忍さんとの電話も終え、さざなみ寮で久遠ちゃんのご飯をタカッたらしい葛花と合流し(いや、久遠ちゃん、本当にごめん。今度お菓子もって行くから)、やってきました此処は海鳴大学付属病院、通称『海鳴病院』。既に本日のマッサージも済ませ、現在の場所はたくさんの緑に囲まれた中庭のベンチ。視界のうちに見える患者やそれに付き添うナースの人たちの顔には病院という場には似合わぬ、しかし実にのびのびとした笑顔が浮かんでいた。僕が居るのは、そんな中庭の端にある花壇の傍に備え付けられているベンチの内の一つだった。「いいお天気ですね~」「そっすねー」隣に座っているフィリス先生が降り注ぐ日差しに気持ちよさそうに目を細め、僕もその言葉に相槌を打って同意する。フィリス先生も今はちょうど休憩時間のようで、それにお付き合いする形で僕も同席させてもらっていた。……まあ、そもそも同席を頼んできたのは彼女からなのだが。そして、仮にも成人した大人の女性であるところのフィリス先生が小学生相手にそんなお誘いを掛けた理由と云うのが、「葛花ちゃんも、気持ちいいですか~?」『ふん。……ま、撫で心地は及第点じゃ』「よかった♪」───揃えた彼女の膝の上で寝そべっている葛花を、実に幸せそうに撫でている所から御察し頂けると思う。実はこちらにおわすフィリス先生、本人の性格や気性に似合わず近づいた動物から尽く嫌われてしまうという残念体質の持ち主なのだとか。中でも猫からは凄まじいまでの嫌われようで、彼女が撫でようと手を伸ばすと例外なく暴れ狂ってしまうらしい。一方で彼女の姉たるリスティのほうは逆に向こうから寄ってくるほどの動物受けをする体質だというのだから、ほんと、色んな意味で対称的な美人姉妹だこと。ある意味つり合いが取れていると言えなくもないけど。と、いうわけで。「はぁ~、本当にかわいい♪」普段コミュニケーション不足になってしまっている動物(霊だけど)とのふれあいを存分に堪能する若き女医師(御歳 21歳、外見年齢 中学生)の姿が、ここ海鳴病院の中庭で見られていた。緩んだ頬をうっすらと赤く染めて大層ご満悦な様子である。───ただ、少し考えてみて欲しい。いま僕たちが居るのは海鳴病院の、さらにその中庭。時間帯も午後の2時を半分ほど回ったところで、空から照りつける太陽がまだまだ頑張っている頃合い。当然ながら、そんな気持ちの良い日光浴スポットに春先の陽気を目的とした入院患者の皆さま方が集わぬはずもなく、周囲にはパジャマやナース服姿の人々が幾人も見られた。……まあ要するに。(───見られてる見られてる。すっごい見られてる)ホクホク顔で動物を撫でまわすフィリス先生の姿は、周囲からものすごく注目を集めていたり。元よりキラキラと光を反射する眩く見事な銀髪と、童顔ながらに整った容姿を持つ彼女のこと。白衣という病院においては比較的ポピュラーな衣服に身を包んでいたところで注目の視線を集めることは避けようもない事態である。ましてや、そんなフィリス先生がこんな見晴らしの良い中庭で歳甲斐もなく熱心に動物とふれあっているのだ。これで注目されない訳がない。とはいうものの、注目されるだけなら別に問題もないのだが……、(……なんという生温かい視線)なんか、非常にほっこりした空気が流れていた。というか僕も最近気づいたのだが、本人の純朴な性格と幼い容姿がご年輩の方々にウケているのか、海鳴病院のご老人連中やナースさん達の間でフィリス先生は子供扱い(可愛がられる的な意味で)されているようだ。そんな彼女に向けられているのは、まるで孫娘を見守る年寄りのごとく生温かい類の視線。これが異性としての無遠慮な興味本位の視線ならバッサリと無視したり、彼女を連れて場所を移動したりと云った対処も取れるのだが……そんな気配が一切感じられない所がまた哀れみを誘うなぁ……「……ん?」そんな失礼な事を考えながら何となく周りを観察していると、ふと、其処らを歩いているナースの1人と目が合った。けっこうな美人さんだ。僕に見られていることに気が付いた彼女はニッコリとやけに楽しげな笑顔を浮かべ、「…………」(グ!)……なにやらウィンクと一緒に右手を掲げて親指を立てられてしまった。見れば、周りの患者さんやお医者さんたちも無駄に爽やかに笑いながら何度も頷いている。どうやら年甲斐もなく油断しているフィリス先生を拝めて彼等もご満悦らしい。葛花を連れてきた僕のことを称えているようだ。「…………」(グ!)「どうしたんですか、春海くん?」とりあえずそんな彼等にこちらもサムズアップを返していると、そんな僕を不思議に思ったフィリス先生が首を傾げていた。「いえ、ちょっと世代や性別を超えた友情を確認を。……それにしても、本当に楽しそうに撫でますね。見てるだけでこっちもお腹いっぱいになりそうです」「あ、そ、そうかな?……でも、やっぱりこうして動物とふれあえるのは楽しいから。わたし、動物には普段から嫌われてばっかりだもの」「そこまで酷いんですか?」「それはもう、と~っても。この間なんか父さんが育ててる植木鉢のすぐ傍で暴れだすものから……」そこで弱ったような顔をして言葉を切るフィリス先生。当時おこった惨劇を思い出してしまったらしい。「それに、それだけなら……まあ、ちょっと落ち込むくらいで済むんだけど……」「……ん?」フィリス先生の話を聞いていると、視界の端に何かが映ったような気がした。なので彼女の話に耳を傾けながらながらそちらに目を向けて。「おお……」“それ”を見た自分の口から、呆れとも感嘆とも着かない声が漏れてしまった。───にゃー。───にゃーにゃー。───にゃーにゃーにゃーにゃー。その僕の視界の中に入ってきたのは、猫、猫、猫。確かに海鳴市はやたら野良猫が多い土地で、それは海鳴病院の敷地内にも言えることだし、探せば猫の1匹や2匹簡単に見つかることだろう。だが、それにしても多い。数えてみれば5、6匹は普通にいた。多分あれ、海鳴病院にいる全ての野良猫じゃなかろうか。この場にすずかがいたら狂喜乱舞すること請け合いである。そして、そんな猫たちの先頭、そのボスポジションに戸惑う様子もなく無駄に我がもの顔で闊歩している女が一人「やっほー、フィリス。タカりに来たぞー」───やはりというか、何というか、そんなどうしようもない第一声と共に現れたのは、フィリス先生の姉であり恥ずかしながら我が友人でもある、リスティ槙原さんでした。そんな姉を見たフィリス先生が、きゅっと可愛らしく頬を膨らませる。「……あんなふうに会う度に見せびらかすみたいにしてるあの子を見てると、もう悔しいやら空しいやら……!」「あー……」まるで対抗するように膝の上にいる葛花を抱きしめた彼女に、僕は何も言えず。「ん?」当の元凶は、そんな自分の妹の様子に心の底から不思議そうに首を傾げていたのだった。やってきたリスティを交えて、僕等は改めて雑談を交わす。リスティにもベンチで座るよう勧めたのだが、ちょっと立ち寄っただけと断られて彼女は傍にある木に立って寄りかかっている。ちなみにリスティが連れてきた猫たちはフィリス先生が近づくと一目散に逃げ去ってしまい、そのことに落ち込んた彼女を僕が必死に慰めたり宥め透かしたりと云った一幕もあったのだが、関係ないので割愛。というか葛花とリスティも手伝えよ。「春海のところの卒業式は今日だっけ?」「ん? ああ。特に知り合いもいないし、うちはエスカレーター式に中等部に繰り上がるだけだから感慨も何もあったもんじゃないけどな」というか、そもそも卒業式に出席するのは5,6年生だけなので低学年たちは暇なものである。そんな僕たちの会話に、隣に座ったフィリス先生が葛花を撫でながら懐かしげに笑みを深める。「学校かぁ……ちょっと前まで通ってたはずなのに、もうずいぶん昔のことみたいに感じるなー」「まあ、それだけ今の生活が充実してる証拠でしょうね」昔を懐かしむにしても、心の余裕というものは必須なのだろう。そう思いながら、感慨深げな彼女の呟きに僕は同意を込めて返した。「ねえ、リスティ」「ん?」僕がそんな詮無いことを考えていると、フィリス先生が何事か気になったらしく、火のない煙草を口元で遊ばせながら木に寄りかかっている自分の姉に尋ねる。「そういえば、今日はどうして来たの? お仕事は?」「とある紛失物の捜索、その途中だよ」「いや、サボってんじゃん」仕事しろよ、警察官。僕と同じことを思ったのか、隣の妹さんもジトーとした眼差しで目の前のぐーたら警察官を睨む。社会人としても姉妹としても、先のリスティの発言は看過できないらしい。まあ、僕としては他人に迷惑をかけなければ別にサボろうが命令違反しようが何ら気にするつもりはないのだ。ただ、同時にリスティ本人がわざわざこの場でそれを口に出した以上、ここに来ようと思った何らかの理由があったことも理解できるわけで。その用件先が自分の妹なのか、それとも───。「もともとこの近くが捜索の範囲内なんだよ。で、ボクのお目当ての人物がフィリスと一緒にいるみたいだったから、そのついでに、ね?」細めた目でこちらを見据えている様を見れば、彼女が誰を目当てにしていたのかは聞くまでもなかったけど。「それで、何の用だ?」「単刀直入に訊くけど、昨日の夜なにがあったの?」「…………」…………。いやいや。いやいやいや。「いきなり、なんで?」焦りながらも、ぶつ切りの言葉で何とか問い返す。いや、本当になんでだ。いくら一緒に暮らしている那美ちゃんが急に月村家に外泊したとしても、わざわざ僕を訪ねるほど不審なことではないだろう。監視してた訳でもあるまいし。質問の内容からして月村家での一件のすべてが伝わっているわけではなさそうだが、それでもわざわざ他人に確かめるものではない。というか、そうでなくとも情報が早すぎないか?僕が困惑半分疑問半分にそう思っていると、当のリスティがあっさりと答えた。「いやだって、今朝の那美があからさまに挙動不審だったから」那美ちゃーーーん!!? いくらなんでも情報漏洩早くない!? いや、またぞろリスティのことだから抉り込むようないやらしい訊き方されたとかなんだろうけどさ!? それでも君はもうちょっと出来る子だと思ってたなぁ僕!『あの巫女娘、記憶消されたほうが色んな意味で良かったのではないか。本人にとっても、ツキムラの家にとっても』<まあ確かに那美ちゃんも、平気な顔して他人に嘘をつけるような人間ではないけどさぁ……>そもそも僕の周りは全員そんな感じだが。いま目の前に立っている警察官以外。「何か失礼なこと考えてない?」「滅相も御座いません」超能力使うまでもなく鋭いし。「それで? 何があったの?」目を逸らす僕に頓着もせず、彼女にしてはやけに喰いつき気味に言葉を重ねるリスティ。(…………?)それにしても、なぜ彼女がここまで追求するのだろうか? 繰り返すことになるが、同じ寮の住人が外泊した程度で事実を確かめるためにわざわざ他人を訪ねてくるなんて、些か過保護が過ぎないか? そりゃあ那美ちゃんの仕事に僕を巻き込んだ張本人は彼女だ。そのくらいにはリスティも那美ちゃんを目に掛けているであろうことは想像に難くない。しかし、それにしたって、自分の職務を中断してまで訪ねてくるとか明らかにやり過ぎの部類だろう。その那美ちゃんにしたところで、昨夜の一件は霊能関係の仕事の中途(正確には仕事が終わった後だが)で起こったことだ。なればこそリスティも職に携わる大人として、自ら深くまで関わるような“余計な真似”をするはずがない。(そのあたりの匙加減を見誤るような奴ではない筈なんだけどな……?)それとも彼女の言う『今朝の那美ちゃんの反応』は、そんなリスティをして動かざるを得ないほどに挙動不審なものだったのだろうか?……あ、なんかそんな気がしてきた。ともあれ。「───ノーコメント、だ」「…………」彼女には悪いが、『夜の一族』や月村家の事情を考えると僕が正直に答えられる問いではない。それは忍さんやすずか達に対してあまりに不義理が過ぎる。また、ここで嘘を吐いて何事もなかったように振る舞うことは確かに可能なのだろうが、リスティとしてもこうしてわざわざ会いに来ている以上、そう簡単に誤魔化されるつもりもないだろう。それどころか下手に嘘を重ねて不審を抱かれ、読心で『夜の一族』のことを知られては目も当てられない。そして同時に、この場でそのことを説明する訳にもいかない。僕とリスティの間には、今も「?」を浮かべて僕等の会話を窺っているフィリス先生が居るのだから。ここで理由一つ一つを懇切丁寧に話してしまうと、フィリス先生にまで疑念を持たせることになりかねず、それこそ本末転倒である。それらの点を踏まえた上での「ノーコメント」だ。この言葉から何かあったことは悟られてしまうが、それと一緒にこちらがそれを言えない状況にあるという意図も伝わる。“あの”那美ちゃんが隠していたという事実も相俟って、それに気付けないリスティではないだろう。同時にフィリス先生本人には気付かれないように、フィリス先生のほうへと視線を数瞬だけスライドさせることで、『“この場”で話すわけにはいかない』ことを仕草で強調しておく。通常なら何の口裏合わせもなくここまで細かい意図を伝えるなんてかなりの難事だが、リスティに限っては殆ど問題ない。変異性遺伝子障害の罹患者は常人を犬猫扱いするほどの知能指数であるらしいし、そうでなくても彼女の頭の回転の速さはここ半年の付き合いでも十分に思い知っている。まあ反面、それでも同じく変異性遺伝子障害者であるフィリス先生にバレてしまう可能性だって無きにしも非ずなのだが……うん。たぶん大丈夫じゃない? 主に本人たちの性格面で。そんなわけで、傍から見れば怪しさ満点のこちらの言動を横目で睨むようにして確認していたリスティは、やがては器用に咥えタバコのままで嘆息し、「……しょうがないなぁ」「リスティさんマジ惚れる」「はいはい。ボクも春海のこと大好きだよー」以心伝心って素晴らしいね。ほぼ力技だから超肩が凝るけど。「え? ええ?」そして、そんな僕達のやり取りを見守っていたフィリス先生は唐突な話の転換に戸惑い、『あほらし』彼女の膝の上で眼を閉じていた葛花が、妙に不機嫌な声でボソリと呟いた。……不機嫌?と、いうことで。「春海は今日も整体?」「まぁな」どうにか話題の危険区域を抜けたと思っていた僕にリスティが改めて話題を投げかけ、それに対して気疲れのため妙におざなりになってしまった声色で答える。体力的にはともかく、気分的には魔王城の第一関門を突破した勇者なので特に間違ってない。各関門で待ち受けているのが残らず魔王本人な辺り、難易度的にはムリゲー通りこして最早クソゲーの域だが。「あんな関節が逆に曲がりそうなものに、よくもまあ真面目に通ってるなー」「ちょっとリスティ! それどういう意味よっ?」自分の姉のあんまりと言えばあんまりな言葉に、フィリス先生が即座に喰ってかかる。「いやー、つぎ断ったら自宅に押しかけるって言われたら、ねぇ?」「春海くんまでっ!? も、元はといえば春海くんが3回も断るからでしょ! ただでさえ体が出来あがってないのに無理な訓練してるから、あちこちに疲労が溜まってるって何度も言ってるのに……!」ぶんぶんと腕を振り回して怒りを露わにする見た目中学生。そうするとますます子供っぽくなるのだが、それでも本人は(一応)真面目そのもの。側に座っている僕は思わず上半身を反らせて彼女から距離を取る。「訓練の密度を減らしてくれないから、せめて頻繁にマッサージしなくちゃいけないのにっ」「痛いの嫌なんですけど……」「ならもっと自分の身体を大切にしてください!」至極ごもっとも。いつになく形の良い眉を逆立てて叱り飛ばすフィリス先生に僕は口答えを止め、引き攣り気味の愛想笑いを浮かべながらペコペコと何度も頭を下げる。気分的には台風が過ぎるのを待つ被災者である。「まぁまぁ、フィリスもそのくらいにしてあげなよ。春海も反省……はしてなさそうだけど、悪いとは思ってるみたいだし」そんな僕を哀れに感じたのか、木を背もたれにしているリスティが説教モードに入った妹さんを取りなしてくれた。こちらの心情の内訳を完璧に読み切っているあたり流石の一言だ。「仕方ないなぁ、……次からは呼んだらちゃんと来てくださいね?」「あー……善処します」「そういうときは素直に『来ます』でいいの、まったくもうっ」僕の返答を聞いたフィリス先生は呆れた風に溜息を一つ零すと、そのままいじけたように葛花を抱きしめてしまった。いやー申し訳ない。リスティはそんな妹の様子に苦笑を一つ漏らして。「それにしても、春海もなんでそこまで鍛えてるの?」「ん?」なんかいきなりな話題だな……いや、話の流れからそうでもないのか?とりあえず訊かれたことに応える。「質問の意図がいまいち理解できないけど、……まあそうだな、強いて言うなら退魔関係で後れを取らないため、だな」引いては『目指せ、大往生!』という、涙が出そうなくらいこの上なく切実な至上命題があったりするのだが、それこそ他人に気軽に言うことではないのでこれに留めておいた。「どうしたんだよ、いきなり?」「いや、そもそも春海って今のうちからそこまで鍛える必要があるの?」「?……と、言うと?」質問の意味が解からず首を傾げる。そんな僕にリスティは、「春海や那美が相手にするのって、言ってみれば幽霊とかオバケとか、そういう物理的なアプローチが不可能な“モノ”なんだよね? なら今みたいに特別体を鍛えなくても、それこそ那美と久遠のように春海は葛花を頼れば良いんじゃない?」フィリス先生の膝にちょこんと座りこんでいる葛花を見ながら、何気ない口調でそう言った。そう言うリスティとしては、その質問には何の意図も隠していないのだろう。ただ思いついたことを提案したのだと、その彼女の表情が物語っていた。『…………』話題の渦中にあるはずの葛花も、リスティからの言に殊更に反論する気はないようで、先までと変わることなく温かな陽気に対して自慢の尻尾をわっさわっさと振っている。「んー、そうだなぁ」この場で答えても良いのだが、そうしてしまうと、今度はようやく戻ってきた幼い女医さんの機嫌を刺激してしまう。ので、僕は現在進行形で日光浴を堪能している葛花へと念話を通して、<……すまん、葛花>『ふむ、……あとで甘味1個、じゃ』<ああ、わかった。ごめんな>そんな短いやりとりで全てを悟ってくれたのだろう。今の今までフィリス先生の膝を定位置にして微動だにしなかった葛花が、そこからぴょんっと跳び下り、そのまま向こう側の花壇近くまでトトトッと軽快に走り去ってしまう。「あ、葛花さん!」驚いて声をかけるフィリス先生に、僕はわざとらしさは微塵もない苦笑を作りながら、こう言った。「ん、すみません、フィリス先生。ちょっとアイツに付き合ってやってくれませんか?」**********「で。僕が体を鍛える理由だったか」「うん」逃げまわる葛花を追い掛けているフィリスの「葛花さーん、待ってくださーい!」というやけに必死な声をBGMに、春海とリスティは和やかに歓談を続けていた。お互いに笑顔さえ浮かべているのは、決して走りまわっているフィリスが微笑ましいからではない。あの子おもしれー、とか微塵も思ってない。「まず前提から訂正しなきゃなんだが……、そもそも僕が剣術で想定している相手っていうのはちゃんと肉体を持った人間だよ。剣術に関してだけは、退魔関係ではあくまでついで。役に立ってくれれば儲けものって程度だ。……まあ、無理すれば霊を斬れないこともないんだけど、一応そっちは陰陽術だってあるわけだし。そして一口に陰陽術と言っても、その大元に在るのは僕自身の身体。肉体と精神が密接に繋がり合っている以上、体を鍛えることはそのまま霊力を鍛えることにも繋がる」率直に言うと、御神流を習うことは剣技の習得と共に、さらには霊力を扱うための下地となるべき身体を鍛えられることもできて一石二鳥なのである。御神流自体も流派として永い年月を積み重ねてきただけあって、戦闘に適した身体づくりのための効率性はとても良い。少なくとも、春海と葛花の2人っきりで修業しているよりもよっぽど身に付くものが多かった。「でもフィリスも言うように、それで体を壊したら本末転倒じゃない? まあ君のことだからその辺りは自己判断できるんだろうけど……ねえ、春海」「ん?」反論とも疑問ともつかない言葉を重ねている内に、ふと何かに気付いたように呼びかける銀髪の警察官。「剣術は人間を想定してるって言ったけど、それだってさっきボクが言ったようにあの葛花に頼ればいいと思うんだけど。那美から聞いてるけど、葛花だって久遠みたいに相手を攻撃することは出来るんでしょ?」「確かに出来ることには出来るんだが……」自分の言葉に対して言い淀む春海。そんな彼の反応を不思議に思ったリスティが疑問を深めて小首を傾げた。「何か問題でもあるの?」「そうだなぁ、……問題になるのは主に2つ」そう言って、彼はまず右手の人差し指をピッと立てた。「一つは、葛花が霊体である点」そうして春海が語ったのは、本来霊体であるはずの葛花が自分で肉体をもって戦うことへのデメリット。───曰く、『葛花という霊に対して戦闘にも耐えられるほどの肉体ごと維持する“御霊降ろし”を行なうには、春海自身の霊力が全く足りていない』そもそも霊体というものは希薄も希薄、極薄と云っても良い程の存在で、それは熱量を持つ葛花や十六夜といった規格外の霊であっても例外ではない。彼女たちの本質は、あくまでもそれぞれの寄り代(二人の場合は狐面や日本刀)に頼り切った儚いもの。出力自体は、彼女たち単体では簡単に底を見せてしまう。例えて言うのなら、霊体の彼女たちはおもちゃの車にジェットエンジンを載せているようなものなのだ。補助もなく本来の力を使おうとすれば、あっという間に霊体そのものが崩壊してしまいかねない。春海が施す“御霊降ろし”という術は、言わば、そんな葛花に対して身体という名の『機体』を与えるための術。彼が補うのは、葛花という存在が持つ『力』の全てを支えるための土台。そして。そんなものは、生まれつき霊力の総量が多いとはいえ、まだまだ発展途上の春海1人で補いきれるものでは───ない。そも、土台として春海自身の肉体そのものを貸与して尚、葛花が全力を出すにはまるで足りないのだ。霊力などという個人でまかなえるエネルギー程度でどうして補いきれようか。そんな自身の弱点まで詳細に語ったわけではないが、リスティが納得できるであろう必要最低限の説明を春海はする。「へぇー、霊もそこまで便利なものではないんだ」「こういう言い方するのも何だけど、もとより異質・異物って言っても過言じゃないくらい不自然な存在だからなー。それを無理矢理この世界に繋ぎ止めてるんだ。必要になる力は並大抵のものじゃないさ」姿に似合わず、しかし異様に堂の入った仕草で肩を竦める小学一年。そんな相手の様子に苦笑を漏らしつつ彼女は残ったもう一方を催促した。「それで、2つ目は?」「ああ、霊体のままの葛花が持つスキルの内、相手の無力化に転用できそうなものに『憑依』がある訳だが……ま、それだって万能には程遠いしな」そう言って、人差し指に続き今度は中指をピッと立てた。───曰く、『葛花の憑依能力は相手が自失状態にないと効果がない』これは以前にも説明したことであるが、葛花が普段使っている『憑依』という能力には一種の制限があり、それは“憑依する際に対象の意識がある場合、最終的には対象の意識に追い出されてしまう”というもの。故に、葛花が憑依を用いて敵を無効化するには事前に相手を気絶させるか、もしくは抵抗する気もなくなってしまう程に相手をボッコボコにするしかなくなってくるのだが……当たり前ながらそれをするのは生身の春海自身であり、結局のところ本末転倒でしかないのである。「───と、まあ。以上の点から、僕は葛花に頼りっきりにならないように自分の体を鍛える必要がある訳だ」「なるほど……春海、ちょっと待った」と。ここで、それまで腕を組んだまま黙って耳を傾けていたリスティが待ったを掛けた。「おかしくない?」「なにが?」「だって、単に体を鍛えるだけならフィリスの奴にお説教されるまで無茶する必要は無いだろう? 春海からすれば体を鍛えるついでに剣術も、って感じなのかもしれないけど……それでも、あいつがあそこまで言うなんて、やっぱりやり過ぎの部類だよ」「それは、ほら、僕が習ってる御神流って特別厳しい流派だし」なんだそんなことか、と言わんばかりにさらりと返す小学1年生。しかし、傍から見れば自然なその様は、明敏な彼女の目には誤魔化しと映ったようだった。「……翠屋の主人や子供たちとは那美や美緒経由で何度か会ったことあるけど、小学一年生の体に悪影響を出すほど無理な訓練を課す人間には見えないなぁ」「ぐ……」ボソリと呟くような自分の弁に、対面に座している少年が僅かに呻きのような声音を上げる。聞きとるでもなく感じとった綻びに、リスティの瞳にギラリと妖しい光が宿った。形の良い口元がニィッと釣り上がる。「ほらほら、なんでなの? もうネタは上がってるぞ?」「あ~、と……」おもしろがるように……というより、事実おもしろがりながら追及の言葉を重ねる銀髪美女から目を逸らし、何とか誤魔化そうと試みる。しかし口から出るのは意味のない声ばかり。そして、そんな春海の表情はますますリスティの興味を惹いてしまうという(春海にとっての)負のスパイラル。もっとも、ここで春海が無言無表情に徹するようだったなら、リスティも面白がって追及を深めるようなことはしなかったに違いない。彼女は自身の頭脳における異質さを理解しており、そしてそれは時として他人の本当に隠したい事実まで暴いてしまいかねないことも十分に理解している。異端とされる力を持つには、相応の分を弁えなければならない。不躾に他者の領分へと踏み入った慮外者を待つのは、正当な拒絶なのだから。転じて、目の前の少年───男はどうだろうか。どうにも本人に自覚は無いようなのだが、実のところ眼前の友人はかなりの気遣い屋だった。初対面のときの美緒への対応もそうだし、それからの那美との仕事ぶりや、さざなみ寮に住む他の住人との付き合い方を見ても、それは明らかだった。単なる本人の気性・気質だと言われればそれまでなのだが、自分のように他者の頭の中を覗き見できてしまうような者にまでそれを当て嵌めてしまう彼の思考回路は一体どうなっているのか。さざなみ寮の同居人たちと同様なその様に、正直、興味は尽きない。挙動不審に目を逸らしている今の様子もそうだ。突っ込まれたくないことならちゃんと拒絶すれば良いのに、そしてそれを出来るだけの胆力も機転も持ち合わせているくせに、わざわざ“それらしい”仕草をすることで(彼自身にその自覚は微塵もないのだろうが)、こちらに対して「ここまでなら踏み込んで来ても大丈夫だぞ」と言外にアピールしてしまっている。それで困るのは、正しく彼本人だろうに。つまるところ、目の前の友人はコミュニケーションスキルがずば抜けて高いのだ。自身の発する言葉の、そして仕草の一つ一つに自身の内面にある、伝えたい『意味』を余さず込めている。───例えそれが、意識的であれ、無意識的であれ。(……ほんと、一体どんな人間関係のなかで育てば、こんな七面倒臭い性格になるんだろう)中庭に幾本かある木の一本に背を持たせ、わずかな苦笑を表情に混ぜて考える。当たり前ながら彼女の常人離れした頭でも易々と答えは出てくれなかったが。ともあれ。「それは、だな。え~っと……」「ふふっ、それは?」今はそんな彼との会話を、素直に楽しんでおこう。そう思う。そうして。そんな風に思考を結んだ彼女に気づく余裕も無くしばらく言いよどんでいた春海ではあったが、そのような苦し紛れもやがては終わる。なんのかんのとリスティから思われていた彼の無意識の気遣いにしたところで、結局自分の首を絞めていることに変わりはないのだ。このまま言い渋って、ないとは思うが万が一にもリスティが彼の思考を読んでしまうような事態になっては目も当てられない。そうなったら芋づる式に昨夜のことも読まれかねないのだから。要するに、最初から春海に逃げ場なんてないのである。一応、物理的に逃げることも考えてはみたのだが、ベンチから腰を浮かした段階で足が動かなくなってしまった。どうやら目の前でニヒルを気取ったエスパーが超能力を使っているらしい。こんなことに無駄遣いするんじゃないと言いたい。───やがて観念したのだろう、実にイヤな顔をしつつも、ボソリと小さく呟かれた声が彼の口から漏れ出る。「……───かないだろ」「え?」すぐ目の前にいるリスティですら満足に聞き取れない程の声量。反射的に訊き返した彼女の方を見ることもなく、諦めたように嘆息して春海は再度口を開いた。「───さすがに、さ。……いつまでも男が守られてばかりって訳には、いかないだろ」目を逸らし、羞恥で頬を赤くし、出てくる声は2度目であってもなお小さなもの。「……………………」それでも、そんな言葉は目の前の彼女にはしっかりと届いたらしく、驚いたように目を丸くし、ポカンと形の良い口元を半開きにしたリスティ。しばらく呆けように黙っていた彼女は、しかしすぐに我を取り戻したのか瞳に理解の色が浮かび、そして───。「ぷ」───小さく吹きだした。「あはっ、あははははっ!」「…………」とうとう声まで張り上げて笑い出した友人を、春海は無言で睨みつける。笑うなと言ったところで、瞳に大粒の涙まで溜めて笑い転げている彼女には意味なんて微塵もないことは何となく解かっている。彼にできるのは、ただ無言を貫いて屈辱に耐えるのみ。しかし、しかし。しかし、それでも───ッ!「うふっ、はははっははっ、あははっ!」───こいつ殴りてぇ。「ご、ごめっ、ごめん……でも、だって春海が、くくッ、あははは!」「…………」彼の無言の抗議に気付いたのかリスティが謝るが、遂にはひきつけを起こしながらの謝罪にどんな意味があるのか。むしろ春海的には無い方がまだマシなくらいである。結局、リスティの笑いは周囲の人間が向ける奇異の目に彼女自身が気づくまで続くのであった。「ははは、───ふふっ」「……気は済んだか馬鹿野郎」ようやく落ち着いたのか、眼に涙をたくわえ頬を真っ赤にしたリスティが、徐々にだが声を修めた。もっとも、それは春海からすれば正に今更であり、笑みを浮かべつつもピクピクと引き攣った口の端が彼の怒り具合を如実に表していたが。「う、うん。ごめんごめん、おまたせ」「心の底から待ってない」断じて、である。「だからごめんって。悪かったよ」「か~~~っペッ!」落ち着きを取り戻した彼女からの謝罪を春海は吐き捨てる。事実ニヤニヤと笑いながらされた謝罪は死ぬほど説得力に欠けていた。そんな彼の様子を楽しげに眺めていたリスティが春海に語り掛ける。「それにしても、なんだかんだで春海も男なんだね。───うん、ちょっと見なおしたな」「いらん。それに結果が伴ってない時点でただのワガママと変わりねえよ」彼女からの言葉を一刀両断に切り捨てる春海。そんな彼の態度に頓着するでなく、リスティは事も無げに切り返した。「だから鍛えてるんでしょ? そこまで卑下することでもないと思うんだけどなあ」「~~~ッ、だあもうッ!! うっせーうっせー! 僕より強い女に言われても嬉しくも何ともないわ!」まるで弟を見守るような生温かい視線を向けてくるリスティに対して言い返すが、首元まで赤く染めて声を張り上げる様子は既にヤケクソのそれである。実際、春海はここ半年の間にリスティがしている超能力の訓練を見る機会が一度だけあったが、それは春海では到底立ち打ちできそうにもない凄まじいものだったのだ。というより、彼としては超能力による投擲の速度だけで白熱化する石を見て、一体どう対処しろと言うのかと問いたい。あんなものに対抗できるのは春海の知る限り葛花くらいなものである。「この話はここまでだ! 葛花のヤツにも絶対に言うなよ!! いいな?!」「……。ああ、絶対に押すなよってヤツ?」「フリではねえよ!」相手を指差し叫んだ男。そんな彼をあしらうようにして頷いた彼女の楽しげな声でこの話は結ばれたのだった。**********『……カカッ、愛いヤツ愛いヤツ』「ど、どうしたんですか、葛花さん? そんなにソワソワして……」『ふふん、気にするな。儂はいつも絶好調じゃ』「そ、そうですか?」『うむ』なら良いんですけど……。「…………」『…………』(わっさわっさわっさわっさ)……葛花さんのしっぽがすごい速さでわさわさしてます。『……むふふ』むふふとか言っちゃってます……!『もーっ、相変わらずお前様はめんこいやっちゃのぉー!』前足で地面をぺたんぺたん叩いて悶えてます! やだっ、すっごくかわいい!!……ハァ、やっぱり動物さん飼いたいなぁ。 **********リスティに対して今回のことは絶対に口外しない(特に葛花に)という確約を取り付けた僕が落ち着きを取り戻したのはそれから少し後のことである。「それで? 結局、なんでお前はわざわざ僕の所にまで昨日のこと確かめに来てんだよ?」「あ。やっぱり気づいてた?」「気づかでいか」たまたま近くにいたとは言え、警察の仕事サボってまで会いに来てる時点で違和感バリバリじゃねえか。「那美ちゃんから一応の説明はされてんだろ? いつものお前なら、ここまでして自分から首を突っ込んできたりしないよ」「それもそうかな、……念のためもう一度訊くけど、昨日何があったの?」「なら僕ももう一度言うけど、ノーコメントだ。悪いけど人に容易く言えることじゃないんだよ。本来なら墓の中まで持って逝かなければならない事柄でな」思いのほか真剣に問うてきたリスティに、ならばとこちらも真面目に返す。決して、決っっっっして! さっきまでの流れを忘れてシリアスな空気に浸りたかった訳ではない。「……そっか。ならよかった。いろいろ詮索して悪かったね」『よかった』?……どういうことだ?「いや、気にすんな。こっちもすまん。……にしても、お前もなんでそこまでこだわったんだ? こう言っちゃなんだが、正直リスティのキャラじゃないだろ?」「いやまあ、お節介してる自覚はあるけどね。それでも、ちょっと気になったというか何というか……」僕からの疑問に、らしくもなく言葉を濁して言い淀むリスティ。そんな彼女の様子を不思議に思う。うーむ、リスティにしてはいまいちハッキリしない。……少し、探りを入れてみるか。別にさっきの仕返しではない。断じて。と。いうわけで。「ふーん。それでー、なんでー、リスティさんはー、わざわざこんな所にまで確かめに来たんですかー?(棒」僕は内心非常に、ひっじょーに申し訳なく思いながらもリスティに訊き返した。いやー、ほんとにざんねんですー。ぼくもできればききたくなかったのにー(棒「う……そ、それは、ね」───……?今更ながら、ここまで言い淀むリスティに対して疑問の念が湧いてくる。傍若無人を地で行く彼女がこれほど答えることを躊躇うなんて、一体どんな理由があるんだ?そして、僕は本当にこれに対して踏み込んで良いのか? ひょっとしたら、彼女にとってこれは出来ることなら訊いて欲しくない、踏み込んで欲しくない事柄ではないのだろうか? 安易に踏み込むことで、リスティを困らせてしまうのではないだろうか?───そんな、そんな、……ッ!「ふーん、へぇー、ほぉー、それってぇー、なんでですかー? ぼく、ちょー気になるんですけどー」───訊かないわけにはいかないじゃないですかー、やだー。そんな感じに僕が内心忸怩たる思いで(←ここ重要)自身の心情を吐露していると、目の前には何故か額に青筋浮かべてプルプル震えるリスティさんが。ただ、同時に誤魔化しきれないことも薄々悟ったのだろう。どこか躊躇いを感じさせつつも答えた。相も変わらず、攻められるのに弱いヤツである。「……ほら。ボクって、春海がほんとは大人だってこと知ってるでしょ」「まあ、そうだな」「で。昨日の夜、那美はそんな男と仕事に出かけて」「そんなってどういう意味だよ、おい」いや、別にいいけどさ。「そして那美は帰らず、返ってきたのは深夜に一本の電話」「うん」……ん?なにやら話がおかしな方向にシフトし始めてるような気が……心なしか目の前でこちらと視線を合わせようとしないリスティの頬が少し紅潮している感じもする。「それで、さ」そうして一度躊躇うように言葉を区切ったリスティが、意を決したようにこちらを見つめて。「まあ、……深夜に『仕事帰りに色々あって今日は男(春海)と外泊します』なんて言われたりしたら、……えっと、そりゃあ、……ね?」「…………」……………………。なんだろう、この状況。ついさっきまで気心の知れた女友達に冗談感覚で仕返しをしているつもりだったのに、いつのまにかセクシャル・ハラスメントしてしまった気分だ。とんだセクハラ野郎である。「……そこに、ダメ押しで今朝の那美の挙動不審だからさ」那美ちゃんは僕の正体を知らないから仕方ないとはいえ、あんまりと言えばあんまりな理由に眩暈すらしそうになる。那美ちゃん、必死に隠そうと努力してくれたのは伝わってくるけど、無理しなくて良いからホント……。「うん、そっか……その、なんかゴメン」「ううん、ボクのほうもやり過ぎてた、かな……ごめんなさい」それからしばらく僕とリスティの間に漂っていた妙な空気は、葛花を追い掛けたフィリス先生が戻ってくるまで続いた。そんなこんなで翌日。春らしくいい感じに晴れた陽気のなか、僕は昨日忍さんから誘われた通り月村邸にまで遊びに来ていた。いつものように家を出る前には妹たちが強襲してきたものの、いらなくなったゲームカセットを譲渡し、奴等がそれに夢中になっている間に家を出ることで事無きを得る。それにしても待ち伏せ奇襲なんて巧妙な頭脳プレーを何処で身に着けてきたんだアイツ等。昨日はすずかを怒らせたままで別れていたこともあって少し憂鬱な気分の中での月村訪問だったのだが、1日経つと彼女の怒りもある程度は静まりを見せていたらしく、僕が謝ると意外なくらいアッサリと許されてしまった。そのあと遅れて到着した恭也さんも合流したのだが、那美ちゃんと久遠ちゃんがやって来るまでもう少し掛かるようで、予定していた茶会はそれからスタート。ならばそれまでは別に遊ぼうと、連日に続きテンションの高いすずかに引っ張られる形で僕は屋外へと連れ出された。───の、だが……「なぜ僕はこんなことを……」「わっ!? 春海くんっ、ゆ、ゆらさないで!」「あーはいはい……」庭の隅っこで、僕(大人ばーじょん)は何故かすずかを肩車していた。「ほらほらっ、見て見て春海くん! お姉ちゃん、恭也さんと二人きりになって楽しそうだよ!」「あーはいはいそうだねたのしそうだね……」お前も十分楽しそうだよ。そしてその高そうな望遠鏡どこから持って来たんだよ。別にそれ無くてもこの距離なら見えるでしょ?生き生きしてんなぁこいつ。そう思って溜息を吐いた僕が目を上げると、視線の先にあるのは月村邸における窓の一つ。開け放たれたそこから見えるのは、恭也さんの肩に頭をのせて幸せそうに寄りかかる忍さんの姿。寄りかかられている恭也さんも、口ではいろいろ言っているようだがその表情は穏やかなものだ。早い話が、現在、僕たちは覗きをしていた。ピーピングでも可。普通この距離なら忍さんはともかく恭也さんにはバレてしまいそうだが、今に限ってのみその心配はない。僕とすずかが立っている位置は彼等からは木々が邪魔をして死角になっている上、すずかに頼まれて僕が隠行結界(簡易版)まで張っているのだ。素人に見破られようものなら僕は陰陽師を廃業せねばなるまい。……いや、これまでで最も術の無駄遣いしてる自覚くらいありますよ?『お前様よ。儂とっとと帰りたいんじゃが……』<その意見には心の底から賛同したいところではあるけど、そうすると僕がすずかに泣かれるから勘弁してくれ>『はぁ……』溜息を吐きたい気持ちはよく解かる。『とりあえず、そういうことなら儂は“奥”に引っ込んでおるぞ。メシ時に出るので、そのつもりで居れ』<あいよ>葛花の念話に返事を返すと同時に、ふ、と彼女の気配が遠ざかる。また僕の内側で昼寝(厳密には睡眠とは異なるらしいが)するのだろう。頭の中にそれを感じながら、言い訳のように、ただ思う。僕としても別に単なる興味本位から忍さんたちを覗いている訳じゃないのだ。いや、もちろん興味0という訳ではないのだが、それでも一応ちゃんとした理由くらいはあるのだ。というか初めにこれをやろうと言い出したのはすずかであり、当時の彼女の主張を思い返すなら以下の通り。───お姉ちゃんたちをどうやって応援するかわからないなら、まず2人を観察すればいいんじゃないかな!……らしい。敵情視察であり、情報収集であり、情報分析である。そもそも鼻血の件で有耶無耶になっていたものの、彼女がこれを思いついたのは昨日の通学時であり、姉たちのために何をすれば良いのか解からないのなら一先ずそのために姉たちの現状を調べれば良いのだと思ったらしい。……思っちゃったらしい。段階を踏んでいると言えば聞こえは良いが、正直、やっちまった感が否めない……いつもなら僕も彼女をやんわりと押し止めている(と思う)のだが、流石に今回は状況がマズかった。すずかから提案されたのが彼女に昨日の件を謝った直後だったこともあって、流石にその場面から彼女の懇願を一蹴することが躊躇われたのである。まあ子供にとって不適切な場面(R-18指定とか)が展開されたら止めればいいかとも考えた結果、こうしてすずかのピーピングに付き合っているのだが───。『わたし、恭也とこうしてるのが一番すき……』『風も気持ちいいし、いい昼寝日和かもな』───知り合い同士の桃色劇場をずっと眺めているというのは、ぶっちゃけ苦痛以外の何物でもなかった。てか恭也さん、昼寝って……。ちなみに僕もすずかも彼女たちの会話はしっかり聞こえている。僕は葛花から移譲された狐の聴覚、すずかに至っては素の身体能力である。で。「きゃーきゃーきゃー!」まるで恋人同士のような姉たちの語らいに、頭上の幼女が有頂天。いつもの白いワンピースから覗かせた両足をバタつかせてハッスルハッスル。もう性格変わってないかコイツ。あとバタつかせてる足が僕の胸板を連打してて地味に痛ェ。「お、おい、すずか痛いって。ちょっと落ち着け」とりあえず頭上で僕の髪を握りしめているお姫様を正気に戻す。「あ、ご、ごめん春海……さん?」「いや、いつも通りでいいって。変わってるのは見た目だけなんだから」我を取り戻したすずかからの唐突な敬称に、思わず苦笑が漏れる。やっぱり、知り合って1年ほどになる彼女であっても現在の僕の姿には戸惑ってしまうらしい。「そ、そっか……でも、やっぱりちょっと変な感じがするかも」「そりゃまあ、同級生がいきなり大人になったら戸惑うよなぁ。……どうだ、割とカッコいいだろ?」「うん!」冗談で言ったのに、まさかノータイムで頷かれるとは思いませんでした。あ、なんだろこれ、おじさんすっげー嬉しいんだけど。そんな感じに2人で雑談を交わす。すずかも大人バージョンの僕と話すのが新鮮なのか、だんだん忍さん達そっちのけで会話に集中してきているので覗き見もこれで終わりかな、なんて僕が頭の片隅で考えていると───「───ぁ」と。肩車されているすずかが、唐突に声を漏らした。その声に惹かれるように僕が恭也さんたちのいる部屋の窓へと視線を向けてみると、「うぇーい」えらい変な声が出てしまった。視界のなかに映るのは、まるで抱き合うかのように向かい合わせで互いの背中に両手を回す忍さんと恭也さんの姿。それだけなら良かったのだが、───いや良くはないのだが、ともかく、彼女たちの体勢が非常によろしくない。イスに座った恭也さんに覆いかぶさるような形で、忍さんが彼に抱きついているのだ。子供であるすずかにとって目に毒とまでは言わないが、少なくとも教育によろしいものでもあるまい。───そろそろ離れるか。そう思って僕がすずかに声をかけようとすると、「お姉ちゃん───恭也さんの血、吸ってるね」「へ?」すずかからの思わぬ言葉に思考停止。それでも頭の何処かが働いていたのか、眼は自然と忍さんの口元───引いては、恭也さんの首へと凝らされていた。無防備に晒された首筋へと自らの顔を寄せ、眼を閉じたまま口付ける忍さん。そんな彼女の口元には、唇の色とはまた違った紅が覗いていた。対する恭也さんも何かに耐えるように瞼を強く閉じ、僅かに身を震わせながら忍さんを掻き抱いている。教育によろしくないという意味では正直どっちもどっちである。おまけに眼前の光景に触発されたのか、肩車しているすずか喉がこちらにも聞こえそうなほど大きくゴクリと音を鳴らし、同時に無意識なのか鷲掴みにされてブチブチと音を立てる僕の頭髪に戦慄する。やばい、ハゲそうだ。窓の向こうにいる忍さんと、僕の傍にいるすずかを比べていると、昨日の忍さんとの会話が自然と思い起こされた。───あの子の姉としてはそうしてくれると嬉しいけど、そこはあくまで春海くんにお任せ───できれば、あの子のことは裏切らないであげて───妹のことを、どうかよろしくお願いします「…………」……ま、いっか。と、自分の中で“敢えて”軽く考えて結論付ける。「なぁ、すずか」「えっ!? な、なに、春海くんっ?」こちらの呼びかけに対して戸惑い焦ったようにして応えるすずか。たぶん呆けていたんだろう。そんな彼女に構わず、僕は首を逸らすようにして真上を見る。そうして視界に入ってきたのは上下逆になったすずかの顔。お互いに相手の逆さまになった状態で視線を絡め合う。不思議そうなものに僅かな困惑の混じった表情でこちらを見つめる彼女に、問う。「───僕の血、吸ってみる?」僕の提案を聞いたすずかは、心底からビックリしたように目と口を丸くして、理解が追いついてからも困ったように周りをキョロキョロしながら、しばらく「……えっ?」だとか「でも……」だとか意味のない言葉を繰り返していた。ただ、それでもやがては自己の欲求や興味、果ては興奮を抑えられなくなったのだろう。熱っぽく瞳を潤ませ、耳まで赤くした恥ずかしげな表情でこちらを見つめて……「……」こくり。と。近くで見ていてようやく解かる程度に小さく、しかし、しっかりと首を縦に振って頷いた。そうして。忍さんたちのいる窓から視線を外し、その場に座り込むようにして胡坐を掻いた僕は、黙ってすずかに血を差し出した。差し出したのだっ。差し出したのだけど……ッ!「なんかおかしくないか、これ……?」「……ちゅっ、ちゅば……おかしくなんかないよぅ、……あはぁ、おいしぃ……」トリップしてしまったすずかを抱きしめた状態で、彼女の後頭部を見つめながら僕はポツリと呟いた。……そう。現在の僕は、何故か”すずかを背後から抱きしめるようにして”手首から血を吸わせているのだった。いや、こうした体勢を取っている理由はちゃんと存在するのだ。まず第一に、忍さんたちがしているように首筋から吸うという方法だが、これは考えるまでもなく僕もすずかも満場一致で却下した。昨日の一件もあって彼女が血を吸って平静を保っていられるとは思えず、頸動脈といった急所を差し出すのはリスクが高かったからだ。さすがに僕としても命の危険に自分から身を晒す度胸はなく、すずかもその危険性は十分に承知していたため、こうして手首から吸うことになったのである。そして第二に、昨日のようにすずかが暴走してしまった際、意図せず魅了の暗示を掛けてしまったことが挙げられた。暗示を掛けてしまわないように瞳をこちらに向けない───つまり、僕に対して背を向けることになったのだ。すずかが夜の一族としての身体能力を使って反抗してきたときにそれを止めるため、血を吸っている間は自分を抑えておくようにという提案付きで。───結果、月村邸の庭の片隅で成人した男が小学1年生の女子を背後から力いっぱい抱きしめているという、非常に犯罪的な絵面が誕生してしまった。右腕はすずかの口元に差し出して血を吸わせ、左腕は彼女の柔らかくプニプニとしたお腹の辺りにキツく回されている。胡坐を組んだ両足の上にすずかを乗せ、体勢の問題でシャンプーの清潔な香りが漂う彼女の黒髪に鼻先を埋めてしまう。吸血の興奮に任せてモゾモゾと身動きを取ろうとするすずかを力任せに押さえ付けている絵は、犯罪的というかまんま犯罪者のそれだった。「ちゅ、ちゅ、───ぷはぁ」「───ぅおっ……!?」そんな危険なことになっていると気付いているのか、いないのか。ただただ夢中で僕の手首に噛みつき血を絞り出そうとしているすずかを眺めていると得も言われぬ背徳感に背筋が痺れそうになった。吸血鬼としての特性なのか、手首に走る快感を伴う違和感についつい声が漏れてしまう。……いかん、下手をしたら、というより下手をしなくても何か間違いを犯してしまいそうだ。もうロリコンでもイんじゃね、とかある意味悟りとも言える境地に至ってしまいそうになる。というか多分もう7割くらい至ってる。「ぺろ、ぺろ───んはぁっ!?……もぅっ、春海くん、くるしいよ……」「わ、悪い」油断してると勝手に動き回りそうな左手を、すずかの腰にぎゅっと巻きつけることで必死に固定したのだけれど、この状況ではどう考えても逆効果だった。ますます密着した彼女の体温に、ドロドロとした興奮と子供のような安心感という相反した感情を同時に抱く。正直、今だけはこれがすずかじゃなくて忍さんだった気に病むこともないのになぁ……なんて、自分でも最低なことを半ば本気で思ってしまった。それくらいの気持ち良さなのだ。こんな場面を他人に見られたら、間違いなくタコ殴りにされた上で通報されてブタ箱送りであるが、まあ、さすがにそれは勘弁して欲しい。ほら。たった今そこで正門から入ってきて、抱きしめられたすずかと抱きしめている僕を呆然と眺めている女の人だっていることだし───?「───……ん?」霞の掛かっていた思考が、唐突にクリアになる。そういえば、さっき忍さんが「今日はわたしたちがお世話になってる親戚も来る予定なの」とか言ってたような気がするなぁ……、なんて、どこか他人事のように思い出しながら、現在の状況を俯瞰し思い起こす。恍惚とした表情を浮かべながら、夢中になってこちらの手首に吸い付く幼女。木々が生い茂る月村家の庭の片隅で、彼女を背後から抱きしめ拘束している見知らぬ成人した男。呆然とそれを見つめ、やがて見る見るうちに怒りで両目を釣り上げている月村家の親戚と思しき女性。「……………………」あ。これ、死んだわ(社会的な意味で)。(あとがき)遅れて本当にすみませんでした。第二十一話の2、投稿完了しました。作者の篠 航路です。お待たせしてしまってマジでごめんなさい。6月、7月とリアルが資格試験・インターンのES作成・期末勉強と鬼のように忙しく、おまけに家族に不幸が起こるという凶事も重なり、本当に気が滅入ってしまって執筆が思うように進まなかったんですハイ。忙しさで唯でさえモチベーションが低いのに、書いても書いてもいい文章が浮かばない。浮かばないからモチベーションが下がる、という悪循環に嵌ってしまい、読者の皆様方には大変ご迷惑をおかけしました。すみません。さて。謝罪もこれくらいにして本編の話をば。今回はリスティ&フィリスという超能力姉妹との交流と、ハイテンションすずかの姉の恋愛応援奮闘記。そして新キャラ登場の導入です。導入の仕方としては主人公にとって第一印象最悪の部類ですが(笑。リスティ&フィリスに関しては、これから先戦闘シーンが起こる中で葛花に頼り切りにならないよう、そのための理由を“読者の皆様方に”説明した形になります。オリ設定というか、誰得設定というか、そういうのを延々と語ってしまい、しかしそういうのが逆に楽しいという謎ジレンマ。まあそれ以外にもフィリス先生やリスティとの親交を描くという目的もあったので、別にいいかなぁと。すずかに関しては……いや、すみません。何故か今回もこんな感じに。どうも作者の中では「夜の一族 = エロい」という固定観念があるらしく、限界に挑戦したくなるというか、そっち方面のほうがキャラが生き生きしていて書いてて楽しいというか。最後の人は解かる人には解かるかなー。原作「とらいあんぐるハート」の初代、その人気No.1ヒロインにして作者に「夜の一族 = エロい」という固定観念を最初に植え付けてしまったあの人です。声優さん自慢になりそうですが、あの儚げな声がすごく好きでした。あと、最後にちょっとお聞きしたいのですが、『生存報告』ってどのくらい投稿期間が開いたときにすべきなんでしょうか。いや、開かないことが1番なんでしょうが、ちょっと気になってしまい、こうして質問をした次第。それでは今回はこの辺で。次回も中々に忙しくなりそうですが、なるべく早く投稿できるよう頑張ります。では。2012/7/13 読みやすいように文章をすこし改訂。すずかの喘ぎ声追加……ナニヲヤッテルンダオレハ……