母さんが1回起こしたらちゃんと起きられるようになりなさい。二人とも、来年はもう小学生だろ」「むむ、それはアオたちにゃムズけぇちゅーもんでごぜーますです」「そのときはハルにいさんにおこしてもらうからだいじょーぶです。ハルにいさんもかわいいボクたちをおこせてしあわせでしょ?」「喧しいわウリ坊ども」「こーら。アンタ達、あんまり口の中にモノを入れたままお喋りしないの」「「「はーい」」」大皿に乗った黄金色に輝く卵焼きを摘まみ、茶碗の白米と共にかきこむ。まいうー。「あと、ようこはともかく、あおなはその話し方もどうにかしないと」なんか無理矢理キャラ付けした感があるし。「おそとでのハルにぃのまねっこでごぜーますです」「だからおこられるのもハルにいさんひとり」「そんな萌えキャラの出来損ないみたいな語尾の責任押しつけられても……」とんだ責任転嫁もあったものである。「ま、アオちゃんだけダメってことは、やっぱりボクがこのなかでいちばんおとなってことですね!」「あー! ようちゃん、そりゃズルっこでごぜーますですよ! アオも! アオもハルにぃたちとごいっしょ! ごいっしょしましょーぞー!」「口調が愉快な事になってるぞ、あおな」木目の碗を持って、中の味噌汁を一啜り。本日も非常に深みのある味わいを堪能しつつ。「大体、未だ箸も上手く使えない奴が大人なんて、なぁ?」「なぁっ!?」フッ、と大人の余裕で笑う僕の視線の先には、お子様用のスプーンでご飯を食べる和泉ようこの姿が。「そ、そそ、そんなことでおとなじゃないなんて、お、おーぼーです! てっかいをようきゅうしましゅ!」「よーきゅー!」「おいおい、こんな小さなことで大きな声をあげるなんて、やっぱりまだまだお子さ───」殴られた。全員。「静かに食べなさい」「「「はい」」」「じゃあ、お母さんはちょっと出かけてくるわね。帰りは昼過ぎ。オヤツはいつもの戸棚の中、お昼ごはんはちゃんと冷蔵庫に入れてあるから。それまで全員でしっかりお留守番なさい。あと春ちゃんは、ハナちゃんが起きたらごはんあげるのよ?」ちなみにハナちゃんとは葛花の愛称である。でも今回アイツに出番は無い。番外編だしね!「了解。行ってらっしゃい」「「いってらっしゃーい」」「ええ、行ってきます」さて。「というわけで、これより本日の皿洗いのミッションを執り行います」「「おー!」」そんな僕の宣言に、存外素直に従う妹たち。基本的に我が家の家事炊事はすべて母さんがこなしているが、休日の皿洗いと洗濯物たたみだけは子どもの仕事となっている。普段は『小さな野獣(葛花視点)』の名を欲しいままにしている彼女たちも母には忠実なのだ。「まあ、しかたありませんね。かしこいボクたちがハルにぃさんをたすけてあげます」「しかたねーです!」「はいはい」いつも通り僕がスポンジで食器を洗い、洗った皿をあおなが乾いた布巾で空拭きし、ようこが食器棚へと運んで行く。…………。もうじゅうの あおな と ようこ が しょうぶをしかけてきた!「というわけで、きょうは『しりとり』でしょうぶです」「きょーはまけねーです!」説明しよう! ただ静かに家事手伝いするだけでは暇なので、何かゲームをしながら家事を行なうのが彼女たちの最近のマイブームなのだ! 負けても特にペナルティは無いが、勝者は勝ったという事実をそれはもうネチッこく主張してくるので腹立たしい事この上ないぞ! 「にしても『しりとり』か。なんか1周まわった感じだな」確か先週はナゾナゾだったか。『ボクたちの“ほくろ”は何個でしょう?』とか戯けた問題を出された時は危うくブチ切れ寸前までいったものだ。結局本人たちも答えを把握していなかったらしく僕の勝利に終わったけど。詰めが甘い。「ふふん、いつまでもおなじボクたちではありませんよ」「われにひさくあり! です!」「さよけ」どうにも、此度も何やら姑息な策を講じてきたようだ。懲りない妹御たちである。「じゃあ僕からな。最初は『しりとり』の“り”で行くか。……『りんご』」本来ならば『リップ』等々“プ”攻めをしてやるところなのだが、以前それをしたら半泣きで蹴り掛かって来られたことがあるので今回は普通に。皿洗いの最中にリアルファイトまで発展することがあるからコイツ等は中々侮れない。「ご、ご、ご……『ゴリ』でごぜーます!」「そこまで行ったら『ゴリラ』って言え」そもそもそれは人名です。「ならボクは“ラ”ですね。『ラスク』」「お洒落なモン知ってるな……『クマ』」「『マクド○ルド』!」お前はお前で何でさっきからそんな著作権的に微妙なラインを突いてくるんだ。そんなこんなで『しりとり』も意外に白熱して順番もそろそろ十周目に差し掛かった頃。洗う皿の数も殆どなくなり今日のゲームは引き分けかと考え始めた…… “それ”は起こった。───『ひさく』とやらの、発動の瞬間だった。「『たい』!」「……『イルカ』ですね」「『カニ』」「『にんじん! あっ……さん!…です!よ!』」…………。「「……」」ドヤァしばくぞ貴様ら。結局この日の勝負は皿洗いが終了したことで時間切れのノーゲームとなった。納得できるかこんなん。**********そうして妹たちと遊びながら皿洗いを終えた後。安次郎の襲撃に備えて月村邸へ顔を出すのは夕方からであるため特にすることも無くて手持無沙汰となり、リビングのソファーにもたれて月村家から借りた小説に目を通していた春海に、背後からあおなの元気な声が飛んできた。「ハルにぃハルにぃ!」「あ?」吸血鬼の一族から借りた本が吸血鬼狩りの物語とは一体どういうギャグなのだろう。それでも歳甲斐もなく若干ワクワクしながらページを捲っていた彼が本から顔を上げ声の方へと目を向けると、そこには相も変わらず無駄に瞳をキラキラさせている上の妹がいた。「なんだなんだ、唐突に」「おりがみ! おしえてくだせー!」デフォルメされた狐が正面に大きくプリントされたシャツに動きやすいショートパンツ。肩に掛からないくらいで切り揃えられたショートの髪は最近母親や下の妹の真似をして伸ばし始めているらしいが、どうせ手入れが面倒になってすぐ元に戻すのだろうと春海は睨んでいた。そんな妹の手には、いつだったか買い物の際に母に買ってもらった折り紙が握られていた。「別に良いけど……今日は何を折る?」「どうぶつさん!」「よしきた」言って、読んでいたページに栞を挟んでパタンと閉じる。今日からしばらく月村家に泊まり込みで護衛にあたるため家に帰ってくるのは数日後になる。偶には子どもの我が儘に付き合うのも悪くないだろう。そんな無駄に年上のナルシズムに浸った仏心(のようなもの)に酔いながら、リビングのテーブル席について色とりどりの正方形の紙を前に、兄妹2人でそれぞれ一枚ずつ手に取った。「ほれ、最初は犬だ。まず半分に折ってみな」「イヌはもうしってるのです! もっとおっきいのがいいです!」「よりにもよってサイズの変更を要求するか……」流石のお兄ちゃんも元々ある折り紙のサイズを大きくするのは無理っすわ。この妹は笑顔で理不尽な事を要求するからなかなか侮れない。「おっきいのは今度また用意してやるから、今日は別の折り方を教えるってことで我慢しなさい」「むむぅ~……しゃーねーです! がまんです!」「うむ、いい子だ」「えへへー」この娘は基本的に兄の言うことは大体のことには従う天真爛漫な良い子なのだ。3歩も歩けば大概別のことに興味を移して忘れてしまうが。「それで、なにをおるですか?」「そうだなー……トリとか?」ニワトリとか? でもただのニワトリじゃあ面白みが無いなー、うーん、飛べない鳥かー、とまで考えて。「……ペンギンでも折るか」そういえばと、高町家においてなのはの部屋に置いてあったペンギンのぬいぐるみが彼の頭に浮かんだ。「ぺんぎん、って何ですか?」「え、お前ペンギン知らねえの?」「しらねーです」まあ小学1年生のアリサやすずかが歳の割に博識で忘れそうになるが、これが子どもの普通である。春海は傍にあったメモ帳の上に滑らかに鉛筆を走らせ、存外絵心のあるペンギンのキャラクターを描きながら、「ペンギンっていうのは、すごく寒い場所に住んでる鳥でな。鳥なのに飛べずに泳ぐのが得意で、子どもと一緒にヨチヨチ歩くのが可愛いんだこれが」「かわいいですか! みてみてーです!」「後で図鑑を見せてやるから。ほれ、折るぞ」「あい!」それぞれ選んだ色おり紙を弄び春海は実際に折り方を見せ、時折り手を取り補助をしながら単なる紙を動物の形にしていく。「……それで、今度はそこを折って……そうそう」「こうでごぜーますか?」「うん、よしよし。あとは仕上げに顔のところに色エンピツで丸い目を描いて……ほい完成、と」「おー!!」そうして完成したペンギンを、あおなはキラキラした眼で掲げて。「これがぺんぎんさんでごぜーますか」「おう。きちんと二本足で立つんだぞ、これ」そう言って、春海は妹が作ったペンギンを軽く開いてテーブルの上に立たせた。「わぁ!」「更にサービス。子ども達も加えてペンギン一家の完成である」次いで、妹に教える横で並行して作っていたミニサイズの折り紙で作った小さなペンギン2匹をその横に立たせた。器用なものである。「わぁ、わぁ! すげーすげーです!! ちょっとようちゃんに見せてくるです!!」「あ、おい」興奮した様子でドタドタと走り去っていく妹の後ろ姿に手を伸ばして、……空を引っ掻いた手をしばらくプラプラさせてから、そのままガリガリと後ろ頭を掻いた。「まったく、アイツは少しくらい落ち着いて行動できんのか……」まあ引っ込み思案な性格より万倍マシだとは思うが、それにしても忙しない生き方をしている妹である。日常生活を全力で楽しんでいるという点においては、あれはもう一種の才能だろう。そうでも思わないとやってられないとばかりに溜息一つ零して、残された兄は仕方なく机に散らばる色おり紙を片づけ始めた。「……そろそろ昼飯の準備でもするか」遊んだ後の片づけも終わり、小説の続きも一気に読み終えた頃。正午を間近に迎えたことを壁掛け時計から教えられた彼は、兄妹3人分の昼食を用意するために腰を上げた。母が昼食は冷蔵庫にあると言っていたので、たぶんメニューは冷たいままでも食べられるものか、あるいはレンジで温めるものかのどちらかなのだろう。「ごはんは炊けてるかな」なんて考えつつ、台所に入り備え付けの冷蔵庫を開く。と……その眉根が、ふと気が抜けたように緩んだ。「やっぱ侮れないな、アイツは」彼の目の前には、あおなと2人で作っていた親ペンギンと、さっきまで何の表情も無かったはずの子どもペンギンが一緒にニコニコ笑顔で嬉しそうに笑っていた。母親が用意していたタケノコの炊き込みご飯とほうれん草のゴマ和え、朝の残りの味噌汁を温めた昼食を3人で行儀悪くワイワイと騒ぎながらとった後、食べ終わった3人分の食器を流し場で洗う春海へと声をかけたのは、愛用のヘアブラシとお気に入りのリボンを持った下の妹だった。「ハルにぃさん」「今度はどうした」振り向かず、正面にあるステンレスの壁を鏡のように利用して背後の妹と目を合わせつつ話す。そうして残り少なくなってきた食器を黙々と片付ける兄に気を悪くした風もなく、「どうせヒマでしょうから、ボクのヘアセットをさせてあげます」「はあ?……ああ、なんだいつものか」それにしても。「一人で出来ないなら素直にそう言えよ……」「そ、そんなわけないじゃないですか! こどもじゃないんですから、これくらい一人でできます! でもハルにぃさんがボクのあたまをイジりたいって顔するから……」「たぶん病気だよそのハルにぃさん……」それはもうよっぽど危険な顔付きだったのだろう。「だから、やらせてあげます」いつもどおりの不遜な口調でこっちの様子などお構いなしにグイグイとブラシを兄の背に押し付けるようこ。そんな妹のおねだりに、春海は最後の一枚を食器立てに並べ終えてから。「はいはい、せいぜい謹んでやらせて貰いますよっと」布巾で両手の水気を拭き取りながら降参の意を示した。午前中のあおなとの一幕同様、リビングのソファーに座ったようこそこそこに長い黒髪を、その後ろに立った春海がブラシで真っ直ぐに梳きながら。「それにしても、ようこちゃんや」「なんですか、ハルにぃさん」「いや、……」言い淀む彼の視線の先には、和泉家で一台しかない大きめの液晶テレビ。正確には、そんな液晶画面の中にいる、好々爺然とした江戸のご隠居。「幼稚園児の分際で『水戸黄門』は渋すぎやしません?」「ふふん、コーモンさまのおもしろさが分からないなんて、ハルにぃさんもまだまだのようですね」「いや確かに勧善懲悪ものとしてはこの上なく分かりやすいものだとは思うけどさ」もうちょっとこう、実妹に対してアンパンマン的な可愛げを期待したいと思うのは兄の我が侭なのだろうか。「追い詰められた悪いトノサマのあわてた顔は、いつ見てもワクワクしますね」「なに微妙にサディスティックな楽しみ方をしてんだよ」「てーこーする敵をバッタバッタをなぎたおすコーモンさま」「アグレッシブ過ぎる黄門さまだ……」助さん格さん要らないじゃないかと思わなくもない。「決めゼリフの『スケさん、カクさん、ブッ殺してあげなさい』はいつ聴いても痺れます」「史実の黄門さまでももう少しは慈悲深いぞ」何だその情け容赦ない水戸黄門。「個人的に、コーモンさまにはスラダンの安西先生とおなじくらいのフトコロのふかさを感じます」「正直あの漫画もお前らには早いと思うんだけど……」ジャンプ黎明期を支えた名作を寝耳物語にする園児なんて、世界広しと言えど目の前で得意顔を晒す妹くらいなもんである。「とくに、負けているメンバーを立ちなおらせるためにあの人が口にしたセリフは今でも心にのこっています」「ああ、あのシーンだな」確かにあそこはそれまで妙に影の薄かった安西先生を立派な指導者として明確にしている、正にスラダン名シーンの一つだろう。「膝をついて絶望する主人公たち、そこであの名台詞な」「『諦めたら? そこで試合終了だよ?』ですね」「泣きっ面に蜂じゃねえか」降ろしちまえ、そんな指導者。「まったく。僕相手にはそんなペラペラと口が回る癖に、どうして幼稚園でそれが出来ないんだよお前は。聞いたぞ、幼稚園では角っこでムスッとしてるんだって?」「なっ、なんでハルにぃさんがそんなこと知ってるんですか!」そう言って、首元辺りから緩く三つ編みにした先っぽと三つ編み部分の根元を大きめのリボン2つでしっかりと結ぶ。最後に全体のバランスを眺めて最終確認しながら、「バスまで迎えに行ったときにお前等の先生から聞いたんだよ」そもそも其処は去年まで自分が通ってた幼稚園だ。近くを通って先生を見かけたら世間話の一つや二つする。「せっかく母さんに似て美人なんだから。あおなみたいに愛想の一つも振りまけよ。友達なんてすぐ出来る」「い、いやですよ。かしこいボクは一人でも生きていけるんです」やっぱり、この下の妹の教育はどこか間違った気がしないでもない。口だけ番町というか、内弁慶なのだ。「だいたい……」「お?」「『あいそ』なんて……どうすればいいのか、わかりません」「そんな病気こじらせた中学生みたいなこと言われても……」思春期の男子中学生かお前は。この妹のこういうところを見ると、やっぱりあおなの方がお姉ちゃんなんだなと実感する。「じゃあアレだ、笑顔だ笑顔。柔らかい表情で相手と接することを意識してみなさい」「でも、テレビも『スマイル0円』って言ってたし……」「間違ってもそれは笑顔の価値が0円という意味じゃねえよ」今から彼女の来年の小学校入学を不安に思うのは、果たして自分が過保護すぎるのだろうかとは考えずにいられない春海だった。それから、自室で装備(呪符や黒っぽい厚めの服とか)の最終点検を終え、母親が帰り次第いつでも月村家に出発できるように準備を整えた春海がリビングに入ると、肩を寄せて何やら作業している妹2人の姿が目に飛び込んできた。「ん? 何してるんだ、お前ら」「ああ、ハルにぃさん」「おえかき帳でごぜーます!」元気いっぱい叫びつつこっちに突き出されたあおなの小さな手に握られてるのは、確かに国民的人気を誇るウサギの女の子がプリントされた子供用のお絵かきノートだった。「ようちえんでセンセーがみんなに配ってたんです」「です!」「なるほどなー」相槌をうつものの、既に春海はリビングを通って台所の冷蔵庫から麦茶を取り出していた。ぶっちゃけどうでもいいっす。「ああ、そういえばハルにぃさん。これって何かわかりますか?」「あん?」訊かれて振り返った先、ようこの小さな手のひらの上にあったのは、白地に丸っこい四角のシールが幾つも集まった一枚の紙。それを見た春海は、色んな意味で若干の懐かしさを覚えつつ質問に答えた。「そりゃ名前シールだよ」「なまえ?」「シール、ですか……?」「そ。まずシールに自分の名前を書いて……」一枚拝借したシールにペンで自分の名前を書き込んで、「で、そのまま自分の持ち物に貼り付ける。これなら『これは私のものです』って他の人が見ても分かるだろ」「おもしろそうですね」「さっそくやるです!」途端に目を輝かせてシールに覚えたての文字を書き込む妹2人を、春海はエサに群がる犬のようだと思った。「んじゃ、僕は少し昼寝するから。誰か訪ねてきたら自分たちで玄関開けないで僕を起こしに来いよ」「「はーい」」声だけは立派な生返事を背に、春海は今夜に向けて仮眠をとるために欠伸もそこそこに自室に戻っていった。「……ようちゃん」「あ、もしかしてアオちゃんもおんなじこと考えた?」こくり、と頷きあう双子の姉妹。そんないたずらっ子の特有の笑顔で笑う2人の指先には、先ほど使い方を教えられたばかりの名前シールがあった。「すー……すー……」畳敷きの和室に、布団もしかずに枕だけで頭の下に敷いて畳の柔らかさを感じながら大の字で眠る春海。……そんな彼の部屋に、そろりと音も立てずに忍び寄る影2つ。「……にっしっし、でごぜーす」「くっくっく……ハルにぃさん、おかくご、です」眠る兄の両側から迫った2人の女の子はまるで猟犬のような迅速さ(主観)で目的を遂行した。「ただいまー、……あら?」買い物を終え帰宅した母親───和泉かなみが、玄関で靴を脱ぎつつ帰参の声をかけて……まず返事が無いことを不思議に思い、次に不審の声を漏らした。お土産のお菓子を狙って我先にと可愛い2人の娘が飛んできて、そんな妹たちに呆れつつもしっかりと諫めてくれる可愛い息子がやってくる───そんないつもの光景を想像していたのだが。すわ泥棒でも入ったか、と僅かに焦りを覚えたかなみだったが。「こん!」「あ、ハナちゃん。みんなはどうしたのかしら?」足元に擦り寄ってきた飼い狐の葛花(息子が何を思ってこの名前にしたのか未だに謎だ)の姿に安堵して訊くと、もう一度だけ「こん!」と鳴いた葛花がトタトタと走り去っていった。あの先は、たぶん息子の部屋のはずだ。はて、3人で遊ぶのなら大概はテレビのあるリビングで遊んでいる筈なのだが、一体何をしているのだろうか。首を捻りながらも葛花の誘導に従って廊下を歩く。着いた先は、予想通り息子の部屋の前。何故か半開きになっている障子戸を、覗き込むようにして中の様子を確かめる。……すると、「……あらあら」思わず、母としての優しげな声が口から出た。「もう少し、このままにしておきましょうか」「こん!」「ん、良い子ね。ほら、あっちでごはん食べましょう」「こーん♪」そう言って、足元の葛花を抱きかかえて息子の部屋の前を後にする。後に残されたのは、右腕と腹を枕にされて苦しげに唸り声をあげている兄と、その傍らですやすや眠る少女2人。───そんな兄の両の頬には、ヨレヨレの字で「いずみあおな」「いずみようこ」と書かれたシールが貼られていた。(あとがき)みなさん、お久しぶりです。ざっと半年の更新休止の末、皆さんの応援もあってなんとか無事に就職活動を終えることもでき、こうして戻って来ることと相成りました、篠航路です。ぶっちゃけ就活終わってこの1カ月は遊びまくってましたけど。今回は番外之壱。主人公の家族である母親【和泉かなみ】と双子の妹【和泉あおな・ようこ】の登場です。正直1からキャラを作るのがここまで難しいとは思っておらず、書いては書き直しの連続でしたが、何とか彼女たちのキャラクターを際立たせるための最低限の描写は出来たんじゃないかなーと思っているのですが、如何でしたでしょうか?ちなみに主人公からの妹2人の評価は、それぞれ『あおな=くせ者』『ようこ=口だけ番町』です。とはいえ、ここで番外編を書いたのは半年ぶりのリハビリの意味合いもあったため、次回からは本編に戻ってリリカルとらハ勢の魅力を描くことに専念したいと思いますので、これからもどうかよろしくお願いします。